shin-1さんの日記

○一日のリズム

 この3日ほど出張して、久しぶリにわが家へ帰りました。3日間は全国大会ということもあって、また次期開催県が愛媛県、しかもその実行委員長という大役もあって、用意した200枚の名刺がすっかり空になるほど全国の人に会いました。その都度「来年度はどうぞ愛媛県へお越し下さい」とPRに余念がありませんでした。私にとってこの3日は生活のリズムが狂いぱなしの日々で、非日常な出来事が3日も続くと、そのリズムを元の暮しに戻すにはかなり苦労があるようです。

 旅に出ると毎日の癖で朝4時に目覚めるまではいいのですが、同室の皆さんと同じリズムに合わさなければならないため、布団の中で6時頃まで過ごさなければなりません。約2時間物音も立てず空想にふける無駄な時間は、私にとって相当苦痛なのです。「家にいると今頃はパソコンを開け書斎でブログの一本もかいているかなあ」と思いつつ過ごすのです。

 夜もかなり狂ったリズムになります。酒を飲まなくなったせいもあるのでしょうが、家でいると10時頃から読書とブログの世界が12時まで続き、その後就寝します。旅先は夕食から12時までは完全に交流会です。地元の美味しい料理が出されるのですが、人がどんどんやって来て折角の料理を楽しむことも出来ず、お話に夢中になるため、食べるというよりは空腹を満たすような「餌」に等しい感じで食事を取るのです。茨城県はアンコウ料理が美味しいと聞いていいたので、出されたアンコウ鍋に手を出すのですが、ついつい食べ過ぎたり、その口直しにウーロン茶を何杯も飲むため、すべからくエネルギー超過で、お腹はパンパンの状態です。野菜や果物が不足するのか下のお通じが今一で、何となく不健康な感じがするのです。

 僅か3日間の生活の乱れは、私のような旅馴れた人間でも相当体のリズムが可笑しくなるのですから、同行した人たちのように夜更しをしてお酒を鱈腹飲んだ人たちにとっては、もうギブアップの状態で、顔色がどこか冴えず、疲労の色ありありでした。それでもその余韻に酔いしれて夜の帳が下りかけた空港や飛行機内で酒やビールを片手に過ごしていたようです。

 時間と食事の乱れはもろ体に堪えます。私もこんな暮しを35年もやっていたのですから、体が悲鳴を上げるのは当然だとしみじみ思い「早くリズムを元に戻そう」と、昨日の夜遅かったものの今朝は4時きっかりに起きて書斎のストーブに火を入れ、これまた日課の朝風呂に入って髭をそり、バイオリズムの時計を元に戻しました。

 今朝は昨日の雨が続いているようで、窓から見える外の景色は6時過ぎになった今も真っ暗で、明るくなるにはもう少し時間がかかるようです。明るくなったら隠居へ出かけ親父の機嫌も伺わなければなりません。

 今日は内子町の自治センターで開かれる自治活動報告会に講演を頼まれていて、午前中出かける予定で、更に明くる日は島根県益田へ出かけるなど、狂った時計を元に戻すにはまだまだ時間がかかり、ひょっとしたら元に戻らないような錯覚さえするのです。でも何度か病気をした経験を思い出して、自分の暮らしのリズムをしっかりと意識した生活をしなければならないと思っています。

 昨日の夜帰り際、私の車で双海まで帰り、夜道を三崎半島の突端近くまで帰っていった親友の塩崎さんがしみじみと健康の大切さを話していました。彼も私と同じように昔は大酒を飲んで夜更しをして体を壊し、今は私と同じように酒を断たなければならなくなった一人です。体を壊して健康の大切さを知るとは何とも可笑しな話です。もう若くもなく、もうそんなに長くもない人生ですから、健康で楽しく生きれるようにしようとニコ・ピン・コロの話をして別れました。同行していた妻も盛んに同調していたようでした。

  「旅に出て 暮しのリズム 異変あり 体内時計 元に戻して」

  「ご飯です 妻のコールも 久しぶり 妻の顔さえ 幸せ感じ」

  「トントンと キャベツを刻む 音がする 何気ない音 耳に聞こえて」

  「冬眠の ようだと笑う 厚着した 親父の背中 温もり感じ」

  

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○旅先の思い出

 「項目を起しましたが、今日は書かず明日整理をして紹介します」。こう書いたのは初日の宿泊場所となった茨城県水戸市の駅前通りにあるみまつホテルのロビーに置かれている利用無料のパソコンを利用してでした。普通は旅先へパソコンなど持参しないため、ブログは書けないのですが、最近はありがたい事にインターネットが楽しめるようにしているホテルがあって嬉しい限りです。この日も食事が終わった出発間際の慌しい中で、項目予約を入れました。こうしておくと帰ってからその日が留守でも後で記事の編集が出来るのですから有り難いことです。しかしそのことが原因でホテルの部屋をチャックもせずに慌しく出てしまったため、デジカメを忘れるというハプニングを起し、同行した松本研究員にその手配やタクシーで届けたカメラを、受け取るなど大変迷惑をかけてしまいました。ただでさえ忘れることの多い年代になったのですから、もっと自分の事をしっかりせねばならないと、肝に銘じた次第です。

 この日の会場は茨城県立県民文化センターです。市内バスで向いましたがそんなに遠くはなくあっという間に着いてしまいました。午前中はポスターセッションとワークショップがあるため、それぞれ決められた役割にそって働きました。私はポスターセッションで愛媛の宣伝をする役目だったので、やって来る人たちに愛媛をしっかりとPRしました。ポスターセッションは分科会を開催している町や団体がその活動を紹介するもので、次年度開催をPRするのは愛媛だけとあって、興味を示した方々と名刺を交換し、深い話をしました。途中この大会の主催者である地域づくり団体全国協議会長である岡崎昌之先生なども見えられ楽しいおしゃべりに花が咲きました。


 受付では愛媛から持ち込んだ500本のオレンジ100パーセントジュースがえらい人気で、これは正直大ヒットでした。


 開会式には橋本茨城県知事も見えられ挨拶がありました。またトークセッションも常磐大学の吉永先生のコミカルな司会がうけて、いい流れで全体会が行われました。最後の締めは時期開催権である愛媛県に10分間の時間が与えられ、愛媛県のメンバー全員が壇上に立ち、私がハーモニカを使って挨拶、その後実行委員会事務局が作ったスライドショーで15の分科会を説明し、来年度に望みをつないだのです。ステージへの感触は相当良かったと自負しています。
 
その後、17の分科会に別れ、バスに乗って分科会場まで大移動です。私はひたちなか市で開かれる「こどものためのまちづくり」分科会に参加しました。ホテル白亜紀までは全体会場から30分程度の所にあって、海の直ぐ側の絶好の場所でした。

 16:00~17:00  活動報告 「こどものためのまちづくり」

 18:00~19:00  歓迎セレモニー

              ・伝統文化日本舞踊子ども教室

              ・東石川小学校陣太鼓

              ・平磯中学校郷土芸能クラブ民謡民舞



 19:00~21:00  夜なべ談議

明くる日は

  8:30~9:00   バス移動

  9:00~9:30   歓迎挨拶

  9:30~10:15  子どものためのまちづくりの在り方講義


 10:15~11:15  ワークショップ 遊びの体験

 11:30~12:30  昼食

 午後          エクスカーション


このようなプログラムが組まれ多くの事を学びました。県外から参加した人は18人、県内参加や地元参加の方々との交流を期待していただけに期待はずれもありましたが、主催したボランティア団体茨城遊びのサポーターの方々の献身的なお世話や茨城大学教育学部の学生さんたちも参加して新しいスタイルの地域づくりの在り方を学んだような気がしました。

 帰りの飛行機の時刻もあってエクスカーションへの参加は出来ませんでしたが、勝田駅から水戸駅に出て、愛媛のメンバーと合流し、水戸駅の黄門様に送られて、名残惜しくも茨城を後にしました。

  

  「少子化と 言われて久し 日本だが 子どものために 一肌脱ごか」

  「ひょっとして この分科会 最先端 子どもをテーマ 当っているかも」

  「若者と 言葉を交わす 面白い 学生相手が 役に立ちます」

  「来年は 必ず行くと 握手して 互いに違う 行き先列車」


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○長旅から帰りました

 2泊3日の、しかも日頃縁遠い東京以北の茨城県水戸市から無事帰って来ました。私のように日頃から旅慣れている者でも今回のような長旅はさすがに疲れた気分になるのですから、同行した51名の参加者は、20分余り遅延した飛行機が小雨そぼ降る松山空港に着いて降り立った時は、さすがに「疲れた」という雰囲気でした。それは多分、飛行機を降りた後県内に散らばって自分のふるさとを目指さなければならない、旅の先の旅がまだ残っているからかも知れないのです。そんな事を思うと宇和島周辺や今治しまなみ海道周辺へ帰る人たち、また佐田岬半島へ帰る人などは、急いで帰らないと今日中には帰れないような距離の人もいるのです。その点私などは遠いといっても中予だし、夜だと飛行場から30分あまりでわが家へ帰れるのですから有り難いことなのです。

 水戸周辺は天気も良く東京も曇っていたものの経つ時は雨は降っていませんでした。出発ロビーの旅先天気だと、札幌は欠航、岡山空港や広島空港は雪で出発見合わせなどの場内アナウンスがあって、少し心配しましたが、松山の天気が傘模様だったので、飛行場まで迎えに来てくれる予定の妻の事を心配しながら飛行機に乗り込みました。上空の気圧が低気圧の影響で不安定とかで飛行機も幾分揺れましたが、思ったほどのことはありませんでした。

 松山やわが町は迎えに来た妻の話によると昼頃から雨だったようです。夜、しかも降雨のこともあって飛行場で車の運転を妻と交代をしました。三崎の塩崎さん、伊予市の松本さんを同乗して途中で降ろし、無事わが家へ帰りましたが、やはりわが家は落ち着きます。

(太平洋の水平線から昇った朝日)

 今朝は分科会で訪れていた太平洋に面したひたちなか市の海岸から、自慢の朝日を見ようと5時半に起床して海が一望できる展望風呂に向いました。周囲は暗かったのですが6時半ころになるとホテル白亜紀の外が黎明になりはじめ、いよいよ機運が高まり始まりました。夕日の町を自認する私ですから、当然朝日が見えると地元の人が自慢しているのですから、見ない訳にはゆかないのです。しかし残念ながら雲が出て水平線から上がる夕日を見ることは出来ませんでした。

(酒列磯前神社の入り口)

(神社までの境内はヤブ椿の見事なトンネルでした)

(酒列磯前神社の本殿)

 身支度を整え少し厚着をしてホテルの側にある酒列磯前神社へ散歩に行きました。ここも地元の人が自慢するだけあって立派な神社でした。特に参道に両脇から覆いかぶさるように茂るやぶ椿のトンネルは圧巻で、他に類を見ないような立派さでした。新築された立派な本殿にお参りして引き返し、ホテルの反対側にある灯台を見ながら海岸に下りました。ここら一帯は白亜紀の馳走が露出しているそうで、海岸にも奇岩が荒々しく露出して見応えがありました。

(水戸城跡の道端に茂る天然記念物のシイの木の大木)
(水戸光圀が心血を注いで完成した大日本史編さん地の記念碑が中学校の校門の隅にありました)
(弘道館に通じる緩やかな太鼓橋)

(弘道館の入り口)

(弘道館の正面玄関)



(弘道館の内部)

(弘道館の見事な庭園)
(水戸城址に向かって上がる道沿いにあったイチョウの古木)
 

 庭に植えられた梅の木も立派で、さぞかし開花の頃は素晴らしいだろうと思いを馳せました。

 テレビで紹介されている水戸黄門はまったく違った人物につくり上げられていますが、水戸城跡をゆっくる歩いて、一人束の間の学びをすることが出来、今日は朝からいい思いをさせてもらいました。

  「やぶ椿 咲きし境内 くぐり抜け 吐く息白く 神に頭を」

  「白亜紀と 名付けたホテル 風呂に入り 彼方目凝らし 朝日出る待つ」

  「黄門の 足跡辿る 束の間に 心洗われ 後ろ髪引く」

  「この朝日 今日はわが町 夕日にて あくる日ここで 再び朝日」

  

帰りの行程のこともあって早めに分科会を切り上げ、スタッフの方に勝田駅まで送ってもらい、水戸まで帰り、塩崎さんたちと合流する調整時間を利用して行きたかった国指定史跡の水戸城跡周辺を散策しました。国指定重要文化財である弘道館へ出かけました。弘道館は水戸藩の藩校で、藩主徳川光圀は藩士の教育のため、藩校の建設を計画したのですが、大日本史編さんのため多忙で果たせなかったそうです。第9代藩主斎昭がその意思を注ぎ天保12年(1840)に開館したそうです。人材育成を目指すのは今も昔を変わらないものだと実感しました。
 建物も庭も立派で、何時間いても飽きないほどの重厚な造りと趣き、それに展示された弘道館を巡る歴史上の人たちの姿にただただ感心するばかりでした。

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○水戸へ来てます(ロビーにて)

 昨日松山空港を飛び立って羽田まに着き、上野経由で水戸に来ました。来年度、つまり今年の11月14日~15日、宇和島や南予を中心に開かれる全国地域づくり交流大会の前哨戦として、水戸で開かれている直前大会の視察を兼ねた研修会に出席しているのです。

 昨日の水戸は天気も良く、まだ数年前に一度だけしか来たことの無い土地へ興味を持ってやって来ました。総勢52人と、参加した地域では地元を除けば段突な人数で、大会の実行委員長を引き受けている私としてはとりあえず来年度の面目は保った感じです。

 昨日は3時過ぎに水戸に到着したので、早めにホテルのチェックインを済ませ、思い思い自由にくつろぎました。私と三崎町の塩崎さん、それに山口さんの三人は、金沢の兼六園、岡山の後楽園と並んで三庭園に数えられる偕楽園を訪ねました。午後4時という遅めの、しかも市内バスでの出発だったため、あるいは閉門して見えないかもしれないと思って出かけましたが、短い時間ながら運良く殆ど全てを見学することができました。梅の木は100種3千本という途方もない数だそうで、その規模の大きさと行き届いた手入れに度肝を抜かれた感じでした。

(バス停を降りると偕楽園の入口です)
(幕末の三舟といわれる勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の掛け軸が展示されているそうで興味を引きましたが、残念ながら見ることが出来ませんでした。わが家にある拓本掛け軸は山岡鉄舟のもので、「この槌は宝打ち出す槌でなし のらくら者の 頭打つ槌」と書いています。
(芝生と老松が夕映えのシチュエーションと見事にマッチした庭園風景、近くには湖もありました)

(風光明媚な場所で塩崎さんと記念写真を撮りました)
(どの老松も実に見事な手入れがされていて、思わず見とれてしまうような姿でした)
(庭園内には100種三千本もの梅の木があるそうですが、残念ながら今年の寒波で蕾は固く春はまだ先のようでした)

(隠居を思わせる庭園の中にある山門)

(この山門は杉木立の中にあって、静寂そのものでした。
(偕楽園の園内略図)

 その日は夕方6時からホテルレイクビュー水戸でキックオフレセプションがありました。立食パーティ形式で、120人ほどの人が集まっていました。地元を除けば来年度開催の愛媛と前年度開催の愛知がダントツに多く、ここでは最後に愛媛の参加者が壇上に上がって、実行委員長の私が愛媛県を売り込みました。掛け合い漫才のような雰囲気だったため、参加者の反応はとてもよかったようでした。

(茨城の実行委員長は県の部長さんででした。ちなみに次年度開催の愛媛は民間で私が就任しています)

(会場には顔見知りの方が多く、鳥取の福田京子さんなどと親しくお話しました。長年やっていると顔も広くなるものです)
(会場の人気をさらったのはやはり水戸といえば水戸黄門で、他の文化的催しはレセプションとコラボレーションすることは難点があるように思いましたが、水戸黄門はまるでマスコットのようにカメラのとりこになっていました。

 その夜はレセプションの帰り際、みんなで居酒屋へ繰り出しました。茨城といえば水戸納豆やアンコウなので、そんな郷土料理を注文し、賑やかな愛媛県の交流会が出来、ホテルへ帰ってからも私の部屋に集まって楽しい意見交換を12時近くまで行い、来年度の開催に向けて様々な意見を戦わせました。

 明くる日の朝は氷点下まで気温が下がると地元のテレビが報じていて、17分科会のそれぞれに思いを馳せながらゆっくりくつろいだ一日でした。

  「こちらでも 水戸のご隠居 人気者 演ずる人も その気になって」

  「冷静に 水戸の大会 分析し 来年備え 意見交歓」

  「梅はまだ 咲かずも花を 想像し 梅園めぐり いつか来たいと」

  「偕楽園 梅が主役と 聞くけれど 若松ならぬ 老松見事」  

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○今日から3日間、全国地域づくり団体交流大会に出席するため茨城県水戸市へ愛媛県内の皆さんと行ってきます。今年の11月14日と15日愛媛県で全国大会が開かれますので、その全国大会実行委員長として今年は忙しくなりそうです。

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○言う事とやる事のの一致

 私たちが青年時代は「黙ってやれ」と不言実行を良しとするような教育を受けてきました。特に大正生まれで漁師をしていた親父からは、そのことをきつく教育されたものです。「これはこうした方がいい」といっても、「半人前のお前に何が分る」と随分無視され、そのことが原因で親子喧嘩とでもいうのでしょうか、何日も口を利かずお互いが意識しながらも無視するような態度が続いたものです。今にして思えばそれは少し遅れた反抗期の生だったかも知れないと思うのですが、子どもを育ててみて親というのは子どもに反感反目されるもののようです。

 映画やテレビで「武士に二言はない」という言葉を頻繁に聞きますが、私たちの知らない大昔は「言ったことは必ずやる」という心構えがあったようです。それは世間一般の常識となっていたから、わが身にかかる大事なので「滅多のことは言えない」という、自分の言葉の抑止にもなっていたようです。

 最近は大言壮語といえばいいのか、出来もしない事をやたら口にする人が多くなりました。しかもそれがメディアを使って私たち庶民に流れてくるものですから、みんなそれなりに聞きそれなりに期待をするのです。特に政治家は選挙で当選する事を目的としていますから、公約を掲げて出馬します。さすがに最近は市民の目と口が厳しくチェックして「公約違反」だと騒ぐものですから、「マニフェスト」などといっていますが、そんなに成果など上げないうちに次の選挙に突入し、「あんま膏薬」になり下がって、政治家への不信感が募るのです。

 昔は信用というものがものを言う世界だったため、余程のことがない限りは約定書など書かなかったものですが、今は法的根拠が喧しく言われるため、些細なことでも契約書をしたためます。でもその契約書ですら守れないのですから、言う事とやる事の不一致は見るに見かねる状態のようです。

 私は有言実行を旨とするような時代に生きてきました。ゆえに色々な事を言い色々な事をやって来ました。まるで夢みたいと自分でさえ思った夕日を地域資源にしたまちづくりも、苦労の甲斐あって何とか夢から現実へと具体化することが出来ました。言いながらやるのですから様々な困難にも出会いましたが、「言う事も言うがやることもやる」ということで私への信用が増したことは事実です。

 何も語らず何も行動しないことが美徳のように思われた、いや今もそんな風潮がある公務員の世界は、責任が伴うゆえに「滅多な事を言うな」と上司や先輩から、口を出すことをきつく咎められてきました。それは多分私の発言が自分に及ぶ責任ではなく、私の責任が即上司の責任に転化される、つまり責任を取らされることへの警戒だったように思うのです。しかしその上司や先輩ですら、一度成功すると、「あれは私が許可してやったから」とその果実を自分の成果にして周りの吹聴するのですからいい加減なものなのです。

 最近地域づくりの現場でよく見かけるのが、評論家まがいの人です。自分では何もやらずただ色々なところを見て歩き、さも自分がやったことのように事例を紹介している人です。確かにそんな人もつなぎとしては必要でしょうが、そんな手を汚さない話しで地域づくりができるほどやわいものではないのです。「あそこはこんな事をしている」と「であるべき」論を聞いた後、「やるのはあなたたちです」と言われて興ざめという話はよくある話です。

 私は自称実践家です。実践家は理論ではなく論理であると思います。実践の中から生まれた言葉は論理ですから人の心に感動を与えるのです。いわば実践家は感動商売人です。たとえその言葉が朴訥としていても、人の心を捉えるのです。これからもそんな「言う事とやる事の一致」するような人間を目指したいものです。少なくと「不」のつく「不一致」だけにはなりたくないと思います。

  「言ってやる これぞ究極 実践家 だから説得 出来ると信じ」

  「言わずやれ 親父に言われ 反発し 親子喧嘩も 今は思い出」

  「災いの 元とはいうが 語らずば 意思も通じず そんなのいやだ」

  「最近は 見てきたような 話しして それで飯食う 人も多かり」



 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○地域資源を生かす

(フォーラムパンフレット)

 昨日は高知市文化プラザかるぽーとという、凄い施設で開かれた中小企業基盤整備機構の主催する「地域資源活用促進フォーラム」のパネラーとして、壇上に上がりました。新聞や雑誌で時々お目にかかる玄代表の政所利子さんの「四国ブランド活性化戦略」と題した基調講演を聞き、「素材とマーケットの出会い」とうテーマでパネルディスカッションをやりました。四国地域支援事務局ゼネラルマネージャーの三井文博さんの軽妙なコーディネートで、三重県伊賀の里モクモク手づくりファーム専務の吉田さんと私、それに政所さんの三人で話しをする予定でしたが、会議が始まる前に高知県馬路村の東谷組合長さんから会議に出席したい旨の電話が私に入り、折角来るのだったらパネラーに加わってもらうという事務局の判断で、急遽四人の賑やかな討論となりました。

(政所利子さんの基調講演)

 僅か1時間半余りの短い時間だったため、議論ではなく事例の発表に留まりましたが、地域づくりの現場で働いてきた私の主張は、何十億円も売り上げる吉田さんや東谷さんの生き方と全く違うため、参加した人たちの目と耳にどう映ったか、少し心配になりました。

(吉田修さんの話に魅了されました)

 吉田さんの生き方は農事組合法人を設立して自然・農業・食農をテーマにした農業公園をつくり上げ、ユニークな手法と情熱で、創業以来消費者の心の中に隠れたニーズを掘り起こし農業の新しい価値をつくり上げたとして、観光カリスマ百選を受賞しています。

 東谷さんは農協職員として特産品であるユズを地域資源にしてごっくん馬路村という商品を開発し、人口1100人余りの村で年商30億円も業績を上げて注目を集める人です。

 片や私はどうか、第三セクターは設立以来13年間一度も赤字にならなく黒字経営、しかも5パーセントの配当、そして年間55万人がやって来ると胸を張っていますが、たかだか年商数億円程度の道の駅に甘んじているのですから、勝負にはならないのです。吉田さんは法人経営、東谷さんは組合運動と微妙に違う生き方を披露されましたが、時代の要請に応えながら成長し、後戻りの出来ない企業になっているようでした。最近まで「大きいことはいいことだ」と右肩上がりを誰もが狙ってきましたが、最早それは私たちのやっているまちづくりや村づくりでは手の届かない世界のように思えました。参加した人たちにとって吉田さんや東谷さんの話はため息の漏れるような凄さです。そこへ到達するための並々ならぬ知恵と行動に大きな拍手を送りました。

(会場はまるで東京の施設のようでした)
 

 私の持論は「身の丈で持続可能な成長」を考えています。身の丈とは田舎のおじちゃんやおばちゃんでも頑張れることです。面白可笑しく、それでいて生きて働けることを実感できるということです。持続可能とはそんなに売り上げ高を伸ばすことなく、しっかりと経営することです。30億円売って2千万円の赤字を出すより、2億円の売り上げでも2百万円の黒字を出し、地域に還元するする方がいいという考えです。そんな考えが浸透して、田舎のおばちゃんの集団が「じゃこ天で儲けてヨーロッパに行こう」などと、それなりに夢を持って生きているのですから世の中は不思議です。

 先日えひめ地域政策研究センターの丹羽部長さんと話しをしていて、地域資源を漢字で表すとどうなるかという話しを聞きました。優・少・凡・負・棄・未ではないかというのですが、私はもう一つ美を加えて7つにしました。美しい地域資源とは何か、私の取り組んだ夕日も花も美しいのです。夕日は自然の美しさ、花は人の心で咲かせる美しさがあって、むしろ作り上げる地域資源です。でも地域資源をひとまとめにすると「感」かも知れないと思いました。結局感動しない地域資源は人の心に届かないし経済に結びつかないような気がしました。

 「オンリーワン」を貫くこともまあいいかと思いつつ帰路につきました。

  「それぞれに 違う生き方 あればこそ 議論成り立つ それでいいんだ」

  「会いたいと 思う人あり 会えました 思われるよな 人にならねば」

  「二時間の 話のために 三百キロ 往復時間 無駄には出来ぬ」

  「回り道 やったお陰で いい事を 学ぶ出会いが 知識を増やす」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○運の悪さを嘆くより運の良さを楽しもう

 昨日畑に出て少しの間草削りをしました。今年は冬の寒さがきついようで、後ろに聳える牛の峰山には昨日降った雪が白く残っているようです。この時期はどうしても運動不足で体が硬くなったように感じるものですから、思い切って戸外へ出て農作業です。上下とも防寒のためのウインドブレーカーを着ているため寒さは殆ど感じず、作業が進むにつれて少し汗ばむようでした。畑では早くも春の草であるハコベが当り一面にはびこって、キャベツやブロッコリーの周りを覆っていました。

 畑の雑草を削っていると、一本の綺麗な花を見つけました。わが家では抜いたり削ったりした雑草は畑の隅に作った囲いの中に入れて堆肥にして畑に還元していますが、その雑草の中で咲いているのです。名も知らない花ですが、細い茎を一生懸命伸ばして、冬の寒さに打ち勝つような健気さです。ふと私は思いました。もしこのはなが口がきけたらどんな話しをするのだろうと・・・・・。花になって話しを考えてみました。

 運がいいと思う花の独り言 

 私は去年の秋、畑に大根の種を蒔く時、雑草とともに雑草置き場へ運ばれました。雑草は刈れましたが、その雑草を肥やしとして幸運にも生き延びることが出来ました。私の使命は花を咲かせて実を稔らせて子どもを作ることですから、少々寒くてもここでこうして花を咲かせているのです。幸運にも今日はご主人が鈍った体を鍛えようと雑草採りをしていて、雑草の中から私を見つけて口では言いませんでしたが立ち止まり「綺麗だ」と思ってくれたのです。私はご主人様が雑草を採っている姿を見て、「ああ、私の上に雑草が乗っかる」と諦めかけていました。ところが運は開けたのです。ご主人様は私に気がつき、雑草を被せるどころか私を愛でてくれたのです。私は思いました。こんな寒い日に仕事をしようとするご主人の、一本の鼻にも心を動かせてくれるご主人様の優しさを・・・・・。やがてご主人様は奥さんを連れて来て、「見てくれ、綺麗な花だろうが。こんな雑草置き場で、しかもこの寒い時期に咲くなんて」と褒めてくれたのです。私は何て幸運な花なのでしょう。

 運が悪いと思う花の独り言 

 私は大根畑の隅で産声を上げました。ご主人様は私が畑で芽を出しているにも関わらずまったく気付かず、大根ばかりに気を取られ、私は他の雑草とともに汚い雑草置き場へ捨てられました。一緒に目を出した大根は大事に育てられ、今も美味しい大根として持て囃されていますが、私は結局ゴミでしかないのです。今日もご主人が私の側へ雑草の削ったのをどんどん持ってきて捨てて行くのです。ああ私の運命はこれで終りと覚悟しました。私に気付いたご主人様は、さも自分が咲かせた花であるような錯覚をして、私を奥さんまで連れて来て自慢するのです。冗談じゃあない。私が冬の寒さにも負けず自分の力だけでここまで生き延びて花を咲かせたのです。結局ご主人様は「野の花はそこに咲くから美しい」などと勝手な事をいって、私をほったらかしにして去って行きました。ああ私は何て運の悪い花なのでしょう。

 この花を人間に例えると面白い物語ができそうです。私たちは運がいいとか悪いとか思って生きていますが、いつの間にか自分の運の悪さは社会や人のせいだと思う人が多いようです。毎日のように報じられる事件を聞く度に、運が悪いと思う人間不信がいかに多いことかと、嘆かずにはいられないのです。

 運がいいと思う花の独り言がいえるような人間になりたいものです。

  「冬なのに 雑草置き場の 片隅で 咲きし名もなき 花に気付きて」

  「運などは 自分の心が 決めるもの 人や社会の せいにするなよ」

  「運の尽き いやいや運が ついてきた どちらの運も 考え一つ」

  「この花は ものが言えたら 何と言う そんな空想 馬鹿げた話」 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○ミカンの木を植える

 わが家の家庭菜園は完全に冬モードで、いかにも寒そうな様相です。文化の日に買って植えたタマネギの苗など、ひょっとしたら植えた時の方が大きかったのではないかと思うほど成長が止まったままなのです。また春のために植えたキャベツも寒らんといわれて、高村光太郎の詩の中に出てくるような、冬の寒さで「まろく育つ」どころか、成長がストップしているような心もとない状態なのです。

 でも冬野菜の王様である大根は生き生きとして、漬物にした後の残りが大きく育って、毎日大根サラダや昨晩のブリ大根、おでんの具財として楽しんでいます。この大根も間もなく表現は悪いのですが「とうが立つ」ことから首を切られて無残な姿を醸すのです。

 そんな菜園畑の向こうに細長く果樹園が続いています。ミカンやかぶすなどかんきつ類が植えられていますが、その主流は甘夏柑で、今年は沢山実をつけ豊作のようです。これらの甘夏柑は寒い冬を樹上で越冬し、夏までその味を楽しむことができる、いわばわが家の自慢の一品なのです。

 これらのかんきつ類は今は亡き母が植えたものです。最初は手入れが行き届かなくて何本か枯れたりしましたが、父が世話をするようになって消毒や剪定などの肥培管理が行き届き随分立派な畑に変身しています。

 その父が昨日の朝私に、「あと4~5本蜜柑類の苗を植えたらどうか」と提案しました。90歳になる親父が苗を植えるというのですから、その元気さに安堵し、昨日の昼間所用で愛媛大学へ行ったついでにダイキのナーサリーに立ち寄り苗木を物色しました。親父は甘夏柑でもといっていましたが、私は甘夏柑は1本にして、ポンカン2本、きよみ2本を買い求めました。園芸店の店先には春の訪れを感じるように沢山の苗木が並び、欲しいほどに手をこまねいているようでした。どの品種も1本千円程度で5千円弱の出費で済みました。

 早速家に帰り、寒くてコタツとテレビの番をしていた親父に買ってきた苗を見せ、二人で植える事にしました。このところの雨で畑は随分ぬかるんで、私の履いた長靴にしっかり大地の土がついてしまいました。親父は念者で苗を植える周囲の草を丁寧に取り払い、穴を掘って植えて行くのです。親父の年齢からして、この植栽も親子で植える最後の思い出になるかも知れないと、失礼な話ですが変な考えが先に立って少ししんみりしてしまいました。裏山の隅に立っている苦竹を5本切って更にその竹を半分に切って支柱を作りました。先を尖らせて地中に突き刺し、紐で縛ってしっかりと固定しました。さあこれで冬の風に倒されることもなく活着することでしょう。

 去年人間牧場に植えた梅とスモモ、今年人間牧場に植えたスモモやブルーベリー、今年わが家に植えたかんきつ類と、このところわが家では苗植えラッシュです。去年植えた梅やスモモは「植えない木は育たない」の例えどおり、一本枯れただけで順調に育っています。春までに更に苗木を植え、妻から「無駄な草刈りばかりしない方策を」といわれた言葉を思い出しながらせっせと小遣いをはたいているのです。

 町内の知人友人から、ミカンを栽培していないわが家へは沢山のミカンが届き、ビタミンCが不足する冬のこの時期ながら毎日楽しくその味を楽しんでいますが、美味しい果物を年中食べれるなんて、幸せな土地に住んでいるなあと、しみじみ思うこの頃です。

  「なんぼまで 生きるの親父 まだ苗を 植える提案 驚きモモの木」

  「思い出が 又一つ増え 親子苗 揃って植える 大寒の頃」

  「母植えし 木から採りたる ミカンの実 仏壇供え 思い出語る」

  「冬野菜 大根以外 冬篭り 春の来るのを 今か今かと」

[ この記事をシェアする ]