shin-1さんの日記

○長旅から帰りました

 2泊3日の、しかも日頃縁遠い東京以北の茨城県水戸市から無事帰って来ました。私のように日頃から旅慣れている者でも今回のような長旅はさすがに疲れた気分になるのですから、同行した51名の参加者は、20分余り遅延した飛行機が小雨そぼ降る松山空港に着いて降り立った時は、さすがに「疲れた」という雰囲気でした。それは多分、飛行機を降りた後県内に散らばって自分のふるさとを目指さなければならない、旅の先の旅がまだ残っているからかも知れないのです。そんな事を思うと宇和島周辺や今治しまなみ海道周辺へ帰る人たち、また佐田岬半島へ帰る人などは、急いで帰らないと今日中には帰れないような距離の人もいるのです。その点私などは遠いといっても中予だし、夜だと飛行場から30分あまりでわが家へ帰れるのですから有り難いことなのです。

 水戸周辺は天気も良く東京も曇っていたものの経つ時は雨は降っていませんでした。出発ロビーの旅先天気だと、札幌は欠航、岡山空港や広島空港は雪で出発見合わせなどの場内アナウンスがあって、少し心配しましたが、松山の天気が傘模様だったので、飛行場まで迎えに来てくれる予定の妻の事を心配しながら飛行機に乗り込みました。上空の気圧が低気圧の影響で不安定とかで飛行機も幾分揺れましたが、思ったほどのことはありませんでした。

 松山やわが町は迎えに来た妻の話によると昼頃から雨だったようです。夜、しかも降雨のこともあって飛行場で車の運転を妻と交代をしました。三崎の塩崎さん、伊予市の松本さんを同乗して途中で降ろし、無事わが家へ帰りましたが、やはりわが家は落ち着きます。

(太平洋の水平線から昇った朝日)

 今朝は分科会で訪れていた太平洋に面したひたちなか市の海岸から、自慢の朝日を見ようと5時半に起床して海が一望できる展望風呂に向いました。周囲は暗かったのですが6時半ころになるとホテル白亜紀の外が黎明になりはじめ、いよいよ機運が高まり始まりました。夕日の町を自認する私ですから、当然朝日が見えると地元の人が自慢しているのですから、見ない訳にはゆかないのです。しかし残念ながら雲が出て水平線から上がる夕日を見ることは出来ませんでした。

(酒列磯前神社の入り口)

(神社までの境内はヤブ椿の見事なトンネルでした)

(酒列磯前神社の本殿)

 身支度を整え少し厚着をしてホテルの側にある酒列磯前神社へ散歩に行きました。ここも地元の人が自慢するだけあって立派な神社でした。特に参道に両脇から覆いかぶさるように茂るやぶ椿のトンネルは圧巻で、他に類を見ないような立派さでした。新築された立派な本殿にお参りして引き返し、ホテルの反対側にある灯台を見ながら海岸に下りました。ここら一帯は白亜紀の馳走が露出しているそうで、海岸にも奇岩が荒々しく露出して見応えがありました。

(水戸城跡の道端に茂る天然記念物のシイの木の大木)
(水戸光圀が心血を注いで完成した大日本史編さん地の記念碑が中学校の校門の隅にありました)
(弘道館に通じる緩やかな太鼓橋)

(弘道館の入り口)

(弘道館の正面玄関)



(弘道館の内部)

(弘道館の見事な庭園)
(水戸城址に向かって上がる道沿いにあったイチョウの古木)
 

 庭に植えられた梅の木も立派で、さぞかし開花の頃は素晴らしいだろうと思いを馳せました。

 テレビで紹介されている水戸黄門はまったく違った人物につくり上げられていますが、水戸城跡をゆっくる歩いて、一人束の間の学びをすることが出来、今日は朝からいい思いをさせてもらいました。

  「やぶ椿 咲きし境内 くぐり抜け 吐く息白く 神に頭を」

  「白亜紀と 名付けたホテル 風呂に入り 彼方目凝らし 朝日出る待つ」

  「黄門の 足跡辿る 束の間に 心洗われ 後ろ髪引く」

  「この朝日 今日はわが町 夕日にて あくる日ここで 再び朝日」

  

帰りの行程のこともあって早めに分科会を切り上げ、スタッフの方に勝田駅まで送ってもらい、水戸まで帰り、塩崎さんたちと合流する調整時間を利用して行きたかった国指定史跡の水戸城跡周辺を散策しました。国指定重要文化財である弘道館へ出かけました。弘道館は水戸藩の藩校で、藩主徳川光圀は藩士の教育のため、藩校の建設を計画したのですが、大日本史編さんのため多忙で果たせなかったそうです。第9代藩主斎昭がその意思を注ぎ天保12年(1840)に開館したそうです。人材育成を目指すのは今も昔を変わらないものだと実感しました。
 建物も庭も立派で、何時間いても飽きないほどの重厚な造りと趣き、それに展示された弘道館を巡る歴史上の人たちの姿にただただ感心するばかりでした。

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