shin-1さんの日記

○庭樹の選定をする91歳の親父

 梅雨に入ってもまとまった雨が降ったのは2日ほどで、今年の梅雨はどうも空梅雨の模様です。すでにあちらこちらでは水不足で断水や田植えができないなどの被害が出ているようで、先の長い今年の夏を心配しているのです。夏が近づくとわが家の庭ではあちらこちで雑草が伸び始め、親父は昼までに日陰になる所を午前中、昼から日陰になる所を午後と場所を変えて草引きに余念がないようです。しかし91歳になる親父にとって草引きはむしろ草の方の成長が速くて、家の周りを一回りした頃にはもう次の草が生えてきて、まるでいたちごっこのようです。

 この季節になると親父の仕事は草引きからむしろ庭木の手入れに重点が置かれるようになります。庭の樹木は殆ど買ったものはなく、いただいたり自分で育てたものなのですが、家庭菜園も含めると660坪もある広い敷地なので、樹木の数も半端ではなく、親父はその一本一本を剪定して回るのです。

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(私の書斎の前の中庭で松の剪定をする親父)
 一番樹高の高いクロガネモチなどは有に5メートル近くあって、足場をかけるかよじ登らないと剪定が出来ないようなものもあります。昨年まではどうにか自分で足場を組んで剪定をしていましたが、今年はもう木に登ったり足場の上で作業することが危険だからできないと弱荷を履いています。これは毎年のことなので別に気にもしていませんでしたが、昨日ちょっとよろけて転げたそうで、そろそろ私の出番が来たことを実感しました。

 しかし、いくら私の出番が来たからと言って今日から剪定ができるものでもありません。特に松の剪定は難しいようで、ハサミを入れ方を間違えると芽吹きしないばかりか、枯してしまうことだってあるのです。松は親父が大事に育ててきた樹種の一つで、はて一本の木でも2日間もかかる剪定作業を私はとてもやる自信がないのです。

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(ガンの手術で片目しか見えないのにこうして剪定をするのです)

 親父の起用さは、誰もが認めるところですが、まあこの歳になっても様々な工夫を凝らして庭をアレンジしているのです。最近流行の花で庭を飾るガーデニングではありませんが、和風ガーデニングというような作風です。家の周りはまるで箱庭のように手作りされているのです。特に自分の住んでいる隠居の周りは枯山水の一幅の掛け軸を見ているようです。

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 決して金をかけず、あちたこちらで拾ったり貰ったりした石や樹木を大切に育てて作り込んで行くのです。カエルの子はカエルなのでしょうが、私はカエルの子はオタマジャクシで、まだ手も足も出ないのです。もうそろそろと退職の時思いましたが、あれから早くも4年があっという間に過ぎ去りました。今年も剪定作業をしなければならない暑い夏を迎えたというのに、私は相変わらず書斎の室内でこうしてブログを書き、窓の向こうの外で親父はせっせと庭仕事です。少々心が痛みますがもう少しの間、元気で頑張ってほしいと願っています。

  「親伝授 カエルの子ども だというに オタマジャクシで 手も足も出ず」

  「もう限界 いつも言ってる 言葉だが 今年もやはり 脛をかじりて」  

  「箱庭の ような和風の 庭作り ガーデニングを 楽しむ親父」

  「さて俺は 親父伝授の 庭手入れ 心もとなく 未だ習わず」

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○関東の友四国へやって来る

 関東や東北の人たちにとって四国や九州は余り馴染みがないのか、北海道が一つの島で道府県であるように、一つの島のように思っている人が意外と多いのには驚きました。四国といえばお四国遍路88ヵ所が有名ですが、その遍路道は1500キロとも言われていて、気の遠くなるような遠距離なのです。しかも四国を八の字で結ぶハイウェー構想はまだ整備が進んでなくて、特に愛媛や高知の四国南西部は計画区間から整備区間に格上げされていても、国の予算や高速道路是非論に翻弄されて、いつ完成するのかさえも見通しが立っていないのです。

 高速道路といえば日曜日は、日本国中どこまで走っても1000円というイメージが強くて、四国への憧れをもっている人が沢山やってくるようになりましたが、四国に来てその広さに驚き、そして高速道路の未整備にがっかりして帰るという悪循環を繰り返しているようです。高速道路や新幹線は最早日本人の常識になった高速交通の時代に、四国の活性化が進まないのはやはり政治力の弱さがあるようだと、東北や九州を旅してしみじみ思うのです。四国の中に暮らしていると分かりませんが、東北や九州には既に新幹線や高速道路が完備していて、東京から遠いと思っていた場所も日帰りができるほどに時間的距離が縮まっているのです。

 今日から埼玉県北本に住む友人たちがわが人間牧場へやってきます。彼らを先導する工藤さんは旅の心得をよく知っていて、東京から一昨日夜行バスで高知入りしました。その後土讃線に乗り継いで高知中村まで行き、昨日と今日の二日間憧れの四万十川流域を散策するのです。四万十川の中流域にある旧西土佐村には旧友の和田さんがいて、彼の案内で素晴らしい自然をピックアップして満喫するようです。

 和田さんと中平さんの二人が夕方3時過ぎに人間牧場へ一行6人を連れて来て、愛媛の私にバトンタッチするという仕組みです。彼らはわが人間牧場で、21世紀えひめニューフロンティアグループのメンバーと合宿して交流し、明日は松山市内を見学して松山に一泊し、月曜日にはしまなみ海道を渡って今治から尾道に入り、尾道を散策して夜行バスで東京へ帰るという、凄いリッチな旅を計画しているのです。

 何度も四国を訪ねて来ている工藤さんや峯尾さんにとっては、四国の広さは承知済みでどうってことはないのでしょうが、今回初めて同行する工藤さんの奥さんや峯尾さんの奥さんにとっては、多分その広さを実感するに違いないのです。四国は4県それぞれに特徴があって、徳島阿波の履き倒れ(阿波踊りで下駄や草履を履いて踊るから)、高知土佐の呑み倒れ(策絵をよく飲むから)、愛媛伊予の建て倒れ(家が立派だから)、香川讃岐の食い倒れ(うどんをよく食べるから)と形容されるように、暮らし向きも随分違うのです。ましてや四国山脈を背にして徳島と高知は太平洋、愛媛と香川は瀬戸内海に面し、紀淡海峡と豊後水道が本州と九州を隔てているのです。友遠方より来るです。今日から二日間私のスケジュールは彼らのために開けておかなければなりません。明日の日曜日は1年前から入っている予定のため、仲間の河野さん、佐々木さんにゆだねますが、今日はユックリじっくり旧交を温めたいと思っています。わが奥さんもその準備に昨日から忙しそうです。


  「お天気の 行方気にして 友来る 今宵は呑みつ 旧交温め」

  「四万十と しまなみ海道 目当てかな 関東はるばる 四国訪ねて」

  「安くても 人に会えれば 豪華旅 行く先々に 温もり人が」

  「いつの日か 遍路の道を 旅したい 言ってた友の 記憶残りて」 

 

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shin-1さんの日記

○公民館長の研修会に招かれました

 昨日は愛媛県公民館連合会の招きで旧県立中央青年の家で開かれた公民館長さんの研修会に出席しました。県下各地から集まった館長さんは60人を超えていましたが、中には顔見知りの人もいて旧交を温めました。公民館といえば私はかつて若かりしころ公民館主事として13年、そして晩年は中央公民館長として2年、合計15年もの長い間関わった、懐かしい仕事なのです。

 当時はパソコンなどなかった人の手にゆだねる緩やかな時代でしたから、公民館活動も活発で今でも思い出に残ることが多過ぎるほど、楽しい思い出がいっぱいあるのです。その全てを話すことはできませんでしたが、公民館や社会教育にかかわったことを自己紹介のつもりで冒頭に話させてもらいました。

 ①公民館主事として13年間+中央公民館長として2年間、合計15年間担当

 ②愛媛県公民館連絡協議会(当時)の主事部会長として6年間、県公連の運営に携わる

 ③公民館の生活改善運動の一環として結婚披露宴の司会を537組実施

 ④町の広報ふたみを月2回、10年間で240号執筆発行

 ⑤全国大会の司会を6年連続担当

 ⑥私の発想した夫婦学級と金儲けの公民館活動がNHK明るい農村で全国放送

 ⑦愛媛県青年団連合会長・四国四県青年団連絡協議会会長として青年活動を主導

 ⑧第14回NHK青年の主張県代表

 ⑨県立松山工業高校のPTA会長に6年間就任

 ⑩日本一の町を訪ねる人づくり10年計画で100粒の種まき作戦


 ちょっと思い出すだけでもこれくらいあるのですから、若さの勢いとでもいうのでしょうか想いをこめてよくやったものです。当時双海町の公民館活動は自治公民館活動では全国に名の知れた活動でしたから、36の自治公民館へ3人の職員が毎晩のように出向き、超勤手当てなど出ないのに46日間も連続で夜間勤務するなど、今考えるとゾッとするようなことをやっていました。

 当時は、この仕事を一生涯の仕事にしようと意気込んでいましたから、結婚間もない家庭などそっちのけで働きました。親子でキャッチボールなどした経験がないと子どもに言われるほど子育ては妻に任せていました。それでも親孝行な子どもが育つのですから、私の働く後ろ姿を見てくれたのだと思っています。

 13年目に1枚の辞令をいただいて産業課に異動になった時は、一日中涙が出て止まりませんでした。まあ色々ありましたが、公民館は私を育ててくれた大恩人です。これからは恩人に恩返しをする番です。続く限り公民館を見守り、支援したいと思っています。


  「公民館 私を育てた 大恩人 今度は私 恩を返そう」

  「一枚の 事例を貰い 涙した 昔懐かし 時々思う」

  「館長は 金出す口は 出さずとも 責任取れば それが本懐」

  「近頃は パソコン相手 仕事する 公民館も 変わったものだ」

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○海技免状の更新通知が届きました

 数日前私の元へ一通の封書が届きました。窓付きの封書は四国海技免状センターからでした。私は自分が持っていた四級小型船舶操縦士の免状は、もうとっくに失効しているものとばかり思っていましたが、その通知に書かれている有効期限には2010/5/08と書いてあるのです。 タンスの奥にしまっているであろういわゆるタンス免許の存在する忘れていて、この5年間一度も海技免状を携帯して船を操縦したことがないのですから、勿体ないといえば勿体ない話です。

 私はえひめ丸の沈没で有名になった愛媛県立宇和島水産高等学校漁業科の卒業生で、在学中には初代の愛媛丸に乗って南太平洋の珊瑚海まで遠洋航海に行った経験を有するなど、いわゆる海の男を志した男なのです。さらにわが家の漁船若吉丸の船長として7年間も伊予灘を舞台として漁師をしましたが、当時は5トン未満であれば海技免状は必要でなかったため、海技免状は持っていませんでした。体を壊し役場へ入庁したこともあって、海技免状を取る必要もなく時は過ぎていましたが、無人島に子どもたちを連れてキャンプに行くにはどうしても船の操縦が必要となり、海技免状を取得したのです。

 そのお陰で毎年夏になると沖合に浮かぶひょうたん型由利島共和国へ渡り、子どもたちと一緒に楽しいキャンプを20年間も行いましたが、その都度親戚から借りたプレジャーボートを運び小型漁船の運転をしたのです。無人島に渡るのはチャーターした渡海船でプレジャーボートはむしろ補助的な役割や、まさかの時の救急用として配備していたのです。

 何時の時期だったかは記憶にないので定かでありませんが、無人島キャンプに連れて行った子どもの一人が無人島へ上陸寸前に船と船の間に足を挟まれた事故が起きました。看護師さんが同行しているとはいえ、骨折までは直したり措置したりすることはできず、怪我をした子どもと付き添いの看護師さんを乗せて、そのプレジャーボートを私が運転し、13キロ離れた松山市三津浜港まで運んだのです。当時は携帯電話などまだ普及していない時代だったのですが、幸い無人島には何故か海難事故防止のための公衆電話があって、病院へ救急車の出動要請をしていたのです。

 港に着くや待ち構えていた救急車に同乗して済生会松山病院へ運びました。幸い骨折はなくホッとしたのもつかの間、病院から連絡を受け待ち受けていた警察官と海上保安官の事情聴取を受けることになったのです。

 事の重大さに気付いた私は顔見知りの俊成県会議員に連絡し、丸くおさめていただくよう連絡を取ったのです。県の海上保安協会の会長をしている俊成県会議員の心温まる手配のお陰で、私に対する嫌疑は不問になりましたが、事故を起こした渡海船の船長や現場の責任を持っていた何人かはその後海上保安庁に何度か呼び出され、その顛末は事件として検察庁へ送られました。不幸にも渡海船の船長は罰金刑となりましたが、私たちの事故に対する備えや対応の万全さ、それにボランティア精神が認められて不起訴となったのです。

 たった一枚の海技免状ですがその重みを感じた事故でした。ゆえにもう船には乗るまいと固く心に決めていたので更新はしていないものとばかり思っていましたが、私の海技免状はまだ有効だったのです。このまま失効にするのはもったいないと思うようになって、講習を受け更新しようと思っています。ふって湧いた話に海への憧れが蘇ってきました。今までは忙しくて船で釣りをする余裕もなかったのですが、これからの余生をのんびり釣りでもと思っています。いつになることやら分かりませんが、久々に届いたいい知らせにワクワクしているこのごろです。


  「税金の 通知ではない 更新の 通知受けとり 昔懐かし」

  「更新は すまいと事故後 決めていた 心変わって 釣りでもするか」

  「一枚の 海技免状で 助かった あの子今頃 元気でいてか」

  「車船 水陸両用 なれるかも 講習受けて 夢よ再び」 

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○朝風呂で考える法則

 わが家にはお風呂が3つあります。といってもひとつは親父の隠居で親父専用です。もうひとつは人間牧場のロケーション風呂です。3つあると自慢めいた話をしていますが、日頃使っているお風呂は私たち夫婦専用なのです。ゆえに夜寝る前に入るお風呂はそんなに湯が汚れないため、私は朝目覚めてブログを一本書いてから昨晩の残り湯に入り髭を剃ったりしますが、一番のお目当ては風呂の中で体操をすることなのです。私は役場に在職中シーサイド公園の掃除を毎朝5時から8時まで、12年間にわたって掃除をしてきました。その頃は掃除から帰ると急いで入浴して体を洗い身支度をして出勤していたため、今でもその名残で朝風呂を楽しむ習慣がついたのです。そして朝風呂を楽しむもう一つの理由は、掃除で痛めた腰を温めると同時に、腰痛体操なるものをある人から教わったからなのです。

 湯船につかり体を前に向き腰を軸にして膝を左右にゆっくりと「いーち、にーい」と数えながら曲げるのです。いわば腰痛防止のストレッチみたいなもので、この運動のおかげかどうか分かりませんがこの2年、毎年のように一年に2~3回はなっていたぎっくり腰がすっかり影を潜めているのです。

 私の場合はぎっくり腰になれば、伊予市の松本整体院で2~3回揉んでもらうと治るような軽いものなのですが、それでも完治するまでに約一週間かかるし、農作業や清掃活動の度に腰の不安を抱えていると中々身に入らないのです。

 そこで始めた体操はそれこそ簡単な腰を曲げるだけのものなのですが、少し出かかっていた下腹も完全に引っ込み、原のくびれがしっかりとして効果はてきめんでした。風呂から上がって布団や畳の上で両足を思いきり開く運動のお陰でこの歳にしては180度近くも開くのですから、腰痛体操さまさまなのです。


 腰を曲げるのは毎回100回往復です。100回が目標なのですが、やる度に数を数えながらあることに気が付きました。「いーち」の始めは1/100なのに「にーい」では2/100、つまりたった1回だけ増えただけで1/100が2/100、つまり1/50になるのです。これは大きな違いで、25回すると1/4に、そこから8回増えただけで1/3に、更に17回増えれば50/100、すなわち1/2になるのです。こうして少しだけ努力を重ねると、少しだけ数を重ねる度に残りの数への展望が開けてくるのです。

 今朝もそのことを考えながら、努力と忍耐なんておこがましいことではありませんが、少しの頑張りが大きな効果を生むことのヒントを得たような気になるのです。私は一時が万時このように何事もネガティブには考えず、ポジィティブに考える方なのでいい結果が生まれるのかも知れません。

 しかし一方では、今日の新聞にも載っていた「メメント・モリ」という言葉の「死を想え」というラテン語に対しては、この計算で行くと「後がない」と焦りを感じ始めるので、むしろ人生はあるがままなすがままの方が気楽なのかも知れません。宇佐美まことさんが四季録に書いている「人がものを書くたったひとつの理由は過去を理解し、死すべき運命に対して覚悟を決めるためなのだ」(スティーヴ・キング)としたら、私は毎日ブログを死への覚悟ときめなければならないのかも・・・・・。うーん難しい。


  「朝風呂に 入って「いーち」 「にーい」「さーん」と 声をかけつつ たわけたことを」

  「死を想え 偉い人が いるものよ 俺など間際 なっても思わず」

  「腰痛に ならないために 朝風呂で 毎日体操 やってみるもの」

  「なるほどな 腰は体の 要なり 腰据え今日も 頑張りましょう」

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shin-1さんの日記

○今日は何曜日だ?

 今朝5時過ぎに親父がわが書斎の窓の外からやってきて、「今日は何曜日だ?」と聞くのです。夏至を過ぎたとはいえ、一年中で最も昼間の長い季節なので、太陽の動きとともにくらしている親父としては夜明けが早く、日没が遅い今頃は、夜の時間が長いので少々寝不足のようで、「夕べが余り眠れなかった」と寝不足を私に訴えるのです。親父の暮らしぶりを見ているとその分昼寝を楽しんでいるようなので大丈夫だと思うので、「寝不足で死んだ人はいないから大丈夫だよ」と声をかけ、今朝も二人で大笑いをしました。親父も私と同じサンデー毎日の日々を過ごしているのです。

 親父が曜日を気にする訳は毎週月、水、金曜日がこの地区のゴミを出す日だからです。今日は金曜日なのでゴミを出さなければなりません。ゴミは余り朝早く出すと生ゴミの日である今朝などは、何処からともなくカラスが2~3羽やってきて生ゴミを食い荒らすのです。ゴミ収集場近くの人にとっては自分の家から出したゴミならいざ知らず、人のゴミまでが散乱するのは気になるところらしく、ゴミ収集場所を変えるよう提案があるのですが、いざ変えるとなると中々難しいようです。わが家はこのゴミ収集場所まで一番遠い場所なので、ゴミが沢山ある時は手で運ぶことができず、もっぱら一輪車のリヤカーに頼っているのです。親父は散歩のついでにゴミを出しますが、生ゴミの殆ど出ない親父のゴミは少量なのに私たち夫婦のゴミはそれに比べるといつも多いのです。

 親父が曜日を気にするのはもう一つ理由があります。自分のボケを修正することなのです。91歳になってもまだある部分はボケるどころか、私より正確な部分が沢山あって、昔の記憶などはボケてはいないと思うのですが、今置いた道具類を何処へ置いたかが時々分からなくなり探す時間が長くなったことです。今朝も朝早くから庭樹である松の手入れをしていましたが、眼鏡を置き忘れたと探しているようでした。よく見ると自分の頭の上にまるで帽子のようにちょこんと乗せているではありませんか。「じいちゃん、メガネは頭の上にある」と教えると、「わしもボケたものだ」と大笑いです。私はその都度、「覚えていることを全部覚えていたら頭が爆発するから、忘れるから丁度いいのだ」と話してやると納得するのです。


 最近高齢者の免許証の更新が何かと話題になっています。確かに事故を減らすためには高齢者は免許証を返納するのが一番だとは思うのですが、公共交通機関の殆どない田舎で暮らす高齢者にとって免許証は命の次に大切なものだと思うのです。免許証の更新時にボケの検査があるらしく、そのひとつに「今日は何曜日ですか?」と聞かれるそうです。「今日は金曜日」と正確にいえばボケていないと判断され免許証が交付されるそうです。親父に比べれば頭の聡明な私などでもいきなり「今日は何曜日?」と問われたら、「はて?、今日は何曜日?」と即答できないかも知れません。サンデー毎日の暮らしが長くなった私にとって、曜日などあまり必要がなくなりつつあるのです。親父から「今日は何曜日だ?」と聞かれる度に、自分の加齢の重さをひしひしと感じるのです。ああ歳はとりたくありません。でも加齢は人間の宿命なのです。


  「何曜日? 聞かれる度に 何曜日? 俺もボケたか サンデー毎日」

  「ああそうか 今日はゴミ出し 金曜日 ゴミで連想 曜日感覚」

  「メガネ何処 頭の上に 置いてある 俺はボケたと 親父ションボリ」

  「もう限界 言いつつ親父 卒寿越ゆ ご立派ですよ 見習いたいね」

 追伸

 ここまで書いてはたと気が付きました。今日は金曜日ならぬ木曜日なのです。時すでに遅し、私が金曜日だと 教えた親父はゴミ出しに向かっていました。多分近所の人はゴミを持って歩く親父を見て、「あのおじいさんはボケた」と思ったに違いありません。ボケているのは親父ではなく親父の息子なのです。今朝届いた間違ったメールを見て、金曜日と勘違いしたのです。俺もボケました。ブログを読んだ皆さん今日は木曜日ですよ。

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shin-1さんの日記

○人材は欲しいが人罪は要らない

 私の町の人口も5千人を割っていよいよ過疎化に拍車がかかってきました。この実態を憂う人は沢山いますが、その殆どの人はまるで他人事のように嘆くばかりで、自分から何かを始めようという人は少ないのです。「人が減るから働く場を作るべきだ」、「市役所はもっと住民のことを考えるべきだ」、「過疎地は病院や買い物に行くのが不便だから過疎バスを走らせるべきだ」、「子どもはたくさん産むべきだ」などなど、何処へ行っても「べきだ論」だらけです。じゃああなたは何をするの」といえば「それを考えるのがお前の仕事だ。だってお前らはわしらの税金で生きてきたのだから当然じゃないか」と、相変わらず元役場職員への風当たりは相当きついのです。昔なら文句があっても言いたいことも言えず黙っていましたが、自由人になった今は誰にへつらうことなく生きれるので、平気で喧嘩をふっかけるのです。

 「あんたたちは人罪だ。何もしない癖に人の批判ばかりして、そんな人の足を引っ張るだけの存在だったらいない方がまし」と言ってやると、カンカンになって怒られます。「お前は横着だ」というのです。「私よりもあなたの方がわがままだ」と返せば火に油を注ぐ例えのように、瞬く間に横着者として村中に言いふらされ、根も葉もない噂話が横行するのです。

 でもそんな町にも良識のある人は何人かいて、人知れず自分でできる何かをしながらふるさとのために役立っているのです。先日散歩しながら空缶を拾っている人に出会いました。ビニール袋を持って何気ない姿で空缶を拾っているのいです。聞けばもう1年になると言います。拾ったものは不燃物回収の日に出すそうなのですが、健康のために散歩したついでに空缶を拾って何か充実したような気になると言って今朝も拾っていました。最初は何かみじめなきもちがしたそうですし、その姿を見て近所の何もしない人が「あいつはええ格好をしている」と揶揄されたそうですが、今ではそんな話もどこ吹く風で拾っています。

 先日国道を走っていて前の車が止まりました。「どうして?」と思いきやその車に乗った若者は車に積んでいた雑巾を取り出して、国道で車にはねられて死んだ猫をゴミ袋の中に入れて、車に乗せ走りだしました。余りの見事さに私は呆気に取られ、心の中で大きな拍手を送ってあげました。

 最近は自分の家の前で車にはねられた犬が死んでいると、市役所に電話をかけて処分するように苦情を言う人が多いそうです。またペットの散歩中のうんこもビニール袋や手スコップを持ち歩いているのは形だけで、人が見ていないと平気で立ち去る姿も多いと聞きます。

 日本の世の中も随分変わってきました。一方で前述のようなほのぼのとした人材がいると思えば、一方では社会を無視するどころか社会に悪害をもたらして生きる人罪もいるのです。どうやらその根源は家庭教育の欠落にあるようです。人様に助けてもらった恩を忘れない親は、その恩を社会や人にお返しをしようとします。しかしお金があることが最高の幸せと思う人は、お金を奪い合う競争社会に生きて、共生を忘れるのです。競争と共生では生き方の根本が全く違うのです。いい親からしかいい子どもは生まれない。これが家庭教育の原理原則であることをもう一度親は自覚すべきだと思うのです。その基本はやはり感謝する心だと思います。

 かくいう私も人様に自慢できるような偉い人間ではありませんが、それでもいささかの感謝する心を持ち得たのはやはり親の家庭教育だったように思うのです。人様に迷惑をかけないように生きろと口癖のように言っていた母の言葉が思い出される今日この頃です。


  「最後には 笑い人生 終えたいが 息子娘が 育つ肝心」

  「人材は 欲しいが一字 違ったら 人罪になる 今の世の中」 

「若いのに 車はねられ 死んだ猫 手厚く弔う 嬉し光景」

  「文句言い 何もやらない 人もいる せめて私は 役に立ちたい」

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shin-1さんの日記

○三年目が終わりました

 コープえひめの学識理事に就任して早くも3年が過ぎました。「よりよいくらしの想いをかたちに」というコープえひめの理念実現のために、どれほどのお手伝いが出来たのか振り返れば心もとない気もしますが、私にとって「石の上にも3年」とまでは行かなくても、実に多くのことを学ばせてもらった3年でした。この3年間に学んだことは数知れませんが、中でも①大川理事長と松本専務の生き方を通した社会を見る目、②よりよい生き方をしようとする女性理事たちの学ぶ意欲、それに③賀川豊彦という思想家を含めた生協運動の理念でした。その全てを学びとることはまだできていませんが、二期目の半分が過ぎ残任の一年を迎えるにあたって、この3つだけは整理をしておかなければならないと、総代会に参加してしみじみ思いました。

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(県民文化会館サブホールで行われた今年の総代会)

 コープえひめを支えるのは組合員であるということは言うまでもありません。しかし組合活動を運動理念に基ずいて誘導するのは理事長や専務なのです。私はかつて小さな双海町という自治体をまちづくりという手法で当時の町長とともに少なからず誘導しました。その時私は①町を愛する、②町をより良い方向に導く、③町のためにやるという姿勢で様々なことにチャレンジしました。コープえひめのような巨大組織から比べると私がやったことなどその比ではありませんが、それでも大川理事長や松本専務の生き方はかつての私とよく似ているような気がするのです。過去のデーターを分析し、社会の動きの中で今を生きる、しかも未来という遠い方向を見つめて生きる、そしてその生き方が組合員や役職員を含めた人たちをより良い方向に導いているのです。毎回事前に届く理事会資料の1ページ目裏に書かれたカルフールという理事長の書かれた文章は、まさに理事長の生き方や社会を見る目なのです。専務も度々資料の中に文章を載せ、会議の度に理事長と分担するような形で説明をしていますが、私からすれば若き二人のエースの姿は小さなプロジェクトXなのです。

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(大川理事長から感謝状を受け取る藤岡さん)

 昨日の総代会で藤岡理事さんが退任されました。家庭の都合で千葉に転勤するための退任だそうですが、毎月一回のペースで出会った藤岡さんのこの3年間の成長は目を見張るものがありました。それは藤岡さん自身が本来持っている資質の素晴らしさや学ぶ意欲であると同時に、理事集団の人を育てる気風が育てたともいえるのです。数ある理事の中で私は藤岡さんの姿をじっと見続けてきましたが、毎回の理事会で常に明るく、そしてみんなのためにお茶を汲んでくれた姿は、特に印象深く残っているのです。昨日は立食試食会の後の会場で、簡単な送別のセレモニーがありましたが、少しセンチメンタルな気分になりました。

 千葉の地でのご活躍を祈るとともに、今後も出会いを重ねたい女性の一人だと思いました。

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(真珠の間で開かれた試食会)

 さて生協運動については、まだまだ学ぶ点が多くあり門外漢の私なのでこれから残任の一年をかけてゆっくり学びたいと思っています。特に生協にかかわりその存在を始めて知った、時代を超えた思想家賀川豊彦の生き方を少し勉強していますが、まだまだ意思半ばで進んでいないのです。

 私は思想家ではないので賀川豊彦の間口の広い多方面の生き方や奥行きの深い考えを、全て学び取ることはできませんが、活動家を自認する私としては何としても学びたい歴史上の人物であるのです。

 昭和30年、ノーベル平和賞の候補にも推されたという賀川豊彦の生き方をもう少し頭の隅に置いて活動したいと思っています。昨日の総代会はそういう意味でもいい一日でした。


  「三年が 過ぎたところで 立ち止まる さて過去未来 生きた生きるか」

  「学ぶこと 沢山ありて 良かったと 次のステップ 踏みだしました」

  「フェロモンの 匂い立ち込め 判別が 出来ぬ女性の 姿追いつつ」

  「見られてる 緊張している 明らかに 俺など誰も 見ているもんか」

 

 

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○お四国参りいよいよ大詰め

 谷岡さんのブログに刺激され、お四国88か所参りの大詰めとなる松山8ヶ寺詣りを昨日やりました。昨日のブログに浄瑠璃寺のハスの花の話を書きましたが、八坂寺、西林寺、浄土寺、繁多寺、石手寺、太山寺、円明寺と僅か半日で八つものお寺を回れるのですから凄く密度の濃いいいお参りとなりました。

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(46番札所浄瑠璃寺)

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(47番札所八坂寺)

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(48番札所西林寺)

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(49番札所浄土寺)

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(50番札所繁多寺)

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(51番札所 石手寺
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(53番札所太山寺)

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(54番札所円明寺)

 妻と二人のお参りは、嫌がる妻をあちらこちらに立たせて、まるでモデル撮影会のようでした。妻も私も般若心経を覚えていいないため、むしろ心の祈りとでもいうのでしょうか、妻は家族のことや気になることをお祈りするように念入りに拝んでいました。私は仏様にお願いするような他力本願ではないので、無新に手を合わせるだけのお参りでした。それでも納経帳は全て終わっているので、掛け軸に書いてもらい後は川之江の三角寺と高野さんだけとなりました。


 10年をかけた夫婦二人のお四国参りもいよいよ佳境を迎えつつあります。思えば長い道のりでした。思いつくままに、順番など全く無視してのお参りですからご利益なんてあろうはずがありません。ましてや般若心経も最初はカンニングペーパーを持ってやっていましたが、途中からは無心の祈りに変えました。それもいいと自分に言い聞かせながらのお参りは、それでも多くの人と巡り合い、多くの教えを学び、お寺界隈や周辺のあれやこれやを五感で感じつつのノロノロ旅でしたが、あれから10年後の今、こうして元気に過ぎせていることそのものがあり難い仏のご加護のような気がするのです。さあいよいよ高野山が近づいてきました。


  「十年も 一体何を していると 大師お叱り 聞こえてきそう」

  「十年の 間にわが家 色々と それでも二人 こうして元気」

  「ひたすらに 感謝の気持ち 忘れずに これから先も 豊かに生きる」

  「八ヶ寺を 一日回る 荒技に 少々疲れ 道後湯に入る」


 

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○地域づくり人養成講座のお手伝い

 昨日は忙し一日でした。午前中に人に会い、午後からははえひめ地域政策研究センターの主催事業である地域づくり人養成講座と地域づくりアシスト事業の発表会が合同であったので、アシスト事業の審査を担当した前田さんとともに、アシスト事業発表会のコメンテーターを務めました。その後はオフライン交流会に望み、夜は地域づくり人養成講座の講師として来県した高知県馬路村農協東谷組合長を囲んで、年輪塾ネットの面々が飲み会をやりました。まあこんな風に一日中あっちこっちと顔を出し、家へ帰ったのは10時半ころでした。それでも、どの会場も予想以上の参加者が集まり、議論百出でとても盛会でした。

 えひめ地域づくり研究会議の代表をこの春退いて、地域づくりの現場から少し遠のいたのかと思いきや、昨日一日の出会いやふれあいを見る限り、完全に復調して地域づくりの輪の隅にいることが分かり、少しだけホッとしているのです。

若松進一ブログ
(大勢が参加して松山市民会館で開かれた合同会)

 今年の地域づくり人養成講座は大学生もいるなど、若い人が多く参加していました。世の中が停滞すると若者が世直しに立ちあがり、逆に落ち着くと歳を召した方が文化を開花させると言いますが、若者が活躍した明治維新と年齢の高い人が文化を花開かせた元禄文化はその最たるもののようです。

 100年に一度といわれる経済不況の中で、ひょっとしたら若者たちが止むにやまれぬ気持で立ちあがろうとしているのではないかと、アシスト事業の発表を聞きながら考えていました。

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 馬路村の東谷組合長の話がある間、県庁へ行って打ち合わせを終え農協会館リジェールでのオフライン交流会に合流し、閉会後居酒屋あかりという店で年輪塾ネットの皆さんと宮本常一に関するイベントの打ち合わせをしたりしながら議論を重ねましたが、旧友である東谷組合長も私と同じ観光カリスマ100選に選ばれているつわものだけあって、その後も精力的に活躍しているようでした。

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 夢を語る人が少なくなった最近の風潮ですが、やはり夢を持つとどこか生き生きとします。昨晩は誰もが酒の力を借りて何時になく大きな声で議論をしていました。酒の力を借りれない私は熱いお茶を3杯も飲みながらいつの間にか酔ったような錯覚にとらわれ議論に加わっていました。

 素面で話す私は、相手が酒に酔うほどに心の窓を開けて行くのが手に取るように観察できるのです。かつて大酒飲みだった?私もあんな風に頃の窓を開けたのかと思うと、少し恥ずかしく、少し可笑しい面持ちですが、今にして思えばいい思い出なのです。


  「飲むほどに 酔うほど心 窓開け 本根で語る 友をうらやむ」

  「酒飲めぬ 体になって 思うこと 飲める間が 花かも知れぬ」

  「握手して 再開祝し 握手して 再び別れ 吾は去り行く」

  「今飲んだ 酒は体の どのあたり 通って行くか 見えぬ分からぬ」

 


 

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