shin-1さんの日記

○人間牧場の芋畑に案山子が立ちました

 実りの秋を迎えましたが、この頃になると何故か自然界の動物たちも実りの秋を感じるのか、各地から鳥獣の被害が報告されるようになりました。その際たるものはイノシシで、西条市千町の棚田で米や蕎麦を作っている友人の高橋さんも、折角丹精込めて作った稲も大被害あったと、メールに書き込みがありました。農作物を作った経験のある人なら、私と同じように同情するし、ましてや過去に鳥獣被害になった人なら、深い悲しみや悔しさに胸を痛めるのです。

 わが人間牧場の芋畑も5年前に作り始めた時、イノシシによる全滅の被害に合いました。私も参加した子どもたちも相当なショックを受けましたが、その後は網で芋畑を囲うなどしたお陰で、大した被害に遭うこともなく今日を迎えていました。ところが先日網で囲った入り口の網がこじ開けられ、イノシシが3分の1を食べてしまったのです。そしてつい最近はハクビシンと思われる動物が侵入し、以前の被害と合わせると約2分の1にもなってしまったのです。

 このままだと、10月16日に予定されている収穫祭の開催も危ぶまれることから、二つの方法を考えました。まずひとつはこれ以上被害を出さないための自衛手段として教育委員会の赤石主事さんが、大栄地区の徳永さんに掛け合って案山子を2体借り受けて設置することにしました。先日赤石さんから送られてきたメールに添付された案山子の写真は、案山子にビニールの合羽を着せた何ともユーモラスなものでした。折角借りた案山子が濡れては大変と赤石さんの苦肉の策のようです。

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 イノシシが入った入り口付近でまるで人が立っているような雰囲気です。またもう1体はハクビシンが木によじ登って進入したであろう杉の木の根元に置かれたようです。この2体の案山子がこれから約3週間、24時間体制で眠ることもなく監視をしてくれるのです。

 案山子の効果が期待できるようなら、来年は面白い案山子を作ってコンテストでもしたらどうかと、ワクワクしたアイデアが浮かんできました。

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 さてもう一つの対策は、イノシシに食べられた分の芋を確保しなければなりません。これはわが家の家庭菜園で作っているサツマイモをすこし早めに掘って、当日人間牧場へ運ぶという作戦です。すでに下見や打ち合わせも終り、何とか収穫祭は開けそうです。

 あとは綴じtの楽しいプログラムをどう組み立てるかがポイントになりそうです。いつの時代も世の中何とかなるものです。

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(わが家の家庭菜園の芋畑)

  「イノシシに 芋を半分 食べられた 今度は案山子 脅しが効くか」

  「秋来れば イノシシさんも 芋狙う 人間様と 同じ考え」

  「余りつる 勿体ないと 菜園に 植えたお陰で 収穫できそう」

  「イノシシと 毎年知恵を 競い合う どちらが勝つか 分からぬけれど」

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○ミョウガを食べ過ぎるとものを忘れるって本当かな?

 人間の好みは年齢によって変わるものだとしみじみ思います。子どもの頃はトコロ天や蕎麦など自宅で作っていたためか、美味しいと思ったことは一度もありませんでした。ところがこの年齢になるといつの間にかトコロ天も蕎麦も大好物となっているのです。特にトコロ天は海沿いに面した町でトコロ天の原材料となる天草が沢山採れることから、退職後の最近は自ら海岸に出て天草を確保しているため、妻がしょっちゅう作ってくれるため、海草は身体に良いという神話を間に受けて、せっせと食べているのです。自分が採ってきて乾燥保存しているヒジキやワカメとともに天草もわが家では大事な食料品の地位を築きつつあるようです。

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 昨日は久しぶりの雨でした。昨日は締め切り間近な原稿が2本ほどあったので、わが書斎でシトシトと降る戸外の雨を見ながら原稿書きに熱中しました。お陰で静かな環境の中で2本とも原稿を書き上げ、インターネットのメールで写真とともに送付し、少し肩の荷がおりたような感じがしました。

 原稿を書く途中気分転換のつもりで裏庭の直ぐ裏にある林の中へ、長靴を履いて入りました。何年か前に数株植えたミョウガの茎がかなり増えていました。根元を見るとミョウガの芽に白い花がいっぱい咲いていました。秋ミョウガというのでしょうか、そこら辺に沢山あるものですから、少し嬉しくなって夢中でボールにいっぱい取りました。外の水場で花柄を取り除き綺麗に水洗いをして台所に持ち込むと妻が、「まあ綺麗なミョウガ美味しそう」というものですから悦に入って再度はやしに分け入り、見境もなく発泡スチロールのトロ箱に殆どいっぱい取りました。はてさてこのミョウガをどうしようか思案した挙句、とりあえず近所に住む姉や叔母宅へおすそ分けしてあげ、大層喜ばれました。

 残りのミョウガは梅酢漬けにしようと相談がまとまりました。妻はミョウガに計量器で塩を計って漬物用のポリバケツに入れ、重石を乗せました。今朝見るとミョウガは塩漬けにされて漬物と同じように漬け汁が上がっていました。多分今日は妻が仕事から帰れば梅酢に本漬けされるのでしょうが、仕上がりが楽しみです。

 私たちが子どもの頃は、ミョウガなど苦くてとても口に出来ない嫌いな食べ物でした。今はミョウガを刻みそこへヒシオ味噌とチリメンジャコを入れると、飛び切り上等な美味しい一品となるのです。新米の美味しい季節ですが、これがまた熱々のご飯によく合うのです。

 子どもの頃祖母から聞いた民話には、ミョウガの話が出てきました。ある旅籠に金持ちらしき羽ぶりの良さそうな旦那が泊まりました。旅籠の老夫婦は滅多に来ない金持ちの泊り客を歓待しました。ご馳走や酒で上機嫌になった泊り客に、どれ程食べてどれ程飲んだか忘れさせるために、ミョウガを沢山食べさせたのです。やがて朝が来ました。老夫婦も昨晩ミョウガを沢山食べたため、泊り客は金を払うのを忘れ、老夫婦も金を貰うのを忘れてしまったという、何とも長閑なお話です。

 私も昨夜は双海中学校の学校評議委員会があって、帰宅ご遅い夕食となりました。妻はミョウガとチリメンジャコを味噌で和えて食卓に出してくれました。美味しかったのは良かったのですが、妻の顔も妻の名前もすっかり忘れてしまっただろうと思いきや、「お父さん、先日の買い物のお釣りはどうなったの」と、要らぬことまで思い出していました。どうやらミョウガを食べると物忘れをするということわざは当てにならないようでした。


  「裏山に ミョウガの花が 満開に 近所裾分け 美味しい夕餉」

  「昔から ミョウガ食べると もの忘れ すると戒め 本当か?か」

  「ミョウガ食べ 忘れることを テストする 何のことない ごまかしバレる」

  「二三日 すればミョウガの 梅酢漬け 食卓上る 楽しみ増える」 

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shin-1さんの日記

○秋の草花

 各地から秋の便りが届くようになりました。例年なら9月中旬には咲いているはずの彼岸花が、今年は10日も遅れて咲き始め、わが家の裏山にも真っ赤な花が今を盛りと咲いて、秋風に揺れています。彼岸花を見る度に自然の神秘や、絵にも描けないような幾何学的な美しさに感心するのです。

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中学生の頃、国語の授業で万葉集のことを習いました。山上憶良という歌人が、「秋の野に 咲きたる花を指折り(おゆびおり) かき数ふれば 七種(ななくさ)の花」と詠んでいます。「萩の花 尾花葛花 撫子の花 女郎花

また藤袴 朝顔の花(ききょう)」これを秋の七草というのですが、私たちの暮らしに馴染みの深いものは、萩とススキくらいで、花を見てこれがどの花と名前を言い当てる人はそんなにはいないようです。

そこで、秋の七草を写真を見て言い当てられるか自分自身をテストしてみました。

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 ①のススキ、②の萩、③の桔梗、④のクズ、⑤の撫子までは分かるのですが、⑥の藤袴と⑦の女郎花(オミナエシ)は自信がありませんでした。また④のクズの花は通称カズラの花であったり、①の地元で茅と呼ぶススキが秋の七草だったり、⑦のオミナエシが女郎花と漢字で書かれたりしていると、もう頭がこんがらがってしまうのです。食用になる春の七草に比べ、万葉集にも詠まれるほど有名な草花なのに、何故か私たち庶民の暮らしには今一馴染みが少ないようですが、秋の七草は今が旬です。名月とともに大いに季節の詫び寂を味わいましょう。勿論食欲の秋ともどもに・・・・・。


  「花の名も 言い当てられぬ 無骨にて 風流愛でる こともできずに」

  「七草と 言えば月見を 思い出す 花より団子 そろそろ芋炊き」

  「葛餅が 大好物の 妻などは 葛の花など 知らぬ存ぜぬ」

  「暑さ過ぎ 秋も次第に 深まりて 頭を垂れた ススキ風揺れ」

 

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○孫の運動会見学

 昨年は孫の朋樹がピカピカの一年生だったので、両親も私たち夫婦も入学準備、入学式、運動会などなど、全てが初めてとあって浮き足立っていました。誘われましたがあいにくの出張だった私を尻目に、妻は弁当を作って運動会の見学にも出かけました。帰るなり「来年は一緒に行こう」と予約までされていたのです。

 予約などすっかり忘れていましたが、今年も運動会シーズンとなり、連日各地で運動会が行われていて、誘われるまま昨日は孫が通う湯月小学校の運動会に出かけました。妻は相変わらず少し早く起きて弁当を作っていましたが、帰りが遅くなるといけないので親父の夕食を作っていたため、8時出発の予定が10分ほど遅れてしまいました。

 そのため伊予インターチェンジから松山インターまで高速道路を走りました。孫の運動会へ行くのに高速道路を走るとは何とも世の中は変わったものですが、お陰様で随分早くついて学校正門へ尽いたのは9時前でした。既に運動場のテントの下は満員でした。この人混みの中で娘たちを探すのは容易ではないと思いきや、私の携帯電話に娘から、「○○のテントの下にいる」と連絡が入り、ここでも文明の利器の力で難なく座席を確保しました。娘は朝7時の開門と同時に場所取りをしたそうですが、既にいい席は埋まっていて、テントの下といいながら午前中は殆ど日当たりのいい場所で虫干し状態でした。

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 私の住んでいる田舎と違い、各学年が4クラスもあるような学校なので、マーカーで印をつけた出番は4回くらいでしたが、孫の姿を遠目で認識したのは2回くらいでした。同じような背丈で同じような格好をしている子どもたちの中から孫を見つけるのは容易なことではありませんでした。それでも娘はビデオを、娘婿はデジカメを使ってそれぞれ、子どもの躍動を捉えていたようです。

 プログラムの関係で11時40分からお昼休みとなり、暑さを逃れて用意されていた体育館の中で弁当を広げました。娘も妻と同じように朝早く起きて作ったという弁当を、妻も孫のために作った弁当をそれぞれ広げて、運動会のもう一つの楽しみを楽しみました。小学校2年生になった孫の食欲は旺盛で、おにぎりを沢山食べてくれました。3歳の孫尚樹は運動場を歩き回ったためか、眠くなって多少ぐずっていましたが、午後の部が始まる頃には元気を取り戻していました。

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 運動会見学の私と妻の役割は、孫のお守です。おしっこだの、やれおやつや喉が渇いたなどという孫の言い分を聞き入れ右往左往しましたが、お陰で気分転換になったようです。運動会もリレーやマスゲームなどで盛り上がりましたが、午後2時30分には全て終了し、近くのマンションへ引き上げてお茶をいただき。運動会見学は終わりました。私たち夫婦は勧められるままに近くの温泉へ出かけて汗を流し、夫婦二人で軽い夕食を済ませて午後6時前自宅へ帰りました。カーラジオから引き継いだ大相撲テレビ中継で、白鳳の4場所連続全勝優勝と62連勝が大きく映し出されていました。一年収めの九州場所では、前人未踏と思われた双葉山の69連勝に挑戦する夢を引き継いでいて、野球賭博問題でゴタゴタした大相撲もやっと、国技としての体面を保ったように見えました。

  「秋晴れの 空にはためく 万国旗 孫の学校 運動会見る」

  「どの顔も 孫に似ていて 探すのに 苦労しつつも 背伸びして見ゆ」

  「じいちゃんは 孫のお守に 徹してね トイレのこのこ 散歩ウロウロ」

  「こける子が 一人もいない 運動会 余程訓練 してるのだろう」

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○人に会うことや会議予定を忘れるなんて・・・。

 「仕事を辞めたのに何でそんなに忙しいの?」と人に聞かれるほど、私の予定表は相変わらず予定が知らず知らずのうちに詰まって、まあ忙しい毎日です。最近は物忘れがよくなったというべきか、時々ポカを引き起こすことだってあるのです。

 私への講演依頼や会議参加の要請は、事務所を持っていないので主に自宅と携帯、それにメールで入ってきますが、携帯の場合は車で移動中だったり、時には人間牧場で草刈をしていたりしている時に電話がかかるのです。その都度草刈機のエンジンを止めて通話するのですが、移動中の車での携帯は違反だし危険なので出れません。特にズボンのポケットに忍ばせて草刈をしていると、エンジン音が高いため電話の呼び出し音は聞こえず、マナーモードにしていても気付かないのです。

 昨日のポカは1ヶ月前に草刈り途中に入った電話で、出会う約束をしたのですが、運悪くメモが手元になかったためすっかり忘れてしまっていたのです。いきなり「お約束の時間なのでシーサイド公園に来ています。若松さんは今どちらでしょうか」、「えっ、あなたは誰、そんな約束してたっけ?」と、大変失礼なことをしてしまったのです。相手は県外からのお客様でした。幸い私が自宅にいたから対応できたものの、妻には「人と会う約束を忘れるなんて、あなたも歳だ」といわれるし、昨日の午前中はまるで厄日のような日でした。

 昨日は夕方第三回地域教育実践交流集会の今年3回目の実行委員会がることを、実行委員をしている松本さんからの携帯電話で思い出しました。残念ながらこの会議も予定表への記入ミスだったのです。この時間に人に会う約束をしていましたが、気心知れた相手なので急遽偏狭をしてもらって、松本さんと待ち合わせ、私の車で愛媛大学構内の放送大学4階会議室へ出かけました。

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 ところで今年で第3回目を迎えた地域教育実践交流集会は、11月13日~14日の2日間、国立大洲青少年交流の家で開催されます。第1回から愛媛大学の讃岐先生たちと世話人をさせてもらっているのですが、今年の初めに11月14日の予定が入っていて、どうしても変更することが出来ず、昨日も事務局の仙波さんにはお茶を濁していましたが、多分11月13日だけの参加となってしまうのです。

 稲産にこのことを告げるとブーイングやバッシングが起りそうなので伏せてはいますが、いずれ早いうちに真情を吐露しなければと、昨日の実行委員会へ出席しても気の重い会議となりました。

 これまで役場に35年間勤め、その間青年団や公民館、21世紀えひめニューフロンティアグループ、えひめ地域づくり研究会議、PTA活動など超多忙な並行路線をこのようなミスマッチをしながらも、何とか切り抜けてきましたが、またしてもやっかいなことになったものです。

 これからは今までのような超多忙はなくなるでしょうが、相手に失礼しないように、調整をしたいと思っています。

  「約束を すっかり忘れ ドタバタと 昨日は厄日 妻に叱られ」

  「ああ俺も 忘れる歳か 納得し 断わり入れて 反省しきり」

  「まだ一つ 悩みの種が あるのだが 紋々悩み 打ち明けもせず」

  「草刈りの 途中で電話 安受けし メモする忘れ 赤恥さらす」 

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○私たち人間は生き過ぎているのか

 先日新聞を読んでいたら、東京工業大学本川達雄教授の書いた「ゾウの時間・ネズミの時間」という本の紹介文が載っていました。面白そうなので各駅停車の鈍行列車の中でなるほどと頷きながら、弁当を食べた箸袋の切れ端にメモしました。旅の途中だったものですから、メモしたことすら忘れていましたが、今朝愛用の木になるカバンを整理していると箸袋が出てきました。

 「動物の寿命」と書いたメモには、色々な哺乳動物の寿命を心周期(心臓が一回ドキンと打つ時間)で割ると15億という数字が出てくるのだそうです。つまり哺乳類の心臓は一生の間に15億回打つようです。

 ところが動物の心周期はまちまちで、ハツカネズミは心臓が一回打つのに0.1秒、大きなインドゾウだと3秒もかかるのです。人間の一分当たりの心拍数は50から70ですから計算上は1秒ちょっとでしょうか。この数字で動物の寿命を計算するとハツカネズミは長く生きても2~3年で、インドゾウになると70年は生きられるのです。さてこの計算式で人間の寿命を単純計算すると26.3歳だと読んで驚きました。アフリカのような発展途上国ならいざ知らず、日本人の寿命は雄に0歳を超えるというのに・・・とこの計算を疑いましたが、この記事には後があるようでした。人間の本当の寿命は26.3歳なのに、人間の長い間の知恵によって煮炊きをする技術を覚えたり、入れ歯が普及したり、安定した食糧供給や安全な生活空間、医療の発達などによってzy妙が伸びただけのことだそうです。

 人間が地球上で生活をするようになった頃の人間の寿命は26.3歳だったと推測されます。縄文人の寿命は31歳前後だったようで、15歳から16歳くらいで本能の赴くままに子どもを産んである程度の子育てをして、次の世代にバトンタッチしていたようです。人間、特に日本人は子どもを産み育てるのに20年もかかるのですから、縄文人から比べると過保護すぎるのです。はてさて私の寿命が26.3年だとい説が正しければ、私の寿命はとっくに終わっていて、65歳の私は生き過ぎのようで、いつ死んでもおかしくないのです。

 ある別の説によると人間の寿命は心拍数で20億回だそうで、これを一分あたりの心拍数で割ると、一分間に50回の人は75年、70回で55年という計算が成り立つのです。

 激しい運動をして一分間に70回以上心拍数を数える人よりは、のんびりゆっくり50回程度の心拍数を維持する方が長生きするという考えも成り立つのです。短気は短命、長寿の秘訣はのんびりゆっくりかも知れません。私たち現代人はとっくに寿命を通り越しているのですから、せめてこれからの老後は面白おかしく、加えて次に続く人たちのために役立って死ぬことも考えなければならないようです。

 世の中には面白い考えで人間や他の動物の寿命をカウントする人がいるもので、大いに感心しました。


  「生き過ぎと 計算上は 思えども 折角生きる もっと有意義」

  「のんびりと 過ごした方が 得策と 分かったからにゃ のんびり寿命」

  「世の中にゃ 偉い考え する人が 沢山おりて 色々学ぶ」

  「人間は ゾウより短い 寿命だと 聞いて納得 ゾウに見習う」 

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○北東(くだり)の風

 海沿いに面したわが町では、季節によって様々な強風が吹きます。その際たるものは冬の北西の季節風(「西」と呼ぶ)です。シベリアから張り出した西高東低の気圧配置の等高線が混むと、何日も何日も季節風が吹き荒れ、人々は仕事も出来ぬままじっと春の来るのを待つのです。やがて春一番の南西の風(「やまぜ」と呼ぶ)が吹くと一気に春めいて、しげく雨が降って山川草木が息吹くのです。やがて春風が収まると梅雨の雨が大地を潤し、やがて梅雨が上がると太平洋高気圧から噴出すような南からの熱風が真夏を連れてやってきます。そして中秋の名月ごろを境に北東の風(「くだり」とよぶ)が吹き秋は次第に深まってゆくのです。

 今はその季節の変わり目となる北東の風が吹く頃です。今日もかなり強い北東の風が吹いて、海は大荒れといった感じです。これ程強い風が吹いているのに、松山市内に行くと穏やかな秋風のようで、思わず「おやっ」と首をひねりたくなることが何度もありました。

 昔から、「夫婦喧嘩とくだりの風は夕方になったら凪ぐ」と言われています。確かに朝した夫婦喧嘩は夕方になると和らぐし、くだりの風も夕方になると凪ぐのです。しかしこのくだりの風はこれから秋が深まるまで、何日も吹いて、結局は雨が降るまで止むことはなく、天気が良いのに漁に出れない日が続くのです。この頃の天気図の等高線は冬の縦長に比べ横長になっているから北東の風が吹くというのがどうやらメカニズムのようです。

 今日も双海の海はくだりの風が吹いて大時化でした。海岸を一直線に通っている国道も今日は並がテトラポットを越えて打ち上げ、時折海水が車のフロントガラスに飛び散っていました。この海水は厄介でフロントガラスに付着して乾燥すると前が見えなくなるようになるため、前もってウォッシャー液で洗い流すか、家に帰ると水をかけて落としておかなければならず手間ものです。

 沖合いの波間に漂うようにして遊んでいたユリカモメも港の中の並のない場所へ引越ししていましたが、このカモメたちは冬になると寒いのか船の舳先や港の突堤にカモメの水兵さんよろしく、行儀よく並んで冬越しをするのです。明日も明後日も多分くだりの風が吹くことでしょう。


  「古老言う 夫婦喧嘩と くだり風 宵には凪ぐと これって本当」

  「くだり吹く 今年も秋が また来たか 六十回も 季節の変化」

  「海沿いが 故に大風 吹き通る 都会じゃ秋は 穏やかなのに」

  「昨日まで 暑い暑いと 言ってたが 今日は親父も 厚着ファッション」

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○萩にて思う

 昨日幸いにも山口県萩に講演で出かけました。しかし不幸にも往復のアクセスの関係で講演会場以外何処へも立ち寄ることなく萩を後にしたのです。もっと不幸は松下村塾ゆかりの松蔭神社を車の中から見ながら立ち去ったことでした。

 かつてフロンティア塾を開く時も、今回私塾年輪塾を開く時も緒方洪庵の適塾と吉田松陰の初夏村塾について随分本を読み漁りました。そして大阪の適塾跡、萩の松下村塾も移動のついでではありましたが訪れているのです。

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(わが家の親父の部屋床の間に飾ってある吉田松陰の掛け軸)

 何年か前萩に行った時、大切に保存されている松下村塾を見学しましたが、幕末動乱期に活躍した多くの人材を輩出したとはとても思えぬ質素な造りに驚きましたが、私が自宅横に造った私設公民館「煙会所」も、標高130mの瀬戸内海を見下ろす場所に作った人間牧場も、比較どころか足元に及ばないものの、実は恥ずかしながら松下村塾がフェイスシートになっているのです。

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(松蔭神社の境内にある松下村塾)

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(松下村塾の講義室はこのような質素なものでした)

 吉田松陰を書物などで読みながら、いつも不思議に思うのは、あれほどの人が嘉永6年ペルーが浦賀に来航すると師の佐久間象山と黒船を視察し、安政元年に日米和親条約締結のため再航した時、同郷の金子重輔と二人で、停泊中のポーハタン号へ赴き、乗船して密航を訴えるが拒否され、奉行所に自首し、伝馬町の牢屋敷に送られたという事実です。不安定政権の当時の幕府は思想家を極端に嫌って弾圧していますが、意思は立派なものの軽率という他はないのです。

 助命されて長州へ送還され野山獄に幽囚され幽囚録を書しますが、安政6年10月27日斬系刑に処せられ満29歳の若き命を散らしているのです。

 門弟たちに向けて書き残した「留魂録」には、「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」や、家族宛「永訣書」に書かれた「親思う心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん」は、時を越えても瑞々しくもほとばしる愛国心や、親への敬愛心が切々と人の心を打つのです。


  「村塾を 訪ねて心 洗われた 若き想いは 消えることなく」

  「国思う 親をも思う 辞世句は 何度読んでも 心打たれる」

  「享年を 聞いてびっくり 二十九 何故こんなにも 完熟か」

  「旅先で 己戒め 帰郷する 地道に進化 一歩ずつだが」

 

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○夕日のクルージング

 新山口から新幹線で広島経由で帰ろうと思っていたのに、新山口の駅に張り出した蒸気機関車山口号のポスターを見て、急に鳩子の海が見たくて、山陽本線各駅停車の列車に乗りました。車窓には一昨日の雨に濡れ、昨日の風に吹かれた黄色い田圃が何処までも広がり、日照りのために遅れていた赤い彼岸花の花が咲き始めているのが見えました。

 この沿線を通る度に若い頃に手で美で見た「鳩子の海」というアサドらを思い出すのです。その海の向こうには大分県姫島や国東半島あたりが手に取るように見えました。この海はかつて丸木舟に黒曜石を積んで姫島から松山まで十キロの航海をした思い出の海でもあるのです。

 柳井港の駅に降り立ち、歩いて3分ほどの船着場に着きました。1時間余り待ち時間があるので、椅子に座り木になるカバンを机にして今日お世話になった方々にハガキを書いていると、後から県庁に勤めていた西沢さんが「若松さんじゃありませんか」と声を掛けてくれました。西沢さんは砥部町在住だった坂村真民の娘さんのご主人で、お二人お揃いで所用での帰りだと聞きました。奥さんともお話をさせていただきましたが、この度砥部町に坂村真民記念館をたてる構想が具体的に進んでいて、色々なお話をさせていただきました。

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(周防大島の裏も表も染め分けて沈む夕日は見事で目を奪われました)

 フェリーに乗り早立ちで疲れた身体を大広間に横たえて、電波状況のすこぶる悪いテレビで大相撲を観戦しました。白鳳の60連勝というメモリアルを見ることができ、また海の向こうではイチロー選手が10年連続200本安打の記録を打ち立てた明るいニュースに心から大きな拍手を送りました。尖閣諸島の領有権や、中国漁船と巡視船の衝突、菅総理の国連総会演説の冷めた空気など、どちらかというと閉塞間の漂うニュースが次々放送されていましたが、大相撲もやっとゴタゴタから抜け出して、白鵬の活躍で少し明るさが戻ったような感じがしました。スポーツ紙で相撲を引退した朝青龍の相変わらず無責任な発言が水を差しているようです。


 午後6時前のフェリーの船上では、瀬戸内の海や島を染め分けて沈もうとする夕日が綺麗に見え、まるで夕日のクルージングに来ているようでした。今は大潮で満月の頃、周防大島と伊予二神島の境の瀬戸を海流が勢いよく流れ、夕日に映えてとても綺麗でした。

 遠くにわが住む双海町が、また青島やかつて20年間も無人島キャンプで訪れた由利島がこれまた夕映えに美しく見えました。相撲を気にしながら、そして夕日も気になりながら出たり入ったりしながら、綺麗な夕日をデジカメに収めました。

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 追伸  伊予灘を通る度に私の目を奪う島があります。それは無人島由利島です。20年間もひょうたん型由利島共和国と名前をつけて、今やれる青春を追い求め続けてきた島なのです。夕日に染まる由利島を見ているといつも心が熱くなるのです。


  「いつ見ても 夕日は心 和ませる 旅の途中で 出会う夕景」

  「島見つつ 消息切れた 人思う あの人今は 元気だろか」

  「デッキより 夕日に染まる 島を見る あの日あの時 昨日のように」

  「ああ今日も いい一日を 過ごしたと 夕日に感謝 両手合わせて」

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○私の心に染みこんでいる海のDNA

 山口県萩漁協女性部から講演依頼があった時には、「午前中の講演なのでこちらへ前泊して下さい」と勧められていましたが、先のことでもあるし前日夕方の予定が入っていたので、日帰りか広島に一泊して早朝新幹線で新山口へ午前8時に到着すれば間に合うはずだと、鷹を食っていました。

 ところが昨晩の松山での会議が長引き、広島へ渡ることが準備の都合上できなくなりました。仕方がないのでしまなみ海道を自家用車でと思って、インターネットヤフーで調べてみると、三津浜発午前3時40分のフェリーだと柳井に6時10分に到着、柳井港駅から山陽本線に乗って8時09分に新山口駅に着くことが分かりました。

 会議が終わって松山から自宅へ帰ったのは10時過ぎでしたが、急いで風呂に入り、支度を済ませて妻が目覚ましをセットして床に就きました。この歳になると目覚ましの世話にならなくても起きれる自信はありますが、失敗をしないようにと妻の配慮でした。

 今日は気温も平年並みに下がり、三津浜までの車も、三津浜からの船も、山陽本線も全て順調でした。電車が到着すると新幹線口に萩支店の宮崎次長さんが出迎えてくれました。早朝に送迎のため萩を出発したものと思われ、頭が下がる思いでした。それでも車内で次長さんと漁業に関するお話を随分して、参考になる話をいっぱい聞かせていただきました。

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(研修会会場はいっぱいの人でした)

 山口県漁業協同組合萩支店の3階ホールには100人ほどの女性部員さんが集まっていて、開会式の後早速私の講演が始まりました。今日の講演のそもそものきっかけは、今年5月20日下関市文化ホールで行われた山口県漁連女性部の総会に記念講演を頼まれて出かけていて、あの話をもう一度聞きたいというアンコールにお応えしての講演となったのです。

 私は以下のことで海と関係が深いのです。

 ①下灘の漁村に生まれ、家は漁家で母は漁協女性部長を6年、父も漁協理事などをしていた。

 ②宇和島水産高校に進学し、18歳の時実習船愛媛丸で珊瑚海へ遠洋航海に3ヶ月余り出かけた。

 ③親父がガンになり帰郷して若吉丸の船長として7年間漁師をした。

 ④役場に入り4年間水産を担当し、荷さばき所や漁村センターを担当して整備した。

 ⑤シーサイド公園を造り、漁協のおばさんたちとじゃこ天などを作って現在に至っている。

 ⑥愛媛大学農学部客員教授として農山漁村の地域活性化論を教えている。

 ⑦今は愛媛海区漁業調整委員をしている。

 ⑧家の横に海の資料館海舟館を設置している。

 ざっと指折り数えただけでもこれほどあり、そんなこんなで、今も漁業に関心があり死ぬまで海のことはライフワークにしたいと思っているのです。ゆえに女性部の皆さんの関心も高く大盛り上がりの中で1時間余りの講演はあっという間に終わりました。宮崎次長さんに新山口まで送ってもらい、岐路に着きました。

 私の心には海のDNAが流れているのでしょうか。


  「友人が 萩日帰りに 感心し 早速メール 俺も返信」

  「暑かった 気温も下がり 長州路 鈍行列車 長閑に走る」

  「ああここが 鳩子の海か 思いつつ 遠く見えるは 姫島あたり」

  「わが体 海の匂いが ぷんぷんと それもそのはず 海で生まれた」

 

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