〇もしも私が〇〇なら・・・・
若い頃、職場の課長さんを見て、「もしも私が課長になったなら」、「こんなことをしたい」と思ったものでした。以来課長になったり、教育長になったり、客員教授ながら大学の先生も経験し、やりたかったことを思いを込めて実践してきました。
「もしも私が〇〇なら・・・・」の中に、縁起でもない「死んだら・・・」という問いかけがあります。私はこれまで祖母や父母、義兄弟姉妹、叔父叔母など身近な人を黄泉の国へ送ってきました。年齢を重ねるほどに自分の「もしも私が死んだなら・・・」という言葉が、現実味を帯びて身近になりつつあることを実感しています。
一昨日姉の夫が82歳で亡くなりました。新型コロナの影響で縮小を余儀なくされた家族葬の通夜・葬儀の段取りを姉に頼まれて手伝いながら、私自身が死んだことを想定して、悲喜こもごもの2~3日を過ごしています。今日は午前8時30分から納棺、10時から葬儀なので、妻と二人で出かけることにしていますが、一度ゆっくり「もしも若松進一が死んだなら・・・」なんて馬鹿げたことを真剣に考えてみたいと思っています。
「もし私 〇〇ならば 何とする 若い頃から 考え巡らせ」
「〇〇に 死んだらという 文字入れる 縁起でもない 妻に怒られ」
「歳重ね そろそろ〇〇 自覚する 身近な人の 死を見ていつも」
「人生は 長いようだが 短いと 最近思う 終わり近づく」