〇親父の命日に飛び込んできた驚きの訃報
昨日は親父の命日と叔母の訃報が重なり、少し沈んだ気持ちになっていた矢先、驚きの訃報が飛び込んできました。長年お付き合いのあった放送作家永六輔さんが亡くなったのです。亡くなったのは7月7日だそうですが、私が検査のため入院した日であったり、マスコミ発表の日が親父の命日だったりと、最後まで何か因縁めいたものを感じる人でした。
数日前、埼玉県寄居町に住む親友黒瀬仙一さんから、NHKテレビ番組アーカイブスで放送された、永六輔さんと私の共演した「にっぽん夕焼け紀行」のDVDを送ってもらった矢先の出来事だけに、青天の霹靂といった感じです。永六輔さんと私の出会いは今から21年前の平成7年に遡ります。私が主宰するフロンティア塾に永六輔さんを呼びたいと思い、唐突にも永六輔さんに「双海町へ来て欲しい」とハガキを出しました。ハガキのやり取りは毎月一回ながら5年にも及びましたが、ハガキのやり取りがご縁でNHKのテレビ番組出演となり、幸い平成13年5月22日に双海町ふれあいの館で開催した40回目のフロンティア塾フィナーレに講師として来てくれたのです。
この話は語り尽くせぬほどのエピソードがあるので、今日は書くことはできませんが、私の木になるカバンの中に入れて全国行脚している、永六輔さんからいただいているハガキは、私のお宝といえるものなのです。クレヨンで画いた太陽の絵と貼った永六輔の千社札、それに「夕日はどこかの朝日」のフレーズには思わず度肝を抜かれました。このことがきっかけで双海町の3月22日春分の日の夕日が、地球の裏側ブラジルリオデジャネイロの朝日であることを知って、インターネットにライブカメラを取り付け、朝日と夕日を同時に見るアイデアを思いつき実行したのも、この一枚のハガキからの始まりでした。朝日=旭、夕日=夕+日の造語漢字を作ったり、夕日の沈む大分県姫島の黒曜石との因果関係を解明したり、私の価値観を根本から変えてくれました。
「上を向いて歩こう」や「遠くへ行きたい」という大ヒット曲の作詞をしたマルチタレント永六輔さんはその生き方がとても魅力的で随分学ばせていただきましたが、私にとって大恩人でもあるのです。晩年はパーキンソン病を患い闘病生活をしていたため、出したハガキの返信は帰って来ませんでしたが、この上は安らかなご冥福を心から祈りしたいと思います。なお徒然に永六輔さんとの出会いや思い出をブログにて書き残しておきたいと思っています。
「永さんの 訃報飛び込み 驚きぬ 在りし日思い、少しジーンと」
「永さんの ハガキカバンに 忍ばせて 全国行脚 今も続ける」
「奇遇かな 親父の命日 訃報聞く 鉄人永さん 病気にゃ勝てぬ」
「新聞の 5面7面 切り抜いて スキャン保存し ブログ転載」