〇国立大洲青少年交流の家40周年記念式典に招かれて
私の記憶が正しければ昭和46年新春早々の1月2日、愛媛県青年団連合会の会長をしていた私の元へ、当時の白石春樹愛媛県知事から一通の祝電をいただきました。「国立大洲市年の家誘致決定」という嬉しい知らせでした。一歩リードされながらも諦めることなく、高知県室戸と誘致合戦を繰り広げていた矢先の朗報だったので、私の喜びは計り知れないほどのものでした。こうした誘致には私たちのような下っ端兵隊が幾ら頑張っても成功することはまずなく、色々な政治家が水面下で動くものですが、振り返れば当時の坂田道太文部大臣の存在を忘れることはできません。
坂田文部大臣が来県し現地を視察するというので、誘致運動の先頭に立っていた青年団では、歓迎の心意気を示そうと横断幕を3本作製し、青年団のバイク野郎に頼み、大臣の行く先々へ横断幕を移動して掲げ、歓待ぶりを遺憾なく発揮したのですが、これにはさすがの大臣も驚いた様子で、後に同行した県会議員からその逸話を聞きました。
私たちは大洲の地が近江聖人中江藤樹のふるさとであることを、教育的風土として売り込みました。中江藤樹の本を読み、「知行合一」という言葉を青年の理想として訴えました。そうした取り組みが功を奏したのか、愛媛県知事の後押しが決めたのかは定かではありませんが、昭和59年の開所式の日あいさつに立った村上清吉大洲市長が、なりふりも構わず号泣した姿を私は忘れることができないのです。
昨日午後2時から式典が行なわれました。私も施設運営委員長としてリボンをつけてもらい、壇上に上がり3人の祝辞の2番目にあいさつをする羽目になりました。前もって祝辞を頼まれたような気もしますが、前日に義妹が急逝しすっかりそのことを忘れてしまっていて、会場へ到着して気がつくお粗末さで、「まあ何とかなるだろう!!」という、いつものような気楽さでアドリブな祝辞となって、失礼をしてしまいました。でも式辞の松岡所長さんも、祝辞の大洲市長さんもそうした裏話には触れていなかったため、まあそれなりの祝辞だったと諦めています。
昨日の式典には祇園太鼓と大洲城鉄砲隊が迫力満点の演技を見せてくれました。祇園太鼓は一二度聞いたことはありますが、広場で披露した鉄砲隊の連射は初めてとあって、耳を劈き腹に堪えるほどの大轟音が白煙を上げながら、周りの山々に木霊する瞬間は、驚きの連続でした。歴史的に価値の高い火縄銃は、わが家の海の資料館海舟館ににも何丁かありますが、「火蓋を切る」という言葉の語源になっている、「火蓋」はどうやら火縄銃の安全装置を取り外すことのようだと、昨日始めて気付きました。
大洲青少年交流の家の坂道を登ると、両側にメタセコイアの木が植えられています。見事な紅葉の時期を迎えたこの木も40年の時の流れの中で、いつの間にか見上がるように成長していますが、私は何度この木を見ながら坂の上の雲を目指したことでしょう。
「40年 前の私は 若かった 青年の家 名前変わりて」
「坂道の 両側紅葉 したメタセ 坂の上の雲 目指して登る」
「思い出は 歳をとっても 蘇る 言葉にすると たどたどしいが」
「この地には 藤樹精神 生きている 知行合一 私の基本」