〇高山社跡(その2)
高山社跡は高山社の創始者・高山長五郎が養蚕法の改良をを行なった高山社発祥の地です。高山家は中世からの旧家でしたが、長五郎は先祖伝来の屋敷を壊して蚕室を建てて研究を行い、試行錯誤の中から「清温育」という優れた養蚕飼育法を確立したのです。長五郎は飼育法をこの場所で指導し、多くの社員・生徒を育てました。また卒業生の中から優秀な者を全国へ養蚕指導員として派遣して清温育を全国に広めたのです。藤岡町に本社を移した後は「高山分教場」として機能しました。(藤岡市教育委員会発行のパンフレットより)
高山社の創始者高山長五郎が生まれたのは文政13年(1830)で、その後18歳で名主となりました。明治6年に高山組を組織し養蚕の指導を行いました。明治19年高山長五郎は56歳でこの世を去りましたが、日本の養蚕に大きな功績を残しています。高山長五郎の清温育とは、蚕の飼育が天の虫と言われるほど当たり外れの大きかった時代に、収穫量の安定と品質の向上を格段に進歩させました。この養蚕法は温度、湿度、空気の流通を調整し、細かい部分まで飼育管理を徹底する指導法です。温度調整は、暑い時期は部屋を開放して温度を下げ、寒い時は火力を用いて部屋を温め、湿度調整は、湿度が高いときは、火力で空気を流通させて乾燥を促し、乾燥している時は窓を閉じて空気流通を断ち、桑葉が乾かないように気を配るのです。また管理は新鮮な桑を与え、盛食期や脱皮後の桑の与え方、脱皮後の桑の与え方など、脱皮時の管理方法についてきめ細かく指導したようです。
今回世界遺産に登録されたのは、富岡製糸場と田島弥平旧宅、荒船風穴、それに今回訪ねた高山社跡を含み絹産業遺産群ですが、長屋門、蚕室などは最近まで人が住んでいて現代建築材が使われ、桑貯蔵庫などを含めた構造物は建築物的な価値よりも、高山社の与えた教育的影響が評価されたようです。登録されてまだ4ヶ月足らずなので、諸施設の改修はこれからといったところのようでした。いつの日か絹輸出で日本が大いに発展する基となった富岡製糸場も訪ねてみたいものです。
「日本の 近代化には 絹なしで 語ることなど 出来ぬ時代が」
「高山社 跡の存在 知らなんだ 行って驚く 日本あちこち」
「いつの日か 富岡製糸 行きたいと 新たなのぞみ またひとつ増え」
「登録に 保存行政 追いつかず そこここミスが 目だって見える」