〇送られてきた詩集「雲のはなし」
2~3日前友人の森原直子さんから一冊の詩集が送られてきました。森原さんとは私がえひめ地域づくり研究会議の代表運営委員をしていた頃、2ヶ月に一度の運営委員会で出会う知的・美的に素敵な方でしたが、私がその職を辞してからは偶然の出会いと年賀状程度で音信が途絶えたかに見えました。ところが私のことをちゃんと覚えてくれていて自著本を贈呈してくれたのです。
私は読書をする時巻末に書かれたあとがきから読む癖があって、今回も失礼ながら本を手にしてまずあとがきを読みました。
「一歳半の孫娘は鏡に向かってはにかむように微笑む。写真の中の自分を指差して、満足げにうなずく。我が家の老犬は、飼い始めた頃、玄関の鏡の前でマーキングをして困った。私たちは、鏡の中の自分をいつ認識するのだろう。私が詩を書く行為は、それに似ている。自分を認識するために、書き続けて半世紀。歳月だけは降り積んでいる。
今回の詩集は、なかなか形にならなかった。息子を亡くして十年、前に進めても進めても、必ず振り出しに戻ってしまう双六ゲームのように、あの日の悲しみに襲われる。自分を見失いそうになりながら、同人誌への寄稿は心のよりどころとしてあったように思う。今、この詩集は「雲のはなし」は、私の後半生のプロローグである、と感じている。
時間をかけて、詩集の編集に関わってくださいました多くの方々に、感謝申し上げます。
森原直子」
直ぐに引き返すような気持ちで目次を拾い読みして、「遭遇」という84ページを開きました。
「深夜 木枯らしが
門扉の横にぶら下がった箒を
揺らしていた
塞ぐことのできない傷口を
容赦なく打つように
甲高い金属音が響いている
小さな寝息をたてながら眠る
赤ん坊だったきみに耳を近付け
何度確かめただろう
拳をかざし
微風のような寝息を感じ
何度 胸をなでおりしたことだろう
今 音もなく眠る
二十五歳になったきみの寝息は
木枯らしにかき消され
聞えてこない
その寝息に
触れることできない
※
何をそんなに急いでいるのだろう
十歳の夏
私は忘れたリコーダーを取りに
ぬかるんだあぜ道を
家に帰る途中だった
大きな楠の木の根方にある祠の前で
見知らぬ少年に出会った
楠の葉群が
膨らんだガス気球のように揺れ
弾むように駆け抜けていた足を止めた
あれは 十歳のきみに違いなかった
そして 未来の街角で
あの子どもの日ように 忽然と
わが子を抱き上げる未来のきみに
出会いたい
誌の前文に小さな文字で「推定 午前二時〇〇分 (急性心機能不全症) 息子の死亡診断書に書き込まれた監察医の文字 枕元に置かれた携帯電話には 十数件の着信履歴が記憶され 応答のない耳元に向かって くり返しメッセージが告げられていた」
心の動きが見事に表現された「遭遇」という詩を読んで凡人の私でもただただ感傷し、言葉が見つかりませんでした。
「先に逝く 息子を思う 胸の内 ただただ感傷 言葉もなくて」
「短いが 故に余韻が 胸を打つ 久方ぶりに 詩人の詩を読む」
「子を思う 母の思いは いかばかり われ父ゆえに 寂しくもあり」
「逝ってから 十年過ぎても 生きている 母の思い出 思い出しつつ」