shin-1さんの日記

〇三年間の空白

 「若松さん帰ってきました」と笑顔で面談したのは、双海町高野川出身の中尾治司さんです。中尾さんは小学校の先生ですがこの3年間オーストリアウィーンの日本人学校の先生として家族とともに赴任し、その役目を終えて無事帰国したのです。昨日帰ったばかりで時差ぼけもあるだと思うのに、律儀にも昨日の夜行われた双海史談会の総会に元気な顔を見せてくれました。

 積もる話もあるのですが総会なので先生を独り占めすることが出来ず、またわが家へはお客さんが来ていて懇親会が始まると早々に引き上げたため、次の機会にとすることにしましたが、その穏やかにして精悍な顔つきは3年前と少しも変わらず、少し頭に白髪が目立つ程度の変化でした。

 中尾さんと同じ年齢で同じ期間の3年間、えひめ地域政策研究センターに出向していた松本宏さんがいます。彼も海外と国内の差こそあれ、八面六臂の活躍で、特にこの一年間は人材育成のため東京で開かれた地域活性化塾に塾生として参加し、様々な経験を積んでこの度出向が解かれ帰って来るのです。彼の書いたレポートには成長の足跡が随所に見え、すっかり逞しくなっています。

 中尾さんが一緒に連れて行った息子さんはまだ会っていませんが、この4月には中学校に入学するようで、時の流れの早さを感じるのです。また中尾さんがオーストリアに行く前教頭だった先生が昇任校長として中尾先生が復帰する学校に帰って来るのも因縁めいているのです。

 中尾さんの実家は魚屋ですが元漁師です。松本さんの実家も元漁師、わが家も元漁師です。中尾さんも松本さんも、私も運命的には漁師になっても可笑しくない家計なのに何故か今の道を選んでいます。宿命は変わりませんが運命に変わることを物語るエピソードのような気がするのです。

 私が教育長をしていた2年間、中尾さんは派遣社会教育主事、松本さんは社会教育主事として教育委員会で一緒に仕事をしました。若さみなぎる彼ら二人に加えた米湊さんから多くのことを学びました。特にパソコンなどは右も左も分からないのに、随分手助けをしてもらった記憶が蘇ってくるのです。その恩恵で下手糞ながら今でもこうしてパソコンを使うことが出来るようになったのです。


 さてこの3年間の空白は私にとってどういう意味があったのでしょう。実は中尾さんと松本さんとはレベルの差こそ大きいものの、密かにこの二人に負けまいと3つの目標を立ててそれなりに努力し、それなりに進化をしてきました。一つは漠然としていますが健康と若さを保つことです。教育長を退職し自由人になって2年が過ぎていました。3年後に会うときには健康と若さを保ち活動せねばと、運動や食事に気を配り、地域づくりの全国大会の実行委員長として何とか成功に導きました。お陰さまですこぶる元気です。二つ目はブログを毎日欠かさず書くことを習慣化することでした。お陰さまでこれもどうにかクリアーすることが出来ました。彼らが別の道で精進している間に36冊のブログ綴りが完成し、人間牧場の書棚にしっかりと並べられているのです。

 三つ目は人間牧場の進化です。緒に就いたばかりだった人間牧場もあれからロケ風呂やツリーハウス、それにかまど小屋も出来、落伍のネタ本も地の書、水の書まで発刊し、3冊目の火の書も今年中には発刊の運びとなる予定です。若松進一というもう一人の自分に、二人の幻影をプレッシャーしながらそれなりに頑張った結果は、二人に対しても胸を張れる成果なのです。

 目標を手に入れるためのプロセスは生きがいです。多分これら三つの目標はこれからも私の生きがいになるものと思われます。とりあえず3年間の空白を総括し、自分で自分を褒めてやろうと思いました。

  「三年は あっという間に 通り過ぎ されど三年 私も進化」

  「少しだけ 気張って生きた 甲斐があり 成果手に入れ これから先も」

  「世の中が 変わるのだから 俺たちも 変わってないと 生きる意味なし」

  「逞しく なった二人に 刺激され これから先も 楽しく生きる」

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