〇母校の閉校式に出席して①
昭和22年4月に愛媛県伊予郡下灘村立下灘中学校として、下灘小学校内で産声を上げた中学校が62年の学校史に幕を閉じることになり、昨日閉校式があって一般卒業生として出席させていただきました。居並ぶ来賓関は埋め尽くされていましたが、一般席はまだ席に余裕があったようで、先輩・同輩・後輩と席を同じくして昔を懐かしみながら在りし日の学校を偲びました。
学校は閉校式を行いましたがこれから先在校生の卒業式や終業式があって、学校を閉じるのは16日後の3月31日ですが、セレモニーには市長さんも見えられ式辞を述べられました。
これまでに3489人の卒業生を世に送り出してきたこの学校は私の母校です。私がこの学校を第13期生として卒業したのは昭和34年のことでした。昭和37年には378人の生徒数を誇ったこの学校も、今では10分の1にも満たない32人に生徒数が減少したようで、今更ながら少子化の怖さをかみしめるのです。市長さんの式辞、議長さんの挨拶、校長先生の挨拶、PTA会長さんの挨拶、生徒代表の挨拶と続いたそれぞれの挨拶には閉校やむなきにいたった経過とこれまでの思い出、それに閉校後への危惧や希望の言葉がちりばめられ、心えぐられるような気持ちで聞きました。多分学校が存続しているならこの学校はただあるだけで、スポットは当たらなかったであろう過去や現在、そいて未来を考えたのですから、正直皮肉な話です。
閉校式後校庭で除幕式がありました。「ここに学校があった」という足跡を残すために建てられましたが、私は旧双海町最後の教育長時代私の発案で、かつて学校があったことを示す富貴小学校跡地、閏住小学校跡地という二つの小さな記念碑を建てました。昨日立ち会った記念碑と合わせるとこの町から既に3校目の学校が消えることになるのです。二見町には0人に満たない翠小学校があり、その将来が心配されていますが、翠小学校を閉校4校目にはしたくないと妙案もないまま強く思いました。
学校の跡地は社会体育や社会教育に使うそうですが、数年前に建設した体育館はさておき、はてさて過疎地の人たちが学校の運動場に草の生えないように足繁く使うこととが出来るかどうか、これも疑問の残るところです。
(記念碑の前で)
学力を保証し、部活を活発にしなければならない中学校の統合は、地域のコミュニティよりも優先するテーマなのでやむを得ませんが、学校の灯が消えるこの厳しい現実を重く受け止めて、これからもこの地域が発展することを祈りながら、折りしも降り出した雨の中を学校に別れを告げました。私の立志の礎となったこの学校を私はこれからもずっとずっと生きている限り忘れないでしょう。ありがとう下灘中学校。
「わが家では 子ども四人を 製造す だのに少子化 不思議でならぬ」
「白い布 除幕の下に 校歌歌碑 カガスの底に 永遠眠る」
「川向こう 早咲き桜 閉校に 合わすが如く ひっそり咲きぬ」
「山の色 少しも過去と 変わらねど 社会の変化 見えぬ形で」
追伸
昨日3月14日の地元紙愛媛新聞9面地方欄にその模様が掲載されていました。