○雪化粧の翠小学校の写真
早いもので2月も中旬になりました。友人の市役所支所に勤める大森さんからいただいたカレンダーの、2月のとっておきの写真は雪景色の翠小学校です。翠小学校は「現役木造校舎では愛媛県下で最も古い学校」などと形容され、すっかり有名になっていますが、この写真を撮ってから後に環境省指定のエコ改修が始まって、学校本館の外観こそ余り変わらないものの、周りの風景は一変しており、特に雪化粧した風景はもう二度と撮れない貴重な写真となりました。
写真はこのように僅か4~5年前でも、貴重な一枚になることだってあるのです。郷土史を作るとき、その中心メンバーになった元役場職員の中嶋さんは常々このことを私たちに教えてくれました。確かに中嶋さんが言うように「今を記録する」ことは当たり前のことゆえ誰もが忘れています。その当たり前な今を記録しておかないから、歴史には空白が生じるのです。
例えばわが家でも、平凡ゆえに今を記録することなどしないのです。それでも祖父母や母などの写真や生き様はこの現代にありながら殆ど残っていないのです。多分今生きている親父の生き様も当たり前ゆえ記録に残すことはないでしょう。親父は田舎の元猟師で何の変哲も意味もないのでしょうが、戦争体験や漁業体験などはもう語る人が殆どいないだけに、とても貴重な生き証人なのです。でも平凡ゆえに話すことも話を聞くことも、ましてやそれを記録することも、私はしていないのです。僅かに家庭菜園で働く親父などを記録しているものの、気がつけば記憶をよみがえらせて語ることさえ出来ない年齢になっているのです。
今は情報化社会となって、古い写真や記録を劣化しないように自分で簡単にデジタル化出来る夢のような時代になりました。私のデジカメやプリンターに内臓されたスキャナーを使えば、下手糞ながら記録として残すことだって出来るのです。退職してから5年近くがあっという間に過ぎました。私が何気なく撮った写真やデジタル処理したデーターは半端な数ではないのです。しかしこれらの写真もこのままほおっておくとまさにゴミと化すでしょう。何年か前、私の友人の青木さんが亡くなりました。彼はまだデジカメなど貴重な時代だったため、一眼レフのカメラで膨大な写真を残してあの世に旅立ちました。残念ながらそれらの貴重な写真は暇の少ない周りの人たちには重過ぎて、結局生かし方も見つからないままダンボールの中で眠っているようです。
私もやはりこのままだと青木さんの二の舞になりそうです。出来ることならその余生をデーター化して残すことを考えなければ、ゴミとなってしまうのです。青木さんの貴重な資料に比べれば私の写真など取るに足らないものでしょうが、民俗学者宮本常一さんの写真だって時を経たからこそ貴重なのです。
「今」は一瞬にして過去となります。「今が過去になる前に」しっかりと記録して記憶に残しておかなければなりません。やらねばならないことがいっぱいあって、うかうか毎日を過ごすことは出来ないと、今朝もブログを書きながら思いました。
「懐かしや たった数年 前なのに 友撮る写真 セピア色見え」
「俺にしか 出来ないことは 何だろう 記録すること それをデジタル」
「大分の 友人私を 記録する 上前はねる 友人おりて」
「時流れ わが人生の アルバムも 何処へ行ったか 押入れ隅に」