shin-1さんの日記

○三宅島への旅ルポ・その②

 今回の三宅島の旅は私にとって44年前の思い出をたどる旅となりました。そうそれは44年前の18歳の時の出来事でした。私の乗った愛媛県立宇和島水産高等学校の実習船愛媛丸は、珊瑚海でのマグロ延縄操業を終え、マグロを腹いっぱいに抱えて帰国の途に着いていました。忘れもしませんが明くる日が成人の日という昭和37年1月14日に、伊豆諸島付近で冬としては珍しい大きな低気圧の洗礼を受け、1時間1ノットという船を立てるのがやっとの状態でした。船は右に左に、縦横に容赦なく揺れ続け、選手部分にある生徒のキャビンはビルの屋上から突き落とされるような衝撃を受け続け、天井に取り付けられた電灯も大きな波によって壊れてしまい、なすすべもなく漂っていました。好天準備をしたデッキを船長さんは命綱を伝ってキャビンに入り、私たち生徒を円陣に座らせ、真ん中に天気図を置き、懐中電灯で照らしながら、この船が低気圧の真ん中いいることを告げ、船長としてマグロを捨てて喫水線を浮かせるか、デッキに詰まれた漁具を捨てて復元力を回復するか、はたまたSOSを出すか迷っているとの説明を私たち生徒にするのです。そして「死ぬ時は海の男らしく死のう」と諭したのです。若干18歳の若者に死ぬかもしれない。死ぬ時は潔く死ね」とは尋常ではなく、生徒の中には泣き叫んだり、船の鉄板壁に頭をぶつける者もいました。そりゃあそうでしょう。いくら極限とはいえ、いくら海の男としてのスパルタ教育を受けてきたとはいえ、死ぬわけにはいかないのです。私の頭には親父やおふくろ、兄弟や友人、そしてふるさとの姿が鮮明に思い出され、涙がとどめもなく流れ「ああ死ぬのか」と思ったものです。

 厳しい大時化の海はその後も続きましたが、低気圧は東に進み私たちの愛媛丸はどうにか窮地を脱出出来たのです。やがて低気圧一過の寒い寒い三角波の立つ海の向こうの水平線上にかすかながら日本の象徴である富士山の姿を見た時の感動は今も忘れることは出来ません。生きて帰れたことの喜びで胸が一杯になり、みんな抱き合って喜びました。

 三宅島行きのかめりあ丸で今通っているこの航路こそ、愛媛丸の基地である神奈川県三浦三崎を目指して悪戦苦闘した場所なのです。三宅村村議会議員佐久間さんが用意してくれた特1の船室は4段ベット、幸い海も穏やかで広い室内はお客も私一人だったので、ベットやソファーに横になりながらも窓を開けて外を眺めたり、興奮のため眠れぬ一夜を過ごしてしまいました。「もしもあの時・・・・」と思うと44年ぶりに訪れた海や今の自分に感謝の祈りを捧げてしまいました。

 穏やかな海を船は早朝5時三宅島に着きました。身支度を整え岸壁に降り立ちましたが、PTA研修会への島外から来たお客様を歓迎しようと、早朝しかもまだ外は真っ暗だというのに、多くの関係者が横断幕を掲げて迎えてくれました。感激でした。

 港は釣り客を迎える宿の関係者でごった返していましたが、佐久間議員さんとも硬い握手をし、私たち一行は船着場近くの宿泊所に落ち着き早速朝食をいただきました。昼食をいただきながら佐久間議員さんと二人の出会いや生い立ちについて私的な話に花を咲かせ、彼のボックスカーに乗って島の見学に出かけました。島は基本的に危険区域への立ち入りは禁止です。役場の特別な許可いただいての視察にはガス発生に備えてガスマスクも用意しなければならない物々しさに、この島の置かれている厳しい現実を肌で感じました。

 山肌の草木が全てガスで枯れている場所を縫うようにして山の上を目指しました。山頂付近の遠くに立ち昇る噴煙の行方を気にしながらの視察です。したがって写真を撮ったりするのも基本的には車の窓ガラスを短い時間開けてでないと危険なのです。

 外が薄暗いため眺望が効かず山頂付近へ登るまで気付かなかったのですが、手渡された島の危険地帯を示す赤い地図の辺りは夜が明けるにつれて一面が茶褐色の世界で、佐久間議員さんの説明を聞きながら、その厳しい姿に思わず立ちすくみました。中腹山頂付近のかつての牧場は跡形もなく消えうせ、所々にその残骸が痛々しく残っていました。昭和天皇御来島の折立たれたお立ち台が朽ち果てて印象的に残っていました。

 雲行きが怪しくなって直ぐに下山しましたが、かつては島の春を彩ったであろう山桜の木々も完全に枯れ無残な姿をさらけていました。この大地に草木が甦るのは何時の日だろうと思いつつ地面を見ましたが、ガスに犯されながらそれでも背丈を短くしてしたたかに生えるススキの姿に感動もしました。

  「半世紀 ぶりにこの海 訪ね来し 感慨深く 夜も眠れず」

  「かめりあの 窓辺に鈍い 航跡を 見ながら三宅 次第に近づく」

  「言葉さえ 出ない光景 立ちすくむ 枯れ木も山の にぎわい言うが」

  「横切りし イタチの姿 二度三度 ガスにも負けず この地に生きて」

 


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