shin-1さんの日記

○佐伯市視察交流研修

 今回の交流研修会は旧友矢野大和さんに相談して実現しました。ご承知のように矢野さんは先の衆議院議員選挙で大分から今をときめく民主党から立候補して、善戦空しく県内の内紛で辛酸をなめた方です。旧宇目町の職員でありながら得意の落語を駆使し観光大使として活躍し、市町村合併で佐伯市に合併後もその職責で存分の活躍をし、佐伯市を広く宣伝していたのです。

 選挙に出馬するため市役所を退職しいますが、彼の笑いをベースにした仕事は講演という形で今も続いているのです。前年島根県益田市で同じステージに上がり元気な姿を見ましたが、この度の交流事業では私の願いを聞き入れてくれて宮明邦夫さんを窓口にするよう紹介してもらい、受け入れとなったのです。臼杵は岡崎事務局長の伝で斉藤さんに当りをつけてもらい事務局の松本さんが万端手配してくれたのです。

 今回私が注目し楽しみにしていたのは、日本の道百選に選ばれている佐伯武家屋敷や国木田独歩もさることながら、宮明邦夫さんはじめ泥谷さんたちが活動うしている県南落語組合の活動でした。大分県内の各市町村や施設などから要請を受け、笑いを振り撒きに自ら出向いていく彼らは全員がアマチュアです。それぞれ仕事の合間を縫って練習に励み、全員がローテーションを組んで出かけるそうです。出張寄席は15年の長きに渡って通産1300回も続いているというから驚きです。

(疋田さんの手品による余興)
(宮明さんの差し入れによる食談、佐伯の地産池消は凄いです)
(宮明さんの「笑いは心のビタミン剤」というお話は味がありました)
(宮明さんの話を聞く愛媛県のメンバー)

 最近落語ならぬ落伍を始めた私としては、彼らの話はとても興味がありました。前夜の交流会は疋田副会長のマジックショーを見、昨日は宿泊したホテルの一室を借りて宮明さんの講演を聞きましたが、アマチュアといいながらプロまがいの方ですから、話はとてもためになりました。でも本当は宮明さんの自慢の話芸落語を聴きたかったのです。私のようにド素人には百聞は一見にしかずですから、少しだけ期待を外された感じがしました。

(ボランティアガイドの高橋さん)
(三の丸城門)
(白壁塀の武家屋敷通り)
(城主毛利家の菩提寺養賢寺)
(国木田独歩記念館)
(汲心亭)

 前日の町中歩きや町屋訪ねと違って佐伯市の文化は城下町文化でした。高橋さんというボランティアガイドさんが城門の前からずっと付きっ切りで案内してくれました。白壁塀が続く道はさすが日本の道百選に選ばれているだけあってどっしりとした佇まいでしたし、毛利藩菩提寺養賢寺までの道沿いには茶屋汲心亭や国木田独歩記念館などもそんなに古くはないが歴史を感じさせてくれました。

 臼杵と佐伯は間に津久見市があるため、二つの歴史は、県外から来た私たちにとっては完全に分断されているように見えました。全く違った歴史や文化の切り口を持っているだけに、今後は県南地域として連携をして欲しいものです。

 帰路の途中再び臼杵を通るため臼杵石仏公園へ立ち寄りました。臼杵の石仏はもう何度も訪ねていますが、自分が成長したのか、あるいは見る目が変わったのか、昔に比べると規模が小さくなったような雰囲気でした。かつては臼杵の石仏といえば九州を代表する観光地として多くの観光バスが押すな押すなで訪ねていました。旅のスタイルが団体から個人や小グループに変わってきていますが、対応の遅れが目立つような気がしました。石仏が華やかな頃臼杵の町中は誰も見向きもせず通りすがっていましたが、今はひょっとしたら逆転現象で潮目の時代ではないかと思うのです。

(石仏公園)



 石仏は理路整然と並んで、庭に咲く豊後梅の香りとともに私たちを出迎えてくれました。しかし公園の裏山は竹林に竹や木が倒木し荒れるに任せていました。仏像は入場料を払ってくれるお宝です。でも景観たる周りはお金など儲けません。でも仏像の背後の景観はもう少し気をつけて保全しないといけないような気がしました。

 時を経てもなお薄化粧した石仏の何と穏やかなお顔をしていることか、人間も見習うべきですね。

  「石仏の 落ちた頭が 元通り 首につながり 仏の姿」

  「手をつなぎ ミーちゃんハーちゃん お祈りす どんな願いを したのだろうか」

  「馬鹿馬鹿し 言って始める 楽語聞く 馬鹿馬鹿しいなら 止めればいいに」

  「落ちた人 見てよかったと 出ぬわれは いつも思いつ 人生終わる」  

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shin-1さんの日記

○懐かしい友との出会い

 昨晩は不思議な、それでいて懐かしい出会いがありました。わが家で今でも使っているマナ板は本匠村の高橋美和さんから貰ったものです。わが家の海の資料館海舟館にに飾っている能面は同じく本匠村の川野義和さんから貰ったものです。本匠村は佐伯市からさらに奥まった番匠川の上流に位置する村でした。今は平成の大合併で佐伯市になりましたが、何年か前まで私が何度か訪ねた懐かしい村なのです。

 私が本匠村に興味を持つようになったのは、大分県が主催する青年指導者研修会が国立大洲青年の家で開催された折、その研修会に参加していた高橋美和さんとその講師で招かれた私が出会ってから始まりました。底抜けに明るい高橋美和さんはその後勤務していた教育委員会の上司であった川野義和さんに私の存在を告げ、成人式の講演に招かれたり、様々な社会教育の研修会に講師として出かけるようになったのです。さらに川野義和さんや高橋美和さんの紹介で南部郡の社会教育関係者に広まり、あっという間に大分県の市町村を制覇する羽目となったのです。

 私は自称変わり者でその地域へ行ったら必ず何がしかのお金を落す事を肝に銘じています。例えば車で行けばその地域のガソリンスタンドでガソリンを入れるとか、お土産を買うなどしていました。高橋美和さんのお家は理容業を営んでいて、サッカーのオフト監督に似た今は亡きお父さんに、村へ行く度に散髪をしてもらっていました。散髪をしながら村の四方山話をするのが楽しみだったのです。さらに美和さんのお母さんが考案した雪ん子寿司は絶品で、今では大分県の人気商品になっていて、随分ご馳走になったものです。

(酒が飲めなくなった私と酒が強くなった川野義和さん)

 一方川野義和さんは私が若い頃と同じように社会教育に熱心に取り組んでいて、村を訪ねる度にご自宅へ泊めてもらいました。あの頃生まれて間もなかった娘さんは既に高校二年生と聞きました。時の流れの早さを感じます。また2年前に亡くなったお父さんが彫った立派な能面をいただいたことがあって、その面を見る度に懐かしさがこみ上げてくるのです。

 昨日の交流会には川野義和さんが参加してくれました。聞けば商工観光課の係長として迫り来る国体や高速道路の延伸などに対応した新しい時代の観光振興に情熱を燃やしているとの事でした。

 昨晩は久しぶりにお会いし懐かしい思い出話を随分しました。愛媛県の私を含めた12人が2次会に繰り出しましたが、河野さんの紹介で「裕ちゃん」という居酒屋に立ち寄りました。川野さんはその夜小倉の駅で行われる物産展に出席するため夜行列車に乗るらしく、飲むほどに酔うほどに仲間たちと楽しいお喋りに話が弾みました。

 途中川野さんの携帯電話で高橋美和さんとつながり、遠い夜道をわざわざお店まで出かけてくれ、笑顔の再会を果たしました。美和さんは3人の子どもの母親として明るく逞しく生きているようで、特に「ごまだし」うどんなどお母さんと一緒に加工にも加わっているようでした。それにしても始めて食べたごまだしうどんの味は絶品でした。

 いつになるか分りませんが、少し暇になったら旧本匠村を訪ねたいと思っています。本匠村からは私の町の慶徳寺へ住職で来られている山口住職さんの存在もこれまた不思議な縁ですし、当時は日本一大きな水車と言われていた本匠村の20メートルを越すお化け水車の存在も記憶の片隅で蘇えってきました。

 こうして自分の人生の端々に深く関わってきた日本全国の地域や人々の存在を思うと、もう一度フィルムを巻き戻してみたい心境になるのです。急激な時代の変化のうねりの中に埋没している思い出は私の大切な宝物なのに・・・・・。

  「美和ちゃんの 笑顔懐かし 指折りて 足らぬ指ほど 疎遠驚き」

  「えっ佐伯? 村の名変わり 戸惑って 礼状書くも 宛先分らず」

  「それぞれに 時を過ごして 出会う人 懐かし人は 既に亡くなり」

  「お互いに 昔のままの 若さにて 思い出話す それは錯覚」

 

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shin-1さんの日記

○感動の朝日に出会いました

 朝4時に起床する長年の癖は旅先でも健在で、大分県佐伯市内のホテルの一室で目を覚ましました。発達した低気圧の影響で昨日から北西の季節風が強く、冬が逆戻りした感じでしたが、昨晩の交流会で「早朝6時20分に出発して、上浦町の朝日を見に行くこと」を約束していたため、身支度を整えてホテルロビーに降りて行きました。ロビーには既に中島の豊田君がいて、まもなく新藤さんと岡崎さんが降りてきて、4人で出発しました。

 この頃は夜明けが随分早くなって、もう東の空は薄明るくなっていました。昨日からの季節風は一向にやむ気配が無く、突風に加え雪までちらつくあいにくの天気です。この分では朝日など拝めないだろうなあと思いつつ、新藤さんの運転する車で、見慣れた光景のように見える海岸沿いの道を20分も走らせると、何年か前に訪れた懐かしい風景が目に飛び込んできました。そうあれは確か上浦町の成人式に招かれ講演に来てこの辺りを確かに通ったのです。これも定かではない記憶ですが、上浦町は海洋牧場構想が既に推進されていて、沖合いに浮かぶブイから定期的な時間に餌が投与され、鯛等の魚を囲いもせずに餌付けする日本で初めての試みがされていました。懐かしいそのブイも今は公園の隅に記念品的に設置されて、当時を物語っているようでした。

 昨晩は当時上浦町の教育委員会にいた岡崎税さんと菅正晴さんがわざわざ交流会に参加してくれ、10数年ぶりの再会を果たしたのです。彼らも合併して今は佐伯市役所の職員となって立派な活躍をしていましたが、飲むほどに酔うほどにボルテージが上がり、私の夕日に対抗して上浦町の夫婦岩に昇る朝日も日本一だと自慢しあったのです。それならその自慢の朝日を見ようという話になって出かけたという訳です。

 今朝の日の出の時刻は6時26分だそうで、35分頃現地に着いたのですが岡崎さんは既に見学スポット付近に到着して私たち一行を待っていてくれていました。相次いで菅さんも現れ寒さの中で自慢の日の出を待ちました。スポットとなる橋の上には誰が書いたのかまるで落書きのように数字が書かれていて、2月24日頃のポイントが容易に予想できました。

(しめ縄の真ん中に昇り始めた朝日)
(滅多に尾を引かない朝日への黄金の道)
(夫岩にまるでローソクの灯火のように光朝日)

 朝日が昇るであろう方向には黒い雲がまるで雪すだれのように立ち込めていましたが、水平線付近はオレンジ色が刻々と濃くなって、やがて朝日が昇り始めたのです。私たち一行は予期せぬ日の出に歓声を上げながら盛んにデジカメのシャッターを押し続けました。凄いです。岡崎さんも菅さんも今まで生きてきて一番美しい朝日だと自慢するほど、大きくて立派な朝日が夫婦岩に張り巡らされた大しめ縄の真ん中にスッポリ入って、じわじわと登ってゆきました。私は思わず太陽に向かって手を合わせました。岡崎さんも愛媛の仲間もそんな仕草をしているように見えました。あれほどきつかった北風が一瞬止んだようになり朝日の真赤な帯が見えました。

 まるで天体ショーを見ているような錯覚から我に返った時、太陽は上に垂れ込めた雲の中へ姿を消して行きました。

(冬の海にシルエットを映す夫婦岩戸大しめ縄)

 私たちは道沿いに止めてあった車に乗り込み東雲中学校の裏手に出て夫婦岩の近くまでやって来ました。夫婦岩にかかった大しめ縄を見るためです。300人もの人がまる1日かかってつくり上げて海上の夫婦岩に橋渡す大しめ縄の話を二人から聞きながら、思いを馳せていました。

 菅さんは久しぶりに会った私のために奥さんが早起きをして作ってくれたチーズケーキをお土産にくれました。涙が出るくらい嬉しい出来事でした。大事小事に持ち帰ったチーズケーキを今晩妻に渡し、菅さんのこと、岡崎さんのことを話しながら少しだけ食べました。残りは孫たちにおすそ分けする予定です。

 旅先で思いがけず出会った旧友たちとの心温まる出会いは、私の長い人生の大きな大きな宝物だとあらためて実感したのです。

 感動の心で出会った上浦町の朝日はやがて今晩は双海の夕日になったに違いありません。多分これからもそうなることでしょうが、夕日を見る度に上浦町の朝日やそれにつながる岡崎さん、菅さんの事を思い出すことでしょう。岡崎さん、菅さん美しい日本一の朝日を見せてもらってありがとう。早起きは三文の得でした。

  「夕日より 朝日が一番 自慢する 友の顔立て 今日は負けふり」

  「日本一 思わずかけたい 掛け声を じっと堪えて 手合わせ拝む」

  「この朝日 今夕双海の 夕日なる 不思議なことよ 天動説は」

  「夕日見る 度に思いを 上浦に 馳せて見るだろ それ程感激」



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shin-1さんの日記

○今日は海を渡って海外旅行?

 私が代表を務めるえひめ地域づくり研究会議では年に1回修学旅行のような研修を行って、県外の方々と交流を深めています。そもそものきっかけは西瀬戸交流事業や豊予海峡交流事業などの助成事業があって、それに便乗すれば安上がりな交流が出来ると悪乗りしたのです。でも結果的にはこの事業を通して島根県、山口県、福岡県、大分県と領域を広げて深い交流になったのですから嬉しい限りです。

 豊予海峡圏地域づくり交流事業と銘打った今回の目的地は大分県臼杵・佐伯です。大分といえば由布院や黒川温泉が地域づくりの先進事例として注目を集め、大分県の南部に位置する臼杵や佐伯は高速道路の遅れからどちらかというと私たちの視界の外にありましたが、今回の研修を通じてむしろこれからは臼杵や佐伯が面白いと再認識しました。

(大時化の豊予海峡)
(大型豪華客船フェリー)

(船内のエントランスホールはまるでホテルのようです)

 今回の研修には年度末の早朝出発にもかかわらず12名が参加をしました。それぞれの地域から八幡浜に集結し、突風吹き荒れる豊予海峡をフェリーで渡りました。昨年渡った三崎~佐賀関ルートは強風高波のため欠航と聞き、強運を喜びましたが、大型フェリーといいながら豊予海峡は大荒れで外洋性の強い場所では少しの間揺れましたが、全員船酔いもなく無事臼杵の港に到着しました。丁度10日前に宮崎へ行く途中夜間ながら立ち寄った場所なので何処か馴れた感じがしました。

(一番最初に目についた図書館前の広場から見える臼杵城跡)

 午前中は臼杵市立図書館で開かれている第5回まちづくりセミナーに参加しました。臼杵には臼杵歴史景観を守る会、臼杵デザイン会議、臼杵伝統建築研究会、うすき竹宵、臼杵ツーリズム研究会、ふるさと風の映画学校実行委員会などが活動しており、佐賀大学準教授の三島先生の司会で議論が行われている最中でした。

(門構えの立派な市立図書館)

(全国建築士連合会まちづくりセミナー)
 その後ポルト蔵という蔵を利用したレストランで食事をとった後臼杵歴史景観を守る会斉藤会長さんたちの案内で講義を聞きながらまち歩きしました。何年か前に来た時とは随分違ったまちづくりの姿に感嘆しながら、関わって来られた人々の思いと苦労を垣間見ました。

(お昼ご飯に出されたポルト蔵の料理は郷土色豊でした)

 カメラ散歩をしてみました。

(最初に見学した古民家、庭の金木犀の古木や裏庭の石垣にに目を見張りました)
(コンクリートもこのように木で隠せば町並みや景観にマッチする工夫を凝らした一品です)
(高台の民家から見える臼杵の町並み)
(古民家を再生した事例見学、中二階に改造して素敵でした)
(私の理想とする書斎がありました。学校の先生らしく道具類に凝っていました。窓越しの風景も見事でした)
(熱っぽく語る斉藤さんの話に苦労を垣間見ました)
(蔵を利用した紙雛の展示、趣きがあります)

 臼杵の町は城下町だけあって商家も多く、奥行きの深い趣きを堪能させてもらいました。今度はゆっくり独り歩きをしたいものです。

  「そこここに 苦労の跡を 垣間見る 誰か動かば 町は残らず」

  「友人の 紹介あれば こそ見える そこここ訪ね 感嘆しきり」

  「今もなお 消え行く運命 引き戻し 必死に生きる 人たちありて」

  「蔵の中 先人たちが 生きてきた 暮しの重み 空気で感じ」

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shin-1さんの日記

○祝電

 結婚式の司会を537組もしてる私は、その都度結婚する人に送られてくる気の遠くなるような数の祝電を、偉い順により出して列席者の前で紹介したものです。ですから祝電と名の付くものはそんなに深い意味もなく感じていました。私自身が祝電や弔電を打ったのはもう何年も前の出来事で、いつ誰に打ったかさえも覚えていないのです。ところがこの1週間、私の元へ祝電が舞い込み始めました。最初は「これって間違いじゃないの?」と思ったほどです。というのも同じ町内にする人に私と同姓同名の人がいるのです。その人は私の従兄弟なのですが「若松新一」と書いて「わかまつしんかず」と呼ぶのです。知らない人は「若松進一」の間違いだと勝手に思い込んだり、「若松新一=若松進一」と思ったりで、特に年賀状や宅配便が誤配達されて困ったことが何度かありました。もっとも良く間違えられるのは若松新一さんの方で、しょっちゅうだそうです。

 私への祝電は今日までで8通となりました。県会議長さんや県会議員さん、生協の理事長さん、農協の組合長さん、個人など肩書きは様々ですが有難く拝受しました。本来なら御礼の電話をかけなければならないのでしょうが、少し落ち着いたらお礼のハガキでも書こうと思っている次第です。

 私に祝電をいただいたのは、前にもブログに書いた県政発足記念日の表彰なのです。県民でありながらそのことすら知らなかったのですから恥かしい話です。愛媛新聞に載った記事によると、愛媛県は1873年2月20日に太政官布告で発足、百年目の1973年に2月20日を県政記念日にしたそうです。表彰は教育文化、地方自治、生活環境、社会福祉、保健衛生、商工労働観光、農林水産、建設、伝統芸能の部門別に5人程度が選ばれていました。どういう訳か私は生活環境部門で、まちづくりやコミュニティだと表彰状に書いてありました。

 それにしても私の受賞をこんなにも祝福してくれる人がいるなんて、そのことの方が感激です。お祝いの電話やメールをあわせると数限りないほどで、今一度その重みを噛みしめました。

 祝電が届いて驚いたのは私だけではありません。在宅時に受け取った妻は「あなたにこんなに祝電をいただくなんて」と目をパチクリさせていました。

 メール万能な時代になって祝電が色あせた感じがしますが、それでも郵便局員さんが一つ一つ丁寧に家まで運んでくれる電報はまた違った味があります。良く昔の映画に出てくる「ハハキトクスグカエレ」などとカタカナで書いた電報を読むシーンは、やはり臨場感溢れるものなのです。

 私は愛媛県立宇和島水産高校の卒業生です。初代の実習船愛媛丸に乗って珊瑚海まで遠洋航海をしましたが、正月を洋上で迎えるため、「遥か南十字星輝く洋上からハッピーニューイヤー」などと、格好をつけて無線局長さんにお願いしモールス信号で打電電報を打ったことが懐かしく思い出されました。受け取った友人や家族は一応に驚き、友人は大切な宝物として保管してくれていたのを、先日見せてもらいました。

 人の思いのこもった祝電はもう貰うことはないでしょう。ですから私の友人と同じようにいただいた祝電を大切に保管して宝物にしたいと思いました。

  「えっ俺に 何で祝電? くれるのか 最初驚き 今も驚き」

  「祝電は 人のものだと 思ってた いただく人の 顔が浮かんで」

  「新聞は 偉いもんだね そこここで 私の活字 拾い読みして」

  「もう二度と 表彰などは あるまいと 思ってただけに 驚きました」  

  


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shin-1さんの日記

○菜の花が咲きました

 昨日は人間牧場へ行った帰りに、余りの美しさに見とれて閏住の菜の花畑へ立ち寄りました。昨日あたりからまだ寒いものの少し外気温度が和らいで、春の兆しを感じるようになりました。そのせいでしょうか家族連れや夫婦連れ、友だち連れなどがひっきりなしに菜の花畑へやって来て花見を楽しんでいるようです。

 菜の花畑の近くに小さな「くじら」というお店があります。じつはこのお店は私の妹のお店なのです。「瞬きすると通り過ぎてしまう」と笑い話のネタにしてる小さな店は妹みゆきと妹の同級生の通称「チーちゃん」という中年の可愛い?女性二人で営業しています。開業してもう10年近くになるのですが、赤字で首が回らないこともなく、大儲けをするでもなく細々とやっています。


 私は人間牧場へ行く度このお店に立ち寄っては取り留めのない四方山話に花を咲かせるのです。時にはシーサイド公園で商売をした経験を話してやったりしますが、やはり兄弟姉妹はいいもので、私の話にメモを取ったりしながら熱心に話しを聞いてくれるのです。

 妹の話によると今年の冬はことの他寒く、水仙も菜の花も遅れ気味で、客の動きがいまいちだというのです。このお店のように、車の通行や花の咲き具合、それに土日の天候に左右される所は自分達の努力だけではいかんともし難たい幾つもの外部要件が有るようです。

 国の発表によると景気は史上最も長い好景気だといっていますが、地方の景気などはそれとはまったく正反対で、公共事業の減少がもろに響き、市町村合併が追い討ちをかけて地域を疲弊させているのです。私たちの町でも10社を上回っていた土木業者も合い次いで倒産し、下灘地区にあった4社は全て倒産の憂き目に合いましたし、農林漁業も先行きが見えてこず、原油の高騰でハウスみかんを断念する農家、漁船で出漁しても重油が高く引き合いにならない漁家など、水面下では様々な苦悩が漂っているのです。

 早いもので合併して間もなく3年が過ぎようとしています。少子化で学校の統合など地域社会が縮小傾向にある中で、高齢化を反映して高齢者施設だけは拡大の傾向にあります。何がどうなっているのか、何がどうなろうとしているのか、混沌とした時代の中で行政サービスは次第に遠のいていると実感しつつも、税金などは相変わらず高いと実感しています。

 それでも、私たちが始めた菜の花がもう20年近くもこうして地域の人の熱意で咲き続け、多くの人が訪れてくれ、いささかなりとも地域のイメージアップや経済の活性化に役立っているのですから素直に喜ぶべきでしょう。菜の花は他の花に比べどちらかというと手間のかからない花です。植える前の草刈りや野焼きは大変ですが、その後は雑草取りもなく約100日間咲き続けるのです。私も長い間花作りに関わってきましたが、これほど人をひきつける優秀な花は見たことも聞いたこともありません。ましてや早春の春待ち花として人々の心に温かい希望を与えてくれるのです。

 妹のお店はコバンザメ商法で菜の花に随分助けられています。この菜の花に感謝しながらせめて笑顔の花を沢山咲かせて共存共栄の道を進んで欲しいと願っています。

  「妹の お店の近く 咲く花は 菜の花ですよ いやコバンザメ」

  「東京じゃ 景気がいいと いうけれど 地方じゃ逆で 不景気風吹く」

  「菜の花に 負けないだけの 笑顔売れ 妹いつも 笑顔絶やさず」

  「チーちゃんの 笑顔看板 小さ店 寄る度元気 貰って帰る」 

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○心友・深友・信友・そして親友

 私には色々な友人がいますが、中でも今日の見出しに掲げたような心の友(心友)、深い絆の友(深友)、信じあえる友(信友)など、変換ミスではないかと思える程幾つかの表現をしても足りないほどの親友が、人間牧場へやってきました。

今日は天気も良く、夕方から所用で出かける以外はさした用事もないので、思い切って人間牧場へ農作業に出かけました。妻に弁当を頼んだのですがあいにく今日はお大師様のお接待日なので昼でないと赤飯が間に合わず、ご飯も玄米のため弁当には不向きとのことで、買い置きのパンを2個とお茶、それに果物を袋に詰めてもらい田舎のオープンカーに乗って9キロの道程を走りました。機能までの寒さや風も治まって、今日は絶好の日和で気温も久しぶりに10度近くまで上がったようで、日向はポカポカ陽気です。

 こんな日は決まって外出先へ電話が入るので、予定表と携帯電話は欠かすことが出来ないと思い持参したのは良かったのですが、次から次へと電話がかかりその都度草刈機を止めねばならず、作業にならないため、草刈り作業を諦めて梅畑の草削りをする事にしました。一番下の畑はそんなに広い場所ではないのですが、地堀鍬で草の根元を掘り起こしたり、苦汁菜の根株を沢山掘り起こし作業が随分はかどりました。

 昼になった頃隣町の旧友菊地さんから電話が入り「病院へ定期健診に行ったが早く終わったので人間牧場を訪ねたい」というのです。約束を下灘コミュニティセンターまえ13時20分と設定し、菊地さんを迎えるまでの間、寸暇を惜しんで周辺のカズラを剪定ばさみで着る作業をしました。

(ダンディな親友菊地邦求さん)

 やがて菊地さんは時間通りに現れ、私の車で下浜からの狭い道を登りました。そして人間牧場の施設を案内しながら色々な話に花が咲きました。菊地さんとは青年時代から深いご縁があって、青年団・公民館など様々な分野で若い頃から付き合ってきた間柄なのです。青年団長も、NHK青年の主張県代表も同じような道を辿り公民館では愛媛県公民館連絡協議会の主事部会の正副部会長としてしのぎを削りました。特に公民館主事時代は「煙仲間」という主事集団を発足させてお互い自分の生涯を公民館活動に捧げたいと、夢を語り合ったものです。その後お互いが職場異動して出会う機会は少なくなりましたが、いつしかつかず離れずお互いがお互いを心配しあう使い間柄になっていました。私は3年前、彼は一年前にリタイアし、再び出会いの場が広がって、今年に入るとシンポジウムなどで盛んに出会うようになって、旧交を温めているのです。私も菊地さんも中途採用で出世とは無縁の世界で生きてきたため、よく上司とひと悶着をやりました。それは仕事に命を掛けた人間のやむにやまれぬ行動だったと、今でもその当時の行動を誇りに思うのです。

 お互い夜を徹して酒を飲みながら夢を語ったものです。お互い当時を振り返ってもよく仕事をしたと思うほど理想に燃えて仕事をしました。またそれゆえに成果も上げたと自負しています。お陰で体調を崩し今では二人とも酒に縁のない暮しを余儀なくされていますが、もし酒でも飲めたらどんなにか武勇伝を語るのにと悔しい気もしますがまあ済んだこととして諦めなければなりません。

 これからの生き方について少し意見を戦わせました。昔のような対立した意見より同感同感と相槌を打つ話が多かったのですが、これからは自分が理想とした夢の実現に向けてお互いいい人生を送りたいものです。菊地さん叉出会いましょう。

  「あの頃は いいつつ話 花が咲く 過ぎてしまえば いいことばかり」

  「いつの間に 俺たち初老 仲間入り 白髪が目立つ 目線の頭」

  「お互いに 酒を飲めない 半端者 素面で話す まともな話」

  「親友を 漢字で書くと 変換の ミスだと言われ 駄洒落通じず」 

 

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○二人の青年

 昨日の夕方人間牧場に松下政経塾の塾生である青年二人がやって来ました。一人はもうご存知の希望の島フォーラムを企画した兼頭さんですが、もう一人は島根県横田出身の塔村俊介さんです。兼頭さんと出会ってからもう一年余りが過ぎましたが、彼に出会ってからやたらと松下政経塾が気になり始め、松下政経塾生や卒業生によく出会うようになりました。例えばよく出会う新居浜出身の衆議院議員小野晋也さんは松下政経塾の第1期生で、政治家としても頑張っていますがむしろ思想家として多くのことを学ばせてもらっています。先日上島町弓削島で開催した希望の島フォーラムで貰った松下政経塾のパンフレットに次のような紹介文が載っていました。

 人間を磨き志を磨く道場といわれる松下政経塾は、松下電器産業の創業者である塾主松下幸之助が、自らの経験と直感から、数十年前に、「日本は益々混迷の度を深めていく」と今日の日本の危機的状況を予見し、この難局を打開するためには「新しい国家経営を推進していく指導者の育成が何としても必要であると思い、私財70億を投じ、1979年財団法人松下政経塾を設立しています。

 塾生は全寮制で、寝食をともにしながら3年間研修を行なうものの常勤の講師はいなく、理想の国家経営はどうあるべきか各自仮説を立て現場の体験を積み重ねながら自得してゆく、「自習自得」「現地現場」「切磋琢磨」などを研修の基本方針としています。そして卒塾後は理想の実現に向け自らの道を切り開いて行こうとしています。

 自習自得、現地現場、切磋琢磨の他にも、徳知体三位一体や万差億別という研修方針があるようです。徳知体三位一体とは「時代を牽引する指導者にはパラダイムや哲学を構築できる感性、深い洞察力、歴史的かつ世界的視野が必要であり、同時に力強く健全な肉体も必要である。しかし全ての前提となるものは、真に人々の幸せを願い、行動できる人間性である。よって政経塾では徳育に重点を置き、知育、体育を三位一体で進めていく」といっています。

 また万差億別では「人間は一人ひとり違った顔を持ち、違った天分を持っている。いってみれば千差万別、さらには万差億別の存在だ。そしてその天分を生かし発展させることこそが、人間の幸福と成功につながるはずだ」と述べています。

 兼頭さんはコミュニティビジネスを目指し、塔村さんは政治を目指しているそうですが、いずれの若者も未来に向って希望の灯を掲げ研修していて、目の輝きは政経塾の目指す人間と志を磨く道場であることを実感しました。その二人が人間牧場にやって来たのですからこれ以上の場所はないと思いました。人は様々な場所で様々な志を磨くものです。人間牧場のウッドデッキに立って黄砂けむる海を眺めていると、私はまるで坂本龍馬になったような気持ちになるのです。政経塾を作った松下幸之助の思いも人間牧場を作った私もその根底に流れている思いは一緒だと思いました。私には残念ながら70億円の私財などあろうはずはなく月とスッポンほどの差がありますが、思いや志だけは負けないと思いました。

 始めて兼頭さんが人間牧場に訪ねてきてから早いもので早1年余りが過ぎました。その間兼頭さんには跡継ぎの息子も生まれ、彼ももうこの3月で卒塾です。知らない間に時代は流れているのです。

  「志 持った若者 二人して 牧場訪ね しばし談笑」

  「松下も 私も同じ心だが 札束もなし わが牧場は」

  「牧場の デッキに立ちて 海を見る 竜馬のような 心になりて」

  「この黄砂 はるばる海を 越えてきた 自然は偉大 人間愚か」



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○県政発足記念表彰に浴す

 数日前、県庁から一本の電話がかかってきました。何でも私を県政発足記念日に表彰するというのです。電話のことゆえ何で表彰を受けるのか詳しいことも分らず、受賞を承諾しました。一昨年金融広報の功労者として県知事表彰を受け、昨年は関奉仕財団から教育文化賞を受けており、相次ぐ表彰に戸惑いながらも、第一線は退いてはいるもののそろそろ二線から身を引く日が来たなと認識した次第です。それでも日ごろの忙しさにかまけて受賞の事などすっかり忘れていましたら、数日前から横田県議会議長さんや地元の泉県議さん、それに何かと目に掛けていただいている帽子県議さんからご丁重な祝電が舞い込み、また県庁の知事友人からお祝いのメールや電話が舞い込み、面映い感じがしていました。

(表彰の前のくつろいだ私、これらの写真は篠原係長が撮影してくれました)

 今年は妻も15年にわたって務めた民生児童委員を退任したため受賞し、ダブルでの受賞となりました。

 「お父さん、年齢的にもう最後の受賞だから背広のいいのを着て行きなさい」とクリーニングの出来た背広と息子が買ってくれた革靴を用意してくれました。「そんなことする必要はなく普段着でいい」といいながら、今日ばかりは妻の言いなりになろうと、ネクタイもワイシャツも妻の用意したものを全て着用し集合時間の10時に県民活動推進課へ出向きました。大森課長さんや担当の篠原係長さんが丁寧に対応していただきました。

(式辞を述べる加戸愛媛県知事)

 表彰は各分野5人くらいで40人余りが県庁3階正調の間に案内され、国歌斉唱の後加戸知事さんが式辞を述べ、各分野ごとに名前が呼ばれて前へ進み、分野の代表に表彰状が渡されました。私はまちづくりとコミュニティ部門での表彰で、そのことが詳しく表彰状に書き込まれていました。受賞者の中には私が愛媛県青年団連合会の会長をしていた時、副会長をしていた藤井さんもいたり、また長男息子の勤める設計事務所の社長さんも建築関係で受賞者に名を連ねるなど、何人か知っている顔ぶれがいて声を掛け合いました。最後に祝電をいただいた横田県議会議長さんが祝辞を述べて式典は終了しました。

(代表が受賞を受ける席に並ぶ私)
(祝辞を述べる横田愛媛県議会議長さん)

 その後県庁本館前で記念写真の撮影がありました。顔見知りである松原写真館の大将が撮影するなど、和気藹々でした。妻が言うように年齢的にもう受賞など縁がないと思っていただけに、今回の受賞は素直に喜ぶべきかもしれませんが、受賞者を代表して謝辞を述べた井関さんの言葉を借りれば、「これを励みにこれからも県政の発展に尽くさなければならない」のだと、決意を新たにしなければならないのです。

(県庁本館前での記念写真撮影のスナップ)

 これまで、私がきっかけで貰った賞は双海町時代には大臣賞3回など多方面にわたっています。私自身も様々な栄誉に浴しましたが、観光カリスマ百選、地域活性化伝道師、地域産業おこしに燃える人などは、今もその冠のお陰で様々な分野での活動が尾を引いています。

 今日の受賞者の顔ぶれを見ると私はまだ若い方の部類でした。故にまだ残りの人生を人のために出来る幸せを追及して行きたいと決意を新たにしました。県庁を出る時、今までの寒さとは少し違った春の息吹を感じました。私ももう一度春のような気持ちになりたいものです。

  「えっ表彰 思いもかけぬ 受賞にて 戸惑いつつも 頭を垂れて」

  「表彰は 終りではなく 初めなり これを励みに 謝辞が聞こえる」

  「副賞は 砥部焼き白磁 壷ひとつ 割らさぬように そっと大事に」

  「ご馳走を 作って祝う 二人膳 心尽くしの 手料理並ぶ」

 


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