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〇三男の転勤に伴う移転の手伝い(その2)

 東温市の桜三里を11号線で下ると、間もなく国道に西条市という看板が見えてきます。ここは旧丹原町ですが西条市と平成の大合併で合併したため、西条市の圏域がこのように広くなったのかと実感しました。昔は賑わった小松のりんりんパークもすっかり様変わりをしていて、横目にしまなみ海道や旧小松町役場を見ながら加茂川を渡り、西条の中心部へ入りました。川岸の向うには満開を迎えた桜が、石鎚連山を背景に美しく映えて見えました。若い頃友人の誘いで、西条のだんじり祭りを見に来たことを懐かしく思い出し、妻にその模様を話してやりましたが、息子の転居もあってそのだんじり祭りを、妻にも見せてやりたいと思うのですが、息子は警察官のためだんじり祭りは警備に忙しく、多分それどころではないようです。

 息子が新しく居を構えようとしているマンションは西条市飯岡で、到着すると大家さん夫婦が迎えてくれました。聞けばその方は職場の上司になる人の持ち家だそうで、転勤あいさつの折すんなり入居を決めたようです。2階建て10棟の一番入口の部屋でした。早速荷紐を解き荷物を下ろし始めましたが、大家さんも手伝ってくれて、多くの荷物を順番に部屋へ運び入れました。部屋は和室もあって3部屋で、一人住まいには広過ぎるほど充実していていました。昼を少し過ぎていましたが運び入れや片づけを続行し、何とか午後1時前に移転を完了しました。妻は整理整頓をしてやりたいような雰囲気でしたが、息子はぼちぼち片付けるからと断り、大家さんにあいさつしてマンションを出ました。

 近所の和食レストランに入り、少し遅めの昼食を食べました。注文したのは引越しそばならぬ、引越しうどんのついた寿司定食メニューでしたが、正月以来久しぶりに息子と水入らずの食事をしました。息子は花粉症のようで鼻をシュンシュンさせていて、妻はそのことや日ごろの食事のことが気になるようで、幾つになっても親の気苦労の種は尽きぬようです。
 再び元来た道を引き返し、伊予市の明け渡すマンションに戻り、3人で最後の掃除をしました。窓や水周り、床等を少し丁寧に拭き掃除をして、ごみをトラックに積み込み作業を終えました。息子はその後ビルを管理している人に立ち会ってもらい、引渡しをしたそうですが、目立った汚れもなく敷金のいくらかを戻してもらったようでした。ほこりに汚れたままでは家に帰れないため、ごみを積んだまま近くの温泉まで走り、持っていっていた衣服に着替え、綺麗さっぱりしてわが家へ帰りました。新任地での息子の今後の活躍を祈っています。

  「平成の 合併により トンネルを 抜けるとすぐに 目指す西条」

  「携帯で 今はどこかと 尋ねられ 西条言うと 斎場間違い」

  「満開の 桜見ながら 西条へ 今年の桜 思った以上」

  「ごみ積んで 温泉でかけ 汗流す 普通はしない 今日はへっちゃら」 

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アルコールゼロのビール

アルコールゼロのビール

〇アルコールゼロのビールを飲む

 あれ程1年365日のべつまくなく飲んでいたお酒を、胆のう摘出手術後の体調が思わしくなく、体重が一ヶ月で13キロ激減したため、禁酒の誓いを立てて止めることにしました。酒飲みなら誰もが一度や二度は経験するものの、中々守れないのが禁酒の誓いですから、誓いを立てた私自身も私の周りの人も、「そのうち体調が戻ったらまた酒を飲むだろう」と思っていました。ところが私の禁酒の誓いは1年・3年・5年・10年と続き、何と何と13年にも及んで、私の体内からアルコールという成分は完全に消えてしまったのです。そのお陰かどうかは分りませんが、多い時には68キロもあった体重も、手術後減った55キロを維持し続けて、まあそれなりの健康な体調を維持し続けているのです。

 私がアルコールを断った頃は、テレビを見れば大好きだったビールの宣伝がやたらと目に付き、飲み友達からは今でも呑み会の誘いがありますが、一次会・二次会ともウーロン茶一辺倒の付き合いを続けているのですから、有森裕子さん流に言えば、「自分で自分を誉めてやりたい」心境になるのです。
 昨夜9時過ぎ、一緒にテレビを見ていた妻が、「お父さんビールを飲まない!」と、冷蔵庫から500mmlの冷えた缶ビールを運んできました。「えっ?」と一瞬思いましたが、何とこのビールは「アルコールゼロ」のビールでした。かつて私がビールを飲む時愛用していた、細身のグラスに並々と注いだビールは、色といい泡といい本物と見まがうほど、まったく本物のビール一緒で、13年も前の記憶に残るビールの味でした。

 わが家では息子が時々缶ビールを一本程度晩酌に飲むくらいで、時折帰って来る息子たちも、車を運転することを理由に、酒類にはまったく手を出そうとしませんし、年に1~2度訪ねて来る娘婿が缶ビールを飲む程度で、日本酒の晩酌を毎晩欠かさない隠居暮らしの親父を除けば、酒には縁のない家庭となっているのです。アルコールゼロのビールは、妻がそんな娘婿や息子たちのために、買い置きしたもののようでしたが、飲んだ印象は本物のビールとまったく同じで、飲んだ妻も私も本当に酔ったような気分になって、何時になく饒舌になったから不思議です。
 私は多分、もう死ぬまでアルコールを飲み始めることはないでしょうが、惜しむらくはアルコールを飲まなくなったため淡白になった、友人との付き合いが減ったことです。「酒を飲まないとまちづくりは語れない」と酒を飲む理由にして豪語していた私が、「酒を生ないこと語れないよううじゃまちづくりではない」などと身勝手ことを言いながら、今夕も誘われている花見の宴を、お茶で過ごそうと思っています。

  「酒のない 国へ行きたや 二日酔い などと戯言 言ってた昔」

  「酒止めて 13年の 春が来た 私の体内 アルコールゼロ」

  「酒飲まにゃ 語れないのは おかしいと 今では逆の 理論を吐いて」

  「アルコール ゼロと書かれた ビール飲む 妻と二人で 酔った気分に」

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〇孫の発熱の看病

 昨日の夕方双海史談会の例会に出席して、午後9時ころ自宅に帰りました。近頃NHKテレビ「山田洋次監督が選んだ映画100」を、妻がダビングしているのを寝る前二人で、おしゃべりや笑いながら見るのが日課になっていて、昨日も佐野周二と原節子主演の「花嫁乾杯」という映画を鑑賞しました。映画が佳境に入った頃、松山に住んでいる娘から電話が入り、「子どもの尚樹に熱が出て、明日は仕事があるので、看病を兼ねた留守番に来てくれないか」と連絡がありました。妻は仕事だし私も所用がありましたが、孫のためならと私がその役を買って出ることにしました。

 今朝はブログを1本書いた後、少し早めに朝食を取り、伊予インターから松山インターまで200円の通行料を払って出かけ、8時前には道後にある娘のマンションに到着しました。尚樹は熱があるのでベッドで寝ていましたが、娘婿は勤め先の大学で会議があり、孫朋樹も学校の離任式があるというので、娘に続いてみんなマンションを出て行きました。机の上に置いた娘の注意書きに沿って、まず尚樹を起こして着替えさせ、吉田小児科へ娘の車のチャイルドシートに乗せて出かけました。予約が9時だったので5分前病院へ到着しました。前日熱が出て診察を受けているし、娘の書いたメモを渡すと検温をして、すぐに診察室へ呼ばれました。

 この病院へは何度も孫尚樹を連れて来ているので要領よく、僅か10分ほどで待つこともなく診察を終えましたが、熱が38度以上になったら飲ませるトンプクをいただき、マンションへ帰りました。孫尚樹は熱も下がって、昨晩から食事をしていないため腹が減ったのか、娘が作り置きした昼ごはん用の弁当をペロリ平らげました。元気は回復したようですが、熱は幾分高いようなので体温計で熱を計り、トンプクヲ一袋飲ませました。1時間ごとに仕事に行っている娘から電話が入り、その度に孫朋樹の状態を報告するのです。娘は助産師なので要領は分っているのです。
 そのうち孫朋樹が学校から帰って来ました。3人でテレビの高校野球を見たり遊んだりして過ごしましたが、昼食は早めに弁当を孫尚樹が食べたため足らなくなり、冷蔵庫やそこら辺のものを見繕って食べました。

 やがて午後2時頃娘は仕事を終えて帰って来ました。娘家族は春休みを利用して今日の夕方から、娘婿の実家のある大阪へ、お父さんの墓参りに行くそうです。例年だと車で行くのですが、今年は特急しおかぜと新幹線を乗り継いで行くそうで、孫たちは自分の体調も忘れて新幹線に乗ることを、楽しみにしているようでした。
 私は午後2時に無罪放免となって帰宅の途につきましたが、はてさて孫の体温はその後いかがだろうか、また大阪へ向けて出発したが、今頃どこらを走ってるのだろうかと、思いは巡るのです。わが家の内孫奏心も昨日の夜耳がおかしくて少し熱が出たようで、今日は保育園を休んで小児科へ連れて行ったところ、中耳炎のようだと若嫁が話していました。親父も庭木の剪定作業が少し堪えたのか、私が留守中足腰が痛いといって、諸橋先生に往診に来てもらったようです。どちら様も悲喜こもごもですね。

  「熱が出た 看病頼むと 娘から 私は暇と 思って依頼」

  「マンションで 孫と私の 二人きり 体温計を 気にしつ過ごす」

  「新幹線 初めて乗ると 病気より 楽しみ語る 孫は逞し」

  「もう既に 大阪到着 した頃か? 気になりながら 携帯かける」

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〇行く先々で得るもの多し(その4)

 私は退職する前から、そして退職後も様々な所に顔を出しているため、様々な場所で様々な人と出会う機会が多く、この歳になっても一年間で使う名刺は千枚を越えるほどの出会いがあるのです。中には昨日まで出かけていた国立大洲青少年交流の家のように、職員の殆どとすっかり顔見知りとなって名刺を配らなくても、日常語で日常会話ができる所が沢山あるのです。国立大洲青少年交流の家はできる前から現在に至るまで、その整備や運営に深く関わって来たので、歴代の所長さんとも随分親しくさせてもらいました。最も親しかったのは何といっても新山前所長さんで、新山さんのその手腕とアイディアは抜群で、機構全体でも高い評価を受ける実績を残されました。個人的にも気が合い年輪塾にも塾生として積極的に参加してもらいましたが、転勤族ゆえに惜しまれて県外の施設へ転勤になりました。転勤後も年輪塾塾生とのメール交流が続いているのはやはりこの人の人徳だと思うのです。

 国立大洲青少年交流の家の所長さんは個性的な人が多く、現所長さんもやる気満々で様々なことに挑戦しているようです。前所長から引き継いだ、双海町役場から引っ越した若人の樹も納まるところに収まり、今回行って見ると、偽木と木製チップを敷き詰めた立派な階段まで出来上がっていました。
 現所長さんは書が達者なことは聞いていましたが、その書を木の板に彫り込んでペンティングして置物にする技術は玄人はだしで、今回所長室で見せてもらいましたが、いやはや驚きました。聞けばこれまでにもその腕を請われて各地の公共施設の看板まで製作して、プレゼントしているというから驚きです。私もお言葉に甘えて、大好きな「恩」という文字を書いて彫ってもらおうとお願いしましたが、既に依頼が多く少し先になるようです。
 年輪塾では民俗学者宮本常一に続いて二宮金次郎、ジョン・万次郎を学習していますが、内村鑑三の名著代表的日本人に紹介されている、近江聖人中江藤樹も視野に入れているので、「忠」や「考」「恩」といった日本を代表する言葉も学習の過程で大切なテーマであると、所長さんと話していてひらめきました。

所長さんからいただいた6個の巣箱

所長さんからいただいた6個の巣箱

 所長室の片隅に真新しい木製の巣箱が幾つか置かれていました。所長さんや職員の手作りと思われる立派な巣箱に話が及び、わが人間牧場のロケーション風呂の木の外壁が啄木鳥の被害にあって困るという話をしたら、巣箱を幾つか差し上げるという話になりました。折角作った巣箱をいただくのは少々虫が良過ぎると思いましたが、何と巣箱を6個もいただき、久保さんが運転してきていたライトバン公用車の後ろに積んで持ち帰りました。
 私たちは列車で帰りましたが、久保さんは荷物を積み別行動で一人帰りました。夕方赤石さんと二人で自宅まで巣箱を届けてくれました。昨日も今日もあいにく雨模様ですが、天気がよくなったら早速人間牧場へ持って行き、そこここへ取り付けようと思っています。帰り際顔見知りの職員の方が巣箱と巣箱の間は30mくらい離さなければならないことも教わりました。いやはや子どもと一緒に巣箱を取り付ける次の作戦が楽しみです。

  「世の中にゃ 変わった人が いるもので 会う度私 感化されつつ」

  「書は達人 板に彫り込み 墨入れる さらに達人 恩を彫ってと」

  「大洲藩 ゆかりの偉い 人ありて 大学・四書を 極めた奥義」

  「啄木鳥の 被害思わぬ 展開に 巣箱いただき 木々に取り付け」

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〇予讃線海岸周りの鈍行列車(その2)

 

上灘駅前の桜

上灘駅前の桜

 久しぶりに16人の子どもに公民会職員を加え、18人で乗車した予讃線海岸周りは、現在一日12往復の列車が伊予~大洲間を走っていますが、朝晩の通勤通学帯に集中しているため、昼間の便はいたって不便で、中には3時間近く一便もないことだってあるのです。それでも並行路線といわれる内山線が開業した後も細々ながら残っていて、欲を言ったらバチが当たるほど感謝しているのです。
 私が下灘駅で夕焼けコンサートを始めてやった頃には、既に海岸線は消える宿命を辿っていました。それを宿命から運命に替えたのは、何と言っても夕焼けコンサートがきっかけだったように思うのです。今ではすっかり有名になった下灘駅や夕焼けコンサートですが、このコンサートの真のねらいは夕日夕焼けではなく、JR予讃線海岸周りの存続だったのです。

朝の上灘駅界隈

朝の上灘駅界隈

列車に乗った子どもたち

列車に乗った子どもたち

 

夕焼けコンサートに続いて、列車を一両丸ごと貸切り、「コスモス鉄道ふたみ号2001年の旅」というシンポジウム列車を走らせたのは、今から23年前でした。100人のまちづくり人を乗せて上灘駅を出発した列車は、向井原駅でスイッチバックして、中山を通って内山線に入って大洲まで行き、そこで再びスイッチバックして長浜経由で、出発した上灘駅まで帰るという壮大なものでした。内子と長浜では引込み線に列車を止め、内子では町並み散策、長浜では車内シンポを開くなど、今思うと双海町がまちづくりのアイディアで最も輝いていた時代だったのです。時たまこの列車に乗る度に当時のことがつい昨日のことのように思い出されるのです。昨日は上灘から大洲へ往路、今日は大洲から上灘へ復路それぞれ走りましたが、途中車窓に美しい瀬戸内海のきれいな海が、また悠久の時を越えて流れる肱川が見え隠れして、のんびりした気分になりました。

長浜駅で対向列車を待つ下り列車

長浜駅で対向列車を待つ下り列車

 

 去年の初秋私は、松本さんや富田さんに誘われて、夕日ビール列車に乗りました。気心の知れた友人たちと伊予から長浜までトロッコ列車に乗り、ビールを飲みながら沈み行く夕日と秋風を楽しむのです。目的地長浜駅の駅舎で、私は頼まれて創作落伍をやりましたが、大盛況でした。
 松本さんや富田さんたちは下灘駅をフィールドミュージアムにしようと、地元の人を巻き込んで一生懸命やっています。お隣長浜でも魚屋の浜屋さんたちが、水族館ですっかり有名になった長浜高校と提携して、まちづくりの機運を盛り上げようとしていることも、嬉しい最近の出来事です。
 海岸周り列車が大好きな私は、一年に何度かこの列車が訳も分からなく恋しくなって、たった一人リュックを背負って乗車するのです。寅さんや、山田洋次さん、永六輔さんと出会った頃の思い出やそれらの人の顔を思い出しながら・・・・・。

  「予讃線 海岸周りの 汽車に乗る ジーゼル音に 声も消されて」

  「そういえば 色々なこと 思い出す あれこれ全て 過去となりぬる」

  「マッチ箱 見たいな列車 乗客が まばらに乗りて 各駅止まる」

  「一年に 何度か乗りぬ この列車 わが思い出を 忘れぬために」 

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〇小さな幸せを幸せと感じながら幸せに生きる

 私は5人兄弟です。姉、私、弟、妹、弟の順番の2番目ながら、物心ついた時から長男として長男教育をされて育ちました。「長男がその家に糞をひらないとその家は潰れる」などと、訳の分からない理由をつけ、何かと私の自由を奪ってきたのです。教育とは恐ろしいもので、そのことに色々反抗しながら、長男の務めを曲がりなりにも果たして、現在に至っているのです。皮肉なことに私がそうであったように、私もまた長男息子を束縛し、訳の分からない理由をつけて、私と同じような宿命を押し付け、今では同じ屋根の下で暮らしているのです。

 私の兄弟ですぐ下の弟は、松山工業高校土木科を卒業するとすぐに奥村組というゼネコンに就職し、トンネル工事の専門家として、主に関西方面の現場を奈良に居を構えながら単身赴任で渡り歩き、いつの間にか定年を迎え、今は奥さんの実家である和歌山県古座川町でのんびりと余生を送っています。
 姉は近所でモータースを営む家に嫁ぎ商売をしていましたが、高齢になる前に廃業して、今は娘家族と同居をして、これまた穏やかに過ごしています。妹は未婚の時農協に勤めていた仕事を、近所に嫁いだこともあって続けていましたが、一念発起して農協を退職し、くじらという海産物の小さなお店を国道沿いに開業し、何とか商売を続けています。

 末の弟は姉のモータースで働いていましたが、結婚して一男一女をの子どもに恵まれたものの、奥さんに先立たれ、譲った私の生家で母の手助けを得ながら子どもを育て、結婚した長男とともに不自由なく退職後の暮らしを楽しんでいるようです。
 気がつけば、幸せなことに三つ下の弟を除けば、10k圏内の同じ町内に兄弟姉妹が住んでいるのです。その兄弟姉妹も仲が良く、94歳になった親父が私と同居していることもあって、何かにつけ頻繁にわが家を訪ねて来てくれるのです。老いが進む親父もさることながら、老域が近づいた私たち兄弟姉妹にとっても、兄弟姉妹が近くにいることの安心感は、何にも例えられない心強い味方なのです。

 私の妻と私の兄弟も仲が良く、妻が祖母や母の面倒をよく見てあの世に送ってくれたことや、母亡き後父の食事の世話等をしてくれる妻に、多いに満足して感謝してくれているようです。姉や妹はやはり女らしい気配りができて、3日にあげずおかず等を持参して、親父の所へ顔を出してくれるのです。姉は101歳の、妹は96歳の義父を近年まで介護しあの世に見送った経験から、妻の苦労が良く分るのです。
 親父にとって姉と妹、それに妻という3人の目の届く世話で、何とか自分のことができる余生を穏やかに生きていますが、口にこそ出さないまでも、自分の子どもの4人までが近くに住んでいることを喜んでいるようです。
 見過ごしてしまうような何げないことですが、これも小さな幸せでしょうか。小さな幸せを幸せと感じながら生きることも幸せです。

  「気がつけば 4人兄弟 それぞれに 同じ町内 住める幸せ」

  「幸せは たとえ些細な ことだって 目に見えずとも 気付いて感謝」

  「長男が 家に糞ひる これ家訓 次の代でも 拳拳服膺」

  「人生の 最後くらいは 穏やかに 家族とともに 暮らす幸せ」

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〇夢に出てきたAさんの懐かしい思い出

 昨晩は既に亡くなっている、友人の夢をかなり長い時間見ました。人間は何故夢を見るのか、凡人の私ゆえ科学的なことは分りませんが、友人の思い出が私の心の基底に存在していることは事実なので、いつものように朝4時に起床して書斎に入ると、パソコンで私のブログの左隅の検索欄に、「Aさん」とインプットすると、2006年8月17日の「友の死」という記事が呼び出され表示されました。その記事には偶然にも「A」さんと別人「A」さんの相次いだ死亡に関することが記録されていました。
 Aさんと私が出会ったのは、もう26年も前のことでした。当時私は旧双海町役場でまちづくりを担当していて、一緒にまちづくり専従班となった同僚と、松山の小さな小料理屋のカウンターに座って、酒を飲んでいました。偶然にもその横に座って二人で酒を飲んでいたAさんと縁も所縁もないのに、意気投合して再会を約束しました。Aさんは大手ゼネコンの副部長でした。私たち二人はまちづくりを始めた矢先だったため、自分たちの夢や構想を絵に書かなければならず、その予算もないことから私的に相談して絵を書いてもらいました。Aさんはプロでありスペシャリストなので、私たちの話を元にしてシーサイド公園や下灘運動公園の絵を見事に書いてくれました。

 ゼネコンと行政の癒着は絶対できない相談なので、絵を書いたからといって、仕事を回す訳には行かないのですが、Aさんはそのことを百も承知で、その後も私的な支援を続けてくれましたが、完成したシーサイド公園と下灘運動公園の整備計画は、Aさんの下書きした絵がフェースシートとなっているのです。
 Aさんは見返りに、自分の息子さんの結婚の仲人を私に依頼しました。私も恩義があるので快く引き受け、名古屋で行なわれた結婚式と披露宴に私たち夫婦が、揃って出かけお世話をさせてもらったのです。その後Aさんは関連会社へ出向となりましたが、その後も奥さん、息子さん家族を交えた交流が続きました。
 Aさんは5歳の時広島の爆心地近くで被爆し、被爆手帳を持っていました。思わしくない体調もあって、自分は短命で一生を終ることを口癖のように言っていました。奥さんに先立たれた時のショックや悲しみは、傍で見ていても気の毒なほどでした。そして2006年7月、一人住まいの自宅で誰に見取られることもなく、倒れて死んでいるのを友人が見つけ、67歳の波乱に富んだ生涯を閉じたのです。私もすでにAさんの享年を一つ超えましたが、彼の死は返す返すも残念です。

 人間は多くの人と出会いを重ね、幾つもの共感や共鳴をしながら生きて行くものですが、人間は100回あっても1回しか会わないような淡白な出会いの人もあれば、1回会っても100回会ったような密度の濃い人もいるのです。Aさんは既に8年前に亡くなっているのに、今でも夢の中に登場するのは、余程の思い入れがあるからに他なりません。Aさんのお墓は既に自分が亡くなる前に、出身地である広島に造られたことをAさん自身から聞いていますが、いつか機会を見つけ、妻と二人で墓参りに出かけたいものだと、今朝妻に話をしました。
 はてさて昨日夢に出てきたAさんは、私に一体何を言いたかったのでしょうか?。今でも交遊のある息子さん家族に、連絡を取ってみたいと思いました。生きていることの喜びも、死ぬことのはかなさも味わいながら、今日を生きている自分の存在を薄々感じるのも、私が歳をとったせいでしょうか。あの世に行ったら先に逝ったAさんの大好きだった「ふるさとの灯台」という歌を聴きながら、酒を酌み交わしたいものです。

  「今は亡き 友夢に 主役出る 懐かしき日々 今も忘れず」

  「生き方や 死に方 いつも語ってた 享年一つ 越えて生きてる」

  「俺死ねば 誰の夢にぞ 出てくるだろう 夢に出てくる 人になりたい」

  「カラオケで 歌ったふるさと 灯台の 写真自宅の 壁に飾りて」

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〇会社の浮き沈み

 昨日突然自宅へ、「在宅なら是非お会いしたい!」と、昔町の広報を担当していた頃、広報を印刷する会社に勤めていたAさんから電話が入りました。子ども教室の閉講式が終って帰宅後、少し遅い食事をしていたところだったので、「在宅なのでどうぞどうぞ」とお話しました。1時間余りしてAさんはわが家へやって来ました。印刷会社の双海町役場広報担当や、その後会社の役員をしていた頃と比べると、歳をとったせいか少しスリムになっていましたが、相手が私を見ると同じように感じるだろうと思いつつ、昔話に花を咲かせました。聞けばAさんが勤めていた頃の会社は、松山市内でも一・二を争うような大きな印刷会社でしたが、その後社運が傾き社長や会長は、私財までも失う不運に見まわれたようでした。風の噂でその話は幾らか聞いてはいましたが、当時は飛ぶ鳥を落とす勢いだっただけに、社長や会長の末路が気になりました。

 Aさんはその後その会社を退職して1~2別の会社を渡り歩き、今も印刷に関連のある別の会社で働いているようでした。いただいた名刺の肩書きには〇〇会社プロデューサーと書かれていました。私に是非目を通して欲しいと持参した、ある街の写真集を見て、Aさんが私に何を言いたいのか、おおよその検討はつきましたが、自由人になった私にはもう、Aさんの要望に応えるだけの地位も能力もないので、そのことだけはお話をしました。
 Aさんは私より5つくらい年下ですが、少しやつれたように見えるその姿に、企業戦士として生きてきた苦悩の半生を垣間見る思いがしました。と同時に会社の経営の難しさを思うのです。私が広報を担当していた頃の印刷業界は、建設土木業界とともに最も華やいだ時代でした。週末には社員がゴルフコンペ旅行に海外まで行き、33ナンバーの県知事に匹敵するようなデラックスな車を乗り回し、わが者顔で走らせていました。また著名人の集まりにも上席が用意され、私などの下々は近付けないような雰囲気でした。

 パソコンが普及するにつれて、ペーパー印刷業界は一気に構造不況業界へと転落し始めました。ペーパーレスの現代を思えば、今も将来も印刷業界が上向く気配は残念ながらないのです。この会社は多額の負債の85パーセントを債権放棄してもらい、経営陣が退陣し何とか生き残っていますが、天国と地獄は裏表だとしみじみ思うのです。
 Aさんは私の書斎で1時間ばかりお話をして帰られましたが、羽振りの良かった社長さんや会長さんとは親しく声をかけてもらった間柄だっただけに、寂しい気もしました。社長さんや会長さんのように一花を咲かせた訳でもなく、無位無官の身で生きている自分の今を思うと、失うもののない自分の身軽さに多少なりとも拍手を送るのです。栄枯盛衰は人の世の習いといえど、会社を持続発展させることは容易なことではありません。わが家も人ごとではなく、しっかりと次の世代に受け継がさなければなりません。

  「33の 車に乗って さっそうと 格好良かった 末路は寂し」

  「気がついた 時には遅し 音しない 大きな落し 物の大きさ」

  「私には 失う物など ないだけに 気を引き締めりゃ 奈落は回避」

  「書棚から 当時の広報 引き出して 懐かしく読む あの日あの時」

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〇ほこりを被った亡き叔父の書いた色紙額

 2~3日前所用で地域事務所を訪ねました。かつて多いときには100人もいた旧双海町役場も、合併して伊予市役所に統合されたため、8年経た今は完全に支所化されて、一週間後から始まる来年度からは課も廃止され、10人ほどが細々と、出先の仕事をする程度に縮小されるようです。
 今は耐震基準に合わず危険施設として、立ち入りが禁止されている旧町民会館に、鍵を開けてもらって入りましたが、私の一番最後の職場であった旧双海町教育委員会事務室や、私専用だった教育長室も固く門戸を閉ざしていて、ここで多くの仕事をしたのかと思うと感無量といった感じがしました。

偶然見つけた叔父の書いた色紙

偶然見つけた叔父の書いた色紙

 旧結婚式場として、その後は図書室として使っていた部屋に入りましたが、ここでも生活改善運動の一環として、昔は頻繁に公民館結婚式が厳かに行なわれ、2階の大ホールで私は、536組にも及ぶ結婚披露宴の司会をしているのです。耐震危険施設なのでいずれ取り壊される宿命にあるのでしょうが、何とも勿体ない感じがするのです。その部屋を出る時、土間の真ん中に無造作に置かれているほこりを被った小さな色紙額を見つけました。額の中にはどこか見覚えのある書の色紙が入っていました。良く見ると「旅は道づれよはなさけ ちりもつもれば山となる 楽あれば苦あり わらうかどには福来たる」と書かれ、落款朱印は「寿松」と押されていました。

 額も壊れほこりまみれになっていたので、「実はこの額は双海町民生委員総務をしていた私の叔父の、森脇松太郎が書いたものですが、叔父も既に3年前故人となっているし、ここにこうして置くのは忍びないのでいただきたい」とお願いし持ち帰りました。誇りはティシュペーパー等で拭き取れないほど積っていたので、帰宅後濡れた雑巾を固く絞って丹念に埃を取りました。額は既に傷んでいるので新しいものに取り替えなければ、飾ることもできないのです。
 叔父は趣味で郵便局に勤務する傍ら、長年書をたしなんでいましたが、その腕前はかなり高い方でした。私が出版した自著本「夕日徒然草」の表紙題名も、晩年病弱だった叔父に無理を言って書いてもらったこともあって、この色紙が懐かしかったのです。

 この色紙にはご存知「旅は道づれ・・・」と「ちりも積れば・・・」と「楽あれば・・・」、それに「笑う角には・・・・」の人によく知られた、四つの言葉が欲張って書かれています。いずれも注釈しなくても一目瞭然の言葉なのですが、平たく平仮名を多く使って書いているところに味があるようです。
 拾い上げた場所が場所なので、普通であればこれはもう完全にごみ状態で、処分されても可笑しくない代物です。偶然にも私の目に留まったばっかりに、縁のある私の元へ届きました。せめて私一代でも叔父の思い出を思い出しながら、大切に保管したいものだと思いました。

  「無造作に ほこり被って 床にある 色紙の額を 拾い手に取る」

  「見覚えの ある書体だと よく見れば 亡き叔父書いた 色紙ビックリ」

  「雑巾を 固く絞って ほこり拭く 壊れた額の 中から色紙」

  「今頃は どこにいるのか 亡き叔父の 顔が笑って 語りかけ来る」

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〇パソコン画面が開かなくて冷や汗をかきました

 このほど書き終えた3本の原稿の校正ゲラが、ネットメールで送り返されてきました。2本は難なくパソコン画面に表示され、校正を終えて送り返せたのに、シリーズで書いているえひめ地域政策研究センター発行「舞たうん」のPDFゲラ原稿が、どうしても画面に呼び出せないのです。仕方なく担当の方に電話をして、今度はFAXで送ってもらいましたが、FAXの文字が読みづらく、原稿と読み合わせすることもできず再度「何らかの方法で送って!」とお願いしました。担当の河野さんはこの度の異動で出向を解かれ古巣へ帰るとの情報が入っていたので、忙しいのに悪いと思いつつ、私のパソコン操作の未熟さから、すっかりお手を煩わせてしまいました。

 河野さんの職場同僚にはパソコンに詳しい人がいて、おっつけ入ったメールを、電話で指示されるまま操作をすると、あっという間に原稿ゲラが画面に表示され、一文字だけの訂正で校正を無事終わました。これで依頼されていた今年度の全ての文字書き原稿は、やっとのことで一区切りを終えることができました。
 私にとって読む、聞く、見るによる潜在能力の拡大は、大事な学習のひとつとして、いつも気にしながら暮らしていますが、潜在能力を顕在化する書く、喋る、実践するという三つ行為は、これまた大切な営みなのです。とりわけ書くことは、若い頃町の広報を1ヶ月に2回、1年で24回、10年で240号も出した実績があって、嫌いではないもののいかんせん浅学菲才ゆえに、深くも広い文章を書くことはできないのですが、それでも書かないと進化しないと思い、恥を承知でかき続けているのです。

 幸い毎日2本のブログ書きが修行となって、文章は随分早書きできるように訓練され、内容は別として殆どの依頼原稿は、締め切りより幾分早く書き終えて、提出できるようになりました。私に依頼される原稿は400字詰め原稿用紙50枚以上の長いものもあれば、500字や700字といった短いものもありまちまちですが、特に長いものは書きたい項目を何本か考え、思いつくまま書いてつなぎ合わせて修正する方法を取っているため、どうにかお茶を濁すことができるようです。
 書いたものは記録として残るだけに、引用も盗作になるから勝手にはできないし、いい文章を書こうと腕まくりし過ぎると、かえって墓穴を掘ってしまうのです。喋ることも難しいが書くことは、もっと難しいと思うのも無理からぬことのようです。
 パソコンさえろくに使えない浅はかな私が、今はパソコンのワードを使って原稿を書き、メールに添付して書き終えた原稿を送り、校正等のやり取りを一喜一憂しながらやっていますが、原稿を書く作業よりパソコン操作の方に頭を使わなければならない愚かさを、今回も露呈してしまいました。

  「送られた 校正原稿 届かずに 右往左往で 半日過ぎる」

  「原稿を 書くより大恥 かきました いやはや苦手 パソコン操作」

  「原稿は 持てる能力 試される 浅学菲才 今頃気付く」

  「腕まくり しても結果は 同じこと 書いた原稿 今度も悲し」 

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