shin-1さんの日記

○虹をつかんだ男

 「虹をつかんだ男」なんてタイトルをつけると、何か格好良く聞こえますが、私は子どもの頃から虹が大好きで、虹を見た日は何か良いことが起こりそうな気分になるのです。多分それは子どものころに読んだ「虹をつかんだ男」という本の影響ではないかと思うのです。もう昔のことなのでその本の詳しい内容は忘れましたが、いつも遊んでばかりいる野良な男がある日草原に寝そべってウトウトしていると、空に綺麗な虹がかかったのです。男は夢の中にかかった虹とも知らずその美しさにすっかり見とれてしまいました。その時夢の中に一人の老人が出てきて、「虹の根元に宝物が埋まっている」と言いました。やがて夢から覚めた彼は老人の言葉を信じて、毎日虹が出た根元をどんどん掘って行きました。いつの間にか男の周りの草原に、は鍬で掘った広くて立派な畑が出来上がり、その畑に沢山の小麦や野菜や果物が実り、お金持ちの百姓になっていたのです。ある日のこと再びあの老人が男の夢の中に出てきて、「宝物は額に汗して働きさえすれば土の中から生えてくる」といいました。男ははたと気が付き、それからは一生懸命働いて、近郷近在一の立派な庄屋さんになって幸せに過ごしました。

 一昨日、私は軽四トラックで下灘に向かって走りました。その帰り道下灘駅のすぐ下でこの時期としては珍しい虹を見たのです。路側帯に車を止め、車のガラス戸を開けて虹の写真を撮りました。残念ながら私の肉眼で見える実物ほど写真は綺麗に写りませんでしたが、それでも初めて虹を写真に撮りました。

(青島の横に見えた綺麗な虹の架け橋)

 日本でいちばん海に近かった下灘駅の下という、場所が場所だっただけにふと昔のことを思い出しました。私は私が読んだ本の主人公のような野良な人間ではありませんが、この駅のベンチでフーテンの寅さん(下灘駅は山田洋次監督の寅さんシリーズ・殿様と寅次郎の舞台となった)も寝そべって夢を見ていましたし、私もこの駅のプラットホームで夕焼けコンサートをすることを夢見ていたのです。寅さんは夢から覚めて大洲へ旅立ちましたが、私は夢を現実のものとして実施してそれが出世作となり、後の夕日によるまちづくりへと発展していったのです。それはまさに「虹をつかんだ男」という形容がぴったりだと、改めて思ったのです。やがてその虹はものの2~3分で次第に薄くなり消えてゆきましたが、すっかり虹に見とれて我に返りましたが虹はいいものです。

 虹には不思議な魅力があります。赤・橙・黄・緑・青・藍・紫と7つの色が見事に表現されるのです。太陽の光が霧や水蒸気、水滴に乱反射して見える、実像ながら人間の目の錯覚なのですが、何とも言えない淡い色合いは私にとって理想の色なのです。レインボーなどと表現されますが、東京の連ボーブリッジや、虹に見立てたレインボープランなど様々な代名詞として使われているようです。

 再び「虹をつかんだ男」になるためには、何がしかの夢を見なければなりません。64歳になって夢も希望もしぼんでいますが、気力も体力も充実しているこの時に、夢よ再びと奮い立って頑張りたいと思い、虹に一人ささやかな夢を誓いました。

  「夢つかむ 男になって 夕日をも つかんだ俺は 幸せ者だ」

  「寅さんの 夢は鞍馬の 天狗なり 夢から覚めて 大きなあくび」

  「七色の 虹はどうして こんなにも 俺の心を ときめかせるか」

  「もう一度 虹に誓って 夢つかむ 男なりたい 密かに思う」

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shin-1さんの日記

○思わぬハプニング

昨夕は大洲市柳沢田処の地域づくり講演会に招かれ、妻と二人で出かけました。田処といえば西田和子さんや亀本幸三さんがいて、知人友人も沢山いるため、お言葉に甘えての夫婦二人連れでの参加となりました。時折激しく降る雨に中を朝ヶ峠を越えて行きました。曲がりくねった道の苦手な妻は車に酔ってしまい、運転すれば酔わないため法師という集落の手前で妻と運転を交代しました。

(子どももいて会場いっぱいの参加者)

 会場には少し早く来られ、夕食を食べてから始めるとの案内だったので、控室で芋炊きとお寿司、それに酢の物を御馳走になりました。手の込んだ手づくりの料理はどれも美味しく、二人で舌づつみを打ちました。背後の黒板には西田和子さんが書いたであろう私たち二人を歓迎する文字が大書され、何とも面映ゆい感じでした。

 やがて予定通り7時半に講演会は始まりましたが、子どもも含めると100人を超える盛況ぶりで、改めて田処地区の地域づくりに対する思いの深さと実力を見せつけられました。特に小学生6人という小規模な田処小学校の生徒や中学生が全員参加して前の席を陣取り、熱い視線を最後まで送ってくれて感激の面持ちでした。また公演の最後には花束までいただき嬉しい限りです。

(ハーモニカを吹く私)

 終了後は私たちも参加して懇親交流会が持たれましたが、私も長い間地域づくりにかかわり、この地域の人とも交流をしているため、殆どの人が顔見知りで驚きました。

 「明日の朝が早いからと、10時にはお暇をし、再び元来た道を妻と二人で帰ったまでは良かったのです。ところが内子町への枝分かれ道付近で車を走行中何やら少し大きなショックを受けたのです。所々に落石注意という看板があるくらいですから、落石に乗り上げた衝撃だろうと運転を続けていると、今度は車が左右に揺れだしました。一瞬「パンクだな」と思い、路側帯に車を寄せ、降りしきる雨の中を傘を差して降りて見ると案の定右前輪の空気が抜けていました。

 それからです。この車になって初めてのパンクとあって、何をどうして良いのか分からず、とりあえず妻に傘を差させ、トランクからスペアタイヤとジャッキを取り出しタイヤ交換の準備をしました。懐中電灯も手袋もましてや作業服もなく、ずぶ濡れになりながら孤軍奮闘しました。しかし残念ながら暗闇のためヘッドライトの明るさだけではジャッキを何処へ固定すればよいのか見当もつかず、思案にくれました。タイヤパンクのタイヤ交換もできないのかと、妻んに思われたくない一心がより焦りの心を誘発しましたが、結局ずぶ濡れになっただけでタイヤの交換は不発に終わりました。

 妻は「お父さんJAFに加入しているので電話してみようか」と寝ている娘に電話をかけ、JAFを呼び出しました。「加入会であることの確認や、居場所の確認、所要時間などを携帯電話で話し、予想される到着時間が約1時間後と約束しました。妻も少し濡れていてずぶ濡れの私と二人暖房を入れた車内で1時間も不安な時を過ごしました。先ほど花束を貰った時の余韻はどこかに消えて吹き飛びました。

 やがて12時過ぎJAFの車が到着し、手慣れた手つきでタイヤを外し、空気の抜けたスペアタイヤに空気を入れ、12時40分すべての作業を終えて帰路に着いたのです。思わぬハプニングでしたが、妻の機転とJAFの協力により、そして結果的には骨折り損のくたびれ儲けだった役立たずな私の苦労で、田舎の山道から脱出することができました。

 一張羅な背広もズボンも雨と泥と油でぐしゃぐしゃですが、クリーニングすれば元に戻ります。またタイヤも今朝近所の修理工場へ修理に運びました。思わぬハプニングは思わぬ私の醜態と思わぬ妻の冷静さという副産物に気づいて一夜の物語となって終結したのです。妻は少し寝不足、少し風邪気味、私はいたって健康な朝を迎えました。

  「花束を 貰ったまでは 良かったが 人生そんなに 甘くはないな」

  「パンクさえ 対応できない 駄目亭主 妻の目線が 少し気がかり」

  「JAF呼んで JAFが来てくれ JAF直す JAFは神様 JAFのおかげで」

  「携帯と 妻の機転で 脱出す 風呂に入れる 幸せ噛みしめ」


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