shin-1さんの日記

○オプショナルツアー

 昨夜は顔見知りであるにぎたつ会館の鈴木さんのご配慮で二次会の会場を確保していただき、みんなでワイワイ11時過ぎまで話し込みました。「朝まで語ろう」なんて豪語していた仲間も、長旅の疲れと友人に会ったことの安堵、それに酒が回り、加えて体力的な限界で早々の引き上げとなりました。でも浴衣掛けの気安さで、一次会では見せなかったもう一つの顔を見せながら賑やかに話をして旧交を温めました。谷川班長と小川さんからの酒の贈り物や松永さんのリンゴ、中井班長の鳥取梨などに舌づつみを打ちながら、お目当ての人の隣に居場所を移動したりしながら、まるで青年の船の狭いキャビンの中での語らいを思い出すような雰囲気でした。

(2次会の楽しい語らいのひと時)

 「朝6時に起きて道後温泉本館の外湯を楽しみましょう」と案内をしていたため、二次会で酒を飲み過ぎて起きれなかった2~3人を除いて殆どの人が浴衣掛けで早朝散歩を楽しみながら道後温泉本館まで10分ほど、さわやかな秋の風を受けながら歩きました。道後温泉本館は国の重要文化財であり、いわば国宝のお風呂を楽しめるのです。私が皆さんにご案内した案内状のハガキもこのアングルから私が撮影したものでした。

(宮崎駿の千と千尋のモデルとなった道後温泉本館、夏目漱石の坊ちゃん他多くの文人が訪れています)

 バイキングの朝食を済ませてロビーに勢ぞろいした皆さんで松下副団長を見送りました。松下副団長はこの日国立大洲青少年交流の家に向かわれるようで、早朝にもかかわらず所長さんと次長さんがにぎたつ会館まで出迎えに来ていました。副団長は交流機構の理事長をされていましたが、今度は大学の学園長になられたとのこと、お元気で嬉しい限りです。

(松下副団長との談笑)
(交流の家の主張さんと次長さんのおで迎えの車で大洲へ向かわれました)

 この日私たちは4台の車に分乗して子規記念博物館~松山城と予定していたオプショナルツアーに出かけました。内子や砥部、双海なども考えましたが、余りにも皆さんの動向が未定だったため、とりあえず午前中のは2か所にしました。正岡子規に触れていただくのも、松山のシンボル松山城や道後温泉もいいと思ったのです。

 松山城はロープウェーで登りました。少しカメラ散歩をしてみましょう。

(上り下りは全員でリフトに乗りました。私も久しぶりに乗りましたが快適でした)
(松山城は100メートルを越す城山の頂上にあって、文字通り松山の中心に位置しシンボルとなっています。市内には坊っちゃん列車や市内電車が走り、文学といで湯の町です)
(正岡子規が「松山や秋より高き天守閣」と詠んだ15万石の城下町です。気候温暖でミカンや魚も美味しく、文学にも度々登場し、いつも住みたい町のベストテン入りしている穏やかな町です)
(天守閣をバックに記念写真を撮りました。文学に登場する坊ちゃんやマドンナもボランティアガイドしてくれました)
(天守閣の内部は広く、全国でも木造建築のお城としては名城に一つに数えられています)
(この日は天気もよく、少々霞がかかって遠望はできませんでしたが、遠く石鎚の山々や瀬戸内海が一望できました)

 穏やかな秋の一日を城山を中心に散策し、北斗というレストランで昼食を済ませ、現地解散となりました。ある人は次の目的地を目指し、ある人は早々家路を急ぎました。またある人は再びリターンして坂の上の雲ミュージアムへ向かいました。私は井出さんと児玉さんと再びにぎたつ会館へ引き返して二人を送り、後片付けをしたり鈴木課長さんにお礼を言ったりしてみんなと合流し、空港へ残りの人を送りました。

(帰り人間牧場に立ち寄った林班長)

 その後実家に帰る林班長を乗せてわが家と人間牧場へ立ち寄り、わが家から1時間以上かかる八幡浜の実家へ林班長を送り届け午後7時過ぎにわが家へ無事帰りました。

 この日の準備を始めてから約半年、そんなにきついお世話でもないものの、林班長の援助を受けながらも一人で準備を進めなければならず、正直なところ気分的に少しだけ快よく疲れました。でも参加した皆さんとの30年ぶりの再開はそんな疲れを吹っ飛ばしてくれました。ブログにこの二日間の出来事を忘れないうちにメモし今晩は少し早めに床に就こうと思っています。

  「少しだけ 疲れた気分 察してか 妻は早めの 床の準備を」

  「温泉も 料理もないが ほっとする やはりわが家が 一番いいと」

  「思い出の アルバム増えて 今日もまた ブログに書きつ 記憶を辿る」

  「潮引きぬ つわものどもが 夢の跡 一人片付け 一人慰む」


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shin-1さんの日記

○第10回総理府派遣青年の船班長会の皆さんが愛媛県に集う

 もう32年も前の出来事です。昭和51年6月は私にとっても、今回愛媛県に来られた21人の皆さんにとっても忘れられない記念すべき年なのです。それは全国から選ばれた多くの日本青年、それにアメリカ・メキシコの青年を乗せたにっぽん丸が、建国200年のアメリカへ向けて旅立った思い出の日々なのです。

 「太平洋新時代に架ける橋」「青年の復元力を」をテーマのこの旅は、当時30歳だった私の心に大きな恩恵をもたらしたことはいうまでもありません。「もし私がこの青年の船に乗らなかったらどうなっただろう」と思うと、余りにも大きかった影響にただただ驚くばかりです。あれから30年間、当時の船の運営に深く関わった班長30名が組織した班長会は、多くの人の熱意によって団員を巻き込みながら今日まで延々と開催し続けてきたのです。残念ながら私はその30年間に僅か1回しか参加せず、仕事が忙しかったなどと言い訳しているものの、除名されても仕方がないような不義理をしてきたのです。

 ところが前年の集会で、「来ないのなら出かけてやろう」と、欠席裁判ともとれる痛いお仕置きをいただき、有無を言わせず愛媛県での開催が全会一致で決まったのです。据え膳食わぬ訳にもいかず、はてさて困ったものだと思いしぶしぶ本田班長からの電話で、受諾してしまったのです。

 昔の若いころならいざ知らず、通知を出したりホテルを予約したりする作業は、さすがにこの年齢になると煩わしく、悶々の日々となりました。6月には丸印の付いた方々に第一便の通知を出し、8月には第二便で申し込み依頼書を送りました。私のこれまでの行いにそっぽを向いたのか、来るハガキ来るハガキには欠席の所に○のついたハガキが帰るばかりで、音信さえ届かない人も沢山いました。それでも心ある人が遠くは岩手県花巻市の平藤さんはじめ21人も参加してくれることになりました。

 もともとこの集会は開催場所の班長が実行委員長としてすべてを仕切るのですが、愛媛には林富佐子班長さんもいるのです。しかし残念ながら彼女は現在横浜に住んでいるのです。それでも林さんは帰省を口実にして度々帰省し私の良き相談相手になってくれました。また今回の集会を手伝おうと前日から同じ班の滝田容子さんを伴って帰ってくれました。さらに愛南町内海柏に住む北原さんも駆けつけてくれてくれました。

 昨日の昼にはその準備をでき、皆さんが来る16時までは少し時間がるので、早く来た広島庄原市の松永さんを伴って歩いて10分ほどの四国88か所の名刹石手寺にお参りに行きました。こんなに近くに住みながら石手寺にお参りするのも久々とあって、境内にあるほの暗い洞窟まで見学させてもらいました。

 やがて三々五々一人また一人会場となったにぎたつ会館に参加者が集まってきました。なにせ私にとっては30年ぶりの再開ですから、自分の歳も顧みず寄る年波をまざまざと観察させてもらいました。確かに還暦を過ぎた人たちは見まがうほどになっていましたが、それでも昔の面影は懐かしく、握手の手のヌクモリガ0年の時の流れを埋め尽くしてくれたようです。

 16時から酒井班長さんの進行で会議が行われ、次年度の会議を守山市の住谷班長さんが担当することで決定しました。また3年後の2011年には兵庫で35周年の集いを、有村ご夫妻が中心になって神戸でやることも決定したのです。私も何とか出席したいと思っています。会議の後私が借りた青年の船の映画を上映しました。いきなり私や林班長、中井班長の感涙にむせぶ姿が大写しに映し出され恐縮してしまいました。また宴会の前に記念写真を撮影しましたが、その写真は夕方出来上がり皆さんにお配りさせてもらいました。


 松下副団長も相変わらず知的な笑みを浮かべて遠路出席していただき、参加者一同心からなる感謝をいたしました。皆さんの近況報告を聞いていると、現職の人、すでにリタイアしている人、再就職をした人、自由人となって悠々自適の人など様々ですが、皆さん幸せそうな人生を歩んでいられるようでした。

  「三十年 時の流れは 早いもの 人それぞれに 道は違えど」

  「久し振り 差し出す手と手 温もりが 伝わりジーンと 思わず涙」

  「少し老け 少しゆっくり 老いの道 所作や言葉に 気品漂う」

  「年とれど 変わらないのは 温かさ あいて気遣う 優し心根」  

 


 

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