shin-1さんの日記

○大型の赤トンボ

 「はてさて今頃赤トンボ先生はどうしているやら」と、今晩ブログを書きながら気になって携帯電話を入れました。携帯電話とは左様に便利なもので、人間について動くため早速通じました。私が赤トンボ先生と呼んでいる元中学校校長の久保田さんはこの春学校を退職後、退職前の希望通り私と同じ自由人となって釣り三昧な日々を送っているようです。今日も釣りに出掛けたらしく釣果は親指くらいなサヨリを90匹も釣ったそうです。海の近くに住んでいるのに釣りなどしない私はいの向くままの先生の生き方に強く惹かれるのです。

 先生が竹で作る赤トンボづくりの名人であることはブログで紹介しましたが、私が教育長をしていた頃教育長室に飾っていた大きな大きな赤トンボが、退職時のドサクサで箱の中に入れられたままになっていましたが、数日前その箱を整理していて竹トンボが思わぬ恰好で出てきました。立派な羽根が2匹とも全て胴体から離れているのです。本物のトンボだったら死んで標本にもならぬのですが、せっかく思いを込めて作ってくれたトンボなので何とかならないか考えました。

 親父の倉庫から木工ボンドを持ち出し、羽根の根元に注入し固定をして乾燥させました。先日はその様子を目敏く見つけた孫二人が、私の目を盗んで遊び道具に使っているのです。「まだ本当に乾ききっていないのだから触るな」と叱ると、二人が「おじいちゃんに怒られた」と、おばあちゃんである妻の所へ言いつけに行きました。孫可愛さでしょうか妻は、そんな所へ置いておくからよ」と私を叱りました。まあそんなこんなの可愛いいざこざもありましたが、何とかボンドも乾いてバランスも良く修理が出来上がりました。今晩その赤トンボを見ながら無性に赤トンボ先生のことが思い出されたという訳です。

 何はともあれ先生の元気な声を電話で聞き安心しました。現職の頃頻繁にお付き合いしていた友人たちも、退職をすると気にもかけず声もかけずはよくある話です。勿論現職ですから忙しいのは分かりますが、ちょっとした声かけや気にかけは嬉しいものなのです。

 退職した私の友人が今病気にかかって入院しています。私が知り得た入院状態を現職の私の友人に話しました。早速見舞いにでも行って勢をつけて欲しいとお願いしました。あれからもう1ヶ月も経っていますが、昨日出会ったので、「見舞いに行ったか」聞けば、「忘れていた」とそっけない返事が返ってきてがっくりしました。「忙しくて行けなかった」ならしも「忘れていた」のです。仮にも退職したにせよ同じ職場で先輩後輩の間柄だったのですから「それはないだろう」と思いました。

 また今日銀行へ立ち寄ったら先輩とばったり出会いました。「○○さんが病気で入院しています」というと、「わしの時に来てもらっていないので」とこれまたそっけない返事です。病院の病室ベットで苦しみながら病気と闘う友人のことを思うと、この世の中の切なさを思わずにはいられないのです。もっとも入院している友人の日ごろの付き合いの浅さが大きく影響していることも否めないのです。

 少なくとも私はいい友人に恵まれて幸せだとは妻の弁です。これから人を大事に生きてゆきたいと思っています。

  「お元気?と 電話をかける 電話口 友は喜び あらわに語る」

  「忘れてた いきなりこんな 言葉聞き 怒りとび越え こりゃあ駄目だ」

  「お見舞いに 来てくれないの 行かないの 堂々めぐり どっちもどっち」

  「竹トンボ 木工ボンドで 修理して 俺もまんざら 不器用じゃなし」


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shin-1さんの日記

○思い出の銀杏の木

 今朝人間牧場へ草刈りに行く途中母校である下灘小学校へ立ち寄りました。とっさの思い付きだったため、首には田舎のおじさんよろしくタオルを巻きつけ、作業着のままでの訪問です。学校の校門は不審者対策のため閉められていましたが、通用門を開けて中へ入りました。校庭で授業をしていた先生と児童は、私を不審者と思わずやり過ごしていただきました。運よく顔見知りの校務員さんがいて、校長室へ案内してくれました。この学校は5代続けて女性の校長さんで、今年の春に県教委から異動で赴任して来られた辻井芽美子先生です。 研修会や少年少女おもしろ教室で何度かお会いしたことがあるのですが、先生が来られてから学校へ来るのは初めてのような気がして、少し気が引けました。

(辻井校長先生)

 今日なぜ急に思いついて学校へ立ち寄ったのかは理由があるのです。まもなくの10月21日、この学校で第50回青少年赤十字研究会があって、私はこの日講演を頼まれているのです。前任の池田校長先生から一年前に頼まれていたので少し役不足の感がしますが、まな板の上に乗った鯉のように今はあきらめて何を話そうか迷っているところです。

 この下灘小学校は私の母校です。学び舎だった木造校舎も既になく、鉄筋コンクリートに生まれ変わっていますが、現在の校舎が落成した時が私の役場に入った年なので、落成式の手伝いにをしたりしたためよく覚えているのです。

(銀杏の木プロジェクトで見事息を吹き返したシンボルの樹)

 学校の脇門付近にシンボルともいえる大きな銀杏の木があります。私が子どもの頃は目線が低かったせいか、見上げるほど大木のような気がしましたが、今はそれほど大きくは感じられないのです。というのも数年前寄る年波とでもいうのか受精が衰え枯死寸前だったのです。学校や子ども、それにPTAなどが中心になって樹木医の指導を得て「銀杏の木プロジェクト」という事業を立ち上げ、「銀杏の木を救え」を合言葉に一生懸命取り組みました。根元を掘りそこにみんなで焼いた炭で土壌改良をしたりしました。その結果銀杏は主幹こそ弱ったものの脇芽がどんどん出て見事に樹勢を回復したのです。

 私は当時教育長をしていて色々と陰で応援しましたが、学校のシンボルであるこの銀杏はまさに木霊宿る樹なのです。

 私たちの子どもの頃はこの木が何となく邪魔でした。校庭の隅ならいざ知らず、見方によっては運動場の少し真中気味な所にあるので、ソフトボールの度にこの木にボールが当たるのです。下灘小学校ルールというのがあって、銀杏の木に当たると二塁打なのです。公民館のソフトボールにもこのルールが適用され、試合巧者なチームはこの特典を上手く使って勝ち進んだのです。

 久しぶりに見た銀杏の木は殊のほか元気で私を迎えてくれました。校長室でお茶を飲みながらお話を終えて帰るとき、校長先生に校門まで送っていただきました。この学校もまだ40年くらいしか経っていないのに老朽化が進んでいるようです。また子どもの数も50人程度で、私たちの時代の一クラスくらいなのです。少子化の波がここにも押し寄せているようで、寂しさを感じました。

 そういえば10月21はもう一週間後なのです。学校を訪問して初めて気が付きました。一週間後にはどんな気持ちでどんな話をすればいいのでしょう。地元は中々やりにくいものです。まあ何とかなるでしょう。

  「真っすぐを 思いつくまま 左折して 学校訪問 昔の母校」

  「コーヒーは 飲まない覚え 紅茶出る 懐かし人の 今も変わらず」

  「生き返る 銀杏の姿 嬉しくて 思わず写真 パチリ一枚」

  「少子化の 波が打ち寄せ 子ども減る 日本全国 寂しい限り」 


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