shin-1さんの日記

○凡人のつぶやき

いくら勉強しても次から次へと分からないことがいっぱい現われて

頭ががこんがらがって分からなくなり

俺は頭が悪いんじゃあないかと私を生んだ親を恨み

途中で投げ出すことがある

いくら尽くしても理解してもらえず次から次へと難しいことをいうものだから 

心の中に暗雲が立ち込めて分からなくなり

俺はこれほどあんたのことを思っているのにと相手をののしり

途中であきらめてしまうことがる

いくら頑張っても結果が出ず次から次へマイナス要因がふりかかり

手と足が思うように動かなくなり

俺は限界だと自分自身の能力を疑い

途中で止めてしまうことがある


いくら直そうと努力しても次から次へ悪い所が見つかり

このまま死ぬかも知れないと思うようになり

俺は果たして何のために生まれてきたのかと自分を疑い

途中で努力をしなくなることがある

それでもひょっとしたらひょっとするかも知れないと

少しだけ差し込む光を求めて動き出す


俺は弱い人間と諦めていたのに

やればできるかもしれないと少し思うようになる


やればできるじゃないかと思うようになり

少し頑張る意欲が生まれる


出来た出来たと喜び

俺は強いと思うようになる

俺の人生こんなことの繰り返し

まあいいか俺は凡人だから・・・・・凡人だから・・・・

  「凡人も 平凡なこと 続ければ 非凡になると みんな言うけど」

  「殆どの 人は平凡 だからいい 転んで起きて 起きて転んで」

  「反省を するけど同じ 失敗を またした俺は なんて間抜けか」

  「俺凡人 俺凡人と 思いつつ ひょっとするかも 馬鹿な俺だな」

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shin-1さんの日記

○心の師

 何年か前、ある人と話していると「あなたにはお師匠さんはいますか」と尋ねられました。面と向かってそんなことを言われたのは初めてだったものですから、「感化を受けた人は多いのですが、残念ながら私には師匠という人はいません」と答えました。それ以来ずっとそのことが心の中に引っかかっていていたのです。その方は私に「師を持つよう」に勧められました。

 「春は花、夏ほととぎす秋は月、冬雪さえて涼しかりけり」で有名な道元禅師という偉いお坊さんは「正師を得ざれば学ばざるに如かず」といっています。道を進むにはお師匠さんを得ること、正しい方向へ教え導くお師匠さんと出会うことがなければ学んだことにわならないというのです。道元禅師はそのような師を求めて中国に渡り如浄禅師という生涯の師を出会っていますが、そんな運上人のような人をいくら真似ても、私のような凡人には自分を正しく導くような人には中々出合えないものです。

 自分の人生を振り返ってみてハッとするような出会いの人、つまり感化を受けた人は何人もいます。指折り数えてみると、①「ハガキを毎日3枚書いたら人生が楽しくなる」と言って私にハガキを書くことを勧めてくれた広島向島の半田正興さん(その後私は毎日3枚のハガキを22年間も続けている)。②「掃除もできないような人間はまちづくりを語る資格がない」と一蹴された松下幸之助さん(その後私は毎日朝5時から8時まで3時間、12年間もシーサイド公園の海岸を掃除した)。③「ぼうふらも人を刺すよな蚊になるまでは泥水すすり浮き沈み」という色紙を異動した時送ってきて、私の左遷意識を根本から変えた朝比奈博さん(そのことがきっかけで立ち直れ、新しい境地を開いた)。④「双海町の夕日は綺麗ですね」と何気なく言った、「明るい農村」取材のために訪れたNHK職員さん(そのことで潜在能力が顕在化し夕日の町づくりを始めた)。⑤「誕生日おめでとう。君の大好きな本を送ります」と言ってジョン万次郎の生涯という本を贈ってくれた武智信八州さん(この本が私を青年の船に乗って建国200年のアメリカへ行くきっかけとなった)などなど、いっぱいいるのです。

 しかし、その方たちは私に影響を与えたもののその後自分を導く師匠になることはありませんでした。人間は一生涯を通じて学ばなければなりませんが、「学ぶことは真似ること」だと思います。ハガキを毎日3枚書くことも、海岸を毎日清掃することもある意味でまねることでした。その結果毎日の心掛けが習慣になり、その習慣という修行が今まで外に向いていた目を自分という内なる目に変え、心が変容するのです。習ったことがないので分かりませんが、傍で見ていると茶道も華道も書道も「師を真似る」仕草を何回も何回を行って基本を学び、その基本が体に染みついてから自分の独創的な境地を切り開いていくのです。

 私には残念ながら何回も繰り返し真似る師匠はいません。故にどこまで高まったかが分からないのです。山のような高い教えを持った師と会えば、その山の高さを目指すでしょうし、海のような深い教えを持った師と会えば、海の深さを知ってその深さを目指すでしょうが、中々その人には会えないのです。まあそのような意味からいえば私は未だに「迷える子羊」といったところでしょう。

 心の師と仰ぐ人に早く会わないといけないと、残り少ない人生への焦りもあります。はてさて私の心の師は今頃どこにいるのでしょうか。

  「意味もなく やみくも生きた 半生を そろそろ終えて 新た気持で」

  「師を真似る 真似る人さえ ない私 故に迷いが 時々生じ」

  「目標と する人どこに いるのやら 師匠と呼ぶに ふさわし相手」

  「窓開け 庭に向かって 座禅する 心空には ならぬ凡人」 

 

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shin-1さんの日記

○久しぶりの宇和島

 今日は厚生年金受給者協会宇和島支部の招きで、久しぶりに宇和島を目指して走りました。東京へ行って帰りに松山へ立ち寄ると松山の長閑さに驚きますが、その長閑な松山から宇和島へ行くとさらに長閑で、まるで時計が止まったような気分になるのです。でも宇和島が劣っているからではなく、むしろこののんびりこそが「せまい日本そんなに急いで何処へ行く」てな感じで、私にとってはむしろホッとする場所なのかも知れないのです。

 普通は大洲を抜け卯之町を抜けて休憩もせずに突っ走るのですが、うららかな秋の天気に誘われて、見晴らしの良い法華津峠で一服しました。先日皇太子様が全国育樹祭で来県された折ご訪問されたみかん研究所(果樹試験場南予分場)の見える場所に立って、思いきり深呼吸をしました。ここは個人の土地でミカン狩りを受け付ける場所なので、断りを入れて見学させてもらいました。

(法華津湾の見事な眺望)

 よく晴れていれば遠くには九州の山並みまで見えるというこの地はやはり愛媛県を代表する絶景の地だといつも思うのです。私は若いころ宇和島水産高校に遊学し、宇和島で3年間を過ごしましたが夏休みや春休みなどの行き帰りのその度に蒸気機関車に引っ張られた客車の窓から何度この風景を見たことでしょう。その思い出が蘇りましたが、思い出に浸っていると運よく列車が直ぐ下の線路を宇和島に向かって下って行きました。

(みかん畑を縫うように走る予讃線、みかん山は黄金の山のようでした)

 南予地方の人は人が良いとしみじみ思いました。断りを入れて眺望を楽しませてもらっただけなのに、美味しいみかんをご馳走にまでなって、こちらがかえって恐縮してしまいました。

 宇和島に着いたのですが少し時間が早かったため、時間を割いて南予地方局に八十島さんを訪ねました。宮川さんもいて少しの間雑談をしましたが、大森課長さんはあいにく席空きで会うことができませんでした。宇和島には今週の日曜日に講演で来る予定だし、地域づくり団体交流全国大会で来なければなりませんが、県の肝いりもあって南予に少し明るい兆しが感じられ、嬉しい限りです。

 宇和島道路高架橋のすぐ傍にある宇和島市社会福祉会館へはもう何度も来ているので道順も間違わずすんなり到着です。入口では既に厚生年金受給者協会の会長さんはじめ役員の方が駐車場を用意して待っていてくれました。皆さんはこの日の打ち合わせのために人間牧場へも来られ、準備万端何の問題もなく今日の講演会となりました。会場は満席状態で、相変わらずな私の話に熱心に耳を傾け、寝る人もなく1時間があっという間に終わってしまいました。

 この団体には何年か前にもお話しに来たことがあり、今回はアンコール講演なのです。最も数年前に話したことをすべて覚えているような人もいませんので、安心して話しましたが、いやあ南予の人はおおらかです。会場の雰囲気や反応が良いのでついつい喋り過ぎてしまいました。

  「四十年 前にも同じ 風景が 見えたであろう 懐かしきかな」

  「まあ一つ お食べなさいと 差し出され 美味いみかん 舌づつみ打つ」

  「法華津湾 秋の天気に 恵まれて 遠く九州 ちらほら見えて」

  「満席の 観客一人 寝るでなく 笑いの渦に 巻き込み話す」

 

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shin-1さんの日記

○秋来ぬと目にはさやかに見え始め

 気がつけばいつの間にかわが家の庭にも遅い秋がやって来ているようです。わが家は田舎らしく家庭菜園を含めると660坪もあって、裏山は自然を生かした築山のように急峻な山が家の近くまで迫っているのです。その裏山には昔から柿の木が4~5本あって、このころになると柿の実が黄色みを帯びて色づいて秋の風情を彷彿とさせています。この柿の木はどちらかというと土止めのような形で植えられていて、柿を収穫するためではないので、親父が適当な時期に適当に選定するものですから、実の成りもバラバラですが、それでも秋になると家で食べるくらいの柿の実は収穫できるのです。

 秋といえば何といってもこちらではツワブキと野菊です、海沿いの町らしく家の周りには沢山のツワブキが自生していますが、その殆どは面倒くさいので草刈りの時に草刈り機の餌食になって刈り取られますが、植物の生命力は凄いもので、その後また芽を出しこのころになると黄色い花をつけて存在感を誇示しているのです。わが家の周りにはいつの間にか無数の黄色い花が秋が来たことを告げるようにいっぱい咲いています。このまま放っておくと来年の春には綿帽子をかぶったような新芽が出て、皮をむいて食卓を賑わす一品になるのです。

 ツワブキという名前の由来はその葉っぱがつやつやしていることからつやぶき=ツワブキとなったという説がありますが定かではありません。菊科の多年草で直径5センチほどの可憐な黄色い花がとても可憐です。この花が咲くのは11月3日の文化の日を挟んだ時期なので、歳時記にも度々登場しますが、わが町の海岸線には至る所に群生して咲く姿が見られるのです。

 草刈り機が届かず刈り残した背丈より高い位置に野菊がいっぱい咲いています。菊といえば大輪の大きな花を連想しますが、野菊はツワブキと同じようにとても清楚な花で、控え目に咲く姿はどこか日本人の控え目なそれでいてつつましやかな女性の姿に似ています。この時期の野菊を摘み取って陰干しにし、枕に入れるのが菊枕といって、さわやかな香りが安眠を助けるそうです。この地方では損な風習はありませんが、南予ではそんな枕を作るのだとある人から聞いたことがあるので、一度試してみようと思っています。

 わが家の畑の根菜類も大分大きくなって、いよいよ秋本番です。9月に播いた大根はもう腕首ぐらいに大きくなり、下ろし大根や煮物にも使えるようになりました。昨晩は妻が大根サラダを作ってくれましたが、初物の瑞々しい大根の歯触りは何とも言えない美味しさです。

 ツワブキと野菊の咲く頃になると今は亡き母を思い出します。母が亡くなって49日頃にもこれらの花が野辺に咲いていましたし、母と過ごした今は人間牧場となっているみかん畑のドハ沿いにも沢山のツワブキや野菊が咲いていたのです。ああ懐かしや母の姿・・・・・。

  「この歳に なって余裕の 野辺の花 そこここ見えて 懐かしかりけり」

  「咲く野菊 そっと手折りて 持ち帰り 一輪差して 風流楽しむ」

  「どの花も 色とりどりに 咲き誇り 綺麗でしょうと 言わんばかりに」

  「今年こそ 野菊摘み取り 陰干して 枕作ろう 思いも新た」

 

 

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shin-1さんの日記

○効果的に学ぶための10の条件

 今日は金融広報アドバイザーの研修会があって、日本銀行松山支店の会議室で神妙に研修をしました。がさつな私にとって屋外活動や他の町を訪ね歩くことは意外と得意なのですが、座って長時間研修するのは苦手な部類なのです。それでもアドバイザーとしての役目を全うするためには不得意を得意にしなければならないと決意し挑戦しているのです。

 最近は私のような古いアドバイザーに交じって若い弁護士さんもメンバーに加わり、少し切り口の違った活動や運動にシフトしていることを嬉しく思いながら、そろそろ私も時代遅れになったのかと、引き際を考えているこのごろです。

 今日の午前中の講話は「消費者被害参加型研修の手法とあわせて」という演題で、弁護士の石光アドバイザーの担当でした。トレーニングの4つの要素を目的・構成・行動・配慮の順で説明し、参加の手法を分かり易く話してもらいました。

 私が一番気に入ったのは、配布された森田ゆり著「多様性トレーニング」(解放出版社)というテキストに出ていた「効果的に学ぶための10の条件」でした。残念ながら時間的余裕がなくこの条件の説明はありませんでした。

 1、人は物理的、心理的に安心できる環境で最もよく学ぶ。

 2、人は知的、感情的に適度の刺激を受けることで最もよく学ぶ。

 3、人は学びたいとの自主的な動機を持つとき最もよく学ぶ。

 4、人は具体的で現実的な内容について最もよく学ぶ。

 5、人は単一でない多様な教え方のもとで最もよく学ぶ。

 6、人は新しい知識を、既に持っている知識や経験と関連づけることで最もよく学ぶ。

 7、人は主要な基礎概念については繰り返し提示されることで最もよく学ぶ。

 8、人は学びのグループの一員であるとの帰属感を得られるとき最もよく学ぶ。

 9、人は問題解決のプロセスに参加することで最もよく学ぶ。

 10、人は自分で選択する自由を保障されているとき最もよく学ぶ。

 なるほどと感心しながら、一つ一つに思い当たる節を想定しながら考えてみたのです。私もこれまで様々な学びの場に参加し、また他の人に学びの場を殆ど無意識に提供してきましたが、これからは学びの10の条件を参考にしながら組み立てて行かなければならないと思いました。

 午後は高齢・障害者雇用支援協会の井上業務部長さんが「高齢者雇用の現状と課題」について話されました。高齢化社会になり、60歳定年の延長問題は法律の施行によって随分進みつつあるようです。しかし一方では雇用される側と雇用する側の間にまだまだ解決しなければならない沢山の問題があることも感じました。この問題は沢山のデーターをいただきましたので、近いうちに私なりにまとめておきたいと思っています。

  「俺などは 古い人間 そう思う 若い発想 どんどん吸収」

  「定年が 延長される その度に 若い人たち 何時まで経っても」

  「どうすれば 学び効率 上がるのか なるほど今日は いいこと聞いた」

  「何気なく 配布の資料 目を通す 俺にとっては 重要情報」 


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shin-1さんの日記

○パソコン創作にはかなわない

 先日大洲市柳沢田処の地域活性化講演会に招かれ歓待を受け感激したことはブログに書きましたが、その折凄い技術力を目の当たりにしました。講演会が予定時間きっかりに始まったのも、100戸足らずの山里ながら100人を超えて集まったことも驚きでしたが、もっと驚いたのは開会あいさつと講師紹介でした。

 かつては学校の先生だったこの地域をリードする西田和子さんの挨拶は、迫力があって講演に入る前の挨拶としては最近にない素晴らしいものでした。普通主催者の挨拶はやれ今日は足元が悪いので人の集まりが悪いとか、やれ今日は天気が良いので集まりが悪いとか、はたまた今日は同じ地域で別の会合が予定されて集まりが悪いなどと、言い訳や人のせいにした話に終始するものですが、明らかに地域の意気込みとこの日の会合を開くためにみんなで努力したプロセスが強く感じられたのです。

 私は西田和子さんの生き方をこれまで密かに見続けてきました。ご主人は既に亡くなられていますが、もう何年か前市議会議員をしていたご主人に県指定天然記念物柳沢ホタルについて話を伺ったことがあります。高潔な人という印象で、その後私たちも翠小学校周辺でホタルの保護活動に取り組みましたが、結果的に環境庁(当時)ふるさといきものの里百選に選ばれるような地道な活動に発展したきっかけだったように思うのです。

 西田和子さんはご主人の意思をついでいるようにも見えますが、決しておごらずいつもにこやかな笑顔で地域の後押しや時にはけん引となって地域をリードし続けているのです。私もその年になりましたので、西田和子さんのようなさわやかな生き方がしたいと、今も西田和子さんの生き方を見習っているのです。

 この日もう一つ驚いたのは私の講師紹介をする折、何と私専用の講師紹介プレゼンテーション用スライドショーが作られていたのです。多分私のプロフィールや手持ちのデジカメ写真を使ったのでしょうが、実に鮮やかな作品に仕上がっていて、非の打ちどころがないような出来栄えでした。

 亀本さんが作ったのかどうか知る由もありませんが、私は亀本さんにこのDVDを送っていただくようメールで頼みました。昨日早速送っていただき、パソコンで再現してみましたが、このようなスライドを作る技術がない私にとっては驚異的という表現しかないのです。

 普通行政などの仕掛ける講演会などは、「自分の紹介は自分で紹介しなさい」と言わんばかりに、また「話す時間を少しでも多くするためにペーパーにして資料として手元に配布しているのでご覧ください」程度でお茶を濁すのですが、この日の講演会はしっかりと私を紹介してくれました。

 開会挨拶と講師紹介が講演の内容に響いたことは言うまでもありません。もうこの地域の人には飽きられるほど何度も話をしているのですが、私自身もいつになく新鮮な気持で話をしました。客席からの反応もすこぶる良く、この2~3日は参加した方々から何通かのお礼のはがきが届いて内心驚いているところです。

 いつものように朝を迎え、いつものように請われるまま講演に出かける。そしていつものように講演をして帰り、いつものように一日が終わる。こうしてその連続が人生の歩を少しずつ進めているのですが、今一度もう少し丁寧な生き方を目指したいものだと、この講演会は私にカウンターパンチを食らわせくれたような気がするのです。

  「講演の 前の紹介 驚いた まるで絵本だ スライドショーで」

  「何気なく 過ぎ去る日々を 今一度 大事に生きろ 言われたようで」

  「あの人の ように生きたい 人出会う 私もそんな 生き方したい」

  「もう少し 進化するぞと 誓います 心ときめき 日々を組み立て」

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shin-1さんの日記

○福井県美浜町の議員さんたちが視察にやってきました

 年中色々な団体や個人が視察に訪れる双海町ですが、とりわけ議員さんの視察は相変わらず多いようです。普通議員さんの研修は議会を通じて正式なルートで申し込みますが、視察予定の土日や夕方5時以降になると市役所や議会事務局は時間外や休日を理由に対応できないと断るのです。そんな場合は私の所へ直接電話をかけ交渉するのです。今回の視察は福井県の町村議員研修会に私が招かれ、そのよしみでの連絡ゆえに、また夕日が見える時間までとなると断られる恐れがあるので私が直交渉で引き受けました。

 私の町への視察は私の話が聞きたいという人がかなり多く、今日も私の話の後にシーサイド公園を視察し、その後人間牧場への案内を所望していましたが、残念ながら40人乗りの大型バスが入らず断念してしまいました。

 まず役場の大谷さんに約1か月前に連絡を取り、支所の会場を押さえていただきました。そしてパンフレットを人数分用意しました。2時半の到着という予定だったので、私は2時に外出先の八幡浜から帰り直接支所へ出向き待っていました。担当者はかなり実直な方で松前町を通過したと事前連絡が入り、支所へは20分も早い到着です。早速二階の会議室に案内し約50分も私がレクチャーしました。本来なら質問を受けるところですが、私がよくやる「時間が惜しいので歩きながら質問するよう」にいってシーサイド公園へ向かいました。

 今日のシーサイド公園は昨日、この秋始めて北西の風が吹いて海が荒れたため海岸にはかなりのゴミが漂着して美観を損ねていましたが、目を覆いながら気にせず案内しました。海辺の町の人なのでこれでもゴミが少ないと褒めてくれました。美浜町ではハングル文字の書かれた五海の漂着が多いそうで、どこも同じ悩みをか変えていると同情しきりでした。

 世の中ご縁はあるもので、今月3日に福井県公民館大会に招かれ勝山市へ出かけましたが、その折対談の進行役を務めていただいたのが美浜町中央公民館長の松井由起子さんだったのです。松井さんはその時の新聞掲載紙を見せて私のことを話されたそうで、私も松井さんに美浜町の議員さんや町長さんも見えられると予告をしていたのです。

 今日の議員さんたちは終始熱心に研修され、現場研修を終えて次の宿泊目的地である八幡浜へ旅立ちました。明日は八幡浜~大分県臼杵へ渡られ九州の視察地へ向かわれるそうでした。

 美浜町へはまだ行ったことがありませんが、水晶浜や三方五湖がある素晴らしい自然豊かな町です。また魚のぬか漬けへしこの美味しい所としても知られています。超一級の町から三流とも四流ともいえるわが町へ何を学びに来るのか知る由もありませんが、議長さんはじめ真摯な議員さんと出会い、また逆に活気をいただいたような気持になりました。ありがとうございました。

  「今日もまた 風の人なる 人々が 土の人なる われを訪ねて」

  「原子力 発電所持つ 裕福な 町だけあって エネルギッシュに」

  「議員とは いかなる役目 持つべきか 未だに見えぬ 議員品格」

  「環境も 働く場所も 大事だと いいつつ地方 次第に疲弊」 

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shin-1さんの日記

○八幡浜までの道

 私たちが結婚した昭和46年頃、妻の実家である八幡浜へ行くのには双海~長浜~大洲~夜昼トンネル~八幡浜のルートが一番近い道で、それでも1時間半はかかっていました。ところが海岸線の道が国道に昇格して改良が進み、さらに最大の難所といわれていたごぜヶ峠にトンネルが抜けてからは時間が一気に短縮されて、海岸線を利用するとわずか1時間弱で八幡浜に到着するのですから、道の効果は大変なものだと感心するのです。そんな道を通って今日は八幡浜市保内町の保内幼稚園へ行きました。秋真っただ中の瀬戸内は穏やかに晴れ渡り、とても気持ちのいい風景を右手に見ながら走りました。いつも見慣れた光景とはいいながら沖合には芸予の島々が綺麗に遠望でき、道端にはツワブキや野菊の花も咲き乱れ、「私は何て素敵な場所に住んでいるのだろう」と思った程です。また何気ない光景ですが小さく入り組んだ入り江には漁村もあったり、岬の向こうには伊方原子力発電所の白い建物が見え隠れしていました。


 合併して八幡浜となった保内町に入るとすぐ近くに旧保内町が建てた大きな看板があって、そこには裏側から見るとふたみシーサイド公園まで28キロと表示されていて、よその町の施設まで懇切丁寧に案内する南予人の人の良さが窺え、ここを通る度についつい嬉しくなるのです。

 やがて二つのトンネルを抜けるとやがて②キロ半もある長い長いトンネルに入りました。これが佐田岬半島の付け根を横切りるごぜヶ峠のトンネルです。このトンネルが抜けてから佐田岬半島頂上線潮風めりディーラインと夕やけこやけラインは結ばれ、すごく便利になったのです。

 今回で3度目となる保内幼稚園には予定より早く9時10分に到着しました。先生たちは今日の準備に余念がなく私は通された応接間で今日のノルマであるハガキを3枚したためました。これも生活の知恵なのです。やがて県教委の指導主事の先生たちや金融広報委員会の山下女史も見えられ、金銭教育指定校訪問の授業が始まりました。この日は「お祭り遊び」「お買い物ごっこ」「おじいちゃん・おばあちゃんとふれあい遊び」という3つのプログラムが用意されていました。もう既にこの地方の秋祭は終わっていますが、お神輿担ぎ、鹿踊り、唐獅子舞い、おしょうにん担ぎなどは作りものも良くできていて、地域文化を子供らしく見事に復元していて感心することばかりでした。

 お買い物ごっこもくじ引き、ユーヨー釣り、輪投げ、おやつ食べなどなど、遊びを通して世代間の交流が賑やかに行われ、田舎ならではの微笑ましい光景を目の当たりにしました。今日は指定校訪問なので何がしかの指導をしなければならない手はずになっていましたが、所要でどうしても先に帰らなければならなくなり、感想を述べることはできませんでした。でももし私に今日の感想を聞かれたら、多分「ベリーグー」と答えたでしょう。子どものころに覚えた伝統文化への関心は大きくなっても忘れることはないのです。

 百人以上の観客が詰めかけ、会場は熱気に包まれていました。その模様を写真に撮りましたので少し紹介しておきます。

(花神輿を担いで煉り歩く園児たち)
(五鹿の恰好がなんとも微笑ましい園児たち)
(南予名物の牛鬼も登場しました)

  「トンネルを 抜けるとそこは 黒潮の 恵みいただく みかんふるさと」 

  「獅子舞や 五鹿までも 出て踊る 偉いもんだね 三つ子の魂」

  「この子らに 教える人の 御苦労を 思うと余計 胸ジーンとして」

  「結婚の ころは遠いと 思ってた 今は実家も あっという間に」


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shin-1さんの日記

○内子町大瀬へ行きました

 私の町はあの全国的に有名な内子町と境を接しています。ゆえに私たちの町へは内子町出身の方が海見たさに?沢山嫁いで来ているのです。また石畳は昔下灘村の一部分だったこともあり、歴史文化においてかなり深い関係にあるのです。内子町から見ると双海町は裏側ですが、私たちの町から見ると内子町は裏側に位置する町なのです。今日は内子町社会福祉協議会大瀬分会の招きで作家大江健三郎さんの故郷大瀬まで行きました。

(会場いっぱいの参加者の皆さん)

 第29回老人大学での講演には大勢の高齢者が参加して賑やかな集会となりました。この会合には今期限りで勇退を決めている河内町長さんとかつて助役を務めていた小川社協会長さん、それに顔なじみの安川自治センター館長さんも出席してそれぞれ祝辞を述べられました。特に河内町長さんとは久しぶりにお会いし懐かしい会話を交わしました。

(今期でご勇退される河内町長さんのあいさつ)

 さて私の話は「心豊かに生きる」という演題でした。内子町へはもう何度も講演に来ているし、私の顔もお馴染なのですが、それでも役目がら楽しい話に終始して無事終わりました。

 大瀬への道は久万の大宝寺や岩屋寺へと続く遍路道なので、そこここで歩き遍路の人を何人も見かけました。さしずめ今晩の宿は久万高原町辺りでしょうが木々の葉っぱも紅葉し始め、柿の実の色付きが山里の秋の風情を醸していました。

 大瀬といえば民宿を営む森長さんご夫妻や元公民館長だった大森さん、道の駅からりに勤めていた森本さんご夫妻、お寺の奥さん仙井さん、一緒にコープえひめ理事をしている稲本のことを思い出します。また大野ヶ原モゥーモゥー塾で知り合い私との交友が「恵ちゃん15歳の夏」という全国放送にもなった恵ちゃんの故郷でもあって思い出多い土地なのです。そんなこんなの人たちの顔を浮かべながら大瀬でした。

 途中休憩のために立ち寄った道の駅からりでは偶然にも野田文子さんとばったり、そして沖野さんにも出会って再会を喜びました。行く先々多くの知り人ができて、その人たちと交友を温めることができて本当に幸せ者だと思いました。

 今日は月曜日のため大学で講義の日です。大瀬や道の駅を後にした私は、双海へは帰らず、中山町を通って直接愛媛大学へ向かいました。昔は山のの中の遠い土地だと思っていた大瀬から1時間半も走れば大学です。大学に近い平和通りの銀杏並木も少し色づき始め山から里へ紅葉前線もやっと移動しつつあるようです。大学の構内にあるケヤキも少しづつは尾を落とし始めていていました。

 今日はこの秋始めての北西の季節風が軽めに吹きましたが、いよいよ寒い晩秋から冬の季節がやってきます。風邪などひかぬよう元気で忙しい11月を乗り切りたいと思っています。

 今日は家に帰る前私の携帯電話に妻から連絡が入りました。傷んだ洗濯機が無事治ったとのことです。電気屋さんを通じて保証期間の修理ということで、技術者がわが家までわざわざ直しに来てくれたのだそうです。しかも無料で直してくれるのですからこんなうれしいことはないと、久しぶりに弾んだ声でした。覚悟していた洗濯機の買い替えのための費用はさてどこへ消えるのでしょうか。

  「西東 あちらこちらと 今日もまた 出歩き話す 遊び感覚」

  「お父さん 洗濯機故障 治ったと 弾んだ声で 妻は喜ぶ」

  「山里の 柿の実熟れて 秋深く モズの鳴き声 遠く近くで」

  「あの人は 今はどうして おわすやら 見覚えのある 家並み過して」  

 

 

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shin-1さんの日記

○新聞スクラップ

 年に何回かは休刊日があるものの、殆ど毎日休むことなく送り届けられて来る新聞を見ながら、一定の法則に従って情報を集めているとはいえ、よく枯渇しないものだと感心します。まあ地球上に、世界中に、そして日本中にこれほどの人類が住んでいるのですから、古くなった情報もあれば新しく生まれる情報もあるので、当然といえば当然かも知れませんが私たちは新聞のお陰で共通の話題を共有できるのですから有難い話です。

 私は朝食を食べながら新聞を大広げに広げて読みますが、都会の人はあの狭い電車の中で新聞をきちんと折りたたみ、人の迷惑のかからないように読んでいるのを見て感心したことが何度かあります。先日東京へ行った折山手線の電車に乗りましたが、その方はまず新聞の真ん中にずれないように何かを差し込んでいるようでした。見ず知らずの人間ながら興味があったので声をかけ、見せてもらうとまるで胸ポケットに差し込むペンシルのような専用の小道後でした。早い話が割っていない未使用割り箸のようなものなのです。気が付いて辺りを見渡すと、何人か新聞の真ん中にその部をはさんでいる人がいました。こうすると新聞がずれずに読めるのだそうです。その人たちは新聞を縦長半分に折り○でページを開くようにして器用に読んでいるのです。ここにも都会ならではの工夫があるようでした、私も見習って持っていたボールペンを真ん中に突き刺して読んでみましたが、これもちょっとしたアイデアでした。私が声をかけたその方は電車から降りる折、私にその小道具を手渡し、「2本持っているので差し上げる」と言って電車を降りて行きました。余程私が田舎者の珍しがり屋に見えたのでしょう。

 私はもう30年間も新聞のスクラップをやっています。スクラップといっても、ただ双海町に関係する記事を丹念に切り抜いて大きな段ボール箱に入れる作業だけなのです。かつてはそれらをスクラップブックにノリで張ったり、フォルダーに入れたりしていましたが、忙しい日々の中でそんな時間的余裕もなく、ついついそのうち族になって段ボール入りになりました。

 私はいつの日かこれらのスクラップ記事にいくつかを、人間牧場の木の壁いっぱいに張り付けたいと思っています。というのもわが家を新築するにあたって古い家を取り壊した時、古い破れた襖を海岸に運び焼却する折、襖紙の裏張りに戦後間もない古い新聞が何枚も貼り合わせたて出てきたのを思い出したからなのです。襖には襖絵というのがありますが、襖にスクラップした新聞を張るのは面白いという発想がいつも頭を離れないのです。どうせこの話をすれば人間牧場の設計をしてくれた息子は「そんな汚いことをするな」と絶対反対するでしょう。せっかく木目を基調にした素敵な空間を設計しているのですから言われても仕方がないのです。

 息子が子どものころ私が古民家風の「煙会所」という茶室を作りました。淀屋壁という古風な壁をこだわって塗りましたが、気に入っていたその壁に息子は大胆にも割りばしでドラえもんの絵を書いてしまったのです。一番目につく場所だったので、私は激怒し息子を叱りました。上塗りせねばと思いつつ30年の時が過ぎました。今もその絵は描かれたままなのですが、恥の上塗りという言葉のとおりこの絵を消さなかったことを今は内心喜んでいます。同じようなことを考える親子だと今は苦笑しています。

 早いもので今年も後2ヶ月となりました。今年切り抜いた新聞や、掲載された雑誌の溜まり具合を見るにつけ、今年も沢山のスクラップをすたものだと感心しています。これらの行き場所が段ボールでは余りにも知恵がなさ過ぎます。何とか日の目を見せたいものです。例えば整理をして「新聞スクラップから見た双海町の盛衰なんて看板を掲げ、ロビー展でもしたら面白いかも知れないとふと思いました。「そうだ、やろう」。

  「また今年 新聞切り抜き 山のよう いつか日の目を 思うが箱に」

  「親子さえ こうも考え 違うのか 思いつ切った 新聞張る夢」

  「切り抜いた 記事読みながら 懐かしく 時の流れの 早さしみじみ」

  「懐かしむ 歳になったか 後ろ見りゃ 過ぎた日々方 前より長く」

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