shin-1さんの日記

○夜の砥部町商工会講演会

 野村高校での昼の講演会に続いてダブルヘッターのような砥部町商工会からの要請に応えるべく、夕闇迫る時間に野村~内子~小田~広田~砥部へと裏街道ともいえる道をひた走りに走りました。この道はいつか来た道ではなく何度も通っている道なので、見覚えのある道の駅からり、宿泊施設いかだ、道の駅ひろたなどを横目に見ながら暮れなずむ師走の物悲しい山村を通りました。いつの間にかこれらの道も随分改良が進んで、広田~砥部の一部が未改良のようですが、野村から砥部まで僅か1時間半弱で到着しました。

 砥部の町もかつて私たちが青年団で活動した時代は農業青年が多く活気に満ち溢れていましたが、相次ぐ住宅開発で新住民となった人が多く、僅かに残る商店街に昔の面影を偲ぶ程度となっているようです。それでも陶街道五十三次などの新しい発想でアートの里をピーアールしてまちづくりの情報を盛んに発信しています。

 砥部焼は文化産業の色合いが濃く、白磁に藍色の色調は高い評価を得ているようですが、手づくりのため家内工業的な域を脱することが出来ず、100を超える窯元があるというのに売り上げは年間20億円程度だそうですから、伝統産業の苦悩が見えてくるようです。加えて最近は地方経済の冷え込みで美術品のような作品の売れ行きが今ひとつらしく、茶碗や湯のみ、皿といった生活用品が主流で、そのことも構造不況の一因のようです。

 昨晩の講演会は、9月13日にわが人間牧場で行われた中予地区商工会女性部研修会に参加していた、竹口部長さんたちが私の話を聞いて是非との有り難い要請によるものでした。加えて人間牧場へは商工会の西山会長さんも参加してもらっていて、嬉しい限りです。私は昨夜の会は女性部だけかと思いきや沢山の男性もお集まりで驚いてしまいました。西山会長さん、竹口部長さん、藤尾事務局長さん、田中指導課長さんは勿論のこと、旧友稲葉さん親子や白潟理事長さん、元三越に務めていて今は砥部でそば屋を営む山田さんなどなど、顔見知りも多くかなりのプレッシャーでした。それでも1時間余りの短い時間でしたが皆さん熱心に聞いていただきました。

 砥部町へは先月の22日に砥部楽学大学に来て講演したばかりで、その全てがCATVで長時間放映されていたため、多分見聞き及んでいるだろうと、少し視点を変えて話したものの、少し気がかりでした。

 講演を終わって帰り際、参加した女性の集団が玄関で、「若松さん、パワーを下さい」と握手を求められました。また「私はハガキを絶対出します」と名刺を求められました。嬉しい反応に驚きながらほのぼのとした気持ちで帰宅への夜道を急ぎました。

 演題は「人間牧場構想・遊び心の創造」でしたが、人生は楽しい、美しい、新しいという三つのキーワードを考えて生きると充実した人生が送れるようです。年齢によっては厳しい仕事環境の中で、とりわけ厳しい商工業者にそんな余裕などないといわれるかも知れませんが、それでも常に明るい日差しを求めて生きていれば何とかなるものなのです。自分が元気、会社も回りも元気であって欲しいものです。

 昨晩も沢山の人に会いました。縁を深めるのには次にまた会おうと思うことです。稲葉さんも白潟さんも、山田さんなどは早速人間牧場でソバを打とうと立ち話提案されました。自分の世界を広げそこから自分の仕事につないで行くしたたかさがいい商売を生んでゆくのです。さてどんな次の出会いが待っているでしょう。考えるとワクワク・ドキドキします。

  「帰り際 パワーを下さい 差し伸べる 手と手を握り 再会約す」

  「干支持ちて 訪ねし先輩 面会し 過ぎ越し日々が 昨日のように」

  「あきまへん 儲からないと 嘆く人 少し工夫の ヒントになれば」

  「男ども 見習え女性 元気だよ ワイワイガヤガヤ 男尻目に」


 

 

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shin-1さんの日記

 双海~長浜~大洲と車を走らせ、「須崎100キロ」と書かれた旧肱川町の国道197号を更に進むと、長い三つのトンネルがあります。まるで「反対では?」と見間違うような立体交差の橋を左折すると、野村町方面を示す看板がありました。何度も通った道なので間違うはずもなく進むとそこは西予市野村なのです。道の緑地帯にはこの日お邪魔する野村高校が管理する立派な花壇が目につきました。師走を感じさせる葉牡丹が行儀よく並べて植えられていて、「おっ、野村高校、やってるな」とまちづくりにいささかなりとも関わっている私はつい嬉しくなりました。

 学校は街の入り口付近にあり、その場所を示すカーナビの画面を見ながら、少し早めに着いたので旧野村町の自慢の一つである乙亥会館を見学しようと急に思い立ち、信号を右折し三つ目の信号を左折すると、川沿いに乙亥会館が見えてきました。この会館は相撲処野村がその自慢として、両国国技館を模倣して建てたと何かの記事で読んでいたり、野村の友人から聞いていたいたので一度は訪ねたいと思っていたのですが、残念ながらその暇もなく延び延びになっていました。

(太鼓櫓)
(乙亥会館)

(吊り屋根天井と中の様子)

(相撲博物館)
 両国国技館へは足を運んだことはありませんが、大相撲中継の度に映し出された国技館の姿が頭の中にあるため、そっくりな姿と色合いに何か懐かしい感じがしました。櫓も組まれ、九州場所のご当地出身玉春日の星取表まで残っていました。確か玉春日は負けが込んでいたにもかかわらず終盤連勝し勝ち越した記憶があり、幕内でも古く高齢にもかかわらず黙々と頑張る姿には感動したものです。

 入口付近には御茶屋さん風のお店も並び、私の顔が売れているのか?、こんな田舎町でも出会う人がいて、「若松さんではありませんか」と声をかけてもらう有様です。中に入ると相撲博物館があり時間がないのでさっと目を通し会館の中へ入りました。木造の高い天井には大相撲と同じ吊り屋根があり、可動式の椅子は収納され、体育館のような会場では老人会が集会をしている最中でした。温泉も併設されているのでしょうか、会館前の駐車場は一杯で止める場所を確保したものの写真を2~3枚撮って足早にその場を立ち去りました。友人原田課長さんにも会いたいとも思ったのですが野村高校へ行く時間が迫って後ろ髪を引かれる思いでした。

 全校生徒400人を前に「人間としての在り方生き方」を話して欲しいと頼まれていたため、15時から50分間の短い時間ながら熱を込めて話しました。この高校出身の人で県庁の旧友井上課長さんや鶴井局長さんの顔を思い出しながら、高校生なので短めの話をつなぎつなぎ出来るだけ分りやすく話したつもりですが、反応はどうだったのでしょう。でも壇上にいる私への直接反応は真面目な聞く態度も話への感心も申し分のないものでした。講演の前後に校長室でお茶をいただきながら清家校長先生、近藤教頭先生と面談しましたが、清家校長先生は八幡浜高校の創立記念イベントでウォークラリーを計画した折、目的地がシーサイド公園だったため、花火を用意するなどいささかの手助けをしていた思い出を話され驚きました。

 仕事柄県内の公立高校は殆ど足を運んでいますが、少子化の影響で田舎の高校は定員削減という方針に基づき生徒数が減っており、また就職組より進学組が多くなって、少し活気が失われているようにも思えました。ひと頃の学校が荒れた時代はもう遠い昔のことのようです。でも裏を返せば将来を見据えた真面目な態度になっているのですからそれはそれとして喜ぶべきでしょう。

 水産高校の練習船愛媛丸で遠洋航海に旅立った40数年前の自分の姿を短い時間ではありましたが、思い出しながら話すことが出来て、いい一日でした。

  「二つの目 八百の目に 見られてる そんな緊張 話に凝縮」

  「ついでにと 乙亥会館 見学す 太鼓櫓の 音を想像」

  「九州の 熱戦の後 星並ぶ 黒と白とが 勝ち越し告げて」

  「青春を 語る自分の 青春を 思い出しつつ ショートな話」 

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