shin-1さんの日記

○デジカメを紛失しました

 昨晩は双海町出身で建築事務所を営む和田忠則さんが愛媛県の建築士会の会長になった就任祝いと松山市議会議員の池本さんの当選祝いが異業種交流会の主催で開かれたので道後の大和屋ホテルへお祝いに出掛けました。青年の家の講義が終わって直接だったので、木になるカバンとデジカメを会場に持ち込みました。現役を遠ざかった私には異業種交流会も久しぶりなので人間牧場主の名刺での交換相手も多く、デジカメで写真を撮ることなどすっかり忘れてお話に夢中になりました。私のような無名な人間でありながら、最後の一本締めの音頭をと指名を受けましたので、臆することなく引き受けて無事お開きとなりました。やがて木になるカバンを持って玄関先に駐車した自家用車に上田教育長さんを同乗して約40分の道程を帰って来ました。

 朝起きて名刺と書類を整理しようとしたのですが、どうしてもデジカメが見当たらないのです。書斎や居間、それに車の中を探したのですが結局は何処にも見当たりませんでした。ふと昨日ホテルへデジカメを持ち込んだことを思い出し、主催者の峰さんやホテルに電話を入れたのですが中々見つからず、思案に暮れていました。ホテルからはご丁重な電話を頂き、峰さんも四方八方手を尽くして探して頂きました。

 諦めかけていた矢先峰さんから携帯が入り、見つかったとのこと、午後には届けるとのこと、何から何まで私の不注意にもかかわらず対応してくれた峰さんに感謝せずにはおれませんでした。

 「俺もボケたものよ」と認めつつ、今日の高知県四万十市へはデジカメを持ってゆくこともままならず、はてさてどうしたものかと思案をしています。というのも四万十市への20回の行脚はその都度カメラルポを試みて最終的には20回が終わった時簡単な報告書でも出来ればと思っていたものですから、出鼻を挫かれた格好になってしまいました。机の上に置いてある簡易カメラで今日のところはお茶を濁そうと思っています。

 それにしても、デジカメを使えるようになってから俄然ブログの画面が鮮やかになり、読者の数が急激に増えました。私のような取るに足らないブログでも多い日は70人もの人が読んでくれるのですからデジカメはやはり強い見方に違いないのです。私のブログを読んだ四万十市の和田課長さんが「腕が良いのかカメラが良いのか、自分のふるさとが格別に輝いて見える」というように、優れもののデジカメは、今はもう私にとって無くてはならない道具となっているのです。

 デジカメの写真もパソコンの中で随分貯まってきました。息子に頼んでソフトを入れてもらい写真の整理もジャンル別に分類しているので、すぐにでも取り出せるようになっていますが、今のところはこれらの写真はブログ専用で他には利用していません。何とか活用したいと思っていますが中々・・・・・。

  「あったから 良かったような ものですが これから必ず 失せない工夫」

  「なくすると 始めて分る ものの価値 人もの金と それに健康」

  「持ち物が あり過ぎるから 失せるのだ 携帯名刺 時計にカバン」

  「二次会を 断り帰る 夜の道 今頃彼ら 楽しい酒を」

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shin-1さんの日記

○昔の名前で出ています

 小林旭が歌って大ヒットした「昔の名前で出ています」ではありませんが、近頃何かにつけて名前が変わっている事に驚くことが沢山あります。先日宇和島市役所を訪問した時偶然にも昔馴染みの文化課長さんにお会いしました。この方の名前は私の記憶では確か竹田さんという人だと思うのに、胸のネームはまったく別の名前になっているのです。「失礼ですが」と前置きし、「養子にでも?」と尋ねたところ、そうでもないのに改名したのだそうです。「へーえ、そんなことが出来るのか」と思いました。

 平成の大合併で愛媛県も70市町村が20市町になりました。私のように愛媛県をフィールドにくまなく歩いている人間にとっては、何処と何処が合併し、何というまちになったかすぐ分るのですが、広域になって遠いと思っていた地域がすぐ隣になったり、先日も長浜の沖合いで貨物船が衝突し沈没したニュースが流れると大洲市沖と紹介するので、「えっ、大洲市に海があったっけ」なんて疑問はざらなのです。私の町の隣はもう大洲市なのですから信じられないようなことがいっぱい起こるのです。

 先日も人間牧場にやって来た子どもたちがなぞなぞをやっていました。「進ちゃん、大洲に最も早く行く方法を知ってるかい」と聞くのです。「伊予市に出て高速に乗って・・・」と答えると、「一番早く大洲へ行く方法は双海町と長浜町の境目にある喜多灘の駅付近の双海町にいて、ヨーイドンで走れば僅か5秒で到着する」というのです。参った参ったでした。

 国立愛媛大学が独立行政法人という名前がプラスされたり、農業改良普及所が普及センターになったり、改名はとどまる所を知らないようです。でも名前が変わったからといって中身が変わったわけではなく、かえって混乱を招いただけのことも多いようです。今晩お邪魔する高知県四万十市西土佐総合支所という名前もやはり馴染みにくい呼び名のような気がしてなりません。

 昨日青少年指導者基本研修の講義で国立大洲青年の家に出掛けました。この青年の家は私たちが若い頃、青年運動の成果として誘致した思い出多い施設なのですが、国の機関の統廃合によって独立行政法人国立青少年教育振興機構とかいう組織に組み込まれ、青年の家という呼び名が「青少年交流の家」と改名されました。30年も慣れ親しんだ名前がいとも簡単に変えられるのです。まさに東京霞ヶ関の理論なのです。これまで全国に13合った青年の家は青少年交流の家に、14あった少年自然の家は青少年自然の家に改名したのですが、機構の傘下に一元化された施設は効果効率の競い合いで画一化されつつあり、予算もままならない状態になっているようです。主催事業も特徴ある事業がどんどん姿を消し、東京で考えた企画がやらせのような形で逆輸入されつつあることを肌で感じるのです。

 時代の変革の中で施設や組織の名前がどんどん変わる事はやむを得ないことと諦めてはいますが、はてさて名前の変更だけで、住民サービスが低下する状態はこれまた諦めざるを得ないのでしょうか。

 古きよき時代を生きてきた私たちにとっては何とも住みにくい世の中になったものです。今朝そんな思いもあってハーモニカで小林旭の「昔の名前で出ています」を吹いてみました。「♪京都にいるときゃ 忍と呼ばれたの 神戸じゃ渚と 名のったの 浜の酒場に 戻ったその日から あなたを信じて ここまで来たわ 昔の名前で 出ています♪」。いい歌ですね。「あー俺も 昔回顧の 歌うたう 歳になったか 少し寂しく」

  「この歳で 名前変えられ 覚えれず パニック当然 そんな歳です」

  「青年の 家が名前を 変えました 交流の家 ジジババ連想」

  「えっとする 看板地名 記憶なし それもそのはず 架空の名前」

  「横文字の JA・JR 慣れました 伊予市に慣れるに 一年かかった」  

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