shin-1さんの日記

○今年も暑い夏がやって来ました

 私の昨年の予定表によると昨年の7月29日に水平線の家の建前をしています。あれから1年が経ちました。人間牧場にとって初めての夏がやって来ました。周りの草は梅雨の水分をいっぱい吸って伸び伸びと育ち、刈り取るのが追いつかないほどになっています。昨日と今日の2日間は休養日で予定を空け自宅の周りと人間牧場の周りの草刈を行いました。曇り空で太陽の日差しはそれ程きつくはありませんでしたが、梅雨明け間近な外気は湿度が高く35度を越えて、草刈機の熱風とともに大粒の汗が噴出しました。

 草刈機の混合油をタンクに半分くらい使ったところで休憩するのですが、すっかり旧式になった草刈機ながら調子は絶好調で、昨日買い求めたチップソーの刃に付け替えたため、作業はどんどんはかどりました。しかし途中でエンジン始動のための引っ張り紐が突然切れてエンジンをかけようにもかからなくなってしまいました。日陰に持ち込んでドライバーで外蓋を外し、いよいよこの草刈機も寿命かなと思いきや、私の不器用な腕でも修理が出来てちゃんと直ったのです。

 百姓の真似事をし始めて約一年が経ちましたが、百姓とは百の仕事が出来ることだと教わりましたが、少しずつその意味と腕が上達して行くのをわが事ながら頼もしく思った瞬間でした。

 夏の水分補給は主に冷えた麦茶を氷とともにポットに入れて山に持って行くのですが、すぐさま空になるほど体は水分を要求します。日焼けと藪蚊対策のため長袖シャツを着用し地下足袋をはいての作業ですが僅か満タン1クルーでも汗で長袖シャツはビショビショになるのです。このところ新聞や雑誌の取材が多くその記事を見た人が見学に来るので、余り見苦しいことも出来ず、草刈は小まめにやっていますが、中々追いつかないのが現状です。息子は息子で土日になると風呂を沸かし仲間を呼んでは五右衛門風呂の入浴を楽しんでいますが、草刈は親父の仕事と言わんばかりに手伝おうとはしないのです。その息子が今日はトラックを借りて薪を運んできました。自分の仕事のかかわりで建築端材を貰うことになったらしく、沢山運んできました。風呂下の倉庫は満杯で予定している薪小屋を早く建てねばと思っています。

 私の水分補給のもう一つはスイカです。双海町は東峰という県下でも名だたるスイカの産地を持っており味は抜群です。この山スイカを作っている農家の方が妻と友人というよしみもあって、7月には入ると見事なスイカが届きます。私は子どもの頃からスイカが大好物であれば主食かと思われるくらい食べるのです。昨日など朝飯後、昼食後、夕食後と一日3回も妻が中身だけにして冷やしてくれているスイカをほおばるのです。昨日4個届いてキッチンの隅にでんと座っているので、当分の間はスイカの味を楽しむことが出来るのです。

 2~3年前までは自宅横の畑でスイカを作っていましたが、やはりプロには叶わず味が今一なので親父は作るのを止めてしまいました。百姓に挑戦しているので再度挑戦してみたいと思いますが、その場合はハクビシンの被害に泣くような出来事が起きるかも知れません。暑い夏もいよいよ本番、さあ今年も人間牧場で夏を楽しみたいものです。

  「梅雨明けを 期待しながら 予報見る 梅雨の末期の むしむし天気」

  「玉春日 勝ち越し嬉し 名古屋場所 暑さ忘れて 熱い声援」

  「サウナなど 行かず減量 草刈で タダで出来ちゃう 一石二鳥」

  「日焼けした 顔見て友が 元気そう 褒めた言葉に 鏡見直す」


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shin-1さんの日記

○よく似た海沿いの風景

愛媛県の南西に位置する地域は訪れる度に何かよく似た風景だと何時も思います。八幡浜の真穴、西予市三瓶や明浜、宇和島市の吉田、白浜、津島など、急峻な地形にしがみつくように道や家があり、前は海といった光景はリアス式海岸ゆえに似ているのは当然かもしれません。道の狭さも暮らしている人にとっては余り気にならないのかもしれませんが、たまに訪ねるとまさに運転手泣かせの難所なのです。

 昨日姪が嫁いでいる西予市三瓶町周木へ出産祝いに妻と孫の3人で出かけました。田舎者のくせに妻は曲がりくねった道で対向車が来る度に「車が来よる」とか「危ない」とかいちいちうるさく言うのです。その声を聞きながら自分の生まれ育った地域も今でこそ二車線の海岸国道が走っているものの、昔はこんな状態だったことを思い出しました。

 カーナビのお陰で迷うことなく到着し無事目的を果したので、帰りは別の道を帰ることとなって真穴、真網代、合田の道を選びましたが、天皇賞を受賞した日本一のみかん産地といいながら、やはりここもよく似た風景の街でした。八幡浜市出身の妻は子どもの頃に訪ねた真穴周辺を感慨深げに眺めていましたが、ねずみ島付近で車を止め、普通は沖に浮かぶ島も干潮で陸続きになっていたため海岸を歩いて島に渡ってみました。孫は最近買ってもらった麦藁帽子が気に入って少しおすましな顔で写真に収まりました。

 海岸では親子連れが泳いでいたり若いお母さんが潮干狩りを楽しんでいました。梅雨明け間近な海岸はムンムンの暑さで汗が噴出しました。島へ渡る海岸できれいなアワビの貝殻を見つけました。孫は「お父さんのお土産」といって拾い上げて持ち帰りました。

 海岸は宇和海特有の青石海岸で海も透き通るようにきれいで、沖合いを別府~八幡浜航路のフェリーが長閑に走っていました。くじら病院の石の風車や諏訪崎半島を横目で見ながら八幡浜の元の道に無事戻り、孫と私のリクエストに応えて、大洲の温泉でひと風呂浴びて食事をし、暗闇の中を瀬戸内海側に出ると、わが双海町の下灘みなと祭りの花火が威勢良く上がっていました。寝ていた孫を起こし路側帯に車を止めにわか設えの花火見学と相成りました。思えばこの下灘みなと祭りも私があらん知恵を出して魚市場を開放した祭りに育て上げました。今は後輩たちや漁協、それに地域の人が一丸となって祭りを支えてくれています。花火を見ていると朝早くから夜遅くまで夢中になって祭りを運営した昔が懐かしく思い出されました。

  「花火見て 祭りの記憶が 甦る 夏は今年も 同じ暑さに」

  「海沿いの 家並みの向こう また海が 見え隠れする のどけき景色」

  「この島で 泳いだ昔を 懐かしむ 妻のふるさと 海は長閑けき」

  「麦わら帽 被った孫の 得意顔 夏の日差しが 強く照りつけ」 



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shin-1さんの日記

○人間牧場が愛媛新聞で紹介される

 まちづくりの第一線から退いてからは新聞や雑誌の掲載などはほど縁遠いものと思っていましたが、このところ人間牧場の話題があちらこちらで一人歩きするようになって随分取材の依頼があるようになりました。売名や地域を宣伝することももう余り意味がないと思っていただけに多少の戸惑いや困惑があるのも事実です。一昨日の夕方、愛媛新聞の樋口さんから「明日の朝刊地方版に人間牧場の記事を載せる予定です」と旅先の大分県へ携帯が入りました。6月に開いた「逆手塾」の取材が何かの手違いで出来なかったため、それを含めた取材が先日あり、伊予市担当地方部記者の樋口さんが人間牧場へやって来ました。まちづくりをライフワークにしてきた私にとって、地方新聞記者との付き合いは長く、30年の時の流れの中で知り合った記者の数は数え切れないほどですし、新聞社を訪れるとその人たちが偉くなって新聞社を背負っているのです。多分樋口さんも20年後にはそんな地位に赴き昔を懐かしむのでしょうが、その頃には名もなき私の名前が新聞の「お目出度お悔やみ」の欄に無造作にも寂しく載ることでしょう。

 一昨日私は、大分から帰る間もなく二つの集会に参加しました。ひとつはNPO法人CINCという団体の定時総会です。最近はNPO花盛りでこの名前を聞いたとき「何ですか」と聞き返したほどでした。何でも四国エリアの建設業関係者が社会貢献の一環として地域交流、地域環境、地域防災に持ってるノウハウを生かそうと設立したそうですが、その集会のお世話をしている方がその新聞のスクラップをコピーして参加者に配っていたので、大きな関心が寄せられました。もう一つはその夜開かれた私が会長を務める県立松山工業高校PTAのOB会「まさご会」総会でも新聞の話題で持ちきりでした。ふって湧いた新聞記事にタイムリーさや懐かしさを覚ええるに足りる十分なネタだったようです。新聞の記事に載った人間牧場とは何をする所か、場所は何処だ、一度お邪魔したいなどの意見が相次ぎ、この日は何時になく深い交流が出来たように思います。新聞の効果は大したものです。それにしても自分が旅先で見てもいない新聞記事が元で、わが家は朝から大変な騒ぎだったようです。妻は朝から電話対応に追われ、電話の上の白板は書ききれないほどのメモで埋まりましたし、私のメールも何時いなく多くて、9時に帰ってからその対応に追われました。

 新聞のスクラップも合併したり私が現場からいなくなってすっかり少なくなり止めていましたが、また騒がしくなってきました。情報の発信は私たちまちづくり人にとって大切な仕事です。新聞を見たテレビ局から今朝は映像取材の依頼です。この歳になりこの立場になると目立つことが少し後ろめたく感じるのですが、ええい、この際最後の一花と思うべきででしょうか、誰か私の悩みにお答えください。

  「朝刊に デカデカ載った 記事を見て 音信復旧 あちこち声が」

  「新聞の 効果は凄い もんだねと 改め思う 一昨日朝刊」

  「孫さえも 人間牧場 口にする 麦わら帽子 買った知らせが」

  「どうしよう 突然故障の 草刈機 寿命ですとて 直して使う」


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shin-1さんの日記

○三丁目の夕日

「若松さんええ映画だから見たらいいよ」と友人から勧められていた映画を、思いもかけず息子が借りてきたDVDで鑑賞する機会を得ました。大学の講義が終わって家へ帰り妻の手料理で遅い夕食を食べようとすると、妻が一人テレビを見ているのです。「お父さんこの映画はお父さんも見たらいいよ。私たちが子どもの頃の出来事みたいだから」と勧めてくれました。食事をしながら見たのですが、ついつい午前様になっても止められず最後まで見てしまいました。

 私は昭和19年、妻も昭和20年の生まれですから、少年時代は物のない時代に育ちました。しかし戦後の復興を肌で体験した私たちにとっては今のような犯罪も殆どなく、日本が最も安定した幸せな時代だった用に思うのです。最初から見ていないのでこの映画の主役が誰なのか分りませんでしたが、たくさんの自分の思い出と重なって最後のシーンは涙が出て止まりませんでした。

 町工場というべき小さな自動車屋家族の生き方は実に面白く、頑固な親父、腕白な息子、知的な奥さん、工員募集と履歴書で自動車と自転車を間違い青森から集団就職でやって来た住み込み中卒女性の織りなす下町のドラマは実にほのぼのとしていました。私は最近よくその頃に井沢八郎が歌って大ヒットした「ああ上野駅」という歌をハーモニカで吹くのですが、金の卵と持て囃され田舎から集団就職列車に乗せられて都会へやって来た若者たちのことを思うと、あの物悲しいメロディーについつい胸が詰まるのです。私たちの同級生もみんな同じように都会の雑踏に消え、45年余りの時の流れの中を必死で生きて今定年を迎えようとしているのです。

 もう一つのシーンは大学を出て小説を書くもののいつも懸賞小説に落選しうだつの上がらない小間物屋の青年と飲み屋の女性、それにその女性からふとしたきっかけで預かった妾の子との同居生活、淡い恋物語も泣けてきました。子どもを親の社長が迎えに来るも再び帰って来るシーンは夕焼け空がいい雰囲気を出していました。私たちの子どもの頃は妾を囲い込むハイカラな親父が私たちの村にも何人かいて、同じような子どもの話題も事欠きませんでした。

 テレビを買い、そのテレビを貧乏なご近所さんが大勢集まって力道山の空手チョップを見るシーンは私の子どもの頃の思い出と全てダブりました。多分このシーンを知っている私は古く、もう賞味期限が切れ掛かっているのでしょうが、もののない時代であっても本当の幸せがあったように思うのです。ちゃぶ台のある居間はキッチンに様変わりをしました。風呂だって五右衛門風呂から蛇口をひねればバスにお湯が出ます。麦ご飯や芋のおやつも今はダイエット食品です。痩せた家族は肥満屋成人病を気にする孤独な群集になり、一つ屋根の下に住みながら家族の団欒さえもありません。何かが狂い、どこかでボタンを掛け違えた姿は、三丁目の夕日という映画を見ていると滑稽にも思えてきました。

 この映画に私の町の美しい夕日をダブらせたのは私だけかも知れません。結局この映画のシーンに美しい夕日は一回も登場しませんでしたが、でも夕日の持つ最大の魅力を最後まで隠した作者の心憎い演出にはただただ脱帽です。いい映画を見せてもらい、また新たな夕日の魅力を発見しました。

 (この写真は伊予市双海町灘町3丁目辺りに落ちる正真正銘の「三丁目の夕日」です)

  「友人に 勧められたる 映画見て 思わず涙 アルバム捲り」

  「何もない だから幸せ だけかない 何でもあるに ないは幸せ」

  「白黒の テレビカラーに 様変わり チャンネル回す 昔懐かし」

  「テレビ買う 屋根の上には アンテナが おーい買ったと 威張るようにも」


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