shin-1さんの日記

○石油は安くなればいいのか

 道路特定財源が問題にならなかった頃は、油が高いのは原油産油国が増産しないからだとまるで他岸の火事くらいしか思っていなかった政治家や国民が、何故か国を二分するような大騒ぎを始めています。ごり押し自民党と何でも反対の民主党が国民の暮らしの安定という同じ土俵に立つこともなく反感反目している姿は、政権維持の自民党と政権奪取の民主党が自分のことだけしか考えない何物でもないのです。自民党も国民のため、民主党も国民のためと、何かと国民を引き合いに出して格好いい事をいうのならもっと妥協点を見つけるべきです。議論を尽くしたという自民党と議論が足りないという民主党はこの四ヵ月余り、一体何をしていたのか、それこそ政治家は月給泥棒になり下がっているのです。昨日の総理の記者会見も一定の評価は出来るものの遅きに失した感じは拭えないのです。数の理論でいけば衆議院は自民党、参議院は民主党とねじれならぬいびつな関係に胃の痛むような総理の姿は内閣支持率の低下よりも更に哀れささえ感じ、やがて福田総理も阿部総理のように途中で投げ出してしまうのではないかと思うのです。日本の将来もいよいよ危なくなってきたと思うのは当然かも知れません。

 さて当の私たち国民はどうでしょう。石油は安くなればいいに越したことはありません。今の油の根上がりは異常ですから、暮しは決して楽ではないのです。しかし道路特定財源という油に上乗せした税金を廃止すればそれで片がつくほどこの問題は軽くはないのです。ただ油の値が下がればいいとだけしか思わない国民が多いのも事実で、既に4月1日からの値下がりを見越して買い控えが全国各地で起こっているのです。私も昨日松山へ行ったついでに、友人が経営する門田石油でガソリンを入れました。確かにあと3日もすれば安くなるのですから、車に乗らないようにすれば済むことなのですが、へそ曲がりと言われても私は敢えて油を入れたのです。

 この際道路特定財源の問題を環境に軸足を置いて考えてみては如何でしょう。環境といえばいつも問題になるのが二酸化炭素です。二酸化炭素排出量問題の解決には大きく分けて二つの考えがあります。その一つは石油の消費量を節約すること、もう一つは緑を増やすことなのですが、いずれも国の経済や政治が絡むことから中々前に向いて進みません。特に先進国や発展途上の国々では石油が重要な役割を占めていて、節約どころか使用量は増加の一途を辿っています。産油国もいずれはなくなるであろう化石燃料を一日でも長く持たせて高く売り、その資金で国づくりをしようとする意図もよく分るのです。

 一方森林資源は未開発地の森林が次々と伐採され、今は現地で製材され木材に加工して先進地へ運ばれているのです。特に今まで輸出国だった国も経済発展の恩恵で木材の輸入に転じた国もあるのです。日本の場合は外材に押された長引く国産材の不況によって、皮肉にも森林が残っていますが、手入れをしない山や無秩序な林道整備、相次ぐ台風などの天災によって、山は荒れて風倒木は災害の原因にすらなっているのです。今に石油に代わる燃料として木が重要になってくるのでしょうが、それまでに環境の視点からもエネルギーの視点からも森林保全をしっかりと考えなければならないと思うのです。

 さて石油は安くなるのでしょうか。参議院も衆議院も議長が仲裁さえ出来ない異常事態に国民は政治を見放し、次の選挙には馬鹿らしくて行かないかもしれません。何故投票率が下がるのか、国民も悪いが政治への不信が不参加という方法を取っている事を、当事者たる議員はもっと考えて欲しいものです。

  「安くなる 嬉しいけれど 別立てで 増税される 油を売るな」

  「油売る 暇があったら 議論しろ 国民のため 容易く使うな」

  「俺達は 油枯渇の 時代にも 生きてゆけるが あんたらどうか」

  「政治家は 嘘つきばかりで 信じれぬ 選挙終われば とんとご無沙汰」

  

 

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shin-1さんの日記

○雷が一番怖いパソコン

 昨晩9時ごろ、春雷ともいえる雷が怖いくらいゴロゴロ鳴って、一瞬近くに落ちたのではないかと思うほど大きな「ドスーン」という音がしました。テレビや小説などではよく紹介される秋や春の季節の変わり目によく見られる現象で、雷とともに暗闇に閃光が走り、これも一瞬ですがまるでカメラのフラッシュでも焚いて、辺りが昼になったような明るさになりました。昔は雷におへそを取られると雷が鳴るとへそを隠したりしたものですが、科学万能な現代社会にあってもなお、私たち凡人には分らない部分が数多くあって、理論上分ってはいても人間の踏み込めない自然の持つ偉大な力に、今更ながら驚くのです。

 群馬県に出かけた折、「雷は上州では常習」と聞きましたが、瀬戸内は気象の変化の比較的少ない温暖な地域だけに、時ならぬ雷の音が大嫌いという人が案外多いようです。私などは子どもの頃から大好きではないにしても大嫌いでもなく、女の子が目をつぶり耳を塞ぐ姿を見て、格好よく強がって見せたりしたものですが、目も耳も塞いだ女の子には強がった姿など見えるはずもなく、今頃になってその事に気付く愚か者なのです。

 雷といえば、デジタル万能な電子機器にとっては致命傷で、わが家のように共同協調のアンテナからテレビの電波をいただいている難視聴地域では、親となるアンテナに雷が落ちれば、そのアンテナを伝わって子のテレビが故障することが時々あるのです。今は避雷針技術が進んでいて、落ちた雷は地中に逃げる仕組みになっていて、直接テレビが壊れる心配はありませんが、それでも何年かに一度は「雷が落ちてテレビの写りが悪いので修理してます」と有線放送があるようです。

 私の町でもテレビやパソコンが雷の被害にあった家は結構あるようで、電源を抜いたり電話を切ったりして対応している人もいるようですが、今頃は直ぐにスイッチが入るよう常に通電されているタイプが多いので、いちいちその都度電源を元から切ることも面倒で故障になることが多いようです。でも雷が入ったテレビやパソコンは役に立たず、買い換えねばならず、どこにその不満をぶちまければいいのかも分らず、多額の出費に幻滅するよりは、転ばぬ先の杖の方がまだましのようです。

 昨晩もパソコンを操作中の出来事だったので、どうしようか迷いましたが、面倒臭くてそのままの状態で難を免れました。孫に「雷が一番怖いのはと尋ねたら「ドラえもん」というかも知れませんが、私自身は雷はそんなに怖いとは思いませんが、やはりパソコンにとって雷は一番怖い相手なのです。

 いつものように朝起きると書斎に入ってまずパソコンのスイッチを入れて立ち上げます。それから身支度を整えるとパソコンは起動から操作モードになって打ち始めるのです。何でもないこんな日課の繰り返しが今の自分の日々の暮しです。いつの間にかあれほど嫌いだったパソコンが暮しの一部になり、パソコンなしでは生きてゆけても仕事は出来なくなりました。

 私の近所に役場を退職した先輩が何人かいます。Kさんは体を悪くして辞めました。Hさんも精神的ストレスからうつ病になり早期退職をしました。別のHさんは定年退職して家庭菜園で農作業をしています。また少し年配の

別のKさんやHさんは少し歳がいって悠々自適の暮らしをしています。Kさんも、Hさんも、別のHさんやKさんもまったくパソコンをやりません。多分彼らの時代は事務用品といえばガリ版かソロバンか電卓で充分だったのだろうと思われます。でもそんな時代の人でもパソコンを習ってインターネットをしている人は沢山います。

 「若し、パソコンが私の暮しからなくなったら」と思うとゾッとします。そのくらいパソコンは私に情報というかけがえのない文明をもたらしました。先輩諸氏の生き方を否定するつもりは毛頭ありませんが、いい道具を勝ち得たと手前味噌に喜んでいます。

  「雷が 嫌いなパソコン 前にして ゴロゴロ近く 右往左往す」

  「先輩は 日頃何して いるのやら パソコンやらず 年齢重ね」

  「ガリ版も ソロバンも死語 なりにけり ワープロさえも 知らない世代」

  「春雷が ボロでねじつつ 去ってゆく 明日は桜の 蕾開くか」


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shin-1さんの日記

○来るは嬉しく、されど帰るは寂し

 4日前の夕方、孫から電話がかかってきました。「春休みになったので泊まりに行きたい」というのです。私に春休みはないのですが、何件か人に会う約束をしていて、孫同伴でも困らない程度なので引き受ける事にしました。そしてこのところ3日間わが家に長逗留となりました。その間昼間、妻は仕事なので私が面倒を見なけらばならないのです。妻が私と孫の関係を今人気のテレビドラマにあやかって「相棒」というほど、孫と私の息はぴったりで、楽しく遊んでやりました。

 一日目は夕方来たので、部屋の中でダンボールを使った工作遊び程度でしたが、2日目は人間牧場へ妻の作った弁当を持って出かけました。「おじいちゃん、まるでピクニックじゃねえ」と孫が言う通り、私は農作業をしながら途中休憩のお茶や昼食を水平線の家のウッドデッキで楽しみました。

(妻の作ってくれた弁当です)
(中身は海苔巻きと梅干しのおにぎり、それにデザートです)
(野趣味豊に大好きな梅干しの入ったおにぎりをほお張ります)

 二日目は登山です。この日はあいにく風が強く肌寒かったのですが、双海町のシンボルである本尊山に二人で登りました。戸損どうの入口にある天一稲荷神社にお参りしていざ出発です。鉄道をまたぎ、本尊山の頂上までは細いウサギ道しかなく、夜来の雨で少し濡れていましたが、一歩一歩踏みしめるように上って行きました。孫は濡れ落ち葉や笹の根に足を取られて何度か転げましたが、意外と元気に9合目の鳥居付近まで20分ほどで登りました。

(鳥居の中にシーサイドを入れて記念写真を撮りました)
(九合目から真下に見えるわが家の全景です。庭に止めている田舎のオープンカーもくっきり、畑仕事をしている親父の姿も確認できました)
(中学校の全景です)
(双海町の中心市街地です)
(これが噂の私が計画したシーサイド公園です)

 ここから頂上までは急峻な山道が続き、難所中の難所で、朋樹の手を引っ張って何とか頂上まで登りました。山頂はまだ寒く、私が昔種芋を持って上がってばら撒いた水仙が今が身頃と咲き誇ってとても綺麗でした。

(満開の水仙の花)


 頂上には国土地理院の三角点が設置されています。側に多分天一稲荷神社改築の時に屋根から下したものと思われる屋根瓦が置かれていました。


(三角点)
(天一稲荷神社の屋根瓦)

(山頂の大きな岩)

(山頂を示す標識、187m)

(頂上でご満悦の孫朋樹)
(孫が撮影してくれた私のスナップ写真)

(山頂から見える坂の集落小網地区)


 下山は登よりことの他難しく、難所は孫を背負っての下山となりましたが、孫は背中でキャーキャーと嬉しそうにスリルを味わって騒いでいました。僅か一時間の登山は孫にとってもいい経験だったようです。麓の散髪屋さんにジュースとお茶を貰い、喉を潤しました。

(無事下山し稲荷神社にお礼のお参りをしました)

(向こうにトイレが写っているのも気付かずシャッターを押すあたり、私のカメラアングルはまだまだ未熟ですが、椿の木の下に印象的に散っていた椿の花です)


  「よく見れば 花の向こうに 小便器 これでは作品 悪評が落ち」

  「弟が 早く歩ける ようにして 祈りし姿 何とも優し」

  「孫を背に 急な坂道 下り降り 孫はキャーキャー スリル楽しむ」

  「おじいちゃん ハイチーズして ハイパチリ 出来た写真は 痩せこけ自分」


 追伸

 孫が3泊4日の逗留を終えて今朝帰って行きました。来る時は楽しく迎え、居れば居たで煩わしい感じもしましたが、帰ればどこか寂しいものです。孫は明日から家族で大阪のおばあちゃんの所へ帰省するそうです。こちらへ帰ればまた来ることでしょう。


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shin-1さんの日記

○用がなくなったストーブ

 随分春らしくなって、日本列島の各地から桜の便りが聞こえるようになってきました。愛媛県宇和島市はどういう訳か日本で一番桜の開花が早い地域として毎年紹介されてきましたが、気象台の統廃合によって桜の目視をする役目もなくなり、ちょっと寂しい思いをしていましたが、元気象台職員を中心に標本木の監視を続けているそうで、その円山公園の桜の開花が先日発表され、いよいよ愛媛県に桜前線が上陸しました。今年はあの桜を見に行こうと、いつも思うのですが何故かその時期が忙しく、またすっかり忘れてしまって見逃しています。旅先の国道で、「天然記念物○○桜」などの標識をよく見ることがあり、またご当地の桜自慢を聞く度に、メモをしたりしていますが、一向にはかどっていないのです。特に合併して高知県仁淀川町になった旧吾川村のしだれ桜は、教育長さんから熱心に誘われていたので、今年は何としても妻を連れて行って、二人で見たいと思っています。人間の人生は短いもので、もし私が自分の生活設計どおり85歳まで生きても、もう21回しか春は来ないのですから、しっかりと季節の移ろいを見届けたいと思っています。

 私の書斎のストーブが今年も春の訪れによっていよいよお払い箱になりそうです。ストーブの利用期間は私の場合、11月1日から3月15日までと決めています。居間は10月23日の秋祭りから3月31日までのようですが、私は少しCO2の削減や京都議定書に協力して我慢をするようにしています。それでも今朝のように南国四国といえども少し冷え込む時は少々寒く感じますが、スリッパを履いて厚めに着込んで朝の時間を過ごすのです。

 今年は私の部屋専用のステンレス製のやかんを3千500円を出して買いました。少し小さめですが優れものでデザインも気に入って、湯気が書斎の乾燥を和らげてくれたり、時にはそのお湯でお茶を入れたりして楽しんでいます。しかし少し小さいため、購入してから何度も空焚きして、大失敗をしてしまいました。毎朝ストーブをつける度に中の容量を確認しているのですが、今年の冬は寒かったため、何度か一日中ストーブをつけて頼まれた原稿書きに夢中になって、ついつい湯気が出ないことに気がつくのです。アルミだと解けているかも知れませんが、幸いステンレス製なので一難は免れましたが、歳を取るとそろそろ冷暖房への転換を考えなければなるまいと思ったりしています。でもストーブの温かさは冷暖房などと違いどこか温かさを感じて好きなのです。

 私が子どもの頃は火鉢でした。居間に大きな火鉢があって、寒い日は火鉢の側にみんなが集まり、火勢が弱まると新しい炭が加えられ、クヌギの炭火がパチパチとまるで花火のようにはじけたものです。ストーブが入るまでのほんの少しの間練炭火鉢という優れものが一日中お湯を沸かしてくれたのも、もう遠い思い出としてか記憶には残っていません。

 昨日残った油を空焚きしました。いよいよ倉庫へ片付けます。約4ヵ月半世話になったストーブも、これから7ヶ月間は深い眠りにつくのです。また来年も私の体を温めてくれる事を信じています。

  「四ヵ月余 温め続けた ストーブに お礼言いつつ 空焚き済ませ」

  「少しだけ 化石燃料 勘弁し 環境貢献 今年の冬も」

  「雪国の 友から便り 雪景色 ジャガイモ 植えるまだ先と」

  「今年こそ 枝垂れ桜を 見に行くと 妻に約束 カーナビ故障」 

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shin-1さんの日記

○カーナビゲーション設備が故障

 数日前、妻が孫を連れてドラえもんの映画を見に行くというので、重信の映画館にアクセスしようと電話番号検索でカーナビをセットしましたが、どういう訳か言う事を聞いてくれません。仕方がないので感を頼りに出かけて行きましたが、どうにか開演時間に間に合ったようでした。その後も私が再三再四いじくるけれど、データが入力できないと表示があるのみです。どうやら故障かなと思い、カーナビを設置してもらった砥部町の懇意な車屋さんに出かけましたが、ご主人はあいにく留守で、昨日代車を持って来て車ごと取って帰ってもらいました。

 今朝電話があって、どうやら修理するにはカーナビ本体を取り外し、メーカーに送らねば修理は出来ないというのです。取り付けてから5年以上も経っているので、その後のカーナビの性能は著しく向上しているので、修理より取り替えた方がいいような口ぶりでしたが、愛着のある機種だけに今回は修理を頼んだのです。車屋さんの話によると、修理には2週間ほどかかるらしく、住所を探す自家用車での旅も今のところないことから、また代車を戻して、これから2週間カーナビのない不便な生活が始まるのです。

 カーナビを取り付けてから、私の講演活動などは一変しました。時間を追うように忙しく動き回る私にとってカーナビはまさに百人力で、時間的なロスが殆どないのです。特にカーナビを取り付けてよかったと思うのは、夜間知らない道を走行するときです。私が車で行く場所は中国四国、九州の主に山間地や漁村など田舎が多く、夜ともなると聞く人とて殆どないような場所が多いのです。ましてや田舎の道は道路標識も殆どなく、また県道や市町村道となるとまるで迷路のようで、間違いなく走れるのが不思議なほどなのです。そのためカーナビには随分助けられました。取り付け金額が幾らだったか覚えてはいませんが、もう充分に元は取ったようです。

 最近5歳になる孫の朋樹がカーナビに興味を示し、用事もないのに遠隔操作でいじりまくるのです。それでも壊れないから大目に見ていましたが、これからは触らせないようにしないといけないと、車屋さんに笑って話しをすると、「それもお孫さんへの投資ですよ」と笑われました。

 今回の修理で予期せぬ出費がかかりますが、ついでにETCを取り付けようと思っています。私は愛媛県の金融広報委員会で金融広報アドバイザーをしていますが、カードでの決済は殆どしない暮らしをしています。ゆえにETCの導入は今まで躊躇していましたが、便利、安いとなると取り付けない訳にはいかず、ついに思い切って取り付ける事にしたのです。

 カード決済は確かに便利です。現金を持たずとも買い物も出来るし海外旅行だって平気です。でもどこか好きになれない私はやはり古いタイプの人間なのでしょう。偽装カードの心配も、カードでのトラブルもないのですから、これほど確かなことはありませんが、カード時代に乗り遅れた人間にとっては何とも複雑な気持ちです。

 カーナビが復旧するのを首を長くして待っているのは私だけでなく、妻も同じです。カーナビを利用して八十八ヵ所遍路旅をこれまで10年間もかかってやってきました。納経帳は既に全てのお寺を終わっていますが、掛け軸がまだ少し残っています。早く終わらせて高野山参りをしたいと思っていて、この春先から楽しみにしていたようで、出鼻を挫かれたカーナビの故障に、身も心も沈みがちなので、一日も早い回復を祈りたいと思っています。

  「カーナビの 声に諭され 間違わず 知らない道を 随分走る」

  「ついでにと 注文したが ETC 何の略語か とんと分らず」

  「お遍路も カーナビお陰 喧嘩減り 後は高野へ お参り行くのみ」

  「右曲がれ 左へ曲がれ その都度に まるで空から 私を監視」

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shin-1さんの日記

○借景に値する本尊山

 わが家の直ぐ目の前に本尊山という標高180mの山が聳えています。この山は峰が海岸まで突き出しているため東側の一部分を除いて表、横、裏と3方から見ることが出来る大変珍しい山で、双海町のシンボルとなっていますが、車道がなく急な山道だけ、しかも踏み切りもない予讃線の鉄道線路をまたがなければならないので、上る人も殆どなく、荒れた山となっています。中世時代には頂上付近に城郭があって、今でも郭と思しき平地が幾重にもあって、往時を偲ぶことが出来ますが、矢竹が生えているため、クモの巣に行く手を阻まれ、それ程高くない山なのに町民には比較的縁遠い存在なのです。でも双海町民は雑木林に覆われたこの山の優美な姿にどこか惹かれているのです。

 この山の姿が一番美しく見えるのはやはり西側からで、唐崎辺りから見るとまるで中国の水墨画に出てくるような美しい景色をしており、菜の花の咲くこの頃には、「菜の花や月は東に日は西に」の言葉そのままの姿を見ることが出来るのです。勿論夕日のメッカふたみシーサイド公園からの眺めも素晴らしく、来園した人から「あの山は変わった形をしていますが何という名前の山ですか?」と尋ねられることがよくあります。

 私がまだ若く、まちづくりを始めた頃、その頂上へ中世の城郭を再現しようと試みたことがありました。一週間をもかけて、草刈機で矢竹を刈り、日本城郭協会の井上会長を招聘して踏破調査を行い、城郭公園の概略まで書き、県の補助金まで取り付けたのです。でも性急な行動に疑問があるし、自然破壊になると反対が起こり、断念せざるを得ませんでした。枕木千本をJRに寄付してくれるよう頼んで、町民のボランティアで日本一長い階段を作ってやろうと、そこまで計画は具体的になっていましたが、残念ながら頓挫をしたのです。今でもその当時のやる気と図面が脳裏に焼きついていて、宝くじでも当たったら自費でもなんて馬鹿な事を考えて歯向かっていました。

 この山の魅力は切り立った険しさです。何十年か前までは「山見小屋」と称する漁業基地がありました。イワシの魚群を発見する最前基地です。目利きの良い漁師さんが毎日登り、海の色を見て白い大ウチワのようなザイを振り、「ツォーイ、ツォーイ」と大声を張り上げて漁船や漁民に魚群の位置を知らせていました。魚群探知機の普及でその役割を終え、晩年は無線の中継基地となっていましたが、今はもうその姿を見ることは出来ません。

 ここは天一稲荷神社の奥の院となっていて、鳥居が立っています。昔小網青年団が建てたそうですが、風雨で崩れていました。最近になって有志が建立し、シーサイド公園からは眺めることができます。また中腹には私たちの家も加入しているテレビの強調アンテナが立って、私たちにいい電波を受信させているのです。またここには時を告げるサイレンが設置されていて、朝5時、12時、夕方5時に時を告げ、火事などの緊急荷物会われていましたが、それも有線放送の普及によって姿を消しました。

 わが家からは、直ぐ手の届くような位置に見えますが、その姿は西から見る優雅さとは似ても似つかぬ荒々しい姿をさらけ出しています。自然林のため、春の芽吹き、そうもうそろそろですが山桜が松の緑に映えそれは美しい景色です。初夏の霧のたなびき、盛夏の残照、秋のハゼ紅葉の鮮やかさ、冬の雪景色など、どれをとっても素敵な、わが家にとってはまさに借景なのです。

 年に一度は登りたいと思っていますが、今日当たり転機が良いので孫を連れて登ってみようと、今朝の本尊山を見て思いました。

  「あの山に 夢を描いた 若き日が 今は遠のき 加齢ひしひし」

  「分け入りを 拒み続ける 神の山 遥か中世 同じな人が」

  「ウグイスの 馴れた鳴き声 遠くから おいでおいでと 呼んでるようだ」

  「朝な夕 この山見つつ 暮らしてる 借景俺の 築山じゃけん」

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shin-1さんの日記

○ポカポカ陽気の水ぬるむ頃

 桜の開花も間近となって、海沿いの町にも春がやって来ました。もう間もなく海岸に沿って伸びる国道には桜の帯ができることでしょう。今日は孫朋樹の守りと遠来のお客様がやって来るため、限界集落の勉強会は残念ながら欠席しました。そのお客様も午前中に帰り、昼は妻の用意してくれたお弁当を孫と二人人間牧場のウッドデッキで広げ、長閑なひと時を過ごしました。早いもので孫ももう5歳です。食欲などは私より旺盛で、大きなお結びを6個用意していましたが、私は2個、孫は3個もペロリ平らげ、おかずも殆ど孫が食べてしまいました。

 今日は人間牧場に植わった周りの木々の下枝の剪定です。防風垣から生長した杉の木なのでいびつな格好をしていて、下枝が風景を遮っているのです。木によじ登ってその下枝を切り落としました。多分もう大風も吹かないので、防風より景観なのです。海に向って立つ水平線の家の右側に立つ杉の下枝を切り落とすと、それは見事なやぶ椿の木が現れました。このやぶ椿は少々晩生なのか春三月を終りだというのにまだ蕾が多く、これから花盛りとなるのです。最近は洋風の椿が主流となっていますが、やぶ椿のような二本の在来種も捨てがたい味があり、椿の真赤な花が落ちた姿もこれまた素敵な風情を醸してくれるのです。

 今日は茅の剪定も行いました。茅とはススキのことで、水平線の家の屋敷には何年間も放任していたため無数の茅が根を張っていましたが、新築の折全て根こそぎ抜根してしまいました。一株だけ風情を演出し下にある墓地を隠すため残していましたが、これがまた四季折々の顔を見せてくれるのです。春先の新芽、夏の涼しさ、秋のススキ、冬枯れの寂しさなどたった一株だのに季節を感じさせる一品です。今はすべて枯れてまるでドライフラワーのようです。

 草刈機を回して根元から刈り取りましたが、その硬いこと硬いこと、容易には刈り取れませんでした。それでも10分ほどで狩り払い、その残茎はその横に植えたブルーベリーの畑の草押さえとして入れました。

 孫と二人でお昼寝タイムを楽しみました。最近は孫もお昼寝がなくなりましたが、私は昨晩が遅かったため少し眠気をもよおしました。二人で二階のロフトに上がり、通称寝部屋と呼んでいる畳一畳の部屋に入り、寝袋にくるまって毛布を被り、二人が一時間ほど眠ったのです。孫はまるで湯たんぽのようでポカポカしてとても気持ちのいい至福のひと時でした。

 帰りに孫のリクエストに応えて海岸で磯遊びをしました。今日の海も穏やかで、海岸にはワカメが沢山流れていていました。磯遊びをしている他の人は水に濡れながらワカメを採っていましたが、私はいながらにしてビニールの袋にいっぱいワカメを集めました。孫は相変わらずカニやヤドカリなどを探して石を剥いでいました。カニを見つけては大騒ぎしている姿を見ると、こちらまで嬉しくなるのです。

 帰宅して仕事から帰った妻と一緒にワカメを茹で、庭に張ったビニールの紐の上に干してゆきましたが、あいにく夕方からポロリポロリと雨が落ちだし、「あなたがこんな真面目な事をするから雨が降る」と笑われてしまいました。ああーなげかわしいですね。

  「孫の守り 実は私を もて遊ぶ 野山海まで 日がな一日」

  「湯たんぽを 抱いているよな 孫と寝る 昼のひと時 ついうとうとと」

  「浜に出て ワカメ大漁 意気揚々 挙句の果ては 茹でて干す羽目」

  「子どもには 浜での遊び 新鮮か はしゃぐ孫見て 首をかしげる

  追伸

  今夕、妻が先日採ってきたニナを塩茹でしました。爪楊枝でほじり美味しいと二人で食べましたが、孫は何故か食べず、そのうち目にいっぱい涙をためて泣き出しました。聞けば「せっかく採ったニナを茹でて食べるのは可哀想だというのです。困った私たちは食べるのを止め、台所に今日採ったニナがあるのを見せました。バケツのカニはカニやニナ、それにハゼが2匹います。安心したのか泣くのを止め、私の布団に潜り込んで、カニの話しを聞きながら寝ました。どう教育したらいいのか、突然の出来事に戸惑いました。

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shin-1さんの日記

○好きなことば

 色々な本を読み、色々な言葉に出会い、色々と書き留め、色々な場所で思い出して活用してきましたが、それらの殆どはいつの間にか忘れ去ってしまいました。また自分もそんな色々な言葉に感化されて、色々な言葉を作り、それもた自著本に書き留めたりして、自分以外の人が私と同じように色々な場所や場面で利用したと、風の頼りに書いていました。

 一昨日私の元に一通の封書が届きました。埼玉県熊谷市の龍前宏さんからです。埼玉県での私の講演が縁で付き合いが始まり、不定期ながら自分が雑誌に書いたコピー文とレコーダーテープが届くのです。龍前さんは相当博学で愛読者らしく、毎回ドキリとするような文章を送ってくれるのです。それは多分最近読んだどの本よりも多い情報量で、私の硬化しつつある頭脳を叩き割って、新しい知恵を注入してくれるのです。

 今回は「私の好きな言葉」と題して、成田公民館長に就任以来隔月発行されている「公民館だより」の片隅に、読書遍歴を通じて、琴線に触れた先人達の名言を掲載していた幾つかの言葉が届きました。

 世の中にもし幸福というものがあるとすれば、それは他人に喜びを与える以上の幸福はない。そして、そのために、人はどれほどのことを忍ばねばならぬものだろうか。

                       白州正子著「銀座に生き、銀座に死す」より

 欲なければ一切足り、求むるあれば全て窮す。

                       良寛和尚のことば

 ふりむくな、ふりむくな、うしろには幸福はない。

                       寺山修司詩集より

 一夜の楽しみは酒、ひと月の楽しみは淡い恋、一生の楽しみは友。

                       「戦艦大和の最後」の著者、吉田満のことば

 どんなに賢くとも、にんげん、自分の背中を見ることはできないんだからね。

                       山本周五郎著「さぶ」より

 湖に浮かべたボートのように、人は後ろ向きで未来に入ってゆく。目に映るのは過去の風景ばかり。明日の景色は誰も知らない。

                       フランスの詩人 バレリーのことば

 互いに非難することがあっても、非難できる資格が自分にあったかどうか、あとで、疑わしくなる方がいい。

                       吉野弘 作詩「祝婚歌」より

 人間は二度と生まれてはこられない。又、そんなにいつまでも生きていられるものでもない。一日一日無理をせず、最善を尽くして生きてゆこう。

                       昭和天皇侍従長 入江相政著「不如意の美」より

 人の美しさは顔形だけではない。美しいことばを使い、美しい表現力を持つこと。わからない言葉や文字に出会った時、おっくうがらずに辞書を引き確かめる。その積み重ねが人の魅力をつくる。

                       美容学校長 小暮実千代のことば

 人間が身体を養うのに食べ物が必要なのと同じように、人の心や魂にも養分が必要だ。そういう魂の食べ物が美術であり、音楽であり、演劇であり、文学なのだ。

                       作家五木寛之のことば

 人と人とは互いに理解しなきゃ仲良くはなれない。こっちが胸を広げなきゃ相手も胸を広げない。それは人間のルールだ。

                       柳家小三治(噺家) 一冊の本より

 何千億か、何万億か、永遠の宇宙に浮かぶこの地球。ほんの一瞬だけ生きる人間、その人間が一生の間に使うものの量というものは、ほんとうにわずかなものだ。

                       沢村貞子著「老いの楽しみ」より

 そろそろ自分自身が感じる幸福を探すことだと思います。他人に見せるための幸福は、所詮は薄っぺらなものでしかない。お金や物にとらわれるのはもう止めにしませんか。個人としての自分、そして自分がやるべき仕事、その一点を見つめることで、きっと幸福の芽が顔を覗かせると私は思います。

                       新藤兼人(九十六歳)著「いのちのレッスン」より


  「魂を 揺さぶるような 言葉抄 俺はまだまだ 門前小僧」

  「なるほどと 合図槌打ちて 文を読む 一歩前行く 言葉数々」

  「人生の 奥行き間口 大きくて 気付かぬままに 死んで行くかも」

  「人間は 言葉を餌に 生きている 言葉次第で 生きる勇気が」 

       

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shin-1さんの日記

○小学校の卒業式

 先日地元の中学校の卒業式に招かれ感激した涙もまだ乾かないのに、今度はやはり地元の小学校の卒業式に列席しました。中学校の卒業式に比べると、小さな子どもゆえ、感涙咽ぶような涙はありませんでしたが、それでも純真さが漂って、とてもいい雰囲気でした。

 卒業式は体育館で行われましたが、式典は全てステージを使わずワンフロアーとして使われたことが中学校と小学校の大きな違いでした。更に中学校のように送辞・答辞を特定の個人が行わず、みんなが主役というのも大きな違いでした。

 先日の中学校の卒業式もそうでしたが、この卒業式も「気をつけ・礼」などという、私たちが経験した軍隊式の規律はなく、実にてきぱきとこなしていました。今日の卒業式で感心したことが二つありました。6年生担任の大山先生が卒業生の名前を読み上げる時、何の台本も持たずに宙で言ったのです。普通は台本か台帳のようなものを見ながら読み上げるのですが、大山先生は見事に卒業生全員の名前を呼び上げました。僅か13人の卒業生だからそんなの当たり前だと言えばそれまでですが、あんな緊張した式典の席上で、中々言えるものではありません。大きい学校が持て囃され、小さな学校が肩身の狭いような雰囲気の昨今ですが、担任の先生が子どもの名前を丸暗記する何でもないことが出来ない先生が多い中で、とても立派な出来事だと思いました。

(卒業証書授与)

 卒業生と在校生が向き合い、片方に先生と両親、そしてもう片方に来賓と、見慣れた光景ではありますが、全てが見える配置は素敵でした。

(在校生)
(PTAやご両親)
(13人の卒業生)

 もう一つ嬉しかったのは、卒業生が最後に自分の夢を発表する姿でした。「私は学校の先生になりたい」「私は看護師になりたい」「私は動物園のキーパーさんになりたい」「サッカー選手になりたい」「人を助けるような仕事がしたい」「医者になって人を助けたい」などなど、とても立派な決意でした。私が小学校を卒業した頃とは随分違っているなあと思いつつ、耳を傾けました。今日発表した夢が中学生になると学力や体力の程度が分り、砕けて行くのですが、せめてこれらの夢を追い求め続けて欲しいものだと思いました。

 私は小学校5年生の時、図書室で読んだ「ジョン・万次郎の生涯」という伝記に感化され、アメリカへ行きたいという大きな望みを持っていました。「アメリカへ行って何をするの、何になるの」といわれればそれまでなのですが、そんなささやかな夢を持ち続けた結果、30歳の時本当に建国200年のアメリカへ行くことが出来、自分の人生観が大きく変わったのです。「まだ小学生だから夢なんて」と思うかも知れませんが、どうして、今日の夢は自分の人生を決めてしまうような夢になるかもしれないのです。

 卒業は新たな旅立ちです。後2週間もすれば今日の半ズボンであどけない姿が一変し、詰襟の学生服に変わって、大人のような格好をするのですから不思議です。

 中学校でも純真な今日の気持ちを忘れないで欲しいと願っています。

 来賓照会で「学校評議員の若松さん」と紹介され、ふと我に返った私でした。

  「将来の 夢を大声 堂々と このまま強く 生きて欲しいね」

  「四年間 この学び舎で 校長も 人事異動で 隣の街へ」

  「半ズボン 明日から長く なりにけり 子どもと大人 丁度境目」

  「手を振って 馴染みの子ども 合図する 人偏牧場 出会い度々」



 

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shin-1さんの日記

○懐かしい二本の電話

 昨夜懐かしい人から相次いで二本の電話がかかってきました。一本は私が携帯を書斎の机の上に置いて別室居間で大相撲観戦中らしく、留守電メールが入っていました。その電話の主は現在横浜に住むHさんという女性です。Hさんといっても、別に変なHではなくなめの頭文字がHさんだけなのです。Hさんと私は第十回総理府派遣青年の船に乗って建国二百年のアメリカへ行った旧友女性です。彼女は八幡浜出身で既婚ながら旧姓を名乗っているところを見ると養子さんなのでしょう。昨年の秋に里帰りした折出会い、その後何度か電話をいただきましたが、今回は春の彼岸のお墓参りらしく、今日会えないかという相談でした。私の今日の予定は朝から地元小学校の評議員をしているため、卒業式に出かけるが、午後は夕方の会議まで空いていると、これまた出ない相手の携帯に留守電で連絡しました。

 夜10時頃だったでしょうか、彼女から電話があって「明日午後2時28分伊予市着の八幡浜発特急宇和海で来るから、夕方の飛行機で帰る予定なので空港まで送ってね」の以来に、市もにもなく約束しました。彼女と何でこんなに頻繁に電話するかというと、今年の秋10月、私と彼女が所属している第十回青年の船班長会を松山ですることになっているようなのです。彼女が受けた計画なのですが、班長会には最初の頃東京であった一度きりしか参加していない私にとっては、縁の遠い集会なのです。というのも青年の船を下りてからこれまでの33年間は私にとって、命がけの仕事だったため、年に一度といいながらハワイでもやるような班長会へ出席する余裕は正直なところなかったのです。毎年届く班長会の案内に行きたい気持ちを押さえながら悶々した時期もありましたが、「あいつは来ない班長」と烙印を押され悪口三昧を言われている班長会が、いつの間にか遠い存在になっていました。その間何人かの班長と出会う機会もあったっり、昨年は奈良のT班長と仕事で出会うこととなり、ついに「若松が来ないのなら愛媛でやろう」と欠席裁判に掛けられ、Hさんも手伝うからという条件をつけた愛媛での集会が計画されているのです。今日のHさんとの出会いで更にその計画は進むような雲行きです。

 もう一本の電話は、高知県四万十市に住むWさんです。昔は「おいこら」の間柄で頻繁に交流していましたし、最近も妻にアロエクリームを送ってくれるなど、今も良好な関係が続いている、合併して村役場職員から大出世して市役所の職員になった方です。彼は高知の人全てがそうだと思うほど酒が大好きです。私も昔は彼たちと夢を語りながら深夜まで酒を酌み交わしていました。体調を崩してからきっぱり酒を止めた私が物足らないのか、酒を飲むと嬉しい事に私がよく知っている周りの人を巻き込んで、嬉しい事によく電話をかけてきます。酒に酔っても私の事を思い出してくれるのですからこんなに嬉しいことはありません。一昨年は彼の肝入りで20回も四万十市へ講演に出かけました。

 昨日はどこで飲んだのか、どこの酒の席なのか分りませんが余り酔ってはいませんでした。友人の人事異動の話、自分の仕事の話、最近の話など何故か懐かしさが込み上げてきました。彼も課長になって孤独な仕事をして誰にも相談できないで悩んでいるのでしょうが、そこら辺が垣間見えるような相談ごともあるようで、一度出会わなければなるまいと思った次第です。

 相次いでかかってきた二本の電話で私は目が冴えてしばらくの間寝れませんでした。Hさんとは今日会えるのですが、青年の船の思い出は私の青春時代の大切な宝物なのです。また四万十市のWさんも私の人生にとってかけがえのない思い出の数々なのです。こうして古い時代の思い出に引き戻させてくれる仲間がいるという幸せは、年齢を重ねると余計身に染みるものなのです。私はこの二人をこれからも大切な友人としてつき会いたいと思っています。

  「酒呑んで 電話かけくる 友ありて 懐かし日々が 昨日のように」

  「えっ何で 毎日俺の ブログ読む 故に知ってる 巷の噂」

  「寝食を ともに過ごした 船の上 あの頃互い 若さ溢れて」

  「彼らより 一歩先行く 使命感 なくば嫌われ 電話もないぞ」

 

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