shin-1さんの日記

○大パニック

 私の私生活もパソコンをいじる時間が段々長くなりつつあります。便利だし情報を検索する手間が省けるからでしょうが、昨日大パニックが起きました。大パニックなんて大げさですが、私にとっては大パニックなのです。

 4月からデジカメで撮り続けている「人間牧場」の写真全てがキーボードに触った瞬間、画面から消えてしまったのです。最初はバックアップやゴミ箱探しをしましたが、一向回復の兆しがありません。「大変だ」と思えば思うほど頭の中がパニックになって、早朝7時だというのに息子の所へ助け舟の電話をしました。あいにく就寝中だった息子の計帯電話は留守電コール、直ぐに息子から折り返しの電話、「お父さん電話が長くなるから掛け直して」と所帯持ちの質素な生活が見え隠れ、「こんな時に」と思いつつ掛け直し、電話で言われるままに修復を試みましたが失敗に終わりました。

 私のパニックの声など聞くこともせず、「大丈夫ちゃんと元に戻せるから。ノートパソコンを弟に会社へ持たせて」と言って電話を切りました。

 専門学校へ行くついでに兄に届けるようノートパソコンを次男に渡し、所要で家を留守にしました。今日は大学の講義日なので、夕方息子の会社に立ち寄る(何と今日が始めて)と、消えたはずの写真200枚が画面に現れているのです。さすが息子だと思いつつ学校へ出かけました。車を走らせながら私の大パニックは一体何だったのか、思わず一人で苦笑してしまいました。二日前に人間牧場へ訪ねて来た仲間との交流写真もプリントしていなかったし、何よりも人間牧場草創の短いながらも歴史が消えることへの憂いに一喜一憂したこの気持ちは忘れまいと、電子文字やデジタル写真の怖さを改めて知りました。

 そういえば昔、雷が共同アンテナに入って近所のテレビが根こそぎやられたことがあります。群馬へ行った折、群馬では雷によるパソコン被害が多いという話も聞いたことがあります。取りインフルエンザ流行で気になったパソコンウィルスのこともあります。今後は大パニックにならぬよう気をつけます。

 画面から消えた写真の中に、最近の孫の成長を撮っているのも何枚かありましたが、これも嬉しいことに復元されました。目出度しめでたしです。

 パソコンは魔法の箱だと思いきや消えた画面にこんちくしょう」

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shin-1さんの日記

○伊予市の若松になって半年

 私は生まれたとき、伊予郡下灘村の村民でした。12歳の時上灘町と合併して双海町民となりました。そして60歳で伊予市・中山町と再び合併し新伊予市民になりました。村民・町民・市民とされぞれ居住する地域の自治体名称は変わりましたが、今も双海町という町名が残っているため、何か複雑な気持ちです。

 4月1日に合併して公職を去ってから、公の場所に出る機会が少なくなりましたが、それでも請われるままに全国行脚をしていると、自己紹介をしなければなりません。これまで50年間も使ってきた愛媛県伊予郡双海町という地名を捨て、愛媛県伊予市双海町と紹介するのですが、なだまだぎこちない感じがします。

 でもひょっとしたら4万市民の中で、伊予市民を公言した数は、上位にランクされるのではないかと思うのです。

 もうひとつ、厄介なことは毎日ハガキを3通書く私の18年間にも及ぶ実践の殆どは、伊予郡双海町大字上灘甲5391-2のゴム印を使用していましたが、只今は昔のゴム印も使えず、とりあえず伊予市双海町上灘甲5391-2と手書きをしています。役所のように毎日手紙を出す人を除けば伊予市という市名を書いた数は、これまた上位にランクされることでしょう。最初は間違ってばかりの住所も最近では随分なれてきました。こうして一つ一つの言葉や文字を使うことによって、伊予市民としての誇りも生まれてくるのだと、納得いかぬ自分に言い聞かせているのです。

 昨日来た伊予郡双海町という住所での手紙も、経過措置でしょうか丁寧に郵便局は届けてくれます。1週間前は何と郵便番号があったので届いたのでしょうが愛媛県、若松進一で堂々と我が家へ郵便物が届きました。一瞬「おらも有名人や」と勘違いするほどでした。

 今年も年賀状が売り出されました。昨年までは千枚に手の届く枚数が舞い込みましたが、セミ・リタイアした来年はさて何枚か、また性格に住所を記したハガキは何枚か、郵便局を悩ませる平成の大合併のゴタゴタは当分続きそうです。

 私も暇を見つけて住所録の整理をしなければなりませんが、合併したとこしないとこ、私の頭も悩みそうです。いっそこの際年賀状を止めようかとも思ったりする今日この頃です。

 去年インターネットで5通年賀状もどきをいただきました。これもひとつの手かも知れませんが、入力しなければないませんから煩わしい・・・・・。あー面倒くさい。

 「面倒くさい匂いもせぬにくさいという頭をかいてお尻もぞもぞ」

 「来いとなど言わずも正月やって来る歳という名の土産を持ちて

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shin-1さんの日記

○この季節に黄砂現象

 黄砂といえば春の使者と思っていましたのに、このところの陽気に誘われて?、昨日は何と黄砂現象が見られました。黄砂とは中国大陸の黄河付近で舞い上がった黄砂が、ジェット気流にに乗って数千キロの彼方日本まで、はるばる海を越えてやってくるものです。普通は春先に多く見られる現象で、大気を黄色く染め、時には霧のように視界を悪くすることだってあります。昨日の黄砂もかなり強めのもので、明らかに黄砂と分かるほどの強さでした。

 私のように、夕日に狂っている人間にとっては夕日のとk別な見方ができるため、結構黄砂の降る日を楽しみにしています。写真で言えば黄色いファインダーを被せたようなもの、絵で表現すると平山郁夫画伯がローランの都を書いた砂漠の色と表現すればピッタリかも知れません。西の空に傾く太陽が黄砂に黄色く染まり早い時間から輝きを失い、ゆっくりと降りてゆくのです。昨日は今年の秋始めての北西の季節風が吹きましたが、夕方には止んで風も無く、穏やかな雲ひとつない天気だったため、珍現象の天体ショーを堪能することができました。

 夕日見学のメッカふたみシーサイド公園には、黄砂のことを知って知らずでか沢山の人が夕日を見に来ていましたが、黄砂の夕日を盛んに携帯電話のカメラに収めていました。近頃の夕日見学も随分変わったもので、一眼レフカメラから簡易カメラへ、簡易カメラからデジタルカメラへ、デジタルカメラから携帯電話カメラへと変化しているようです。夕日が沈む頃になると携帯電話を西に向かってかざし、パチパチとフラッシュが焚かれるのです。一眼レフの本格派は「今日は写真にならん」とそそくさと引き上げる人もいました。

 「夕日は誰と見るもの」と尋ねられたら、やはり「恋人」と答えるでしょう。二人で肩を寄せ合い(勿論熟年夫婦と分かる人でも肩を寄せ合っていましたが、明らかに変な関係と分かるような二人連れもいましたが、人それぞれ、詮索無用です。失礼)ながら、夕日を見るシルエットは絵になる光景で、一人で見ながら「しもうた。妻でも(おっと失礼・・・・でもとは妻に失礼)連れてくるのだった」思いました。

 多分黄砂は来年の春、菜の花が咲くころまでお預けでしょう。小さな子どもが「あっママ、夕日が目玉焼きみたい」とはしゃいでいました。お母さん「・・・・・・・・・・(無言)」

 「黄砂降る茜に染まる空見上げ目玉焼きしか浮かばぬ悲しさ

 

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○愛媛県内で一番古い現役木造校舎の学校

 今日、高知県須崎市周辺の広域市町村から、10人の若者が私の元へ視察研修にやって来ました。嬉しいことに過日須崎市のまちづくり講演会に招かれた折、私の話しを聞いた人が連れて来たのです。彼らは終始真面目で、熱心にメモを取りながら私の話に耳を傾けてくれました。1時半から5時過ぎの日没まで3時間半に及ぶ研修で彼らが私から何を学んだか定かではありませんが、特に人間牧場構想に興味を持ち、次に来るときは必ず人間牧場へ案内して欲しいと念を押して夕闇の中を帰って行きました。

 今日の研修は私の話とシーサイド公園の見学、わが煙会所の見学、それに翠小学校の見学をセットにしました。特に翠小学校は乗ってきたバスの回転を目的に奥まで足を伸ばしての突発的な見学でしたが、若者たちは愛媛県内の現役木造校舎で一番古い築75年の翠小学校を興味深そうに見学していました。子どもたちが下校した後の学校は静まりかえり、先生たちが僻地教育の研究をしている最中だったので、息を殺しながらの見学となりました。でも懐かしさのあまりに涙が出るという若者もいました。

 私は学校がこうも懐かしいものなのかと、彼らの行動をじっと見詰めながら色々考えさせられました。木のぬくもり、長い廊下や長い天井、腰板の破れの補修の跡、階段に書かれた数字、校長室からの眺望、二宮金次郎の銅像、吹きぬける風、全てが時代をタイムスリップしたようなセピア色だと彼らは語りました。勿論金次郎さんの前で記念写真も撮りました。今この学校は40人を割った児童数の減少で将来を危ぶまれています。でも教育長だった私は多くの人と、この学校の校舎だけは何としても守りたいと、学校周辺に様々な仕掛けを施してきました。水車小屋、蛍、水辺空間、観光農園、蛍まつりなど、グリーンツーリズムの下地をこしらえてきました。何時の日かそれらが実を結ぶことを信じています。

 学校は木が交わって学ぶと分解して読めば、木造校舎の翠小学校はその言葉どおりです。また学校は楽校とも書きます。学校の内外には楽しいことがいっぱいあるのです。校長先生はじめ心優しい先生たちがいっぱいいて、ひょっとしたらこの学校は日本一とも思えるような物語がいっぱい詰まっています。

 この学校がジャパハリネットのプロモーションビデオの舞台になったことは知る人ぞ知る情報ですが、学校が子どもたちの行きたくなるような雰囲気をつくることは教師と親の、そして教育委員会の仕事だと思います。いい学校にいい子は育つのです。

 おっといけない。まるで教育長の言葉のようなことを書いてしまいました。私は教育長を失職していたのです。失言しました。

 帰り際、久しぶりに出会った子どもたちが「あっ進ちゃんだ」と近寄って声を掛けてくれました。涙が出るほどジーンときて、嬉しかったです。勝手に上がり込んでしまって校長先生済みませんでした。決して怪しいものではありません。

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○一億円当ったら

 ある雑誌の取材で「一億円当ったら」という質問がありました。あなただったら何と答えるでしょう。私はその時「買わないので当らない」と答えてしまいました。そうです。私は生まれてこの方、宝くじなるものを買ったことがありません。「何で買わないの」かって尋ねられても困るんですが、ただ買わなかっただけです。だいたいあんなものは、汗をかかずに濡れ手に粟を目論んでいる人のやることだと、冷ややかな目で見ていたものですから、役所の同僚が「10万円当った」と大騒ぎしていても、別に羨ましいとも思いませんでした。

 ところが私の妻はこの宝くじが好きで、事あるごとに買うのです。そして買った宝くじは仏様の引き出しに祈りを込めてしまっています。「お父さん一億円当ったらどうしよう」。「バカたれ、そんなものお前になんか当るものか」といつも詰るのです。その度に妻は「一億円当ったらお父さんにはあげないから」と開き直るのです。でも、でも、でも「ひょっとして一億円当ったらどうしよう」と妻はまた瞑想の世界へ私を置いてけぼりですすむのです。

 「これまで宝くじを買ったお金は一体何処から出ているの」と妻に言ってやりたい心境です。結婚して35年間、塵も積れば山となるような宝くじを買ったあのお金の殆どは当然私の儲けたお金であるはずなのにと思いつつ、ひょっとして一億円当って、妻がこの金を自分のだと主張するなら、私は即座に島田伸介の「行列のできる法律相談所に申し立て、丸山弁護士の見解を聞きたいと思っています。

 「当りもしない宝くじに夢をかけるなんて」と妻に言うと、「だって当る人がいるのよ。○○では二千万円が二本出たんですって」と声を弾ませまた買う算段です。

 妻はこれまで一万円は何度か当ったようですが、300円の常連です。まあそれも人生、私のように本に金をつぎ込むのも人生と、今はあきらめています。多分これからも二人の買いパターンは永久に平行線でしょうが、お互い目くじらを立てず生きて行きましょう。仏様、一億円の夢にかける愚かな妻に、一緒に一度くらいは夢をかなえてやってください。お願いします。

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shin-1さんの日記

○あの頃私は若かった

 何をどう思ったのか、妻が写真の整理を始めました。多分先日行われた息子の結婚式のスナップ写真が、出席したあちらこちらの方々から送られてくるからでしょうが、写真の整理をしながら若かりし頃の写真を見ながら、一人ではしゃいでいるようです。特に自分の若い頃の写真や家族の写真は30数年の時の流れを感じるように、随分変わったことに気付くのです。

 「まあ、私も若いころがあったのねえ」とは結婚前の写真、「私の若さに比べあなたは昔から老けていたのねえ」と自分の若さを強調し、私をコケ下ろすものだから、私も宇和島水産高等学校の練習船愛媛丸での航海写真を見せて、「わしも若かったろうが」といってやりました。そうです。写真に写っているどの人も30歳以上若いのです。

 昨日次男の息子がテレビの「サザエさん」という番組を見ながら、「僕たちが子どもの頃とサザエさん一家は何故か一緒で、まったく歳をとらんなあ。いつの間にかかつお君やわかめちゃんより僕の方が年上になっとる」というのです。そういえばそうだと、息子の観察力に感心もしました。

 それにしても、妻と結婚して始まった二人だけの若松進一一家も、一時は子ども四人を真ん中に川の字ならぬ6本の川の字の如く、まるでたこ部屋のようになって寝ていましたが、結婚したり仕事の都合で今は次男と私たちだけの核家族になっています。時の流れは過ぎて短く迎えて長いようで感慨深いものがあります。

 それぞれの人生は写真のように一瞬を凝縮してそのままの姿で残るはずは無く、日々を積み重ねていくものです。デジタルカメラがあるのだから、写真さえも劣化しない時代になりましが、「あの頃は私たちも若かった」と、昨日撮った写真をまた20年後に妻と二人で見れるまで健康でいたいと思いました。

 ちなみに、昨日撮ったデジタル写真は人間牧場へ昼飯を食べに来た4人の仲間と撮影したものです。

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shin-1さんの日記

○合併記念式典に思う

 新しい市の広報区長(旧町の区長)をしているので、先日新しい市の合併記念式典の案内をいただきました。あいにく父親の88歳米寿の祝いを計画していたものですから、欠席のおはがきを出しました。集会を計画する側からすれば、私のような欠席者は合併記念式典のような公的で重要な集会を欠席するとは何事かと、お叱りを受けそうですが早いうちから計画していたことであり、済まない気持ちでいっぱいでした。

 先日その集会に行かれた人から当日の様子をお聞きしましたが、3つの意見を述べておられました。一つ目は普通こうした式典は飲み会がつき物ですがなかったそうです。お金が無いという理由は分かるが、せめて会費制にでもして、会食交流できたらよかったと酒飲みの言い分を言っていました。酒がないと会ではないというこれまでの考えは改めた方がよいのではという私の意見も述べました。

 二つ目の意見は祝辞がやたらと多かったし、県知事も出席していないとぼやいていました。合併は県も強力に推進したのだから、日程調整して県知事さんにも出席して欲しかったとの事でした。知事さんも何かと忙しい人だから、何か重要な公務があったのでしょうと、知事さんの気さくな人柄を知っているだけに、余り勘ぐらずない方がよいと私の意見を言いました。

 三つ目の意見は新しい市になって、新しい市が何を目的にどう進もうとしているのか見えてこなかったというのです。愛媛県内では20の市町に再編され、村は残念ながらなくなりました。その20市町がこのところ合併記念式典という行事をしていることは、新聞紙上でよく見かけます。しかし中身は一律で新鮮味が無く、もう少し新しいまちの主張があるべきだというのです。この件に関しては私も同感です。合併記念というのであれば、出席した人たちに式辞や祝辞で合併の意義は伝わるでしょうが、一般市民には中々伝わってきません。ある人が地域事務所を訪ねて「今日は合併記念式典があるそうですね」と話したら、「えっ、そうなんですか」とまったく知らなかったようでした。

 合併後の新しいまちがどうなるのか、私たちも心配です。新しいまちを私たちはふるさととして語らなければなりません。その意味からも、あったことを広報で市民に伝えるだけでなく、あるべきことを市民に伝えたり、ともに考えるようなまちづくりを望みたいものです。

 新しい市に私は人間牧場を開きます。そして新しい市に多くの人を呼び寄せたいと思っています。私に出来ることをコツコツと・・・・・・。

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shin-1さんの日記

○私がお酒のラベルになった

 私は5年前に胆嚢の摘出手術をして以来、体に悪いという理由でお酒を断っています。「酒は飲まない」と心に誓っているものですから多分これからも一生、余程の事がない限り酒は飲まないでしょう。落語ではありませんが、先日仲間がそのことを尋ねたお返しに、「みんな禁酒や禁煙と言っているが、酒やタバコが止めれないというのはおかしい。わしはもう10回以上も止めた」というのです。笑い話にもならない彼は、数年前に胃を手術して殆ど取りました。最初は恐る恐るでしたが飲むほどに酔うほどに気持ちが大きくなって、手術後病院へ見舞いに行った時の神妙な顔つきや言動とは裏腹、「酒やタバコを止めるくらいなら死んだほうがましじゃあ」などと嘯いて、手術前の酒量が回復したと喜んで飲んでいます。

 私だって昔は飲んでいた訳ですから酒に未練がないというのは決してありません。彼からそのように詰られ勧められても飲まないのが私の決意でしょう。「あんたは偉い」と最後に握手しましたが、「長生きしたかったらもう少し酒は慎むように」諭しましたが焼け石に水でした。「あんた一人の体じゃあない」と家族のことを言うと、「分かった分かった」でまた幕でした。

 先日私の写真が一升瓶のラベルに張られた酒が島根県から送られてきました。青年会議所の主催するまちづくりシンポジウムの記念講演に招かれたときに約束していたものが、大きな当日のポスターとともに送られてきたのです。

 酒を飲まない私にとって酒は無用の長物、早速親父にプレゼントしましたが、親父はこの珍しい酒瓶を中身は飲んで、記念にと大切に保管してくれています。

 それにしても自分の姿がラベルになった姿はどう考えても面映いものです。例の木になるカバンを提げている姿は、絵になるといえばそうかも知れませんが、この酒を10本も作って関係者に配ったアイディアは素晴らしいと思いましたが、後9本飲まれた後の空瓶は、冷たい雨にさらされ何処かの路地で転がっているかもと思うと、これも苦笑いの種になりそうです。

 でも、律儀な青年会議所の皆さんの発想の豊かさと行動力に敬意を表します。生まれて始めて私の意匠が一升瓶のラベルとなったのですから・・・・・・。

 実は私の長年の夢である「アサヒビールがあって、何故夕日ビールが」ないのか」の質問と、「夕日ビールを造りたい」という私の夢を実現させてやろうと、本当に夕日ビールのラベルを作ってくれた人がいます。舩木上次さんという山梨県清里に住む観光カリスマの凄い人です。最近はすっかりお友達になって来年も愛媛県に呼ぶ予定です。また私のラベルを作ってワインをプレゼントしてくれた人もいます。こうした遊び心が人生を豊かにしてくれるのです。いい人いい出会いにウーロン茶で乾杯。

 「酒飲めぬ私にさけを送る人わざわざ私の写真ラベルに」

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shin-1さんの日記

○私の町は瀬戸内海に面した海沿いの町です。南国とは言いがたいのですが、寒いといっても年中雪が積ることは無く、一月には早くも菜の花が咲くのです。早春の花水仙だってもう間もなく蕾を持ち上げますから、やはり暖かいのでしょう。昨日散歩に出たら近くの特別養護老人ホーム夕凪荘の前の畑には菜の花がいっぱい咲いていました。

 今双海町の道沿いにはつわぶきの黄色い可憐な花が清楚な姿で咲いています。また野路菊もいっぱい咲いています。私が草刈機で草を刈った裏山のドハもいつの間にか黄色いつわぶきと野路菊が、、刈り忘れたかのように咲いています。

 菊の花やバラのように作られた花でない野の花は、見た目は豪華ではありませんが、そばに寄って腰をしゃがませて見てみると結構美しいものです。私たちの暮らしは人工の花に囲まれ、トイレなどは造花で飾られています。昨日ある道の駅に野の花を生ける姿が美しいと新聞に載っていましたが、小さな一輪挿しに挿してみるとまたまた趣きのある風情が楽しめるのです。花は何も買う必要はありませんが、野の花は野にあってこそ美しいのだと思うと花を摘む気にはなりません。それでも人を招く時などは裏山へちょいと出かけ、ちょいと摘んで活けるのですが、これがまた見る人が見たらお褒めの言葉をいただくのです。

 私の家の前の田んぼには彦生えといって、田んぼを刈った後に親株から出た青葉に稲が実る現象が見られます。時々田んぼの主にいって刈り取り正月用のお飾りしめ縄を作りますが、これが長さも短く丁度よいのです。私は古風な男で、しめ飾りは全て自分が作ります。親父の教育が良かったのでしょうが、彦生えまで目をやる人は余り見かけないと先日も近所の人に珍しがられました。

 秋が山から里へ下りてきました。向かいの山には赤いハゼ紅葉が目立つようになって来ました。年賀状も売り出され、そろそろ木枯らしが吹く季節を迎えます。

 冬の使者九州場所も間もなく開幕します。

 親父の着衣が少し分厚くなったと、今朝のサロンパス張りで感じました。何と親父が食卓のうえの一輪挿しに野菊を一輪活けていました。息子と考えがいみじくも一致しました。

 今年は好天に恵まれ柿もみかんも梨も全て美味いです。食欲の秋です。

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shin-1さんの日記

○私のブログ日記をプリントアウト

 先日知人が会合のとき、私がブログに書いた10月8日の「時計のリズム」をプリントアウトしたのを、他の人に紹介するのを見て驚きました。私にとってこの2ヶ月余りの暮らしは、早朝慣れないブログに記事を書くことから始まり、最近では寝る前にもう一本書くといったリズムが生まれてきています。しかし自分の書いた過去の文章は殆ど見てませんでした。多分デジタル社会が自分の暮らしに慣れてないせいもあるのでしょうが、これはまずいと思って、今日は2時間もかかって全てをプリントアウトしました。息子が「そんなことしなくても見たいときにブログを開ければよい」と呆れ顔でしたが、それでもせっせとやりました。途中プリンターのカラーインク切れの赤いランプが点灯し、インクカートリッジを交換したり、散々でしたが、やっと出来上がりました。プリントして驚くのですが、約2ヶ月間でよくもまあこんなに書いたものだとわが目を疑いました。特に知人が持ってた「時計のリズム」の記事はもう一度読み返しましたが、ウン中々といった感じでした。

 それにしても、私の書いた全ての原稿を全て覚えていて引き出せるというのですから、パソコンは知恵と魔法の小箱というほかありません。こんな小さなパソコンの中にどんな力が潜んでいるのか知る由も無い人間の知恵の深さにはただただ驚かされるばかりです。

 最初は訳も無く書いていたブログも、日が経つに連れて読みやすくなっており、成長の後が読み取れるのもやはりプリントしての評価でしょう。

 もう少し技術を習得してブログに書いた記事を元に一冊の本でもと、またいらぬ好奇心が頭を持ち上げているようです。

 最近になって人気の高いブログを時々読んでいますが、人の物まねをすると盗作にもなるし余り参考にはしたくありません。私は私のオリジナルが持ち味ですから・・・・・・。

 しかし相変わらず多い誤字脱字、変換ミスにはほとほと参りました。汗顔赤面の至りです。見出しのつけ方も勉強せねばなりません。が当分の間はこのスタイルで書いてみようとも思っています。一日2本の記事を書くと一年で約700本にもなる計算です。県外への出張時には書けませんが、あせらずじっくり自分の潜在能力を引き出してみます。

 プリントアウトした原稿をファイルするリーフレットは古い手持ちの物を使いました。パンチで穴を開け収めてみると少々くたびれた感じもしますが、退職間もない今の私にはぴったりかもしれません。

 今日は友人に手紙を書かなければならないので、プリントアウトした中からお気に入りの記事を2~3枚コピーして添えてやりました。多分近いうちに反応があることでしょう。

「デジタルをアナログに変え一安心やっぱり私は古き人です」

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