shin-1さんの日記

○自生のフキ

 人間牧場の周りはやはり人の手が入るとすっかり綺麗になって、人が来て案内しても何とか原風景を邪魔しないで楽しめるまでにこぎつけました。しかしもっと大変はこの美しさを保つことだろうと思っています。しかし妻も息子もこのことには否定的で、特に妻などは人間牧場の自慢をして友人をつれては来るるけど「お父さん私を巻き込まないで」何て釘を刺されています。それもそのはず今まで散々巻き込んで、無人島キャンプなどの最初は留守本部長などを押し付けたりしたこともあったのですから仕方のないことと諦めています。また長男も人間牧場に深くは関わってはいますが、草刈などの維持管理はこれまた期待できない状態なのです。でもいいんです私自身の力で出来る年齢の間はとにかく頑張りたいと思っています。

 人間牧場のみかんの木が自然枯死して久のですが、悪いことばかりではなく隣の畑の山フキがわが家の畑に入り込んで増え、今ではかなり沢山増えています。一昨日苦汁菜と一緒に引き抜いてきて、昨日丁寧に皮をむき茹でて冷水でさらし佃煮に仕上げました。製法はブログで紹介した苦汁菜のレシピと同じなのですが、これがまたお茶漬けの供に最高で、かなりの量だったので妻は子袋に入れて冷凍保存食にしてしまいました。苦渋菜といい山フキといい苦味のある食べ物は何処か野趣に富んでいいものです。

 草刈はだいたい7割程度終わって、あとは旧道周辺の赤道くらいになったのですが、山フキの自生地は草を刈らずに残そうと思っています。でも雑草と混在では可愛そうなので山フキ周辺は狭いので手刈りをしようかと思っています。

 山フキは大きな葉っぱを広げまるで植物が傘を差しているような雰囲気です。子どもの頃急に降り出した雨をよけようと山フキの大きなのを撰んで傘にして家へ帰ったり、大変汚い話ですが野糞の時いは紙の代役にも使いましたし、葉っぱを親指と人差し指の間に入れて指で手の穴に差し込み上からその空間を叩くとポンという音がして、遊び道具に使ったものでした。子どもの頃は遊びが自然の中にいっぱいあって、フキの思い出もこのようにいっぱいあるのです。そうそうフキの葉っぱは上戸のように丸くして枝木で止めれば野イチゴの収穫用の容器にも早代わりしましたし、母はこの葉っぱを自家製味噌の上に乗せると虫が来ないといって使っていました。人間牧場の周辺には野イチゴが白い花をいっぱいつけています。田植えが始まる頃には赤く熟れるでしょうから今年は収穫し生食用とホワイトリカーに漬け込んで野イチゴ酒を造りたいと密かに考えています。苦汁菜の佃煮が第1号なら山フキの佃煮は第2号、野イチゴ酒はさしずめ第3号といったところでしょうが、人間牧場のバリエーションもどんどん増やしたいと思っています。

 今日はこれから弁当を持って人間牧場へ種まきに出かけます。昨日自宅の菜園に蒔いたスイートコーンと枝豆の種が残っているので鳩に食べられないような工夫をして芽だしまで何とか漕ぎ着けたいものです。

 昨日親父から「鳩対策はテグスに限る」と教わりました。種を蒔いた上へテグスを張ると鳩は近づかないというアイディアです。さあ私と鳩の知恵比べ、どっちが上でしょうか。楽しみです。

  「山フキの 苦き香りが 食欲を そそるお茶漬け 俺も歳だな」

  「山フキの 葉っぱに摘みし 野イチゴを 美味い美味いと 食った思い出」

  「もよおして あわててフキの 野糞かな 時折踏みて 顔を歪める」

  「山フキの 葉っぱ叩いて 音を出し 遊んだ昔 友がら思う」

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shin-1さんの日記

○私の似顔絵の名刺が好評です

 私は長年慣れ親しんだ役場の名刺台紙を昨年の夏から使わなくなりました。使わなくなったというよりは役場に関係のない人間が役場の名刺台紙を使うのは気が引けたし、役場へ電話して台紙はと注文しても色よい返事が返ってこなかったからです。そこで思い切ってわたなべえつこさんに書いてもらった似顔絵色紙を利用することになったのです。最初は退職した私にとって名刺など必要かどうかも考えました。私には金融広報委員会のアドバイザーや、えひめ地域づくり研究会議代表運営委員などの名刺を作っていますが、使う場所が限られており、この図案を思いついたのです。最初えひめ地域政策研究センター研究員の清水さんの紹介で500枚を刷りましたが、あっという間に売切れてしまいました。

 妻曰く、「お父さん名刺もタダじゃあないのですからもっと大切に使ったら」のアドバイスを聞き入れてましたが、時既に遅しで全部なくなりました。そこで今度は少しいらって1,000枚印刷しました。原価計算してみると何と何と一枚21円もかかるそうで、これは大切に使わなければならないと、妻の忠告を肝に銘じました。何気なく差し出す名刺、何気なく頂く名刺、原価計算などしたこともなく使っていた名刺もこれからは有料にしてはどうかと思うのです。ちなみに一枚50円いただくと、1,000枚で5万円で29,000円の儲けとなります。多分日本全国何処へ行っても名刺を販売している人など見たことも聞いたこともないので、これは新しい商売になるかも知れません。「日本初・名刺を売る男」ってな具合です。ただしこの商売、名刺を刈ってくれる人がいることが儲けの条件ですから、そんな人を探したいものです。ちなみにこの収益金は人間牧場の運営資金に当てるというアイディアも使ってみたいですね。

 それにしてもこの似顔絵凄く特徴をつかんでいますよね。今日一ヶ月ぶりに散髪に行き男前を上げてきましたが、散髪屋の鏡に映った姿を見て、わたなべえつこさんはよく私の特徴を捉えているなあと感心しました。似顔絵を書く人に聞いた話ですが、人の特徴はその場でのインスピレーションで決まるのだそうです。私の場合もそんなひらめきから夕日をバックに書いたのかも知れませんね。

  「肩書きは 人間牧場 主と書く 名刺人気で 底をついたよ」

  「選挙にも 出ぬに名刺が 売れてます えー有料名刺 如何でしょうか」

  「似顔より 本物落ちる 男前 誰が言ったの 本気で怒るぞ」

  「俺の顔 絵になる人と 褒めました 座布団一枚 差し上げましょう」

 

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shin-1さんの日記

○コインランドリー

 今年の春は何時まででも寒さが残り、朝晩は最近までストーブを焚いていましたが、ここにきてやっと春を越して初夏の陽気となりました。人間とはほとほと勝手なもので、寒い時に重宝していた暖房器具や毛布類もいよいよ邪魔者扱いです。さてわが家のように広い家ならまだしも、都会の狭い家だと収納スペースにも限りがあるのでどうするのだろうと、他人事ながら心配しています。

 今日は午後から妻のお供でコインランドリーという場所へ行きました。店番も誰もいない店内には5台づつの大潟洗濯機と乾燥機が周りを取り囲み、さながらクリーニング屋さんのような雰囲気です。洗う量によって12キロ、17キロ、25キロなど容量が決められた洗濯浴槽を選び洗濯物を入れて蓋をし、コインを投入すると約40分のタイマーが動き始めるのです。外から中の洗う様子が一目瞭然分る仕組みになっています。左に右にまるで目が回るように回って洗い、すすぎ、脱水を繰り返し、重い毛布も除菌までしてしまうのです。洗い終わったら乾燥機で10分ほど乾燥して出来上がるのですが、僅か1時間で出来上がるのですから金額もそこそこなので、これは重宝だと思いました。

 私が2台の洗濯機と乾燥機の番をしている間に妻はちゃっかり所用に出かけ、終わった頃に帰るという離れ業ですが、私も備え付けの本を読みながらやって来るお客さんの行動を見ながら過ごすのですが、若い女性は家で洗濯した下着や衣類を持ち込んで乾燥機だけ使っています。恥ずかしくもないのでしょうが、カラフルな下着類が惜しげもなく目の前で回り、乾燥が終わると人前だというのに何のためらいもなくたたんでいました。この若者は独身だとおぼしき人は沢山の洗濯物を入れて、携帯電話で「今コインランドリーで選択してます」と恋人と大きな声で話していました。ああここにも小さな社会があるのかと思いながら約1時間の時を過ごしましたが、毛布4枚、敷きマット2枚の洗濯と乾燥で寒かった今年の冬ともおさらばしました。

 妻は2日間もこのランドリーにやって来て冬物手入れをしましたが、これらの毛布類は2、3日自然乾燥して今年の秋まで押し入れにしまうのです。妻はこれまで毛布類は風呂の残り湯で洗濯していました。その重労働もコインランドリーを利用するようになった昨年からは開放され、少々お金は要るものの楽になったと喜んでいます。妻の仕事ぶりを見ながら日々の暮らしも何かと大変だとしみじみ思いました。

 この連休の3日間、最初の一日はお寺参り、二日目と三日目は家の掃除や雑事に追われた私たち夫婦ですが、お陰さまで家rの中も随分片付き、明日からの英気を養うまでとは行かなかったのですが、いい骨休めの連休でした。

  「洗濯を 機械に任せ 本を読む 終わったブザー 俺を呼んでる」

  「人前で カラフル下着 見せるよに 恥ずかしもなく 若い人妻」

  「運転と 洗濯番で 付いて行く 俺も優しい 夫になった」

  「布団さえ 靴さえ洗える ランドリー 人間そのうち 手足要らなく」  

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○野菜と花の苗植え付け

 わが家の庭には妻が丹精込めて作っているプランターが10個ばかり並べられていますが、忙しいのか手入れが行き届かなくいつも季節遅れで雑草に覆われています。自分でも気になっているらしく昨日は花の苗を買ってきました。日々草や金魚草、ペチュニアなど様々でです。妻が買うのは安い苗らしく少しくたびれているのもありますが、少し手が空いたので妻が仕事に行っている間に植え替えてやろうと、殊勝な考えで挑戦しました。ビニールの広識にプランターの土を取り出し、丁寧に雑草や花の古くなった根を取り出し、新しい土と混ぜ合わせて再びプランターに戻し苗を植えるのですが、この作業がかなりかかり、植え受け終わったのは妻が帰る7時前になってしまいました。それでもそれなりの配置で植え付け水をやって一件落着のところに妻が帰り「まあ嬉しい。花を植えてくれたの。ありがとう」で、「チュー」まではありませんでしたがとても嬉しそうでした。わが家の庭もこれでガーデニングらしき風情が当分の間楽しめそうですが、朝晩の水やりは大変だろうと要らぬ心配もしてしまいました。(下の写真は私が植えたガーデニング)

 ところが何やら妻の両手にビニール袋のようなものが見えました。てっきり今晩の夕食の買い物かと思ったのですが、あにはからんや「お父さん、野菜の苗を買ってきたからこれも植えといてね」です。中を見るとピーマン、唐辛子、オクラ、モロヘイアなどがびっしり入っています。ピーマンなどは今流行の赤・青・黄色とまるで信号のような色付きのポットに植えられています。「疲れたし、今日は遅いから明日にする」と多少ぶっきらぼうに言いました。

 さて、わが家の菜園は家の敷地内にあってかなりの広さです。管理者は親父なので植える場合は親父の承諾が必要です。几帳面な親父は植え方が少しゆがんでいると直ぐに引っこ抜かれたり植え替えさされるのです。「じいちゃん、野菜の苗を買ってきたから何処へ植えようか」と相談すると「あれは何処、これは何処」と指図されたとおりの場所へ植える事にしました。植える場所はもう既に耕運機で綺麗に耕され、畝を切って植えるだけなのですが、畝切りも親父専用の紐があって、間隔も尺棒で測って植えろというのです。苗の植え付けが終わると裏山の竹を切って添え木を作り、土中に差し込んで水をたっぷりやり作業は終了です。まだ植えてない苗のキューリやかぼちゃも植えると、夏は収穫の季節を迎えれるのです。

(下の写真は私が植えた畑)

 それにしても私の植え方は親父の植え方に比べ、まだまだ修行が足りないようです。ご覧のように親父の菜園は草も生えないの?と見る人に言わせるほど草は小さい間に引いたり削ったりします。「親父は毎日が休みだからこんなに綺麗に出来るのだ」と思っていましたが、いざ自分が毎日休みになってもこのように美しくは出来ません。多分性分でしょうね。(下の写真は親父の作っているジャガイモの畑)

  「私でも ガーデニングの 真似をして ほらこんなにも 綺麗な花を」

  「褒める人 いないけれども 妻が褒め 嬉しいもので まるで子どもだ」

  「信号の 如きピーマン 植えつけて さてどの苗が 赤青黄色?」

  「竹を立て 竹に勝とうと する苗に 頑張れ声を 掛けつつ水を」


 

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shin-1さんの日記

○37回目の結婚記念日

 私たち夫婦は昭和46年5月5日のこどもの日に結婚しました。つまり明日は37回目の結婚記念日なのです。今まではむしろこどもの日に重点が置かれ忙しくて、ただ何となく5月5日が過ぎていました。でも結婚記念日何て考えると新鮮な感じがするのです。世の中ではありふれたごく普通な夫婦ですが、それなりに波乱万丈な36年間だったようにも思います。

 結婚したとき私は愛媛県青年団連合会の会長をして、それは忙しい日々を過ごしていました。故にわが家へは毎日のように青年たちが押しかけ、新婚なんて雰囲気はありませんでしたし、教育委員会で社会教育をしていたものですから、土日も夜も仕事で家を空けるのはざらで妻には随分苦労をかけたと思います。その後子どもが4人生まれましたが、子育ても主にではなく全てが妻の役割でした。社会教育主事の資格を取るため香川大学へ一ヶ月、総理府派遣青年の船の班長としてアメリカ・メキシコ・ハワイへ二ヵ月半それぞれ家を空けました。社会教育13年の後半は町名変更を担当し、町を二分する激しい騒動の渦中に巻き込まれ町長リコールなど様々なことを経験し、私もそうでしたが妻に最も苦労をかけました。まちづくりを担当してからは夕日や花や蛍やメダカなど様々な仕掛けで町を有名にする努力をしましたが、ここでもシーサイド公園の建設や運営など日本で一番小さなたった一人の課長として激務に追われました。子どもの進学や就職、結婚など家庭の節目を何とか乗り切りましたが、妻の看病の果てに祖母や母を亡くし今は父の面倒を妻が見ています。役場を退職して教育長に就任2年間でしたが合併する昨年まで、最後の仕事をどうにか過ごし無事念願の自由人となりました。昨年は長年の妻の苦労に報いるためカナダ旅行を行い少しばかりの恩返しをしたのです。足を切って入院したりもしましたが、まあ二人とも元気で、長女・長男の結婚、孫の誕生など色々ありましたが、37回目の記念日を何とか迎えることが出来ました。

  去年は忘れていた結婚記念日を今日ふと人間牧場の掃除をしていて思い出しました。妻に「明日はわしらの結婚記念日だが覚えているか」と尋ねようと思ったのですが、「結婚記念日にはご苦労様のプレゼント」を要求されそうなのでぐっと堪えて飲み込みました。当日の朝、つまり明日の朝言おうかと思います。

 それにしても36年間はあっという間に過ぎてしまいました。当面の目標は金婚式の50年ですが、勿論家族ともどもですが二人が元気で13年後のその日を迎えたいものです。夫婦円満の秘訣はわがままな私が妻に歩み寄る以外はありません。分っていても中々口に出しても言えないし、行動で示すのはもっと大変ですが、少しずつ自分のわがままを手直ししたいと思っています。

 昨日お寺さん参りをしながら、お参りする人様の夫婦を何組も見ました。私たちと同じような人生を歩んでこられたのでしょうが、二人並んで手を合わせて拝む邪念の払われた穏やかな姿を見て、私たち夫婦は逆にどんな姿に見えるのだろうと思ったものです。夫婦は人生の基本です。お互いこれからも助け合って生きてゆきたいと結婚記念日を前に自分の心に誓いました。

  「こどもの日 実は夫婦の 記念日で 三十七回 やっとここまで」

  「雨風や 寒さ暑さも あったはず 下を支えた あなたは偉い」

  「一と一 足せば二になる はずだのに わが家六なる 子ども恵まれ」

  「記念日を 覚えているだけ まだましだ 今日は手足を 揉んでやろうか」




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shin-1さんの日記

○のんびりゆっくり徳島の旅

 昨夕仕事から帰った妻と食事をしていて、「明日は何も予定もない休日だし、のんびりとお寺参りでもするか」と誘ったところ相談がまとまり、早立ちで徳島まで行く事になりました。私は早朝4時に起床して机上のパソコンでブログを一本書いて軽い朝食や身支度を済ませ、5時過ぎに出発しました。伊予インターから松山道を経て川之江ジャンクション、徳島道と100キロ近いスピードでひた走り、板野の4番札所大日寺には納経所の開く8時30分に到着です。私たち夫婦の八十八ヵ所参りは仕事の関係もあってまるでランダム、一番からなんて出来ませんでしたから適当に回っています。ですから空白部分や歯抜けといった感じでお参りしていないお寺があるのです。今日のお参りは4番から13番までが残っていたので順番どおりカーナビ頼りのお参りとなりました。

 どの寺も私たちのようないい加減なお参りではなく、白装束に身を固め鈴の音も読経の声も軽やかな参拝客に見えました。妻はその人たちに触発されてかお参りの資料に印刷されている般若心経を持参して、もれ聞こえてくる参拝者の読経に合わせて口ずさんでいました。私は無信心なものでお賽銭を入れて鐘を突き手お合わせるとそそくさと引き上げて納経所へ行き、納経帳と掛け軸を出してその達筆ぶりに感心しながら書いてもらうのです。

 最近は歩き遍路の人にも随分出会うし、車でお参りする人は殆どスピードが同じですから、早かったり遅かったりしながらあの顔この顔に出会って、言葉を交わすのも遍路のいいとこかも知れません。昨日は連休ということもあって可愛いい白装束の子どもさんにも沢山出会いました。一用前な姿とおじいちゃんやおばあちゃんの嬉しそうな姿には思わず目を細めて見ました。

 季節はもう初夏、周りの景色は燃えるような新緑で、思わず深呼吸をしてみたくなるような爽やかさです。山には小鳥が鳴き、オレンジ色の山つつじも美しく咲いて自己主張しているようでしたが、今回のお参りは行く寺毎に咲き誇る花にめぐり会ったことでした。その度に妻をモデルに撮影会のように一枚ずつデジカメの写真が増えてゆきました。帯状疱疹の妻は幾分かやつれた感じもしましたが、それでもカメラいっぱいの豊満ぶりで女らしく収まっていました。あるお寺では私がカメラを向けていると、「押しましょうか」と気軽の声を掛けてくれる参拝者に甘えて撮ってもらいました。何せ新婚旅行でも二人で撮った写真が一枚もないという私ですから、何とも面映い感じがしましたが旅の記念になりました。藤井寺の藤も見事でしたし、最後に参った雲辺寺では千メートルの標高なので山桜、長い九十九折の山道を走った山奥の石楠花が満開で、思わぬ花見となりましたが、5月の連休に桜の花見が出来るとは思っても見ませんでした。

 先日のお寺さん参りの時は、突風が吹いて香川県からロープウェイでのお参りは時間切れで出来ませんでしたが、裏山から車で挑戦し今度もまた時間切れ間際となったもののやっと念願かなってお参りをすることが出来ました。

 再び池田町まで下山して旧国道を峠越えして川之江まで出て、高速道路をひた走り、7時には松山で一風呂浴びて遅い夕食を楽しみ無事9時過ぎにわが家へたどり着きました。今日一日でしめて10ケ寺をお参りしました。車のメーターは一日で500キロを越えましたが、充実した一日だったと妻も大喜びです。それにしても便利な世の中になったものです。徳島へ行くだけでも大変だのにお寺さんを10カ寺ですから感心します。この分だと高野山参りもそんなに遠くはないようです。

  「どの寺も 季節の花の 盛りにて 思わずシャッター モデルがいいから」

  「撮りましょう 思わず声を 掛けられて うれし恥ずかし 寄り添う夫婦」

  「朝もそば 昼もそばにて 夕食は せめて寿司でも 回転我慢」

  「本を持ち 般若心経 唱えるが まるで音痴で 思わず笑う」

 

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shin-1さんの日記

○88歳の親父を語る①

 私には二人の親父と二人の母がいるはずなのですが、そでに妻の父母と私の母は既に亡くなっているので、私のルーツは父の誕生日である大正7年9月1日から前へ遡ることはできないのです。父は父の父母である私の祖父母から生まれる前のことを色々効いて育っていますが、それは聞いた話なのです。ですから父が生まれてから今日まで生きて見聞きした話から4~5歳年齢を引いた80年余りの出来事しか正確には伝わらないのです。私はその父親から一体何を聞き、何を覚え、何を誰に伝えればよいのでしょうか。私の父はこの時代の人の殆どがそうであるように文字を持たない世代なのです。生まれて間もなく行くであろう学校にも貧乏が故ろくに行けず、少年の頃から大家族の長男としての重圧の中に生きて家族を支え続けた人生は「おしん」のドラマと同じような苦しい人生であっただろうと思います。その文字を持たない親父にとって気がかりなことはは、後何年生きて、後どのくらい自分の持っているものを伝えられるかではないかと思うのです。船に乗って漁師を70年間もした親父は瀬戸内海を漁場としながらあえて外海に挑んだり、晩年は海の資料館「海舟館」を造るなど得意な生き方をしたため、文字こそ少ないもののそこここに目で見える形で生きた証が残っています。でもこれとて私という口伝者(筆伝者)がいないと次代へは伝わらないのです。幸い私は7年間の短い期間にせよ父と同じ漁師を若い頃経験していますので、父の経験の口伝者と同時に筆伝者として最適な一人であることは間違いありません。ですから本当は父の思い口を開かせ、生きているうちに生まれ育った下灘という漁村の民俗学を少しでも文字にしておきたいのです。

 父の生きた時代や下灘漁村の暮らしは速いスピードで記憶の彼方へ消え去ろうとしています。多分私が手を加えなかったら気付かずに消えていく運命にあるのです。漁村のあれこれは私と同じような思いを持った人たちがその都度私を介して取材にやって来て口述文字にしていますが、残念ながら文章表現は先生らしく上手いものの暮らしや生産活動の共有がないため入り口までで止まっていますし、それらを読んでもこれまた読む人に暮らしや生産活動の共有がないので殆ど伝わらず、老漁師の戯言として消えて行くのです。

 

  昨日私は、わが家の庭の余りにも美しいつつじの花をデジカメで撮ってブログで紹介しようと思いつきました。若いごろガンで顔面を手術した後遺が残っているため、余り写真の好きでない父が菜園で野良仕事をしていたので、「じいちゃん、写真を撮ってあげる」とカメラを向けると「こんな汚い格好で」と嫌がりましたがカメラに収まりました。これがわが人生のルーツである父・若松進・88歳なのです。

 子どもが生まれると今の親はカメラやビデオで成長の記録をします。日々老化する親父の記録も意味があるのかも知れません。そうだ「老化する人間の記録」を、父には悪いのですがやってみよう。

  「偶然に 花と一緒に 撮りました 八十八年 生きてた証」

  「この花も この父さえも 惜しまれて いつかは散りし 定めありなん」

  「ポーズとる つもりが軍手 脱ぎ忘れ それでも片手 花に沿えつつ」

  「五年前 あそこの屋根は 無かったな 親父しみじみ 流れをポツリ」

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shin-1さんの日記

○一周忌法要とうどん

 父の弟嫁、つまり私にとっては叔母になる人が亡くなって早くも一年が経ちました。今日はその一周忌の法要があるというので妻と二人で朝早くから出かけました。この頃は身内の人ともお目出度やお悔やみ以外には中々会うこともないので懐かしい思い出話に花を咲かせました。叔父や叔母も随分歳をとって、ああ高齢化社会だなあと思いつつ、和尚さんの長い読経に正座もままならない姿を見ながら、やがてわが身かなと思ったりもしました。お墓参りも無事済ませ昼食時間となりましたが、田舎のことゆえ、また私の親族は多いので近所の公民館を借りての小宴となりました。料理以外にこちらの地域では法事にうどんがつき物なので、うどん好きの私としては楽しみで、釜揚げのようなうどんを漬け汁に薬味を入れて食べるのです。その美味いことときたら格別で、私は2杯もお代わりをしてしまいました。うどんはうどんの麺と漬け汁が決め手です。うどんは腰の強い麺が好まれますが、最近は冷凍うどんが普及して生麺と変わらないものが多く出回っているようです。

 問題は漬け汁のダシですが、こちらでは大豆と昆布としいたけ、それに煮干しを使います。漬け汁には少し固めの大豆が丸ごと入っていて、慣れない人は「えっ、うどんの漬け汁に大豆が入っている?」なんて驚きます。私たちにとっては普通のことでも、慣れない人には驚きなのです。最近の若者は味噌汁でもダシを取らずにダシのもとで代用しますが、私たちのような古い人間にはダシのもとなどはダシではないと思うのです。上等なダシと上等な醤油で造った上等な漬け汁で食べるうどんはやはり法要の一番のご馳走なのです。亡くなった叔母さんには大変失礼な話ですが、法要もうどんが食べられる楽しみがあるから長いお坊さんの読経もじっと我慢が出来るのです。

 それにしても田舎の人は朝早くから、みんなでコウロクと称する助け合いをしてうどんやお寿司を造ります。親戚内には何人か寿司を作るのが上手い人、うどんのダシを作るのが上手い人などがいて、「あんたがいないとお寿司は出来ぬ」と褒め殺しにあい、結局はコウロクのメンバーとなって最後までコウロクしてしまうのです。

 ところでこの死んだ叔母さんの葬式には私が親族代表のあいさつをしました。その叔母さんの夫である叔父の死んだのが昭和45年、今から36年前46歳で亡くなりました。何とその時も私は親族代表のあいさつをしました。夫婦二人の葬式に二人とも私が最後のあいさつをするなんてと葬式の日に思ったものでした。

  「天国で 叔父に再会 したならば 私も進ちゃん あいさつ伝え」

  「うどんとは 運・鈍・根の 略語なり 三つ揃えば 立派な人に」

  「読経など どっちでも良い 俺うどん 早く食べたい 早く終わって」

  「海と山 産物混ぜて ダシを取る 美味しいはずだ うどん肴に」

 

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shin-1さんの日記

○花見はわが家で

 ゴールデンウィークの話題は季節柄、何といっても花です。砺波のチューリップや東北・北海道の桜など、連日「おいでおいで」と言わんばかりにテレビのニュースで流れています。県内でも「安・近・短」な場所として大洲のつつじや長浜のえびねなど、近場でも楽しめるところがいっぱいあります。花より団子のひとは別ですが、わが家のつつじも100メートル以上にわたって咲き誇り、今が満開で中々見応えがありますので写真を二枚用意しました。

 これは親父の隠居側からたった今撮影しました。意地の悪い事に私が写真を撮ろうとすると雨が降り出しました。花にとって雨は致命傷です。傘でも差しかけてやりたいのですが100メートルも続くとそんなことも出来ないので花はだ残念です。このつつじは平戸つつじで樹齢は25年生です。私がまちづくりを始めた頃、花いっぱいのまちづくりをしようと、自らの畑の岸に植えたものが大きくなったのです。でもこの花の管理も大変で、除草や施肥、消毒、それに冬場の剪定と親父の手を煩わせているからこそなのです。

 もう一枚写真を用意しました。これは反対側から撮影しました。花は左と右、前と後ろでは全然趣が違います。また紫や白に混じって斑のはいったものもあったり、一本に木で3種類の花が咲く珍種もあります。わが家の花は派手さはありませんがわが家の畑から楽しむことが出来るほか、田んぼを挟んだ下の道からも楽しむことが出来、少しずつ近所の人が知るようになって、昨日も「余りにも綺麗なのでと散歩を楽しむ人が飛び込みで見学にやって来ました。花を作った親父にしてみれば見てもらう、褒めてもらうことは無上の喜びで、お茶を出したり海の資料館の見学と、まあ張り切っています。昨日までぎっくり腰で歩きも出来なかった人間とは思えない回復です。

 この花が植えられるまでは杉の防風垣がありました。毎年春先になるとチップソーの刃を付けて剪定をしていましたが、杉の花粉が沢山飛び散るので思い切って伐採しつつじに植え変えました。伐採当時は殺風景で多少後悔していましたが、今にして思えばよかったと思います。

 100メートルのつつじの帯は圧巻です。わが家のように誰もがとはゆきませんが、少しみんなで気をつければ町の景観も美しくなるかも知れませんね。

  「俺の家 只今つつじ 満開で そぞろ歩きの 客が立ち寄る」

  「丹精を 込めて咲きたる つつじ花 母に見せたい 一輪挿しに」

  「窓開けりゃ 隠居一番 桟敷席 母の写真が 毎日見てる」

  「このつつじ オンリーワンの 咲きっぷり 今年も見事 写真に収め」 

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shin-1さんの日記

○苦渋の選択

 「苦渋の選択」という言葉を聞く度に一字違う「苦汁菜」を思い出します。正式な学名は知りませんが、私たちの地方では荒れ地に小指ほど、背丈ほどの小さな木が生えます。その木のことを苦汁菜の木と呼んでいますが、この葉っぱは読んで字の如く香りまで苦い苦い木なのです。そかしこれが料理の仕方によっては山菜として珍味なのですから分らないものです。近所の人に譲ってもらう梅の木の畑にはこの苦汁菜の木がやたらと生えています。草刈木で刈っていくのですが、面白いように倒れて行きます。私は草刈機を使いながら、この苦汁菜の木の新芽を摘もうと思ったのです。急いで水平線の家に戻ってナイロン袋を持って来て柔らかい新芽を袋いっぱい取りました。

 夕方自宅へ持って帰ると、仕事が遅くまであった妻は、叔母の一周忌の念仏に出かけなければならないので、それどころではないという雰囲気でした。仕方がないので昔祖母の手伝いをした記憶を思い出して苦汁菜の佃煮を作る事にしました。

 苦汁菜佃煮の作り方レシピ

 ①苦汁菜の木の新芽を摘む

 ②摘んだ芽を水洗いしながらゴミや硬そうな茎を取り除く

 ③ボールのようなものに新芽を入れて塩でまぶし丹念に揉み解す、揉み方が不足すると苦味が残る

 ④しんなりして苦い悪が出たらよく水洗いをしてきつく絞る

 ⑤絞った苦汁菜を鍋に入れ水はヒタヒタ程度で煮る

 ⑥青が茶色になったら冷水でさらし水気を取る

 ⑦鍋に入れてほぐし水を少なめにして砂糖や醤油を加えて煮る

 ⑧好みに合わせて大粒の梅干をほぐして入れる

 ⑨最初強火、最後は弱火で煮詰めてゆき、最後は水を飛ばして出来上がり

 ⑩仕上げにレモン汁をふりかけ飛ばすと一層味が引き立つ

まあこんなもので、あの苦かった苦汁菜が何と佃煮風になって、お茶漬けの友や酒の肴になって最高です。妻からは「やれば出来るじゃない」と皮肉たっぷりに言われましたが、本当に美味しくできたのですから不思議です。先日妻の友人から苦汁菜の佃煮を少々頂きましたが、あの味よりは勝ったかなって感じです。この苦汁菜の佃煮の欠点はガス代がいることと、手間暇がいることですが、せめて人間牧場の敷地内に生えているものが沢山あるのですから、これからもせっせと挑戦したいと思っています。今日は苦汁菜と一緒にフキも取って帰りましたので、これも佃煮にしなければなりません。

 それにしてもふと気がついたのですが、私のような亭主関白の男が、随分変わったものです。これぞ人間牧場の目指している「自立」なのかもしれませんね。

  「苦汁菜の 佃煮作る われを見て やれば出来るね 妻の一言」

  「飲まずとも 食べる苦汁を 選択し せっせせっせと 佃煮つくりぬ」

  「約2時間 摘みし責任 果したよ いいことなのに 次はよそうと」

  「今日は肩 腰と腕痛 使い過ぎ なれぬ仕事え 体に偏重」



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