shin-1さんの日記

○耕運機届く

 今日はあいにくの梅雨空で天気予報でもはっきりしないと言っていましたが、長い間(といっても3~4日程度)人間牧場へ行っていなかったので、草刈も気になっていたので霧の深い中を登って行きました。五里霧中とはこのことかなと思いつつ下界を眺めましたが港さえも霧の中でした。時折ぱらつく程度の雨だったので思い切って草刈機を取り出して草を刈り始めました。雨の日の草は草が雨に濡れているので面白いようによく切れるのです。妻から「明日は遠出の出張なので疲れるといけないから弁当は持たず昼には帰るように」言われ、自分もその気で出かけました。3時間程度草を刈って、さあ帰ろうと思ったところへ息子から電話が入り、「今日は休みなので友達を連れて行くから」との事。結局はおやつ代わりの煎餅とバナナを食べて草刈を続行しました。

そのうち息子が友だちが都合で来れなくなったと一人でやって来ました。「お父さんお風呂を沸かすから入ろうや」と五右衛門風呂を沸かし始めました。五右衛門風呂にはまだ1回しか入ったことがないのでそれもいいだろうとまた草刈続行、そこへ大洲市田処の亀本耕三さんがひょっこりトラックに耕耘機を積んでやって来ました。「ひょっとするとメールで連絡のあった耕運機では」との直感が当ったのです。「メールで連絡していたこの耕運機を差し上げます」と言うのです。亀本さんはかつて柳沢公民館の主事をしていた頃に知り合い、その後酪農家になってからもフロンティア塾のメンバーとして私の元へ度々足を運んだ、私の最も親しい人の一人なのです。

 亀本さんはトラックにはしごをかけ手馴れた様子で耕耘機を下ろしエンジンを始動して見せました。型は少々古いが1発でかかる優れものです。さてこの耕運機をしまう場所がないことに気付いて、息子と相談し近々薪を入れる倉庫兼用を建てる算段をしました。妻に言うとまた反対されそうなので息子と二人だけの内緒話です。亀本さんとは7月1日に会う約束でした。今日は時間が取れたので耕運機だけ、今度来るときに牛糞を摘んでくるとの事でしたが、一応亀本さんを水平線の家や五右衛門風呂、それにツリーハウスへ案内し久しぶりに家族のことなど積もる話をしました。その頃には天候も回復し遠望の素晴らしさに目を見開き感動している様子でした。

 亀本さんが帰ってからしばらく草を刈りましたが、息子が風呂が沸いたと言うのでいざ五右衛門風呂へ、

高知県南国市の川村一成さんが感動して帰った五右衛門風呂はまさに「いい湯だな」の心境でした。海も空も中の晴れ間の穏やかさが見て取れました。

  「草刈の 疲れた体 湯に沈め 下界見下ろす 気分最高」

  「耕運機 車に乗って やって来た 俺にくれると 友はあっさり」

  「彼五人 俺は四人の 子持ちです 仕事もするが 子どもも作る」

  「いい人にゃ 天も味方し 晴れ渡る どうだ絶景 自慢したくて」


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shin-1さんの日記

○遺訓

 「人の一生は重き荷をおいて遠き道を行くが如し、不自由を常と思えば不足なし・・・」は余りにも有名な徳川家康の言葉です。人々の中にはは心のより所となるような様々な言葉に自分の人生をダブらせて生きている人が以外と多いようです。中には遺訓をわざわざ表装して掛け軸にしたり掲額にして日々の戒めにしています。先日友人の家に招かれ客間に通されましたら床の間に立派なこの掛け軸があり、その話に花が咲きました。何でも彼は狸といわれる徳川家康は余り好きではなかったのだそうですが、この言葉を知ってから徳川家康に興味が湧き、「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」の織田信長や、「鳴かぬなら鳴かしてみよう」の豊臣秀吉より、「鳴かぬなら鳴くまで待とう」の徳川家康が断然好きになり、友人の書家に頼んで一服の掛け軸を作ったのだそうです。それ以来何かにつけてこの遺訓は彼を励まし、いい今日があるのもこの遺訓のお陰だと胸を張っていました。

 「ところで若松さん、あなたの生き方は面白いのですが、歴史上の人物の生き方に例えると誰で、どんな言葉が浮かぶでしょうか」と突然彼から振られました。私はとっさに「歴史上の人物には色々興味を引かれて本も読みましたが、どうも表と裏があって表裏一体の人は少ないようで・・・・」とお茶を濁してその場を逃れました。日本が近代国家に生まれ変わる江戸から明治に移り変わる明治維新というほんの一瞬の短い時代を駆け抜けた坂本龍馬も高杉晋作も吉田松陰も勝海舟も、西郷隆盛もみんな好きですし、その遺訓は今読んでも瑞々しく感じます。ドラマチックに生きたこれらの人の全てを取り込んで生きてみたいと思うのですが、中々現実には当てはまり難いのです。強いていえば私の生き方を導いてくれたのは群像遺訓とでも申せましょうか、その場その時に応じた遺訓を参考にして生きてきたのです。

 ある人は「己を愛せよ」と説きます。しかし一方で西郷隆盛は遺訓の中で「己を愛するのは善からぬことの第一なり。修行のできぬも、事の成らぬも、過ちを改むることのできぬも、功に伐り驕慢の生ずるも、みな自らを愛するがためならば、決して己を愛せぬものなり」と述べているのです。誰でも自分ほど可愛いい者はいないはずですが、人の上に立つ人となると話は別です。自らを厳しく戒めて行かねばならないことは当然のことなのです。

 最近日銀の福井総裁が村上ファンドに1千万円投資した話が世間の話題となっています。日銀総裁の手腕は最近の経済安定をもたらした影の功労者かも知れません。しかし金利が限りなくゼロに近い現代にあって1千万円が2千万円になっていた事実は庶民の暮らしとはけたがはずれ、呆れてものが言えないようです。その事実を指摘されても責任を認めず居座る姿は、西郷隆盛の遺訓に反するもので、「己を愛する」遺訓そのままに生きているようです。日本銀行の長い歴史に汚点を残そうとしている総裁を人々は偉いと認めることはできないはずなのです。

  「遺訓軸 床の間飾る 友の家 わが家床の間 はてはて何が」

  「総裁と いわれるお方 金儲け 一儲けしたはず 人儲けせず」

  「俺だって 金は欲しいが それ程に しなくて生きて ゆけるのですから」

  「ある人は 自分を愛せと 言うけれど 愛し過ぎては 愛せぬ同じ」

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shin-1さんの日記

○水に学ぶ

 水ほど不思議な物体はないと時々思うことがあります。風呂に入って水(お湯)を広げた手で押すと水は左右に分かれて後ろへ逃げてゆきますが、逆に手を広げて後ずさりすると水は手についてくるのです。昔親父と風呂に入った時、この水の不思議を手で動かしながら話してくれたことが今でも頭の片隅に残っているのです。私は社会教育13年、教育長2年とあわせて15年もの間教育の現場に身を置き、様々な教育活動に携わって来ましたが、手と水の関係はリーダーの在り方を見事なまでに示しているのです。私たちは教育の現場で相手に何かを教えようという心が働き過ぎて、幾らやってもその気持ちが空回りすることがしばしば見受けられます。それは水を手で押す動作に似ています。一方相手を尊重し自主性に任せて自分が一歩下がれば相手の心はこちらの懐へすり寄ってくるのです。これも手を引くと水が追いかけてくる様に似ていて、私たち指導者に無言の教えをしているのです。

 今日風呂に入って考えました。私の容量が入ると風呂の余ったお湯は湯桶から溢れ出ます。これも当然のことですが不思議といえなくもありません。妻と二人が交互に入るから次男が入るお湯が保てているのです。二人が入って満タンになった気分のお湯は二人が出た後は見るからに惨めな量なのです。湯桶の量を前もって知ることは見定めとしては大事なことだし入力と出力のバランスにもつながります。

 昔「水五則」なる教えを聞いたことがあります。「水は方円の器に従い人は善悪の友による」とか「雲や霧や霰や氷になってもその性を失わざるは水なり」などだったと記憶していますが、水の不思議を考える度に水に教えられるのです。水は分け隔てなくあらゆるものを浄化し、活気を与えてくれます。水は自由に恐れることなく、あらゆる物の表面から奥深くまで浸透します。水は流動し敏感に反応します。水は自由で軽やかです。

 これらの特性をリーダーに当てはめて理想のリーダー像を考えてみると、「いかなる場においても不平を言わず、いかなる人とも手を携え、いかなる問題からも逃げず、全員の利益のために行動し、報酬の多寡を問わずによく奉仕する人」、「簡潔かつ正直な言葉で語り、光を注ぎ、調和を生み出すために問題に介入すう人」、「水の動きを見つめることによって、行動においてはタイミングが全てであることを学ぶ。水のように圧力に対して柔軟である人」だと思います。

 水は何故かつかめません。水はすくうものです。だとすると心もつかめません。心は汲み取るものなのです。今水の星といわれる地球が環境汚染によっえ危なくなっています。この水の星に暮らす人々の行いも戦争や迫害によって難民生活を強いられる人が沢山いるのです。もうそろそろそのことに気付き水の如き穏やかな暮らしを取り戻したいものです。そのためにも水のような力を備えたリーダーを目指さなければなりません。

  「水なくば 動植物とて 生きられぬ 水の恵みに 汚さず感謝」

  「水のよな 人になれよと 教えられ 未だなれずに 苦悩三昧」

  「この身とて 殆ど水で 出来ている 汚れなき水 飲める幸せ」

  「リーダーの 心得水が 教えてる 大河の流れ 元は一滴」 

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○城ヶ島の雨

 昨日は大雨の中を岡山県和気町商工会の招きで合併記念セミナーの講演に出かけました。往復500キロのマイカーでの長旅で、帰宅時間は午前0時を回っていました。雨の中の走行なので妻は相当心配したらしいのですが当の本人は元気そのもです。今朝はその疲れもあってか多少気だるさが残り、書斎の窓越しに雨に濡れた庭を見ています。普通の人は雨を嫌がるのですが、お百姓さんや漁師さんにとってみれば久々の休みでほっとしているのではないかと思います。最近は田植えも早くなり、田休みなどの風習もすっかり捨てれてしまいましたが、昔は公民館に集まって田休みの酒盛りなどが年中行事として行われていました。

 庭の隅に植えられているアジサイが雨に濡れて一際美しく見えます。雨をうっとうしいと思うのか、雨を楽しむのかは人それぞれでしょうが、雨を見る度に思い出すのは「城ヶ島の雨」という北原白秋の歌です。城ヶ島は神奈川県三浦三崎にありますが、愛媛県立宇和島水産高校の練習船の基地が三浦三崎だったのです。私は18歳の頃この愛媛丸に乗船して南太平洋へこの港から出航しこの港へ再び帰って来ました。出港準備の忙しい中を私は友人とともに渡海船に乗って晩秋の城ヶ島へ渡りました。島の一角に北原白秋の歌碑が建っていました。

    「城ヶ島の雨」

   雨はふるふる 城ヶ島の磯に 利休鼠の 雨がふる

   雨は真珠か 夜明けの霧か それとも私の 忍び泣き

   舟はゆくゆく 通り矢のはなを 濡れて 帆あげた ぬしの舟

   ええ 舟は櫓でやる 櫓は唄でやる 唄は船頭さんの 心意気

   雨はふるふる 日はうす曇る 舟はゆくゆく 帆がかすむ

 この唄を作った北原白秋が神奈川県三浦半島の突端にある三浦三崎に住んでいたということを知ったのは随分後のことなのですが、森繁久弥さんが哀調を込めて歌う城ヶ島の雨という歌にはこんな私の少年の頃の思い出があるのです。

 それにしても、雨を見て利休鼠の雨おは凄い表現力です。利休鼠とは灰白色にやや緑かかった色をいいます。城ヶ島の緑が雨に濡れていたのでしょうが、利休鼠は焼き物の色としても使われます。私が自著「昇る夕日でまちづくり」の本の序文に書いた「雨過天青雲破処」もやはり焼き物の色なのですから、実にいい表現だと、あらためて北原白秋の感性の豊かさに驚いています。

 ここ2・3日は梅雨のぐずついた天気が続くようですが、今日は久しぶりに窓の外の雨を眺めながら、雨を楽しみたいと思っています。

  「早苗田に シトシトシトと 音もなく カエル鳴く声 傘が演出」

  「昨日雨 今日も明日も 雨雨雨 ツバメは低く 元気に飛び交う」

  「この雨を 利休鼠と 白秋は 唄に歌って 心和ませ」

  「塩漬けの 梅をまぶすや 昼下がり 匂う香りに ツバを飲み込む」


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○勧奨退職の決断

 この歳になると私の元へは色々な人生相談が持ち込まれます。夫婦の折り合いが悪い離婚騒動とか、体調が悪く病院に行ったらうつ病と診断されて休職したいとか、はたまた仕事を辞めたいとか、一見幸せそうに見える人が深い悩みの淵に立って悩んでいるようです。私には離婚の経験もうつ病になったことも、仕事を途中で辞めたこともない未経験者なので、本当にその人の気持ちを汲み取ることは出来ませんが、それでも一緒に悩み一緒に解決しようと、糸口を探すくらいなら出来ると思い相談に乗るのです。

 何年か前、子供のいない役所に勤める晩婚女性からある相談を受けました。その女性の夫が脱サラして新しく募集している公共施設で食堂を開きたいと言うのだそうです。それなら私も一緒に夢を追おうと役所を退職したい旨の相談でした。夫の会社は民間で小さく退職金などなく、女性の退職金をつぎ込んでの出発になるとの話や、公共施設の目指す目標・集客などがはっきりしない今の決断は危ないから、私の友人にリサーチを頼んでみる事でその場は別れました。友人のFS調査によると目標や集客数値予想は惨憺たるもので、残念ながら赤字になる結論が出たのです。私のこの資料に女性は驚きましたが、その夫はの意志は固く結局その方向に走ってしまいました。しかしその女性は「夫こけたら妻こけるでは元も子もないからあなただけは今の仕事を続けなさい」という私の忠告を守り職場に踏みとどまり、土日や祭日に裏方として援助をしているようです。先日気になってその女性に会ってみました。開口一番「あの時若松さんの言葉がなかったら私は職場を辞めていたでしょう。今の夫の仕事は若松さんの調査どおりの結果で、夫も今は後悔していますが、かなりの資金を借金で投資したこともあって止めることは出来ません。土日も祭日もない働きがどれ程大変か、今になって分りました。でもそのことが随分人生勉強になり今の仕事に生かされていますので、まあそれが救いでしょう」と胸を撫で下ろしていました。

 「若松さんのような自由な人生が送りたい」と今の私を見て誰もが言います。私は今の自由な人生に満足し自由な人生を見せびらかせていきているのですから、周りの人はそう思うに違いありません。しかし今の自由を手に入れるまでには35年間の涙ぐましい努力があったことを知る人は少ないのです。何かの壁にぶち当たると人はその場から逃げ出したくなったり辞めたくなったりするものです。その時「ちょっと立ち止まって」自分を見つめたり、親しい人のアドバイスを貰うことは道を誤らないで済むことになるのです。

 行政が人余りの手段として打ち出した「勧奨退職制度」は少なからず行政に働く人たちの間に波紋を投げかけています。小さな田舎町の役場で親方日の丸で過ごしてきた人が、平成の大合併という思わぬ黒船来航によって心が乱れ、「本庁で仕事をしなければならなくなったり、難しい職責に頭を悩ますのだったらいっその事辞めたい」と思うのは無理からぬことです。でも給料が安いと不満を言ったって役所の給料を別の働く場所で稼げるほど世の中は甘くないことをしっかりと認識しなければならないと思うのです。

 先日「あなたの日給や時給はいくら」と役所の職員に尋ねたら「月給なので分らない」とう答えが返ってきました。今社会では時給800円から1000円程度でしょうか。800円だと8時間で日給6400円になります。1ヶ月に20日働くとして月給128000円です。勿論ボーナスも退職金もなく休めばお金は貰えません。年収を12ヶ月で割ると月給が、月給を30日で割ると日給が出てきます。時間中にお茶を飲んだりタバコを呑んだり、休みも給料として出ていることを思えば、何と恵まれた環境にいるかお分かりでしょう。

 さああなたはこれでも勧奨退職で別な道を進みますか。

  「恵まれた 場所にいるのに 恵まれぬ 不平不満は 次から次へ」

  「給料と あなたの仕事 シーソーに 乗せてください 重いのどっち」

  「辞めたいと わがまま言う奴 すぐ辞めろ あなたの変わりは 幾らでもいる」

  「あの時の あのアドバイス なかったら 私辞めてた よくぞ辞めずに」

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shin-1さんの日記

○ハイビスカスの花が咲く

 わが家の家の周りには人知れず咲き人知れず散ってゆく花々があります。敷地の広い我が家では親父が中心になって庭の手入れや雑草取りに余念がありませんが、親父はやり始めると夢中になってやるものですから、やり過ぎて体調を壊してしまうのです。そのことが心配で妻が親父に「あまり無理をしないように」というと親父の機嫌が少し斜めになるようです。昨日も裏庭のつつじの剪定をしてその剪定かすを運ぶのに難儀をしたようでした。私も少しでも草を引こうと外に出る度にしゃがんでは草を抜き取るのですが、夏草の勢いは凄く活発ですぐに草だらけになるのです。

 日ごろは何気なく通り過ぎる庭ですが、今朝外のプランターにきれいな花が咲いているのを発見しました。忙し過ぎて花など観賞する暇もなかったのかも知れませんが、私が手伝って春に植えた花々が今が見ごろと主張しているようです。

 この花はハイビスカス、今朝大きな花を咲かせました。南の沖縄やハワイに行けば何処にでも見られる花ですが、わが家の玄関で「見て見て」といわんばかりにど派手な咲き方です。妻が先日旅先で買ってきたものでしょうが、特価で50円だったらしく早くも500円の元は取ったと大威張りです。でも私が植えたプランターも中々の出来栄えでいい花が次から次へと咲いています。

 「どうです。きれいでしょうが」と私も花に変わって言わんばかりにデジカメを取り出して早朝撮影と相成りました。カメラを向けていてハッと気がついたのは雑草を抜くのを忘れていて花と一緒に写ってしまったこと、そしてそのカメラの向こうにひょろひょろと伸びたカサブランカが2輪の花を咲かせているのです。このカサブランカは広島の友人から3年前に送られてきたものですが、世話もせずに植え替えだってしないのに今年も花をつけたのです。嬉しくなってパチリ一枚撮りました。

 カサブランカは香りが独特で鼻を近づけると爽やかな花の香りが漂ってきました。来年こそは忘れずに植え替えて送って貰った友人に感謝の手紙でもと思いきや、「あっ、しまった。私のブログを友人が毎日読んでる」と気がつきました。「まあいいか」と思いつつカサブランカの花を一枚ブログに載せてしまいました。

 花は美しく見ていると飽きません。これからも花の命は短いのですから、しっかりと鑑賞したいものです。その前にしっかりと手入れを忘れないように心に誓いました。

  「庭の隅 私見てよと 花が言う デジカメ取り出し はいはいポーズ」

  「忘れてた カサブランカの 存在を それでも花は 今年も綺麗に」

  「やっとこさ 花を見るよな 心境に なった自分が 面白おかしく」

  「さも自分 手入れしている 顔をして 綺麗でしょうと 自慢たらたら」

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shin-1さんの日記

○夏至だのに日が長いって感じない

 昨日は一年中で一番昼が長い夏至でした。年末近い冬至から比べると夕暮れは2時間半も違うし、朝だった2時間くらい違うのですから、外が明るい間働こうと思えば滅茶苦茶長く働けるのですが、人間の体力が持たないのか相変わら朝8時30分に始業して5時には終わるというキリギリスのような働きを誰もがしているようです。毎日24時間のリズムで動いている私たち人間にとって与えられた時間は誰も同じなのに、そして私自身にとっても冬も夏毎日も同じなのに長くも短くも感じるのはやはり体内の心の持ちようではないかと思うのです。

 この数日自由人といいながら日程が立て込んでいて昼が長いのに一日がアッという間に過ぎていくような錯覚にとらわれています。多分今日も、昨晩娘の夜勤の都合で泊まりに来ている孫を松山の幼稚園に連れて行き、午前中は日銀松山支店で金融広報アドバイザーの研修会に出席し、午後1時からは教育センターで10年教員相手に講義を行い、それが終わると高速道路をひた走り、夜は岡山県和気町で合併記念セミナーでまちづくりの講演をするのです。本来なら今晩はゆっくりと旅先で宿泊すればよいのでしょうが、明日半日が潰れるので、引き返して来るのです。

 普通の人では考えられないこんなスケジュールで動いている私を見て、セミリタイアした人とは思えないと誰も驚きますし、妻は「若くないんだから余り無理をしないようにユックリズムで」と足を引っ張るのですが、当の本人の私は以外と平気でむしろこのスリルを味わっているような錯覚にとらわれています。このパワーは一体何処で育ったのか自分にも分らないのですが、多分長年の行動パターンが私の体内時計に組み込まれているのだと自分で納得しています。人間牧場の建設を思いつき実践に移してからこの一年間はそれまでの室内会議の数がめっきり減り、教育長という責任からも解放されて屋外で農作業することが多くなって体力的にも自信がついたためでもあるようです。風呂上り自分の体を鏡に写してみると一目瞭然で、体重は55キロと痩せたままですが顔は日焼けして、腕や胸も昔漁師をしていた頃のポパイ気味の体には程遠いのですが精悍な体つきに変身しています。

 体と心のバランスがとれている時は一日の暮らしが充実し、疲れを感じさせないようですからひょっとしたら61年間生きてきて今が一番心と体の安定があるのかも知れないと極力幸せ感を回りに感謝しながら生きていくように心がけています。戸主たる私の安定は家族の安定にもつながり、少し痩せたいと努力している妻も、体に少々不安を抱えるようになった親父も、勉学者就職活動などに悩む息子も、人からみれば大した悩みでもなくそれなりに日々の暮らしを楽しんでいる様子なので目出度し出酢。

 今日から猫の目くらい少しずつ昼が短くなって行きますが、せめて昼が長い分充実した暮らしをエンジョイしたいものです。

  「長い昼 感じもせずに 日が暮れる 無意識過ごす 本当は幸せ」

  「リタイアを しても驚き 超多忙 それでもウキウキ いいね納得」

  「風呂上り 自分の体 鏡見て まるで骸骨 理科室見本」

  「穏やかな 日々の暮らしに 感謝して 今日も一日 働く喜び」


 


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shin-1さんの日記

○岡山倉敷への旅

 前日の午前0時過ぎに出張先の高知県四万十市西土佐から帰って軽い食事を取り、軽い眠りの早朝5時妻と二人で夜明けの伊予路を高速道路にのってただひたすら岡山県倉敷を目指して突っ走りました。倉敷での講演依頼があったものですから、不謹慎ながら妻に休暇を取らせ同行する事になったのです。自由人になった昨年からこれまでに島根県隠岐の島、鳥取県倉吉市などへの旅はまさに一石二鳥で同行二人の二人旅を楽しんでいます。今回も妻に話したところ倉敷への憧れもあって同行しました。

 初夏の早朝はすがすがしく、普段車や列車で何気なく通っていた瀬戸大橋の景観は素晴らしく、途中休憩のために立ち寄った余島パーキングエリアは散閑としていましたが橋をバックに写真を一枚撮りました。

 眠い目をこすりながらの妻はそれでもハイポーズって感じです。これまでの35年間の夫婦暮らしでカメラなど妻に向けたことは殆どありませんでしたが、最近はまるでモデル撮影会のように写しまくっています。

 講演は午後2時からなので鷲羽山ハイランドに立ち寄り、カーナビの示すまま倉敷の美観地区を訪ねました。早朝なので人通りもまばらで爽やかな空気を吸いながら清掃の行き届いた街中を散策しました。

 柳の新緑も随分濃くなって水面に映える姿は何とも風情があるものです。妻をモデルにハイ一枚です。ホテルの地下にあるレストランで朝食を食べましたが、これがまた美味で妻は「このところ随分いい食事に出会う」とご満悦でした。

 さて朝飯も食べたし何処へ行こうか当てもなしといったところで、吉備津神社をカーナビでセットすると案外近いので狭い参詣道路を走りその壮大な規模に二度三度びっくりし見学しました。あいにく本殿は解体修理の真っ最中で見れませんでしたが、本殿へ続く長い屋根付き参詣道は威風堂々の構えをしていました。

看板にアジサイ園があることを見つけ訪ねてみました。

 長い石段の両側にきれいなアジサイが今を盛りと咲き誇っていました。残念ながら花つきは今一でしたが、散水の水に濡れたアジサイは妻と同じくらいまぶしく感じられました。

 すぐ下の池のほとりには菖蒲の花がこれまた美しく思わずパチリです。

 今年は八十八ヵ所参りも再会し桜や石楠花や藤の花の美しさを堪能したばかりなので、花の季節を意識しない旅ながらこうして花の満開にめぐり合うのも嬉しい出来事です。

郊外の厚生年金センターが講演会場なのでそろそろと思いきや、見慣れた国分寺の五重塔が目に入り、風土記の丘周辺を散策する幸運にも恵まれました。

 僅か一日のついでの旅はここで終わり、いよいよ仕事の講演です。先方主催者の都合でプログラムが変更され、1時間も待たされるハプニングに少し緊張の糸が切れ掛かりましたが、それでも存分に活躍し、再び同じ道を引き返し、帰りは川内のインターチェンジで降りてていれぎの湯で一風呂浴び、良い旅は終わりました。目出度し目出度しです。

  「風薫る 吉備路をふたり 巡り来て 束の間の旅 花が出迎え」

  「カメラなど 向ける暇など なかったな 写真に写る 妻はまあまあ」

  「二人旅 始めてからは 妻少し 痩せよう努力 成果表れ」

  「岡山は 晴れの国だけ あるわいな 梅雨の盛りに こんなに晴れて」 

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shin-1さんの日記

○わが村は美しく・玖木(20-1)

 「若松さんですか。第一回目の集落講演会を6月15日に行います。6時ごろまでに西土佐総合支所へお越しください。遠方なのでくれぐれもお気をつけて」と人懐っこい中脇係長さんからの電話の通り、長浜~大洲~城川~日吉~三間~松野~西土佐のコースをのんびりゆっくり出かけました。夜来の雨で肱川や四万十川はかなり増水し濁流が勢いをつけて川下へ流れていました。午後からは心配した雨もあがって時折青空も覗くほどになっていました。出かける朝和田産業課長さんから、飯でも一緒に食べようとお誘いがあり、少し早めに到着して小高い丘の上の星羅四万十というお洒落なレストランで支配人の土居俊雄さんと名刺を交換し篠田さんを交えて少しの間楽しいおしゃべりをしました。

 夕闇迫る頃いよいよ出発です。産業課が主催だというのに、教育委員会や総務課、企画の若い職員が4~5人同行して勉強させて欲しいとのこと、中脇係長の意気込みを感じ車中は賑やかな論議に花が咲きました。途中民宿舟母というかお馴染みの店によってあいさつしましたが、小さかった子ども大きくなり若い夫婦やおばちゃん夫婦も息災との近況を聞いて安心しながら、濁流に沈んだ沈下橋を避け大きな橋を渡って黒尊川沿いを登って行きました。

 訪れた玖木地区は戸数が20戸以下の小さな集落です。廃校になって既に久しい跡地に集会所はこじんまりと立っていました。少し時間があったので周辺を散策しましたが、かつて学校の子どもたちを見守ったであろう桜の木やメタセコイア木がうっそうと小さな運動場跡地を囲んでいました。集会所の入り口には門柱が立っていて今は苔むしていますが「玖木小学校という文字が印象的に残っていました。

 この校門をくぐって何人の子どもたちが学校へ登下校したことでしょう。運動場の隅に古いレンガづくりの焼却炉を見つけました。またそのすぐ隣には鎖を取り外されたブランコの柱だけが赤錆びて寂しく立っていました。ギーコギーコ音がしたのでしょうね。

 ふと見上げるとそこには廃墟と化した教員住宅が朽ち果てるのを待つようにひっそりとありました。玖木のこれらのものは全て近代化遺産で歴史であり文化であるのです。記録にとどめたり写真にして残すこともしているのでしょうが、大切にして欲しいものです。

 玖木の会場は僅か20戸以下なのにこちらから行った人を含めると20人を越えて中々賑やかな会となりました。私の話は①田舎嘆きの10か条をベースにしながら1時間半の話をしました。亀ちゃんだの日ごろ呼んで名前で呼び合う和やかさであっという間に時間が過ぎました。底抜けに明るい人たちにコミュニティの深さを感じましたが、ここでもやはり過疎と高齢化、それに地域の活性化が大きな課題のようでした。私のような人間が外から入ると、活かしたい地域資源がゴロゴロ転がっているように見えました。このお宝をどのように生かすかはこれからの仕事でしょうが、みんな歳をとってきて悠長に、ジョージアのコマーシャルではありませんが「明日があるさ明日がある」なんて考えずに、出来ることから始めないと時間がないのです。

 奥屋内へ行く途中玖木の区長さんに家の前でお会いしました。この人は只者ではないと思いました。ご覧下さい。カーブを回るといきなり山の中の狭い道沿いにこんな美しい花壇があるのです。これは区長さんは自から種を蒔いて育てた花々だと聞いて二度びっくりです。

 家の前なので当然だと笑って話していましたが、凄い美的感覚と行動力です。人の上に立つものかくありたいものです。区長さんのお家の下には黒尊川の清らかな流れとミニの沈下橋がありました。いい山村の風景でした。小さい声で「ここだけの話だけれど天然の鮎が遡上します」と川面を指差しました。確かに黒い鮎の群れが泳いでいるように見えました。区長さんの遊び心は田舎暮らしにとって最も必要なことなのです。人の暮らしをねたみ、人の暮らしをうらやんでも何の得にもなりません。どう生きるか生き方が問われているようですが、どうやらそのヒントは区長さんは見つけているようでした。

  「この村じゃあ 五十六十若い方 もう歳言う人 一人もおらず」

  「何よりも 驚くことは 村中に 笑い絶えない 日々の暮らしが」

  「門柱に つわものどもの 夢の後 記録残さば 朽ち果てしまう」

  「この村は その気で見れば 美しく 花の咲く庭 思わずパチリ」 

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○四万十川のふるさとへ・奥屋内(20-2)

 四万十川のふるさと旧西土佐村へ行くようになってはや二十年が過ぎました。最初は軽いつもりの出会いだった当時の若者たちも20年という歴史の重みでしょうか、そこここの職場で重要な役割をこなしながらむらづくりに励んでいます。二十年の時の流れは人々の暮らしにも大きな変化が見られ、予想だにもしなかった平成の大合併によって西土佐村という自治体はなくなり、総合支所という体裁のいい繕いで行政が行われています。また四万十川の流れにもこれまた大きな変化が現れて、昨年と一昨年の台風で端々の川や山林は目を覆いたくなるような散々な荒れようです。多分行政の支所化に伴ってこうした災害の復旧は完全には出来ないのではないかと思って寂しく感じるのです。でも西土佐村に住む人たとの暮らしは穏やかで相変わらずの心の優しさで私を出迎えてくれるのです。

 少し早めの村入りだったので、今まで訪ねたいと思いいつつ訪ねていなかった江川崎の駅に行きました。鉄道から車社会への変化の波をもろに受けて駅周辺は散閑としていました。行政が作ったであろう「列車に乗って予土線を守ろう」という看板が空々しくもむなしく目に映りました。江川崎の次の駅が「はげ」だそうで、思わずバラエティ番組に使えそうだと一人にやりしたのです。列車の線路も引込み線や対向線は使われなくなってすっかり赤茶けて錆びつき一層寂しさを増幅させていました。

 この風景は私の好きな風景だったので思わずカメラを向けました。線路の向こうに長い鉄橋が見えました。何処か懐かしい少年の頃の思い出のひとコマです。駅舎に入り列車の時刻表を調べましたが、まだ列車の通過には時間があるので残念ながらマッチ箱のような一両立ての列車が鉄橋の上を通る写真は撮らず終いで駅を後にしました。

 中脇さんと役場で落ち合い、夕食のために川沿いの大好きなポイントにある岩木食堂へ出かけました。日替わり定食を頼んで話し込みながら直ぐ下を流れる四万十川を見ました。4日前に訪ねたときは夜来の雨で増水して濁流が音を立てて流れていましたが、水はすっかり澄み渡り元の静けさや美しさを取り戻していました。

 四万十川には沢山の橋が架けられていますが名物の沈下橋以外にも好きな橋が沢山あります。その一押しは岩木食堂の前の赤い橋で、少しペンキが剥げて赤錆が目立つようになりましたが西土佐のシンボルのような感じさえするのです。

 西土佐村から中村へ向かうため、あるいは村内散策の途中で何度この橋を渡ったでしょうか。やはりこの赤橋も私にとっては思い出橋の一つなのです。この日は梅雨の晴れ間の一日で今年一番の暑さらしく、食事をいただきながらテレビを見ていると江川崎では32.2度を記録して、全国3番目の暑さだと報じられていました。いよいよ四万十川にも夏本番が近づいてきました。

 中脇さんの運転する公用車に乗り込み一路黒尊川の上流にある今日の目的地奥屋内地区へ、4日前に訪ねた玖木地区の写真を雨のため撮っていなかったので補助取材をかねて道の途中だったこともあり散策しました。雨の暗がりで見えなかった玖木の姿にも侘しさと趣が感じられました。

 途中玖木の区長さんに偶然会って「今晩の集会にも行くから」と私に言うものですから、話の内容を変えねばと思いました。奥屋内は今度で2度目の再訪です。何故か建設会社の社長さん宅で飲んだことやと社協ヘルパーの節男君のことが思い出されました。彼はどうしているのやら・・・・。

 奥屋内で一番の気がかりは小学校の休校風景でした。学校をなくしたら地域が潰れるという危機感から止む無く休校という選択肢を選んだそうですが、朽ち果て破れたカーテンを窓越しに見ながら心が痛みました。学校の運動場も体育館も地域のコミュニティ活動で使っているからすごく手入れが出来ているのですが、そこここに人の入らない空気のよどみが施設の劣化を早めているようにさえ感じられました。子どもがいなくなり住民が高齢化する。この現実が奥屋内の地域にも静かに深くしのびよって、地域がなくなるのではという将来の不安にかられて寂しく感じられました。

 研修会には沢山の人が休校の小学校体育館に集まり、文字通り車座の話をしました。この日の話は①社会の変化の10年、②同じ高知に生きてる川村一成さんの百章としての生き方を中心に1時間半話しました。

会場の雰囲気もよく、講演が終わってから「名刺をいただけませんか」「今度人間牧場を訪ねます」「また今日のような話をしに来て下さい」と嬉しい反応がありました。是非そうしたいと思いました。

 帰り際、ここへ来る途中立ち寄った農家レストランで桧のわっぱを2個3千円で買った話をしたところ、その製作者が2合のご飯が入るわっぱをわざわざ自宅に帰って持参しプレゼントしてくれました。嬉しい出会いです。早速お便りを出すべく中脇さんに住所をメールしていただくように依頼し、暗闇の中を沈下橋を渡って岐路に着きました。片道125キロ、往復250キロは帰宅12時、少々きついがほのぼのです。

  「何年か ぶりに訪ねし 奥屋内 学校休校 カーテン破れて」

  「四万十の 流れゆるやか 変わらずも 人の暮らしは おいおい細りに」

  「このままで 朽ち果てるより もう一度 夢を形に 楽し

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