shin-1さんの日記

○役目を終えたヘルスメーター

 隠居に済む親父を除けば今は3人しかこの家に住んでいませんが、一時は親父夫婦、私たち夫婦、子ども四人の計8人が同居していたこの家の、風呂場に通じる脱衣場兼洗濯場に置かれ、毎日毎日風呂から出る度に家族の体重を計測してきたヘルスメータが役目を終えて新しいのに変わりました。このヘルスメーターは家が新築した昭和51年に新築祝いとしてどなたからかいただいたも物なので、もう30年間も使ったのですからよくも長持ちしたものです。このヘルスメーターは優れもので、私たちの体重を測るだけでなく梅やラッキョウ、味噌などの漬物素材を調合する時も使いましたから、わが家の暮しには無くてはならない活躍をしてくれました。

 「お母さん、うちの体重計少しくたびれたんじゃあない」と息子が言うものですから自分が乗って確かめてみると新品の頃よりかは確かに計測計がユックリズムのような気がするのです。先日孫と一緒に風呂に入って孫の体重を測りましたが、だいたい合っているようです。でも健康が気になる実年組の私や妻の体重を毎日測る重要な役目を果すには少し心もとなくなってきました。

 そんな矢先、友人の慶事のお返し用カタログが届き、それを捲っていた妻が「お父さんこのカタログでヘルスメータが貰えるののでそうしようか」と相談があり、一も二もなく「それがいい」と相槌を打ちました。やがて箱に入れられた真新しいヘルスメーターが先日届き早速お披露目です。人目はばかるわが家で一番の体重を誇る妻も帯状疱疹を患って以来少し痩せてスリムになったので「ほら見て」と言わんばかりにヘルスメーターに乗って試技に余念がありません。私も乗ってみましたがこれまでのヘルスメーターに比べバネの具合も鋭く確かな体重を測ってくれるようです。

 商売に使う重さの計測器は年に一回検定があるようですが、家庭の計測器など検定をしないのでわが家の計測器が正確かどうかは疑問でした。でも新しいのと古いのと乗り比べてみましたが余り変わらないのでホッとしながら、役目を終えたヘルスメーターはやがて不燃物回収場へ行く運命にあるものですから、長い間ご苦労さんと心の中で感謝をしました。

 私の体重は今朝の計測で55キログラム弱です。一番体重のあった頃には68キロありましたから、13キロ減になっています。少し痩せ過ぎかも知れませんが、今のところ悪い所もないようで順調ですからこの体重を減らないよう維持したいと思っています。

痩せた人は肥えたいし、肥えた人は痩せたいし、人間は悲喜こもごもの思いで毎日体重計に乗ることでしょう。体重は健康のバロメーターですから新しくなったヘルスメーターでしっかりと健康に気をつけた暮しをしたいと思っています。

  「新しい ヘルスメーター 乗ってみる 俺の体重 只今松井」

  「何故痩せぬ 体重計が 恨めしい 妻の歩きも 実はここから」

  「ご苦労さん 測り続けた 体重計 やがてゴミ行く 悲しい運命」

  「腹いっぱい 食ったつもりの スイカでも 朝には元に 戻る体重」

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shin-1さんの日記

○忘れられたカギ

 「今日は人間牧場へ草を刈りに行くので作業の出来る服を出しといて」と妻に言って、間近に迫ったふたみの夏祭り用七夕飾りの竹を切りに近所の竹薮へ、自治会の役員4人で出かけました。元町長さんの竹薮は保育園の近くにあって便利なことから、昨年に引き続いてのお願いです。七夕飾りは町内の皆さんが各戸で笹飾りをするとともに5つの丁目毎に大笹飾りを造るのです。したがって私たちの役目はその大笹飾り用の大竹を5本切り出すのです。4人で5本は意外と楽勝で30分程で終わり、各丁目の代表に笹を渡して作業を終えました。

 家に帰って妻と息子の3人で朝食を取り、作業着に着替えていざ人間牧場へ出発です。水平線の家のカギやデジカメ、それに作業で喉を潤すための水筒と余念なく準備をしましたが、作業ズボンのポケットに手を突っ込むと何やらカギのような物が出て来ました。何とこれが見覚えのあるシーサイド公園の管理用カギだったのです。

 今は年間55万人もの来訪者で賑わうシーサイド公園ですが、私は当時課長以外まったく部下のいないたった一人だけの日本で一番小さな課の課長でした。平成7年3月21日にオープン以来、教育長に就任する平成16年までこのカギは私の体と一心同体で離れることはありませんでした。真冬の水槽掃除も、水が不足して貯水槽のブザーが鳴って警備会社から深夜の呼び出しがあった時も、また花火で眠れないと近所からクレームがあった時も、このカギで機械警備のセットを切って中へ入り対応したものです。教育長就任後も掃除を続けたため返す機会を逸し洗濯したポケットにしまわれ今日の日を迎えた事になります。

 それにしても今頃になってこんな忘れられたカギが出てくるなんて思っても見ませんでした。懐かしさの余りに頬ずりでもしたくなるようなお宝との出会いなのです。早速明日は役場担当の武田さんと一緒にシーサイドの池田所長さんへお返しに行きたいと、離れることへの寂しさを感じながらも机の上に置いて一日中ぼんやりと眺めていました。

?「このカギであそこを開けてこんなことをした」なんて思い出すと12年間がまるで昨日のことのように頭に浮かんできました。カギは道の駅の駅長としての責任もついて回りましたが、今はその責任から逃れており、誰かがその責任をしょってくれているのでしょう。

 今の世の中はかなり物騒でピッキングやガラス戸を割って内部に侵入する不届きなものもいると聞きます。幸い私がこのカギを預かった12年間は泥棒に入られることもなく平穏無事にお勤めを終えましたが、不特定多数の人間が出入りするシーサイド公園のことですから、カギを返す時、くれぐれもそのようなことがないように今一度お話をしたいと思っています。それにしても大それたごめんなさいでした。

  「このカギが 私の分身 十二年 何の失態 なくて感慨」

  「ポケットを まさぐる中に カギありて 驚く私 妻も驚く」

  「このカギが 最後の別れに なるかもと 返す明日が 何か寂しく」

  「この三年 ズボンに眠る わが過去に あらため帰る 懐かしきかな」 

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shin-1さんの日記

○早くも・・・・・・

 年齢を重ねたからそう思うのでしょうか。世の中の流れは十年一昔と言われた昔に比べ、一年一昔と言われるような速さでどんどん今が過去になって、自分の後ろへ消え去っています。ある人が「自分が小使いを人から貰う立場の間は盆や正月が待っていても中々来ないと思うから一年が長く感じられ、自分が小使いを人に渡すようになると盆と正月が待ちもしないのに早く来てしまうから長く感じるのだ」と言われ納得したりもしました。

 今朝5時前ひぐらしがカナカナカナと物悲しくも賑やかに鳴いて、今年は例年より10日も梅雨明けが遅れた日本列島に昨日やっと梅雨明け宣言が出されたばかりだというのに、「早くも」秋の気配を感じました。東北では青森ねぶた祭りが開幕し、武者絵のねぶたや「ラッセーラ」と言いながら踊る独特の「はねこ」が威勢良く踊る姿が、テレビで放映されていました。東北の「青森ねぶた祭り」「秋田竿灯」「山形花笠祭り」などは、冬の厳しい地域だけに華やかでより強烈な印象を与えているようです。「ねぶたが終わると東北では早くも秋の気配を感じる」とアナウンサーが「早くも」をコメントしていました。

 近郷では本来秋の味覚であるはずの秋の果物が出回り始め、「早くも」観光ぶどう園や梨園がオープンしたと、新聞や折込チラシが報じています。わが町でも海の見える小高い山の中腹に夕陽丘観光梨園があって、例年ファンが集まって来るようですが、梨園オープンを告げる看板類が道路の要所要所に「早くも」取り付けられ始めました。観光果樹園は果樹の糖度が生命なのですが、今年は梅雨が長かったので味の方が心配です。

 近所の田んぼを見ると昨日まで青かった稲に出穂が見られ「早くも」実りの準備が始まっています。田植えが1ヶ月も早い分だけ出穂も1ヶ月は早くなったと思いつつ周りを見てみると、田んぼの上を無数のトンボが「早くも」飛んでいました。動物も植物も人間社会の「早くも」にせかされて生きているように思われる今日この頃なのです。

 「狭い日本そんなに急いで何処へ行く」という交通標語がありましたが、このところの日本人の急ぎ過ぎた生き方は異常と思えるほどです。意の向くままに自然に生きればよいものを、自然に逆らって不自然に生きているようです。不自然に生きるためには何かを犠牲にし鳴ければ生きて行けません。たとえばハウスみかんを作るためには畑に温室を作り、化石燃料を使って不自然な温室空間を作らなければなりません。みかんの木は人間の作った不自然な環境で花を付け実を結ぶのです。少数の価値とでもいうのでしょうか、そうして「早くも」作られたみかんはハウスみかんとして高値で取引されるという市場原理が働き、生産者の所得は一見上がったような感じがします。しかし自然全てを温室に変えることは不可能ですから、人間は自然と不自然を往復し、知らず知らずの内に違った環境の中で体を壊してしまうことだってあるのです。「早くも」ハウスみかんが出回り始めました。今年は高値のようで、他人事ながら喜んでいます。

 聞き飽きた「早くも」という言葉がテレビから流れる秋先取りの季節を迎えました。ひょっとしたら「早くも」は一年中使っている最も流行の言葉かも知れません。

  「早くもと 言う流行に せかされて 気付いて見ると 俺は早くも」

  「早くもと そんなに急いで 何処へ行く あの世近づく 冥土は遅く」

  「大根は 冬の食べ物 何故に買う 美味くもないが 焼いた魚に」

  「お寺より 棚行行くと 知らせあり 迎え火焚かず 坊主早くも」 


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shin-1さんの日記

○私は何処へ行けばいいのか

 今日は西条市の中央公民館が主催する館長会に招かれ、地区公民館の館長さんにお話をしに出かけました。そんなに急ぐこともないからとゆっくりリズムで高速道路を利用することもなく国道11号線を走りましたが、途中携帯電話で国際会議の打ち合わせと称する電話が入り車を空き地に止めて打ち合わせを済ませたものですから、ついでに今日の会場をカーナビに電話番号で入力しました。ところがその番号が示す目的地は何と旧東予市を指しているではありませんか。東予市や丹原町、小松町が合併して新西条市が誕生したことは知っているのですが、西条市の中央公民館はこんな場所ではないと思いつつ、もう一度入力しなおしましたが、また同じ場所を指すのです。30分ほど余裕があるので、カーナビの示す道路をその通り走ってとりあえずの目標に到達して、施設の入口を見ると看板には紛れもなく「西条市中央公民館」の看板が上がっていました。中に入り担当者に聞くと、合併による施設配置で中央公民館は旧東予に移ったことを聞き納得しました。もし携帯がかからず車を空き地に駐車しなかったら、カーナビに入力しなかったら、多分私は合併前の旧西条市中央公民館へ行ってたかも知れないと思うと、情報化時代の恩恵にしみじみ感謝するのです。

 西条はずっと向こうの・・・なんて思いながら車を走らせると、桜三里を少し下れば早くも「西条市」の看板が早くも目に入るし、合併後の市町村名はまるでチンプンカンプン、看板も作るのにお金がいるのでしょうか市内へ入ると端々の看板には「旧丹原町」なんて旧の文字がいいわけ程度についている看板を良く見かけるのです。

 事なきを得目的地にたどり着いてホッとしてお茶をいただきましたが、今までは東予市で飲むお茶だったのでしょうが、今日は水の都西条市の水で沸かしたお茶ですから、出す方も「水の都の水です。良かったらもういっ杯」と勧められ、ついつい2杯目をお代わりしてしまいました。暑かったせいか冷たい西条のお茶は一服の清涼として喉を潤しました。

 さて公民館の門外な私が館長さんに何を話せばいいのか少し戸惑いましたが、公民館主事として13年、中央公民館長として2年、私設公民館塗師として30年の経験を織り交ぜながら1時間半お話をさせてもらいました。公民館活性化の結論は公民館職員のやる気と指導助言の質にかかっているといっても過言ではないのです。特長のない公民館・命と暮らしに結びつかない公民館・事業バランスが崩れている公民館・子どもや若者が集まらない公民館・青年団や婦人会などの団体が崩壊している公民館・行政に当てにされない公民館・金のない公民館・中長期計画がない公民館・公民館運営審議会が機能していない公民館・公民館職員のやる気が感じられない公民館・マンネリ化した公民館のどの悪口を随分言いました。

 私は只今自由人です。何の責任もないわけですから怒られるのを承知で声高に公民館の悪口話をしました。そして21世紀の公民館の理想像は自立する地域、自立する住民を育てること、そのためにはふるさとを愛する気持ちを育てよう。そのためには読む・聞く・見るといった従来の学習ではなく、書くこと・喋ること・実践することの出来る人たちを沢山育てようと熱いエールを送りました。

 公民館はそのまちの顔であり情報と人の拠点でなければなりません。合併を機にもう一度何をなし何をすべきか考えることが大切ではないでしょうか。

  「カーナビが 私行くとこ 地図をなぞる お陰様にて 間違うことなく」

  「間違いと 勘の違いが ありました 俺の賞味は もう期限切れ」

  「災害時 非難するのは 公民館 社会に貢献 してる胸晴れ」

  「看板を 見てもピントは ずれている こんな所に 何故に看板」

   

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shin-1さんの日記

○マスコミ取材と背もたれチェアー

 昨年3月に役所を退職した時、「ああこれで、長年お世話になったマスコミ関係者とも会えなくなるなあ」と少々寂しさを覚えたものでした。役所生活35年のその度に新聞・雑誌・テレビ・ラジオなどに数知れない程登場し、いわばタダの情報を公共の媒体を使って流し続けて来ました。特にまちづくりに深く関わった20年余りはすごい量だったと、未だ整理も出来ていない新聞のスクラップやビデオテープの山を見て、一つ一つの取材に関わってくれた方々の顔を思うのです。私が始めて新聞やテレビに登場したのは確かNHK青年の主張に応募し、予選審査の結果県代表に選ばれた時からでした。田舎の青年がテレビに出るなんて珍しい時代の昭和43年の出来事でしたからそれはもう町中の話題になって、私は一躍町の有名人になったような心境でした。そして私の30分もの番組が作られてたのでした。その番組の予告記事が「今日の見もの」欄に細かく載った記事も新聞に最初に登場しものでした。

 マスコミに縁のなかったこの1年余りは、私のとって多少の物足りなさを感じていましたが、こんなものだとマスコミに追いかけられない自由さを感じていたのです。それがどうでしょう、「人間牧場を造りたい」という長年の夢を昨年の公友会の雑誌に投稿して、実際にそれが完成した記事を書いたりし始めると、あちこちから堰を切ったように問い合わせや取材以来が相次ぎ、今は人間牧場へマスコミ関係者を案内する回数も増えてきました。

 ラジオ向きを自認する私としては映像媒体より活字媒体の方が有難いのですが、勝手を言えないのでその都度少し違った案内をするよう心がけています。昨日は南海放送の三瀬さんがやって来て、私お気に入りの背もたれチェアーで昼寝する姿をカメラに収めていたようです。私はこの背もたれチェアーが大のお気に入りで、暇さえあれば寝そべって本を読んだり昼寝をするのですが、その発想はフーテンの寅さんが下灘駅に撮影に来た時、下灘駅のプラットホームのベンチに寝そべって夢を見ている冒頭のシーンにヒントを得たのです。このチェアーは息子がインターネットのオークションで買い求め私にくれたものです。私はこのチェアーを自分の書斎に置いて愛用していましたが、水平線の家が出来たのを機に持ち込みました。そして夢見るフーテンの寅さんのように水平線の家で瞑想にふけっているのです。

 背もたれチェアーで見る夢は過去型夢と未来型夢の2つに分かれます。過去型は思い出に帰る夢ですが、6年前になくなった母の夢は最も多く見ますし、少年の頃の夢も数限りなく見ます。先日は畑を耕していたら母が愛用の鎌が出土して驚きました。多分畑仕事の最中に置き忘れたものと思われますが、柄は腐ってなくなっているものの鎌本体は赤く錆びて出て来ました。夢に出てくる母は白い日本タオルで姉さん被りをして鎌や鍬を持ち働いている姿です。今度夢の中で会ったら「鎌が見つかったよ」と報告したいと思っています。

 未来型夢はこれから人間牧場でしたいことが山ほど出てきますし、人生をいかに生きるかなんて夢も沢山見ます。ドラえもんではありませんが今や背もたれチェアーは私にとってかけがえのない夢見舞台なのです。

  「逝きし母 夢に出てきて 鎌探す 耕す土中 錆びた鎌出る」

  「背もたれに もたれて他愛 ない夢を 寅さん同じ 年齢近づく」

  「マスコミに 登場俺は 時の人 そんな錯覚 出来る幸せ」

  「久しぶり 言われてはてな 首かしげ 一年ブランク 長いトンネル」

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shin-1さんの日記

○樅の木は残った・津賀地区(40-8)

 午後3時過ぎに西土佐村に入った私は馴染みの食堂彩花で冷麺を注文し遅い夕食を食べながら、居合わせた西ヶ方の民宿女将井上茂子さんを交え楽しいお喋りをしました。西土佐村でも最近グリーンツーリズムの影響か民宿を志す人が何人かいるとの話を聞きました。私がこの旧西土佐村へ乗り込んだのもそうした地ならしややり気の触発だと思うとついついうれしくなりました。

 「今晩の集会は岩木食堂から川沿いに入った津賀とう地域で集落には日本一の樅の木がある」という中脇係長さんの電話での言葉を頼りに、時間がるので事前調査をしてみようと、不案内ながら一人目黒川を登って行きました。カーナビは便利で曲がりくねった道地図のはるか向こうに津賀という文字を発見したのは川遊びをした場所から更に上流へ10分ほど走ってからでした。突然視界が開け手の行き届いたユズ畑や田んぼが広がり、高知県特有のオクラやピーマンといった夏野菜が所狭しと植えられているのです。中にはハウスでアロエを栽培している人もいて、かなり勤勉な地域だと棚田の石垣の見事さにただただ驚くばかりでした。

 聞くところによるとこの地区でも遅まきながら圃場整備事業が計画されて間もなく事業が始まるとのことですが、その場合一体この美しい棚田の石垣はどうなるのだろう」と一人要らぬ心配をしてしまいました。仮に圃場整備をすれば棚田の石垣は草の畦畔となるに違いありませんが、せめて日本農村の原風景である文化的畦畔を残すような事業であって欲しいと思いました。

 橋のたもとにあった「日本一の樅の木は左500メートル」という看板に偽りがなければあの木かなと当りをつけて進んで行くと、登り口でおばあちゃんに出会いました。竹崎さんという表札がかかっていましたので、樅の木への道順と車を置かせてもらうことを頼んで一人登って行きました。最近刈ったのでしょうか道は綺麗に手入れがされてとても歩き易くあっという間に昼なお暗い樅の木の根元までたどり着きました。

 木の傍には樅の木が日本一といわれる出所来歴がきちんと書かれていましたが、これは怪しいと思いました。だってこの大きさで樹齢300年とは信じ難いような威風堂々の株立ち菜のです。多分300と800はよく似ているから800年の間違いではないかと思われるのです。それにしても日本一の樅の木がこうして見れたのですから感激というほかはありません。夕方集会が始まる前に村長の案内で再び見学にやって来ましたが、暗くなっていたのと藪蚊の餌食になって、よくぞ昼間にやって来ていたものだと思いました。

 樅の木の周辺は平家の落人伝説の土地に相応しく墓と思われる石仏が無造作に置かれていました。傍にはステンレス製の賽銭箱が二箇所置かれていて、私もポケットをまさぐれば100円硬貨が出てきたので賽銭を入れて樅の木にそっと耳を当ててみました。太古の声が聞こえるようでした。

 津賀の講演会は20数戸らしいのですが殆どの人が詰めかけ、1歳と8歳の子どもが親に連れられて参加して和気合いあいの笑いの耐えない集会となりました。帰り際道案内をしてくれたおじさんが「今日の話は今迄で一番良かった。また来て欲しい」とお世辞を聞いて束の間の集会所を後にして、三間経由でわが家へと急ぎました。

  「樅の木の 太さに比べ 俺たちは 小さきものぞ たかが小枝だ」

  「俺くらい 行くか行かぬか 大違い 戸数なんて 問題ではない」

  「マジックが 付かぬといって 取り帰る 長閑なものよ 田舎の集会」

  「石垣を 壊して圃場 整備する 石垣残す 手立てはないのか」

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shin-1さんの日記

○旧西土佐村界隈(20-8)

 旧西土佐村へ行くついでか、北宇和高校へ行くついでか分らなくなった8月最初の旅は北宇和高校での講演から始まりました。高校では夏休みを近い将来につながる重要な自己啓発期と位置づけトライアル研修講座を組んでいます。その一環として昨年に引き続きお話をする事になりました。カーナビが選んだ北宇和高校へのコースは双海~長浜~大洲(国道56号)~西予宇和~歯長峠~三間~鬼北~北宇和高校のコースでした。7時50分に家を出て約1時間40分で学校に到着です。夏休みの静寂でしょうか校内は静まりかえっていました。講堂での講義は2年生40人余りと先生たちが集い冷房の効いた最高の環境です。「青春へのメッセージ」と題した1時間程度の講義は、潜在能力と顕在能力の話を中心にすえながらあっという間に終わってしまいました。教頭先生や担任の先生が言うように田舎の高校らしくどの生徒も真面目でむしろ高校生らしい覇気が欲しい感じもしましたが、まあそれなりの手応えは返って来ました。

 夕方の講演までにはかなりの自由時間があるので、かねて関心を持っていた松野町松丸の「ぽっぽ温泉」へ行ってみることにしました。この温泉はおさかな館の水を確保するため井戸を掘っていて偶然にも発見された地下100メートルの温泉を駅舎と併設して整備した、愛媛県内にはない特徴あるものです。入口で偶然にも顔見知りである支配人の岡本さんにお会いし、温泉談義や最近のまちづくり事情についてだべり合いました。温泉はJR駅利用らしく黒を基調とした落ち着いた雰囲気でした。岡本さんの話だと温泉の黒字目標である年間10万人は達成されているようですが、灯油を燃料としたエネルギー費が油の高騰でかなり経営を圧迫しているようでした。今時の温泉の入浴料金が400円とはと疑問もありました。風呂は箱風呂やミストサウナ、樽風呂などかなり個性が感じられましたが、樽や箱のはそろそろ寿命のようでした。昼下がりの温泉は散閑として露天風呂などまるで一人じめのような贅沢を味わいました。

 前の道を通ったので旧友の芝教育長を訪ねようと思いましたが、先日も会っているので思い止まり、一気に松野町を走り抜け、かねて念願の県境にかかる橋を渡りました。葛川という地名の場所で更に車の巾いっぱいの小さな橋を渡り踏み切りに出ました。ここは愛媛県と高知県を分る県境なのですがそんな風情は何処にもなく、県境と書かれた踏切遮断機施設が県境を意識させる程度でした。この狭い道と伸びるレールの向こうには多分、先日訪ねた西ヶ方の駅や集落があるに違いありません。

 車をUターンさせて再び葛川の集落に出ました。橋の袂の家にお邪魔して居合わせたおじさんに色々な話を聞きました。ここには愛媛県葛川と高知県葛川が川を挟んで同居しているのだそうです。隣の集落は合併して村から市へ昇格、こちらは合併問題で先日リコール運動が成立し住民投票の結果町長が信任され、議長がその責任を取って辞職願いを出すなど、合併という招かざる客によって思わぬ混乱を招き苦悩する山間地の姿を垣間見ました。それにしても日本の地方自治も面白いものです。この道ひとつで左奥の家は高知県四万十市葛川、右は愛媛県松野町葛川なのです。おじさんの話だと日ごろは両地区とも非常に仲がよく県が違うなんて感じないそうですが、自治体の選挙やもめごとの度にお互いの違いに翻弄されて生きてきたと述懐しましたし、不便を除けばそんなに苦痛はないそうでした。この日は畳の土用干しでしょうか、家の前の広場には沢山の畳が二枚一組で虫干しされていました。この風景もすっかり近頃見られなく光景です。

 葛川橋の上から松野町側の川に異様な光景を見ました。訪れる車も殆どないので橋の上に車を止め川を見ると無残な沈下橋の姿が目に留まりました。沈下橋の中央の橋板部分が下流に流されて通れなくなっているのです。多分一昨年か昨年襲来した台風の爪痕でしょうが、沈下橋は自然と共生する安全な橋と思っていたのにこの惨状には少なからず心が痛みました。昔は沈下橋を解消するため橋が架けられると沈下橋はその役目を終えて撤去される運命にあったそうですが、沈下橋の観光的役割や庶民の生活的な役割を考え今では橋の設置後も残しているようですが、安全性を考えるとこれも考えものだと、始めて見る沈下橋の惨憺たる光景に思わず息を呑みました。

 有り余る時間をのんびり過ごそうと目黒川に向かいました。この上流に滑床渓谷ありという看板を見て、20年前始めて西土佐村へ足を踏み入れたことを思い出しました。和田修三さんの電話での説明を鵜呑みにして「西土佐村は滑床の奥です」という言葉を頼りに、松野町から滑床経由で西土佐村へ入ったのです。ところが道はまちがっていないものの滑床経由ですから何処まで行っても西土佐村にたどり着けず、この道では夜間のこともあって聞く人さえなく大幅に遅れて西土佐村の会場に着いたのでした。多分この道を不安な気持ちで通ったことでしょう。

 今晩の講演会は中脇裕美さんの話だとこの川の上流津賀であるのです。生徒数の減少で存続が危ぶまれている中村高校西土佐分校を横にみながら川に沿った狭い道を走り、途中川の下に沈下橋を発見し渡った所へ車を止めて、川原に下りてみました。遠くで雷が鳴り響き雲行きが怪しくなってきましたが、川原の石の上を散歩しながら思い切って靴と靴下を脱ぎ、目黒川の水の中に入ってみました。何というすがすがしさでしょうか。大きな石の上に寝転

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shin-1さんの日記

○孫と一緒に夕日見学

 昨日は助産婦として病院に勤める娘の夜勤で、孫を預かる事になり、夕方松山の幼稚園へ迎えに行きました。くもんに連れて行ってわが家に連れて帰ったのですが母親がいないことを納得しているため、甘えることもなくいつになく上機嫌で帰って来ました。夕方7時頃の帰りには夕日が海の彼方に沈む前だったので「朋樹君夕日を見にシーサイドへ行こうか」と誘ったところ、「行こう行こう」と話がまとまり、急いで家に帰ってデジカメを用意してシーサイド公園へ出かけました。梅雨明けの瀬戸内海は穏やかで夕景も綺麗でしたが、お目当ての恋人岬は残念ながら結婚の写真を撮る集団に占領されて行くことが出来ません。写真を撮りたかった人も、恋人岬で夕日を鑑賞したかった人も遠巻きにこの幸せカップルを「仕方がないか」って感じで遠巻きに眺めていましたが、やはりわが者顔で場所を断りもなく占領するのは如何なものかと思いました。私たちも仕方がないので東側の突堤を歩いて先端まで行き、日没の瞬間まで見ました。

 最初の一枚は夕日を焦点に撮ったため孫の顔はシルエットどころか逆行で全然見えませんでしたが次の一枚は夕日に照らされた孫の顔が綺麗に撮れ中々いい感じでした。

 突堤の先から振り返って見ると双海町の山々や町がまるでセピア色に変色してとても温かい雰囲気で、持参したハーモニカの音色が実に良く似合って、孫が一生懸命「おじいちゃん上手」と大きな拍手を送りながら、『夕焼け小焼け」という歌を大きな声で歌ってくれました。私と孫の独演と独唱コラボレーションはいいもので、傍にいたおばちゃんが二人を褒めてくれました。

 やがて夕日はゆっくりゆっくり島影に沈んで行き、この日は最後の一瞬まで眺めることが出来たのです。孫と夕日を鑑賞したのは始めてのことなので、何となく温かい気持ちになりました。

 最近は子どもの世界も忙しく夕日を見る機会が少ないように思います。それは親も同じで、親が夕日を見るような心のゆとりを持たないから子どもが見れないのかも知れません。孫にとっておじいちゃんと見た母の実家のある田舎の夕日はどんな光景として心に焼きついたでしょうか。

 これからも折に触れ、日本一と自認する双海の夕日を見せてやりたいと思っています。帰り際孫をおんぶしてやると孫は「♪海は広いな大きいな」と得意になって背中で歌を歌いました。見上げれば茜雲の小焼けをバックにトンボが数匹飛んでいました。「おじいいちゃんお月様」と指差す空には下弦の三日月が見えました。

  「日が暮れて 町のお寺の鐘が鳴る トンボ数匹 長閑に飛んで」

  「孫を背に 突堤歩く 日暮れ道 孫も満悦 歌のサービス」

  「夕日など 見たから言うて 何になる そんな非理屈 聞きたくないわ」

  「おじいちゃん 海に道が 出来てるよ ハッとするよな 孫の一言」


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shin-1さんの日記

○人生はスライドの枚数で決まる

 私の半生を思い返してみると年齢のそれぞれに強烈なインパクトを与えてくれた思い出がまるでスライドのコマのように蘇ってきます。多分いい人生はそのコマの数で決まるのではないかと思うのです。「若松進一の人生ドラマ」を思い返してみると、ごくありふれた田舎街双海町に、ごくありふれたように暮らしている若松進一という還暦を迎えた男にも、幾つかのスライドのコマがありました。10枚くらいスライドを思い出して見ましょう。

 ①青年の船でアメリカ・メキシコ・ハワイへ

 四国土佐清水出身のジョン・万次郎の生涯を描いた一冊の本に触発され、「30歳になったらアメリカへ行きたい思った小学校5年生の頃の夢が叶って、第10回総理府派遣青年の船の班長としてアメリカへ行きました。世界地図の真ん中に日本のない地図を見た思い出は一生忘れません。

 ②実習船愛媛丸で珊瑚海へ

 愛媛県立宇和島水産高校の実習船愛媛丸で18歳の時、オーストラリアの近くの珊瑚海まで遠洋航海に出ました。地球が丸い実感や、大時化の海からの生還はふるさとへの思いや人生観を変えました。

 ③下灘駅夕焼けプラットホームコンサート

 夕日が綺麗とNHKのカメラマンが言った一言で心の中にある夕日の潜在能力が顕在化して、夕焼けプラットホームコンサートをやりました。多分夕日へのこだわりはここから生まれてきたのでしょう。

 ④上灘の地に家を建てる

 26歳で妻繁子と結婚し、4人の子どもが生まれ、31歳の時土地を求めわが家を新築しました。660坪の広大な敷地の一角に私設公民館煙会所を建て、今は海の資料館海舟館、夕観所を併設して全国から多くの人を家に呼び込み交流しました。

 ⑤無人島キャンプ

 21世紀えひめニューフロンティアグループを立ち上げ代表として無人島キャンプを20年間もやりました。丸木舟瀬戸内海航海や竪穴式住居づくり、40回のフロンティア塾は感動の涙を流したよき思い出です。

 ⑥シーサイド公園整備

 まちづくりの拠点としてシーサイド公園、潮風ふれあい公園、しもなだ運動公園の整備を発想しました。特にシーサイド公園は12年間毎日朝5時から3時間海岸清掃をやりました。その成果なのでしょうか年間55万人もの観光客が訪れる県下屈指の観光スポットとなりました。

 ⑦母の死

 私を生んでくれた母が私の誕生日の明くる日80歳で亡くなりました。私の人生で最も悲しかった出来事です。しかし6年経った今も私の心の中で母は生きて見守ってくれているのです。

 ⑧人間牧場できる

 60歳で教育長を辞めて35年の役場生活にピリオドを打ちました。その過去をかなぐり捨ててゼロに戻り、念願の人間牧場を作りました。水平線の家、五右衛門風呂、ツリーハウス、農場は多くの人を集めて楽しい語らいの場となっています。

 ⑨観光カリスマ百選に選ばれる

 これまで様々な賞をいただきましたが、国土交通省の観光カリスマという称号は凄いインパクトがありました。今も全国からまちづくりや観光の仕事が舞い込んで全国行脚をしています。

 ⑩自著「昇る夕日でまちづくり」出版

 55歳で本を出したいとの思いを実現し、「昇る夕日でまちづくり」を出版、「今やれる青春」など相次いで出版、「昇る夕日でまちづくり」は3千部完売し二版を出しました。出版記念の日に何故かえひめ丸が沈没し悲しい思い出となりました。

 ⑩木になるカバン

 ある人に巡り合って木になるカバンを手に入れました。以後この木製カバンは私とともに全国を旅しています。中にはハーモニカも忍ばせています。

 こうして僅か10枚にまとめたスライドの向こうに多くの人の助けとかかわりがありました。とりあえずこの10枚を足がかりに100枚のスライドにまとめてみようと思っています。さてあなたの人生のスライドは如何でしょうか。

  「人生の スライドコマを 出して見る あるあるあるわ いつか整理を」

  「一枚の スライド毎に 思い出を 思い出しつつ 懐かしんでは」

  「俺なんて 田舎の町の 凡人だ それでも少し 非凡なところ」

  「百枚の スライドまとめ 人生を ふりかえるのも 味があるかも」 

       

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shin-1さんの日記

○金融広報アドバイザーという仕事

 「金融広報アドバイザー」。聞き慣れない名前ですが、これは私のもう一つの顔なのです。私は昭和51年に貯蓄推進員という辞令を日本銀区内にあるもう一つの組織、貯蓄推進中央委員会からいただきました。今は貯蓄推進中央委委員会が金融広報中央委員会に、貯蓄推進員が金融広報アドバイザーに名称変更され、金融や経済の時代背景の変化とともに私たちアドバイザーの役割もかなり変化してきたように思うのです。軽い気持ちで引き受けたはずなのにもう30年以上もこの仕事に取り組んできた計算になります。取り組み始めた頃は家計簿記帳や生活設計、それに貯蓄の大切さを各市町村や団体を回って説いてきました。特に思い出深いのは健康・金銭・人間関係・知識を四つの貯蓄と位置づけ色々な場面で話したものです。私自身貯蓄推進運動で学んだ生活設計が人生を生きていく大きな支えとなったのですからこんなうれしいことはないのです。

 金融広報委員会は若年層や低年齢層への金銭及び金融教育の必要性に迫られ、昨年を「金融教育元年」と定めて学校教育現場で金銭・金融教育に重点を置いています。またペイオフの拡大解禁や少子高齢化の進展等を背景にライフプランや資金運用に関する情報ニーズの高まりを踏まえて草の根レベルの金融知識の普及や情報提供にも力を置いており、その普及や啓発を私たちがお手伝いしているのです。

 こうした仕事をしている私にとって最近気がかりなことが二つあります。その一つは最近お金の値打ちや使ったという実感がまるで湧かない時代になった事です。給料を貰っても、買い物をしても携帯電話を使っても、またインターネットで注文をしても、カードや銀行振込み・引き落としでその殆どがお金に触らなくても用を成すことです。一円玉もも1万円札も触らないものですからまるで数字の世界でしかなく10円と100円はゼロが一つ多いだけ、100円硬貨と500円硬貨は1と5が違うだけなのです。ですからお金の有難さや労働の対価などの話をしても今の若者たちにはピンと来ないのです。これらをひっくるめて私は「音のしない大きな落し物」というタイトルで随分話をしてきました。10円硬貨を落とすとチャリンと音がしてみんな振り向きますが、一万円札を落としても音がしないから誰も振り向かないのです。私たちはいつの間にか便利さの裏に隠されたお金の値打ちや働くことの意味を忘れているように思われます。

 もう一つは景気の動向です。最近は景気も上向きだと短観の出る度に政治家や経済人は嬉しそうに自分たちの政策を自慢していますが、庶民の暮らしにおける本格的景気の回復はまだまだ先のようです。さて景気が良くなれば人々の暮しは本当に良くなるのでしょうか。かつて私たち国民はバブル景気を経験しましたが、暮しは本当に良くなったか疑問なのです。国民みんなが中流意識を持つようになってはきましたが、国民間の格差は益々ひどくなるばかりだしセレブやホリエモン、村上ファンドなどの言葉が出る度に「景気などが上向いた挙句のインフレなど御免だ」という声も聞かれるのです。どこか狂った金融を巡る情報をどう人々に伝えればいいのか質問が気になる今日この頃です。

  「総裁が 一千万を 倍にして 俺らはたった 一パー以下とは」

  「三十年 よくも続いた この仕事 そろそろ引き時 俺は古いか」

  「百円を 落とせばチャリン 音がする 万円札は 音などしない」

  「現金に 触らず生きる 世の中に 便利なったが 懐具合は」

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