shin-1さんの日記

○雨の四万十市西土佐界隈・中半地区(20-14)

 このところの四国地方は秋雨前線の影響で雨続きです。まだまだ残暑が残って高温なため洗濯物が乾かないなんてことはありませんが、それでも毎日配達をしなければならない郵便局員さんや新聞配達、牛乳配達などに携わる人たちにとってはカッパを着用しなければならず、カッパを着用すると熱がこもって汗をかき、うんざりといった感じで「よう降るなあ」と道行く人に声をかけながら通り過ぎて行きます。

 高知県は四万十川や仁淀川、鏡川、安田川といった名だたる大きな川があるだけあってよく雨の降る地域です。太平洋に面しているため台風の通り道になっていて、前線などの影響もあって半端じゃない雨がどんどん振ります。瀬戸内海地方のような年間降雨量1200ミリ程度の雨とは訳が違うのです。私のように高知県に足繁く通う人間ならそんな雨に一度や二度は遭遇し悩まされた経験を持っていることでしょうが、かくいう私も南洋のスコールに似たでかい雨粒の洗礼を何度か受けたものです。

?さて今回の会場は中半集会所ですが、これに先立ち高知県境に位置する民宿金毘羅に立ち寄りました。あいにく女将の井上茂子さんには会うことが出来ませんでしたが先日留守だったご主人がいて、四方山話に花を咲かせた後知人から頼まれた9月22日の宿泊予約を済ませ民宿金毘羅を後にしました。それから先日口屋内での集会の折民宿舟母の女将さんにウナギをご馳走になっていたので、いつも気にかけてもらう義理は返さねばならないと思い少し急いで役場を通り過ぎ、20分以上もかかる曲がりくねった細い道を一目散に車を走らせました。というのも出掛けに妻が秋獲れの綺麗な煮干しが手に入ったので手土産代わりに持っていくよう用意してくれたからです。夏のシーズンも終わり、ましてやこの雨ですから泊り客もいないのではと思いきや、民宿舟母はちゃんと泊り客がいて若女将もご主人も夕食の準備に追われていました。女将も子どももいて何かと賑やかな、それでいてホッとするような雰囲気の民宿舟母でした。

 西土佐が川の街だと思うのはカゲロウの存在です。いつだったか夏の終わり頃西土佐村でカゲロウの洗礼を受けたことを覚えています。集会が終わって深夜に車を走らせていたらカゲロウが先も見えぬほどに飛び交い、視界をさえぎって車が走れないのです。その様はまるで冬のボタン雪のようでにとても幻想的でライトに映えるカゲロウの飛ぶ姿は今も心の中にしっかりと焼きついているのです。私はそれまでカゲロウという言葉は知っていましたしカゲロウとは炎暑の夏に地上の道路や物体がゆらゆらと揺れて見える状態をいうのだとばかり思っていました。カゲロウという動物の存在は知りませんでしたから驚いたの何のって、言葉では言い表せませんでした。季節が変わりつつあるのでしょうか、前回の岩間と今回の中半は特に多いようで、岩間ではカゲロウが卵を産み付ける様子まで観察することが出来ました。今回の中半では集会所の前の道路がうっすら白くなるほど電球下にカゲロウが落ちていました。

 中半の集会所には、失礼な言い方ですが予想以上に多くの人が集まっていました。区長さんはかつて役場の職員だった人で、教育委員会に務めていた方らしく私の話も何度か聞いたと集会前の雑談で話をされていました。

 一通りの講演が終わって短い時間ながら質問がありました。ボランティアで国道沿いの花づくりをしているそうですが、「そんな銭にもならぬことを何故しよるのか」と冷めた言葉を浴びせられたりするとのことでした。これこそ田舎の「手を引っ張らず足を引っ張る悪い癖」でしょう。私は私自身が体験した同じような罵声を紹介しながら、それでも「頑張れば死んでから天国へ行けるから頑張って」と笑い話をしてあげました。私の町だって「花より団子」の人が殆どでした。でも諦めもせず率先垂範した結果、今では県下でもトップクラスの花のまる町に変身したのです。多分このおばちゃんだけでは苦労は水の泡になる可能性があります。こうしたおばちゃんの善行を認め讃え支援して輪を広げるのは行政の大きな仕事だと思うのです。花に心を動かすような心優しい行政マンが欲しいものです。かつての私のような・・・・・・。

 花はこれからのまちづくりの主役だと思います。閏住の菜の花、下浜の水仙、シーサイド公園の芙蓉、潮風ふれあい公園のアジサイ、高野川駅のつつじ、海岸国道の桜やツワブキなど、指折り数えても双海町の季節の花々は多くて、今では町の救世主となっているのです。頑張れおばちゃん。しっかりしろよ元役場(市役所)、。心動かせ役場職員(市役所)。

  「カゲロウが 飛ぶ夜四万十 幻想の 雨シトシトと 肌を濡らして」

  「西土佐に あっけらかんの 元気あり ほっとするよな しちゅうやっちょる」

  「手土産に 栗をいただき 秋を知る 山里暮れて 明かりぽつぽつ」

  「雨煙る 四万十川に 川舟の ひっそりつなぎ 気配もなしに」

 

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shin-1さんの日記

○お寺の奥さんたちと「はい坊~主」

 友人の紹介で縁あって内子町大瀬の明応寺の奥様と知り合いになり、中山町花の森ホテルでお寺を預かる奥様たちの前で講演したのがきっかけで、その方々が人間牧場へやって来ました。女性の運転者にとって人間牧場の道は少々きつく、事故でもあったら大変だからと、上の道に車を置いて歩いての来訪となりました。一昨日はあいにくの雨模様で、自慢の視界はすこぶる悪く、おまけに夏を過ぎた上がり藪蚊が何匹か出て、刻様方の足や腕にかゆみの注射針を刺す結果となってしまいすまなく思っています。でも全て後の祭りとしか言いようがなく平にご容赦ください。

 まずはそのメンバーですがさすがお寺の奥様だけあって知性に富んだ、それでいて品のある方ばかりでですが、記念写真は「ハイポーズ」ならぬ若干一名の偉いお坊さんに合わせて「はい坊~主」と相成りました。

 私は女性の来訪が大好きですっかりその気になってごつい座布団を敷いた魚梁瀬杉の高座に上がって熱弁をふるいました。お坊様はさておいて10人もの女性を前にかぶりつきで話すのですから視線は頭の向こうの海と空を分けている水平線しか見ることが出来ませんでした。

 お茶を飲みながら雑談めいた1時間半もの長い話に熱心に耳を傾けていただきましたが、住職さんたるご主人の説教やお経を聞き慣れている人の耳にどう聞こえたのか、今でも思い出しては赤面する思いなのです。一通り話が終わって質問雑談の時間になったのですが、ある女性から「あなたの元気の源は何?、あなたの夢は何?」と尋ねられました。えっ、私の元気?、私の夢?と心の中を探ったのですがいい答えかどうか分らずにアドリブで適当な答え方をしてしまいました。

○私の元気の源

 私の元気の源は肉邸的にも精神的にも何といっても家庭です。肉体的には栄養のバランスを考えて妻が作ってくれる家庭料理の数々です。野菜と魚と玄米を主食にした日本料理がメインでそれに果物や海草を取り入れ、痩せることもなく太ることもなく体型を保ち健康を保持できるのはやはり家庭というより妻のお陰かもしれません。精神的には4人の子宝に恵まれ、母や祖母は亡くなりましたが88歳の長寿を保ちながら認知症にもならず生きている親父についてもわが家は安定しています。その要はどうやら妻にあるようです。妻は昨日で61歳の還暦を迎えましたがまだ近所の歯医者さんにパートで務めていますが、私の元気は妻の元気だとしみじみ思っているのです。

○私の夢

 私の夢は一杯あり過ぎて一言では語れません。じゃあ二言でと言われそうですが、書き溜めた原稿で本も出したいし、人間牧場をもっともっと充実させたいし、案外金の要ることが多いのです。しかし私は現在無職で夢をかなえるための資金が不足しているのです。これからまた人間牧場のように夢の実現に向けてへそくりを溜めねばならないのです。幸いもう直ぐ62歳の誕生日を迎えるため待ちに待った年金支給が開始されるのです。僅か1年半の浪人生活でしたが飢えることもなく、借金することもなく、首をくくることもなく生き延びてきました。これもやはり財布を持っている妻のなせる業とでも申せましょう。

 結果的にはやはり私の人生はよきパートナーとよきパートナーシップができたことだと結論付けられそうです。だのに無職をいいことに35年間もの長年続いた妻の誕生日のプレゼントをキャンセルしてしまいました。まあいいか。

  「元気とは 自分ひとりで 出来ぬもの 今頃気付いて 妻への感謝」

  「夢叶う ためにはお金 必要だ コツコツ貯金 コツコツ始める」

  「平凡を 積み重ねこそ 非凡なる 凡人それしか 出来ぬのだから」

  「元気あり 夢も沢山 あるけれど 金がないのが 玉に傷かな」



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shin-1さんの日記

○切手の貼ってないハガキ

 「若松さん、先日はハガキをいただいてありがとうございます。ハガキを出そうと書いたのですが、投函する間もなく若松さんが来られたので手渡しすることにしました」と切手の貼っていないハガキを手渡されました。手にとって見るとSHIMANTO RIVERと書かれた横文字のハガキは沈下橋から四万十川へ勢いよく飛び込む少年の姿がイラスト風に描かれた絵葉書でした。

 その二日前、高知県四万十市西土佐から、やはりThe Shimannto River 四万十川(高知県西土佐村)と書かれた沈下橋の綺麗な風景写真絵葉書が送られてきました。その写真の下には、私の笑売啖呵を意識したのか「ふんぎって やっと書いたる ハガキ見つ 三枚を書く 偉人に脱帽」と書いてありました。

 この二人はいずれも西土佐に住む女性です。今回の西土佐巡りの旅で知り合った女性なのですが、既に彼女たち二人はもう13回も私に同行し私の講演を聞いたことになります。その講演の中で「知識と知恵の違い」についてどの会場でも話をします。具体的な事例として、「一日三枚のハガキを書いたら人生が楽しくなる」という言葉を信じて毎日三枚のハガキを19年間続けている私自身の実践を話すのです。その結果私は幸せになったとその効果についても述べますが、田舎のことゆえ少々エンジンのかかるのが遅いものの西土佐の凄さは、この頃になってハガキを書く人が次第に増えていることです。嬉しいことです。だから私も返事を書いて、早い人だと一週間ペースでハガキ交換をしている人まで出来ました。

 田舎に住むと「俺の人生こんなもの」とスローな村のリズムに慣れてしまい、目標を見出したり努力もしないまま日々を過ごしている人が案外多いのです。シカや猿やイノシシが出たと騒いでもそこここ食い物も作っているし、年金だって少ないと文句を言ってもそれなりに入るし、別に努力しないでも生きていけるのですから、余程反社会的な行動をしない限り適当に近所つきあをしていれば村八分になることもなく暮らして人生を終えるのです。しかしそんな生き方で人生の仕上げをしないまま、また世の中のお役に立たないまま自分の人生を終わっていいのでしょうか。

 私たちは自分でも気付かないほど多くの知識を体内に潜在能力として持っています。しかしそれは知っているというだけの知識にしか過ぎません。その知識を知恵に変えるには行動や実践しかないのです。無知によって生じる不幸は知ることによって避けられますが、不幸にならないためにどう行動しどう実践したのかが問われているのです。私の場合は知りえた知識を基に目標を立て、その目標を手に入れるために努力や行動や実践をします。その過程には挫折や壁や時には失敗もありますが結果的には

「夢はドリームではなくターゲットである」と確信するほどの成果をつかめたのです。

 西土佐の集落を巡ってみて、私たちと同年代若しくはそれ以上の年代の、でも時代の生き方を共有してきた人々に沢山出会いましたが、残念ながら生き生きと輝いて生きてる人にはそれほど多く出合いませんでした。でもきっかけをつかもうとしている人は私の問いかけに応じ、とりあえずハガキを出す勇気ある行動と実践を選んだのです。

 ハガキは面白いもので、字が下手だと思うコンプレックスを持っている間は中々出せるものではありません。でも私のように「それアラビア語?」なんてからかわれた経験のある私の字でも、相手のことを思って書けばちゃんと真心は相手に伝わるのです。私たちは字の上手いに越したことはありませんが書家である必要はありません。要は私の心を伝える道具なのですから真心さえあれば相手に意思は充分伝わるのです。

 今朝西土佐に向けて3枚のハガキを書き、散歩がてら傘を差して雨の中を500メートル離れた郵便局まで投函散歩をしました。雨に濡れた赤いポストは少し寂しそうでしたが、私のハガキを口の中に入れてやるとかすかに「ポトッ」と音がして、ポストが顔を赤らめたように思いました。「急がしいいのでハガキが出せない」言う人に限って暇な人、「金がないから切手が買えない」と言う人に限って浪費人、まあいくら言ってもやらない人はやらない理由を言ってるだけですから進歩はありませんね。

  「西土佐の 人は凄いぞ ハガキ書く 勇気持ちたる 人ぞ多かり」

  「五十円 得したハガキ 手渡しで 思わず顔が 赤くなりそう」

  「自慢する 訳でもないが 沈下橋 さりげなく来る はがきに添えて」

  「雨だから 仕事もなしに のんびりと ハガキでも書く あの人想い」

 

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shin-1さんの日記

○XY世代

 「戦後社会を支えた団塊の世代に代わり、今後の日本を支える存在として多いに期待されるのがXY世代です。」と、最近よく表現されるXY世代って一体何のことでしょう。昨日の新聞にもそうした記述があって、新聞を読んでいる息子から「お父さんXY世代って何?」と質問されました。息子にとって講演などに行く親父は何でも知っていると思っての質問でしょうが、残念ながら頭かじりでその正しい知識を持たないものですから、メール仲間に「恥かしいながら息子が私に質問したXY世代という説明が出来ませんでした。誰か教えてください」と打電したのです。でも私の打電を見なかったのか知らないのか、返信は未だゼロなのです。仕方がないので広辞苑や新語辞典、イミダスなどを片っ端から探した挙句、ヤフーの辞書でも検索しましたが、私の能力ではそこまでしても結局分らずじまいでした。

 私流に考えてみました。X世代は団塊ジュニアと呼ばれる人たちで、世代人口が非常に多く受験などの競争が激しかった時代を生きてきた世代ではないかと思うのです。一方Y世代はそれ以後生まれたヤングで少子化のはしりのような今まさにヤングといわれる世代ではないかと思うのです。私たち団塊世代より少し前に生まれた者にとってみればXもYも同じ若者なのでしょうが、時代背景としてはかなり様子が違うし、発言を聞いていても考え方が違うことを感じることがあるのです。

 一昨日大洲青少年交流の家で行われた「大人を考えるフォーラムの第1回実行委員会が開かれました。昨年に引き続き実行委員長を引き受けることになりましたが、その冒頭若者の現状について色々と話し合いが持たれました。

 ・基礎学力や基礎体力が低下している。

 ・自分で創意工夫できるまでに随分時間がかかる。

 ・怒られることに慣れていない。

 ・ストレスに対する忍耐力が低下している。

 ・感動する力は持っているが感動する場や機会が少ない。

 ・地域と関わることが少ない。

 ・行政や教育機関は地域の若者の実態をつかんでいない。

などの昨年度の意見に加え、

 ・人に嫌われるのが嫌だから自分の考えを言いにくい。

 ・憧れる人が少ないのか大人になりたがらない。

 ・子どもから大人への明確なステップがない。

 ・哲学的な人間本来の生き方を持っていない。(にんげんとして何のために生きるか)

 ・むかつく、切れるといった子どもがいる。(食事や親の育て方、鉄筋コンクリート箱の影響も)

 ・人間が本来持つ四つの願望(幸せになりたい。お金持ちになりたい。成功したい。長生きした)が断片的で見えてこない。

などが出されました。

 私たちが大人を考えるフォーラムで対象としようとしているのは高校生とY世代なのですが、彼らの対面軸に必ず出てくるのは社会と家庭(親)と学校という3つの場面なのです。社会も家庭も学校も私たちの時代から考えると随分変化してきました。特に子どもにとって大きな影響を与えるであろう家庭は

 ・子どもの数が減った。

 ・子どもの家庭的な役割が減った。

 ・家庭的な感動がなくなった。

 ・職住が分離した。

 ・食生活が変化した。

 ・子ども部屋ができた。

 ・仏壇や神棚の存在が薄れた。

 ・ものと金が豊かになった反面、生活に金の要る時代になった。(カード時代)

 ・テレビの影響が大きくなった。

 ・父母同権若しくは母上位の位置関係になった。

 ・家風や家庭的指針がなくなった。

 ・孤独な人間の寄せ集めになった。

 ・地域との結びつきや親戚付き合いが薄くなった。

 ・パソコン、携帯電話、ビデオ、車の普及。

 こんな家庭で子どもたちは最も身近な親という大人を見て育っているのです。

  「包丁の 変わりにハサミ 野菜切る 冷めた家庭で 冷めた飯チン」

  「あんな餌 食わせて人間 育つのか 人が作った 袋の味を」

  「携帯の お金は銀行 引き落とし 幾ら使った そんなの知るか」

  「親を見て あんな大人に なりたくない 一体この家 どうなってるの」

  

 

 

 

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shin-1さんの日記

○酔芙蓉の咲く頃

 双海町の町内には私が在職中特にこだわった花々が、多くの町民に守られながら今も季節の香りを漂わせながら美しく咲いています。季節は夏から秋へと変化をしつつありますが、花はどのようにして季節を感じるのか分りませんがちゃんと季節を知って咲くのです。百日紅の花が終わると双海町の海岸線には普通の芙蓉と酔芙蓉と呼ばれる2種類の花が咲きます。特にシーサイド公園の国道ドハには酔芙蓉、対岸国道ドハには芙蓉が今を盛りと咲いています。

 この花は本郷三島神社の鳥居付近に亀の森のおばちゃんたちが挿し木や播種によって増やした芙蓉です。この花にはピンクと白の2種類の花がありますが、可憐で何とも穏やかな色をして咲き道行く人の目を楽しませてくれます。シーサイド公園の対岸国道ドハは下側の写真のようなピンク一重咲き系ですが、白もピンクも清楚で綺麗です。

 実は写真を撮り忘れて、明日の朝撮りに行って載せようとしているのが酔芙蓉なのです。

この花が酔芙蓉の花です。

この花が昨日咲き終わった後、萎んだ酔芙蓉の花です。上の写真と見比べると、これが同じ花だとは誰も思いません。

 花は八重咲き系でこの花に私は勝手に「夕日花」と名前をつけました。何故かというと酔芙蓉の花は朝真っ白で、昼過ぎて夕方になると白い花が薄淡いピンクに変身し、夜には真赤になって萎むのです。その姿はまるで太陽の一日の変化を見ているようで、特に夕日を売りにしている双海としては夕日にちなんだ物語には格好の花だったのです。この花も随分馴染みの花になって私の作戦が当たったのかNHKが晩夏の季節の話題として全国中継したほどなのですから面白いものです。

 水仙、菜の花、アジサイ、桜、つつじ、つわぶきなど双海町を代表する花は多いのですが、その花一つ一つに思い出や物語が込められ懐かしさが甦ってくるのです。

 シーサイド公園付近の国道バイパスがついたとき、土木事務所からどんな植栽をしたらよいかまちづくりを担当していた私に相談がありました。私は芙蓉を植えてくれるように頼んだのですが、土木事務所も国道沿線に芙蓉を植えた経験がなく、「それは草ですか」と尋ねたほどでした。それでも私の言い分を聞いてくれ、ドハにブロック花壇を作ってくれ扶養の小道として整備をしたのです。最初は手入れをする人もなく、5年間は私の家族で手入れをしましたが、結局は太って追いつかず、役場の人に手伝ってもらったこともありましたが、今は地元の人が手伝って手入れをしてくれています。

 花は美しいのですが手入れが大変で、花作りは置くが深いなあとしみじみ思っています。

 数日前閏住では菜の花畑の草刈を地区総出で行っていました。下浜の水仙畑も野焼きの煙が上がっていました。そろそろ来春に向けて花の準備が水面下で行われているようです。

  「芙蓉花 夏の終わりを 告げるよに 一際大きく 一際綺麗に」

  「芙蓉にも 話し数々 思い出す それは草かと 言いつつ植えた」

  「鉄道の ドハは早くも 草を刈り 春花咲くを せっせと待ちぬ」

  「花も見ず スピード上げて 通り過ぎ どこへ行くのか そんなに急いで」

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shin-1さんの日記

○地元中学校の運動会

 私が子どもの頃は秋祭りの前後だったと記憶している秋季大運動会が、いつの間にか残暑厳しい九月の初旬から中旬になった様な気がします。何の意味を持ってこんなに早くなったのかは定かでありませんが、「こんな遊びみたいな運動会にうつつを抜かすより早く片付けて勉強をすることが大事」とばかりに見えるのです。みかんや稲のように早く作れば高く売れる訳でもないのに何故か早く、秋季運動会なんて代名詞は使えず極早生運動会と改名すればよいのにと思う程なのです。ですから子どもたちも残暑の中で夏休みボケして練習しているものですから身が入らず、結局はやる方も見る方も感動しない運動会になってしまっているようです。運動会が予定されていた日曜日はあいにく秋雨前線の悪戯で順延となり結局月曜日の昨日行われました。

 私は地元中学校の評議委員をしているので、教頭先生が気を使ってわざわざ案内状を届けてくれました。午前・午後・夜間とトリプル会議が予定されていましたが、せめて義理だけはと開会式だけの見学となりました。

 ご多分に漏れずこの中学校も少子化で、加えて町内2校の中学校が統合せずに残っているものですから生徒数も少なく、ご覧のような寂しさです。でも驚いたのは校長先生の開会あいさつに全員の顔と目と心が釘付け凝視されていました。この集中力は余程の訓練がないと出来ないことです。凄いと思いました。また生徒と指導した先生を褒めてあげたい心境でしたが、残念ながら校長先生のお話は出だしにもかかわらずマイクの調子が悪く、父兄のテントまでは届かなかったようで、辛口に言えば前述の夏休みボケのようでした。

 帰り際見覚えのある顔に出会いました。私が教育長在任中に産休に入っていた栄養士の先生が元気な赤ちゃんとこどもをつれて見学に来ていました。あいさつと同時に懐かしさの余りに持っていたデジカメで記念写真を撮りました。娘さんはもみじのような手でVサインをして応じてくれました。

 私はふと自分が中学校時代の運動会を思い出しました。あの当時は生徒数も多かったし、中学校の運動会は取り立てて村に娯楽のなかった頃でしたから村の一大イベントで、学校の2階は全て窓ガラス戸が外され入りきれないほどの観客が大きな声で声援を送ってくれました。花形の分団リレーやマラソンなどは拍手と声援で学校がまるで傷んだスピーカーのようでした。

 私はマラソンが得意でしたが、一年下の従兄弟に心臓の強い早いのがいていつも一番と二番を争いましたが、今考えると他愛のない競争だったと思うのです。

 何年か前、西土佐村へまちづくりの仕事で行った折、「俺はかけっこで3番より下がったことがない」と酒の肴に自慢した若者がいました。よくよく聞いてみるとその学校に彼の同級生は3人しかおらず、結局ビリでも3番と分って大笑いをした話です。その当時は小さな村の小さな話と他人事のように受け止めていましたが、わが町のも少子化の波はどんどん押し寄せ、西土佐村の笑い話が双海町の笑い話になりつつあるのです。人は何故田舎を捨てて都会へ行きたがるのでしょう。人は何故子どもを多く生まないのでしょう。人は何故無意味な競争をするのでしょう。何故の思いが募る中学校の運動会でした。

  「生徒減り 寂しい学校 運動会 雨で順延 さらに寂しく」

  「マイク出ぬ 校長声を 張り上げて 子ども生き生き それに反応」

  「手渡しの 案内届く 運動会 さすが教頭 しっかり頑張れ」

  「三等以下 ならぬと胸を 張る友は よくよく聞けば 三人で走る」

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shin-1さんの日記

○違う道筋を行く・岩間地区(20-13)

 双海町から高知県四万十市西土佐を目指す場合、双海町~大洲~鬼北~松野~西土佐というルート以外に、双海町~伊予市~川之江~須崎~西土佐という高速道路を使うルートがあります。後者は一見逆コースのような感じがしますが、時間的にはそんなに変わらないのですから高速はお金は要っても凄いもんだと思います。しかし昨日は途中の国立大洲青少年交流の家で「大人を考えるフォーラム」の実行委員会があり、思案した挙句時間が切羽詰っていたのでもう一つ別のルートを選んで走りました。それは双海町~大洲市~青少年交流の家~宇和町~歯長峠~三間町~松野町~西土佐というルートです。特に歯長峠の曲がりくねった道は私のような田舎者で狭い道に慣れていない人にはお勧めできませんが、このルートも最短距離のようで僅か1時間20分足らずで、お約束の午後6時には西土佐に到着しましたから今日の判断は正しかったとホッと胸を撫で下しました。

 この10日余り天気が不安定で雨や雷に悩まされ、特に高知県や愛媛県南予では度々大雨警報が出され、前日も江川崎では時ならぬ大雨で列車の運転を見合せたほどでした。それでも季節は秋に向かって確実に進んでおり、朝晩は苦しめた暑さからも開放されて上布団を用意するほどになりました。宇和町では道沿いに沢山のぶどう園が巨峰の即売所を設けて、道行く人の呼び込みに懸命のようでした。この雨で観光ぶどう園のお客も少ないのではないかと、他人事ながら心配しています。

 昨晩はこの仕事の元請けとなって毎回出席している雇用促進センターの石川さんたちと落ち合い、食堂で夕食をともにしながら話し合いをしました。同席した奥野さんの奥さんが似顔絵を書くらしく、私の絵を書いたと届けてくれました。多分この絵はインターネットに出ている観光カリスマ百選の紹介写真を基に書かれたようですが、特徴をつかんで書いており中々の出来栄えのようです。バックには夕日や夕焼けまで書く気配りです。

 それにしても中々いい男じゃあないですか。一緒にいた皆さんは一応に「実物より男前」と言わんばかりの心境でした。

 昨晩の会場は岩間という集会所でした。折から屋根を叩く雨足が強くなって、出鼻をくじかれた格好になったのか客の寄りは今一でしたが、それでも殆どの人がメモを取るなど熱心さでは負けないほどの迫力でしたので、こちらも思わず力が入ってしまいました。昨晩は係長さんが知らせていたのでしょか高知新聞の女性記者が同行取材していました。こうした地道な取り組みを外の目で取材して地域の人に知らしめることは大切な情報発信だと思っています。

 昨日の岩間地区で面白いものを見つけました。地域に住んでいる人の年齢毎の名簿が一覧表のような形で張り出されているのです。最近は個人情報保護とかで名簿の取り扱いに何やかやと言う人が多いようですが、こうして公民館に張り出されると、「あそこのじいちゃんは近頃見んが元気なんじゃろうか」とか、あのじいちゃんはもう96歳か。相変わらず元気で畑仕事をしよる」とか、いつも集落に住む人の話題が出てくるのです。防災組織も大事ですが、過疎の地域でこうした近況の確認が出来ることはとても大切なことだと思いました。

 昨晩は会議が始まるまでイノシシの話で盛り上がりました。せっかく実りを迎えつつあるサツマイモが昨夜被害にあったそうです。ニンジンも根こそぎやられたとお手上げの状態のようで、何か妙案はないものかと互いの知恵を確認しながら話していました。「田舎は過疎で人がいない分、「寂しいからとイノシシや猿や鹿が慰めに来てくれる」という言葉が印象的でした。

 入口に早くから陣取っている人から久しぶりと声を掛けられました。そういえば見覚えのあると記憶を辿ると、カヌー館横の東屋で開いていた男の料理教室で出会った方でした。たった一回の出会いなのにもう10年来のような親しさです。「田舎はいいね」としみじみ思いました。山里にも早い秋が忍び寄って、道端の草むらからは賑やかな虫の声が聞こえていました。「今日はええ話しじゃった。若者にもこんな話は聞かせたい」と戸口を出る背中の向こうでおじさんが皆に向かって話していました。この地区でも計画されている道の駅のことについては関心がおありのようで、質問が出されました。

 午前・午後の会議をこなして、ダブルヘッターならぬトリプルヘッターをこなし、少々お疲れモードでしたが、少し心にブレーキをかけながら夜道を125キロ再び引き返しました。

  「普通とは 違う道行く 土佐参り カーナビ相手に 独り言いう」

  「イノシシが おらの畑の 作物を 何か妙案 ないか尋ねる」

  「やあ元気 いきなり声を かける人 見れば見覚え 田舎はいいね」

  「熱心に メモ取り聞き入る 村の人 学ぶ意欲が ビンビン伝わる」


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shin-1さんの日記

○雷様

 「朋樹君雷が鳴ってるからおへそを取られないようにしっかり抑えていてね」と、先日わが家にやって来た孫に雷様の話をしました。孫は「どうして雷様はへそを取るの」と反対に返しましたが「地震・雷・火事・親父」と怖いものの代名詞に数えられている割には雷について知らないことが多いのです。広辞苑によると「雲と雲、雲と地表の間に起こる放電現象。またこれに伴う音。積乱雲の内部に発生した電位差によって生ずる。雷雲によって生ずる原因によって熱電・界雷・渦雷などに分ける。いかずち」とありますが、私が孫に知ったかぶりで話したのは「雷神」のことで、くものうえにいて虎の皮の褌をしめ、太鼓を打ち、へそを取るという昔聞いた言い伝えを言っているのです。「雷が落ちる」という言葉も実際は金属や背丈の高い物に放電する本当の落雷と、大きな声を出して叱られる言葉と二つのいみがあるのですが、両方とも怖いものの代名詞のように言われています。

 昨日の深夜から早朝にかけて、わが町では時ならぬ雷が延々5時間もなり続け、雷が怖いと思っている妻などは布団の中で眠れぬ夜を過ごし、雷が鳴る度に私の腕をつかむのです。私はその度に目が覚め、結果的には妻の眠れる夜に付き合わされてしまい少々寝不足の感じがしましたが、雷など平気だと言いつつやはり気持ちのいいものではないなと思いました。

 私たちが子どもの頃はよく学芸会があって、学芸会の度に太鼓を沢山背中につけた雷様が出てきたものです。最近はそんなユーモラスな雷様の姿を見ることもなく、またドリフターズの高木ブーさんが、「8時だよ全員集合」で見せたユーモラスでデブっちょな雷様も、大分イメージが違うなあと思いつつ画用紙がないので、菓子の包み紙の裏側に大きな雷様の絵を書いて説明した後、「ゴロゴロゴロゴロ、雷様だー」といって孫を部屋中追い掛け回しながら遊びに講じました。三歳の孫は本当におへそを食べる仕草を私がする度にシャツを上げておへそがあるか確認して「あった、あった」と逃げ惑うのでした。孫の頭にはこの私が書いた雷様のイメージがインプットされたことでしょうが、絵本の中に上手に書いた雷様の絵があったので、私の脚色で更なる雷様の話を面白おかしく話してやりました。

 昨日の朝、私たち夫婦はお遍路さんとして四国88ヶ所参りをするため徳島へ向けて早朝5時に出発しましたが、伊予のインターチェンジを過ぎて間もなく北の空に大きな雷の閃光を見ました。一瞬辺りが明るくなり、高速で走る車にも地響きが伝わる程の大きさで閃光柱が見えました。最近はテレビでもこうしたシーンはよく見かけるのですが実際に見たのは久しぶりのことで、妻は始めて見る閃光に驚いた様子で「引き返さなくて大丈夫?」と聞き返すほどでした。聞くところによるとその閃光の後に激しい雨が降り、近隣の市町村では雷が原因でかなりの地区で停電になったそうです。幸い私のパソコンもわが家のテレビも難を逃れましたが、アンテナを通して雷が落ちると一瞬にしてパソコンやテレビが駄目になるそうなので、雷が鳴り始めると電源コードやアンテナ線を抜くことが肝心と、雷多発地帯の群馬県の人に教わったことを思い出しました。

 お寺を巡っていて、お寺の境内には杉の巨木が黒く焼けた後が多数見えました。お寺の屋根には避雷針が取り付けてあるのも見ました。ゴルフ場で落雷に会い死んだ話も聞きました。自然とは凄いものだと雷の閃光を見て思いました。

  「雷と 呼ばれる親父 いなくなり 日本の雷 母が代役」

  「パソコンを 台無しにした 雷に ツケをやりたい そんな心境」

  「秋雷の 音に驚き へそ隠す 孫の姿や 滑稽滑稽」

  「あの電気 使えぬものか 考えりゃ ノーベル賞を 貰えるかもね」


 

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shin-1さんの日記

○久しぶりの休日

 サンデー毎日になって早くも1年半になろうとしています。いやー月日の経つのは早いものです。毎日が休みですから、誰に気がねをすることもなく休めるのでしょうし、私自身もそう思っていました。現職の頃の忙しかった日々を反省し、「今日からは誰に遠慮がいるものか」と「自由な休日」を取れる権利を行使しようと思っていました。ところがどっこい、そうは行かなくなってしまったのです。今は夏休みなので大学の講義は休みなのですが、自治会長である区長という仕事が結構忙しくて盆踊りや慰霊祭、それに近づく敬老会の準備もしなければなりません。また人間牧場への取材や来客も多くその対応と周辺の草刈など予想以上の仕事があります。また講演活動も全国展開で、早くも来年の予定が入り始めました。

 「こんなはずではなかった」が正直な話で、しょっちゅう家を留守にする私を見て、妻も親父も呆れて空いた口が塞がらないというのが実態です。昨日も友人から電話が入り、「いつ架けても電話が出ない。あんたの電話は『出んわ』か」などとひねくられましたが、その友人も「退職して声がかかるなんて羨ましいことだ」と羨ましがられました。まあそういえばそうなのですが、自分としては少々オーバーワーク気味なのでセーブを心がけないと、また「昔のように体を壊されては元も子もない」とヤキモキしているのは妻だけではないようです。

 そんな妻への配慮もあって、今日は予定されている学校評議員として案内のあった地元中学校の運動会が中止になりそうな空模様なので、夏の疲れをリフレッシュするため思い切って四国遍路の旅に出かけることにしました。早朝5時に昨夜からゴロゴロなり続ける雷と小雨の中を徳島へと出発しました。伊予インターチェンジから高速に乗り、雨で80キロ速度規制されている速度ぎりぎりにアクセルを踏み、途中サービスエリアで休憩を取りながら順調に徳島へ入って行きました。

 今回の遍路は遠方ゆえ、エアーポケットのような形で残っていた18番から22番の札所を巡るのです。別に高知県に2ヶ寺残っているのですが、そこまでを一日で終えるのは難しいので、帰りのことを考え逆回りで遠い方から回ろうと阿南市を越えて22番から始めました。高知県や愛媛県南予には大雨警報が出ているというのに、徳島県の東部に位置知る海南市付近は大した雨でもなく、時折日傘や帽子が必要なくらい残暑の厳しいお参りとなりました。逆打ちのため看板も見当たらないのですが、カーナビにそれぞれのお寺の電話番号を入力し、衛星放送活用のナビゲーションシステム利用によってほぼ完璧な誘導がされました。

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 スナップ写真写ったこの美人の?おばさんが私の妻です。私の持ち物になって(私は妻の持ち物)36年経ちましたが、たった5分の見合いで一目惚れした?女性なのです。お寺だけを写しても何の意味も無いのでついでに写真に写ってもらいました。

 一番札所霊山寺と二番札所極楽寺、三番札所金泉寺は納経帳に遅れてスタートした掛け軸に落款がないので小松島や阿南が終わってから55号線を引き返して11号線に入り鳴門まで再びお参りに行って徳島のお寺を全て終えました。

 思えば妻の母親が亡くなったのを機に始めた四国八十八ヵ所遍路旅でしたが、その後わが母の供養も加わったものの思うに任せず、何と二十年もの歳月を要してしまいました。これで供養の旅も一歩ゴールに近づき、後は高知県2ヶ寺といよいよ総本山の高野山の旅となりそうですが、せめて年内にはやりたいものと長い一日、車の中で夫婦が何度も口にしたのでした。

  「足掛けで 二十年もの 月日かけ やっとゴールが 見えそな気配」

  「賽銭を 入れて無心に 妻祈る 何を願うか 俺の健康?」

  「ふと浮かぶ 母義母の顔 ありありと 今頃あの世の 何処にいますか」

  「この顔に ひと目惚れした あの頃が なつかしいねと 笑い飛ばして」 

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shin-1さんの日記

○写真に写りたがらない年代たち

 最近ブログに載せるためデジカメ写真を小まめに撮っていますが、妻曰く「私たちの新婚旅行さえ二人で写した写真が一枚も無いのに、何で今頃?」と不思議がっていうのです。ご高説はいちいちごもっともと過去を詫びても過ぎ去ったことなので仕方がありませんが、今朝食卓で新聞を読んでいると面白い記事に出会いました。最近の50代60代のいわゆるおばさん世代の人たちは目立ちたがり屋と思いきや、以外や以外写真に写りたがらないのだというのです。その記事は作家小川由里さんの書いたものなのですが、食卓でこの記事を食事をしながら妻に読んでやると大笑いをされてしまいました。

 「そういえばここ数年、友人たちと旅行しても久しぶりに集まっても、だれもカメラを持参しなくなった。かなりの写真好きだった友人もばったり撮らなくなっている。『いつ、何があるか分らないもん。写真は本人の思い出、山ほど残されても家族が処分に困るだけ、景色は心に残しておけば十分』『未整理の写真を入れた菓子箱が積んである。もういらない』。そしてもう一つ、『写真は正直にトシを見せつけてくれる。嫌い』。若づくりしているのに若くも、綺麗にも、カワユくも写らないという面白くなさがある」。

 「ところが夫は違う。男ばかりの同窓会。同好会の飲み会などでもまめに写真を何枚もとり合い、送りあっている。どうもおじさんたちはおばさんほど先のことや老いを深く受け止めていないのではあるまいか」。・・・・・・・・だとさ。

 妻が大笑いをするはずだと同感しましたが、それは多分世の男性を見ての大笑いではなく、私のことを直感しての大笑いだったのかも知れないと、この文章を読み返しながら思ったのです。そういえばカメラに夢中になって、二人で短い旅をしても、嫌がる妻を入れてハイポーズなどと写真を撮っている私の姿がありました。新婚旅行さえ写真を撮らなかった私のこの変貌ぶりを滑稽に思ったのは当然かも知れません。

 女は化粧や着るもので随分化けることができますが、男は禿ても白髪になってもアデランスや白髪染めというのは若い頃の作業であって、還暦を迎えた私どもの年齢になると、特に男ばかしの集まりなどは特に、髭さえ伸ばしたおじん臭い格好でやって来るのです。でも妻が言うには「幾らお化粧しても、いい洋服や光物を身に付けても首の老化は年齢相応に見えるもの」だというのです。そういえば首の若返り手入れなんてものは聞いたことがないと、女性の首筋を観察して納得したりするのです。

 男も女も若く見えることは大きな喜びです。61歳の私だって「幾つに見えますか」の質問に「55歳ぐらい」なんて返事が帰ってくると、悪い気はしないのです。でもその後で「精神年齢」なんて悪ふざけた言葉が小声でかえってくるとがっくりするのです。

 まあ人間は歳相応の生きればいいのです。別に若いといわれてもそこら辺の若者には適わないのですから・・・・。

   「俺の歳 何ぼと聞くは 野暮なこと 若く言われて 精神がっくり」

   「首だけは 若くなるコツ ないそうな 首を隠せば いいではないか」

   「写ってる 正直者の この写真 みんな同級 みんなそれなり」

   「写真嫌 だって若くも ないんだもん でもこれ以上 若くはならず」

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