shin-1さんの日記

○パズル遊び

 「おじいちゃん、パズル遊びをしよう」とひさしぶるに訪ねてきた孫にせがまれてパズル遊びをしま下。残念ながら私はこんな神経が衰弱するような遊びは大の苦手です。孫の遊び道具の一つにパズルがあります。まだ3歳なのでそんなに多くの枚数での遊びではありませんが、それでも3歳の孫は褒めてもらいたくてどんどん早く完成させて、私がやろうものなら「おじいちゃんそのパズルはこっち、それはあっち」と全部覚えていて私に指図をするのです。パズル遊びにおいて私は完全に3歳以下のランクなのです。

 先日関西汽船の浜田さんが来宅の折、関西汽船のフェリー客船のパズルを手土産に持ってきていたのを孫が見つけ、それをしようというのです。私にとっても孫にとってもこんなにピースのおおいパズルは初めてなので渋りましたが、結局孫の根に負けて応接室を片付け、板間に座ってで組み合わせる事にしました。

 この作業は気の遠くなるような作業です。孫に指示して同じような絵柄とおぼしきピースを何組かにより集めるのですが、孫もチンプンカンプンで、20分もすると「おじいちゃんもう疲れたから片付けよう」というのです。幼稚園や家庭での片付け癖がついているのでしょうが、私はそのままにするよう孫と妻に頼んで、今晩夕食でも終わったしようかと思っているところです。

 夕食が終わりました。現代の若者ならこんな作業は簡単にするのでしょうが、私たち頭の固くなった大人にこの作業は難解です。ああでもない、こうでもないと思いを廻らせるのですが一向にはかどりません。でも今まで使っていなかった脳を刺激するのか相当な疲れです。ということはボケ防止の特効薬になるかも知れないということです。妻にそのことを話すと「パズルぐらいでボケが直りますか」と軽くいなされました。そうかもしれませんが、少しだけ挑戦してみようと思って今晩は応接室に篭り、休憩の度にブログに書いているという始末です。

 最近脳の活性化に関する本が沢山出版されています。果たしてそんな本を読んで脳が活性化するかどうかは疑問です。でも使っていない脳を刺激することの意味は十分にあるはずですから、パズルの組み合わせに進んで挑戦したいものです

 わが家には、子どもが中学生の頃に作ったパズルの絵が4~5枚あって居間の壁に飾っています。今までそのパズル絵をまざまざと見たことは殆どありませんでした。孫とパズルをしながら、よくもあんな絵をよう組み合わせて作ったものだと感心しています。私の未完のパズル絵が完成しうるのはいつの頃でしょうか。孫との合作だけに今度孫が来る頃までには完成をさせ、孫を喜ばせてやりたいと、早くもおじいちゃん気取りではまっています。

  「パズルする 孫に指摘の 一枚を 入れて出来たと 孫に褒められ」

  「気が遠く なるよなパズル 組み合わせ 大脳刺激 ボケのリハビリ」

  「孫と俺 合作パズル 挑戦中 何時の事にか 出来る目安は」

  「刺激ない 日々の暮らしに 孫刺激 与えてバイバイ また会う日まで」

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shin-1さんの日記

○生前に用意された挨拶状の自筆原稿

 昨日人間牧場へ来られた女性からいただいたコピーをデジカメで撮りましたが、余りにも字が小さいので文章を紹介します。

  このたび私  年  月  日

     にてこの世をおさらばすることになりました。

  これは生前に書き置くものです。

  私の意思で、葬儀、お別れ会は何もいたしません。

  この家も当分の間、無人となりますゆえ、

  弔慰の品はお花を含め、一切お送り下さいませんように。

  返送の無礼を重ねるだけと存じますので。

  「あの人も逝ったか」と一瞬、たったの一瞬

  思い出して下さればそれで十分でございます

  あなたさまから頂いた長年にわたるあたたかな

  おつきあいは、見えざる宝石のように、私の胸に

  しまわれ、光芒を放ち、私の人生をどれほど豊に

  して下さいましたことか・・・・・。

  深い感謝を捧げつつ、お別れの言葉に代えさせて

  いただきます。

  ありがとうございました。

             年  月  日

 この文章を読んで、こんな人生の終わり方もあるのだなあと思うと同時に、こんな死に方が出来たらと多少憧れました。人間にとって死期を予測することは自らが自らの命を絶たない限りは不可能です。たとえ病気で予測できても死ぬ前には余程心の鍛錬が出来ている人でないと命が惜しくて、死への恐怖に苛まれるようです。終戦間際に特攻隊として出撃した若者が母親に出した手紙を何度か読んだことがありますが、まさにその心境と似ている文章のような気がしました。死を準備する、そして死後の葬式や香典、また死んだ後の自分に対する相手の思いなど、死を直前に控えた人間が考えられるのでしょうか。私には到底真似の出来ることではありません。この方は本当に死んだそうですからこの文章がいっそう重みを持っています。

 死が偶像化された話はよく小説では読みます。そんな記事を書いた小説家の中には川端康成や三島由紀夫のように自らが命を絶った人がいます。故にその生き方に共鳴したり、たとえ共鳴しなくても人生に行き詰って死を選ぶ人が日本では年間3万件にも上るといい大きな社会問題となっています。死んだことがないので分りませんが、死ぬことは勇気のいることです。しかしもっと勇気のいることは生きることなのです。人は苦労もなく生きてると思ったり人の荷物が軽く見えるのは、自分の努力の足りなさです。死んでいい人生なんてあり得ません。生きることの素晴らしさを見つけたいものです。

  「この詩読み 同じ考え するのでは 一瞬思い 相手の顔見る」

  「指折りて 命を絶ちし 人思う 生きてりゃ花も 咲いてるものを」

  「死ぬなんて まだまだ遠い 先のこと 俺がいなけりゃ この世は闇だ」

  「死ぬことは 死んだ後に 考えよ 生きてるうちは 生きる算段」 




?

  

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shin-1さんの日記

○黒い鉛筆と丸い鉛筆

 私の机にはお洒落な焼き物の鉛筆立てがあり、そこには日ごろ使い慣れた鉛筆やボールペンが無造作に入れられています。直ぐに対応できるようにとハサミと天眼鏡もありますが、今朝インターネットで送られてきた原稿ゲラの校正をしようと思って赤鉛筆を手に取りました。その後シャープペンシルで書き直そうと思ってノックしたらあいにくの芯切れ、削った鉛筆を手に取りました。今その作業が終わって赤と黒の鉛筆が机の上の校正済みゲラの上に無造作に置かれています。ふたお「何で赤鉛筆は丸い形で黒鉛筆は六角形なんじゃろうか」と考えました。

 昔聞いた話なので定かではありませんが黒い鉛筆の形が六角形なのは、力学的にいちばん握りやすい形であるからだというのです。なるほどと手を開け六角形の鉛筆を親指、人差し指、中指の三本で持ってみると六角形の鉛筆がしっくり手に馴染むのが分るのです。じゃあ赤鉛筆も六角形にすればいいのにと思うのは私だけではないと思うのは当然のことでしょう。

 色鉛筆の丸い理由はどうやら鉛筆の芯のせいなのです。黒い鉛筆と断面を比較してみると色鉛筆の芯は黒鉛筆の芯に比べて太い。柔らかくて折れやすいから太くしているので、周囲を同じ厚さの木で支える事によって芯にかかる力を均等にして折れにくくしているのです。また私たちが黒い鉛筆を使う時は、ずっと同じ持ち方で文字や数字を書きますが、色鉛筆は絵やデザインを書く時に使うので、倒して色を塗ったり軽く握ったりと様々な持ち方で一定ではありません。現在は芯を作る技術が進んで色鉛筆の芯も折れにくくなっているのでしょうか、先日デパートへ行きましたが六角形の色鉛筆も売っているようです。でも何故か私たち消費者は長年の「色鉛筆は丸型」のイメージが強いのか、圧倒的に丸い色鉛筆が売れているようです。

 孫のわが家へ置いている色鉛筆のケースを見ましたが、この色鉛筆は全て買った時から削られていました。黒い鉛筆は削っていないのに何故だろうとまた疑問が生じました。聞いてみると、色鉛筆はたくさんの色を一遍に使うので削るのは面倒だろうとメーカーさんがあらかじめサービスで削っているとのことでした。黒い鉛筆も削っておけばいいのにと思ったりもしましたが、まあ削っても一本だから削るのもやぶさかではありません。

 それにしても孫の色鉛筆ケースの色鉛筆を見てみると、やはり特別な色だけが短くなっています。赤橙黄緑青藍紫です。人間は七色の色調が好きだとか、そういえば色の三原色や七色などとよく言われ、暮らしの中にもそういった色調が溢れています。最近はファジーなどという訳の分らぬあいまいな色も好まれるようです。

  「鉛筆は何故に六角 丸いのか 疑問調べる それには訳が」

  「近頃は 暮らしに鉛筆 ありませぬ ボールペンシル 以外使わぬ」

  「文字さえも 書かず一日 日が暮れる 忘れるはずだよ 俺の頭は」

  「日記帳 ブログに変わり 早いもの 八ヶ月過ぎ 今では欠かせぬ」 

 

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shin-1さんの日記

○雨の中の来訪者

 約束の5時きっかりに電話が鳴りました。「お約束の時間になっても来ないのですが、あなたは今どちらにいますか」。「はい私は下灘のコミセン前の駐車場にいますが、あなたこそどちらにいますか」。「はい私は双海町役場の前にいます」。一瞬しもたと思い記憶の糸を手繰り寄せました。私は確かに下灘のコミセンと言ったつもり、相手も双海町役場前と聞いたつもりの勘違いでした。間違いに気付いたのと携帯電話のお陰で約10分の遅れで二人の女性に再会しました。「お久しぶりです」「お元気ですか」そんな会話もそこそこに私の軽四の車に二人を乗せ、例によって下浜のトンネルを通る近道坂道曲がり道を一気に走りあがりました。夕闇迫る、しかも霧雨の中での走行に、まるで私の腕をつかまんばかりに「大丈夫ですか」とか、「私にはこの道は無理だわ」なんて会話もそこそこに人間牧場到着です。

普通の日だと夕日の綺麗な頃でしょうが、昼前から降り出した雨は本降りとなり視界は悪く、一昨日の写真に写った場所と同じとは思えない姿なのです。でも初めて来た二人は五右衛門風呂をまず見学し、風呂釜の中へ入って写真を撮ったりで相当気に入ったようでした。水平線の家に上がり込んでも興味津々、ロフト専用の収納階段には登るわ戸棚は開けるわ、やれスライド窓を開けて見せてと矢継ぎ早の見学でした。

 あいにくまだ座布団が用意されていないので魚梁瀬杉のテーブルを囲んで毛布を敷いて座り、それから約一時間、3人で雑談にふけりました。女性とはこうも気がつくものか、女性にも色々な人がいるなと思わせる2人の行動を観察しながら・・・・・・・。

 一人の女性は家が家具屋とか、東南アジアの雑貨も扱っているとあって土産代わりに持参したのは花器でした。新聞紙の包装を解き渋みのある花器を取り出すと、庭先に出て野の花を一輪摘んで来て中のコップに水を張り花を活けたのです。魚梁瀬杉のテーブルはまるで今までとは変わった雰囲気に生まれ変わりました。さすが酒蔵元のデザインを担当しながら家具屋を営んでいるだけのことはあるなと思わせる女性らしい手際よさです。

 もう一人の女性はバッグから折りたたんだ二枚のコピー用紙を取り出しそれぞれに配ってくれました。開けてみると現代詩が書かれていました。彼女はご主人亡き後家業の文房具屋を兼ねた書店を経営していますが、詩が好きイベントが好きで、文化協会のイベントの度に司会などを進んで行う明るい人です。今回の人間牧場訪問も彼女の子育てに関する心情吐露の長い手紙が私に届いたことからスタートしたのです。

 息子さんの悩みはかなり深刻なのですが、彼女の言葉は笑って話すものですから左程には聞えませんでした。でも時おり言葉に詰まる姿からは胸のつかえのようなものを感じました。亡くなった女性詩人茨城紀子の生前に書いた生前葬の手紙は、彼女は「大好きだから」と紹介してくれましたが、心を代弁しているようにも読み取れました。人それぞれ色々な悩みをしょって生きているものなのだということを感じさせる出会いでした。

 海沿いのおしゃれなレストランで食事をし、雨の中をやって来て雨の中へと去って行った二人の女性の影を追いながら、わが妻を思いました。最近体が不調のようで、今日は仕事が終わると整体へ行くと言ってました。帰ってみると孫と娘がやって来ていて妻はその対応に追われていました。体は大丈夫かなと思いつつ食事のテーブルにつきました。

  「花もなし 女性花器を 携えて 野辺花一輪 そっと沿え活け」

  「コピーした 現代詩読む 女子目に 薄っすら涙 子育て悩み」

  「女性にも 色々タイプ ありますね この歳なると 鋭く観察」

  「雨の中 人間牧場 やって来た 二人の女性 眺望見せねば」

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shin-1さんの日記

○今日は何曜日?

 退職をして一年が経ちましたが最近は曜日の感覚がまるでなくても生きていけるため、毎朝「今日は何曜日だろう」と自分自身に問いかけるのです。妻にそのことを話すと、「まあ羨ましい。私なんか日曜日だけが休みだから、日曜日の来るのを月曜日から後何日と指折り数えて待っているのに」と言われました。先日も兵庫県尼崎からお客様を迎えるのに、曜日を勘違いして結構慌ててしまいました。私は現職の頃も土日のないまるで月月火水木金金のような暮らしをしていましたので今とそれ程変わったとは意識していません。でもお勤めをしていた時とは随分違うようです。

 最近は土曜日でも学校が休みだし、特に街の中の学校の正門は年中門扉を閉ざしているので、何時が休みなのか登校日なのかさえも分らない始末です。

 私の暮らしで曜日を意識するのはゴミを出す月水金、大学の講義日の水曜日、集会予定の多い土曜日などですが、妻の休日もやはり意識しますし、週末になると孫がやって来るので意識せざるを得ません。

かつて私は父が「今日は何曜日か」と尋ねるのを聞いて「何て羨ましい」と思ったものですが、私がその年齢になろうとは夢にも思っていませんでした。「あなたの仕事は」と聞かれ、「サンデー毎日(毎日が休み)」と冗談を言って大笑いをした一年前のジョークが懐かしく思い出されます。

 今日は土曜日、といっても何にも関係のないことですが、妻に弁当を作ってもらい、熱いお茶を魔法瓶に入れて朝早くから人間牧場の農作業に出かけました。出掛けに隣のおじさんにばったり会い、「何処へ行くのか」尋ねられたので訳を話すと、「雨でも降らなければよいが」と笑われました。何とその予言がピタリ当って、昼前から雨が降り始めました。でも朝が早かった分作業がはかどり、ジャガイモ畑の草削りを兼ねた根寄せと肥料やりは何とか済ませ、周辺を清掃したゴミに火をつけて燃やしました。またススキの株も夏から秋の原風景づくりに一役かってくれていましたが、そろそろ新しい葉っぱと交換したくて、株だけ残して鎌で切り落とし切ったものを焼却処分しほっとしました。この雨で肥料の効きもいいだろうと思います。そうだ今日は半ドンだから昼からは休もうとストーブに薪を入れ寝椅子にゴロリと横たわって本を読んでいるとついつい眠たくなって昼寝を楽しんでしまいました。今夕は二人の女性が人間牧場にやって来ます。野の花でも活けようと思ったのですが、あいにく花瓶が見つからず、迎えに下りた時に花瓶を用意したいと思っています。

 

? 写真がまずくて済みません。実はこの写真は人間牧場に今にも咲かんとする鬼アザミの花なんです。余りの美しい姿についパチリとデジカメを向けてシャッターを押してしまいました。バックが緑の同色なのでさえませんが悪しからず。アザミは雑草で痛いイガを持っていますが、綺麗な花にはトゲがあるの諺どおり実に美しい花を見せてくれます。鎌で刈るのは勿体無いと思い畑の隅に残しています。

 いい天気だと来客の女性に自慢してやりたいところですが、あいにく雨で残念でなりません。

  「土曜日の 仕事をを終えて やって来る サンデー毎日 俺はいつでも」

  「半ドンと 言っても今は 通じない 土曜の昼から ワクワクしたっけ」

  「野の花を 楽しむ術は デジカメで 一年かけて 小まめにシャッター」

  「今日何曜 聞いた相手が悪かった 親父も同じ サンデー毎日」


 


 

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shin-1さんの日記

○同じ課長が部長と主幹に

 合併とは不思議なもので、昨日まで小さな町役場の課長だった人が、合併によって主幹に格下げされたり部長に昇格したり、様々な影響が出ています。しかしその殆どが何の根拠もなくといえば御幣がありますが、化学的な根拠もなく決められてゆくのですからおかしな話です。

 昨日そんな人事を象徴するような二人の人に偶然にも一緒に会いました。部長になった人は市役所の市長や助役の視角や視線を意識するのか常にその中にいるような位置に陣取って、さも「私は中枢にます」と言わんばかりの態度で、昨日まで同じ課長だった人を連れ歩き、名刺を配り膜っているのです。私はその姿が滑稽に見えました。人の値打ちや権威は周りの人が決めるのに、まるで天下を取ったような雰囲気です。勿論私に対しては、私の苦言が怖いのか礼節を尽くしてくれましたが、どう見ても異常としか言いようのない出世なのです。

 一方部長になった前述の彼とは対照的に合併によって誕生した市では、役職の枠が少ないことから旧町の課長から主幹に格下げされた人は、「おい元気か」の声をかけるのが気の毒なような雰囲気で返ってくる言葉にも覇気がなく、私の「人間牧場主若松進一」と書いた名刺を差し出すのに、「名刺など持ち合わせていない」といいながら、私の名刺をおもむろにポケットにしまいました。

 私の目から見ても、同じ年齢なのに一方は白いシーツのかかった椅子や部屋が与えられ、一方は昨日まで「課長さん」と呼ばれてた人が他市町村の課長だった人の部下となって部屋の隅の名もなき椅子に座って息を凝らしたように実務をこなして行くのです。二人とも年齢は一緒で後一年したら定年を迎えますが、前や元の後ろには永久に部長と主幹という肩書きだけが一人歩きするのです。私は年功序列をいいとは言いません。でもこうした人事の妙を見るにつけ、何処が二人の役職の分かれ道になったのか理解に苦しみ、むしろ年功序列も日本の風土には合っている部分もあるのではと思ったりもしました。帰り際、主幹格下げのその人は「若松さん、近いうちに人間牧場へ行かせて下さい。積もる話もありますので」と声を掛け、握手をして分かれました。私は「頑張れよ」と声を掛け「主幹になったからといって給料が下がるわけではないのだから」と笑いを誘いました。

 今回の平成の合併はこんな辻褄の合わない辻褄合わせが沢山ありました。合併時の異動、合併後の人事交流と称する異動、そして今春の異動と早い役所は3回も人事をやりました。丸印のついた人は栄転で新聞の異動便りに華々しく写真入で乗ったりします。一方左遷や降格とおぼしき人は活字も小さく、聞いたこともないような2行にも渡る長ったらしい役職を貰っています。同じ市役所の人事とは思えないほど広域になったため海辺の人は県境近くの山に登り、そこから海辺へと下りて新しい年度が始まりました。人生色々あるものです。でも忘れてならないのは、たとえどんな異動であれプロとしてしっかりと仕事をしてもらいたいものです。

  「昨日まで 同じ課長の 人二人 一方部長で 一方主幹」

  「悪いこと したのか住民 聞くという 課長主幹に 降格されて」

  「前や元 辞めればそんな 肩書きは 糞を食らうが 如きことなり」

  「新部長 急にお偉い 仕草する 昔知ってる 滑稽止めろ」  



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shin-1さんの日記

○坊ちゃん劇場こけら落し演劇鑑賞

 田舎が田舎のゆえんは様々な芸術に触れる機会が少ないことです。都会の芸術全てがよいとはいえません。それでも都会には多様な価値観の人が多く住んでいますから、見たり聞いたりしようと思えば様々な芸術を幾らでも鑑賞することが出来るのです。文化都市という看板は掲げていますが県都松山市でさえも芸術の分野では質量ともに満足いくものではありません。

 そんな中でこの度東温市に秋田県田沢湖町のわらび座と提携した常設の坊ちゃん劇場がオープンし、今日こけら落としのセレモニーとお披露目の演劇鑑賞会が開かれ、どういう訳か私にも招待状が舞い込んでのこのこと出かけて行きました。利楽という温泉を含めた商業施設の一角にこじんまりとした佇まいを見せる劇場は、一見映画館かと見間違うような造りで、中々おしゃれです。私たち内子座のような古い芝居小屋に愛着がある古い人間には少しモダンすぎるのかなあとも思ったりしましたが、6億円をかけたという500人収容の劇場は音響や証明も素晴らしく、「あー21」の一番前のかぶりつきの席から見る舞台はど迫力で、2時間弱のこけら落とし公演は、脚本家のジェームス三木さんも舞台あいさつに登場するという心憎い演出もあって、いい芸術を見せてもらったという満足感がありました。

 招待された人々は私のような自由人ではなく、各界の著名人ばかりで、面識のある人たちとは久しぶりに会ったものですから、近況報告や名刺交換ではいい交流もおまけとしてありました。持って行った人間牧場主のイラスト名刺50枚は、東温市長の高須賀さんはじめ多くの方に貰っていただき、恥をかかずに済みました。

 今日見せていただいた「坊ちゃん」の原作者は夏目漱石です。夏目漱石生誕100年のこの機を睨んでのオープンだと思いますが、年間300回もの公演を目指すというこの目論見は果たして県民にどう受け止められるのか、劇場側の力量とともに県民の文化度も試されるだろうと思います。

 田舎は5千円の会費での飲み会ならそんなに高いとは思いませんし参加者も多いのですが、いざ5千円の演劇チケットとなると、中々売れないのが現実なのです。息子のイリュージョンの演劇だって毎年やっていますが県を売るという作業は大変なようです。

 私の息子も演劇をやっています。今日の演劇を見て息子たちの演劇のレベルの高さも納得しましたが、ジェームス三木という一流の脚本家が書かれた舞台もまた小説では書き足らなかった部分を書いており、違った視点のミュージカルでしたが、毎年2回の息子の演劇を見て育ったここ10年間の実績は、凄い知的財産になっていると改めて感じた次第です。

 あなたにも一度足を運んでみることをお勧めいたします。

  「常設の 劇場こけら 落とす日に 招待鑑賞 今日は充実」

  「ジェームスの 脚本違う 視点から さすが一流 表裏から」

  「漱石の 生誕百年 記念して 愛媛あちこち 坊ちゃんだらけ」

  「お茶請けに 坊ちゃん団子 食べながら 横を矢絣 マドンナ役が」 

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shin-1さんの日記

○タオルが届く

 昨日は夕方総代を務める稲荷神社の集会があるので、人間牧場の農作業を早々に切り上げ夕飯を食べている所へ、関西汽船の浜田さんがやって来ました。何処かへ行った帰りだったのでしょうが、お互い急いでいたので玄関での立ち話と相成りました。浜田さんは前にもブログで紹介した人間牧場塾生第一号候補の人です。彼は周防大島出身の民俗学者宮本常一の生き方に関心を持っている人で、昨日の来訪は九州に宮本常一の研究会が発足したことを知らせに新聞のスクラップコピーを持参したのです。

 その折タオル製造者からいただいたというタオルを沢山土産にいただきました。彼は機を見て俊敏なりというか、人間牧場に五右衛門風呂が完成したことをブログで読んだからと付け加えました。さすが第一号候補だけのことはあるなあと感心しながらタオルの入った手提げ紙袋を受け取りました。

 「タオルかあ」とふと五右衛門風呂のことを思い出しました。そういえば第二期工事で五右衛門風呂を造ることを思いついて以来、五右衛門風呂を造ることばかりに集中し、五右衛門風呂に入ることやタオルの用意までには思いが巡らなかったと反省しました。あの風呂には誰がいつ、どのようにして入るのかは想像もつきませんがタオルは風呂にとって必需品ですから早速備品にして使いたいと思います。

 一昨日水道工事屋さんに春祭りの寄付をお願いに行ったところ、水道工事屋の社長さんが「息子さんから依頼があったのですが古い湯沸かし器が手に入りましたので取り付けますか」と言われました。息子が話していた給湯器の話なので、宜しく頼んでおきました。予算オーバーの話を息子にしているので知らない部分で苦労している姿を見て内心ホッとした次第です。

 タオルが届けば石鹸や湯桶も必要、足拭きマットはとまるで連想ゲームのように不備な点が次々と思い浮かびました。タオルをくれた浜田さんのお陰です。彼は今関西汽船に務めていて間もなく山口県柳井市にオープンする花のテーマパークへのツアーを成功させるため足を棒にして頑張っています。人は仕事に熱中するとき輝くものです。昨日の浜田さんはいつになく輝いて見えました。浜田さん有難う。浜田さん頑張れ。

  「このタオル お使い下さい 差し出され 風呂に入ること すっかり忘れて」

  「このタオル 使って妻の 風呂に入る そんな姿を 頭描きつ」

  「さすがだね 気配る出来る 人だから 仕事も上手く 動いています」

  「このタオル 風呂に入れろの メッセージ 入れますあなた 沖の船見て」

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shin-1さんの日記

○人間牧場から見た今日の豊田漁港

 今日は北西の風が強く、海は白波が立つほどの時化で豊田漁港の漁船は全て休漁です。小型底引き網の漁船は普通だと早朝2時頃から出漁して、遠い漁場でははるか豊後水道入り口まで行って漁をします。約100隻の船体を黄色く塗った漁船は、休みだと港にこのようにきちんと係留されているのです。

 この漁港も私たちが子どもの頃は僅か一本の突堤にしか過ぎませんでした。ですから親父の乗った船が出漁する度に家族総出で船を海岸から降ろして見送り、帰ると又海岸にウインチで揚げなした。この作業は気の遠くなるようなしんどい仕事で、特に時化た日の「船のぼし」作業は困難を極めたものです。でも何故かその頃の思い出が鮮明に残っているのは、やはり家族の絆の深さではなかったかと思うのです。また鯛が沢山獲れた大量の日などは浜が活気付き輝いて見えました。漁港には漁港計画というのがあって、度重なる計画の推進によって見違えるような姿に変身を遂げました。今では西日本、とりわけ瀬戸内海では屈指の漁港規模を誇り、全国各地から視察者が相次いでいます。この写真の右側に出来た新しい漁港は計画図面区域の段階から私も深く関わり、その実現にいささかなりとも努力したものですから、いつかその顛末を書いておかなければならないと思っています。

 漁港の全体がこのように美しく見える場所は探しても中々見つからないので、人間牧場のこのアングルは私のお気に入りの場所です。昔「港が見える丘」という流行歌が流行りましたが、まさに港が見える山といった所でしょう。私はこの漁村で生まれ、この漁村で育ちました。私の人生の心の港はこの港なのです。そして遍歴を辿ってはいますが、青年時代の7年間は自らも若吉丸の船長として漁船に乗り込み漁師をしたのです。この港を出てこの港へ帰ってくる作業を何百回も繰り返しました。港の灯台の灯りに見送られて出航した思い出は今も忘れられない光景で、時々陸路この灯台へ歩いて行くのですが、漁港の外郭施設が拡張される度に灯台の位置も変わって、今は気が遠くなるほど歩かねば灯台へ行くことは出来ません。

 しかし人間とは素晴らしいものです。何もない場所にコンクリートの塊でこんな立派な港を造るのですから信じ難い仕事です。その度に漁港担当者は漁民の意見を聞き、その意見を絵にして県や国に金のむしんをしてきました。またその実現のために町長は県と国への陳情を繰り返し、その隠れた努力がこの漁港を造ったのです。私は担当者として魚市場と、新しい東側の漁港計画を直接担当しましたので感慨も一入です。

 自分の人生と矢の様に駆け抜けた昭和や平成の時代を重ねながら、この港の物語を振り返ってみました。そういう意味でこの原風景が独り占めできる人間牧場のこの位置に満足しているのです。

  「北西の 波風強い この位置に 人の力で 港立派に」

  「灯台の 赤き光に 送られて 何度港を 出漁したか」

  「この一枚 俺の思い出 原風景 何時まで見ても 飽きぬばかりに」

  「えっあれは 知らぬ間に 家が建ち 屋根の姿に 記憶まさぐる」  

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shin-1さんの日記

○ 春の一日西

 私たちの地方には天気を現すことわざや言い伝えが沢山残っています。漁村であるが故の、また天気予報など発達していなかった時代が故のことだと思われますが、「板子一枚下地獄」といわれる海で働く人々にとってみれば、天気の目利きは何よりも大切な仕事だったのです。私はそんな漁村に育ったものですから、子どもの頃から大人の世界の天気に関することわざが自然と耳に入っていました。「平群島に雲がかかるとやまじ風が強い」とか、「お日様が高入りすると雨が近い」とか覚えているだけでも十本の指を軽く越えるほどです。お陰さまで教育委員会や産業課、企画調整室、地域振興課などを渡り歩いて各種のイベントを数多く手がけましたが、日和を見る名人として天気は天気の、雨は雨の対応をしてきました。

 今日は冬の季節風にも匹敵するような北西の大風が吹き荒れました。ここ数日地元では「やまぜを食う」と表現する南西の風が吹いていたので漁師さんは今日の北西の風を予測していたようです。それにしても強い風です。人間牧場で農作業をしていたのですが一日中この強い風に吹きさらされ、被っていた帽子を何度飛ばされたことでしょう。その都度拾いに行って被り直して作業をするのですが、時には下の畑まで飛ばされました。

 春になると冬の間吹いていた北西の季節風が止んで春の南よりの風に変わるのですが、時おり季節の変わり目でしょうかこんな北西の季節風が吹くのです。こちらではこの風のことを「春の一日西(ひしてにし)と呼んでいます。これほどの強風も長続きせず一日で終わるというのです。この言い伝えも殆ど当るのですから昔の人は偉いものです。

 やっと芽が出た木々たちも昨日まではつよいやまぜ(南風)にあおられ、今日はまた北西の強い風にあおられきっと驚いていることでしょう。

 「風土」という言葉があります。その土地の状態や気候、地味などの意味だと思うのですが、私流にいえば読んで字の如くその土地に吹く風だと思うのです。その地域には土地の条件によって一年中様々な風が吹き、その風を受けながら人間も自然も生かされて生きているのです。風は人々の暮らしにとって厄介者であると同時に恵みでもあるのです。その風の方向や強さをよみながら風とともに生きてきたのが人間の知恵となったのです。家の周りやみかん畑の周りに防風垣を廻らせたのも生活の知恵なのです。風土は時として風土病などという病気も起させます。その地域独特の水や食べ物が長い年月をかけて人々の体に影響し原因不明の病気に蝕まれたりすることもあるようです。

 漁師さんの予想やことわざが正しければ明日はこの季節風も収まるでしょう。

  「この風は 誰が吹かすか 知らねども 春の眠りを 起しやがって」

  「ひして西 漁師の言葉 信じれば 明日は収まり 漁に出るかも」

  「二度三度 帽子飛ばして 吹き抜ける この風俺に 何の恨みが」

  「一向に 温くならない 春日和 桜は遠に 散ったというのに」


 

 

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