shin-1さんの日記

○やっぱり日本一の夕日は違う

 私は日本一夕日の好きな男を自認していますが、その夕日の似合う男が何故か「朝日新聞」によく取り上げられるのです。まるでジョークのようですが、これまでどれほどの朝日新聞に紹介されてことでしょう。スクラップブックには地元紙ゆえに圧倒的に多い愛媛新聞に混じって朝日新聞の記事が並んでいるのです。

 先日も夕やけこやけラインの取材依頼がありました。その紙面を飾る夕日の写真を下灘駅で撮りたいとの申し出があって、四万十市での仕事がキャンセルとなったので、早速その日に約束して取材と相成りました。

 夕日は中々私の一存で思い通りに見せてはくれません。これまでにもどれ程の人を取材のために案内したことでしょう。その度に「ああ残念」と思う人は何人もいました。しかし強運の人はたった一回の取材で素敵な写真や映像を撮って帰る人だっているのです。「まあ秋の頃だから多分」という期待感と、「夕日が見れないのは俺の責任ではない」という開き直りの気持ちで出かけましたが、今日は「ウーン、やっぱり日本一の夕日は違うな」と自画自賛するような夕日でした。

 この頃になると夕日は随分西に寄って、私の友人大分県佐賀関の渡邊又計さんが引き寄せようとしているのか大分寄りになっています。下灘駅は夕やけコンサートの舞台ともなる絶好の夕日見学スポットなのですが、無人駅の散閑とした風情がなお一層夕日の美しさを引き立たせてくれるのです。これまで3回も青春18キップのキャンペーンポスターに登場しているだけあるなあと思いつつ、取材の合間を縫ってカメラに収めました。

 同じようなアングルでもプラットホームの屋根付き待合所を入れるとまた違った趣の写真となるし、そこに二人の恋人を座らせシルエットで表現すると物語風になるのです。

 朝日新聞の記者さんは、取材の意図が違うのか私を下灘駅というプラットホーム看板の横に立たせ、「はい、こちらを向いて」など、まるでモデル並みの注文です。自然体でも十分カメラに耐えれる顔なのですが、今日の主役は「夕日」なのですから、わがまま言わず言われるがままにポーズをとりました」。はてどんな紙面となるのでしょう。

 水平線の上に何やら怪しげな雲の帯です。「ああ今日も駄目か」と思った矢先、その雲が薄くて細くて、雲の下から再び綺麗な夕日が覗き始めたのです。私は若い女性記者さんとツーヨットで夕日を堪能しました。多分その女性記者は、相手がもっと若かったらと舌打ちしたに違いありません。

 その後真赤な空が日没後サーモンピンクに染まり、「あー何て私は幸せなんだろう」と思いました。再び「これぞ日本一の夕日」と確信したのでした。何度見ても下灘駅から見る夕日は素晴らしく、また私のフィルムフォルダーに新しい夕日の写真が保存されたのです。

 「双海の夕日を一度見てみたい」と思われる私の知人友人たちに申し上げます。私のような下手糞な写真より、あなたのその目で本物の天体ショーをご覧下さい。きっとご満悦になること請け合いです。今は一年中で最も夕日の綺麗に見える頃です。是非一度双海町へお越しください。ご案内いたします。

  「この夕日 俺が自慢の 日本一 感動するよ 今が旬です」

  「諦めて 再び覗く 夕日見る 何か得した そんな気持ちに」

  「沈み行く 西の空見て 友思う あそこら辺に 住みし人あり」

  「姫島が 茜の空に シルエット 遠くかすんで ここにあるよと」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○悲しきハズ虫の行列

 昨日は朝日新聞の取材で下灘駅へ夕日の写真を撮りに行きました。少しの時間家の草引きでもしようと始めたまではよかったのですが草引きに夢中になって約束をすっかり忘れてしまいました。5時15分にポケットの携帯電話が鳴りハッと気付いて取るものもとりあえず午後5時30分と下灘駅を目指して一目散に車を走らせました。下灘駅界隈はこのところの北東の季節風のせいでしょうかすっかり秋も深まり、長袖のシャツを着ていても吹く風で少し肌寒さを感じました。

 朝日新聞の記者さんと二人でプラットホームのベンチに座り遠望をを楽しんでいると、下のレールの上で何やら小さな虫がうごめいているのです。よく見るとオレンジ色と黒色の縞模様をした尺取虫です。田舎者の私ですから、「あっこれはハズ虫だ」と見慣れた顔に驚きもしなかったのですが、見渡すと何と何とレールの上を無数のハズ虫が伸びたり縮んだりしながら大移動をしているではありませんか。

 私は列車の接近を確認してから線路に下りて観察しました。いるいるいるいる。その数は数え切れない無数です。ある虫は上りの上灘駅に、ある虫は下りの串駅に向かって大移動をしているのです。私はとっさに「危ない」と思いました。だって間もなく上りの列車が来るのですから。えっ、はい、それは勿論私自身も危ないので「よいしょ」と掛け声をかけてプラットホームへ駆け上りましたが、このハズ虫たちは列車の車に引かれてしまうと思ったのです。

 やがてローカルの駅らしく2両編成のジーゼルカーがエンジンの音も賑やかに区内に入ってきました。車両の下のレールを見ると無残にも先程まで生命を保っていたハズ虫は青い液体を出して交通事故にあっていました。ハズ虫を駆除する人間の側の主張だと、農薬もかけずに駆除できるのですから一石二鳥でなく一事故うん万虫で片付けられる喜びなのでしょうが、虫たちにとっては大変な災難なのです。私はふと金子みすゞの「浜は鰯の大漁だ」という詩を思い出しました。まさにハズ虫の世界では大量虐殺なのです。

 運転をしている運転手さんも運行している車掌さんも、勿論乗り合わせた乗客の皆さんもそのことにはまったく気付かず、列車は何事も無いように汽笛を鳴らして発車しカーブの向こうに消えてゆきました。このハズ虫がどのような成虫になるのか知る由もありませんが、秋風が吹き始めるこの頃になると決まったように発生するのです。ハズは雑草の一種で地下茎が強く幾ら除草剤で駆除しても次から次へ繁殖してカズラとともにお百姓さんを悩ませていますが、この葉っぱを常食にしてハズ虫は生きています。ハズの葉に止まって葉っぱを食べる様は凄い食欲で、一晩のうちにあたり一面茎だけになることもあります。体を音を立てて震わせる様は異様にさえ思えるのです。秋風が柔らかいハズの葉っぱを枯らし始めるとハズ虫たちは何処へ行くのか自然に私たちの目の前から姿を消すのです。

 レールの上をお行儀よく並んで歩くハズ虫の生態はよく分らないものの、ハズ虫はまるで真赤に染まった夕日に向かって大行進しているようにも思われました。一回の歩は僅か1センチか2センチですが、見ているあっという間に背中を丸めては伸ばすユーモラスな姿で1メートルも移動しました。「ウーンこれは季節の話題だな」と新聞記者さんに伝えましたが、私と同じように列車の去った線路に下りて写真に収めていましたが、果たして記事になるかどうか・・・。

 世の中にはハズ虫の大行進のように私たちの知らない世界がいっぱいあるようです。しかしそんなことに疑問を持っても何の得にもならないし金儲けにもつながらないから、私たちはそれを見て見ぬふりをして見過ごしてしまうのです。カメラを持つとこんな疑問が次から次に発見されて「何故」「どうして」と深みに入ってゆくのです。

  「ハズ虫が 線路の上を 黙々と 列車に引かれる 悲しさ知らず」

  「ハズ虫を 無視して列車 行きにけり 残った死骸 青く悲しく」

  「夕焼けに 鈍い光を 放つ道 極楽浄土と 思いつ進む」

  「この姿 金子みすゞの 詩と同じ 今宵ハズ虫 弔いしてる」

 


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○子ども未来塾

 えひめ地域政策研究センターの発刊している「舞たうん」という雑誌に、「若者とまちづくり」というタイトルで8回ほど連載執筆していますが、子どもを含めた若者たちにとってまちづくりとは、近くて遠い存在だとしみじみ思います。親が自分の住んでるまちについて案外知っているようで知らないし、行政は「協働と参画のまちづくり」などとまるでオームのようにフレーズを唱えていますが、参画どころか参加さえもままならず、自分のまちを自分の子どもたちにさえ正確に伝えていない現状を見ると、まちづくりの難しさが良く分るのです。

 そんな中「子ども未来塾」という会議の世話をしている三好尚美さんに頼まれて昨日その集会に参加しました。小学生からおじいちゃんおばあちゃんまで上としたでは60歳も年齢差のあるこの人たちに、2時間の持ち時間を与えられてお話するのですが、正直言って誰に焦点をあて何を語り、どんな言葉が適当なのか、話のスピードさえも分らず面食らってしまいました。PTA活動などでは親子で話が聞きたいという求めに応じ話すことがよくあるものですから、その経験を基に2時間も休むこともなく話し続けました。しかし驚いたことに参加者はみんな熱心に耳を傾けてくれたのです。多分三好尚美さんのコーディネートが良かったからなのでしょう。

 参加者はまず三好さんのシナリオに沿って自己紹介とまちづくりで学びたいことをカードに書いて発表していました。私が会場に着いたのはその最中でしたが、そのカードをホワイトボードに貼り付けながら同じ意見と違った意見をグループ分けしていたようです。少しだけその話を予備知識に入れながら話したのですが、私の話を聞いた後の感想と質問の時間に、一人一人がショートコメントしてくれました。その意見はとても素晴らしく私の話が的外れでなかったことを感じ少し安心しました。上の写真2枚は三好尚美さんが私へのメールに添付して送ってくれたものです。

 今回のプログラムは「まちづくりチャレンジ編」として、私が「楽しいまちづくり・まちづくり入門」と、次回「公園とまちづくり・公園フィールドワーク夢プランづくり」の2回を担当します。私の仕事が終われば三重大学の浅野聡助教授による「まちづくり入門①・まちづくり学習とは」、「まちづくり入門②・まちづくり活動の実践事例」、「まちづくり入門③・20世紀のまちから21世紀のまちへ」、「まちづくり入門④・協働型のまちづくり」などが用意された本格的な学習会なのです。このメンバーにこれだけの豊富な知識が全て受け入れられるとは思いませんが、三好尚美さんの意気込みの凄さや準備の周到さに思わず脱帽してしまいました。

 参加した人は千差万別ながら発表や受講態度が真面目で、次回の研修会で具体的な公園作りというテーマにどれだけアプローチさせることが出来るか、私の腕が試されそうです。私は常々まちづくりは学びながら高まるという意識を持ってきました。今もその考えは変わっていません。例えば私は今、高知県四万十市西土佐へ20回を目指す集会に行っていますが、それは私の知恵の伝授と同時に新しい知識の習得のいわば修行の場ともなっているのです。現場から学ぶことは実に多く今回も様々な学びを自らがしそうな予感がしてきました。

 例えば、今回のプログラムに関わっている三重大学の浅野先生がテキストに使う予定の「桑名のまちづくり」についての本は、既に私の手元に購入して読み終えていますし、理論体系のストーリーがある程度読めるのです。まちづくりの推進技法は人それぞれですが①まちを愛する、②自分のためまちのためにやる、③まちをいい方向に導くという点では共通しているのです。桑名のまちづくりも昔は協働や参画という言葉のない時代ながら町衆という民力が長年培ってきたまちへの想いの深さがまちづくりとなって成果を収めてきたのでははないかと思えるのです。

 まちづくりは得てして成功事例を引き合いに出し物まねを強いるきらいがあります。でもまちづくりはある意味生き物ですから、気候も風土も歴史も文化も、ましてや住んでる人の意識も違うのですから物まねのしようがないし、しても結局は上手くいくはずがないのです。子ども未来塾という種まき作戦でどんなまちづくりの新しい芽が生まれるのでしょうか楽しみです。

  「この人に 話せと言われ さて誰に 焦点合わせて よいのか迷う」

  「公園の ベンチに座り 行く雲の 行方のんびり 虫の音聞きつ」

  「ほうここに こんなものある 発見し 歩く楽しさ 改め思う」

  「いい話 聞いたと子ども 発言す 間に受け 感激また話す」

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○夫婦還暦

 先日妻は誕生日を向かえ私たち夫婦は只今そろって還暦です。私と妻は年齢が一歳弱の差ですから、約半月おない年なのです。一週間前息子夫婦が我が家に帰ってきて「お父さん、来週の日曜日空けといて」と唐突に言うのです。「どしたん」と尋ねると、「子どもたちでお父さんとお母さんの還暦祝いをやるから」と殊勝なことを言いました。私は自分の予定表を繰りながら「その日は松山で会議が入っているので行けん」と言うと「その会議は何時から」とやり取りが始まり、「12時ごろまで」、「その会議は何処であるの」、「松山市総合公園」、「そこからだと道後は30分もあれば十分。じゃあ12時30分には道後の大和屋本店を予約するから必ず遅れんように出席してよ」、「分った努力する」と、まあこんな会話でした。その日が昨日やって来て私は松山市総合公園での会議を済ませ12時半きっかりに大和屋本店に着きました。夫婦一緒に松山市総合公園に着いた妻は公園内を一時間余り散策した頃を見計らって長男夫婦が迎えに来て、子どもたち全員は孫とともに既に到着していました。

 フロントで顔見知りのホテル社長にばったり出会い二言三言言葉を交わし、奥まった見晴らしのよいそれでいて静かな部屋に案内されました。連絡を取り合ったのでしょうが、仕事の都合で今治に住んでる三男も駆けつけて子どもたちも全員集合です。三男には昨日しまなみ海道を渡る前に電話をして近況を聞いたばかりで、その時は何も話に出ませんでしたのでびっくりしました。

 家族が集まれば近況や昔話に花が咲き、特に一人っ子の3歳になる孫が大はしゃぎでまるで孫の誕生パーティみたいな賑やかさです。私進一の一を全ての子どもの名前に付けている話題や、少年少女の頃の話はいくら喋っても喋りたらないくらいありますし、長女の夫や長男の嫁には珍しい話なので色々な話が出ました。妻は感激の面持ちで聞き入っていましたが、私は外、妻は内と役割を勝手に決めて小さい子どもの世話は殆ど妻に任せきりだったものですから、私は随分肩身が狭く感じます。でも子どもたちは大きくなるにしたがって進学や就職など人生の岐路にたった時、父親である私の出番を求めてきました。特に男の子ども3人は私と向かい合って人生について考えました。息子たちは早いものでもう30歳を挟んで適齢期を迎えていますが、転職などの挫折や再起も味わって、これから益々父親としてのかかわりが多くなりそうです。

 昭和46年に結婚し二人で始めた新しいわが家庭も4人の子宝と孫一人に恵まれて、マイホームの新築から私の退職まで小さいながら様々なドラマが展開されてきました。波風も収まってどうにかここまで来たって感じるこれからは、老後という新しいドラマが待っています。勿論子どもたちにとっても私たちがそうであったような新しいドラマが始まるのでしょうが、子どもたちには更なる加速努力を、私たちには更なる減速努力を願うものです。

 一応の子育ては終わりましたが、昨日見せてくれた子どもたちの優しい心根を思いつつ、これからも子どもたちをしっかりと支えてやりたいものだと思いました。

 帰り際車の中で、子どもたちから貰った記念品を手でさすりながら、「色々あったけど、今日くらい子どもを産み育てて良かったと思ったことはない」と神妙に話すのです。多少多いように思える4人の子どもも、今となっては少ない感じもします。昨今の少子化を聞くにつけやはり子どもは沢山に限ると思いました。

  「還暦を 祝う子どもの 嬉しさよ 生んでよかった 妻はしみじみ」

  「加速して 子どもに期待 俺たちは 減速しつつ 穏やか生きる」

  「今がある 子どものお陰 生きがいに 必死に生きた 日々が懐かし」

  「気がつけば 妻も還暦 二人して 間もなく年金 貰える歳に」 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○どこの夕日も美しい

 昨日広島県福山市沼隈町に出かけてその日のパンフレットを見て驚きました。私の紹介は私のホームページから取った私の顔写真と双海町の夕日、裏と表には沼隈町の夕日の写真が載っているのです。館長さんが「別に若松さん所の夕日に対向して載せたわけではないのですが、結果的に夕日の写真になってしまいました」と恐縮していました。でも私は「どうだ、沼隈町の夕日も綺麗でしょう」という主張が伝わってきてとても嬉しく思いました。

 私は日本全国へ出かける機会がありその度に、特に海沿いに面した町を訪ねると決まったように「おらの街の夕日も若松さん方の夕日より綺麗だ」と自慢するのです。すかさず私は「それがどしたん」と喧嘩を吹っかけるようにしています。それは私の町の夕日の方が綺麗と自慢しているのではなく、夕日が綺麗だけならどこでも綺麗のですが、それをどう地域資源として活用し、どう自分たちの自慢に結び付けているかが大切なのです。

 昨年だったと思いますが私が埼玉へ講演に行った帰り道、国電に乗って夕闇迫る赤羽辺りに差し掛かった頃、美しい夕日が富士山の傍に感動的に沈むのを見ました。私は窓越しにその姿を眺めながら辺りを見渡したのですが、残念ながら国電に乗っている乗客は誰もその夕日を見ようとはせず、ただし下を向いてメールに夢中になったり本を読んだり眠りこけているだけでした。私は思わず電車が止まったのでプラットホームへ降りてその感動的なシーンに酔いしれました。直情的な私の行動は結果的に荷物だけが先に国電に乗って東京駅まで着くというハプニングを引き起こしましたが、美しい夕日を見て感動しない人も都会にはいるのです。

 昨日沼隈町からの帰り、今治北インターを降りて海岸周りの国道196号を帰りました。ここのところの忙しさもあって少々疲れを覚え、心はわが家に早く帰りたいという一心でした。北条辺りに帰った頃、西の空に綺麗な夕日が沈むのが見えました。車を止めてと思ったのですが、適当なPもなくついつい悪いと思いつつ運転席側の窓を開けデジカメをパチリとやってしまいました。そんな危ないことをと叱られそうで告白をためらいましたが、丁度運良く車が渋滞でノロノロだった時を見計らって撮ったものですからご容赦ください。

 この夕日を見ながらふと日本一を自認するわが町双海町の夕日の存在を思い出しました。多分この頃はもっと夕日が美しいシーサイド公園のベンチに若いカップルが沢山座って、恋を語っていることだろうと・・・・・。そしてこの風景を心だけでなくカメラに収めようとポイントを選んでシャッターを切っていることだろうと・・・・・・。

 先日私の元に一通の手紙が届きました。「久しぶりにシーサイド公園へ行ったけど、あなたの関わらなくなった公園は何か気が抜けて、夕日さえもかすんで見えました」と書いているのです。夕日への思いを前面に出して戦ってきた私への最大の美辞麗句だと思い感謝しつつも、私は彼女に返事を書きました。「確かに今のシーサイド公園は誰がどんな想いで夕日を物語りに仕組んでいるのかよく分らないし、合併という区切りによってもう過去のようなまちづくりの仕事は、伊予市という中心地への横並びで全てが平準化されようとしていることも事実です。でもいつか心ある人が斜陽化や不活気を復元してくれるでしょう。私のような夕日に狂った専門馬鹿のような人間は時代が古いと思うのです。夕日は今も昔のままで色あせないし科学的には何の変化もありません。私たちは本当の夕日の美しさや夕日への想いをこれからも思い続けてゆきたいものです」と書きました。でも人の数が少なかったり売り上げが落ちると社会のせいや人のせいにしてやり過ごすような風潮は少々気になります。

 秋風が吹き始めました。シーサイド公園の上空にはカラフルなパラグライダーが飛び交い、いよいよパラグライダーのシーズンです。パラグライダーを飛ばせたいとはるばる香川県や高知県へ何時間もかけて見に行って実現した夢追いし若いあの頃が懐かしく思い出されます。

  「夕日見て あれやこれやを 思い出す 歳経た証拠と 心苦笑す」

  「もし今度 生まれ変われる ことあらば 夕日の前で 愛を告白」

  「この夕日 自分のものと 勘違い あのまちこのまち 夕日はしずむ」

  「今頃は 俺町夕日 沈んでる 訳の分らぬ 心騒ぎて」

 


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○秋晴れのしまなみ海道

 多島美を誇る瀬戸内海にあって芸予の島々を縫うように走るしまなみ海道は、花咲く春もさることながら初秋のこの頃も捨てがたい味があります。空はどこまでも青く澄み、近望遠望全てが一幅の絵になる風景です。平山郁夫画伯が好んで書いた絵の数々を思い出しながら旅をするのもこれまた楽しいものです。

 特にしまなみ海道は10もの橋が架かり、橋の幾何学的な姿が島々にマッチして何ともいえない風景を醸しています。その橋を思い思いの服装で歩く姿はこれまたスピードとスローが同居していて面白い光景なのです。

 昨日は昨年の2月に福山市と合併した福山市沼隈町へお邪魔しました。少し時間早く出てついでに鞆ノ浦と内海まで足を伸ばしました。鞆ノ浦は坂本龍馬が乗った大洲藩船いろは丸が沈んだ場所としても有名で、朝鮮通信史や鯛網など見所いっぱいの場所ですが、残念ながら時間もなく素通りのような立ち寄りでした。

 まるで路地裏のような鞆ノ浦の狭い町並みはまるで時代をタイムスリップしたような古さが残り、街中で日向ぼっこを楽しむ老人の多くさえまるで置物にも思える雰囲気でした。

 港からは古い形の観光船も出ていて、カメラを提げた多くの観光客が町中を闊歩していましたが、車を止める場所もないほどの狭い港町で一際目立ったのは聳える石垣と禅寺でした。

 その昔は瀬戸内海を一望できる場所だったので朝鮮通信史がその景色は東洋一だと褒めた逸話も分るような気がしました。今は随分遠望も変わっていましたが、それでも仰ぎ見る禅寺の造りの凄さに往時を見る思いがしました。

 時間もない急ぎの旅なので後ろ髪を惹かれる思いともう一度の思いを持ちながら来た道を引き返し、うちうみ大橋を渡りました。

 アーチ型の2連橋は離島振興の目的で架けられた橋ですが、橋そのものが曲橋上でカーブしている珍しい橋なのです。内海という名前の由来で愛媛県の内海村と交流をしていたと聞いていたのでついでの立ち寄りとなりました。その愛媛県内海村は愛南町に、広島県内海町は福山市内海町にそれぞれ合併して改名し内海という自治体は存在しませんが、橋はそんな悲喜こもごもを物語っているようでした。周辺では家族連れの釣り客が思い思いに沢山竿を出し、長閑な秋の一日を楽しんでいました。釣果を聞いたり世間話をしたりしながら私も2キロほど日陰を選んで歩いてみましたが、瀬戸内の空気はとても美味しく感じるほど爽やかでした。

 道端で珍しい花を見つけました。ひまわりと白い彼岸花です。

 夏の終わりを告げるように咲くひまわりの花は何と可憐なのでしょう。人に見られることもなく健気に咲く花は美しいものです。

 周囲を見渡してもどこにも見当たらないのにこの一株は珍しくも白色、いやよく見ると白というよりはクリーム色に近い彼岸花です。釣り客の視線は全て海面、でも私の視線は山際の空き地に咲く花でした。

 2時からの会議は千年公民館、これでちとせ公民館と読むだそうですが名前がいいですね。千年です。気に入りました。この公民館へは8年前にお邪魔していて、今回は広島自治研修所で私の話を聞いた串間さんの紹介で実現しました。当時の館長さんや職員の方も私のことや木になるカバンのことを覚えてくれていて、いきなり「若松さん少し痩せましたね」と言われました。「はいやつれました」と返しましたが、よくぞ覚えてくれていましたと握手を交わしました。

 私の話が始まる前は空いた席もあったのですが講演が佳境に入る頃は満席となって、少し時間を超過して話してしまいましたが、みんな満足の手合いで終わることが出来ました。

  「しまなみの 橋を渡って 沼隈へ 八年ぶりの 再会喜ぶ」

  「今日の客 笑い上手で こちらまで 思わず熱を 熱くしました」

  「道端に ひっそり咲きし 野の花に 見とれる余裕 今は嬉しき」

  「風誘う 瀬戸内見える 島々に 野焼きの煙り 高くたなびき」 


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○珍しい施餓鬼行事・権谷地区(20-15)

 私は請われるままに長年のまちづくり活動で培った論理を日本全国あちらこちらにお話していますが、地域を活性化する手段として、例えば車で行けば行った先々の土地でガソリンを入れるとか、珍しい物を買い求めるとか少しでもその地域に経済的効果が出るよう心がけています。それは私の論理的ささやかな地域貢献なのだと思うのです。またその地域の民宿に逗留するとその民宿を仲間や他の地域の人に紹介するようにしているのです。

 その実践手段として一昨日はわが妻が友人2人を誘い3人で、旧西土佐村の西ヶ方にある井上茂子さん夫婦か経営する民宿金毘羅に泊まりに行ってくれました。かねてから四万十川を見たいと願っていた妻の友人ははるばる丹波笹山からのお越しですし、もう一人は八幡浜からの参加です。腕に自信もないのに妻は自ら運転して高知幡多の旅を計画したのです。妻の計画によると大洲駅で待ち合わせて国道197号線を走り松野を経由して県境近くにある民宿へ一泊し、四万十を散策して足摺岬を見学するという壮大な旅です。私はその日に西土佐で講演が入っているので、妻たちご一行が到着したのを見計らって民宿に立ち寄り、お茶をいただきながらしばらくの間談笑しました。

 妻はじめ3人は久しぶりの出会いにすっかりリラックスし御殿のような民宿に驚いた様子でした。私は民宿舟母という馴染みの場所もあるのですが、そこは西土佐の仲間が集う私のとっておきの隠れ家的場所なので、今回は道の不案内な妻のために県境から直ぐという便利さから井上さん宅を選びました。さてこの宿のもてなしに3人は堪能したでしょうか。3人とも魚所八幡浜の出身だけに川魚料理が口にあったかどうかは分りませんが、昨日長旅から帰った妻に話を聞くと3人とも満足した様子でホッとしました。

 さて私は、妻たちと別れた後四万十市西土佐支所で合流して丘の上にある四万十川が一望できる星羅四万十でスタッフと夕食をしました。土居支配人さんともすっかり顔なじみとなって、レストランの雰囲気は早くも秋のメニューでした。美味しい食事をした後玄関に出てみると賑やかな虫の声が秋の夜長を演出していました。私がデジカメを取り出し写そうとすると、「えっ、虫の声を写真に撮る?」とスタッフは不思議そうに見ていましたが、はい、私はちゃんと虫の声を写真に収めたのです。

 これが私が撮影した虫の声です。ほんのりと光るぼんぼり外灯が草むらを照らしています。えっ「聞こえないって?」、聞こえない人はまだ修行が足りないのです。僅か15回目の今回の西土佐の旅で私は様々な西土佐の魅力を発見しましたが、「秋の虫の声を聞く夕べ」なんてイベントを催したらそんなにお金もかけずに田舎の良さを満喫してもらうこと請け合いです。星羅四万十の従業員にも西土佐のスタッフにもこの写真を見て気付いて欲しいと思いました。

 さて今回は権谷という何ともいかめしい地区です。かっては往還道の宿場として栄えたというこの地区は、道端のあちこちに今は盛りと咲く真赤な彼岸花が公用車のヘッドライトに照らされ印象的な夜道をひた走りに走った奥まった地域でした。イノシシと鹿でも出そうな草深い地域ですが、集会所の中に入って周囲に飾られている施餓鬼の写真を見て驚きました。地元の人の話によると新盆を迎えた人の霊を慰めるためにこうした行事はするようですが、一人の人が亡くなると山から肥松を取ってきて一人108もの松明を作るのだそうです。そして川の中にその松明を燃やし大きな太鼓を担いで川をぞぶるのだそうです。

 施餓鬼の行事は日本全国各地で行われていますが、これ程凄いと思った施餓鬼は余り聞いたことがなく、一度その姿を見たいものだと思いました。日本の各地にはまだまだ素晴らしい伝統行事があるのです。これこそこの地域のオンリーワンなのでしょう。

 《施餓鬼とは飢餓に苦しんで災いをなす鬼衆無縁の亡者の霊に飲食を施す法会です。所によっては河川や海で施餓鬼船と称              する藁船を作り食物を積んで流す風習がるようです。》


 

 机を出してお行儀よく座ってお勉強といった感じの熱心にメモを取る学集会でしたのでこちらも熱心に熱を込めてお話をしました。嬉しいことにもう一度私の話をと地区外から来てくれた人もいてほのぼの集会でした。集会が終わって私の車は妻に取られましたので息子のBBに乗って、民宿金毘羅の下の道を妻たちに思いを寄せながら通り過ぎました。

  「世の中は 知ってるようで 知らないね 権谷施餓鬼 これは凄いぞ」

  「暗闇に ヘッドライトが 照らし出す 幻想彼岸の 花群れ咲いて」

  「虫の声 これは立派な 資源かも 気付く人なく 秋は深まる」

  「この道は いつか来た道 錯覚す そんな夜道を 権谷目指し」


  

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○平和の集いに参加して

 つい最近はお寺さんとのご縁が深くなり、昨日は宇和島市の神田川原にある泰平寺で行われた平和の集いに参加しました。昨年はイルカという有名な歌い手が来ていたこともあってお寺の境内は人で埋まっていましたが、今年は琴や太鼓とやはり歌い手さんが来ていて、去年ほどではないまでも沢山の人が秋の夜長のひと時を平和について考えました。泰平寺の住職さんの鳴らす平和の鐘が夕闇迫る宇和島の空に響き渡り、ローソクのほの暗い光とあいまって何とも言えない荘厳な雰囲気が漂いました。この鐘はニューヨークにある国連本部の鐘(元宇和島市長の中川千代治さんによって寄贈された鐘)と姉妹兄弟の鐘らしく、意味の深い鐘なのです。その意味を考えれば平和を考えるにはもっともふさわしい鐘かもしれません。

 太鼓や琴の演奏、歌い手さんの澄み渡るような平和への願いを込めた歌声は参加者の心を引き付けていました。

 最後は私の1時間弱の話です。屋外のしかも観音様の石造が建っている前ですからさすがに緊張しました。しかしその緊張もものの1分で、後は日ごろのよもだ心が頭を持ち上げ例によって吉本新喜劇のような笑いを誘ってしまいました。会場には知人友人も多く来ていて、手を振って存在を知らせる人もいるほど和やかでした。

 宇和島までの往復約4時間の道すがら私は平和って何だろうと自問自答しました。愚かな戦争も世界中のあちこちで行われているし、広島や長崎の核の悲惨な体験を声の限り叫び続けても何故か拡大傾向にある中で、「平和って何」と考えなければ思い浮かばないほど私たちは豊で平和な日々を過ごしているのです。韓国のように徴兵制度もなく平和でいられる幸せは、ある意味で日本人を堕落させているとも思うのです。一年のたった一日の一瞬でも平和について考え、そのことに感謝する心を持ったら、自分の存在と不幸な人への思いやる心がどんなにか生まれるのにとも思いました。

 宇和島も不況だ過疎だといいながらも、またわが母校の宇和島水産高等学校の実習船えひめ丸の不幸な出来事も過ぎ去り、ひとまず平和です。でも自分にもたらされている平和は国や市町村や多くの人々の力によって維持されていることを考え、人のために出来る幸せを考え行動したいものです。

 特設のマイク設備がとても声の響きがよく、思わず吹いたハーモニカの音色も吹いた自分が驚くほど澄み渡った音色として響きました。今朝会長の川口律子さんにお礼の電話を入れましたが、「ハーモニカがよかった」とみんなが言いよったそうです。まあ話の内容は別として考えさせられた一夜でした。

  「平和って 問われ答えが 見つからず そうだ俺たち 平和なんだと」

  「笑い声 お寺の境内 包み込む 和芸に加え ハーモニカ吹く」

  「悩んでる 人あり今度 訪ねると まるで賢治の 雨にも負けず」

  「近頃は 強いね女性 男ども しっかりせよと ハッパかけられ」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○友人からの紹介

 「若松さんお久しぶりです。その後元気ですか。ところで今私の元に、愛媛県出身のいい若者がいるんですが近いうちに会ってやってくれませんか。ちょっとその若者と電話を変わりますから」と、携帯電話をかけてきたのは山梨県清里に住む舩木上次さんからでした。舩木さんは私と同じ観光カリスマ百選に選ばれている方で、清里フィールドバレーの仕掛け人として知名度の高い著名な方なのです。東京高輪プリンスホテルで開かれた日本観光協会主催のカリスマシンポジウムで同じ壇上に上がったのがきっかけで急接近し、私が彼を紹介したり彼が私を紹介したりの出会いですっかりお友だちになっている方なのです。私の元へは舩木さんのように多くの友人から沢山の人が紹介されて送り込まれてくるのです。

 昨日やって来た彼もその一人で、松下政経塾で学ぶ第26期生の兼頭一司さんです。あらかじめ電話で約束していた通り待ち合わせ場所のシーサイド公園に着いたと9時10分前に電話が入りました。この正確さや律儀さからも彼の思いが伝わってくるようでした。先日の敬老会補助金報告者の提出打ち合わせに市役所総合支所の窓口で少し時間がかかってしまい、電話で遅れる旨の了解を取り付けたものの、結局は20分も遅れての出会いとなってしまいました。

 松下政経塾といえば、松下幸之助さんの理念で生まれた有能な政治家などを育てる名だたる塾で、の本の政治家の中にはこの塾の門をくぐり門を出た方が沢山います。時々出会う愛媛県出身の国会議員小野晋也さんもこの塾の出身で、私も少なからず影響を受けた方ですので、松下政経塾での松下幸之助さんの講話集を読むなどした覚えがあります。

 彼とは始めての出会いなのですが、第一印象は一口で言うとやる気満々の知的な青年という感じでしょうか。早速私の車に乗って人間牧場まで案内しました。水平線の家の窓を全て開け魚梁瀬杉のテーブルを挟み二人で向かい合って約2時間、激論を交わしました。彼の目に私という人間がどういう風に映ったかは定かでありませんが、彼の研修テーマであるコミュニティについて私論推論を交えながら話し、果てはコミュニティビジネスにまで及びました。最後に人間牧場を案内し山を下り、元場所シーサイド公園で別れました。彼は別れ際「できればインターンとして私の元で学びたい」と言っていましたが、多忙な私と自由な私が同居する私は、自由な私を選んで断る理由もなく引き受けてしまいました。それは彼を反面教師として彼から若い知的エネルギーを得たいと思ったからです。61歳といえば還暦です。還暦を迎えた私にはもう若い知的エネルギーなど必要ないのかもしれませんが、彼とがっぷり四つに組んで汗と知恵の相撲をとるにはそれ相当の覚悟が必要なのです。多分彼の若い、しかも松下政経塾で学んだ豊富な知識には負けるかもしれません。でも私の長年培った汗と知恵で向かい合えば、横綱の朝昇龍だって一度や二度は負けるのだから金星の一つも取れるかも知れないと思っているのです。

 最近覇気のない若者に少々幻滅していたこともあって、久々にいい若者を紹介してくれた舩木さんに感謝しながら彼との出会いを待ちたいと思い、失礼ながらブログで彼を紹介しました。多分彼が私の元に来る頃には残暑と思える暑さも峠を越して秋風の次にやって来る初冬の季節風が吹く頃でしょうが、ふた私は昔読んだ司馬遼太郎の「峠」という本に出てくる越後長岡藩の河合継之助を思い出し彼とダブらせました。人生には幾つもの峠があって彼は最初の峠道に挑んでいるようにも思えました。今越えようとしている峠を上り詰めるとまた新たな峠が待ち構えています。でもその峠の連続が人生だと思いますし、山の上下を峠という以外にも大河や大海を渡らなければ目的地へは着かないのです。でも何よりも救いは彼の心の中に羅針盤と海図を持っているのです。さあ出発だ。

  「峠道 登りのきつさ へこたれず 汗かけ知恵出せ 回り道して」

  「若さとは 心の若さ 俺だって 青春謳歌 かかってこいよ」

  「久しぶり 人間牧場 放牧す 夢食い人間 どんなに育つか」

  「イノシシの 餌植え食われ 芋無残 自然はやはり こんなもんだな」

 


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○伯耆町に招かれて

 日野川に沿って車で国道を走ると川の向こうの丘の上に大きな鬼の像が座ってこちらを見ています。「えっ、あれは何?」と最初目にした時は驚いたものでした。その像がある町は鳥取県溝口町で、鬼伝説をテーマにまちづくりを進めた町なのです。島根県境港のゲゲゲの鬼太郎とは県こそ違え鳥取と島根の県境に位置する場所なので、この地方ではよくよく鬼が好きな地域なのかと思うのも無理からぬことです。溝口町では駅や地域の小さなバス停など主だったものは全て漫画チックな鬼の形で彩られていますが、鬼ミュージアムの上に座る鬼の像は5億円もかけた本格的なブロンズ像で、車や列車で通過しながら見る度に一度は近くで見てみたいと思っていましたが、その念願かなって伯耆町での講演会に招かれたので鬼のいる丘へ登ってみました。

 鳥取花回廊に通じる道を登ると丘の上にはなだらかな広場があり旧溝口町の市街が一望できる場所に鬼様はでんと座っていました。

 それにしても大きく、それにしてもいい場所に据えたものです。今だったら考えても財政緊縮で出来ない時代ですが、作った時代はこうした遊び心が町を活性化させていたのです。合併した隣の岸本町には写真家の記念館があったり、それぞれの町がそれぞれの思いで様々な公共施設を作っているようで、その中には赤字経営の施設もあり、指定管理者制度の導入によって乗り切ろうとしているようですが、さて上手く行くかどうか心配です。

 旧友である大下室長の案内で夕闇迫る大山の麓の牧場へ夕日を見学に出かけました。牧場は5時閉店とかで、私たちが訪ねた時には蛍の光の曲が流れていました。微妙な置かれたベンチには若いカップルや若者が沢山いて夕暮れ時の風景を楽しんでいましたが、さあこれからという夕日の時刻に閉店とは何と勿体無いと思ったのは私一人ではないと思いました。

 ご覧下さいこのシルエット、何ともいえない風景です。

 ご覧下さい。夕映えに生える美しい伯耆大山の山を、この後大山が夕日に映えて赤大山となったのを、乗せてもらった車の後ろの窓から眺めることが出来ました。小雨に煙る大山、雨上がりの大山、夕映えの中の大山、そして昨日の朝5時にホテルを出た直後、朝ぼらけの中に月とともに見えた大山など、今回の旅では全ての大山を堪能したのでした。

 さて、その日の夕方7時から始まった講演会は会場は町長さんも出席されるなどほぼ満席、そして時間通りきっかり7時に会は始まりました。わざわざ大阪から帰郷して駆けつけてくれたNPO法人日本列島夕日と朝日の郷づくり協会の事務局長藤岡さん親子、江府町町議会議員の田中さんや井上企画財政課長さん、それの亡くなった宇田川さんの奥さんなど、多くの知人友人が駆けつけてくれ、旧交を温めることが出来ました。

 友人でアイモクの井上さんが「人は人によりて人となる」というように、私にとってはこうした市町村や県境を越えた交流によって培った仲間が沢山いることを今更ながらに実感した旅でした。今年中にまだ山陰路へは4回も来なければなりません。磨きをかけてしっかりパワーアップした話をしたいものです。それにしてもよく集まりました。満席立ち見ありです。

  「若松さん お久しぶりねと 握手され あなた誰?では 格好がつかぬ」

  「さあ聞いて 二時間熱弁 淀みなく よくも喋るね 自分に感心」

  「笑う人 うなずく人に 口合わせ 俺の体験 身振り手振りで」

  「俺ならば 夕映え大山 見て思う 夕日をカネに 儲ける手立て」



[ この記事をシェアする ]