shin-1さんの日記

○東京での出来事

 日帰りのような形で三宅島から帰った私は、その夜浜松町駅の近くの島嶼会館という所に泊まりました。船中泊ながら一泊二日の旅も濃密な日程だったため、9時前竹芝桟橋についた頃には少し疲れが出て、夕食も外へ出ず会館の食堂で済ませてしまいました。それでも窓から眺める東京のネオン輝く夜景は私にまるでおいでおいでと手招きをしているようで、少し風に吹かれようとブラリ散歩に出かけました。三宅島と東京の落差を感じながら芝増上寺付近を目掛けて歩いていると、視界に飛び込んできたのは日本一高いと教えられた東京タワーの鉄塔でした。秋空にオレンジ色に輝く東京タワーは昼間の姿よりずっと素敵で、だんだん近づくにつれてその色は鮮明となって視界一杯に大きくなり、見上げれば暗闇にくっきりと浮かび上がっているのです。

 夜景を楽しむ人たちが暗闇の空を見上げて思い思いにデジカメや携帯電話のシャッターを押して写真に収めていました。私も手に持ったデジカメで4~5枚の写真を撮りましたが、暗闇でしかも自信がなかったのですが上手く撮れていました。

 何年か前、この付近を歩いていて福沢諭吉に関係の深い場所を見つけて嬉しかったことを思い出しながら、手を組んで楽しくも幸せそうに歩くカップルの後を一人で歩きました。10時過ぎには心配された雨が少し落ちてきたので急いで会館へ帰り、宿泊費の安いだけのことはある地下の風呂に体を沈めながら、長い一日の疲れを癒しました。

 早朝に起きて窓の外を見ると心配された雨もあがりそうでしたが、窓の外には思いもかけぬ庭園が広がりびっくり仰天でした。旧芝離宮(恩賜庭園)がまるで箱庭のように見えるではありませんか。ビル群に囲まれてはいましたがまるで別世界のようでした。意外な処で意外なものを発見した時の驚きは大きく嬉しい気分になりました。

 傘を用意せずに来たので雨を心配していましたが、その雨もあがって上天気の朝となり、国電で巣鴨まで行き地図を頼りに白山通りにある東洋大学まで行きました。かつて東京大学から講演を依頼され不案内な東京本郷辺りを訪ねたことを思い出しながら東京と東洋の一文字違いの大学を尋ねたのですが、到着してびっくり仰天、まるでどこか一流の会社のオフィスのような、とても大学とは思えない雰囲気に圧倒されてしまいました。この日の会議が予定されている19階のスカイホールはこれまた素晴らしく、まるで国際会議が開かれるような行き届いた空間で二度びっくりでした。窓の外には東京のビル群が立ち並び、雨上がりのその景色も見とれるような眺めでした。

 ここでは「日本地域資源学会」の設立総会と設立記念シンポジウムという、田舎者の私には似ても似つかぬ会議が開かれるのですが、私は事例報告者とパネラーとして壇上に上がったのです。

 参加者は大学の教授や著名人もいてそうそうたるメンバーでばかりでしたが、夕日のミュージアムのことを「ミュージアム戦略」という自著本などで色々と紹介してもらっているつくば大学院大学助教授の塚原正彦先生の肝いりもあって、何と学会の理事にまで就任することになったのです。

 私の話は相変わらずお笑いのような話でしたが、そこはお堅い話の好きな学会なのでこれがすごく受け、用意した名刺が足らなくなって最後の名刺交換では恥をかいてしまいました。でもここからまた運命の出会いが始まりそうな予感がしてワクワクの心境でした。

 三宅島から直通の旅の締めくくりに相応しい出番でしたが、明くる日の予定が入っているためレセプションを欠席し、元来た路を引き返しふるさとへの長い旅を続け終えました。

  「これほどに 東京来てるも タワーなど 意識もせずに 通り過ぎてた」

  「学会と 言う名驚く 田舎者 壇上上がれば 闘争むき出し」

  「大学も 出てない男 大学で 大口叩く 俺は馬鹿者」

  「さあ帰ろ 息が詰まるぞ 東京は 仕事終えたる わが身バス乗せ」  



 

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○三宅島への旅・ルポ⑤

 三宅島はかつて私の親父もこの島周辺海域で漁業を営んだことのある思い出の地です。私の親父は瀬戸内海の漁師でありながら僅か5トンの若吉丸でこの地を目指しました。その行く手には三宅島の灯台の灯りを道しるべとしたに違いありません。


 三宅島で面白い灯台を発見しました。日本でも古い方の部類に当たるというこの灯台は、普通丸い形なのにこの灯台は4角形です。この灯台の灯りを親父が見たかも知れないと思うと無性に懐かしくなりました。灯台は海に働く人々にとって道しるべであり命の灯りなのです。


 PTA大会の会場は周辺離島から沢山の人が集まり、島ならではの一種独特の迫力が感じられました。


 小学校体育館の壇上は綺麗な花で飾られ、素敵にコーディネートされとても話しやすい雰囲気でした。それにもまして参加者と私のフィーリングが合ったのか、会場はPTAの研修会でありながらまちづくりの話に爆笑する場面もあり楽しく楽しく話させてもらいました。後で届いたメールや参加者の声からもその余韻が伝わってきました。特に高橋千香伊豆大島町議会議員さんと佐久間三宅島村会議員さんには沢山のご縁をいただきました。

 講演終了後も時間を割いて村内を回りました。溶岩に埋まった阿古温泉郷のかつての姿と今の姿の対比には胸を打たれました。



 近くに行ってみると学校の鉄筋校舎が2階まで溶岩に埋まってそのままの姿をさらけ出していました。


 明くる日の都合で折り返しの船で三宅島を日帰りの形で後にするため、14時30分の船に乗り込みました。船が見えなくなるまで手を振って見送ってくれた佐久間議員さんの島人らしい温かさは一生忘れられない思い出です。




 帰りの船旅も快適で、やはり行きと同じように帰りも佐久間議員さんのご配慮で、特1の部屋が用意され、私一人が快適なクルージングを楽しむことが出来ました。




 船上から島影遠く高橋千香議員さんの住むであろう伊豆大島の姿が見えました。

 今回の三宅島への旅は人間性回帰の心洗われる旅になったようです。人は何故生きるのか、人は何故に幸せを求めるのか、人は何故自然と共生せねばならぬのか、まさに自分というもう一人の自分への問いかけの旅でもありました。心を整理してもう一度三宅島を訪ねたいものです。さようなら三宅島。

  「日本も 広いと思う 旅の果て 教えられたる 人の生き方」

  「あの灯り 目指した親父 この海で 糸をたらして 鯛を釣り上げ」

  「遠くなる 島影見やり 思い出の 写真幾つか 再現してみる」

  「短か日を 眠らず動き 焼き付けた 三宅の島や 忘れられない」  

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○三宅島への旅・ルポ④(ある店主からのメッセージ)

 文章も書かずいきなり一枚の大写しの写真を紹介します。

 今回の三宅島の旅で私がもっとも衝撃を受けた三宅島からのメッセージでした。佐久間議員さんの島を一周中偶然にも目に飛び込んできたのはある美容院の壁に書かれた落書きでした。東京などによくある意味不明の看板とは違い、これはこの美容院を大きな夢を持って開店したものの危険区域に指定されたため閉店・廃業・離島を余儀なくされた店主自らが書いたものだそうです。

 春若葉 夏は海空 秋夕日 冬は西風

 共に笑み 此処に生死 許されず 

        もう頑張れない  SOS 三池

 前段で三宅島の美しくも長閑な自然を歌い上げ、此処に生きようとしても許されず、生まれた処で死のうと決意をしても死ぬことさえ出来ない厳しい現実を訴えています。そして最後の「もう頑張れない SOSという店主からのメッセージは心ある人なら誰もが胸を痛め涙が出ることでしょう。日本人の記憶は薄情なもので帰島が許されたニュースで三宅島の話題は一応決着したかのように新聞やテレビから消えてしまったのです。でも現実は何ら変わらず残っていました。

 もう一つ、ショッキングな写真を紹介します。



 この写真何だと思いますか。上の写真は流れ出した溶岩や土石流に埋まった鳥居の頭が地上に顔を出しているのです。下の写真の向こうに見えるのは埋まった社の社殿なのです。つまり人間の背丈の2倍以上の溶岩や土石が流れてきて付近を埋め尽くしたのです。

 島の人は信仰に厚く、自分たちの暮らしも大変なのに直ぐ傍には立派な朱塗りの鳥居と社殿が見事に復興されていました。


 海岸には最近の噴火で道を塞いだ海沿いに小さな噴火口がまるで絵に書いたように見えました。普通だと絶好の観光スポットなのでしょうが、訪れる人もなくひっそりとしていました。


 落書きと鳥居の頭、それに噴火口の跡が発する私たち人間への強烈なメッセージは「自然をあなどってはならない」ことでしょうし、「人間同士の互助精神を忘れてはならない」ことだと心に強く受け止めました。

 島のあちらこちらに設置された青・黄・緑・赤の回転灯が何故か記憶の中で回っています。

 青ーレベル1(0.2PPm)高感受性者注意報

 黄ーレベル2(0.6PPm)高感受性者警報

 緑ーレベル3(2.0ppm)火山ガス注意報

 赤ーレベル4(5.0ppm)火山ガス警報

 幸い私の滞在中に回転灯は回りませんでしたが、講演中に主催者はガスを感じ窓を閉めたりして少し慌てた場面もあったとあとでお聞きしました。

  「落書きに 衝撃受ける メッセージ SOSの 意味紐解いて」

  「静まれと 言わんばかりに 赤鳥居 山の神々 願い叶えて」

  「ああ俺は この落書きを 見てもなお 何も出来ずに ただ心痛める」

  「あちこちに 設置されたる 回転灯 携帯電話で 濃度測りぬ」

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○三宅島への旅・ルポ③

 今回の三宅島への旅は私の心に深い悲しみを残しました。早朝5時に到着し、他の島に立ち寄りながら再び帰る船に14時30分に乗るまるでの、まるで日帰りの旅に等しい7時間余りの間に2時間の講演を挟んで、佐久間議員さんの案内で忙しく島内を一周して視察したのです。行く先々で全島避難・一時帰島・部分帰島を余儀なくされた厳しい運命的住民行動の現場を立ちすくむように見てきました。そんな厳しい現実に会いながらもなお逞しく生きる人間の生命力もまた大きな衝撃と感激を受けたのでした。

 危険区域を降りた私たちはまず島にしては珍しい大路池へ行きました。島の水源となっている池だけあって裏山には先程の白骨林が信じられないほど美しい、特別保護地区に指定されている椎の木原生林を有した池です。透明度も高く希少価値の高い水棲動物が棲んでいそうな場所でしたが、聞くところによるとここも心無い人の持ち込んだブラックバスによって生態系は崩れているとの事でした。


 山の頂上付近にはガスの影響も見えますが、ここだけは風向きの影響を受けずに残っています。これも神のおぼし召しかと命の水の大切さを思いました。佐久間議員さんも一枚写真を撮らせていただきました。


 この池は池というより湖に近いような大きいもので、うっそうとした周囲の緑に囲まれ周りの景色を水面に逆さ山として綺麗に写していました。池の傍で大きな大きな椎の木を見つけました。村の天然記念物というだけあってまるで島の木霊が宿るような神秘的な銘木でした。

 写真の都合で余り大きく引き伸ばし出来ないのでこの大きさに留めますが、頭の先から枝分かれした椎の木はツr-ハウスを作りたいような威風堂々とした大木でした。私は日本全国を回って色々な巨木を見ていますが、この椎の大木も思い出に残る大木なのです。

 この椎の木に別れを告げ、サンクチュアリーとでもいうべき、バードウォッチングが楽しめる三宅島自然ふれあいセンターアカカッコ館に立ち寄りました。アカカッコはこの島にしか棲まない野鳥の名前ですが綺麗な鳥のようです。一度は見てみたい鳥ですね。

 今回の島一周では、谷間のあちこちで土石流対策の砂防工事で出来上がった現場が目に付きました。多分これから立ち枯れの木々が倒木すれば土石がゆるんで流れ出す二次災害の危険性も心配されるようです。

 少し進んだ所にかつての役場の後がありました。ガス濃度の危険地帯なので既に役場は反対側の地域に移転していましたが、入口の屋根が崩れて痛ましい姿です。近くにある三宅島唯一の飛行場も閉鎖され、役場に掲げられた飛行場の利用促進看板が何かむなしく感じられました。

 島には大きな港が2つありますが、太平洋の真っ只中にあるため季節の風浪が絶えず吹き、定期船が岸壁に着くのはその風浪によって穏やかな方を選ぶのだそうです。私たちが立ち寄らなかった岸壁に行きましたが、岸壁では考えられないような大きな魚が釣れるそうです。この日も沢山の人が釣り糸を垂れていました。岸壁に打ち寄せる波しぶきを見て、瀬戸内海の穏やかな海を見て暮らす私には、岸壁の大きさ、うねりの大きさに驚きました。

 この立派な地区もガス濃度が高く住むことが許されないため廃墟となっているそうです。人間の住まなくなった家はガスの洗礼を受けてトタン屋根が見る影もなく朽ち果てていました。海岸には今も昔も変わらぬ波が打ち寄せ素晴らしい眺めでした。この青い海、青い空を求めて観光客が沢山集まる日々が一日も早く来るのを願っています。

  「悠久の 時を越え打つ 波を見て 人の力の はかなさ思う」

  「人住めぬ 家の屋根朽ち あばら見え 風のみ流れ 悲しかりけり」

  「見上げつつ 木霊宿る 椎の木に 手合わせ祈る 島の幸せ」

  「この姿 観光資源に ならぬかと カリスマだったら 知恵の一つも」

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○三宅島への旅ルポ・その②

 今回の三宅島の旅は私にとって44年前の思い出をたどる旅となりました。そうそれは44年前の18歳の時の出来事でした。私の乗った愛媛県立宇和島水産高等学校の実習船愛媛丸は、珊瑚海でのマグロ延縄操業を終え、マグロを腹いっぱいに抱えて帰国の途に着いていました。忘れもしませんが明くる日が成人の日という昭和37年1月14日に、伊豆諸島付近で冬としては珍しい大きな低気圧の洗礼を受け、1時間1ノットという船を立てるのがやっとの状態でした。船は右に左に、縦横に容赦なく揺れ続け、選手部分にある生徒のキャビンはビルの屋上から突き落とされるような衝撃を受け続け、天井に取り付けられた電灯も大きな波によって壊れてしまい、なすすべもなく漂っていました。好天準備をしたデッキを船長さんは命綱を伝ってキャビンに入り、私たち生徒を円陣に座らせ、真ん中に天気図を置き、懐中電灯で照らしながら、この船が低気圧の真ん中いいることを告げ、船長としてマグロを捨てて喫水線を浮かせるか、デッキに詰まれた漁具を捨てて復元力を回復するか、はたまたSOSを出すか迷っているとの説明を私たち生徒にするのです。そして「死ぬ時は海の男らしく死のう」と諭したのです。若干18歳の若者に死ぬかもしれない。死ぬ時は潔く死ね」とは尋常ではなく、生徒の中には泣き叫んだり、船の鉄板壁に頭をぶつける者もいました。そりゃあそうでしょう。いくら極限とはいえ、いくら海の男としてのスパルタ教育を受けてきたとはいえ、死ぬわけにはいかないのです。私の頭には親父やおふくろ、兄弟や友人、そしてふるさとの姿が鮮明に思い出され、涙がとどめもなく流れ「ああ死ぬのか」と思ったものです。

 厳しい大時化の海はその後も続きましたが、低気圧は東に進み私たちの愛媛丸はどうにか窮地を脱出出来たのです。やがて低気圧一過の寒い寒い三角波の立つ海の向こうの水平線上にかすかながら日本の象徴である富士山の姿を見た時の感動は今も忘れることは出来ません。生きて帰れたことの喜びで胸が一杯になり、みんな抱き合って喜びました。

 三宅島行きのかめりあ丸で今通っているこの航路こそ、愛媛丸の基地である神奈川県三浦三崎を目指して悪戦苦闘した場所なのです。三宅村村議会議員佐久間さんが用意してくれた特1の船室は4段ベット、幸い海も穏やかで広い室内はお客も私一人だったので、ベットやソファーに横になりながらも窓を開けて外を眺めたり、興奮のため眠れぬ一夜を過ごしてしまいました。「もしもあの時・・・・」と思うと44年ぶりに訪れた海や今の自分に感謝の祈りを捧げてしまいました。

 穏やかな海を船は早朝5時三宅島に着きました。身支度を整え岸壁に降り立ちましたが、PTA研修会への島外から来たお客様を歓迎しようと、早朝しかもまだ外は真っ暗だというのに、多くの関係者が横断幕を掲げて迎えてくれました。感激でした。

 港は釣り客を迎える宿の関係者でごった返していましたが、佐久間議員さんとも硬い握手をし、私たち一行は船着場近くの宿泊所に落ち着き早速朝食をいただきました。昼食をいただきながら佐久間議員さんと二人の出会いや生い立ちについて私的な話に花を咲かせ、彼のボックスカーに乗って島の見学に出かけました。島は基本的に危険区域への立ち入りは禁止です。役場の特別な許可いただいての視察にはガス発生に備えてガスマスクも用意しなければならない物々しさに、この島の置かれている厳しい現実を肌で感じました。

 山肌の草木が全てガスで枯れている場所を縫うようにして山の上を目指しました。山頂付近の遠くに立ち昇る噴煙の行方を気にしながらの視察です。したがって写真を撮ったりするのも基本的には車の窓ガラスを短い時間開けてでないと危険なのです。

 外が薄暗いため眺望が効かず山頂付近へ登るまで気付かなかったのですが、手渡された島の危険地帯を示す赤い地図の辺りは夜が明けるにつれて一面が茶褐色の世界で、佐久間議員さんの説明を聞きながら、その厳しい姿に思わず立ちすくみました。中腹山頂付近のかつての牧場は跡形もなく消えうせ、所々にその残骸が痛々しく残っていました。昭和天皇御来島の折立たれたお立ち台が朽ち果てて印象的に残っていました。

 雲行きが怪しくなって直ぐに下山しましたが、かつては島の春を彩ったであろう山桜の木々も完全に枯れ無残な姿をさらけていました。この大地に草木が甦るのは何時の日だろうと思いつつ地面を見ましたが、ガスに犯されながらそれでも背丈を短くしてしたたかに生えるススキの姿に感動もしました。

  「半世紀 ぶりにこの海 訪ね来し 感慨深く 夜も眠れず」

  「かめりあの 窓辺に鈍い 航跡を 見ながら三宅 次第に近づく」

  「言葉さえ 出ない光景 立ちすくむ 枯れ木も山の にぎわい言うが」

  「横切りし イタチの姿 二度三度 ガスにも負けず この地に生きて」

 


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shin-1さんの日記

○三宅島への旅ルポ・その①

 「火山噴火ガスによる全島避難」や「島民帰島」という言葉が新聞や雑誌から次第に遠のき、私たちの記憶の中からも遠のきつつある先日、私は伊豆諸島のPTA連絡協議会主催の講演会に招かれ、竹芝桟橋から旅客船「かめりあ丸」に乗って三宅島へ向かいました。松山空港から飛行機で羽田に着き、モノレールで終点浜松町まで行く行程まではいつもの東京へのお上りさんとまったく変わりありませんが、意外や意外JR浜松町駅から歩いて10分の所に竹芝桟橋はありました。周辺には芝増上寺や日本一の東京タワーが聳え、広い世界と思っていた東京が意外と狭いのに驚いたりするのです。

 今回の窓口になってもらった村義会議員佐久間さんからの道案内メールで、「浜松町から歩いて10分」と書いているのを見て少々不安になりました。だっていつも通る「浜松町駅のそんな近くに竹芝桟橋なんて船着場があったっけ?」でした。でも降り口出口さえ間違わなければ本当に徒歩10分で桟橋まで行けるのですから驚きです。

 桟橋近くの乗り場ビルはとてつもなく大きく、三宅島や八丈島、それに伊豆大島などの離島行き旅客船が発着するとあって、乗客もひなびた田舎の船着場と違いかなりの人数でした。

 浜松町の駅に到着する頃になって、双海町の視察ですっかり知り合いになった伊豆大島町議会議員高橋千香さんから、携帯電話が入りました。薄々は金子議員さんからのメール予感はしていたのですが、今度の三宅島行きには高橋議員差も同行してくれるというのです。嬉しいことに違いはありませんが何だか気の毒と思いつつも船着場ビルで待ち合わせました。

 季節は晩秋に入りつつあり、少々肌寒く感じるようになった竹芝界隈は人の流れも多く、10時30分の出発だというのに早くも大勢の乗客が沢山の荷物を持って集まっていました。中には釣りに行くのでしょうかクーラーボックスや釣竿を手に持てないほど持っている人もいました。

 高橋千香さんは町会議員でありながら島人らしい優しさと人なつっこさで私を迎えてくれました。これまでたった1回しか会っていない、しかも1年ぶりの再会にもかかわらず直ぐに打ち解け、早速切符の手配です。私は日頃から安上がりの旅を心がけているし、同行するということを始めて知った伊豆大島の約30人の参加者と同じ2等切符を選んで、佐久間議員さんが予約している特1の切符番号を2等に切り替えて買い求めました。ところが佐久間議員さんから携帯が入り、深夜早朝5時の到着などの厳しい船旅なのでどうしても特1に再び変更するよう高橋議員に指示があって、ちょっとしたハプニングになり再び変更しました。

 切符の手配が完了し乗船までにはまだ間があることに気がつくと夕食を食べていないことに気がつき、ビルの軽食・特産品売り場で明日葉蕎麦を注文しようとしました。気の利く高橋議員さんは蕎麦とアイスクリームとパッションフルーツジュースを注文してくれ、蕎麦より先にソフトクリームとジュースが出されたものですから、冷したり温めたりの腹がたまげる飲食ぶりでした。

 食事が終わりそろそろ乗客が乗船のために並び始める頃、伊豆大島の30人集団に紹介され、やがて長い長い列に並びました。聞くところによると久しぶりの長蛇の列で、三宅島以外にも行くのでしょうが三宅島にとっては嬉しい乗客のようでした。

 船はドラを鳴らしやがて桟橋を静かに離れて東京湾を一望しながら進みますが、その夜景はクルージングを楽しむようなまるで映画のシーでも見ている雰囲気で、少し感動しました。特にベイブリッジの下をくぐる時は、ライトアップされた橋の全容がくまなく堪能できて、ひとりで見るのが惜しいくらいでした。妻に見せてやりたい光景でした。

 東京湾の夜景が遠のき船内に入ると伊豆大島の一行は、見慣れた東京湾の夜景より交流と、既に酒盛りが始まっていました。私も飲めないながら高橋議員さんに誘われるまましばらく皆さんと交遊を温めました。ある郵便局へ務めているという参加者から「先生と聞いていたが、普通のおっちゃんなので安心しました」とひょうきんにも話され、嬉しい限りです。「今日のおっちゃんという雰囲気が、私の話を聞いてどんな変化が生まれるのか、これも楽しみの一つですね」と返しながら雑談にふけり、深夜11時半の消灯を見計らって特1の部屋へ帰りました。

  「俺を見て 普通のおじさん 嬉しいね 明日は見方が 変わるかも知れず」

  「浜松の 駅の近くに 港あり 歩いて十分(じっぷん) 初めて知った」

  「橋の下 くぐりて船は 進み行く 秋の夜長を 風に誘われ」

  「昼間見る 東京湾とは 大違い 要らぬ全てを 闇に隠して」

  「この灯り どこから送られ 来たのやら 東京夜も 昼と同じく」  


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○書いた原稿が消えた?

 私は昨年の9月から他所へ行っていない限り殆ど毎日アメブロに記事を書いています。したがってその量たるや大変なもので、プリントアウトしているだけでも相当なものなのです。パソコンが苦手な私にとって、娘婿に進められてはじめたブログは、無料ということもあってそれなりに重宝して、今や私の生活の一部になっているのです。昨年の9月までの自分と今の自分を比較してみると一目瞭然、自分の進化状況がよく分るのです。私昭和19年生まれの62歳になりましたが、これまで長続きしなかった日記帳とは違って、これほど夢中になれた自分に、いやアメーバーブログに感謝しなければなりません。その分まだブログをやっていない人に、「おいブログをやってみないか。楽しいよ。やるんだったらアメーバーブログ簡単でがいいよ」なんて、他所のブログも知らないのに、何人もの人を勧誘し、知ったかぶりでその人たちとアメブロを介した交流を楽しんでいるのです。

 私のような年齢の人間がブログをやっていると、「えっブログやってんですか?」と不思議がられます。私はその度に、「年齢が高いのにブログをやるの?」という小馬鹿にした対応と、「その年齢であれだけのブログを書くのだから凄いという敬愛対応に意見が分かれていることに気が付き、「どういう意味ですか」と問い返すのです。まあそのくらいのことで目くじらを立てることもないのですが、まあそれなりに書いています。

 私がこのブログを書き始めて困ったことが二つあります。その一つは書いた文章を保存しようとした途端その文章が突然消えて「アクセス出来ませんでした」という表示が何度も出たことです。「しまった。プリントアウトしておくんだった」と何度も自責の念に駆られたものでした。私も他の人ほどではないにしてもかなりハードなスケジュールをこなしており、朝晩の空いた時間を割いてブログを書いているものですから、やっと出来たと思った瞬間の記事消えは落胆よりも疲労感や自責の念に駆られ、「あー自分のパソコン能力もこんなものか」と思ったりしたものです。ところが今日、パソコンをいじっていると、私と同じ声が沢山書き込まれているのを見て、私の手違いだけではなかったと少し安心した次第です。アメーバーブログは無料サイトであり、「文句を言うんだったら別のに変えなさい」と返されそうなのでこの程度で辞めますが、何とかそうならないよう努力して欲しいものです。

 もう一つの困ったことは、メンテナンスが多いということです。私が書き始める早朝には「メンテナンス中に付きアクセスできません」という表示が何度も出ます。予定の時間が過ぎてもまだメンテナンスが終わらないのか、相変わらずアクセスできず、ついには早起きは三文の損に終わってしまうことが多いのです。込み合っててアクセス出来ないのは諦めますが、メンテナンスの時間が勿体無いとはいつも思っています。ソフトバンクが電話番号を変えないで機種を変えるサービスをしたところつながりにくくなくなったことを思うと、パソコンの限界というのも少し感じ始めたこの頃です。

 パソコン人間でなかったにわかパソコン人間がパソコンに取り付かれ、今やパソコンなしでは夜も昼も明けぬ人間に変身した塾年のおじさんの楽しみをもう少し楽しませてください。

  「えっ消えた 俺の日記が 画面から 慌てた俺は 俺を恨んだ」

  「無料には 無料だからの 値打ちしか なにのでしょうか 寂しいですね」

  「同じ人 沢山ありて 一安心 みんなで渡れば 怖くないもの」

  「ワンランク アップダウンを 繰り返し 未だに同じ 場所に居座り」 

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○忙しい日々

 昨年4月1日からサンデー毎日になった私にとって、あれ程憧れていた「自由な日々」が遠のいてしまい、今は「自由な日々」どころか「忙しい日々」に変わっているのです。特に10月などは大変なもので、島根県西ノ島町(隠岐の島)はじめ、鳥取県北栄町、高知大学、山梨県笛吹市、高知県四万十市、愛知県名古屋市、群馬県玉村町、熊本県城南町、東京都三宅島、東京都白山と、まあ日本全国を木になるカバンを提げて縦横無尽に動き回りました。その間自治会長として秋祭りの世話をしたり地域づくりの県内のお手伝いなど、目の回るような忙しさでした。一昨日も同じ敷地内に住むおやじが「お前元気か」と一週間ぶりに話すほどですから察して余りあります。

 でも、日本全国あちらこちらを回って思うのは、そこここに人の暮しがあり、住んでいる町を何とかしたいと思って頑張る人の多さです。隠岐の島では伝統的な牧畑農業で島おこしを、北栄町ではコナンという漫画でまちおこしを、高知大学では大学の公開講座で地域支援を、笛吹市では青年会議所の若者が待ちの夢づくりを、四万十市西土佐ではまちづくりの基本である集落づくり

を、名古屋市では3県の知恵者が農業の未来を、玉村町では県下町村の議員さんがおらがまちやむらの政策を、城南町では社会教育委員さんが生涯学習によるまちづくりを、三宅島ではPTAの皆さんが子育てや地域づくりを、白山では地域資源を学問にと、それぞれの思いを胸に議論をしていました。

 「忙しい日々」の裏には、私の持っている論理と知恵に対する期待があるのですが、多分それは主催者が主催者に代わってその思いを参加者に伝えて欲しいという願いがあるのです。いくら高慢な理論でもいつも聞いている人の話しよりは部外者の話に耳を傾ける群集の弱みがあるから、それを私に託しているのでしょう。私もそのことを察知し様々な実践事例を元に熱弁をふるうのです。私はどの会場へ行っても壇上で話しながら、私に視線が釘付けになったり相槌を打って聞いてくれる人を探します。私のような者の話でも会場には手の指の数ほど、そうした意思を示す人がいるのです。私はチャンスとばかりにその人を視線の中心にして話します。するとその人の求めていることが少しずつテレパシーとしてこちらへ跳ね返ってきます。私の話はさしずめシンパシー(進一の意思)ですが、その目に見えないやり取りが続き試合は終了します。終わった時の質問や帰ってからの手紙が届くのは殆どこの人たちであることに気付くには相当時間がかかりましたが、大多数の中の少数を選んで話することは、集会の成功には絶対必要なことなのです。

 この人たちは不思議なものでむしろ成功経験より失敗経験を聞きたがります。私も出来るだけ失敗談をくり返しながら「ああ若松さんも私たちと同じ悩みからスタートしているんだ」と納得させるのです。

 今日はこれから県内の県立高校へ話しに行きます。半世紀も年齢の離れている若い高校生に私のような賞味期限の切れた人間の話など馬事欧風、何の役にも立たないかも知れませんが、「今やれる青春」を標榜する私としては、昨晩愛媛大学の大学生相手に講義したように、彼らの心の扉を開くような話をしたいと思っています。さりとてどんな話をするか、壇上に上がらないとイメージがわかない悲しい癖を持った男ですのでさてどんな話になるか心配です。

  「この会は 眠る人あり 不平言う 眠る話を した人悪い」

  「自由日々 楽しむはずが 忙しく 声がかかりて これも人生」

  「文届く 話を聞いて 感動と 逆に感動 こちらの方が」

  「銭湯で 見覚えある顔 人が言う テレビで見たよ おちおちできぬ」 

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○叶うという漢字

 島根県の友人からメールが入り色々と考えさせられました。彼は私たちの地域では「潜りさん」といって、海に潜ってサザエやアワビを獲って生活する潜水漁師なのです。子どもの頃から海端で暮し、海を遊び場として育ってきた私にとって、海に潜るという仕事がどんなに苦しいものかは想像がつきますが、それは素潜りの話であって、酸素ボンベや海上の船からホースで空気を送るのとは訳が違うのです。人間は長い人でも余程のことがない限り5分以上自分の息を止めることは不可能です。この文章を書きながら僅か1分息を止めてみましたがもうアップアップでした。ましてや水温の低い海中となるとこれまた話は別で、私などが海に潜ると耳に海水が入ったり足が海中に消えたかと思うとすぐに頭が出るような手合いで中々上手く潜れないのです。

 「潜り」といえば何か悪い意味に取られがちですが、潜りさんは立派な仕事であり、愛媛県の佐田岬の突端にある旧三崎町では沢山の人が口開けなど、漁村独特のルールを守って磯根資源であるアワビ、サザエ、天草、ワカメなどを獲って暮らしています。私たちの町の「潜りさん」はエアーホースで空気を送る方法が殆どで、素潜りのような業師ではありませんが、それでも黒いウエットスーツを身にまとい、腰に鉛の付いたバンドをつけて真冬の海に潜ります。これからは忘年会や新年会に合わせたナマコのシーズンで、赤ナマコは特に珍重され高値で取引されているようです。

 潜水は息を止めねばなりません。海中から上がるとこれまで堪えていた呼吸動作を息早にくり返すのですが、私たち人間はこの空気を吸ったり吐いたりする行動を殆ど何の意識もせず自動的にしています。海に潜って出て海上に出てきた時初めて、「ああ俺は息をしている」と実感するのです。と同時に吐くことと吸うことの意味も分るのです。吸うだけや吐くだけで人間の呼吸は成立しません。吐かなければ吸うことも出来ませんし、吸わなければ吐くことも出来ないのです。

 友人のメールでは、吐くことに言及していました。「吐く」という文字は分解すると口・+・-=吐です。つまり息を吐くことは口から酸素を入れたり出したりするための動作、つまり吸うための入口なのです。健康法に呼吸法という動作があります。吐くことに集中して息の限りに吐くのです。そうすると背筋が伸びて良好な酸素が体内に送り込まれてくるのです。昔の人は漢字一つ作るのにも数学的見地から作ったのでは?としみじみ考えさせられました。ちなみに口のついた漢字を分解すると色々な話題が登場します。口に-で日、口に+で叶、同じく口に+で田、口に食で喰など面白い物語が潜んでいます。

 ちなみに私が彼に送ったメールでは「叶」という文字でした。願い事が叶う時に使われる「叶」は口に+と書きます。さしずめ物事が成就して叶うためには口を+にしなければなりません。つまり自分の願望を口に出して言うことなのです。人間は失敗を人に知られたくないから、得てして願望を自分の胸にしまい込んでこっそりと努力するものです。元論その行動を否定することは出来ませんが、私の場合は出来るだけ自分の願望を人に言うようにして成就してきました。「夕日を日本一にしたい」とか、「人間牧場を作りたい」とかこれまでにもたくさんの目標を公言してきました。特に「アメリカへ行きたい」なんて願望はもう小学校5年生の時に仲間に打ち明けていたのですからしたたかです。でもお陰さまでそれらの殆ど全てを手に入れることが出来たのです。

 言わずにやるより言ってやることは自分にプレッシャーをかけるだけでなく、人からの目に見えない圧力となって大きくのしかかりますが、やった後の評価は抜群のようです。

 さて私の当面の目標であった「人間牧場」も退職後の1年余りで完全に手中に収めることが出来ましたが、次なる目標をそろそろ公言しなければなりません。叶うという漢字を肝に銘じて頑張りたいものです。

  「叶うという 文字に秘めたる 口+(プラス) 言ってやるから 評価は上がる」

  「呼吸する ことがどんなに 大事だか 忘れてました 日々の暮しで」

  「メールから 学ぶことあり 立ち止まり ああそうなんだ 納得しつつ」

  「見えなくも 見えてきたよな 思いです あなたはいつも 俺に知恵つけ」

 

 

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shin-1さんの日記

○市役所職員よ奮起を・西土佐(20-17)

 昨日までという表現の方が分りやすいくらいの最近まで、村や町の役場職員だった人たちが、合併によって市役所職員という名前に変わりました。それらの職員の多くは合併後の仕事に戸惑い翻弄されながらも、今まで使っていた役場職員という名刺よりも何か偉くなったような錯覚と優越感を持って、市役所職員の名刺を使っているようです。私のように合併によって無位無官の自由人の道を敢えて選んだ人間から言わせれば、値打ちの変わらない人間がいくら市役所職員だと威張って見せても所詮は変わらず、むしろそれを威張ろうとする言動が滑稽にすら見えてくるのです。先日も役場職員だった人が合併によって市役所職員になった人の子どもが、「僕のパパは市役所職員なんよ」と胸を張っている話を聞いて唖然としたものです。

 昨日四万十市西土佐に出かけました。20-17をこなすためですが、最後に予定していた市役所総合支所職員への話が、スケジュールの谷間で昨夜になってしまいました。最近講演などに招かれて感じるのですが、役所の職員に話すのが何だか気が進まないのです。何故かというと役所の職員に話す場合は仕事を終えて大体夕方6時頃から話が始まるのですが、「何で私が出なければならないの?」といった空気が強いのです。助役や総務課長召集するのでしょうが、明らかに「参加したくない」お義理の参加が多いのです。その空気は話す側のこちらにも伝わってきますから、結局は月並みな話になってしまうのです。

 昨晩の会はそんな空気は感じられませんでしたし、私も思いを込めて話させてもらいました。そして会終了後近くの飲み屋に繰り出して7人で懇親会をやりました。気心知れた旧友知友が集まり、飲むほどに酔うほどに口角泡を飛ばす議論となりました。私の話を中心にすえ課長も平職員もも、若者もいて坂本龍馬や吉田松陰の話まで出るやる気の創造に胸を熱くしました。最近市町村役所の職員と話して出るため息吐息の話とは全然違う話だったのです。ちなみに最近聞く不平不満を列記しておきましょう。

①やらにことをやれないという職員

 やらないくせにやれないという言葉をよく口にします。やれないとやらないは違うのです。自分が出来ないことを社会のせいや上 司のせい、予算のせい、住民のせいにしたがる人が多いようです。汗も知恵も出さずに結果など出るはずがありません。

②給料が安くなったと嘆く職員

 確か意数年前に比べ給料は安くなりました。しかし役所の職員は人事院勧告というお目付け役がいて、分相応の給料が保証されているのです。今までの給料が高すぎたのだったら返さなければなりません。あなたの日給や時給は幾らですか。単純に日数と時間で割ってみてみてください。時給800円で頑張っている人もいるのですから。

③ペコペコしないといけないという職員

 市民、議員、職場の上司など沢山の人、特に市民にまでペコペコするのはかなわないという人がいます。確かに多くの人に囲まれて仕事や生活をしていますが、あなたは誰に雇われているのですか。首長でも役所でもありません。雇用主は市民であるという自覚が必要でしょう。

④合併で本庁の言うことがきついと嘆く職員

 役所は法律や条令、規則などによって仕事をします。今までは対象住民が近かったり、小さな役所だったため、余りにも人間的に仕事をこなしてきました。大きな役所は法律や条令、規則を前提に仕事をします。そのことをしっかりわきまえてルールに沿って仕事をしなければ本庁職員と支所職員の間の溝は埋まらないのです。

⑤将来が見えないと不安がる職員

 行政には様々な計画というのがあって、その計画に沿って仕事をします。計画も読まないで将来が見えるでしょうか。将来が見えないのは自分の心の目が開いていないからです。自分の人生の生活設計なしにまちの将来は見えてくるはずがありません。あなたはどんな街に住みたいのですか。あなたはそのために何をすべきと思いますか。あなたは家族とどんな人生を歩みたいですか。その自問に答えを出せば自信を持って生きて行くことができるでしょう。

⑥いっそ辞めたいという職員

 はい、辞めたい人は早く辞めて下さい。役所へ入りたくても入れない人は沢山いるのですから。甘えるな。これが結論です。

⑦やってもやらなくても給料は一緒だからという職員

 役所は勤務評定が導入されていますが、あんな甘い上司のチェック機能で人の評価は出来ません。正直やってもやらなくても給料は一緒です。でも働いた人が報われないなんてことは絶対にありません。前向きに取り組むと失敗もあるでしょうが、仕事に情熱を傾けて生きることは素晴らしいことなのです。

⑧パソコンに向かう時間が長くなったという職員

 10年前に役所にはパソコンもそんなにはありませんでした。ですから職員はみんな市民に向き合って仕事をしていました。今はパソコンに向き合って仕事をしています。パソコンに向かう時間をもう少し減らし市民に向き合って下さい。パソコンはすごく便利でパソコンなしで仕事ははかどりません。でもパソコンに人間の温かさを加えないとただの道具で終わるのです。

⑨合併してふるさと感がなくなったという職員

 同感です。確かに小さな町や村の頃は物語りもあって自分の町や村を語ることが出来ました。でも今はエリアが大きくなって焦点が絞りにくくなっています。早くみんなの力で子どもたちに語れるいいまちを作りたいものです。

⑩「合併はひとつもいいことがなかった」という住民に私もそうだと同調する職員

 住民から「合併はメリットがなくデメリットが多い」と嘆きの言葉が投げかけられたとき、「私もそう思う」と同調する職員が余りにも多過ぎます。役所の言う通り合併したのにこれでは詐欺にあったようなものだと言われても仕方がありません。同調せずメリットをもっと語るような職員であって欲しいと思います。

 まあこんな具合に数えればきりがな

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