shin-1さんの日記

○初詣にお寺

 普通初詣は神社が多いのですが、私の今年の初詣は今治市玉川町の仙遊寺となりました。昨日玉川町の成人式に招かれたのを機に、私の腰痛の具合を心配した妻が孫同伴で運転手をかって出てくれたので少し早めの7時に家を出て仙遊寺にお参りし、暫くの間住職さん夫妻やお寺で働く方々と談笑しました。このお寺の住職は小山田憲正さんといって、お寺の住職でありながら地域づくりに熱心な方です。彼は元々お寺出身ではありませんが厳しい修行を積んでこの寺に入り、火事で焼けたお寺を再建したり、地域の子どもに少林寺拳法を教えたり、源流という地域づくりグループの代表として活動したりと、まあ八面六臂の活躍をしている人です。お坊さんらしく穏やかな人ざわりは誰からも愛され、このお寺には四国八十八ヵ所という名刹としてだけでなく多くの人が集まってくるのです。もう20年前に彼と出会った時はあどけないような感じがしましたが、その後の活躍は目覚しく、事業家といった方がいいほど様々な事業を手掛けているのです。宿坊や道場、炭窯、温泉と止まるところを知らないほど夢を形にしています。

 私も小山田さんを通じて玉川町の多くの町民を知り、玉川町の初期の頃のまちづくりのお手伝いを随分させてもらいましたが、その一つ一つが形になって大きな成果を収めているのですから、天晴れとしか言いようがありません。

 もう一つ、彼の大きな仕事は四国八十八ヶ所を世界遺産にするという大きな夢があります。最初私が代表を務めるえひめ地域づくり研究会議でこの事業に取り組んだ時は多くの人が反対したり冷ややかな目で見ていました。久万高原町の渡辺浩二さんと一緒になり出口の見えない世界遺産化の会の会長としてこれまで地道に活動をしてきました。多分世界遺産なんてとだれもが思っていた昨年末、思わぬ方向に急展開し始めました。世界遺産候補地のリストアップをする期限が設定され、四国からは八十八ヵ所が候補地として4県の県庁が動き出したのです。これまで何度も県庁へのアタックを試みましたが、殆ど門前払いの格好で相手にさえしてもらえませんでした。錦の御旗というのはこのことでしょうか。驚くような進歩に、私たちも目を丸くしました。勿論世界遺産化には沢山の高くて難しいハードルが待ち構えていることでしょうが、それでも第一ラウンドのゴングが鳴っただけでもうれしいことです。これも小山田さんや渡辺さんのの飽くなき執念が実ったものと思っています。

 住職さんの奥さんも活動家で町の教育委員をしたり何かとさわやかな風をふかしてくれます。娘さんも後を継ぎ昨日は納経所で納経帳を書いておられました。

 妻は束の間の時間ながら奥さんから精進料理に欠かせないゴマ豆腐の作り方を教わったり、息子夫婦のために安産のお守りを買ったりしていましたが、私たちと一緒に仏様に手を合わせる孫の姿もいいものでした。健やかに育って欲しいものです。

 成人式の講演も無事終り、帰りのコース沿いにある奥道後のホテルでバイキング昼食を3人で食べ、食事券とセットになっているジャングル風呂でひと風呂浴びて帰って来ました。

  「お願いは 自分の心に するものと 無理な願いは ほどほどにして」

  「世の中は 何処でもそうだ 風見鶏 冷ややか人が 手のひら返して」

  「この坊主 何処かの社長じゃ あるまいか 家は建てるし 温泉までも」

  「ゴマ豆腐 レシピをメモに したためる 妻に一声 料理は愛よ」 

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shin-1さんの日記

○三つのリンゴ

 私は毎朝リンゴとキャベツをもう二十年も朝食に食べているリンキャベ派です。リンゴとキャベツにどのような栄養素があるのか深く研究しているわけではありませんが、妻も私に見習って毎朝食べていて、それがよいのか殆ど病気もすることなく元気に働いていますから、これからも続けようと思っています。

 ところで今朝はまちづくりにつながる三つのリンゴの話です。まず一つは「ニュートンのリンゴ」です。ニュートンはリンゴが木から落ちるのを見て万有引力の法則を発見しました。私たちは日々の暮しの中で当たり前と思っていることがいっぱいあります。でも自分が一歩外に出た時、その当たり前が実は当たり前でないことに気付くのです。私の町のサイレンも一つの事例です。まちづくりが始まるまではあのけたたましい災害用のサイレンでした。子どもの頃からなっているサイレンですから何の疑いも持たずに暮らしてきました。ところが色々な町に行くようになってミュージックサイレンを聞くようになると、その音がまるで雑音にしか聞こえなくなったのです。「慣れると怖いなあ」と思ったし、この「雑音サイレンをミュージックサイレンにしたらさぞや快適だろうなあ」とも思いました。しかし気がついてもそれを変えるだけの勇気と行動がありませんでした。幸い私はまちづくりへの参加参画を促すセクションに異動したのを機にみんなにその話を持ちかけ、ついには無線放送で夕日の町に相応しい現在の「夕焼け小焼け」の音楽に変えたのです。町のイメージは音という世界で一変しました。これはニュートンの「発見」というよりは「再発見」かもしれません。でも身の回りにあるものでも「再発見」すれば価値があるものは随分あるのです。

 二つ目は「アダムとイヴのリンゴ」です。このリンゴは禁断の実ですから毒があるということをみんな知っています。だから百人が百人手を出さないのです。私が出会った夕日はまさに禁断の実であったように思うのです。「双海の夕日が美しいから地域資源にしてまちづくりをしたらどうか」という私の提案に、「夕日なんて日本中、世界中何処にでもある」とみんなが口をそろえて反対しました。私はみんなが反対するから成功すると思い「夕やけプラットホームコンサート」を思いつき実行しました。かなり激しい足引張りにも耐えながら20年間、様々な夕日夕焼け物語を作る努力をした結果現在の夕日の日本で一番美しいオンリーワンの町になったのです。皆が賛成するようなもの全てがいいものとは限りません。賛成しないリスクを乗り越え初めて甘い果実に行き当たるのだと思うのです。私の町はかつて「町名変更」という町を二分するような大騒動を経験した町です。町外の人から見れば町の騒動は恥ずかしいことに見えますが、実はこの「町名変更」騒動で培った町を二分する大議論が「反対意見も賛成意見もお互いが言い合う土壌が育っていたのです。リンゴに毒があっても抵抗があっても挑戦していく、アダムとイヴのリンゴは「挑戦」し続ける教えです。

 三つ目は「ウイリアム・テルのリンゴ」です。人間の頭の上に乗せたリンゴを弓矢で射抜くことなんか普通の人では出来っこありません。ですからそんな場面に出くわしたらみんな目をそむけ誰もやろうとはしないのです。人間は何気なく生きているようでもそれなりに目的を持って生きているものです。昨日まで正月でした。殆どの人が神社やお寺に初詣に出かけ、あるいは自分の家の神棚にお光をあげて今年一年の願い事を神に祈ったはずです。これはある意味個々人の目的であります。今年こそは日記をつけよう、タバコを止めようなんてささやかな目標を立てるのですが、一週間、一ヶ月するとその目標は計画倒れに終わってしまうものです。人間の心の弱さは万事こんなものです。

 私は夢を食べる人間のようで、シーサイド公園に「童謡の小路」を作る計画を考えました。しかしお金がありません。シーサイドのあちこちに童謡の歌碑を数箇所設置する構想には250万円ものお金が必要でした。でもその夢に投資をしてくれる郷土出身の篤志家がいて実現したのです。童謡の小路はささやかで小さな目的でした。でも頭の上に乗せたリンゴという「目的」を射抜くためにはしっかりとそれを見据えなければなりません。そうすれば無理だと思ったリンゴを貫通することができるのです。

 「ニュートンのリンゴ」も「アダムとイヴのリンゴ」も「ウイリアム・テルのリンゴ」も一つだけでは上手く行きません。まちづくりには三つのリンゴが必要なのだと思ういます。

  「ニュートンは リンゴ落ちるで 引力を 私は何を 発見するのか」

  「アダム・イヴ リンゴ食うなと いう教え 敢えて食うのも 挑戦ですよ」

  「ウイリアム テルはリンゴを 矢で射抜く 目的持てば 実現するもの」

  「なるほどと 三つのリンゴ 理解する 見る食う射抜く 力量必要」 

 

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○今治市玉川町の成人式

 今日1月3日は私にとって今年の初仕事で、今治市玉川町の成人式に招かれ出かけました。玉川町へは越智郡玉川町の時代からもう二十年も通っていますが、その当時から顔なじみの井出サツミさんは役場を退職された後も請われて公民館長をやっていますし、越智憲行さんも教育課長として活躍しています。さらに当時公民館のマスコットガールだった渡部妙子さんいて、まるで親戚へ里帰りするような懐かしい雰囲気で出迎えてくれました。昨年11月井出館長さんから、相次いで越智課長さんからお声を掛けてもらったので、むげに断ることも出来ず喜んではせ参じました。

 しかし今時の若者、特にこのところ何かと話題に上る成人式については、毎年何処かのまちの成人式の記念講演を頼まれて行くのでですが、何処となく不安で、どんな話をしようかと迷いながら行くのです。今日もそんな少しばかりの不安を胸に壇上に上がりました。今日の会場はグリーンピア玉川という立派な文化施設で会場には約80名ほどの成人者と恩師のような先生、それに地元出身の市議会議員さん程度の来賓、でかつてのような沢山の来賓に囲まれた華やいだ雰囲気ではなくごくシンプルな成人式でした。

 固定席には和服姿の着飾った女性に混じって紋付袴とスーツ姿の男性がお行儀よく並んでいました。最前列には私の話に敏感過ぎるほど反応するド迫力の若者が陣取っていました。普通の講師だともうこれだけで圧倒されるのでしょうが、そこは昔から今日まで若者の現状を体験しているので、むしろその若者たちに焦点を当てながら面白おかしく飽きないような、それでいて少しためになる話をしました。「あっという間の一時間だった」「ええ話だった」など記念撮影の合間に新成人と交わした会話からは概ね良好な反応が帰って来ました。そしてあの最前列の若者たちが別れ際数人ハイタッチをしてくれたのです。嬉しいですね。

 最近は成人式に記念講演などのような催しはどんどん姿を消しています。若者を交えた実行委員会でも記念講演は嫌だという若者の発言が主流を占めて、若者の要求テーマが通る形が良しとされるような風潮になってきました。しかし成人式は大人への仲間入りの大切な儀式です。若者にとって必要なテーマをきっちりと叩き込むことも大事なのかも知れない思います。

 「朝4時に起きて美容院で着付けと化粧をしたので少し眠い」とあくびをするあどけない着飾った娘さんや、紋付袴の意味さえも分らず高いお金を出して貸衣装を借りて出席した男性を、ここまで育てた両親の苦労は大変だったんだろうなと、一人一人に壇上から目をやりながら約一時間話した私の話が、若者たちの心に染みたかどうかは分りませんが、それでも胸のポケットから紙切れを出し時折メモをしている3人ばかりの若者の姿を見ました。今までの成人式にはなかった光景でした。

 記念講演と記念写真撮影が終わり妻の迎えの車に乗るとき「おいちゃんありがとう」と声を掛けてくれた何人かの言葉に胸を熱くして会場を去りました。

  「若者は 話を聞かない 言うけれど 俺の話は ちゃんと聞いたよ」

  「前列に 座った茶髪の お兄ちゃん 俺と掛け合い 面白可笑しく」

  「三万円 出して着飾り 式に出る 親の懐 脛も小さく」

  「もしあげる 言われりゃ俺は 若さだな 若い頃には 気付かず今は」

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○脳の活性化

 「私は元々頭が悪い」と思っています。だって高校3年、中学3年の合計6年も英語を習っているはずなのに、世界の共通語といわれる英語ですら話せないのですから余程頭が悪いのでしょう。それに加え年齢が高くなるにしたがって物覚えも悪く、物忘れも多くなってきました。他の事は別として私は人の名前を覚えるのが得意でした。ですからかなり前に知り合ったり出会った人は妻が驚くくらい今でも良く覚えているのです。ところがつい最近、愛媛大学法文学部の非常勤講師をするようになって僅か20名余りの大学生の名前を覚えられないことに気付いたのです。一週間に一回の授業では毎回講義前に出席簿に沿って名前を読みあげ返事を求めてチェックするのですが、学生は全国から集まっていて読みにくい名前が多く、そのことに集中するため出席簿に目が行って本人の顔と名前が未だに一致しないのです。何とか一年間で覚えたいと思っていましたが、結局は一講義間隔が週間というスッパンの長さもあって覚えずに今年の講義を終わってしまいました。ああ嘆かわしきかなわが脳は・・・・・・。

 物覚えの悪さは年齢のせいだと誰もがいいます。私もその言葉を信じていました。しかしある人が言っているように、社会の雑念や関係者の少ない子ども時代や若い時とは比べようもないほど歳を取れば取るほど知り合いの数も増え、会う人も多いのだから、名前を忘れたり覚えきれないのは当たり前だで何の不思議でもないという話は、私の頭の悪さのせいではないことに気付かせてくれたのです。私たちは絶えず忘れるというストレスを抱えています。ですから忘れまいと努力をするのですが、努力すればするほどストレスの度合いは高くなって、ストレスが物忘れを誘発するのです。

 しかし物覚えが悪くなったり物忘れがひどくなったことを歳のせいにして何もしないのでは、かえって脳は退化するそうです。脳には前頭葉というのがあって、判断力、想像力、抑制力、忍耐力、意志力、好奇心など人間らしい能力をつかさどっていますが、これらを活性化して活き活き人間らしく生きていくためには脳の活性化を心がけねばならないのです。もの覚えの裏側に脳の活性化が必要なのです。本を読んだり人と話をしたりしながら絶えず脳が活性化するよう訓練すれば百歳はおろかそれ以上に生きてゆけるのです。勿論能力を保つ体力も鍛えねばなりません。人間にとって能力と体力は車の両輪なのです。

 私の能力の鍛え方は読むこと、聞くこと、見ることという知識習得と同時に書くこと、喋ること、実践することという知恵放出に重きを置いています。特に書くことはものすごく脳を鍛錬してくれるような気がします。この一年殆ど毎日書いているブログは大きな成果をお染めているように思えるのです。しかしパソコンに向かって文字を打つ書くという作業にも悲しいかな欠点が見えてきました。それはキーボードは叩いて文字の変換はするけれど、文字を手で書かないため文字を忘れるのです。現代人は電子文字に頼っているため、文字を忘れているのです。そのためこれまで二十年にわたって続けてきた一日三枚のハガキを書くことという日課が随分役に立っています。文字は手で直接書かないと忘れやすいということも肝に銘じています。

 昨日の朝、親父がメガネを探していました。「歳を取ると忘れることが多くなって困る」と自分に言い聞かせるようにボソボソと言っていました。90歳になる親父に「脳の活性化」について幾ら言っても馬の耳に念仏ですので言いませんでしたが、歳のせいではないということを、やがて行く道として私自身の脳に叩き込んでおきたいと思います。脳は鍛えようで幾らでも活性化するのです。

  「物忘れ ひどくなったと 嘆くより 本のひとつも 読んで訓練」

  「ああ俺も 歳になったか 探し物 多くなったと 今から諦め」

  「忘れずば 爆発するぞ 俺の脳 全部覚える ことは出来ぬわ」

  「脳はノー パソコン打てば 変換す これを直すも 脳の訓練」

 

 

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○坂本龍馬もう一つの魅力

 四国といえば明治維新の折に活躍した薩長土肥といわれる各藩出身者の中でも、世代を超えてずば抜けた知名度を持つ坂本龍馬の出身地です。四国山脈で分けられた高知や徳島は太平洋を見て育つ風土でしょうか、吉田茂や三木武夫など気骨な政治家を生んでいますが、坂本龍馬に比べたら比ではないほど話題に富んだ人物なのです。坂本龍馬については前にも触れましたが、彼の生い立ちを語る時必ず登場してくるのが三歳年上の乙女姉さんです。しかし彼が存分に発揮した商売の才覚と武士の剛健さを思う時、どんな人が彼の生き方に影響を及ぼしたのか調べてみたい気持ちになるのです。

 坂本龍馬の母「幸」は龍馬が12歳の時39歳の若さで亡くなりました。一年後龍馬の父八平は「伊与」という後添えを娶るのですが、実はこの義母が坂本龍馬の生き方に大きな影響を与えているのです。伊与は大変出来た人で薙刀のが達者でしたからその影響で龍馬も薙刀から剣術の修行を始めています。

 伊与は今でいうバツニですが下級武士北代家の娘です。その北代家の三つの教えが残っています。一つは「先に手を出すな」、二つは「やられたらやり返せ」三つは「男は強く、優しくあれ」というものです。この家訓を伊与は少年の龍馬に強く諭して育てたようです。竜馬は三十三歳という若さでこの世を去っていますが、彼の人生を振り返ってみるとまさにこの三つの教えを実行していると思うのです。

 彼の生きた時代は明治維新という日本にとっては革命ともいうべき時代でした。脱藩、暗殺など今でいうテロの横行した時代です。危険人物として彼も再三再四刺客に狙われますし、自分も刺客まがいのことをやっています。しかし彼がテロリストにならなかったのは、「先に手を出すな」という家訓が体に染み付いていたからかも知れません。結局は自分の身を守るためピストルという飛道具を手に入れ寺田屋で発砲していますが、あれほどの使い手ながら手を出さない相手には決して手を出さなかったのです。

 決して先に手を出さなかったけれど「やられたらやり返せ」というのも面白い教えです。「いろは丸事件」というのがあります。広島県鞆の浦で紀州の帆船「明光丸」と衝突して、海援隊が借り受けたいりは丸は沈没しました。幕末というけれど紀州といえば徳川御三家、その紀州を相手に万国公法を武器として八万三千五百両という当時としては破格の賠償金を勝ち取っているのです。これも「やられたらやり返す」教え通りだと思うのです。

 「男は強く、優しくあれ」という言葉は、男の私にとっても永遠のテーマなのですが、平和な時代になって優しい男は随分と増え巷に溢れていますが、強さと優しさを併せ持った人はそんなにいないのではないかと思うのです。竜馬の生き方は様々な人が微妙に絡み明治維新という時代の潮流の中で大きな足跡を残しましたが、伊与という義母の存在を思う時家庭教育というものがいかに一人の人間に大きな影響を与えるのかが分るのです。

 殺すつもりで行った勝海舟に地球儀を見せられて世界を知ったという通説も、伊与の嫁ぎ先下田屋に今でも残っている天保年間に発行された世界地図から推し量れば、勝海舟に会う前に世界を知っていたようにも思えるのです。ジョン万次郎が土佐藩に返ってきたとき事情調査をして「漂撰記略」というレポートをまとめ藩主山内容堂に提出した」河田小龍との付き合いで世界観を身に付けていたようです。

 数えればきりのない竜馬の魅力を巡る様々な事例を思う時、人間は人によって人となるということです。人間が人間たる由縁は

パソコンでもなく人の間「人間」なのです。

  「ああ俺は 龍馬の倍も 生きている だのに成さない 成さぬからだと」

  「伊予は伊与 龍馬脱藩 伊予~長州 伊与の教えは 今もご立派」

  「龍馬より 勝れるものは 何だろう 車パソコン それは道具だ」

  「男とは 強く優しく いうけれど 両方備えた 人は少なし」

   



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○知識化された社会と感じられる社会

 私たち人間は50年前、いや10年前と比較してみただけでも随分沢山の知識を習得するような知識環境になってきました。自然が危ないとか地球温暖化を食い止めるためにはCO2を削減すべきだとか、環境問題だけに特化しても様々な知識を持つようになりました。しかしそれほどの知識を得てもまだ「べきだ論」を吐き、まるで絵空事のようにやらないことをやれないと他人に転嫁しながら生きているのです。現代の文明は見た目には進化し知識化された社会を作ってきたように見えますが、一方で私たちから感じられる世界を失わせたように思うのです。

 日ごろの何気ない暮しの中では感じられる世界がどんどん狭められているように思うのです。今朝目覚めてパソコンの前に座る。スイッチを入れたパソコンの画面からは検索さえすれば沢山の知識がどんどん入ってきます。しかしそれは単なる知識であって、その知識を得ようとすればするほど感じる世界が遠のいてゆくことに気付くのです。朝起きて外に出て感じる外気の冷たさや風の音は私たち人間にとって一体何を意味するのでしょう。肌や目、耳など五感で感じられるものは、最早そのことを忘れた人間にとっては人間性を回復する大きな力になるはずなのですが、それらは現代人がものの価値と定めているお金などの損得勘定からすれば何の価値もないものかも知れないのです。でも陽射しの温かさや川の水の清らかな流れも、感じられる社会として価値があることを忘れてはならないのです。

 最近の人間社会は感じられる部分が少なくなりました。家族という一つ屋根の下に住んでいる最小の集団さえ別々に生き、別々なものを食べ、別々な部屋で暮らしています。故に尊属殺人のような家庭内犯罪や幼児虐待など日本の社会ではこれまで希だったことが日常茶飯事の如く発生しています。四季の恵みの中で行われてきた年中行事もコミュニティの崩壊によって季節を感じられなくなってきました。第一次産業といわれる生産活動からは自然、人間、村社会の力強さや矛盾さえも包含して感じられる社会でした。

 日本が大きな近代化を果たしたのは幕藩体制が崩れ欧米の物質文明を真似た明治維新と、第二次世界大戦に敗戦しアメリカのこれまた物質文明を真似た戦後でした。物質文明的には豊ではありませんでしたが、少なくとも明治維新前までの日本には感じられる社会があったと思われるのです。どうやら日本人は物質文明の豊かさを手に入れた反面、感じられない社会に船出してしまったようです。

 知識化された社会を否定して生きていくことはとても勇気のいることであり、多分知識化された社会の恩恵を受けた者にとっては至難だと思うのです。でも本当にその人が人間として感じられる社会に生きようとするならそれは決して難しいことではないことだと思うのです。私たちは、いや私はもう一度「感じられる社会」と「知識化された社会」の一体性を取り戻す努力をしたいと願っています。

 宵も悪いも含めた感じられる社会の実現こそがこれからのまちづくりかもしれません。

  「感じずに 知識化された 社会生き ただ漠然と 暮らす愚かさ」

  「少しだけ 自分の内面 覗き込む 矛盾頭を 持ち上げてくる」

  「年賀状 心をゆする メッセージ 幾つかありて しばしふけれり」

  「世の中が これ程知的に なりとても 禅教極めた 坊主にゃ勝てぬ」


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○原因はバッテリー

 一年間お世話になったわが愛車プラッツの洗車をしようと車庫に入り、エンジンキーを差し込んで始動しようとしたのですが、グズグズという鈍い音だけでセルが回らず、エンジンがかからないのです。エンジンルームのカバーを開けては見たものの一向に原因がわからず、結局は近くの自動車屋さんに来てもらう羽目になりました。馴染みの自動車屋んは、電話口で「はい分りました。エンジンがかからないのですね」と言っただけで早速5分も経たないうちに新品のバッテリーを積んでやって来ました。「バッテリーが寿命のようです。取り替えますか」。「はいお願いします」と言うなりさっと取替え、エンジンを始動すると先程の鈍い音とは見違えるような軽やかな音でセルが回りエンジンの音まで軽やかになったような気がしました。年末で仕事を終えようとしていた好時期でのハプニングだっただけに6千円の想定外出費も、旅先や新年早々のトラブルでもなく「まあいいか」てな感じで受け止めました。

 それにしてもバッテリーにも寿命があることを始めて知りました。自動車屋さんの話によると最近のバッテリーはまず4年くらいが限度だろうと言われました。私の場合このバッテリーは新車から変えたことがなく6年も持っているのですから十分元は取った計算になります。バッテリーは使うほどいいようで、たまに車に乗る人のバッテリーは寿命が短いそうです。

 さて人間たる私のバッテリーはどうでしょう。バッテリー液を入れると同じ手入れと新しい電気を充電すると同じ学びが必要だと思いました。バッテリー液は手入れです。いくらいいバッテリーを持っていても手入れが悪いと年末のように声が出なくなったり腰痛に悩まされたりします。酒もタバコもコーヒーもやらない私の発散は余りありません。趣味は適当にあるのですがそれもストレスを解消する所まではいっていません。妻と約束した「定年後は旅行でも」も「定年退職記念カナダ旅行以来ご無沙汰ですし、人間牧場もバッテリー液のような役割を果たせないままです。今年はバッテリー本体の手入れをして、長持ちするような工夫をしたいものです。腰痛を直すため整体院に出かけましたが、その際も先生から体をいたわって使うように懇々といわれました。年が明けて今年の一月は既に日程が立て込んでいるようなので、この点に注意をして快食・快眠・快便に健康的なリフレッシュを加えたいと思っています。

 もう一つ、バッテリーに欠かせないのは充電です。昨年も様々な人と情報のネットワークで学びの充電をしてきました。しかし悲しいかな昨年一年間を振り返ると凄いと思うような電気ショックや異文化ギャップには出会いませんでした。それは私の行動範囲が広いようでも実は深みがなかったのだと思います。広さはこれ以上広がらないのですから深みを出す工夫が必要です。そのためには一つ一つの仕事に思いを込めて生きることしかないのです。今までの私は既に充電した電気で動いていた感じがします。新しい電気を起しそれを充電することは、容量を増やすことと古い電気を捨てなければなりません。古い電気はもう役に立たないのですから入れ替えが必要でしょう。

 新年を迎えるにあたり、自分のバッテリーについて考えてみました。

  「バッテリー 人も車も 同じです 古くなっては 動くはずなし」

  「捨てないと 知識も知恵も 出入らない 古くなったぞ 俺の頭は」

  「早起きし メル友宛に メール書く 新春正月 俺の決意を」

  「一年の 計は元旦 決意して 胸張り神に 二礼二拍手」

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○いろはカルタ

 私たちが子どもの頃の正月の遊びは凧揚げやコマ回しなど、戸外で遊ぶことが多かったことを覚えています。その凧も山から切り出した竹を割って竹ひごを何本も削り、紐で縛って和紙を糊付けして丸一日で仕上げた手づくりです。新聞を細長く切り何枚も張り合わせて長い足を作り、凧を背中で弓のように張って風受けがよいように調節するのも子どもの腕ででした。父親から貰った魚網修理用の糸をつけ、助走をして冬空高く揚げた凧はまるで空に吸い込まれてゆくような錯覚さえ覚えたものです。時には電線や木の枝に引っかかり、せっかく造った凧を台無しにすることもありましたが、肥後の守というとっておきの小刀が味方して何度も作り、自分は凧作りの名人ではないかと思うほど優越感に浸ったものでした。

 コマは喧嘩ゴマという重厚な鋳物のハマがついているものが好まれ、歳の多い高学年になるとそのコマでコマ喧嘩や長い間回す時間を競ったりしました。友達や先輩の中には器用なものがいて、まるで曲芸人のようにコマを手のひらに乗せたりコマ糸であやつったりして遊びました。特にコマの表面にクレヨンで色をつけ、回る色移りを競うなど美的感覚も競い、コマ一つで何種類もの遊びを考案したものです。

 この他にもパッチンやマーブル、ネンガリなど高々100円程度の小遣いをポケットに握り締めて店先を行ったりきたりしながら小遣いで買えるものの品定めしたのも懐かしい思い出です。

 女の子の遊びは男の子の遊びに比べおはじきや双六、いろはカルタなど室内の遊びが多かったようですが、特にいろはカルタは今にして思えば多くの難しい言葉が詰まっているのに、意味も分らず「律儀者の子沢山」なんて大声で詠んでは取り合ったものです。

 昨日孫を連れてデパート内にある本屋さんへ立ち寄りました。昔は少年向きの雑誌に正月用は付録が沢山ついていて、その付録欲しさに買ったものでしたが、孫はカルタの前で足を止め、「おじいちゃん子のカルタ買って」とせがむのです。子どもの遊び方はは変わってもカルタは沢山のバリエーションが用意されていました。孫が手に取ったのはいろはカルタではなく恐竜カルタでした。恐竜に凝っている孫はこれが欲しいとせがみ千円をはたいて買いました。孫は得意になって店員さんから手渡された袋を持って帰り早速カルタで遊びましたが、私にはトンチンカンな恐竜の名前も孫は驚くほどよく覚えていて、「おじいちゃん知らんの?」てな調子です。トリケラトプスやティラノサウルス、ステゴサウルスなど馴染みの名前が出る度に僅か4歳の孫に62歳の私がかわないのです。

 「犬も歩けば棒に当たる」「せいてはことを仕損じる」「老いては子に従え」「嘘から出た誠」「論より証拠」「骨折り損のくたびれ儲け」「楽あれば苦あり」「身から出た錆」「「去るものは追わず」「割れ鍋に綴じ蓋」「「塵も積もれば山となる」などなど、子どもの頃に覚えたいろはカルタの諺は今も暮しの中に生きずいています。

 明日はお正月です。忙しい年の瀬もやっと越せそうです。今日は妻の作ったおせち料理の余分物を食べながら、また年越しそばを食べながら、お産で旦那の実家に里帰りしない娘と孫、長男夫婦、次男、それに還暦の同級会のために里帰りした弟夫婦、親父と久しぶりに賑やかな越年です。警察官の三男だけは仕事の都合で3日の帰省になりそうですが、今年もいい一年だったとしめくくり、ブログの書き収めとします。

  「いろはなど 今は昔の カルタです 孫に恐竜 カルタで負ける」

  「正月の 遊び随分 変化して 子どもらゲームで チンプンカンプン」

  「穏やかな 天気恵まれ つもごりを 掃除で過ごす 何処か晴々」

  「また歳を 一つ取るかや お正月 目出度いけれど 目出度くもなし」



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○年末のお客様

 今年の年末は喉と腰を痛めたせいで家にいることが多くなり、その分電話やメールで「お会いしたい」とアポイントが多くありました。年末は家の大掃除や仕事の後片付けで普通の人は忙しいはずですから、会いたいと言ってくる人は独身で家庭を持たない人か単身赴任で帰省しない人くらいなものでしょうし、家庭を持っている人だったら相手が急がしかろうと思って控えるのが普通なのです。でもこの2~3日の来訪者はそんなことお構いなしにやって来るのです。でも一日中家で忙しいという訳でもないので、来たら来たで結構楽しく話し込んでしまうのです。

 今日高知大学の学生で双海町出身の堀川奈津さんがわが家にやって来ました。彼女は3回生なのですが一年後にに迫った卒業後の夢についてお互いで話しこみました。彼女は高校の時一年間休学をしてフランスに留学した優秀な変わり者です。親の元から離れたい気持ちがあって大学は県外を選んだようです。人文学部に在籍しながらインターンとして奈半利の町のまちづくりに半年関わり、地域の人に愛されて珊瑚の海や自然学校のある山の上での生活体験が彼女の生き方に大きな影響を及ぼしたものと思われます。先日私のメールに便りが入り、今後の身のふり方について既に農家から農場と空き家をセットで借りて準備をしているとのことでした。彼女は高知に行って坂本龍馬のおおらかな、それでいて将来を見据えた生き方を学んだのかも知れないとふと思ったりしました。

 私の町にこんな凄い若者がいるなんて今の今まで気付きませんでした。多分これから親や社会や他人に何度もはじき返されるのでしょうが、挫折することなく人生を突き進んで欲しいと思っています。でも親の気持ちを考えると優秀な女の子ですから月並みに大学を出て月並み以上の安定した会社に入社し、月並みな青春時代を送り月並みな結婚をしてささやかな幸せを追って欲しいと願う部分もあります。あどけなさの残る容姿の何処にこんなパワーが潜んでいるのか不思議です。

 彼女とは四十歳歳の離れた私ですが、彼女と話していると私の方が教えられることが多く、今日も私塾本川談義所講義録「渓声山色」という読み古した一冊の本をカバンの中から取り出し、私に読むよう勧めてくれました。パラパラと捲りながら正月休みに読んで見たい本のようだったので借りることにしました。やはり冒頭に坂本龍馬の下りがありました。なるほどなと思いつつ彼女を実家のある満野まで送り届けましたが、聞きしに勝る才女です。

 最近言い生き方をしている若者に出会うことが少なくなりました。私たちの年代には老いてなお元気で若々しい人が沢山いるのに、若者から若者らしいテレパシーが伝わってこないのは何故でしょうか。若者よしっかりといえばそれは年をとった証拠だと揶揄されるであろうから余り言いたくはありませんが、それでも若者の若者らしくない言動にはため息すら漏れるのです。そこへゆくと堀川奈津さんという女性は考えもパワーも全て私のメガネにかなった久々の人かも知れません。彼女がいい人間に育つよう陰ながら支援したいものです。

  「この歳は 俺など単純 何もなし しっかりしてる 育てやらねば」

  「太平洋 見ながら育つ ことの意味 龍馬そのまま 俺は内海」

  「幸せは 何かと問われ 禅問答 己が心の 決めるものなり」

  「この本を 読んでと差し出す 一冊に 己が生き方 書いてあるのか」 


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○新聞のスクラップ

 昔はよくやった新聞のスクラップもさすがについ最近は余りしなくなりました。新聞のスクラップは目的を持つからこそ出来るのであって、今のようにインターネットで情報が簡単に取れるようになると、スクラップブックを捲って参考にするような悠長なことは中々できないのです。それでも双海町に関係する出来事くらいはとスクラップしているのですが、この整理と置き場に困ってこの一年間は休止状態なのです。

 昨日広島県福山市の平井悦夫さんから今年最後のときめ木堂の悦びタイムス153号ハガキ通信が送られてきました。平井さんは合併前の広島県新市町の役場職員ですが、ひょんなことから知り合いになり、私の主宰するフロンティア熟の講師としてお招きして以来密接になり、私が福山市の公民館へ講演に行った折にも一ギャラリーとして参加してくれるなど、親交を温めている一人です。彼の凄さはその行動範囲の広さとハガキ通信を153号も出していることです。彼に感化されてというよりは、彼が敬愛するハガキの達人広島県向島の半田正興さんと知り合い、結局は私も芋も続いている一日三枚のハガキを20年間も続けることになったのです。

 彼のハガキ通信に感化されて、私も手書きのハガキ通信を1年365日書き、そのまとめはワープロ時代だったものですから、ワープロのソフトに整理をしていれてありますが、感熱紙での印字しかできないため未だに幻の文章となっています。この本の出版もと思っていますが、何時のことになるか分りません。

 平井さんの今月号のハガキ通信に放送作家和田勉さんの記事が載っていました。和田さんと言えば向田邦子原作「修羅場の如くを演出した敏腕ディレクターという印象が強いのだが・・・・」という書き出しで始まる文章はハガキの短さゆえ想像を掻き立てます。そして和田勉さんの呆老氣展を見て感化されたと書いています。和田勉さんは毎日欠かさず新聞の切抜きを続けているのだそうですが、彼も今は日課として新聞の切抜きに余念のない日々のようです。

 さて平井さんは新聞のスクラップを「何のために」やっているのでしょう。和田さんのような生き方がしたいと思う動機はよく分ります。さらに新聞のスクラップは歴史の断面を切り取って保存することにも意味があります。やがて紙ごみとして消え行く運命にあるものに命を吹き込むことも意味があるでしょう。問題はその活用方法です。

 先日あるおじいちゃんの死んだ話を息子さんから聞きました。そのおじいちゃんは校長先生を最後に退職して悠々自適の生活をしていました。若い頃から写真と新聞のスクラップが好きでその数やおびただしく、おじいちゃんの死後家族が集まって、この写真とスクラップブックの処分について話し合ったそうです。生前中のおじいちゃんの宝物だけに粗末にすることも出来ず、結局は長男の息子さんが引き受けることになりましたが、部屋中にあるこれらの資料は長男の息子さんにとっては最早紙ごみでしかなく、図書館や知人友人に相談しましたが引き取り手がなく、結局はお金を出してリサイクルセンターに紙ごみとして引き取ってもらったようです。

 「死に方を考える」なんてことは、私にとってもまだ先のことかも知れません。でもふとこのおじいちゃんの生き方を思えばよく似た趣味を持つ故に他人事ではないのです。「お父さん、何時死んでもかまわんように身辺の整理を」なんて妻に言われると、「おいおいわしが死ぬのを待っているのか」と思いますが、それでもこのおじいいちゃんのように自分の趣味だった新聞のスクラップがただのごみにならないようにしなければなりません。幸いわが家では親父の趣味を親父の元気なうちから長男たる私が受け継ぎ、息子もよく似た感じで引き継いでいます。

 死ぬ前に新聞のスクラップも片付けておきたいこの頃です。

  「新聞の 切り抜き部屋の 片隅に これはごみです 他の人には」

  「スクラップ 人がやるから 俺もやる 一瞬考え 俺には無理だ」

  「一枚の ハガキ届けて 一五三 積もれば凄い 彼の生き様」

  「表まで びっしり書いても 五十円 同じ値段で 彼は得する」

 

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