shin-1さんの日記

○つぶやき

 この頃自分が何やら独り言を行っていることに気付きハッとしました。というのも昨日急に娘の体の調子が悪くなり、孫を幼稚園へ迎えに行かなければならなくなったのです。電話が入ったのが3時過ぎ、孫の顔を浮かべながら早速車を走らせて松山の繁華街にある幼稚園に迎えに行くと、孫は手を上げて車に乗り込んできました。「今日はどうしておじいちゃんが迎えに来たの?」と不思議がるのです。「お母さんが病院に入院することになって病院から帰れないから迎えに来たんよ」と言うと、「ふーん」です。

 やがて車に乗ると孫はお気に入りのCDをかけ手を振ってリズムを取り上機嫌です。片道40分の30分はお菓子を食べたり談笑しましたが、私の手枕で眠ってしまいました。やがてわが家について起したころ、娘から電話が入り電話に出た孫は母親と何やら話していましたが、納得したのか私を相手に恐竜のおもちゃや正月前に買ったカルタで楽しく遊びました。私の腰の悪さを気遣って、さすがに体を動かす遊びはしませんでしたが、そのうち私への電話やファックスが次々に入り、その対応のため「ありゃ、また電話か」とか、「今度は何処から電話じゃろうか」などと独り言をいったり、それらに対する反応をつぶやいていたようです。急に孫が「おじいちゃん誰と話しとるん?」というのです。孫の言葉に諭されてハッと我に帰った私は、自分が自分に対し、あるいは目に見えない誰かに対しつぶやいていたのです。

 こうしたつぶやきは誰にでもあることなのですが、特に歳をとった人には顕著で親父などは「一人だのに誰と話しよるのだろう」と思うことがしばしばあるのです。先日も自分のメガネを何処へ置いたか分らなくなって随分探していました。「待てよ、わしはここで確かにメガネを外したんじゃが」、「さっぱり分らん」と長い時間自問自答で行ったり来たりを1時間もしていました。「じいちゃん何を探しよるん」と聞くと、「メガネを何処へ置いたか忘れてしもた。わしも耄碌したものよ」と言うのです。見ると頭の上にメガネを置いているではありませんか。「じいちゃん頭の上にメガネはあるよ」と言って大笑いしました。

 心にある不満もつぶやきという形でどんどん出てきます。誰に聞かせるわけでもないけれど、結局は自分に対し話をしているのです。「ああ俺も歳を取ったなあ」と孫の一言で目が覚めたようでした。つぶやきシローなんて漫才家がいたように思いましたが、つぶやきの正体はは一体何なのでしょうか。

 「つぶやき」というタイトルでコラムを書いている友人を知っています。その友人に「つぶやく」って何と尋ねましたが、「自分自身しか知らないささやかな出来事」だとしか答えてくれませんでした。広辞苑によると「つぶやき」は「つぶやいて言うこと」、「つぶやいてくどくどと独り言をいうこと」だそうですが、分ったようで分りにくい解釈です。結局は独り言なのでしょうが、人間は口に出すか出さないかは別として、自分というもう一人の自分に話しかけながら暮らしているような気がするのです。

 今朝孫が幼稚園へ連れて行く最中、松前町の靴屋さんの前で「靴が窮屈になったなあ」と独り言を言うのです。その靴屋さんは私がムシキングという子どもに人気のシューズを買いに孫を連れて行った所です。自分の靴が大分古くなったので買ってもらいたいと天の声をなりすまし、私へ靴を買うよう仕向けているのです。すっかり知恵のついた孫のつぶやきに対し「古くなったら買ってあげる」と、我慢を強要しました。

  「おじいちゃん 誰と話を しよるのと つぶやき指摘 孫の一撃」

  「ああ靴が 欲しいとつぶやき 孫俺に 靴の欲しさを それとはなしに」

  「親父ボケ 頭の上に めがね置き 何処へ置いたか 探す滑稽」

  「俺は今 何をしようと してたのか 一瞬ハッと ボケが始まる」

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○老いを迎える不安

 数日前、親父と長年親交のあった友人善徳さんが亡くなりました。誰かが死ぬと普通は小さな田舎町のことゆえ、口から口へと噂話が伝わるのですが今回ばかりは伝わらず、結局善徳さんの死を知ったのは葬式が終わってからでした。妻が職場で聞いてきたようで、「どうも善徳さんが亡くなったらしい」というのです。善徳さんの家の近くに住んでいる人に確認したところ、葬式は既に済んでいるとのことでした。急いで香典を用意し遅まきながらのごあいさつとなってしまいました。

 善徳さんと親父は同じ漁師仲間で、親父の船と善徳さんの船でペアーを組んで2艘漕ぎという漁法で魚を取っていました。戦後の活気に満ち溢れた時代でしたから、漁獲はあったものの販路が限られていてそんなに飛び切り儲かったという話は聞きませんでしたが、それでも瀬戸内海から宇和海まで幅広い漁場へ出漁し、特に南宇和郡深浦などを基地として活躍したようです。

 親父は大正7年の生まれですから今年89歳になります。ある部分の強さを持っていますが日々老化が進み、最近は脛の具合も悪くなって少し弱気な発言が目立つようになりました。それでも昔人らしく律儀に生きて身の回りのことは殆ど自分でこなせる自律老人なのです。

 「善徳さんが亡くなったので葬式に行こうと思ったが、善徳さんが亡くなったのを知った時は葬式も終わっていて、香典を持って挨拶に行ったよ」と親父に話しかけると、急に落胆し善徳さんにまつわる様々な思い出を語り始めました。お互い子沢山の長男に生まれたこと、二艘漕ぎで切磋琢磨しながら沢山漁をしたこと、深浦で多くの人に世話になったこと、善徳さんの兄弟のこと、先日下灘の診療所で顔をあわせ声を掛け合ったことなど、涙を流しながら話してくれました。そして最後にポツリ、「いよいよわしの番になった」と死ぬ順番の来たことを寂しく話すのです。「大病(ガン)を患った時はわしが一番先に死ぬとみんなが噂しよったが、噂した親しい人はみんな先にあの世に行ってしまった。AさんもSさんもBさんも死んで、おらより年上はCさんだけだ」と嘆いていました。

 人間の死亡率は100パーセントですからはいつかは死にますが、歳をとると死への不安が毎日募るようです。年末には7年前に亡くなったお袋が「夢に出てきて色々話をした」とか、「墓参りするのに少し遠い場所になったのでお墓を近くに移転してはどうか」などと、認知症ともとれる発言をしたりするようになり、日々の暮しの中で少しずつ明らかに歳を感じるようになりました。

 でも元気です。年末には還暦の同窓会のために帰省した弟夫婦と隠居で水入らずの正月を過ごしたり、年末に愛用の冷蔵庫が傷んで使用不能となり、電気屋さんに出かけて大型の冷蔵庫を買ったりして、数年後の暮らしの備えをしているのです。言動のチグハグさは相変わらずですが、老いへの不安や死への不安を取り除き、生きる悦びを与えてやれるのは私たち家族だけなのだと思いつつ、今朝も隠居へ親父の様子を見に行きました。今日も元気なようです。27年後の私の姿が隠居の親父にダブって見えました。

  「友人が 死ぬ度親父 俺の番 来たと弱気な 発言飛び出し」

  「親父見て 二十七年 後の俺 見ているようで 少し寂しく」

  「冷蔵庫 でっかい方が いいという 何年生きるか 親父算段」

  「毎日が 楽しい日々と 父が言う 孫につくろう 虚笑寂し」  

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○久しぶりの煙会所

 この1年半余り、人間牧場の立ち上げにうつつを抜かしていて、自分の足元を見る余裕がなかったのか、家の横に設置している「煙会所」の利用は見学コースや座談程度でした。しかし一昨日人間牧場への来訪を希望しながら台風並みに発達した低気圧の影響で海山ともに大時化で、事故でもあっては大変と急遽煙会所へ場所を変更させてもらいました。雨は収まっていましたが強風の中来た人たちは、てっきり人間牧場へ行けるものと期待をして来たのですが、残念かな煙会所での語らいとなって少しガッカリした様子でしたが、それでも煙会所の魅力を満喫していただきました。

 煙会所には囲炉裏があります。人が来るというので私と親父は朝から大掃除です。4畳半の狭い部屋ながら畳を拭いたり囲炉裏に火をおこしたり、便所の掃除をしたり、また妻は囲炉裏に掛けて温かいものをとおでんを作ったりしました。私は数日前から腰の調子が思わしくないけれど、それでも妻の友人で中年の美しい女性が6人も来るとあって俄然張り切って腰の痛さに耐えながらお世話させてもらいました。

 女性らしくお約束の時間きっかり11時に2代の車に分乗してやって来ました。私と妻を含めると8人で4畳半の部屋には丁度半畳にひとり納まる勘定で、それから5時間余り食べたりしながら賑やかな話に花を咲かせました。


 この方たちは伊予市民生委員女性部の方たちで、妻も同じ会に所属しているので先日の忘年かで人間牧場のことが話題になって、忘年会会場から電話が入り今日のセッティングと相成ったわけです。女性3人寄れば何とやら、まさにかしましいお話でした。私もあちらこちらの民生委員会に話に行く機会もあるので、様々な話題を提供し、最後は私の自費出版の本にサインまでさせてもらう念の入れようで、人間牧場へ行けなかった分だけの楽しみを味わったのです。この6人の方は長年民生委員をしているだけあって考えが素直で話題も多く、人のためにしてあげる幸せを実践している人間的な奥行きの深さを感じました。

 それにしてもわが妻の凄いと思うのは、これまで百回を超えるであろうこの煙会所の利用について、何の文句も言わず手料理を作ってお客さんを賄ってくれたことです。酒飲みや遠来の友、講演に来た先生、近隣のおじさんおばさん、大学生、PTA役員、公民館人など、各界各層の人に合った料理でもてなしてくれたのです。私の人脈はこの煙会所から広がったものが多いので、妻の内助の功は口では言い表せないほどです。今でこそ有難いそぶりをする私ですが、若い頃は当然とばかりにこき使い、ねぎらいの言葉ひとつも掛けなかったように思い、多少ではなく存分に自責の念に駆られています。

 人の悦びが喜びと話す妻にお返しをしたいと思い、少しの手助けをしましたが、かえって腰の具合を悪くしてまた迷惑をかけてしまいました。

  「手料理で もてなす妻の 有難さ 来客嬉し 手を振って去る」

  「フーフーと おでん食する 人を見て あったか気持ち 妻の笑顔に」

  「喜びは 妻の笑顔が 一番と この頃気付く 少し遅いわ」

  「腰砕け そんな言葉と 同じ身に なっても笑顔 お客商売」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○情報とは何か

 私が「情報化社会」という言葉を聞いたのはもう30年も前のことでした。ペーパーでしか情報が取れなかった時代に、電子情報の波がやって来ることを予知した未来学者がいたのです。しかしその当時はそんな情報が私たち庶民に及ぶことはないであろうと思っていましたが、そのスピードは速く日本もあっという間に情報化社会に飲み込まれ、私たち庶民ですら電子情報なしでは語れない時代になったのです。でも一口に情報といっていますが、「情報とは何か」と言われたら説明に困るのも今の世の中なのです。私たちは日々の暮しの中で何気なく使っている「情報」という言葉の意味を今一度考えてみる必要があるようです。

 私たちの受信している情報には聞き流し情報や必要情報に加え重要情報というのがあります。大河の如く流れている情報の中から必要情報や重要情報を取り出し、自分流に加工して生かしたり保存したりして活用するのですが、パソコンとは便利なものでそれらの情報をしっかりと記憶させしまっておくことが出来るのです。広い場所も取らず僅かな操作で必要な時に必要なだけ多少の時間と費用がかかっても情報が取り出せる現代はやはり便利な世の中なのです。しかし聞き流し情報であるはずの情報に目と手と感覚が行ったばっかりに思わぬ失敗をする事だってあるのです。私のパソコンにも迷惑メールと称するメールがどんどん入ってきます。エッチな動画を伴ったメールなどは男だったら誰でものぞいて見たくなる刺激的なものが多いのです。またインターネットで先物取引やバーチャルモールでの商売も出来ますから、うかつに手を出すと大変な事件に巻き込まれたり大失敗をするのです。要は何が大事で何を必要としているのかしっかりと判断する力がないと情報の誘惑に負けてしまうのです。今は自己責任の時代ですから失敗しても誰も助けてくれないのです。

 私たちが普通情報といっているものの殆どはデータです。データに人間の知恵を加えたものが情報なのです。つまり自分や集団にとって不利益なデータは情報ではなく、極論すれば利益をもたらすものが情報だと整理をしてみました。

 情報は人によってネットワークを広げてゆきます。人と情報のネットワークを持っている人こそ情報化時代に生きている人なのだと思います。私にとってこの一年余りの情報的進化は目覚しいものがあると自分では思っていますが、それもこれもやはり人のネットワークが成しえるのです。

 「情報」という文字を見ていつも思うのですが、(情)はなさけ、(報)はむくいです。インターネットや衛星放送ばかりが情報と思っていたけど、そこに人間の知恵たる情けが入らねばそれは単なるデータで情報とはいえないのです。ハンド&ハンド、ハート&ハート、フェイス&フェイス、これこそ最高にして最上の情報であると私は思います。

 顔の見える人から今年も年賀状が沢山舞い込みました。思いのある年賀状はアナログといえども顔が見える情報です。近況や私を思いやる言葉がショートコメントながら書き込まれほのぼのとした気持ちにさせてくれます。インターネットで届いた年賀も即効性があって嬉しい情報です。特にメールはその人の今が届きます。メールも出来なかった2年前とは比べ物にならないデータの中で利益あるものを取り出し情報に変えてゆく営みはこれからも死ぬまで続くことでしょう。

  「昨日来た 人からデータ 送られて 便利な世の中 実感しつつ」

  「情報は 情けの報と 書くんだよ 心無くんば 情報じゃあない」

  「情報で 俺と親父を 比較する ない方がゆるり 人生楽しむ」

  「遠情報 知っているのに 近情報 知らな過ぎるは 今の世の中」


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○今日は成人の日

 私たち古い人間には成人式といえば1月15日と決まっていたから、今のような祝日だと国民の祝日といわれても余りピンと来ず、その生でしょうか町内の家々に国旗が飾られているのを殆ど見なくなりました。それもそのはず正月でさえ国旗を立てたりする風習が廃れているようです。今年の正月に町内の漁港に係留している漁船を見ましたが、船玉様信仰を信じる漁民さえ大漁旗を立てない漁船が増えていて、何かしら寂しい感じがしました。

 私が成人式の頃は一体どんな時代だったのでしょう。残念ながら思い出しても断片的な思い出しか思い出せないのです。それでも近所の洋服屋さんが採寸に来て真新しい背広を作ってくれたり、似合おうが似合うまいが締めてるだけで事足りたネクタイを買って親父に締めてもらいました。その親父も漁師が故にネクタイなど漁協の役員として県庁へ行く時以外はネクタイを締めたことがないので、まるでわらじをつくる仕草で足の親指にネクタイをからませ、首輪を入れるようにしてネクタイを結んでくれました。漁師をしていた私にとって初めて結ぶネクタイはまるで首を絞まられるようで息苦しく、それでも成人式の間だけはと我慢していましたが、耐え切れず成人式が終わると外に出てネクタイを解いたものです。あれから43年が矢のように過ぎ去りましたが、初心だったあの頃が懐かしく思い出されます。でもそんな時代でしたから反社会的なことなどする時代でもなく、神妙にやたら長い来賓のあいさつをあくびもせずに聞き入ったのです。

 私の頃と違って今は女性は殆ど、男性もちらほら和服姿で成人式を迎える華やかな時代となりました。和服という民族衣装を戴せtにする時代回帰はいいことですが、その殆どが親の懐という情けなさも時代を反映しているようです。頭の先から足の先までといいますが頭や足ならまだしも耳の先、詰めの先までがお洒落の対象で全てをまかなうにはそれ相当の出費を覚悟しなければならず、まあそれも個人消費なのだから社会の経済サイクルだと思えば社会に後見していることになるのです。

 ある人が今の若者は「砂漠の真ん中に立たされているようだ」と表現しています。砂漠ですからなんの遮るものもない自由な世界です。何処へ行こうとどんな道を選ぼうと勝手なのですが、その分迷いが深く元に戻ることは出来ないというのです。上手い表現だと思いました。でもその道と未知に迷い込むのも若者にとっては必要な迷いかもしれません。無駄や徒労ほど血肉になるものはないからです。でもうろ覚えの知識だけで世の中を渡ろうとするのは余りにも危険が大き過ぎるのも今の世の中、心して船出して欲しいと願っています。

 私は幸いなことに成人式を迎えた頃地元の青年団に入団していました。殆ど先輩という青年団の集団で様々な知識を学び、ややもすると知識だけで暴走がちな私たちに生き様や知恵を授けてくれました。先輩や仲間がいるということは今になって考えると素晴らしいことだったように思うのです。僅か8年の青年団活動でしたが私に勇気や希望を与えてくれたのはやはり青年団だったと思うのです。今日成人式を迎えた皆さんにも願わくばいい仲間をつくるよう切望します。

  「あの頃と いっても四十二年 前のこと 初心な私が そこにいました」

  「青年団 私育った 恩がある 返せることは 若者育て」

  「いい時代 思う私は 古臭い それでもみんな 懐かし昔」

  「ダンスにて 手を取りビリリ 衝撃波 初心な時代も あったものです」 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○若者が訪ねてくる

 正月を挟んだ年末年始、私の元へは10人もの若者が相次いでやって来ました。アポイントを取ってやって来る若者もいれば、通りすがりのように来る県外の若者もいて多少困惑しました。それでも「叩けよさらば開かれん」と門を開き心を開いて話をするのですが、私を訪ねてきた若者の話の内容は概ね5つに要約されるようです。①職業観や人生について、②事業化に向けたアドバイスについて、③私の人間牧場構想について、④田舎暮らしについて、⑤社会のために働くことについてなどなどですが、40歳も年齢差のある私にアドバイスを求めるきっかけは新聞や雑誌の記事を読んだり、私の知人友人からの紹介で、これまたまちまちです。私のような田舎者に高慢な理論を述べる能力はありませんが、それでも心の意の向くままに論理を分り易く話してやり、納得させて分かれました。

 私が最も敬愛する人の一人に山梨県清里に住む舩木上次さんがいます。彼は私と同じ観光カリスマ百選に選ばれている人ですが、ポール・ラッシュの生き方に強い影響を受けた面白い人物です。彼の紹介で愛媛県出身の若者が昨年やって来ました。彼の紹介なので無碍に断ることも出来ず、人間牧場へ案内しました。彼は大学を出て会社に就職していましたが、思うところがあって松下政経塾に入塾している塾生です。東大を出ている希に見る秀才ですが舩木さんが惚れこむだけあって態度も考えも立派で将来は地元愛媛県へ帰えりたいと願っているようです。松下政経塾といえば松下幸之助さんが「日本はますます混迷の度を深めていく」との危機感から、「新しい国家経営を推進していく指導者育成が何としても必要」との重いから979年に設立されました。これまで200人の人材が育ち政治経済、市民活動など幅広い分野で活動していることは承知していましたし、何人かの卒塾生にもお会いしていますが、立派な人が多いのです。

 彼は日本でも危機だといわれている地域コミュニティのことについて勉強をしているようで、コミュニティのことについて随分話しこみました。コミュニティには大きく分けてテーマコミュニティと地域コミュニティがありますが、一回目は総論的に話しました。人間牧場の水平線の家で彼が何を考え何を感じたかは定かではありませんが、数日前わが家へ再びやって来ました。腰の具合が悪くわが家のわが書斎での面談となりましたが、僅か2時間半ながら鋭い議論に終始しました。彼はインターンとしての修行を希望しているようで、そのつなぎを私がする約束をして去って行きました。

 こんな話も別の若者から持ち込まれました。温泉の宅配です。愛媛県内の温泉のお湯は夜になると札止めで使わなくなるのでその垂れ流しの温泉を宅配したら儲かるかもしれないというのです。「若松さんは県内の温泉自治体に顔が利くのでその辺の実態を教えて欲しいとか、どうすればそれが具体的に事業として成り立つのかといった話まで多岐にわたりました。温泉のお湯を宅配するとは面白いアイディアだとは思いましたが、事業化するには資金調達、施設設備、運営ノウハウなど超えなければならないハードルが幾つもあると、シーサイド公園を事業化したことを参考にしながら話してやりました。若者の突拍子もない話は中々夢があっていいものです。でもこの話は色々な大人に話したものの、「お前アホか」とか、「そんな暇があったらもっと今のことを考えろ」なんていわれ、取り合ってくれなかったそうです。若者の考えは大人には理解し難いものなのです。

 入れ替わり立ち代りやって来た若者たちの行き着く先は何処なのでしょうか。でもそんな悩める若者に手を差し伸べたり話しをっきてやる大人の少ないことに、今の日本の危機感を覚えています。

  「若者が 俺を頼りに やって来る 生きる勇気を 与えて帰す」

  「温泉を 宅配すれば 儲かると 目を輝かせ 儲かる話」

  「ふと見れば 世代の断絶 若者が 相談する人 なきに等しき」

  「足腰と いうがお腰の 悪きにて ジレンマかかえ もじもじしながら」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○-とⅠとT

 この3つの文字は何を意味するか考えてみてください。これは十人十色といわれる人間の特徴が基本的には三つのパターンに分かれているという話です。まず-ですが、これは商業であればデパートです。何でもあるし間口も広いが奥行きが広くないという人間です。人間だと何でも一応知っているし何でもそれなりにこなせるというタイプです。しかし知っているようで意外と底が浅いという人間です。最近は知識人のこのタイプが増えているようです。

 次にⅠというのは専門店です。服だけ、帽子だけ、靴だけしか売っていませんが、こと服や帽子や靴のことなら何でも知っているし何でも揃う、間口は狭いが奥行きが深いという店です。職業でいうと専門家タイプで職人さんはこの部類に入ります。

 さて-とⅠを合わせたTというのはどういう店でどういう人間なのでしょう。今まで訪ねた店では老舗といわれるデパートかも知れませんし、マルチ人間といわれる人かも知れません。しかし私たちの身の回りを見渡してみて-やⅠのような人間にはよく逢うことが出来るのですがTといわれる人は少ないように思います。-でもなくⅠでもTでもない中途半端な人間である私にとって、こんな人間論を語る資格はないのですが、人づくりやまちづくりを考える上でこのタイプの組み合わせは非常に大事なことだと思うのです。

 Ⅰだけあるいは-だけのの人間で組織を作っても組織は上手く動きません。Ⅰと-が適当な数だけ混じりあい、時には希なTがリードすると思わぬ効果を上げるものです。時にはⅠが-を批判したり-とⅠがしょうとつしたりすることもありますが、結果的にはTのとりなしで上手く行くものなのです。

 最近は離婚が常識の世界になりました。子はかすがいと隠忍な人生を送るより、母子や父子で再出発をすることの方がはるかにいい人生だと私も思います。でも最近の離婚の傾向は「フィーリングが合わない」「性格の不一致」「考え方が違う」「こんなはずではなかった」なんて、まるで理解に苦しむような原因で離婚することが多いようにも思えてなりません。結婚を決意する場合相手のことが嫌だったら結婚はしません。ところが結婚相手を100点だと思って結婚するから、結婚後の生活でこんなはずではなかったと減点が続き結果的に相手の悪口を言い合って破局へと至るのです。私の持論なので誰にでも当てはまるとは思いませんが、結婚をお互い0点から勧めては如何でしょう。結婚後の生活でお互いが点数を加点し合い一生をかけて限りなく100点に近づけようとすることが夫婦の人生だと思うのです。

 -とⅠというまったく違った人間が結婚するのですから性格なんて元々不一致ですし、考え方も行動も違うものなのです。二人で努力すれば-とⅠが組み合わさってTのような人間になるのです。-とⅠが離婚するのは自由です。でも-とⅠから生まれた子どもは親のわがままのお陰で人生の出発でつまずく結果になるのですから余程の決意をいなければなりません。

 -とⅠという人間を単純に色分けすれば2種類のはて、私はどっち、妻はどっち、わが家は妻がⅠで私が-かもしれないと思いながら結婚以来37年を振り返ってみました。まったく見ず知らずの妻と出会い、何で私の心を理解してくれないのだろうと思ったことも何度かありました。多分女性が故に私の数百倍も何で理解してくれないのだろうと思ったに違いありませんが、-たる私をⅠたる妻は理解し二人でTになる努力をしてきました。後に残された二人の人生の日数や時間を思うと、今まで以上にTになる努力が必要だと思います。二人が健康で一生を終える保障は何処にもありませんから、お互いが介護しながら生きていく覚悟も必要なのです。「-たる私から、Ⅰたる妻へ、お互い助け合ってTを目指して頑張りましょう」

  「どうだろう 俺が-なら 妻はⅠ 二人仲良く Tを目指そう」

  「百点の 相手などない 世の中は ゼロ点思えば 少し増えたか」

  「どちらかが 弱る介護の 覚悟決め 夫婦仲良く 持ちつ持たれつ」

  「宝くじ 今度もハズれ 吐息つく 当たらないのが 幸せかもね」



[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○ランチェスター第二の法則

 昭和19年に生まれた私は、戦後の混乱期に育ったため「日本が第二次世界大戦(太平洋戦争)でなぜ負けたか」という、そんな話を子どもの頃随分聞かされました。「日本の竹槍に対しアメリカの戦闘機では勝ちっこない」「神風を信じた精神論日本と物と情報という科学的アメリカでは勝ち目がなかった」など、復員した人たちから武勇伝も含めて沢山の戦争逸話混じりに日本とアメリカの違いを聞きました。戦後62年経った今は、終戦記念日や原爆投下日などに僅かに聞いたり思い出したりする程度で、私たち庶民の記憶の中から戦争が消えていくことを少し残念に思うし、平和が故の出来事だとも思ったりしています。

 中学生った頃だったと思いますが、ある大人からランチェスター第二の法則という難しい戦争の話を聞いたことを今でも覚えています。「アメリカの戦闘機は50機、日本の戦闘機は48機、どちらが勝つか?」という話です。若い私は日本びいきもあってか「日本の48機の方が勝つ」といったのです。「それは何故?」、私はその質問に「日本の戦闘機とパイロットは優秀だから」と答えました。「じゃあパイロットも戦闘機も々優秀だったら?」、私は「五分五分」と答えたように思います。

 その人は図解しながら第1回目の空中戦は50機対48機でアメリカは9機撃墜されるが日本は10機撃墜されるというのです。「そんなことはやってみないと分からない」という私の発言を抑えて第2回の空中戦でアメリカは6機撃墜され日本は8機撃墜され35機対30機になるというのです。こうして第3回6機撃墜・7機撃墜=29機対23機、第4回4機撃墜・9機撃墜=25機対18機、

第5回3機撃墜・5機撃墜=22機対13機、第6回3機撃墜・8機撃墜=19機対5機、第7回1機撃墜・3機撃墜=18機対2機、第8回撃墜0・2機撃墜=18機対0、つまりランテスター第二の法則によると8回の空中戦で最初2機しか違わなかったのにアメリカは18機も残り、日本の戦闘機はゼロになったという話でした。納得がいかなくて何故何故と質問したその回答は忘れましたが、今でもその記憶は生々しく残っていて、イギリスの航空工学専門家であるランチェスターという人のこの理論を採用したアメリカはが戦争に勝った理論を教えてくれました。その人は先日亡くなりましたが偉い人だと子供心に思ったものです。ランチャスターの理論が正しかったからサイパンは日本3千対アメリカ6万8千=日本ゼロ、グアムは日本1万8千5百対6万=日本ゼロでした。

 ランチェスター第二の法則が正しければ、アメリカのような大都市と日本のような田舎の戦争は日を見るより明らかでやる前から勝敗は決まっています。つまるところ小さなまちは余程のことがないと勝てないということです。そういう意味では平成の大合併は70を20にして少しでも有利に空中戦を戦おうとしているのですから、いいことに違いはありません。しかし戦闘機たる自治体は金もなく弾薬もなくボロボロですし、戦闘機に乗るべきパイロットなど素人ばかしです。戦闘機は古いけれど今こそ優秀なパイロットを育てなければまちの未来はないのです。人づくりの意味はこんな理論でも明白です。

  「日本が 何故に負けたか ランチェスター 今も分らぬ 第ニの理論」

  「俺の街 金もなければ 知恵もない これでは戦 する前玉砕」

  「ライバルは 人ではなくて 自分なり 己が力を 鍛えなおして」

  「何もない 言いつつあった」 人がいた いつの時代も 人が財産」 


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○過疎か適疎か

 市町村合併が進み、3千を超えていた市町村の数も1800台以下になっているようです。愛媛県の市町村も20市町となり、合併せず最後まで残っている松野町では相変わらず町内がゴタゴタして、議会と町長と町民による確執はリコール運動や住民直接請求へと発展しているようです。合併しない所は合併はしたくないと主張し、合併した市町の殆どが合併してもメリットなんてなかったと口々にお互いを罵り合っているようで、今回の合併は何となくすっきりしないまま推移をしているようです。

 一昨日愛媛県知事選挙が告示されましたが、かつて他選を批判していた人が多選に立候補するのですからどうなっているのか庶民は中々理解に苦しむところです。それでも自治会長という職責がら選挙遊説のギャラリーとして出なければならず、地元議員さんの顔を立てる格好で昨日の午前中参加をしました。市役所地域事務所の前には多くの方々が見えられ熱心に聞き入っていました。失政もなくそれなりの評価を上げている人だし、他の候補者と比較しても存分の働きをしてくれそうな人だけに、私個人としては応援したいと思っています。それにしても奥さん同伴とは凄いことでレディーファーストのどこかの国のようです。私などはとても真似の出来ないことです。

 候補者は現職だけあって国会議員、市長、県会議員、市議会議員というそうそうたる顔々を引き連れての遊説です。その人たちの話を聞くと何か間近に迫った自分の選挙のことを考えての応援のようにも見えました。(公職選挙法のこともあるのでこのあたりで止めておきます。)

 市町村合併で地域づくりの指導者、特に役場職員の顔が見えにくくなりました。どの町に行っても一人や二人は熱心な指導者がいたものですが、その人たちは組織の中に埋没しこれまでのような働きができないままなのです。このままでは地域づくり運動や活動が逆戻りするのではと心配しています。

 私たちの町では昭和30年代後半から始まった過疎からの脱却がまちづくりの大きなテーマでした。しかし過疎対策と称して色々な事業をやればやるほど皮肉なことに人の数が減っていったのです。今回の市町村合併で一時的に5千人余りの町が41千人の市になったので、何か人口が増えたような錯覚になって、誰も過疎のことを話さなくなりました。勿論県知事選も市長や市議選でもその話など微塵も出ませんでした。集落の殆どが限界集落になっているこんな重大なことを気付かず、気付いても気付かないふりをして何も行動を起さないでいる人たちが多いのです。

 田舎の悲劇は自分で飯が食える能力のある人がどんどん都会へ出て行き、先祖から貰った財産にしがみついてしか飯の食えない人と高齢者が残るという、言葉は適切ではありませんが「カス化現象」が問題なのです。一定量を確保しその人たちの質を高めて行かないと町は駄目になるのです。

 私はこれまで「過疎」という言葉より「適疎」という言葉を使ってきました。双海町という町の人口が最大値を示していたのは昭和30年の合併当時でした。この人口を100とするなら今の人口は50です。100が50になる、これは完全な過疎です。では双海町の人口は何人が最もいい人口規模かと問われたら、100の昭和30年か現在の50か誰も答えられないのです。つまり数値的に見た双海町の過疎も、住んでる人にとっては適当かも知れないのです。人が減ることは決していいことではありませんが今の人口を適疎と思いそのような自立したまちづくりを進めてゆけばまだまだ双海町の人口は適疎の範囲内であると思うのです。でも過疎と思っても何もしないことより、適疎と思って何かを始める意味を考えたまちづくりをこれからはしたいものです。

  「この町の 人口減って 過疎という 俺は適疎と 思っているが」

  「この地域 限界集落 人はいう 寂しい風が 墓標を撫でる」

  「参議院 勝つため選挙 するという 議員のために 選挙かなわん」

  「国二分 するほど議論 しながらに ちゃっかり握手 選挙分らぬ」 



 


 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○豊かさとは何か

私たちは日々の暮しの中で何か分らないけれど満足しきれない部分を感じながら生きています。お金ももっと欲しいし、もっと幸せになりたいし、自分の持ってる願望を成就させたいとも思っているでしょう。さらに不透明な時代なのでしょうか、将来への不安を隠しきれないでいるようです。「豊かになりたい」、誰もが思っている「豊かさ」とは一体何なんでしょう。

 豊かさには大きく分けると①取得のゆとり、②時間のゆとり、③空間のゆとり、④余暇・学びのゆとり、⑤安心・安全のゆとりという5つの判断材料があるように思います。

 ①所得のゆとり

 私たち庶民的な人間はお金持でない限り、お金持ちになりたいという願望を多かれ少なかれ持っています。毎日あくせく働くけれど、一向にお金が貯まったという実感はありませんし、新聞やテレビでセレブな暮しが紹介される度にあんなお金持に一度はなってみたいと思うのは無理からぬところなのです。しかし物のない時代を経験した私のような世代から比べると今の世の中はまるで天国のようなものの豊かな社会に暮らしているのです。要はその豊かな暮しを維持するために働いているに過ぎないと思った時、豊かさはどこか遠い存在になってしまうのです。所得は働きの代償です。贅沢な暮しにはお金の裏づけが必要です。もっとシンプルに生きて、所得と生活のバランスをしっかり考えれば貯蓄は自ずから増えてくるのです。「入るを知りて出るを考える」ことこそ経済的ゆとりを生む最大の法則かもしれません。北海道夕張市の経済破綻は街レベルの取得のゆとりがなくなった結果だと思うのです。私は田舎に住んでいますが所得が少ない分家庭菜園での野菜作りや魚の頂き物などによって所得の少なさをカバーできています。

 ②時間のゆとり

 人には平等に一日24時間、一年365日×時間が与えられています。その三分の一は食うための働く時間です。三分の一は寝る時間です。残りの8時間が自分お自由になる時間なのですが、その中には食事の時間や家族のために費やす時間などの準束縛時間が含まれていますから、残された自由時間はそんなに多くはありません。でもその残された時間をどのように有意義に使うかによって人生の生き方が決まるのですから、あだや疎かにこの時間を使ってはならないと思います。田舎に暮らしていると通勤時間は都会に比べ少なくて済み、その分だけでも随分時間のゆとりが出来るはずです。

 ③空間的ゆとり

 これはズバリどんな家に住みどんな自然が周りにあるかだと思います。私は貧乏ながら660坪の敷地内に建っている77坪の家に住んでいます。さらに家の横に煙会所という私設公民館や海の資料館まであるし、セカンドハウスと呼ぶことは出来ませんが、海の見える丘の上に人間牧場まで作っています。こんな贅沢な空間的ゆとりは都会では考えてもできることではありません。

 ④余暇・学びのゆとり

 さて時間的なゆとりをどのように意義あるものに出来るか、それは考え方と行動力が生む結果なのです。時間的なゆとりがあってもパチンコやゴルフ三昧だけでは決して充実した余暇時間の過ごし方にはならないのです。その余暇が学びによって新しい何かが再生産されるような、まさに生き方なのです。週末には近くの温泉に出かけてリフレッシュしながら健康維持を図ったりすることもその一つかも知れません。我が家へは沢山の人がやってきます。人と出会い人によって人となる、また自分の住んでいる地域のためにボランティア活動をすることも価値ある生き方なのです。

 ⑤安心・安全のゆとり

 水の美味しさ、空気の美味しさ、交通事故の危険性がないか、災害時の備えは出来ているか、年金での暮しや生命保険の加入はどうかなど、安心と安全は人間が生きていく上でとても貴重なテーマとなってきました。

 結局「あなたにとって豊かさとは何か」と問われたら、これら全てのゆとりがバランスよく満足度が高いことだと思います。一度この5つのテーマごとにチェックリストを作ってバランスシートを作ってみては如何でしょうか。

  「豊だね 俺の人生 五項目 バランス良くて 得点高い」

  「金はない けれども心 豊かです ゆとり感じる 今の生き方」

  「豆のつく 頭と豊 あやかって 丹波黒豆 おせちいただく」

  「空間も 時間も間がつく 人間も 間にこそ心 あるのだろうか」

[ この記事をシェアする ]