shin-1さんの日記

○地域づくり人養成講座

 えひめ地域政策研究センターでは、次代を担う地域づくりリーダーを養成するため講座を開いていますが、昨日その成果発表会と終了式が行われ、助言と総括の講演に出かけました。名前こそ違え毎年行われている講座ですが、今年の参加者は特徴のある人が多く、発表も中々味があって面白いものでした。そもそもこんな講座を開く場合の大前提は、主催する側の担当者がどんなイマジン(人間性)とスキル(やる気や技術)を持ち合わせているかです。今回の講座を担当した清水研究員はJAからの出向職員なのですが、彼の思い入れそのままにまちづくりと経済の融合をちらつかせる発表も結構ありましたし、まちづくり理論を既に実践に結びつけている人もいて頼もしい限りでした。普通まちづくりはまるで絵に書いたような理想論に走り、経済や実践へのアプローチが出来ないことが多いのですが、清水研究員の個々に対するアフターケアーが行き届いていていい雰囲気で終わりました。

 そんな中で事前に送ってもらったレポートを読んで、強いてあげれば私は次の数人の話に関心を寄せていました。

 一人は四国中央市から参加した深川正延さんです。彼は農業を生業としていますが、人間力のしっかりした人物で、食に対する造詣も深い実践家ですが、地域のスキルアップにジレンマを感じているようでした。

 保内町から参加の佐々木勝久さん(77歳)は残念ながらご病気で清水さんがレポートを代読されましたが、自分の年表を書かれ、旧家の保存活用に頭を痛めているようでした。

 大洲市肱川から参加の冨永清光さんは、ダム水没地域の地域活性化と神楽の保存について過疎と高齢化、少子化が同時に進行する山間地の活性化についてこれまた頭を悩ませているようでした。

 我孫子尚正さんはNPOまちづくりプロダクションの設立という新しいテーマの夢を具体的に提案しまちづくりと経済の融合を目指しているようでした。

 越智保緒さんは建築家で建築の創られ方について、自分の設計した建物を示しながらまちづくりと街づくりの在り方を研究しているようでした。

 自分の思いを文章に書くことはパソコンが幾ら普及しても書くと打つの違いだけで難しいものです。ましてや与えられた10分という時間内にそれを人前で発表することはもっと難しく、更に書いたことを発表し喋り、実践に移すことはもっともっと難しいものです。ましてやそのことが人々の感動を得るようになるには、それ相当の年月も必要でしょう。

 私はセンターの丹羽部長さんと二人でこれらの文章や発表に対してショートコメントを送りました。適切なコメントであったかどうかは分りませんが、文章を読み、発表を聞いたそれぞれの人に、これからも求められればアドバイスをしながらともに地域づくりを広げてゆきたいと思っています。

 イマジン(人間力)を縦軸↑にするなら、スキル(やる気・技術力)は横軸→、縦軸↑と横軸→の真ん中に結ばれる点に遠心力を加えて大きな力にして広げて欲しいと願っています。なおそれぞれの上記赤字の悩みについては、順次ブログで解き明かしてみたいと思っています。

  「十分(じっぷん)に 人それぞれの 想い込め 発表冷や汗 忘れないでね」

  「ああ俺も あんな時代が あったっけ 初しさ残る 若き人見て」

  「倖田いう 女性タレント 追っかける 近くの部屋で 地域語りぬ」

  「人は何 何処を目指して 生きるのか 人間模様の 数は果てなく」 




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shin-1さんの日記

○一本の角笛

 昨日出張先から帰ってみると、段ボール箱の宅配便が一個届いていました。送り主は群馬県大泉町議会事務局と書かれています。私の元へ爆弾など届くはずもないので、妻は私の帰りを待ってからと思い開けることもなく居間の隅に置かれていました。議長さんと副議長さんと3人で講演会終了後覗いたブラジル人相手のお店で購入した、見たこともないような食べ物が沢山入っていましたが、それらの土産品に混じって一本の角笛が入っていました。この角笛も私が講演で吹いたハーモニカを意識して、「若松さんハーモニカとホラを吹くのもいいが、大泉町の宣伝のためこの角笛も吹いて下さい」と村山俊明議長さんが、やはりブラジル人相手のお店で買ってくれたブラジルの民芸品なのです。

 妻が「これ何?」というように少し曲がった動物の角を加工した角笛のようです。私は水牛かなと思っていましたが、正体ははっきりしていません。私は夜10時を過ぎているというのに、ついつい嬉しくなってこの角笛を吹いてみました。議長さんから「角笛はトランペットの要領で吹くのです」と聞いていたので、唇を震わせて吹いてみましたが、まるで間の抜けた屁のようで、妻からは「ヘタだねえ」と笑われ、雑音として「明日にしたら」でけりでした。

 夜が開けるのを待って再度挑戦してみました。はい、何とか音が出るようになりました。要領はほら貝を吹くのと同じで、最初は唇全体で吹いても中々音が出ませんでしたが、口の横で吹くと簡単に音が出るようになりました。

 さてこの角笛の使い方ですが、適当な大きさではあるものの木になるカバンの中に入れて持ち運びすることは出来ないようなので、全国行脚では吹けそうにもありませんが、人間牧場でだったら活用可能ではないかと思います。人間牧場水平線の家のウッドデッキで海や大空に向かって勢いよく吹けば気持ちのいい音が山々にこだましていい気持ちになることでしょう。早速今週には人間牧場へ行けそうなのでテストしてみたいものです。村山議長さんがいうように「ハモニカもほらも吹くが角笛も吹く」というキャッチコピーが出来上がったようです。

 子どもの頃から英語や音楽を習っている日本人は何故か英会話や楽器の演奏に弱いです。私もギターやピアノが家にあるのに殆ど吹かずまるでインテリアのようです。勿体ないことです。ホラはもう何十年前から吹いていますが、数年前から始めたハーモニカは随分レパートリーも広がって、即興でリクエストに応えれる(ただし童謡やナツメロくらい)ようになりました。小さな持ち運びの出来る楽器のハーモニカですが、講演の巾を広げたような気がします。やはり日本人の心には体感音楽として昔聞いた歌の思い出が残っているのです。

 村山議長さんからいただいた角笛をせいぜい練習して大泉ラッパを全国からやって来るであろう皆さんに鳴らし続けたいと思っています。

  「ほらも吹く 角笛も吹く ハーモニカ 吹くもの増えて 汗を拭きつつ」

  「面白い パロディ分る 議長さん 角笛吹けと 宅配便にて」

  「もうコツを 全てマスター しましたよ 角笛高き 音を楽しむ」

  「大泉 群馬のどの辺 知らなんだ 今では俺の 親戚みたい」 

  


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shin-1さんの日記

○夕日が気になる

 夕日が日本一美しいと自認する双海町に住んでいながら、講演行脚を続けている私にとっては、その夕日を見ることが叶わないジレンマに悩まされています。今の時期だと日没の時間も1月1分、2月2分といわれるように毎日日没の時間が遅くなって、もう夕方7時頃でも天気のよい日は西明かりが見えるほど日が長くなってきました。多分今頃だと夕方5時半を有に過ぎる頃に夕日が沈むのです。でもその時間帯は殆どが車の中で、二日前も松山から帰り伊予市付近の車の中で真赤な太陽が海辺に沈むのを見ました。その度に「もう少し早く帰ればよかった」と残念がったり、「今頃双海町のシーサイド公園では若いカップルがこの夕日を楽しんでいるんだろうな」などと空想したりするのです。最近はデジタルカメラを車に積んでいるので旅先でもいいアングルの夕日にお目にかかるとシャッターを切るよう心がけていますが、車で移動中にはそれさえも叶わないのです。

 先日香川県高瀬町の商工会女性部に招かれて研修会に行きました。田んぼの中の立派な料理屋さんで開かれた新年会とセットの研修会には、県議会議員さんや地元三豊市議会議長さん、商工会長さんなどお歴々も集まり華やいだ雰囲気で、新年会の前の講演はまるで継ぎ足しのような感じがしましたが、それでも女性部の皆さんが沢山集まり熱心に耳を傾けてくれました。三豊市という合併によって誕生した新しい街では今春商工会も合併をするとかで、その話がもちきりのようでした。まあそんな話より私の目先は着飾りお化粧した綺麗な女性群の顔々にうっとりしながら「心豊かに生きる」と題し1時間以上も話したのです。

 カーナビで料理屋さんの場所を探し夕方6時からの会合だったので、冬のことゆえ少し早く到着して料理屋さんの駐車場あたりをうろうろしていると、庭の向こうに綺麗な夕日が落ちるのが見えました。このあたりの海も燧灘というのでしょうが、三豊市高瀬平野のその向こうに沈む夕日はやはり海に沈む双海町の夕日には適いませんが、それでも思わずパチリと写しました。

 少し高台の冬枯れの木立がその美しさを一層引き立たせているようでした。

 一方先日友人岡田さんの紹介で大阪の東尾メックという会社にお邪魔して講演をしました。岡田さんとはそんなに数は会っていないのに深いご縁をいただき、偶然大阪梅田駅近くの食堂でばったり会い、その折東尾メックへの講演依頼を受けたのです。岡田さんは東尾メックという会社のアドバイザーをしておられますが、この日は私のためにわざわざ同行してホテルまで迎えに来ていただいたり、近所の有名なお不動さんにお参りに連れて行ってもらったり、随分気配りの出来る方です。その旅の帰り、淡路島を走るバスの中から一宮辺りで綺麗な夕日を見ました。東尾メックの東尾社長や岡田さんとの出会いの余韻を感じながら見る夕日も味のある夕景でした。

 この夕日が沈む町はかつて交遊した所で、今は亡き島津三郎先生や、役場に勤める一貫田達也さんと議論したことも頭をよぎりました。夕日は時として悲しく過ぎし日や逝きし人、懐かしい人を思い出させることもあります。それでも私は燃え尽きて海の彼方に沈む夕日に明日への期待を込めて見送るのです。

  「訪れし 高瀬の町の 料理屋で 夕日眺めつ ふるさと思う」

  「この夕日 地球上では 俺一人 見てるだけかも 心ときめき」

  「淡路路を 走る車窓に 夕日落ち 亡き人思い 家路急ぎぬ」

  「また今日も 潜在夕日 コマが増え 人に聞かせる 話あれこれ」  

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○2007年四柱推命学の十二支

 暦の上では早くも12分の1が終り、いよいよ寒さも佳境の2月になりました。正月ならいざ知らず2月になって自分の今年の運勢は?なんて人は余りいないと思うのですが、一昨日飛行機の中で翼の王国という本を何気なく読んでいて今年の運勢を占う記事を見つけました。多分1月号最後の日なので「ご自由にお持ち帰りください」と表紙に抱えていることもあってスチュワーデスに了解を得て持ち帰りました。この雑誌にはかつて私の町の夕日や花が照会されたこともあったので親近感をもって見ています。

 さて今年の私の運勢は33ページ申の中身だしに山火噴(さんかひ)から始まっています。山火噴のひは口偏のない漢字ですが探すのが面倒でこの字を使っています。暦用語は中々難しく読めないものが沢山あることを書かれた方もご承知なのでしょう、あちらこちらにルビが打ってあって助かるのですが、パソコンでは中々出て来ないのが難点です。

 山頂に烽火をともせば、四方が煌々と輝く。徳を積み、善を行えば、衆人我に従う。名誉に関することはすべてよい。見栄を張らず、うまいもうけ話には十分注意をすること。芸術にたずさわっている人は、脚光を浴びる運。チャンスの到来と見てよい。1~2月、一度喜びがあれば、それは大財につながる。3~4月、昇進または、昇給の運がある。もしくは海外に出向くこととなる。挑むべし。5~6月、運が大きく開ける。南の方向が吉。家内に慶事がある。7~8月、家族への思いやりで運気が上がる。言動には気をつけて、9から10月、魚が大海を泳ぐがごとく、意気揚々としている。名を成し、實を得る。11月~12月、今は多くを望まないこと、平穏に暮らして吉。

 私は神社仏閣にお参りをしても、家の神棚や仏壇に向かっても、余りお祈りをすることはありません。「家族が今日も健康でありますように」程度なのです。他の人のように「宝くじに当たりますように」とか、「良縁に恵まれますように」とか、「合格しますように」とかお祈りをしなくても、何とか曲がりなりにも自分の力でやれてきました。成果は自分の努力なしでは成就しないと思った結果だし、その姿を神仏も応援してくれたのだと思うのです。

 私に比べ妻は神仏へのスタンスが違っていて、毎朝お茶やご飯、お光と線香を灯して神仏に祈るのが日課だし、神社仏閣では敬虔な祈りを捧げてお札を買い、おみくじを引きます。妻のこうした祈りのご加護が私を守ってくれたのだと思えば納得もいく話です。

 ちなみに妻は酉歳、申の下に並んで今年の運勢が記されていました。「西方に行けば吉がある。謹んで暮らせば吉などの記述は妻を喜ばせそうな運勢ですが、これも雷澤帰妹(らいたくきまい)という難しい言葉でくくっていました。

 運は自らの力で勝ち取るもの。そう思って無事に終わった1月に感謝し、あと11ヶ月を心して生きてゆきたいものです。

  「めぐり来る 出来事心 一つにて 成しえることを 肝に銘じて」

  「神仏を 俺は信じぬ いいながら 大吉引いて 悪い気もせず」

  「あれ程に 家族の安寧 祈る妻 せめて神仏 助けてあげて」

  「腰調子 大分よくなり 春を待つ 心ウキウキ 畑仕事に」 

  

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○一体何が起こったの?

 今日は朝から自治会長として広報を町内の組長さんに配ったり、来客も多く忙しい一日でした。近づきつつある県外へ出るための切符の手配やその対応もしなければならず、時間を割いて松山まで出かけました。旅行会社で切符を受け取り、愛媛大学に立ち寄って先生や事務局の方と談笑しての帰り道、ズボンの中にしまっている携帯電話の振動音が体に伝わってきました。普通は車を路側帯に止めて電話に出るのですが、2車線の車の流れの中にいて左側に寄ることができず、電話を取ったのです。友人の玉井さんからでした。何でも小学生の作文募集をある町がするからその審査員になってくれないかという用件でした。運転中なので後で電話・・・・・・・・」といった瞬間、「前の8158の車は左側に寄って止まって下さい」というのです。一瞬何が起こったのか分りませんでしたが、バックミラーで後ろを見ると何とパトカーではありませんか。驚いたのなんのって、私はてっきりスピード違反だと思ってメーターを見ましたが50キロ程度なのです。言われるまま道の左側に寄り停車しました。二人の警察官が降りてきて、パトカーの後部座席に乗るよう指示されました。警察官「運転しながら携帯電話をしてましたね」。私「はい、すみません」。警察官「どの程度通話していましたか」。私「はい余り長くは・・・」。警察官「そうですか。電話をしながら運転することは危ないですから道路交通法で禁止されていることをご存知ですか」。私「はい知っております」。警察官「運転しながら携帯をすると点数1点、罰金は6千円です」。私「そうですか」。警察官「ここに署名し右手の人差し指で押印してください。なの罰金は2月8日までに納付してください。危ないですから今後携帯は路側帯に止めてしてください。気をつけてお帰り下さい」。一件落着です。

 私は公務員を35年やっていましたが、警察官の「ご職業は」という質問に戸惑ってしまいました。経歴など聞かれもしないのに「昔は公務員をやっていましたが今は退職して・・・・・」などと、明らかに心の動揺が言葉になって出てきました。警察官「じゃあ無職ですね」。私「はいそうです」で終わりましたが、「ああ俺は現在無職なんだ」とも実感しました。現職だった頃にはこんな不始末をしたら自己申告していたでしょうに、とっさに警察官をしている息子と妻の顔が浮かびました。息子には常々「気をつけて運転するように」と厳しく言われていますし、妻もまた「お父さん運転はくれぐれも気をつけて下さい」と言われているのです。家計のやりくりをしている妻に6千円の反則切符を見せたらどういう反応を示すだろうとも思いました。

 少し重い気持ちになって帰宅しました。妻は仕事から帰っていませんでしたがそのうち帰宅、私「今日なあ、携帯電話していてパトカーに捕まった」。妻「えっ、まあそれぐらいで済んでよかった」。私はてっきりスピード違反か事故だと思って」。私「・・・・・・・」

 この小さな事件を私はブログに書くことをためらいました。しかし犯した過ちは素直に認めながらも二度とこんなことを起さないようにするため、自戒の念を込めて思い切って公表することにしたのです。自らに頭を下げることは辛いことですが、時あたかも暖冬一変、大陸から南下した寒波が日本中を冷蔵庫にしようとしているこの寒波もまた自分への戒めと感じずにはいられませんでした。ああ情けなや情けなや・・・・・・でした。明日は罰金6千円を郵便局へ行って支払うつもりでいます。

  「携帯を 運転しながら 掛けた馬鹿 お天道様は ちゃんと見ていた」

  「事故でなく よかった妻の 一言に おのが行い 反省しきり」

  「寒波風 余計冷たく 感じる日 反省だけなら 猿でも出来る」

  「未熟者 風がそういい 吹き抜ける 職質無職 答える私」


 

 

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shin-1さんの日記

○群馬県大泉町を訪ねて

 私たち四国に住んでいる人間にとって東京以北や以東は縁の遠い地域です。ゆえに群馬県や栃木県の地名を言われてもその地域の位置関係が中々つかめないのが実態です。ましてや平成の大合併で古い名前が消され、新しい市町村名が次々登場する昨今では、もうお手上げのような状態で行く先々をパソコンで検索して地図をプリントアウトしたり、鉄道の旅程表を検索しなければとんでもないハプニングを招くことになるのです。しかし「関東や北陸、東北は遠い地域」というイメージは新幹線の延伸によって完全に打ち破られていることも事実なのです。

 昨日まで私は群馬県大泉町の議会に招かれ講演に行って来ました。群馬県の大泉町議会事務局からメールが入っ時は、昨年群馬県玉村町へお邪魔していたため、その距離感や位置関係は直ぐに飲み込めましたが、「はて大泉町は?」と頭をひねりました。その後議会事務局の石井さんから資料の送付やメールによって一応の予備知識を得て出発しましたが、飛行機で羽田へ着きそこからモノレールや国電を乗り継いで東京駅まで行き、新幹線で熊谷次郎直実で有名な熊谷まで40分余り、その近さに驚きました。駅まで迎えにきていただき埼玉と群馬を分ける利根川を渡る少し走るともう大泉町なのです。

 大泉町は三洋電気と富士重工の二大産業をかかえ地方交付税不交付団体という、財政難に悩む市町村から見ると何とも羨ましい人口4万人余りの町でした。第一印象では条里正しい区画整理が行われきれいな町の印象を持ちましたが、町の中を見渡すと横文字の看板がやたらと目に付き、国際的な色のある町だという直感しました。

 道すがら石井さんの話によると、大川村と小泉町が昭和32年に合併して誕生したそうですが、かつては米軍キャンプがあり、返還とともに大手企業の誘致が決まり、昭和44年には大利根工業団地造成(凸版印刷、味の素)、昭和56年には飛行場跡地に富士重工業大泉工場の建設が始まり、工業の町としてゆるぎないいいを確立、バブル期の好景気時には県下第2位の工業製品出荷額を誇ったそうです。

 その一方で就労者の確保のため南米を中心とした外国人の流入が増加し、今日では全人口の16%、約7千人弱にまでなっているようです。そうした町内事情を反映して町のまつりにもサンバが登場し、新聞やテレビを賑わした時代もあったそうです。反面言葉・文化・習慣・環境の違いから多少の苦悩も見え隠れしているようでした。商店街では空き店舗がブラジル系になるなど、ポルトガル語併用の店もあるようです。

 合併問題では議会、行政、住民を含めて大きく揺れ動き、太田市を中心とした1市6丁の0万人都市か隣接3町(大泉町、巴楽町、千代田町)での8万2千人の都市か選択に迫られ、結局太田市は22万都市、大泉町は単独の道を選択したそうです。そして大泉町は今年町制施行50周年を迎え、観光協会の設立や各種記念イベントが予定されていて、いつになくまちづくりの機運が盛り上がっているようです。

 研修会は玉村町で開かれた議員研修で私の話を聞いた議会の主導で進められ、議員、係長以上の職員、区長、商工会などが会場いっぱいに集まっていて、私のつたない話にも熱心に耳を傾けてくれました。卒啄というのでしょうか、阿吽の呼吸というのでしょうか、私の話も聞き上手の参加者によって何時になく熱を帯びて最後はハーモニカまで吹いてしまいました。このハーモニカの音色を聞いた議長さんと副議長さんは会の終了後ブラジル人相手のショッピングセンターへ私を連れて行き、ブラジル産の角笛まで買っていただくおまけまで付きました。これぞ「ハーモニカも吹くがホラも吹くし、大泉の角笛も吹く」なんてコメントを他の町で吹聴したいと思っています(笑い)。それにしても町長さんも機を見て敏なりとでも申せましょうか、私のブログを事前に読んであいさつにその話を取り込んだりしてお話をされました。

 大泉町とはささやかなご縁です。でもささやかなご縁を大切にしながら支援者としてグラスの共磨きをしなければならないと思いました。道沿いには長さ4キロにわたって細長い樹木茂る公園が目に留まりました。また役場のある場所は日の出という地名なのも夕日にこだわる私としては不思議なご縁を感じました。大田のホテルに泊まって町長さん、議長さん、議会事務局長さんの顔を思い浮かべながら例によってハガキを3枚書き綴り、失礼とは思いましたが送っていただいた石井さんに託しました。

  「利根川に かかりし橋を 越え来れば 地球の裏から 目指す町あり」

  「小泉が 今では立派な 大泉 夢と知恵にて 更なる飛躍」

  「芋焼酎 下戸の俺には 猫小判 売り方次第 千両箱なる」

  「ブラジルに 乗っ取られそな 商店街 ここで奮起だ やるしかないぞ」 

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shin-1さんの日記

○船旅

 私は漁村で生まれ漁村で少年時代を過ごしました。水産高校を出てからふるさとに帰り7年間も漁師をしていたこともあって海との関係が深く、役場でも四年間水産を担当しました。またシーサイド公園では漁協婦人部のおばさんたちと一緒になってじゃこ天などを開発し様々な海を巡る仕事に携わってきました。また退職した現在も請われるままに地元漁協の活性化について委員会の取りまとめを依頼されるなど、海との関係は生涯にわたって続くものと思われます。私はそんな生い立ちが心を揺さぶるのか水産高校の練習船愛媛丸での遠洋航海や、総理府派遣青年の船で2ヶ月を超える船旅も経験しているのです。ですから海や船は私にとって切り離すことが出来ず、調べて船のルートがあれば多少時間がかかっても船旅の方を選ぶのです。

 先日九州の福岡博多に行きました。福岡県観光連盟の招きによるホスピタリティの研修でしたが、数日前懇意にしている関西汽船の浜田さんと出会ったのを機にふと松山~小倉ルートがあるのを思い出しました。飛行機だと松山空港からひとっ飛びなのですが、飛行機は性に合わない性格から極力避けるため、このルートを選んだのです。松山で会合を終えて時間があったので本屋へ寄ったりして過ごしていると浜田さんから連絡が入り、急遽船着場で会うことになりました。関西汽船には一昨年まで支社長として本町出身の池富さんがいたので一度お邪魔したこともあり事務所に案内されました。

 浜田さんはその日私が書いたブログの文章を既にプリントアウトして持っており、細かいところまで気の付く方なのです。そのうち浜田さんが「若松さんいい人を紹介しましょう」と、まだ乗船の始まっていないフェリーの船長室へ私を案内してくれました。多分普通の人は立ち入り禁止区域なので滅多に入れないのですが、ブリッジの横の船長室で出港準備の忙しい時間なのに面談してくれました。浜田さんや船長さんの話だと一度私を訪ねて双海町役場に来られて面談しているそうで、宇和島水産高校の後輩とのことでした。船長といえばこのお船では一番偉い人なのですが、そんなそぶりは微塵もなく短い時間ながら四方山話に花を咲かせました。

 やがて出航時間が近くなったのでブリッジに案内され船長さんと記念写真を撮りました。そして私は2等船室のチケットの場所へ行こうとしたのですが、浜田さんの計らいで特一という部屋へ案内されました。この日は木曜日ということもあって乗客も比較的少なく私の部屋は4人部屋だったのですが私一人専用でクルージングを楽しませてもらいました。私は庶民派なのでいつも2等船室を利用します。膝や腕がすりあうような混んだ船室は様々な会話が交わされ、それがまた旅のよき思い出となるのです。

 夜9時55分に松山観光港を出港した船は穏やかな瀬戸内海の航海を続け早朝5時には小倉港に無事入港しました。明けやらぬ小倉の街を小倉駅まで歩き、一番列車に乗って博多に着き駅の食堂で温かい味噌汁とご飯を食べました。

 旅情とはこんなものなのです。速いスピードの時代に、ゆっくりのんびり旅を楽しむ、それでいて安い旅、もう文句の付けようのない船旅でした。これからも折にふれこんなスローな旅を楽しみたいものです。でも私の安眠の影に船を動かしている人のいることを忘れてはなりません。

  「特一の 部屋で快適 小倉行き 起きれば九州 朝街歩く」

  「船長と ブリッジ談笑 ひょっとして 俺もこの船 乗っていたかも」

  「窓辺より 遠くにかすむ ふるさとの 辺りを眺め 夜船進む」

  「人生は 分らぬものよ 今の俺 海を目指した 昔懐かし」


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shin-1さんの日記

○朋樹プロジェクト

 娘の入院から始まったわが家での孫育てのことを、わが家では「朋樹プロジェクト」と呼んでいます。孫のことくらいで大袈裟なとお思いでしょうが、娘婿・私・妻・次男という忙しい人間揃いの周辺だけでは日程がかみ合わず、結局は松山に住んでいる長男も巻き込まなければこのプロジェクト事業が成り立たないのです。

 まずこのプロジェクトは毎週日曜日の夜娘婿から届くメールによる娘婿のスケジュール調整から始まります。大学に勤める娘婿の日程は年度末の忙しさもあって中々超多忙のようで、娘婿の日程の詰まっている日をみんながカバーするのです。私はこのところの県外出張続きで日程の塞がっている日が多く当てに出来ないと妻からこぼされていますが、それでも朝夕の松山にある幼稚園への送り迎えはこなそうと努力しています。妻は月曜日と金曜日は夕方遅くまで勤務があるためおやじの食事の世話や家事全般で目が回るほどの忙しさです。お陰さまで少し太り気味だった体重もどんどん落ちて今はスッかrスリムになったようです。次男は来月の国家試験に向けて追い込みだし演劇の発表会も控えていて連日連夜充実した寝不足の日々が続いているようです。そこで登場するのが長男です。設計事務所に勤めているので、今夜は仕方なく息子に幼稚園お出迎え送迎を頼むことにしました。長男は大の子ども好きで孫の面倒を見ることには慣れているため最適ですが、それでも仕事が終わってわが家まで送り届けることは大変なようです。息子夫婦も8月には待望の子ども誕生の朗報が入っているだけに、子育ての練習とばかりに一所懸命世話をしてくれているようです。

 昨日は日曜日だったので久しぶりに孫を連れて娘の入院している病院に見舞いに行きました。朝方の雨もあがり暖冬のおだやかな晴天に恵まれて、孫もウキウキしながら母親と再会し母子ともが安心したようでした。自分の勤める病院に入院する何とも奇妙なことなのですが、娘も母子ともに少し落ち着いた様子ですが予断は許さないようでした。

 帰路、他の人のお見舞いの品を高島屋へ買いに行く妻を近くの路上に車を止めて待っておりました。昨日は人の出も多く何処も満員の状態で込み合っていました。突然孫が「おじいちゃんウンコ」というのです。急に「ウンコ」といわれても困ったもので、近くの駐車場を探しましたが、お互い携帯を持ち合わせていないため連絡が取れないため、仕方なく路上空き地に車を止めて付近のトイレを足早に探して走りました。結果的には松地下の商店街しかなく、腰に爆弾を抱えていながら火事場の糞力よろしく、地下への階段を孫をおんぶして走りました。孫はトイレで大きな糞をして、「おじいちゃん僕のウンコ腐ってないよね」とすまし顔でいうのです。「うん、朋樹君のウンコは腐っとらん」と真顔で冗談を言い合いました。多分路上駐車なので駐車違反の張り紙をされるだろうと覚悟してのウンコ騒動でしたが、帰ってみると近くに駐車違反の監視員が近づいていましたが事なきを得たようです。悪いことは出来ませんね。

 孫がわが家に来始めてから既に一ヶ月近くが経ちました。孫も今ではわが家の太陽のように明るく輝いています。風呂に入れたり、食事をさせたり、寝かせたり、孫中心の毎日です。時には眉毛を10時10分にしてしかってみたり、8時20分にして眉を細めてみたり、一喜一憂の日々です。でも何故か孫が可愛いおじいちゃん、おばあちゃんを楽しくやっているこの頃です。今年は娘夫婦に、そして長男夫婦にそれぞれ子どもが生まれる予定です。一人だった孫も一挙に3人になる予定です。妻の苦労たるや大変なのでしょうが、これも親の務めと思い一生懸命サポートしてやりたいものです。

 「朋樹プロジェクト」は楽しくも忙しいわが家の一大事業となっています。

  「孫の手で 肩を叩いて くれました 優しい心 育ててやりたい」

  「じいちゃんに 叩かれ痛いと 妻にいう 孫の知恵です 助け舟呼ぶ」

  「このウンコ 腐ってないと 孫が聞く 糞は腐って 出るものなのに」

  「お兄ちゃん 盛んに自分 ピーアール 兄弟できるの 余程嬉しく」 

  

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○第18番目の煙会所分家誕生の兆し

 博多から新幹線で関門海峡を渡り、新山口を経由してスーパーおきに乗り換え島根県益田まで講演行脚の旅を続けました。リトル東京とでも呼ぶべき発展いちぢるしい博多の喧騒と比べると、山口県や島根県はまるで時間が止まっているような錯覚さえ覚えるほどの落差を感じました。新幹線の速さに比べるとスーパーおきという特急列車もまるで鈍行列車のようだし、高層ビルの立ち並ぶ街並みを天に向かって仰ぎ見ながら歩いた博多の街とはまるで別世界のようでした。それでも博多には博多の、益田には益田の趣きや暮しがあるのですから世の中は面白いものです。対比や比較をどういう物差しでするかはその人の思いだし、一概にどちらがいいと甲乙つけることもできません。しかし私たち田舎者は安心と安全の上に胡坐をかいてそんな社会のあることすら知らないままに過ごすことの危険性もあることだけは知るべきだと思うのです。

 島根県益田の駅前に宿を取った私を迎えてくれたのは、大畑さんや寺戸さんなど日ごろ交遊を温めている社会教育の仲間でした。益田界隈への旅は教育委員会で地域活動のコーディネーターをやっている大畑さんがいつもスポンサーになってくれるので大助かりですが、今回も大畑さんの友人数人が集まり、やる気の創造をテーマに、明くる日のPTA連の研修会をさておいてかなり密度の濃い交流をやりました。集まったのは10人ほどでしたが日ごろ問題意識を持っている仲間だけにすぐに打ち解け、夜7時過ぎからはじめたというのに飲むのも食うのも後回しにした熱心な話し合いがもたれました。

 集まった人たちはとに角元気で活動していますが、どこかに不安と不満と不信を抱えていて、何かを学びたいという意識を持っている人ばかりで、そのきっかけとして私の出番もあるようでした。煙会所や人間牧場を訪ねたことのある大畑さんや寺戸さんは既にかなり密度の濃い青少年活動を常日頃から実践しているし、それぞれも益田や周辺地域で活動している人たちなので、結局は赤雁の里の渡辺さんの音頭で勉強会の旗揚げが決まりました。私の助言もかなり効果的に受け入れられて10年間ぐらい続けてみようといういうことになりました。

 嬉しいことにその拠点としてどこかに煙会所の分家を作ることになったのです。煙会所の分家は北は青森県三戸郡倉石村の八心堂から南は鹿児島県奄美大島瀬戸内町の第17縁開所まで17もあるのですが、今回結社しようとしている益田が18番目になります。18は演技のいい番号です。18番はおはこです。この番号を手に入れた彼らは喜び勇んで早速看板を用意して始めるようです。

 思えば30年前、わが家の敷地内に手づくりで作った煙会所が30年の時の流れの中で18にも広がったのです。非日常を目指した煙会所も時の流れの中でいつしか日常化し、そろそろ役目を終わるのかと思い、新たな非日常の拠点として人間牧場を作りましたが、煙会所の灯火はまだまだ健在のようです。近いうちに看板を持参して旗揚げを祝いたいものです。嬉しいね。

  「三十年 使いし私設 煙会所 既に十七 今年十八」

  「煙見て 狼煙の合図 揃い来て 心一つに 夢を語りぬ」

  「不平など いっても何も 変わらない ことを起して 一から始める」

  「常一の 教え地で行く 行脚にて 足元見つめ 地道に進む」


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shin-1さんの日記

○卵の思い出

 先日金融広報委員会から頼まれて野村高校へお話しに行きました。野村高校といえば県下で唯一畜産科のある、そして大相撲で活躍している玉春日関の出身校として知られている山間の高校です。長閑な田舎の高校らしく生徒さんも純朴で私の話を熱心に聞いてくれました。野村高校に通じる国道沿いには高校生が植えた花壇が綺麗に整備されて道行く私の心をすがすがしくさせてくれました。高校生の社会参加や社会貢献がこのように行われている姿に少し感動しました。

 帰りに高校で飼育しているウコッケイの卵を1パック教頭先生からいただきました。ウコッケイの卵は普通の鶏の卵より少し小ぶりですが、つい最近健康卵として注目される値段の高い卵です。

 私の少年時代はどの家も多かれ少なかれ鶏を飼っていました。鶏の世話は野良仕事に忙しい親に代わってもっぱら子どもの仕事でした。菜っ葉を切り刻んで糠と交ぜて餌箱に入れたり、水を替えたり、時には鶏舎のウンコを除けたり、寒い頃や卵を温め雛をかえす頃には新しい藁を敷いて温かくもしてやりました。鶏の世話をして一番の楽しみは産んだ卵を集めることでした。まだ産んだばかりの温かい卵を手に取った時の感触は何ともいえない嬉しい気持ちになったものです。

 しかし辛いこともありました。それほど毎日世話をしていた鶏がイタチや野犬に襲われて見るも無残に殺されたり、大きな青大将という蛇が卵を丸呑みした時です。また卵を産まなくなった親鳥は、大人によって冬の寒い頃首を切られ、毛をむしられて毛焼きされてその夜の食卓にのぼるのです。最初は何て残忍なことをするのだろうと涙が出ましたが、そのうち涙も枯れて「卵を産まなくなった親鳥はこうして人間に食べられて幸せよ」とまことしやかに諭す親の言葉に騙されて、空腹な私の胃袋に収まったものでした。

 卵は貴重品でした。卵を入れる籾殻を敷いた木箱が押入れの隅にあって毎日集めた卵を入れましたが、いつの間にかその卵は近所へのおすそ分けや、晴れの日の玉子焼きにされて増えることはありませんでした。私が一番好きなのは玉子焼きと卵ご飯です。今も玉子焼きと卵ご飯が大好きなのはこの頃の影響なのでしょう。特に卵ご飯は熱々の炊きたてご飯に卵を割って乗せ、少し醤油をたらしかき混ぜるだけのシンプルな定番なのですが、これが日本食の王様ではないかと思えるほど美味しいのです。最近山陰地方ではこの卵ご飯をテーマにまちおこしをする所もあって、卵ご飯専用のお醤油も作られたり、卵かけご飯のシンポジウムまで開かれいるようです。

 野村高校からいただいたウコッケイの卵は早速卵かけご飯にして食べました。餌にもこだわっているのでしょうかこの卵は鮮やかな黄色をしていて、箸でつついても割れないほどの盛り上がりと濃いさでした。その美味しかったこと、孫でさえもその味は分るのか「美味しい美味しい」といって食べてくれました。

 不思議といえば不思議です。あの鶏が何でこんな丸くて美味しいものを産むのか、凡人な私には想像もつきません。卵の値段は相変わらず昔と変わらぬ安値だし、鳥インフルエンザと称する病気が大流行し、宮崎県の養鶏場では鶏が大量死して、皮肉にもその対応が新しい知事さんになったそのまんま東さんの初仕事のようでした。

 鶏が先か卵が先かいつも議論される鶏、特売の度にテッシュペーパーと同じように安く粗雑に扱われる卵を可愛そうに思いながらウコッケイの卵を美味しくいただきました。

  「卵手に 取る度思う 温かさ 少年の頃 鶏舎の中で」

  「熱々の ご飯にポンと 割る卵 醤油一滴 これぞ逸品」

  「来店の サービス品に 出る卵 何でこんなに 安いのだろう」

  「卵にも 上等品が あるという 一個百円 食えば分るわ」 

 

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