shin-1さんの日記

○何もそこまで

 人間とは得てして勝手な動物です。寒い冬は暖を求め、暑い夏は涼を求めてその快感を得ようとします。また夏に冬のものを食べ冬に夏のものを食べる季節早取りなどは日常茶飯事のこととなってきました。しかし世の中には「何もそこまで」と思えるような度が過ぎたことがいっぱいあるのです。

 冷房は今や常識、動く車の殆どは窓を閉めて冷房し、家だって冷房のない家は「えっ、冷房がない?」なんて不思議がられるのです。しかし不思議な事に私の家では冷房もなく(本当は応接間に一台あるのですが、使い方が分らないほど使わない)陸風と海風の吹く場所にあって日本家屋特有の天然の心地よい風が家中を吹き抜け快適なのです。一昨日娘の勤務の関係で孫を幼稚園に迎えに行きマンションへ連れて帰って子守をしていました。私はどうもないのに孫はやたらと汗をかくのです。「おじいいちゃん暑い」という孫の声に気がつくと冷房を入れるのを忘れていました。慣れないことなので戸惑っていると3歳の孫が「おじいいちゃん冷房はこれ」とリモコンを持ってきました。孫の暮しは冷房が当たり前になっているので、自然は不自然と逆転し冷房が自然で自然の風は不自然になっているのです。私は娘のマンションへ行って部屋の中で過ごすとついつい息苦しくなります。窓を全て締め切り、笑うことも音を立てることも全て上下左右の顔も知らない住人を意識して暮らしてゆかなければなりません。ましてや隙間のない部屋はまるで空気さえも止まっているのです。「こんな空気を吸っていたら今に病気になる」と思うので、娘のいないことをいいことに窓を開けて外気を取り込むのですが、外から入る空気は「美味しい」と思ったりさえすることがあるのです。

 水を容器に入れて一週間ほおって置くと水は完全に腐ります。マンションの部屋の空気もひょっとしたら腐っているのではと思うこともしばしばです。こんな空気を吸うから体調を崩し心の病にかかるのだと思うのです。

 最近の会議は強い冷房で寒くて風邪をひくのではと思うほどです。背広を上に羽織らないと長時間の会議は持ちません。何もそこまで冷房しなくてもと思うのですが、集中冷房ではコントロールが出来ないそうです。昨日視察に訪れた広島の団体の方もバスの前の席は冷房を上げてといい、後ろの席はもっと冷房しろとまちまちで、冷房も百人百様の感じ方があると感じました。

 ハモの美味しい季節がやって来ました。湯引きした純白のハモに梅味のタレをかけて食べる食感は夏だ、旬だと思わず叫んでしまいたいような気がします。でも真夏だというのに早くも新米、早くもみかん、早くもふぐ、早くも梨だと騒いでいます。一番賢い消費者は食べ物の旬を知ってて、その季節に旬を食べる人です。その季節は秋刀魚が安いように美味いものを一番安値で食べられ体にいいのですから、これくらいいいことはありません。セレブだと自認している人は別でしょうが、私たち庶民は少し利口な人間になって自然的で健康な暮しに心がけたいものです

  「お父さん あなたはスイカで 生きている 夏だからこそ 旬が一番」

  「まだ買わぬ まだまだ食わぬ 俺の意地 今旬早速 風流楽しむ」

  「とうきびを 焼いてパチパチ 七輪の はねる音にぞ うちわ似合って」

  「ビール止め 代わりにお茶で 乾杯す 喉はあの味 既に忘れて」

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shin-1さんの日記

○悲しい出来事

 「もしもし若松さんですか」けたたましく感じる携帯電話の呼び出し音で目を覚ましたのは5時ころでした。普通はこの時間起きているのですが、前日の夜が遅くその朝に限ってまだ布団の中でした。「はいそうですが」という聞き覚えのある電話の向こうの声に不吉な予感を感じつつ耳を立てました。「HOさんが亡くなりました」といった途端相手は声を詰まらせました。涙声の話しによるとHOさんが亡くなったのは推定3日前だそうです。推定というのは亡くなって3日目に見つかったのだそうです。奥さんが60歳で亡くなってからHOさんはこの2年ずっと一人暮らしでした。近所の人が回覧を持って行きチャイムを鳴らすが家の中は電気がついているのに新聞受けの新聞も取り込んでおらず、異変に気付いて友人に立会いの下で警察と中に入った時にOHさんは台所の隅で3日前既に死んでいたのです。検死や家宅捜索など慌しい手続きを終えて知人の私への第一報となったのです。

 丁度一週間前、私と妻はHOさんと3人でビアガーデンへ飲みに出かけました。酒を飲まない私たち夫婦ですが酒好きの彼と伊予鉄道後駅で夕方6時に待ち合わせて伊予鉄3階ビアホールの人となりました。奥さんが亡くなってから落ち込みが激しい彼を気遣って年に数回誘うのですが、その度に嬉しそうに参加してくれました。この日もいつになく嬉しそうで、私が持ってくる中ジョッキをさも美味しそうに飲み干しながら過ぎ越し思い出話に花を咲かせました。

 私との出会いのこと、私たち夫婦が仲人した息子さんの結婚式のこと、飲み屋で「ふるさとの灯台」という

歌をカラオケで歌ったこと、下灘漁港の隣に埋め立て造成した公園の下書き絵を書いてもらったこと、奥さんが亡くなってから一人身になって人生を儚んで生きている寂しいこと、奥さんの3回忌法要を先日済ませたこと、広島のお墓の草刈はそれは大変だったことなどなど、少年時代に原爆にあったという彼の思い出まで遡ってまるでドラマを見るようなお話でした。今思うに生前中誰かに聞いてもらいたかったのではないかと思うのです。

 私たち夫婦はほろ酔い機嫌の彼を車に乗せて堀江の自宅まで送り、「まあ上がってお茶でも」といういつものパターンで、彼の入れた麦茶を飲んで「また会おう」と約束し9時ころ彼の家を後にしました。明くる日私は朝早い高知県への出張で留守でしたが、家へお礼の電話がかかってきたと、妻から出張先へ電話をかけてくれました。その電話が最後になろうとは夢々思いもしませんでした。

 彼は几帳面な性格で、家の中はとても男やもめの一人身生活とは思えないほど掃除も行き届き、お邪魔する度にその暮しぶりに妻も私も感心したものでした。

 昨晩の通夜には身寄りが少ないためごく親しい人だけでしたが、私もその親しい仲間に入れていただいて思い出話に花が咲きました。既に棺に納められている彼の顔は残念ながら日数が立っているため皆さんに公開はされませんでしたが、私はご親族と一緒に束の間の涙の出会いや別れをしました。通夜の読経が流れる中で人はばからず一人息子は涙を流していました。母の死も父の死も死に目に立ち会えなかった悔しさが滲み出ているようで、無邪気に遊ぶ子どもさんの声が余計涙を誘ったのです。

 数日前普通見もしない彼の夢を見てビアーガーデンに誘ったことは、いい彼へのはなむけとなったと、妻と二人で話しました。それにしても僅か一週間前の生の土曜日、奇しくも一週間後の死の土曜日、この落差を思うと人生のはかなさをただただ嘆かずにはいられませんでした。

  「通夜の席 カレンダーは 七月で 捲ることなく 人生終わる」

  「今思う 死出の旅路の 予言かな 夢に出てきて 俺を誘った」

  「死んでから 三日も知らぬ 死に方を 仏番人 坊主に文句」

  「今頃は やっと会えたと 手をつなぎ 先行き人と 再会悦び」   



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shin-1さんの日記

○広報配り

 合併するまでは町の広報もそれぞれの組長さん宅へ直接送られていましたが、合併してその広報が一括して自治会長の所へ届き、その広報を自治会長が配らなければならなくなりました。市役所のおっしゃるのには、「旧伊予市でもやっていることですから」とあなたの義務と言わんばかりです。「私は広報を配るために地元から選ばれたのではない」と言ってやりましたが、最後には「あなたには何がしかのお金を払うのですから」と開き直られました。「じゃあ、お金は要りませんから」と突っぱねましたが、担当者も困った様子なのでおめおめ引き下がりました。しかし仮に自治会長が車の運転の出来ない人だととこれはもう悲惨です。灘町という300戸弱の自治会の組長さんの数は27人もいます。端から端まで広報を配ると単車で走っても有に2時間もかかるのですから、1ヶ月に1度といいながらこれは大変な仕事なのです。

 今日は月末なので昼過ぎ宅配業者が広報をどっさり玄関に届け受領サインをして帰って行きました。「ああうんざりだ」と思いつつ紐を解いて順番に並べ替え、単車に積み込んでまるで宅配業者のように配って回ったのです。組長宅は過去3回回っているので、少し慣れたのでしょうか今日は約1時間で済みました。昼下がりの一番暑い時間だったものですから、暑くて厚くて汗だくの配布となりました。単車を止め荷台に積んだキャリーの中から順番に取り出し、組長さんの家の郵便受けの上に置いて行くのですが、中には大きな番犬がいる家もあって恐る恐るの配達です。今日配った広報が組長さんから各家々へ配られるのは2日後くらいになるのでしょうが、私が子受けなら組長さんの仕事はさしずめ孫受けくらいに相当します。

 広報を配布しながら自分の自治区内を走ってみると今まで気づかなかった色々なことが目に付きます。潮水が流れ込む上灘川には草ふぐが遡上して涼しげに泳いでいましたし、少し上流には鮎が沢山見えました。しかし残念な事にゴミを捨てる心ない人もいて川の汚れが気になりました。

 天一稲荷神社には茅と竹で作った夏越しの丸い輪が取り付けられ、お参りの人を待つ準備が整っていましたし、私を介して市にお願いしていた5丁目の側溝工事も殆ど終わって綺麗に整備されていました。自治会長の仕事は地域の皆さんの幸せ実現にあります。こうして地域内をくまなく歩くことも必要なことで、広報を配りながら様々な問題点を見つけて少しでも解決したいと思っています。

 そんな矢先、「区長さん」と呼び止められて「国道の橋のたもとに亀裂がある」と土木事務所に取り次ぐように頼まれました。市役所の職員を介して早速問い合わせをしたところ、土木事務所はその件について知っているとのことでしたが、その人への報告もあるので再度の確認をする約束をしました。

 市役所への苦情も多く自治会長の仕事もやってみると中々大変なようです。

  「広報を 単車に積んで 配りつつ 苦情要望 聞いて取り次ぐ」

  「草ふぐが 気持ちよさそに 泳ぐ川 潮満ち来たり 夏昼下がり」

  「番犬に 吠えられ俺は 見方だと 言っても通じず 更に吠えられ」

  「ご苦労さん ねぎらい言葉 返り来る 嬉しさ余り 少し胸張り」 

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shin-1さんの日記

○暑中お見舞い申し上げます

 「毎日暑いねえ」で始まる朝のあいさつ。梅雨明け間もないうっぷんを晴らすように連日30度を越す猛暑が続いています。全国の親しい友人からは沢山の暑中見舞いが舞い込んで、暑中見舞いをまとまって出さない私としてはちょっとしたパニック状態になっています。というのも暑中見舞いをより分けながら返事を出さなければならないからです。連日10枚以上のハガキを書くのですが間に合わなくて、失礼する人がいるかも知れませんが、このメールでご勘弁願います。

 さて、私の元に届いた一昨日だけの暑中見舞いを見てみると、人それぞれに工夫を凝らしていて私にとっては大切にしまって置きたいようなものばかりなのです。

 先日女性3人だけで人間牧場にやって来た宇和島の川口律子さんは、何とNO1、NO2と2枚シリーズでのハガキです。「一枚ではとても書き足らなかった」と言わんばかりのアピールが存分に伝わってくる内容です。私も時々このように2枚に書くことがあります。「それ程書くことがあるのなら手紙の方がいいのに」と思うのですが、受け取った方はとても嬉しいのです。

 広島総領の和田芳治さんからは自慢の絵に添えて言葉ハガキが送られてきました。人間牧場で開いた逆手塾の心境を「歩みつづけていればいい人、いい営みと出会える。またまた確信しました。芽吹いたものに『水やり』を、是非私のふる里へも。六」と味わい深い言葉が添えられていました。

 島根県益田市の大畑伸幸さんからは複写ハガキです。ハガキに凝っている人がよく使うのですが、私はまだやったことがありません。複写ハガキは書いた内容が手元に残るのですが、ただでさえ家中がハガキだらけなので大畑さんの真似は出来そうもありません。大畑さんは先日人間牧場へ来られましたし、私が先日講演に行った折、激しいどしゃ降りの中を田吾作という飲み屋で歓待をしてもらった感想を書かれていました。

 広島県福山市の平井悦夫さんは「ときめ木堂の悦びタイムス」というハガキ通信を送ってくれました。もう148号にもなるようで凄いの一言に尽きます。彼もハガキの達人で、私は彼からハガキの極意を教えてもらったのです。彼のハガキの特徴は空白がないほどはがきを存分に利用することです。表も裏も文字でびっしりです。今月号には韓国旅行のことが書かれていました。

 夕日に詳しい上村修三さんからは東京転勤の知らせと、東京駅で立ち寄った新潟夕日写真展の模様が、その展示会で手に入れた美しい夕日の絵葉書にしたためられて送られてきました。上村さんは折に触れ夕日の情報を私に流し続けてくれる人で随分博学な人です。一度会いたいと思いつつその夢は未だに実現していないのです。

 島根県益田市の広畑信恵さんからは、先日種公民館で開かれた時、控え室でツーショットで撮った写真をプリントして送ってくれました。「女房妬くほど亭主持てもせず」ですから、わが奥さんも「可愛い人じゃねえ」で軽く流されました。彼女とは島根県六日市町で知り合い、長年の念願が叶って種公民館に呼ばれたのです。秋には人間牧場へ来るそうです。

 喜多郡内子町大瀬の明応寺の仙井和子さんは私の話を最近2度も聞かれたお寺の奥さんです。9月12日に人間牧場へ来られる約束ですが、合掌と結んだハガキは何となく気品が漂っています。明応寺も一度は訪ねたいお寺です。来月はお盆月で何かと仏事も多く大変でしょうが頑張って夏を乗り切ってください。

 広島県海田町の杉本幸穂さんからは先日行った広島自治研修センターでの講義への感想がしたためられていました。「心の底から自分のまちを愛して。心の底からまちづくりを楽しんで。心の奥底にはひたむきで真剣な思いを秘めて。ハーモニカの音がやたらとあったかくて優しくて。」と結んでおりました。9月30日には再会予定です。

 人にめぐり会って人を気遣うハガキを書く、暑中見舞いのハガキ一枚一枚の向こうに人との出会いのドラマがあるのです。今日はどんな出会いのドラマが生まれるのでしょうか。楽しみです。

 (昨日の夜、このブログを書いて登録配信したつもりが、「自分のブログを見る」をクリックすると何にも出てきませんでした。眠気眼の仕事は得てしてこういうものです。同じ文章は書けませんでしたが、同じ文章を2度打つと随分早く仕上がりました。)

  「この文章 書いたつもりが ミスをして 全て消されて また書き直し」

  「机上 暑中見舞いの ハガキ積み 汗だく書いた またもや届く」

  「うふふふふ 俺と彼女の 写真見て 思わずにやり 何笑ってるの」

  「メールが主 次第におっくう ハガキ書く 顔を浮かべて お元気ですか」  


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shin-1さんの日記

○夕日を語る

 昨夕、「ふたみ合宿村」という地元小学生対象の事業に招かれ、夕日の話をしに潮風ふれあい公園へ出掛けました。日没が7時13分でしたので、子どもを思い切って外へ連れ出し野外講演会となりました。子どもたちはかつて私が電気工事会社から譲り受けて作った電柱ベンチに腰掛け、西瀬戸の海に向かって座り、私は時折移り変わり行く天体ショーを振り返りながら出来るだけ分り易い夕日の話をしましたが、子どもたちは私の話はさておいてふるさとの夕日をしっかりと目と心に焼きつけたことでしょう。

昨日は天気もよく折から出た薄い霧がまるで絹のベールのように水平線辺りに広がって幻想の世界を演出してくれました。

 「あの島の名前はね、周防大島といって山口県ですよ。6月22日に一番北側のコースを通って夕日はあの辺りに沈むんですよ」「12月になるとあの夕日はだんだん西側のコースを通って大分、うーん丁度このあたりかな」「シーサイド公園にモアイ像があるだろう。あの真ん中のモアイ像が見ているのが春分秋分の日にしずむのが大分県姫島です」「あの島の黒曜石で造った石器が双海町東峰遺跡から出てきたんだよね。3万年前の古代人が黒曜石をどのようにして運んだか知りたくて、大きな木をくり抜いて丸木舟を造り、この海を140キロも航海したんだよ。シーサイド公園に展示している丸木舟は私たちが造りました」なんて話をすると、子どもたちの目は夕日に映えてキラキラと輝いて見えました。

 やがて天体ショーは素敵なクライマックスを迎えました。どうですこの茜色の夕日や夕焼けは日本一と呼ぶに相応しいでしょう。実はこの写真は私の講演中旧友の中尾先生が私の持参したカメラで撮ってくれたのです。どおりで上手く撮れてると思ってください。「夕日は沈み始めてからしずみ終るまで2分1秒です。夕日が赤く見える訳は・・・・・・・」と夕日に関する博学ぶりを披露しましたが、双海町の子どもはこのくらいの知識は知っているけれど、あえて同じような話を大脳にインプットさせました。

 私は木になるカバンの中からハーモニカを取り出し、この日の情景に最もよく似合う「赤トンボ」と「夕焼け小焼け」の2曲を吹きました。ハーモニカの音色は実に夕日に調和するのです。ハーモニーでしょうか。

 ついでにもう一本の和音ハーモニカを取り出して沈んだ後の余韻を楽しむため、下弦の月が西空に見えたので「月の砂漠」を吹きました。今の子どもにこの曲は分るかどうか分りませんが、BCMとしての効果はあったように思いました。

 かつて私は、永六輔さんと「夕日を見ない子どもたちへのメッセージ」というBS番組に出て、「夕日を見ようよ」と話したことがあります。そのお礼にいただいた永六輔さんからのハガキには「夕日はどこかの朝日」と書かれていました。直感した私は国立科学博物館にお願いし、双海の夕日が何処の国の朝日か調べ、夕日のミュージアムにライブカメラを取り付けインターネットでアクセス出来るようにして夕日と朝日の2元中継を試みたのです。この話題は大きな反響を呼んだことを夕日を見ながら思い出しました。

 夕日に想いを寄せて20数年が経ちました。私は今も夕日の語り部として様々な場面と様々な人に夕日の魅力を伝えています。殺伐とした世の中になった現代ですが、夕日を親子で見るような穏やかで平和な世の中になって欲しいと願いつつ会場を後にしました。

  「夕焼けに 顔染め見入る 子どもたち どんな明日が 待っているのか」

  「夕空に 響け下手くそ ハーモニカ 少しは演出 足しになったか」

  「凄いねえ 海に黄金の 道できた いつか二人で あの道歩く」

  「詩に託す 顔に似合わず キザですね だからいいのだ 落差あるから」 


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shin-1さんの日記

○ゼロへの回帰

 有難い事に最近は人間牧場がすっかり話題になって、人間牧場を説明する機会が増えてきました。「人間牧場って何」から説明するとまるでオームのように同じ事を何回も説明しなければならないので、いっその事テープにでも吹き込んだらとも思うのですが、それも出来ず少し消化不良気味です。しかし、これは人間牧場にとって「何故」「どうして」という極めて大切なことだと思い色々考えてみました。

 私たちは平和な日々の暮しの中でややもすると「何が出来るか」「何をしたいのか」という人間の本来持たなければならない意思なるものを、案外忘れて暮らしているように思うのです。私が足しげく人間牧場という非日常な場所へ通うのはその二つを探したり確認したりするためではないかと思える節があります。そう思うと人間牧場は私の心をたえずゼロに戻してゆく人間性回復、いわばゼロへの回帰場なのです。

 ①何が出来るか

 私という人間の持っている能力や技術に人並み以上のものは殆どありません。いわば並みの人間です。でも並み以下でもなく普通なのです。この並みで普通な人間が「何をしたいか」という夢を描き、その夢の実現のために人並みな努力をしてきました。結果的には多くの人の協力や時代の流れという追い風を受けてそれなりの成果を収めてきたのです。しかしそれは「何をしてきたか」であって、今や近未来に「何が出来るか」とは少し意味合いが違うような気がするのです。殆どの人は過去を餌に生きています。過去の成功や成果は確かにその人の大きな評価であるのですが、過去を餌にした「何をしてきたか」だけに執着すると、「これから何が出来るか」が軽んじられる傾向になるのです。私たちは今何が出来るかや未来のために何が出来るか常に考え行動できることが大切なような気がします。そのような思考を巡らすとこんな凡人の私でも何か新しいパワーが甦って若々しくなるような気がします。

 ②何をしたいか

 人生80年といいながら還暦を向かえセミリタイヤした私と同じような人間には、夢など早々見つからないし、例え夢が見つかっても「私には出来ない」と諦めるのが落ちなのです。何をしたいかには人間の飽くなき欲望が必ず付きまといます。しかし欲望と夢は違うのです。人間牧場を例にすると、別荘的なセカンドハウスであれば、お金持ちであって金さえあれば金に飽かして誰でも手に入れることができます。しかし人間牧場のような施設は思っても中々手に入りません。それは人間牧場が別荘と違う何かを求めているからです。人間牧場の周りには沢山の人が協力し、沢山の人が運営や知恵を授けてくれます。つまり人間牧場はまちづくりなのです。

 私は人間牧場へ足繁く通うようになって何が出来るか、あるいは何をしたいか、今まで見えなかったものが随分見えてきました。それはゼロへの回帰と呼ぶに相応しい出来事なのです。これからもこのゼロ回帰の空間で様々な何が出来るかと何をしたいかを発見したいし、訪ねてくる人にゼロ回帰を学んで欲しいと願っています。

  「ゼロという スタートに立って 考える 今まで気付かぬ 何かに気付いて」

  「何が出来 何をしたいか 考える 簡単だけれど 中々難し」

  「凡人が 非凡になるは 我を捨てる 随分迷って まだまだ入り口」

  「結局は 60かかって 元戻り 回り道した 俺の人生」

  

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shin-1さんの日記

○愛媛大学フィールドワークで内子へ

 「ヤッホー、梅雨明けだ」と思わず叫びたくなるような待ちに待った梅雨明けです。ご覧下さいこの写真。旅先愛媛県内子駅のプラットホームから写したのですがいい夏の空景色でしょう。今年の梅雨は一週間で1200ミリという記録的な豪雨で鹿児島や長野に大きな爪痕を残しました。梅雨明けが1週間も伸びるというのは異例で、その影響が各方面で心配されているようです。

 昨日は愛媛大学の学生と一緒にフィールドワークで内子町へ出かけました。今回も今治・松前に続いて鈍行各駅停車の旅なのです。最近の列車は特急重視、つまり儲け重視で田舎の各駅停車などはあちらの駅で5分、こちらの駅で5分と行き違いのため停車して何とも長閑なもの、目と鼻の先の内子へ行くのに松山発8時39分の列車が内子に着いたのは10時に8分前でした。

 内子は山間盆地の町なので梅雨明けの気温はかなり上がっていましたが、歩いて10分で内子分庁舎へ到着です。内子の本庁舎は合併して五十崎に移転しており、かつての賑わいはありませんでした。安川さんは非常に物腰の柔らかい方で、私たちと一緒にえひめ地域づくり研究会議の運営委員もしていますが、その縁を頼りの今回の研修依頼となりました。一際高い内子座の屋根が分庁3階の窓越しに見える会議室で午前中たっぷり2時間安川さんの話を聞きました。普通町並みの話はパイオニアである岡田さんの話を聞くのですが、合併後の地域振興とまちづくりについては安川さんの話を学生たちにどうしても聞かせたかったのです。

 年間60万人の観光客がある内子町が町並みや村並み、そして山並みとエコr-ジータウンをキャッチフレーズにして発展してきた経緯や、今後のまちづくりへ想いには学生たちも感心して聞き入り、質問も活発に行われました。

 午後からは暑い日差しの中、安川さんの案内で街中見学です。安川さんの講義をひとつひとつ確かめるように八日市から護国へと続く町並みを歩いて散策しました。さすが暑さが最も厳しい午後だったので観光客の数は少なかったようですが、それでも外国人や少人数の観光客が街ぞろを楽しんでいました。

 最初に訪ねたのは内子座という芝居小屋でした。文化会館華やかなりし現代にあってこの芝居小屋はまるで江戸時代にタイムスリップしたような建築物で、この施設を民意に反して残した先見性は高く評価されるのです。

 上芳我邸や下芳我邸はこの3年間の修復工事がほぼ終わり、工事柵の隙間からは邸宅の中庭やなまこ壁が夏の日差しに映えて歴史の重みを感じさせてくれました。

 護国の町並みを抜けて最後の訪問地道の駅からりに到着して、30分の自由時間を取りました。学生たちは思い思いの自由な時間を過ごしましたが、裏庭にあるつり橋は数日前の雨で増水して涼風が吹いていました。

 事務所に沖野さんという顔見知りの女性を訪ね、冷たい麦茶をご馳走になりながら四方山話に耳を傾け談笑し、束の間の視察研修を終え、内子駅長の楠本さんに別れを告げ再び車中の人となりました。

 今日学生に伝えたかったことは、行政職員の質の問題です。行政職員が地域資源を発見しその地域資源に磨きをかけると地域は輝きを増してきます。品格という言葉がありますが、まちにも町格というのがあって町格を上げないと観光などは出来ないのです。職員が優秀だとその地域の住民は幸せや経済の恩恵を受けますが、逆だと惨憺たるものです。岡田さんや安川さんを見ていつもそのことが頭に浮かぶのです。学生にはそんな理解はまだ無理かも知れませんが、今日もいい勉強をさせてもらいました。

  「町格を 上げる努力の 裏側に 足を引っ張る 田舎根性」

  「梅雨明けて さあ夏思う すぐ後に 早くも秋か 店先梨が」

  「本当の 旅はのんびり ゆっくりと 鈍行列車で 街を訪ねる」

  「学生の パーワーに負けじと 早足で 己が体力 まだまだ強し」 


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shin-1さんの日記

○野塾で来たことのある思い出の地・橘地区(20-7)

 25日に長生地区へ行った時、開会時間までの余裕が少しあったので長生地区周辺を散策して回りました。中脇さんの運転で公用車に乗せてもらったのですが、沈下橋も私には同じような橋に見えて何処をどう通ったのかまるでチンプンカンプンなのです。これではいけないと思いつつ、橘地区へお邪魔する前にもう一度その道を自分が運転してなぞってみたのです。「人の運転で連れて行ってもらった道は覚えられにくい」ということが良く分りました。

 まず江川崎の中心部から国道を左に曲がって長生地区の見える所までやって来ました。「ああ、あそこに先日行った集会所が見える」と確認し、その下の沈下橋に目をやりました。あの日はあいにくの雨模様だっ

たため、「えっ、こんなに綺麗な原風景だったかな」と見間違うほど沈下橋の影が川面に映えてうっとりするような美しさでした。

 そこから四万十川沿いに行くと、綺麗な緑色の橋が見えてきました。JR予土線の鉄橋です。雨上がりの山並みに同化してそれは見応えのある橋です。多分何処かの駅でこの風景は写真ポスターとして見た記憶があるのですが残念ながら忘れてしまいました。

 上流へ進むと左手に「はげ」という駅の看板が目に付きました。西土佐へ最初に入った日、江川崎の駅で見た看板に次の駅名「はげ」と書いていたので一人笑ってしまったものでしたが、「はげ」は「半家」で、漢字で書くと別に可笑しくもなく「平家」がなまって「半家」となったという言い伝えもまんざら嘘ではないと思い、急で長い石段を駆け上がりました。高校生が一人列車を待っていましたが私の写真フラッシュに驚いた様子でした。どうです。長閑な駅の風景は各駅停車の列車の旅で思わず降りてしまいたくなるような衝動に駆られる駅なのです。

 「えっ、これは何」と思う真新しい巨大な橋がトンネルを抜けるとまたまた出現です。金がないと言いながら国も県もよくもまあこんなに金があるなあ」と思うほどの大きな橋なのです。見て下さいよこの橋、まるで東京の橋のようではありませんか。いくら知事さんの名前が「橋本」だからって、これは凄い投資だと思いました。この橋もまだ未完成で向こうからはトンネルの新しいのが既に完成して繋がれる日を待っているようでした。

 時間が迫ってきたので栴檀の木陰でUターンして戻って来た場所に、それは美しい川淵と中州を見つけました。愛媛県松野町から入った四万十の女性的な姿に比べこの川は男性的でいい姿をしていました。

 

 一人だけの散策で位置を確認した後中脇さんと藤倉さんと落ち合い、橘の川原に下りて四万十の川風にあたりながら四方山話や石投げ、それに珍しい形をした小石を集めてみました。山から流れて来たのでしょうがどの石も丸く、ストーンアートに適している石ばかりで、私だったらこの石で一儲けするのにと、冗談を言いつつ二人の写真を撮りました。この二人は「よっ、西土佐女」と思わず声を掛けたくなるような働き者で、それでいて謙虚姿勢にはただただ感心さされるばかりです。地域づくりは①地域を愛する、②地域のためにやる、③地域をより良い方向に導くという三つの基本が必要なのですが、この三つの想いを彼女たちは持っていると確信しました。

 私は橘集会所へは2度目です。旧西土佐村の若者がかつて野塾という塾を開いていたころ講師に招かれ橘集会所で熱心な討議を夜を徹して行ったことを覚えています。横山勝さんのその一人で、今は早期退職でどぶろく特区などの許可を受けてどぶろくを作っていると風の噂で聞いていましたので、会うのが楽しみでした。その横山さん、通称勝ちゃんは時間前に作無衣姿で格好いい姿で登場です。会場には幾人か知り人もいて笑顔の会釈で会が始まりました。「甦れ西土佐村」と題して、これまでの地域とは違った切り口で話をしました。○生活習慣から抜け出せない人々、○自分の事にならないと前へ進めない、○体も鍛えるが脳を鍛える訓練をする、○情報で気を育てる、○価値を売る、○何をしたらいいのか、○動機なしで人は動かない、自分のまちを自慢できるか、○何もしないと下りのエスカレーター、○情報の発信能力などについてお話をしました。

 帰り際途中参加の民宿経営の方に声を掛けられました。「私は民宿経営者で今日はお客が入って途中からの参加でしたが、とても面白く参考になりました。是非今度またお会いしましょう」と言って闇の中に消えて行きました。私も勝ちゃんから貰った何故かペットボトルに入れられて冷凍した川海老を積み込んで一路ふるさとへの道を、アクセルを踏み込みました。

  「旧友の 差し出す土産 いただいて ヘッドライトの 夜道急ぎぬ」

  「童心に 帰って小石 川面に投げる ひい・ふう・みい・と 数えつ自慢」

  「甦れ この村元気 人の手で 風を起さば 死ぬの待つのみ」

  「二ヶ月で 裕美ちゃん育ちゃん 愛称で 呼び合う程の 親しみ覚ゆ」   

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shin-1さんの日記

○橋のない川・橘地区(20-7)

 四万十市旧西土佐村へ入って今日で7回目になります。その間玖木の橋をめぐる会もそうでしたが、沢山の橋を見てきました。古くなった橋、現代的な橋、役目を終わった橋、これから架かろうとする橋など様々です。今晩は旧西土佐村の橘地区へ行く予定です。旅する巨人宮本常一はそのまちへ行くと決まったようにその地域の高台に登ってまち全体を見てから行動したのだそうです。最初から虫の目で調べるのではなく、鳥の目でまちを見てみることは大切だとふと思い出して、少しの時間橘の対岸から橘を見てみようと思い、村の中心部の大橋を渡ってカヌー館を越え走ってみました。突如として頭の上に未完成の大きな橋が霧の中から顔を出したのです。「えっ、これは何?」と思いました。

 聞くところによると合併して四万十市になった中村までは、四万十川に沿って国道とはいいながら離合も出来ない狭い道が走っていますが、最初の計画ではこの道に沿って改修する予定だったそうですが、それだと川までいらう結果となるので、トンネルと橋で別ルートを通るようになったのだそうです。勿論この工事は大手ゼネコンが手がけていることがわかるような看板が立っていました。

 ふと目をやると川の中には取り付け道路となるであろう対岸の方に向かってどでかい橋脚が既に何本も立っていて、この工事がいかに大きいか物語っていました。橋も道も村を発展するためにはとても重要な意味は誰しも分っていますが、橋のたもとで栄えていた食堂が立ち行かなくなったり、道が迂回したことで民宿が廃業に追い込まれた例は日本全国には枚挙に暇がないほど事例があるようです。

 昔作家住井すゑの「橋のない川」という人権問題を扱った小説があり、人権教育に携わる者の必読の書として読んだ記憶がありますが、ある意味からいえば橋はまさに富の象徴なのかも知れません。こんな立派な橋が出来るかと思えば、玖木の板橋のような古い橋も現在もなお残っているのです。

 西土佐には鶴が羽を広げたようなこんな素敵な橋もあります。廃校を利用した四万十学舎のすぐ近くに架かった斜張橋は素敵な現代橋で沈下橋とは趣きを異にしているようです。

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 ご案内の中脇裕美さんと四万十学舎を訪ねてスタッフと束の間の談笑を楽しみました。四万十川の魅力は何といっても夏です。事務所の黒板にはびっしりと夏休み中の予定が入っていました。社団法人となっている学舎の運営も、市からの委託費減額で中々大変なようでスタッフの皆さんは大変なご苦労をされているようでした。廃校利用のモデルケースだけにみんなで守って行きたいものです。

  「あの橋は いつになったら 結ぶのか 橋のない川 頭で想像」

  「この橋も ゼネコンさんしか 仕事ない ランク分けなど 誰がしたのか」

  「橋出来りゃ 人・もの・車 情報も 流れが変わり 大が吸い取る」

  「便利とは 都会の都合に 合わすこと 手放し喜ぶ みんな阿呆だ」 



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shin-1さんの日記

○梅雨の晴れ間のお客さん

 九州地方ではこの5日間の降り始めからの雨量は1200ミリに達したと、新聞やテレビが盛んに報道しています。それらの地方では水害が多く発生し、痛ましい死者まで出ているようです。わが家の裏山も過去3回も崩れその度に被災の体験をしてるだけに他人事とは思えず心が痛むのです。ふとそれが原因でチェンソーで切った右足の古傷を触るとあの悪夢が甦ってきて恐ろしくなりました。今年の梅雨は学校が夏休みになったというのに一向に明ける気配がないのです。

 昨日も予報では停滞する梅雨前線の影響で雨という予報が出ていて、夕方3時半に待ち合わせて人間牧場まで案内する予定を思いながら、「運の悪い人たちだなあ」と思ったものです。処がどうでしょう。曇がちだった午後の天気も少し薄日が差して何とか夕方まで持ちそうな雲行きとなりました。大河内結子さんと政策研究センターの清水さん率いるJA大西女性果樹同志会の9名と清水さんのファミリーや友人などが人間牧場へやって来ました。大西も田舎ですが人間牧場に通じるど田舎の道にはさすがに驚いた様子でした。

 

 清水さんのリードで私は150年の年輪を重ねた魚梁瀬杉の高座に分厚い座布団を敷いて座り、落語ならぬ落伍を約1時間余り思いつくままに話しました。穏やかな瀬戸内海の海を見ながら落伍が出来るのですからこれほど楽しいことはありません。観客もウッドデッキにや部屋の中に思い思いで陣取り、肩の凝らない私の話に熱心に耳を傾けてくれました。この落伍高座も清水さんの肝入りでいよいよ本格的な真打ならぬ進打目指した特訓が始まるようです。

 昨日の人間牧場水平線の家は無風で、藪蚊が沢山出てきました。蚊取り線香をたいて燻したのですが、何人かは藪蚊の餌食になったようで手足をボリボリかいていました。

 4時半から始まった研修会はその後同志会の皆さんが手作りした稲荷寿司やいぎす豆腐、黒豆ゼリーなど体に良い珍しい食べ物が並んで、それはヘルシーな食談会となりました。珍しくアルコールが一切出ないものですから、最初から最後まで素面の楽しい話し合いが出来ました。

 オブザーバーで出席した鎌田秋吉さんは自分の菜園で獲れたトマトとスイートコーンを差し入れし、博学な知識の数々を参加者に伝授していただきました。昨日はスイートコーンを茹でもせず生で食べることを始めて知りました。私は稲荷寿司が美味いので2個も食べたためスイートコーンは生で食べませんでしたが、私の分け前を貰って家へとって帰り妻に勧めましたが、結局は今夕の食卓に茹でて食べるそうです。

 今日のメンバーは夕日も楽しみの一つにしていたのですが、残念ながら少し顔を覗かせ、少し赤く染まった程度でした。まあ夕日鑑賞は次の機会にしておきましょう。

 今朝新聞を取り込んで食卓で食事をしていると、愛媛新聞の付録でついてきたアクリート(共生)という雑誌に大河内さんたちのグループが黒大豆で作った農産物とともに紹介されていました。昨日の交流会でも豆腐やゼリーなど、食べたこともないような健康食品を食べさせてもらいましたが、中々の味でした。

 ちなみに鴨池海岸からみる美しい夕日も双海町に負けじと紹介されていました。いいことです。オンリーワンだと思えば夕日は何処でも日本一になれるのですから・・・。

 昨日はこの研修会に先立って愛媛こまち編集部の清水春菜さんが取材に見えられました。この方は何と私の似顔絵を2度にわたって書いてもらった似顔絵の達人、長浜豊茂の清水さんの娘さんだと知ってびっくりしました。世の中は狭いものですねえ。

 梅雨の晴れ間の束の間の交流は、超多忙だった7月のスケジュールで少々お疲れモードだった私の心に元気を回復させてくれました。さあ今日も午後から往復250キロの高知県四万十への旅が再び始まります。

  「えっ生で 食えるの本当 嘘でしょう とうもろこしを 一本食いつく」

  「ハーモニカ 吹くは私で 皆さんは トウモロコシを まるで楽器に」

  「雨予報 大幅はずれ 得をした これも人徳 日ごろ行い」

  「酒なくも 交流盛んに 盛り上がり 心温め 山道下る」

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