shin-1さんの日記

○人間牧場での芋植え

 学社融合という言葉があります。学校教育と社会教育が手を組んで子どもたちを健全に育てようという運動ですが、このところの相次ぐ青少年を巡る事件や事故をきっかけに、青少年の健全育成はすっかり陰を潜め防犯的な守りの性格が強い方向に誘導されているようです。しかしその防犯も危機感のあったあの頃はみんながその方向や子どもを見ていましたし、子ども見守り隊なども機能していたのに、いつの間にかすっかり馴れ合いになって、公も私も責任逃れや付け焼刃的日本らしい場渡り意識が垣間見えるのです。

 「ふるさと教育」を提唱実践する私としては、これまで「無人島に挑む少年のつどい」など20数年にわたってボランティア活動を中心とした青少年の健全育成に取り組んできましたが、公教育に身を置く身として教育委員会教育長を辞めてからが本当の学社融合だと思い、人間牧場を開放し様々な活動に昨年から取り組み始めました。昨年は双海少年少女おもしろ教室のプログラムの一部である芋植えを人間牧場の農場で行いました。残念ながらイノシシに全ての芋を食い荒らされ、惨めな結果に終わってしまったのです。失敗経験こそ必要の立場から今年は「イノシシと人間の知恵比べ」をスローガンに芋植えを今年も5月26日(土)行いました。今年のプログラムは応募者が多く抽選までするという人気ぶりでしたが、選ばれた36人の子どもたちは元気に人間牧場へやって来ました。

(水平線の家での開講式)

(ウッドデッキで初夏を楽しむ)
 今年の特徴は主催する実行委員会のかかわりを多くすること、子どもをお客さんにしないことですが、事務局の職員がこうした視点に目覚めて学社融合を考えることは昨年に比べると凄い成長です。多分企画から運営まで理想的に全てを実行委員会が関わることは出来ませんが、実行委員会のメンバーである小学校の校長先生がお二人も開講式に見えられるなど、既に効果が出始めています。また子どもたちもこれまでのように全てお膳立てした所でやるのではなく、畝つくりやマルチかけ、イノシシの害から守る網囲いや空き缶によるイノシシ脅しまでみんなで製作設置しました。

(囲い網の支柱に使う鉄筋の赤ペンキ塗り)
(空き缶を使ったイノシシ脅し作り)

(リーダーの指導で畝作り)

 やがて全ての準備が整いいよいよ植え付けです。マルチに穴を開け土を掘って芋ツルを差し込んでゆくのです。普通はここからが始まりですが準備万端整った後の作業だけにみんな真剣に取り組んでくれました。

(芋ツルをマルチの中に差し込んで植える風景です)

(大勢でやるのであっという間に植え付け完了です。


 普通の作業はここまでですが、イノシシから芋畑を守るため周囲に網を張り巡らす作業が始まりました。漁師さんから貰った太くて頑丈な網を芋畑の周囲に打ち込んだ鉄筋や木柱、杉の木に張り巡らし紐で止めて行きます。

(支柱を打ち込む指導者たち、この日はえひめ地域政策研究センターの職員4名、大学生3名が応援に駆けつけてくれました)

頑丈な網を周囲に張り巡らせてゆきます)

(最後にイノシシに読めるように看板を立てました。「イノシシに告ぐ。このサツマイモは人間様の食べ物にて、食べるべからず。もし手足と口を出せば捕獲の上イノシシ鍋の刑に処す」と書きたいところですが、残念ながらイノシシは文字が読めないためこのような看板に落ち着きました。

  みんなでイノシシ脅しの空き缶を回りに吊るしてやっと完成しました。想像以上の出来栄えに参加者も指導者も満足しその前で記念写真を撮りました。


(ロケ風呂から下界を見下ろし写真を一枚)

 あっという間に4時間が過ぎ弁当を食べ、人間牧場のあちこちを散策したり遊びながらのプログラムでしたが、前日の雨が嘘のように晴れわたり、この時期としては慰霊と思える黄砂が降り注いで遠望視界が効きにくい状態でしたが、事故もなくみんな元気に手を振りながら歩いて下山しました。

 秋の芋畑会議が待ちどおしいですね。

  「昨年は イノシシの餌 作ったと 悪評たたかれ 今年は奮起」

  「活き活きと 芋植え励む 地元の子 眼下に瀬戸の 島々霞む」

  「このツルに 芋が本当に 出来るのと 不思議を問うて 穴に差し込む」

  「笑ってる どこか視線を 感じつつ 人間様は 馬鹿げた行為」 



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shin-1さんの日記

○名無しの赤ちゃん入浴中

 娘に第二子が誕生したのは5月18日の午後でした。流産の危険があると出産前2ヶ月の入院を余儀なくされていただけに私たち家族は気を揉みましたが、本人の苦しみは分りませんが時間的には安産で、赤ちゃんは出産直後保育器に入ったものの母子ともに健康なようでひとまず安心しました。退院も無事済ませ病院から実家へ直行し、ただ今早苗田に鳴くカエルとともに孫の鳴き声が聞こえる賑やかなわが家です。娘は18日が出産予定日で、ズバリ予定日に産まれたのですから、さすが助産婦を生業としているだけのことはあると見直しました。

 私たちにとって孫は二人目です。今年の8月には長男夫婦にも孫の誕生が予定されており、嬉しいことなのですが妻にとってはお産、お産後の世話など今までにも増して忙しい日々に悩殺されて疲労困憊といったところで、披露蓄積がうかがい知れます。少し手伝ってやりたいと殊勝な気持ちだけは持っていますが、食事や洗濯など私には門外漢で娘の産後の回復を祈りながら当分は賑やかさを気休めに頑張る日々が続くことでしょう。

 わが家の変化といえば孫が松山の幼稚園に通っているため相変わらず朋樹プロジェクトを続行しなければなりません。娘婿も新年度に入って忙しかった大学の仕事も落ち着き、少し余裕が出たのかただ今はマスオさん的存在でわが家から孫を連れて朝出勤し夕方孫を迎えてつれて帰る日々が続いてます。しかし孫にとっては退園の3時過ぎから居残り組みとして保育され、迎えが6時近くになると我が家へ到着するのは7時過ぎになるので、孫にとっても毎日お疲れモードで土日が待ち遠しいようです。娘婿の披露を少しでも軽減し孫を少しでも早く迎えに行くには、私の存在は貴重なようですが、このところ私の仕事も忙しく、次男が就職で一抜けした朋樹プロジェクトの穴埋めは私しかいないと、娘の視線や言葉が返ってきます。まあなにはともあれ鳴いたり笑ったりしながらもわが家は平和な日々が続いています。

 孫の暮しにも変化が見られ、「お兄ちゃんになった」ことを周りから強調されるし、母親を独占できた今までの暮しが一変したのですから、やっかみと嬉しさと自覚の行動が随所に見て取れます。愛情不足を感じてわがままになる部分もあるのですが昨日はそれまでしたこともないお漏らしまでしたようです。多分愛情の微妙な変化のせいだと思います。それでも赤ちゃんに少しでもさわりたいのか手を洗って赤ちゃんに近づこうとします。弟が出来たことの嬉しさとお兄ちゃんとしての自覚の芽生えなのでしょう。

 赤ちゃんの名前はまだ決まっていません。私のように出来る前から字画など考えず短絡的に名前を考え付けていたのと違い、昨晩も夫婦で盛んに名前について話し合っていましたが、朋樹のようないい名前をつけてやってください。



 昨日は夜赤ちゃんを風呂に入れました。風呂といっても娘は助産婦らしく、また時には現代人らしくベビー専用の風呂桶を友人グループで共用しており、これをたらい回しというのでしょうか、とにかく衣服も小さい時の洋服はみんなで譲り合って使っているようで、がっちりしたものでです。



 風呂に入れ始めると泣き叫ぶ赤ちゃんがピタッと泣き止みます。朋樹と同じように風呂好きなのです。赤ちゃんを風呂に入れる様子が気になるのか朋樹は側にやって来て私と一緒にジロジロ見学します。へその緒のついたおへそがやはり気になるようで、自分のへそをさわりながら見ていました。

 「赤ちゃんはどうしてこんなに赤いん」とか、「へそが可笑しい」と笑いながら赤ちゃんの風呂桶にみんなが集まる夜でした。

  「赤ちゃんは どうして赤いの 問われても どうしてどうして 赤だから赤」

  「小さくも 命のバトン 受け継いで 生まれし孫の 健やか願う」

  「さっきまで 泣いていた孫 湯に浸かり ピタリ泣き止む 気持ちいいのか」

  「人生の 始まりこうして 私にも あっただろうと 亡き母思う」

  

  

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shin-1さんの日記

○人間牧場はもうすっかり初夏

 四国のあちらこちらからは早くも水不足で取水制限なんて話題が報じられています。確かに今年の冬の降水量は少なかったと実感しますが、田植えや工業用水など水の心配をしないで済む私たちにとってみれば日々の暮しは雨が降らない方が断然過ごしやすいのです。でもその水不足が何年か前の水不足の時のように日々の暮しに影響することを考えると雨も適当に降って欲しいと願わずにはいられません。

 重信川水系の道後平野や伊予市中心部では裸麦の収穫も終りいよいよ本格的な田植えが始まりますが、私たちの身の回りの田んぼでは連休辺りから田植えが始まり5月の下旬には殆どの田んぼが田植えを終了しているようで、毎年早くなる田植えを見ながら、俳句の季語もすっかり様変わりしたとしみじみ思うのです。かつては田植えは農家にとって重労働の連続でした。牛を使った代掻きや苗取り、田植えは下を見てする作業だったので腰が痛くてたまらなかったようです。喜多郡長浜町(現大洲市)に伝わる豊年踊りのひとコマでもかがんだ腰や背中を伸ばすユーモラスな仕草が面白く表現されていますが、今は全て機械苗は専門農家に生産委託し、代掻きも植えるのも全て機械ですから、機械のいいのを持っている人は土に触って汚れることもなく農作業が出来る世の中になりました。しかし稲作農業は機械貧乏といわれるように機械に金、苗に金、農薬に金、手間に金と差し引けば完全に赤字になる農業者が大規模農業を除けば殆どだとも聞き及んでいます。田んぼに水を張った中に整然と植えられて早苗の姿はまさに阿部総理のいう「美しい国日本」を髣髴させるものです。

 人間牧場に3回目の初夏がやって来ました。一年目の初夏はまだ構想の域を脱していなかったので正式には2回目ですが、今年は過去の季節のめぐりを頭に入れて農作業を行い、既に2回も草を刈るなどかなり手入れが行き届いた感じがする今日この頃です。その人間牧場に大きな栗の木が一本立っています。「大きな栗の木の下で」の歌の題名ではありませんが今年も沢山の花を付けています。その威容たるやまさに堂々として緑の若葉を衣のようにまとった姿はまさに人間牧場の初夏を彩る原風景なのです。昨年はこの栗の実さえイノシシにやられ何ら打つ手もなく今年を迎えているのです。

 一方11本ある梅の木は今年も沢山の実を付けていて、去年の60キロほどではありませんがかなりの収穫が期待できそうだと内心喜んでいましたが、一週間前に吹いた南西の風に木々を揺らされかなりの量が落果しているようです。今日の新聞に七折の小梅の収穫最盛期の記事が載っていたので、もう果肉は十分食用になると思い、落果した梅の実を拾って我が家へ持って帰りました。梅果実酒なら使えるかもしれない3キロの梅の実を妻に見せると、妻は余り乗り気ではないようなので、自分でやってみようかとも思っています。

 時ならぬ南からの大風は表面には出ませんが、収穫間近な梅の実やビワにかなりの被害をもたらせたようです。梅はまだしもビワは袋かけという作業をした労働を考えると笑って済まされる被害ではないようです。

  「海バック 人間牧場 鮮やかに 緑の衣 初夏真っ盛り」

  「南風 梅を落として 去って行く 風に文句の 一つや二つ」

  「梅酒にと 落ちた梅を 一個ずつ 拾い集めて 妻に献上」

  「収穫の 時を待つよな 梅の実に もう直ぐだよと 声を掛けつつ」

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shin-1さんの日記

○忘れじょう

 今朝は昨日の雨が嘘のように晴れ上がり少し肌寒い感じのするすがすがしい朝です。例によって朝起きると敷地内別棟の隠居に出かけ、日課である親父のご機嫌伺いです。親父は既に朝の散歩も終わっていて今日の作業の準備をしながら私の来るのを待っていました。昨日あった事をまるで子どものように私に話すのです。90歳になる親父ですから耳も遠く、同じ事を必ず二度問い返したり答えたりしながらの会話なので魔泥腰いのですが、これも年寄りへの対応であり長男の務めと自分を納得させて対話をしています。

 親父の話によると昨日は近所の金物屋へ買い物に出かけたそうです。ところが店で買い物をしてお金を払うようになって財布を忘れていることに気がついたそうです。お店の主人は顔見知りで「いつでもかまわん」と言ったそうですが、親父はその言葉が嬉しくて「年寄りなのでまた払うのを忘れたらいけないのでこれから帰って持ってくる」と言い残して再び財布を持ってその店を訪ねたようです。「歳をとると物忘れが多くボケていけません。」と詫びを入れたそうですが、親父の心配は物忘れがひどくなったことだそうです。私はその話を聞いて「じいちゃん、財布を持っていない事を思い出したり、それを取りに帰る道を覚えているんだから大丈夫よ」と褒めてやりましたが、笑いながらどこか空しく歳をとることや死への不安がよぎっているようでした。

 歳をとれば誰でもピーク時のような記憶力は望むべきもありません。これは当然のことなのですが、それを悲観的に考え過ぎると「ああ俺も歳か、駄目かもしれない」と右肩下がりになってしまうのです。私は親父に「じいちゃん歳をとると忘れるのは当たり前、わしだって物忘れはあるよ」と自分を引き合いに出して話してやるのです。人間は忘れないと覚えていることがいっぱいあり過ぎて頭が爆発するらしい」とありもしない他愛のない話をしました。昨日のことも今日のことも全て覚えていると人間の脳は覚えることで混乱するから、忘れるのが丁度よいのです。

(中国四国青少年施設長研修会風景、顔なじみの大洲青少年交流の家の所長さんも参加されていました)

 そういえば私もつい最近は忘れることが多くなったように思います。私は出かける時忘れ物をしないよう心がけているつもりです。腕時計、携帯電話、ハンカチ、名刺、免許証などいわゆる出かけるための7つ道具を手で触って確認するのです。気になるカバンを提げていざ出陣です。ところが昨日は中国四国地区青少年教育施設連絡協議会一説長研修会が県立中央青年の家であって記念講演を頼まれて出かけたのです。前日の帰りが遅かったためレジメの作成が遅れ早朝になってしまいました。仕上がったレジメをプリントアウトするまでは完璧でした。それから食事を済ませて出かけたたものの、青年の家に到着してはたと気がつきました。プリンターの上に置いたままのレジメの存在を・・・・・。しまったと思いましたが後の祭りです。でも今の世の中は便利です。家内に電話をかけ青年の家のFAX番号を知らせて送ってもらい事なきを得ました。

 昨日の夜は日程のダブリでこれまたドタバタ劇です。自分ではちゃんと管理しているつもりでも相手とのコミュニケーションが上手くいかずお互いの思い込みで遠方から次の予定地まで移動できなくなってしまいました。講演が終わればそれで移動できると思っていた日程が夜の部の研修まで予定されていたのです。どちらを優先するか迷うのですがどちらも中途半端にある恐れがあるので、怒られるのを覚悟で決断しました。物忘れが自分の範囲内で終わればまだ良いのですが思いこみや勘違いによって相手に迷惑を掛けることの愚かさをしっかりと肝に銘じた一日でした。

 親父の物忘れという病気は息子の私にもまるで麻疹のようにうつりつつあるようです。物忘れの予防注射はないものかと思ったりしました。

  「物忘れ しないと頭 爆発す そんな戯言 親父笑って」

  「物忘れ しない注射は ないものか 多少高くも 求めるものを」

  「しまったと 何度も驚き 来たことか 俺の人生 ど忘れ人生」 

  「ああ俺も 親父の度忘れ 遺伝した 思えば親子 似てるもんだな」

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shin-1さんの日記

○凄いパワーの婦人会

 先日の日曜日、愛媛県では東の端ながら四国の中央と自認し合併した市の名前を四国中央市にした、市の婦人会総会に招かれ出かけました。新宮村、土居町、伊予三島市、川之江市が合併したため婦人会も大きくなり、出席者も多いと思われがちですが、この婦人会は旧市町村単位の婦人会にも何度かお邪魔していますが、とにかくよく集まりとにかく元気です。この日も会場となった三島福祉会館大ホールにはいっぱい人が詰めかけステージで話す私に大迫力を感じさせてくれました。

 四国中央市教育委員会職員とのメール・電話のやりとりで講演の打ち合わせを行いましたが、世の中には偶然の不思議な縁があることにも驚きました。先日愛媛県昇任校長・教頭研修会で横の席を引き当てて座った川之江南中学校の河村教頭さん(ブログで紹介済み)のお母さんが、何と連合婦人会の会長さんなのです。しかもこの日は河村教頭先生がお母さんを会場まで車で運ぶというおまけまでついていました。あいにく先生が部活動の指導のためとんぼ返りしなければならないことや、私と時間がずれていて出会うことはなかったのですが、メールのやり取りでこのことがイモヅルのようにつながって思わず苦笑してしまいました。とにもかくにも驚きました。

 さて最近は日本全国何処へ行っても婦人会という名の団体は退潮現象が顕著で、消滅したり消滅寸前の姿を目の当たりにします。かつては青年団とともに2大勢力を誇示した婦人会ですが、青年団などはもっとひどい状態でその組織のないまちやむらも多いようです。青年団も婦人会も戦後日本の復興に大きな役割を果たしてきたことは言うまでもありません。しかしそのような伝統が古い支配体質を生み、名前が古いとか役員になり手がなく次々と組織離れが起こり現在を迎えているようです。そんな実態を何とか解決しようと婦人会という名称を止め、女性の集いや女性ネットワークなどという名称に変えてみたものの、中身の変身が出来ず、結局は婦人会崩壊を早めてしまった所もあるのです。

 こうした婦人会の退潮を誘発したのは時代の流れに合わなくなったからだけではありません。行政と教育委員会の無策や安易な便利利用による原因も見逃すわけにはいきません。婦人会の役員=夫人の代表と勘違いして全ての公職を押し付け、火事や災害の度に炊き出しなどの雑用に酷使し続けてきたのです。当然役員の忙しさは倍増し「役員は忙しい」というイメージを植え付け役員になり手がなくなったのです。また社会教育団体として指導助言に携わるはずの教育委員会社会教育課も婦人会=婦人学級として文部省の補助金事業を押し付け、本来の婦人会の自由を補助金や助成金を餌にがんじがらめに縛ってしまったのです。特に婦人会の指導助言が担当者の無知で無策過ぎたことも反省しなければならないのです。

 「婦人会は何故なくなるのか?」、こんな質問に婦人会の役員は「メリットがないから」と答えます。「メリットって何?」と尋ねたら「シャンプーのことでしょう」何て笑い話が思い出されます。世の中には好きなことだけをする人をこの指止れ的に集めると目的がはっきりするので意識も高く、よく人が集まります。しかし婦人会のような組織は目的が多様で「婦人の暮しを高める」なんて漠然とした目的のためにかえって人の心を引き付けることが出来なくなっているのです。市民には好きなことだけをすればいいといった権利主張型市民もいますが、市民がわが住むまちに何が出来るか義務や参加参画を考えないとまちは自立の方向に向かないのです。

 私が提唱するまちづくり3つのキーワード、「楽しい」「新しい」「美しい」は婦人会でも求めて欲しい運度や活動のキーワードのような気がするのです。

 追伸

 後日私の基に御礼や感想といった沢山のハガキが届きました。打てば響く四国中央市の婦人会に乾杯です。

  「婦人会 名前が古いと 女性にし 変えてはみたが いっこう変らず」

  「婦人会 活発感じる まちの格 ないまち飛車角 なきに等しき」

  「行政の 無策が生んだ 悲劇にも 未だ気付かず 組織崩壊」

  「もう少し ゆっくりやろうよ 楽しもう 俺の話は 楽しいでしょうが」 

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shin-1さんの日記

○大恩人の卒寿

 私が公民館に勤めていた若い頃、私を全国という広い世界に押し出してくれた大恩人が二人います。一人は双海町の教育長をしていた中田豊さん、もう一人は県公民館連絡協議会の会長をしていた岡島明夫さんです。どちらも私の人生を語る上でなくてはならない思い出多き人なのですが、残念ながら中田さんは既にこの世を去っており恩返しが出来ません。岡島さんも90歳の高齢で入退院を繰り返し体力の衰えが気になっています。

 先日の日曜日公民館OBで組織する公友会の総会が今治市玉川町鈍川温泉であり、その際関係者も集まるので岡島さんの卒寿をお祝いしようという事になり、玉川町出身の井出サツミさんと中島町出身の古野セキエさと女性二人が優しい配慮で祝賀会が本人も出席して実現しました。さすがに足腰の衰えが目立ち終始用意した座椅子に座って感激の面持ちでした。

 私と岡島さんの出会いは公民館が縁です。岡島さんは県公連の会長、私は当時県の主事部会長でした。岡島さんが卒寿の謝辞で述べた思い出の中に私のはなしがありました。それは私が平の公民館主事という肩書きで香川県で開かれた第1回全国公民館研究集会の分科会司会をした時の武勇伝です。それまで公民館の世界では肩書きのない人が分科会や全体会の司会などしたことがないという信じられないような時代でした。岡島さんは自分の肝いりで司会に選らんだ事を中田教育長に電話を入れ了解をもらおうとしたのですが、中田教育長さんは「それはいいことです。本人の勉強にもなることなので是非協力させてください」と了承し、早速町長に話し旅費を予算計上してくれたのです。嬉しい全国大会への度立ちでした。私は当時は珍しいワイヤレスマイクを2本事務局に用意してもらいました。当時の全国大会はお昼ね出張(眠りこける)とトンズラ出張(途中で抜けて観光地を見て楽しむ)が横行して全国大会が形骸化していました。「眠っていたらマイクを回します。トンズラしたら記録係がきちんと名前を公表します」てな脅しとも取れる話を前置きして司会を始めました。普通分科会の司会はしか遺跡に座って司会をするのが常識な時代に私はマイク片手に午前中3時間午後4時間を動き回りました。平の公民館主事が果たしてどんな司会をするか全公連会長と事務局長が私の会場へわざわざ見えられその常識を超えた司会ぶりただただ驚き、その歳の全国大会の話題をさらったのです。

(数日前上京の際偶然にも前を通りかかった赤坂プリンスホテルです。ここで全国表彰を受けました。妻と幼い三男を連れて出かけたことが懐かしく思い出されました。)

 私が11年目でつかんだ全国公民館終了職員表彰の折にも中田教育長は旅費を組んでくれました。私は内助の功に報いるべく、高校の修学旅行以外行ったことない妻と小さい三男を連れて上京しました。その折も岡島さん私の表彰をわがことのように喜び東京で私たち夫婦のために祝賀会まで開いてくれました。

 私にとって忘れられない思い出はもう一つあります。それは公民館主事でありながら企画調整室係長、総務課係長などの兼務辞令をもらい双海町の町名変更騒動の片棒を担いだ咎で教育委員会から産業課へ異動を命じられた時でした。師と仰ぐ静岡県の朝比奈さんから「ぼうふらも人を刺すよな蚊になるまでは泥水すすり浮き沈み」という励ましを、岡島さんは「今が大事な充電期間」とエールを送ってくれたのです。この二つの言葉で気持ちが吹っ切れ、奥の深いこの言葉どおり急がず騒がずぼうふらになる事を待ち続け、次なるまちづくりの仕事で花開かせることが出来たのです。

 「人は人によりて人となる」といいますが、私にとって大恩人の岡島明夫さんの姿を見ていると30年後には私もあのような老人になりたいと思ったりしながら、感慨深げに尽きない話をしました。願わくばもっともっと長生きして欲しいものです。

 私の唯一の恩返しは更なる進化だと思いを新たにしました。

 その夜私は東京行きの出張があって、松山インター口発19時35分の夜行バスに乗らなければならないため、先生と硬い握手を交わして会場を後にしました。

  「大恩の ある人卒寿 祝にて 俺もあんなに 決意も新た」

  「恩返し 進化活躍 することだ 誓いの握手 力の限り」

  「両手花 やはり女性は 華やかで 九十なっても 色気大好き」

  「充電を せよと一言 言った人 それを守りて 今日まで生きた」



 

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shin-1さんの日記

○5年目の春

 愛媛大学法文学部総合政策学科の非常勤講師になってあっという間に4年間が過ぎ去りました。大学は4年で卒業だからこの際身を引くべきかどうか思い悩んだ結果、大学に勤める娘婿や友人の勧めもあって今年も教壇に立つ事になりました。大学に関わって何が一番良かったか尋ねられたら、やっぱり若い人に接することで随分気分が若返ったと実感しています。元々私は青年団活動の出身者でもあり、また教育委員会に長らく務めていたこともあって若い人とのつながりは同一年代の人に比べ比較的多い方なのですが、それでも決まったように毎週若い学生と接する仕事をしていると、本屋に行っても街を歩いていても若者向きに目が移るのですから不思議なものです。

 私が今年担当する学生は24人です。夜間主のため講義は毎週水曜日の午後6時から90分の授業ですが、事業の準備をしたり学生と雑談したりする時間を含めると大学では概ね3時間くらいいることにあります。大学の経験は社会教育主事講習の折約1ヶ月程香川大学で学び単位を取得しましたが、高校卒業の私にとって最初はドギマギの連続でした。普通講演会などに行くと担当者が全てを取り仕切って、講師の私は話して質問を受ける程度のかかわりで良いのですが、大学は自分がカリキュラムを立て、自分で資料を作って配布しなければなりません。2年目からその仕事は飲み込めましたが、学生にレポートを提出させたり点数をつけたりするのも一苦労なのです。それでも昨年や一昨年の学生にたまに大学構内で会うとみんな懐かしがって声を掛けてくれ、「あのフィールドワークの楽しかった」とお世辞をいってくれるのです。先日も当時の学生がわざわざわが家にやって来て飯を食って帰りました。夜間主の学生は昔は夜学といって働きながら学ぶ人が多かったのですが、勿論アルバイトはしていてもそんな若者は殆どいないし、年齢的にも比較的若い子が多いのも現代的だと思うのです。

 昨日はデジカメを持っていたので愛大キャンバスの緑したたるケヤキ並木の風景を写真に収めました。1ヶ月前には枯れ木のように殺伐としていた校庭も昼なお暗い雰囲気になっています。ただ惜しむらくはベンチの置かれた広場には学生が飲んだであろうジュースの空き缶やペットボトルが片付けられもせず無造作に置かれて美観を損ねていました。私もビニール袋で時々学生に見えるようなこれ見よがしに清掃するのですが、変な目で見られる程度で一向に改まる気配はないのです。私は思うのです。大学も小学校や中学校、それに高校のように自分が使った場所の掃除くらいはさせても良いのではないかと・・・・。こんな本音と建て前の違う教育を幾らやっても、社会に役立つ人間は育たないと思うのです。昨日は先生か学生か分らない中年の方が私と同じように空き缶を片付けていました。余りの嬉しさに「有難うございます」と声を掛けましたが照れくさそうに去って行きました。

 大学で空き缶やタバコの吸殻とともに困るのは自転車の駐輪マナーの悪さです。今年から私たちの駐車場はカードを差し込んで裏口から入る場所に移動しましたが、これまでは私たちの駐車場の入り口に車が入らないほど駐輪するのです。その度に車から降りて自転車を片付けなければなりません。雨の日などはずぶぬれになったこともありました。愛媛大学の向かい側には一本の道を挟んで私立の松山大学があります。仕事柄この大学にも行くことがありますが似たり寄ったりのようです。

 少子化の影響で大学も生き残りを掛けて色々な策をうち学生の確保にやっきになっています。私だったら「日本で一番美しい愛媛大学」なんてキャッチフレーズを掲げ、学生と先生みんなでピカピカの大学を作ったらみんなこの大学で学びたいという心境になるかも知れません。そんな大学に私の教室だけでも心がけて行きたいものです。

  「小中高 掃除するのに 大学は 何でしないの 不思議でならぬ」

  「緑濃い ケヤキの並木 くぐり抜け 学生たちの 顔見る楽し」

  「先生と 言われるほどの 馬鹿でなし それでも今は 私先生」

  「靴並べ 言われて学校 出来るのに 家庭で何故に 子どもできぬか」

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shin-1さんの日記

○孫は反抗期

 4人の子どもを妻が育てた私には残念ながら子育ての苦しみや喜びはそんなにありません。大きな声で自慢できることではありませんが、子どもとの思い出は妻にも親にも反対された子どもの名前を私の名前の一字を取ってこだわっえ付けたこと(長女ー一子・長男ー一心・次男ー一生・三男・一公)と、子どもたちを無人島還付に連れて行ったこと、子供の学校のPTA会長を6年間やったことくらいしかありません。妻は子どもが成長の過程で何度となく迎えた反抗期のその度に大変な苦労をしたといいますが、まあ乗り切って成長した今の姿を思えばそんなに大したことはなかったと思うのです。(これは妻へは内緒の話です)

 「おじいちゃん」の愛称で孫から呼ばれる私は、子育ての反省からか孫の面倒は自分でも不思議なくらいよく見るのですが、これまでは従順で何でも言う事を聞いていた孫が、近頃になってダダをこねることが多くなった事に気がつきました。今朝その話を娘のお産の都合で実家から通っている娘婿に朝飯を食べながら話したら「それは反抗期かもしれない」と意見が一致しました。反抗期は子どもの成長にとってはむしろ喜ぶべきことであって、対処法は簡単で「いけないものはいけない」とどんなに泣こうが叫ぼうがする事にしました。

 孫はこの頃の恐竜ブームで恐竜のおもちゃやカードが大好きです。幼稚園でもそのことが話題になるのか遊びまで恐竜ごっこだし、外出するとゲームコーナーやマクドナルドのハンバーガーコーナーで貰えるカードに興味があって盛んにそちらへ手を引いて私を誘導するのです。最初は1つだけとか、誕生日までとか我慢の約束をさせていましたが、平気でその約束を破ろうとするし、周りに同情を得させ買ってもらおうと泣いたりするのです。可愛そうにと思う親心が持ち上がるとその次は歯止めの利かないことになってしまうのです。ましてや母親がお産で入院中なので寂しくて可哀想なんて甘い親心を出すともう駄目です。

(麦藁帽子に長靴、虫取り網と虫かご、重装備でVサイン、ご満悦の孫朋樹です)

 先日の土曜日チョウチョやカエルを捕まえたいという孫と一緒に100円ショップダイソーへ孫と一緒に出かけました。虫かご100円、網100円、占めて00円の買い物をしました。孫は大喜びであちらこちらを走り回りますが残念ながら孫に捕まえられるようなチョウチョもカエルも一匹もいませんでした。仕方ないので人間牧場へ出かけ堆肥置き場で団子虫を見つけました。一ヶ月ほど前に団子虫を怖がって触ろうともしなかった孫が団子虫を沢山捕まえて虫かごは急に賑やかになりました。そして出会う人毎に見せびらかすのです。

(団子虫でも僕の宝物、ほらほら動いてる)

 ところが大人の側はそんな孫の心など察せず、「何だカブトムシではなく団子虫か」とけんもほろろなのです。孫にとっては額に汗をかいて必死に取った生物なのに・・・・です。でも孫はこれを宝物だと思って自分の枕元へ置き寝るのです。妻はさすがに気持ちが悪いと言い含めて廊下へ出して寝ましたが、朝起きると直ぐに廊下へ飛び出し、団子虫が死んでいないことに歓声をあげてひとり団子虫と対話しているではありませんか。子どもの世界って他愛のないものだし、大人が「何だ」と思うことも成長の過程において必要なことだと思いました。

 孫のお気に入りの虫取り道具が揃ったことで当分は孫と私の遊びが虫取りになりそうです。孫にとって虫は興味があるし、しかし怖い存在でもあります。団子虫は手で触っても安全だということが確認できたので平気で追っかけていますが、まだカエルのヌルヌルした感触が気持ち悪いのか、カエルを見つけると「おじいちゃんカエルだ」と大きな声で呼びにきます。昨晩も虫かごをいじっていてカエルが部屋の中へ飛び出し大騒ぎとなりました。孫は「やっぱりしんから田舎育ちではない」なあと実感しました。今年の夏はカブトムシやクワガタムシをクヌギ林に行って捕まえることもやってみたいと思っています。

  「百円で 買った虫かご 網を持ち 虫捕り作戦 いざ出陣」

  「団子虫 これも立派な 道具です 枕元にて 孫とお休み」

  「何かにと 抵抗してる 反抗期 孫にとっても 成長過程」

  「○ちゃんも 友を引き合い 出しながら 自分の主張 しっかり述べる」

  

 

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shin-1さんの日記

○田舎もいいが東京もいい

 一昨日まで、東京で開かれた関東ブロックの町村会トップセミナーの講師として招かれ全国町村会館へ出かけて家もブログも二日間留守にしていました。電話しても留守、ブログも書き込みがないので病気にでもなったのかと優しい友人は気を揉んでくれましたが、はい、いたって元気で全国行脚を続けています。東京に行くと田舎の良さが分る田舎にいると東京に憧れるといいますが、私のような田舎者は憧れるというよりやはり世界の最先端であり日本の頭脳の集まる東京は何か違った異文化をショックとして感じる場所なのです。田舎の役場には驚くなかれ現職でも東京へ出張したことがないという人も沢山いて、ましてや合併後の支所勤務などになると余程のことがない限り仕事で東京へ行くことはない時代になりました。幸い私はリタイア組なのに未だに東京あるいは東京経由という仕事が入って、人様のフンドシながらそれなりの緊張感が味わえて嬉しい限りなのです。

 日本全国各県毎にある町村会も平成の大合併によりその数が激減し、組織を維持するのが大変なようです。関東は人口密集地ゆえにその悩みは深刻で、消えた村や町はイコール首長さんも議員さんも姿を消したわけですから、組織が弱体化し見えぬ将来の姿におびえながらの行政運営が行われています。当然これまで負担金で運営していた首長さんや議員さん、それに職員の研修会も関東ブロックといった広域的な連携をしないと効果が上がらなくなってしまったのです。

 今回のトップセミナーは群馬県が幹事を務める研修会でした。したがって最近群馬県へ足繁く通っているため草津の町長さんや上野村の村長さんなど顔見知りも多く、ほのぼのとした研修会でした。「町村が日本を救う」と題したジャーナリスト松本克夫氏や「日本を取り巻く国際情勢について」と題した外交ジャーナリスト手嶋龍一氏の話とどれだけコラボ出来たかは知る由もありませんが、売れっ子といわれる元NHKの手嶋龍一さんと同じ演題で話すのですから少し背伸びをした話にしないとと、何時になく力が入っていたようです。でも自分は自分人は人と開き直り、実践家の強みで彼らのような理論ではなく論理を喋ったため私の持ち味は存分に出せたのではないかと自画自賛しています。

 久しぶりにぶらり永田町界隈を歩いて見ました。首相官邸もすっかり様代わりしていました。32年前第10回総理府派遣青年の船の班長としてアメリカへ行く時、首相官邸で結団式が行われ当時の三木首相の話を聞いたのもこの場所でした。今は若い阿部首相がいるのです。そこから右にとって緩やかな下り坂を下ると国会議事堂が見えてきました。どこまでも青い空に凛として立つ議事堂は今も昔も日本政治の表舞台です。


?国会議事堂の裏手に議員会館があります。久しぶりなので参議院議員会館の受付で段本先生に連絡を取って2階の事務所を訪ねました。先生は北海道へ出張中で出会えませんでしたが、懐かしい高橋秘書にお目にかかりしばし談笑しました。後2ヶ月したら参議院議員の選挙です。参議院には表と裏、つまり改選の人とそうでない人があります。段本先生は今回が改選で票の読めぬ無党派層に一喜一憂しながら全国を歩いているようでした。国会議員の先生方も大変なようです。先生は来県の折人間牧場へも足を運ばれた気さくな方だし、力をお持ちの地方を大事にする政治家なので当選して欲しいと願っています。

 ついで本県選出の山本順三先生の事務所へも顔を出しました。先生は事ある度に夕日の話などをしていただいており、裏なので選挙はまだ先のことでしょうが、秘書の方と面談し名刺を置いて会館を後にしました。

 少し寄り道をして町村会館への道を逆に歩くと自民党本部へ出ました。物々しい警察官の警備が需要人物の警備にあたっていました。垂れ幕の選挙という文字がやけに大きく見えました。


 毎日何気なく新聞やテレビで見聞きする政治に関する出来事はこんな場所から発信されているのです。私には縁のない場所なのですが、ここで決まる法律が私たちを含めた国民の規範となるのですから少しは政治にも感心を待たなければならないと自分に言い聞かせながら初夏の東京、しかも緑したたる東京を歩きました。

  「縁のない 場所だと思えば 縁がない 私の一票 私の税金」

  「選挙さえ なければ楽な 議員さん 今は必死で 清き?一票」

  「国会を 見学している 子どもたち  あの中将来 ひょっとするかも

  「緑陰を 選んで歩く 東京に こんな静かな 場所があったか」


   

 

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shin-1さんの日記

○1冊105円の本

 東京へ行くと決まったように本屋さんに立ち寄って何冊かの本を買って帰るのが私の習慣になっています。別に松山の書店でもいいのですが何となく本の数が違うような気がしたり、日本一早い情報を少しでも早く求めたいと思う田舎者の心理なのでしょうか。ところが昨日は東京へ行ったものの本屋へ入る時間がなく新宿を歩いていると一軒の古本屋が目に止りました。早速中へ入りましたが、驚いた事に新品同様の本が所狭しと並べられていて、その金額も驚くなかれ一冊105円という安さなのです。私はやはり貧乏人なのでしょうか余り金額的に高い本は買いません。読みたい本であっても裏を見て金額が高いと立ち読みすることにしています。勿論タダで立ち読みするのですから、立ち読み代として安い本をいい訳程度に買って店を出るのです。

 昨日は105円の本を4冊買いました。その中の一冊に森山透著「50代で考えること」というのがありました。新刊は1300円+税なのですが古本なので105円です。誰が古本屋に持ち込んだかは知る由もありませんが、汚れてもいないので買い求め面白くて帰りのバスの中で殆ど全部を読んでしまいました。

 私は現在62歳で、50代をとっくに過ぎていて書いていることは役に立たないかもしれないと思いつつ読みました。でもこの本に書かれていることは今の自分に当てはまることが多くとても参考になりました。森山さんは自分の経験を、50代の定年前の人に対してメッセージしているのです。

 森山さんは一流大学を卒業、サラリーマンとして一流企業に就職し海外勤務を経験しています。幼い子どもと奥さんを連れてニューヨークに赴任し、彼の人生はばら色に見えました。ところが会社人間にとって家庭を省みる暇もなく、異郷の地で子どもを抱え不安な日々を暮らす奥さんのことなど殆ど眼中にありませんでした。ある日のこと帰宅すると居るはずの奥さんはメモを残して日本に帰郷していたのです。忙しい職責ゆえ誰にも打ち明けられず追いかけて買えることも出来ず、結局半年後に帰ったものの3年後に夫婦の間は破局を迎えたようです。転職を余儀なくされ、その職場も何年か後にはリストラに会い、死ぬことさえ考えた悶々の日々をまるでドラマのストーリーのように書き綴っています。

 命をかけて守ってきたものは家庭や身の回りの人でなく会社であったその会社さえも、いとも簡単に平気でリストラする会社に捧げた男の半生とは一体何なのか、問いかけているのです。

 人間は80まで生きると仮定すれば個人によって多少の差はありますが、20年間は親や社会の比翼の中で生きています。仮に20歳から働き始めると40年働いて定年の60歳です。だとしたら第2の人生はまだ20年もあるのです。団塊の世代がリタイアして世の中にどっと流れ出てきていますが、彼らにとって会社とは一体何だったのか、自分の人生とは一体何か、まさに男のアイデンティティが問われているのです。人間はここを引きずって生きています。でも過去の肩書きや名刺は定年後は何の役にも立たない事を辞めて始めて気がつく愚かな人間が日本には数多くいるのです。年間自殺者3万4千人の中には定年を迎えることもなくリストラされて路頭に迷う人だっていますから、転ばぬ先の杖ではありませんが、定年後の人生についてもっと50歳代から考えてほしいと彼は願っているようです。

 定年から始まる人生の仕上げの時代をどう楽しく生きるか、これこそ人間が人間として生まれ人間として死んで行く20年の生き方が試されているのです。

 2年前にそんな会社人間にいとも簡単におさらばし自由人になった私には作者森山透さんの話がわがことのように思われました。幸い私にはなんだかんだと言いながらも妻と家族という絆もまだ残っています。更には人生を乗り切る羅針盤や海図のような生活設計と年金が少ないながら最低限の暮しを支えるほど用意されています。でも家族も資金も健康で長生きというストーリー通りならいいのですがその保障は何処にもないのです。

 生きる意味を考えさせられるたった一冊の105円の本の価値は、私にとってどんな著名な著書より、どんな高価な著書より大きな示唆を与える値千金の本だったようです。多分この本は私が手にとって買い求めなかったらいずれ紙ごみとしてシュレッターにかけられることもなく焼却処分される運命にあるのかもしれないと思うと、妙にいとおしくなりました。多分私はこの本を大切にして生きて行くことでしょう。

 私の今年のベストセラーはこの本かも知れません。本屋さん有難う。

  「何気なく 立ち寄り見つけた 古本を なるほど言いつ 納得して読む」

  「古くても 必要性で 物の価値 高くもなったり 低くもなったり」

  「百五円 安い割には いいものを 手に入れさすが 東京たのし」

  「俺古い 古本骨董 店歩き 目利き褒められ 思わず買った」 

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