shin-1さんの日記

○シノブの緑

 わが家のわが書斎にははき出しの大きな窓があって、裏庭を見られるように工夫を凝らしています。そのはき出し窓には靴脱ぎのための平らな石が置いているため、朝な夕なの出入りは靴脱ぎ石に置いたスリッパでここを出入り口にしているのです。何年か前このスリッパの盗難騒ぎがあり、夜な夜な出没するハクビシンか狸の仕業ではないかというわが家のちょっとした騒動が持ち上がったことがありましたが、今はスリッパがなくなるでもなくこの出入り口を重宝して活用しているのです。最近は顔見知りの来客などはここに招いてはき出し窓に腰掛けて話すものですから、すっかり書斎兼居間兼応接室って感じで重宝しています。

 わが家の庭にも初夏の季節がやって来て、あちらこちらに草が生えだしそれはそれとして草引きが大変なのです。冷房などの設備もなく、僅かに厳寒の頃ストーブを入れる程度で季節を感じるようにしているため、窓越しに見える風景は私の暮しにゆとりと創造をかきたててくれるのです。

 秋の頃一度その見事な紅葉風景をブログで紹介した岩に張り付いたシノブは今、目にも鮮やかな緑の新芽を出して深山の風景を演出してくれています。このシノブは私がまだ公民館に勤めていた頃、わが町の背後に聳える黒山に入って採取してきたものの一部です。当時は職場で盆栽の趣味が盛んで、私も家の周りに所狭しと300鉢以上の盆栽を置いて楽しんでいました。朝夕の水やりや春先の植え替えなど、多忙な日々の合間を縫ってまるで流行り病のように盆栽に熱中しました。しかしその熱もまちづくりやボランティア活動に悩殺されていつの間にか一つまた一つと姿を消して、今では末の盆栽が僅かに残り、家の横にうず高く積まれた植木鉢に往時を偲ぶことが出来るのです。

 30歳の時アメリカへ行きましたが、妻へのハガキに「子ども三人元気に育てよ。庭の盆栽に朝晩水をやって枯らすな」と、「一筆啓上火の用心、お仙泣かすな馬肥やせ」と同じ?名文短文を送って失笑をかった記憶があるほどです。

 30年余りの時を越えて小さな一鉢がこんなに増殖したのですから驚きです。一部は友人に株分けし、切り取ってはそこここに植えているので、シノブはわが家の庭の代表選手のようにも見えます。殺風景だった庭石も春から夏にかけては緑の衣をまとい、秋には錦織なす衣に着替え、冬は鎧のような網目に変身するのです。通称軒シノブと呼んでいるこの植物は水をやる必要はなく木や石に縛り付けて置くだけで蔦のように岩にしっかりとしがみついて生きてゆくのです。その様子は耐え忍ぶようなのでシノブといわれるのかも知れないと勝手に解釈して、飽きることなく毎日眺めるのです。

 わが家にはもう一つこのシノブの親株があります。酒蔵の軒先に新酒が出来る頃吊り下げる杉玉とよく似た形状をしていますが、木炭をシュロの皮で包みその植えにシノブを這わせる要領でもう30年も前に作りました。あの頃と大きさも変らず杉玉ならぬシノブ玉として、夏の涼風を受け軒先で夏を演出してくれています。今年も私にとって62回目の夏がやって来ました。来年も元気でシノブの夏姿を見たいものです。

  「拳ほど 小さきシノブ 株分けし そこここ軒で 夏を演じる 」

  「裏庭に 緑の衣 まとい石 お見事ですね 褒めて帰りぬ」

  「雨もよし 晴れた日もよし 軒シノブ 深山幽景 細めた目には」

  「窓越しに 見える夕暮れ 夏景色 零れ灯少し 緑薄くし」 

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shin-1さんの日記

○梅酒の漬け込み

 人間牧場の梅林に梅の実が実り、この一週間は暇を見つけて梅の実の収穫作業をしました。選定もろくにしていない梅林ですが草だけはきちんと刈っているためいたって作業はし易いものの、梅の木の刺に阻まれ体中嫌というほど引っかき傷が出来て、何とも哀れな姿になってしまいました。それでも27日の午前中と昨日の午前中の作業で20キロのキャリーに6箱ですから120キロも収穫しました。消毒もしない無農薬無消毒の安心で安全な梅は自家消費には多過ぎてご近所へおすそ分けをして喜ばれましたが、それでもわが家は梅酒と梅干用に半分を処理しました。

 今日は午前中妻と二人で(瓶や容器を洗う作業は帰省中の娘と息子嫁が手伝ってくれましたが、まずこれまで長年にわたって漬け込んで消費しながらそのままになっている梅酒用の瓶を空ける作業から始めなければならないのです。約10本の梅酒用容器にはまだ梅酒も漬け込んだ梅もそのままで、その梅酒を漉して一升瓶に入れてゆくのです。「まどろこしいったらありゃしない」とブツブツいいながらも一升瓶に15本ほどの梅酒が完成しましたが、酒を飲まなくなって8年も経つと梅酒の中に入ってる梅を何個か食べただけで酔いが回ったようで最後はかなりきつい作業となりました。梅酒に漬け込んだ梅は本当なら料理用に活用するのですが、量が多いので結局は捨ててしまいました。「スイーツづくりをしたらこれまた美味しいものが出来るのに勿体ない」とも思いました。

 今度は容器洗いです。中も外も蓋も洗って熱湯消毒し、いよいよ洗って水切りした梅を砂糖と一緒に漬け込んでゆくのですが、これもまた梅の量を計ったり砂糖を計って交互に入れたりと中々の作業でした。それでも朝から昼間での作業で8?の梅酒用容器に9本と3l容器4本を作りました。普通梅酒は梅と砂糖と焼酎を使いますが、わが家は子どもや家族が飲むため焼酎やホワイトリカーは使わない梅ジュースと呼ぶにふさわしいノンアルコールなのです。ですからわが家の梅酒は梅酒にして梅酒にあらずとでも申せましょう。

?


 さてこの梅酒の漬け込みを完了した瓶類は一体何処へ保管すればいいのか、元の場所も芸がないと妻と二人で悩んだ挙句人間牧場へ収納し熟成の時を待つのが一番という結論に達しました。昨日はあいにくの雨でしたが、軒先の仕事で妻は少し雨に濡れて水も滴るいい女になったので、私が自分の自家用車に積んでお昼時だのに昼食を食べることも忘れて運びました。水平線の家のフロアーに並べて見ましたが凄い量です。この分だと人間牧場に来られた方々に振舞う一年分は有にあるのではないかと思いました。早速押入れを片付け収納しました。深い眠りに付く梅酒を使い「新酒が出来ました。今年もコクのある美味しい梅酒を味わいに来てください」なんてイベントを考えてみようと思います。

 梅は隔年結果が激しく天候に左右されたり裏年だってあるため、一概には言えませんが、今年の春植樹した10本の梅の苗木や5本のスモモを加えると、梅酒を造る体験ツアーも企画できそうです。今年のように大豊作だと参加した方々に梅酒をプレゼントすることも可能かもしれません。私の持論ですが、「儲けなければならない農業はしんどいけれど、儲けなくてもよい農業は楽しい」いものです。せめて年金暮らしの私ぐらい儲けなくてもよい農業で仲間や社会に還元したいものです。こんなセリフを言うと妻は「それがいい」と同調はするものの、「漬け込みに必要な容器や砂糖など、思わぬ出費が家計簿を直撃する」と少し曇り顔になるようです。結果的に余った梅の処分は漁協女性部のじゃこ天のお店で働く女性の方々に20キロほどプレゼントし喜ばれました。

(水平線の家の倉庫に保管されて熟成の時を待つ事になった梅酒瓶)

  「梅酒梅 食べてほろ酔い 下戸の俺 変れば変る 嗜好の変化」

  「年代は 申年生まれの 梅酒にて 不老長寿の 妙薬ラベル」

  「あっそうだ 人間牧場 ラベル貼りゃ 素敵な梅酒 特産増える」

  「昨晩は 梅酒の寝酒 お陰かな ぐっすり四時まで 安眠楽し」

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shin-1さんの日記

○来客多し初夏の人間牧場

 昨日は双海のほたる祭りで多くの方がほたるを見に来られました。ほたるを鑑賞しようとする人、ほたる祭りのイベントを見ようとする人、翠小学校周辺の原風景を見ようとする人、ほたる市で買い物をする人、イチゴ狩りを楽しむ人などその目的はそれぞれ違いますが、その目的に少し彩りを添えようというちゃっかり組もいて、昨日は私にとって大忙しの一日となりました。そのちゃっかりはほたる祭りに来たついでにわが家と人間牧場を見学するセットメニューなのです。わが家への訪問は直ぐにでも案内や説明が出来るのですが、お陰様で8キロも離れている人間牧場へは車での案内しか出来ないものですから7回も往復しました。飛び込みでやって来た一番遠いのは東京からのお客さんで、「今晩人間牧場へ泊めて欲しい」というのです。急な申し出だったので

準備も出来ず一応丁重にお断りしたのですが、それでも人間牧場だけは見て帰りたいと夕闇迫るころせがむので7組目の締めとしてご案内しました。3人の東京組はえらい感動でビールを飲むなどして帰って行きました。

 昨日のお客さんの中で特に嬉しい出会いは2年前まで下灘小学校の校長を務めていた玉井千恵さんたちです。玉井先生は現在松山市余土小学校に赴任していますが、私が現職中は何かと気の会う仕事をしました。特に忘れられないのは「双海の子育て10の約束」なるものを考えた私の企画に賛同し、上灘中学校の窪田校長先生(現在は松山市九谷中学校勤務)や中尾先生(現在はオーストリアウィーンの日本人学校勤務)などとともにその原案のまとめ役をやってくれました。この約束は当時かなり注目を集め内外から高い評価を受けた運動だったのです。

 3日前公民館のステップアップセミナーに参加されていた玉井先生と赴任後はじめてお会いしましたが、近々人間牧場を訪ねたいとの申し出だったので、思い立ったら吉日とほたる祭りとセットの話をし、携帯電話の電話番号を教えて昨日の出会いとなりました。往年の美女?3人とともにやって来た玉井先生は、かつて3年間も勤めた下灘界隈を縫って走る細い山道を自ら運転して人間牧場へやって来ました。事故でも起こしたら大変と町道から農道に入る道は徒歩での来訪です。

 昨日は朝から降水確率30パーセント、ひょっとしたら雨が降るかも知れないという朝からあいにくの曇り空でしたが、強運な玉井先生の力でしょうか、時には日傘が要るほどの絶好の日和に恵まれ、爽やかな人間牧場を案内させてもらいました。惜しむらくは孫を連れて行っていたので足湯もお湯のサービスも出来なかったのですが、今度来られる時は自慢の女体をお湯に沈めて欲しいと願っています。

 人間牧場での過ごし方は来た人の思いを瞬時に判断しその人たちに合ったようなコーディネートをしなければなりません。中には焼肉が食いたいなどという人もやって来ますが、玉井先生グループには、「みかんの花咲く丘」などの歌をハーモニカで吹いたりして少し女性の優しさに迫ってみました。これも連れて行った孫がクワガタムシの話で多少興ざめといった感じになってしまいましたが、帰り際何度も「さようなら」という言葉をまるで山のこだまのように大きな声で呼び合う孫の姿を見て、思わず嬉しくなりました。



 人の出会いは不思議です。小さな出会いも大きな出会いもあります。また思い出に残る出会いや感化を受ける出会いだってあるのですが、再開の出会いはまた格別な意味を持っています。離れていてもなお記憶の底に残っている人との再会はこれまた何ものにも変え難い味のあるものです。一年があっという間に過ぎ去る超スピードの時代だからこそ、こうした「出会いの重ね」と「確かめ合い」が必要なのでしょう。人間の一年なんて人間牧場の隅にデンと座っている高知県馬路村魚梁瀬杉の切り株に刻んだたった一つの年輪でしかないのですから、大したことはないのです。

 玉井先生は笑顔の人です。玉井先生に会うと何か心がポカポカしてきます。人に不快の念を抱かせない、そんな人になりたいと思うのですが、私はまだまだ修行が足らないのかその領域には踏み込んでいないようです。それは生まれながらにして持ち合わせた性格ではなく、生い立ちかも知れません。100人のうち99人が反対した夕日なる化け物を日本一だと言い張った苦難の生い立ちが反骨となっているようです。でもそれは過去の生い立ちだから、捨てないといけないのでしょう。でも捨てきれないところが私の不徳なのです。玉井先生のパワーをいただいたような一日でした。

  「七回も 人間牧場 足運ぶ 何をしてるの? 地元不思議目」

  「今日ここに 泊めてくれよと せがむけど それは出来ない 断り御免」

  「ハーモニカ これが私の お接待 心ほのぼの BGMだね」

  「裏山に 椎の木あるから 羨ましい そんなウイット 人は駄洒落と」

  「知らぬのか 白色レグホン 面(尾も)白い これも駄洒落だ 俺の得意だ」 


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shin-1さんの日記

○公民館ステップアップセミナー松山会場

 5月29日に続いて昨日は愛媛県立中央青年の家で公民館ステップアップセミナーに出かけました。前日の佐賀県出張の旅の余韻を引きずるように、朝帰りの眠気眼なものですから予定された座談会は結局絡むことなく消化不良のまま終わってしまいました。この日のプログラムはフロアー形式で3人の座談会と銘打っていましたが、お二人の大先輩と私の鼎談形式なのに、リードしてもらいながら対話がなく、多分聞く側も「あれっ」って感じを持たれたのではないかと思われるのです。折角ステップアップセミナーと銘打っているので、公民館の曖昧模糊な体質を少しでも変えるべく、自分自身を厳しく反省評価してみたのです。

 この日の私たち3人の持ち時間はそれぞれ導入5分、本題20分、まとめ5分と指示されました。シンポジウムであればこの時間設定は100分を分割してフロアーの意見を取り入れ完璧な配分だと思うのですが、座談という設定では少々軌道修正をすべきだと思うのです。

 座談は3分から長くても5分、時にはショート1分の会話やり取りを入れて早く回転しないとフロアーに満足行くような結果は得られないのではないかと思われるのです。一年前に4人で行った「地域の自立とは何か」を考えたシンポジウムの座談会はこの形式でやったものですからお互いがお互いの話にかなり深く食い込んで、内面に潜むお話を引き出すことが出来ました。その時は「一回の発言は長くて3分、短いほどよい」を事前に登壇者に徹底し事に望んだため、聞く側に好印象を与えました。多分こうした形式は比較的若い人で慣れていないと現場の空気を瞬時に読み取り対応することは不可能なのです。

 それでも今回の研修会は、講演と分科会を組み合わせる形式を少しでも矛先を変えようとする担当者の熱意が伝わってきました。その意味では前例踏襲ではない評価をしたいと思います。これを次にどう繋いでゆくか考えてみるのも楽しいものです。

 この日は地元中予の会とあって久しぶりにいっぱい知人友人に会いました。中には「あなたの話を何度も聞いた」という人にも出会いました。私はその人に「あれから私も随分進化しました。あなたはどんな進化をされましたか?」とあいさつ代わりに質問するとキョトーンとして、「いえいえ私はただ歳をとっただけで進化なんて」と謙遜して見せるのです。それは謙遜ではなく「私は何がしたいのか」「私は何ができるのか」を真剣に考えず生きているだけだ」と、昼食をしながら話しました。社会教育の会場にはいつも見慣れた顔々が居並びます。長く続いてボランティアをやっているのですから偉いといえば偉いのですが、新鮮味に欠けるのも事実です。社会教育の顔も手法も時代感覚を身に付けリニュアールしないといけないような気にもなりました。

 私「先生、私ブログ書いとるんよ」。相手「ブログって何ぞな」。私「言うても分らんがパソコンで日記を書いとるんよ」。相手「わしらの年代は学校でパソコンを習っとらんのでそんな難しいことは出来ん」。とまあこんな会話が飛び交いました。私「習っとらんことを習うのが生涯学習でしょうが」。相手「そうは言うてもこの歳になるとなあ。(アハハ)、またええ話し聞かせてや」で終わりました。

 昨日は愛媛新聞11面に私の記事が度アップ出たため、「新聞に載っとった」とか、「ご活躍の様子を新聞で見ました」と話題持ちきりでした。「講演会から」という欄に、先日四国中央市の婦人会総会の記念講演の講演要旨が紹介されていました。新聞記者は凄いです。私の90分の話をあんなにコンパクトにまとめるのですから感心しきりです。でも少し面映いところもあって、昨日は旅先から会場入りしたため新聞を読んでいなくて、青年の家の職員さんがコピーをして手渡してくれました。

 仕事を終え自宅へ帰ると相変わらず多くのメールと電話がかかり、産後の休暇を実家でしている娘にはとんだ電話番となってしまったようでした。

  「懐かしき 顔々集う 研修会 何を話すか 一瞬戸惑う」

  「載っとった 言われるけれど 本人は 新聞読まず 会場入りし」

  「習っとらん でも習っとる 人ありて 学ぶ意欲が あればクリアー」

  「産休の 娘わが家で 電話番 これが本当の サンキューですね」

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shin-1さんの日記

○九州佐賀県嬉野への旅

 九州も北九州から南九州まで、さらに南九州も本土から離島まで足を伸ばして行く度に、狭い日本といわれながらも遠くて広いなあとしみじみ思うのです。それでも博多の急激な発展に誘導されてか、鹿児島から熊本八代まで新幹線が延びたり高速道路が整備されて段々便利になってきて、訪ねる方としては嬉しい限りです。車窓に広がる佐賀平野は丁度今頃が麦秋なのか何処までも何処までも黄金色の裸麦の畑が延びていました。遠くには麦畑に火を放つ野焼きをやっているのでしょうか白い煙幾つも見られ、既に焼かれた畑は黒々とした大地の色をしていました。

(黄金の麦の穂が波打つ麦秋の田園風景が見事でした)

(嬉野温泉の玄関口は肥前鹿島駅です)

 昨日は日本観光協会九州支部の総会が佐賀県嬉野温泉で開催され、記念講演を頼まれて出かけました。博多から特急かもめに乗って肥前鹿島まで行き、そこからタクシーに乗ること20分余りで嬉野に到着しました。嬉野といえば日本三大美肌の湯でその名を知らしめた温泉の街なのですが、佐賀県という人口僅か80万人の小さな地方の県だからか意外と知名度がないようです。はなわさんやがばいばあちゃんですっかり有名になりましたが、肥前鍋島藩ゆかりの地は吉野ヶ里遺跡などがあるものの、決定的な知名度ではそのまんま東国原知事の宮崎や、一村一品村おこしの大分に一歩遅れをとっているのは事実のようです。

 かつて繁栄した温泉地は旅行から旅へと国民の志向が大きく変化したこともあって、嬉野温泉もかなり苦戦しているように見えました。今回の会場となった和多屋別荘は規模の大きな、そして気配りの行き届いたホテルでしたが、少し早めに到着したので、お願いして風呂に入れてもらいました。日帰りの旅なので宿泊してゆっくり温泉に浸かることも出来ず沈んだ面持ちでしたが、これで今回の旅の目的である温泉三昧はゲットし、昼食にはこれまた温泉湯豆腐のフルコースを注文、これで女性のサービスでもつけばいうことないのですが、部屋付きの仲居さんがこれまた気のつく人で、まあ3拍子揃った経験が出来た事にしておきましょう。

(商工会の研修旅行に同行した時はもっと賑わっていた小さな歴史テーマパク肥前夢街道)

(中身は忍者屋敷や大道芸もある中々手の込んだ仕掛けがあるようでした)
 朝風呂上りに周辺を散歩してみました。嬉野温泉へは3度目の旅でしたので、そこそこ知ってるつもりで歩いてみました。ホテルの向かい側の小高い丘の上ににある肥前夢海道という古い歴史を再現した小さなテーマパークも営業はしていましたが、散閑としていましたし、12時前だというの嬉野温泉の商店街も人の気配が余り感じられないようでした。

(立派な嬉野温泉随一の規模を誇る和多屋別荘の本館)

(嬉野温泉の商店街)

 商店街を歩きながら嬉野温泉唯一の造り酒屋の店先で珍しい物を見つけました。こうした古い温泉地は必ず有名人や文豪などが長逗留をして作家活動を続けるものなのですが、放浪の俳人種田山頭火もここに立ち寄ったそうで、酒屋さんらしく石で作った酒徳利に山頭火の句が刻まれて思わず足を止めてしまいました。山頭火といえば山口県湯田や愛媛県松山に縁の深い俳人です。自由律詩などという、破天荒な作風で知られていますが、時を越えてこそ山頭火は評価を受けているものの、存命中は乞食のような暮らしをして決して恵まれた人生ではなかったようです。わが家の入口に友人が書いて贈ってくれた「何を求める風の中行く」も山頭火だし、「分け入っても分け入っても青い空」などが代表作として有名です。一見誰にでも出来そうなシンプルな句だからこそ、その句の持つ意味が心に響くのでしょう。

(句碑に刻まれている「湯壷から桜ふくらんだ」も山頭火らしい句のようです)

(この地はシーボルトもゆかりの人らしく、シーボルト足湯なんてスポットも整備され、川沿いの道も整備されぶらり散策できる中々の観光地とお見受けしましたが、若い女性客が沢山やってくる湯布院温泉や黒川温泉とは少し趣きを異にしていました)

 嬉野は真ん中を大きな川が流れていますが、田植えの始まるこの頃は上流で田ごしらえしているせいでしょうか、川の水は完全に濁って、「この川は夜に見るべし田植え時」とこれも山頭火を真似た私の一句を添えてみました。

(まるで近代化遺産にでもなりそうな鉄鋼造りの橋)

(古い時代の温泉神社というのを見つけました。お湯が出る恵みに感謝するために造ったものと思われますが、見忘れるような場所にありました)

(真赤な嬉野温泉橋、まるで夢の世界にでも足を踏み入れるような細くて中央が盛り上がった綺麗な橋でした)


(総会のステージはホテルらしく立派な花が飾られ素晴らしいシチュエーションで、マイクの通りも申し分のない話しやすい会場でした)

 さて嬉野温泉の和多屋別荘での記念講演は3時から始まりました。私の持ち時間は総会記念なので僅か1時間、肥前鹿島16時57分発の特急かもめに乗る予定でタクシーを呼んでいるので、前段で話す佐賀県庁職員の方の話が15分もオーバーしてしまい、メモを入れて終わるハプニングとなりました。困ったと思いつつ2時間番組を1時間に短縮した私の話流暢な日本語で会場の参加者を煙に巻きました。来月の7月5日には再び佐賀県観光連盟の招きで佐賀入りする予定です。

(九州各県からお集まりの参加者、中には今年1月26日博多で開かれた福岡県観光連盟の観光ホスピタリティ研修で出会った顔見知りの方々もいました)

 帰りの列車の中から北九州の夕日夕やけを見ました。美しさでは双海の夕日の方が一枚上ですが、少し寂しげな、それでいて余韻の残る旅の心を癒すにはやはり夕日は最高で、満員の電車の中から一枚撮りました。多分橋の感じが戸畑辺りの若戸大橋ではないかと眠気眼で思いました。

  「終わりそう 終わらないのは 下手話 も少し聞きたい 上手な話」

  「俺にでも 出来そう山頭 火の歌を 真似て作るが やはり凡人」

  「四四を 嫌う人あり 死死と読む 縁起担いで 良い良い思え」

  「夕日見つ 感傷ふけり 旅路にて 今頃わが家 妻は元気か」 


 

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shin-1さんの日記

○梅が大豊作

 昨年も梅が豊作で梅干しや梅酒を沢山作りましたが、今年も昨年に続き豊作のようで、わが家の作況指数は大豊作というべきでしょう。今日は大学の講義日だし明日の佐賀県入りのこともあるので午後からはその準備で忙しいため午前中思い切って人間牧場へ梅の収穫に出かけました。今日の午前中は昨夜の雨は上がったものの霧が立ちこめ太陽も薄日程度で暑くもなく梅もぎ作業には絶好の日和でした。昨年は日記によると6月2日に梅取りをしているのでその頃でもと目安にしていましたが、今年はその日がほたる祭りで愛媛大学の和田先生たちがやってくるので、今日が適期とばかり20キロ入りのキャリーを二つ、それに発泡スチロールの箱を2つ持ってソウチョウ時過ぎに妻の作った弁当とお茶を持って家を出ました。

 人間牧場につくと早速みかん収穫袋を首にぶら下げて梅もぎを始めました。梅の木は11本あるのですが人間の世界と同じように毎年マメに実を付ける木もあれば、隔年結果の木もあって中々上手く行かないものです。それでも一番沢山なった木は何と20キロキャリーに2杯です。「桜切る馬鹿梅切らぬ馬鹿」といわれ梅は選定をしなければいい実はなりませんが、わが家の梅の木は殊勝にも選定もせず、消毒もせず、肥料も一切やらないという完全に粗放農業なのですが、何故か毎年多くの実を付けて暮れるのです。品種ははっきり分りませんが加賀梅と紀州梅のようだと森林組合の人がいいました。

(左と真ん中のキャリーの梅が一本の木から収穫した梅の実です。右端は別の木の中梅です)

 3箱収穫したところでお昼になったので、梅を入れる容器がなくなったので弁当を食べぬまま車に積んで下山しました。お昼休みに帰った妻に収穫した梅の実を見せると少し憂うつな顔をしました。sれもそのはず、梅の漬け込みはもっぱら妻の役割だからです。加えてこの梅を漬け込むとなると容器や塩や梅酒用のビン、砂糖など材料の調達にかなりの費用が要るからです。でも人間牧場で一年間飲むに足りる梅ジュースを造ることが理想なので、平身低頭お願いする事にしました。残念な事に私が出張のため在宅で手伝えない恨みもあるので大きな口はたたけないのです。

 大正初期の国語読本に「梅の一生」という文章があったので参考までに紹介しておきます。

  梅の一生

 二月三月花盛り

 うぐいす鳴いて春の日の

 楽しい時も夢のうち

 五月六月実がなれば

 枝からふるい落とされて

 村からまちへ持ち出され

 何升何合の計り売り

 元より酸っぱいこの体

 塩につかって辛くなり

 紫蘇につかって赤くなり

 七月八月暑いころ

 三日三晩の土用干し

 思えばつらい事ばかり

 これも世のため人のため

 しわが寄っても若い気で

 小さな君等の仲間入り

 運動会にもついて行く

 まして戦のその時は

 なくてはならないこの私

  「梅の木は やたらと刺が 飛び出てて 体のあちこち 引っかきだらけ」

  「花を愛で 実を加工して 二度も得 梅酒三度目 賑やか酒宴」

  「収穫の 喜び束の間 妻の顔 梅を処理する 今日は残業」

  「大正の 国語読本 戦詠む 今は平和な 世の中ゆえに」


 

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shin-1さんの日記

○買ってもらった麦藁帽子

 もう二年前の出来事になってしまいましたが、人間牧場の構想を立ち上げるため双海町下灘池久保の廃園に入ったのは4月のことでした。教育長を辞し念願の自由人になった喜びに浮かれていた矢先、妻から地下足袋と麦藁帽子をプレゼントされました。ホームセンターの買い物袋に入った真新しいコハゼが10枚もついた地下足袋を履き麦藁帽子の出で立ちで人間牧場の大地に鍬をふるい、まるで西部開拓のような強い意志に燃えていました。あれから二年の月日が流れましたが、概ね五年間を目安にしていた構想の実現は息子の協力もあって予想以上の進捗を果たし、今は全国から沢山の心ある人たちを迎えるまでに成長したのです。

 六十歳という人生の峠を越えて普通であれば一服し、底からは緩やかな下り坂に向かうのであろう人生を、もう一度次の峠を目指そうと決意できたのは実は妻からプレゼントされた地下足袋と麦藁帽子でした。旅には旅支度というのがあるのでしょうか、無位無官となったサンデー毎日の私に似合う旅支度はどうも地下足袋と麦藁帽子がよく似合うような気がするのです。「そんなみっともない作業着は捨てたら」と妻がいう使い古しの作業着も「まだ着れるから洗濯しといて」とねだって、相変わらずその格好だと下の下の人間風袋で農作業を楽しんでいるのです。

 近頃の太陽の照り返しはひどくて、毎朝顔を洗う時自分の顔の黒く日焼けしてゆくことに気付いているのですが、別に気にもせず日焼け止めなど塗る顔でもなく平気で人前にも出ています。最近仲間から「若松さん少し元気になったみたい」とよく顔つきを見て言われるようになりました。多分日焼けのせいではないかと思うのです。胆嚢という小病を患い68キロあった体重は56キロ

にまで落ち込んだままです、ガンではないかと噂された体力もそれなりに回復し、農作業で筋力も少しだけアップししました

が、その体力を支えてくれたのはやはり妻のプレゼントしてくれた地下足袋と麦藁帽子でした。その麦藁帽子がかなり痛んできました。地下足袋も麦藁帽子も人間牧場水平線の家常備品として置いていますが、数日前わが書斎に麦藁帽子がひとつ無造作に置かれていました。「顔の色が日焼けして黒くなった」という私の言葉に反応しての妻からの嬉しいプレゼントなのです。前回買ってもらった麦藁帽子は作業に適した縁の小さいものでしたが、今回の麦藁帽子はおじさん用とでもいうべきひさしの大きいもので作業には不向きです。でもこのくらいないと夏の暑い日差しは遮れないのかも知れません

 昨日の夕方外出先から帰って夕方まで時間があったので家の外周りの草削りをしましたが、新品の麦藁帽子を被ってやってみました。仕事から帰った妻が「まあお父さん似会うじゃない」とまるで自分のことのように褒めてくれました。「お前だけじゃあ、俺を褒めてくれるのは」と大笑いしましたが、嬉しい贈り物です。多分この麦藁帽子はささやかな父の日のプレゼントとしてお茶を濁されることでしょうが、そんなに欲しいものがあるわけでもなく、これが一番のプレゼントとして喜んでいただきます。

 麦藁帽子が恋しい、そして麦藁帽子が似合う季節になりました。子どもの頃近所のおじさんが麦藁帽子を被って腰に手ぬぐいをぶら下げて自転車に乗っている姿を思い出しました。多分近所の子どもの目にも私の姿はそのように映ることでしょう。

  「麦藁の 帽子を被り 歩く俺 子どもの目には どんなに映る」

  「父の日の 贈り物かや 麦藁の 帽子わが部屋 そっと置かれて」

  「真っ黒に 日焼けしている わが顔を お元気そうでと お世辞いう友」

  「化粧品 つけず六十 有余年 だから綺麗じゃ ないはずですね」

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shin-1

○拠点は何処に

平成の大合併が一昨日の松野町の住民投票で一応終止符が打たれそうな雲行きです。宇和島を合併相手とする票より鬼北町をを合併相手とする票が400票も上回ったのですから文句なしと言わなければなりませんが、何年も対立したわだかまりはそうそう雪のように一気に解けることはないかも知れません。でも民主主義で選んだ選択なので選ばれた鬼北町に騒動を持ち込まないだけのマナーだけは守って欲しいものです。

 合併が一段落して早くも話題は5つあった県の出先機関地方局の統合問題へと移ってきました。南予の中心を目指す宇和島と八幡浜には現在地方局があってそれぞれ優位性を訴えているのですが、この2つの地方局が統合するとなると、高速道路の普及によってそれぞれの位置関係や重要性に変化が見られるだけに、民意だけでは解決できない高度な政治判断が求められそうです。

 これまで宇和島管内と八幡浜管内の2つに分かれて開催していた愛媛県管内公民館活動ステップアップセミナーが、今年は2つの管内を1つにして大洲市で今日開催されました。一見急に人が増えたような錯覚を持ちましたが1+1=2になっただけのことですが、さすがに2つの管内が一緒になると、管内大会といいながら遠くは愛南町からも駆けつけなければならず大変な距離異動のようでした。宇和島に拠点を置くと中心のようにも思われますが、大洲や八幡浜、伊方町、内子町は中央から地方へ逆行し県庁へ行く方が近いという話になります。不便が便利に変化する時代に、行政は住民の元から段々遠ざかる傾向にあるこの姿は最早異常としか言いようがないのです。このことは今治、西条地方局においても例外ではなく西条と今治がその拠点誘致に向けて県議会議員も巻き込んだ激しい水面下のバトルをくり返していると聞いています。いずれにせよ地方局という拠点ができると何人かの県庁職員が常駐し飲食などの経済活動を行う訳ですから、効果たるや相当なものになるだけに気が気ではないようです。

さて昨日のステップアップセミナーは公民館職員や教育長の経験から余計な話を随分してしまいました。それは講演が始まる前の私の紹介が余りにも素敵だったからかも知れません。私のブログから引用した様々な参加者の知らない側面をお話しいただいた誘導に引っかかってしまったのです。嬉しいことでした。通り一遍等の話でないところがいかにも公民館らしいと思いました。

 「公民館とまちづくり」という演題でステップアップに沿って話した内容は概略次の通りです。



 

  ステップアップの7段階

 ステップアップ1  問題点を明らかにする

 ステップアップ2  問題点の原因を明らかにする

 ステップアップ3  問題点の解決策を考える

 ステップアップ4  計画を立てる(人・物・金・こと・情報=企画力)

 ステップアップ5  計画を実行する(巻き込み運動)

 ステップアップ6  反省評価する(内部評価・外部評価)

 ステップアップ7  分類する(始める活動・続ける活動・高める活動・止める活動)


   公民館ないないづくしの10ヶ条

 第1条  一山百円で特徴がない公民館

 第2条  子どもと青年と婦人が集まらない公民館

 第3条  職員のやる気が感じられない公民館

 第4条  事業バランスが崩れている公民館

 第5条  金がないし知恵もない公民館

 第6条  公民館運営審議会が機能していない公民館

 第7条  いのちとくらしに役立たない公民館

 第8条  自治能力が向上しない公民館

 第9条  行政に当てにされない公民館

 第10条? 未来性がない公民館


  公民館の活性化に向けて

 1、時代の流れを読む

 2、住民の意識と行動を知る

 3、地域の問題点を明らかにする

 4、地域の夢を描く

 5、課題解決のため行政と協調・対立する

 6、人を育てる

 7、行動によって世論の風を起こす(フットワーク)

 8、交流する(ネットワーク)

 9、情報発信する

 10、人間力・地域力・教育力を追求する

 終りに質問が2件ありました。鋭い質問でした。

  「あの席に 昔は座り 受講した 懐かしき日々 脳裏かすめて」

  「紹介を されて壇上 話しする 見事な誘導 お陰様にて」

  「結局は 人人人の 良し悪しで 決まる活動 やる気起こして」

  「誰一人 眠る人なし 嬉しいね 九十分の 講義終りて」


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shin-1さんの日記

○生まれ変わった高松

 四国の玄関口という名前を長年欲しいままにしてきた高松には、その名残か今でも国の出先機関や会社の支店が名前を連ねています。しかし最近橋が架かったり情報網や交通網が発達して、大阪に近いという地の利が崩れ、NHKや郵政などが四国ブロックの拠点を愛媛県に移したりしたものですから、高松の存在が薄くなっていました。また瀬戸大橋ルートや明石・鳴門大橋ルートが開通して宇野・高松連絡船もその座を奪われると、高松の衰えが急速に目立ち始めていたのです。起死回生で望んだ高松駅周辺の再開発は予想以上の効果を生んで、今ではまさに高松の玄関、高松の目玉、高松の中心として大きな役割を果たしつつあるようです。残念な事にその反動で中心市街地の凋落は目を塞ぎたいような感じですが、それも仕方がない出来事として、新しい街への期待をしなければならないようです。

(えっ、これ東京じゃないの?と見まがう程のサンポート高松の中心施設です)

 先日5月24日内閣官房から要請があり、サンポート高松で開かれた「地域活性化応援隊派遣相談会in香川」という集会に出かけました。このところ香川県高松市での集会は殆どこの会場や全日空ホテルを使うためすっかり馴染みの場所となりました。何せJR高松駅の構内のようなものですからアクセスがすこぶる便利で、また海に面した新しい感覚の施設なので快適なのです。しかしまだこの施設は香川県や高松市はもてあまし気味で、察するに稼働率はそんなに良い方ではないのではないかと思われ、今後のコンベンションとしての利活用が待たれるところです。

(サンポートホール高松はまるで宇宙基地のようです)

(海辺の全日空ホテル)

 この日の会合は、「地域活性化伝道師」という肩書きを地域活性化担当大臣からいただいた最初の仕事でした。最近阿部内閣になって霞ヶ関の職員が盛んに地方へ出かけて対話する姿が見られます。これまで政府のことは東京で決まった話として情報公表されてきましたが、顔の見えるようなことはまずありませんでした。ましてや出先ならいざ知らず政府の役人から直接仕事を頼まれることなど殆どなかったのです。会議は内閣官房から構造改革特区・地域再生に関する制度説明に続いて二人の伝道師が30分ずつの持ち時間で事例紹介をしました。その後は伝道師・象徴担当職員による個別相談が行われましたが、私たちへの相談は防犯・防災のまちづくりの組織化と行政の関わり方でした。少し難しい話なので割愛しますが、平成の大合併後の首長選挙が大きな問題を投げかけている事に気付きました。

 首長には民間・行政経験者・議会経験者などが立候補しますが、無党派層を意識してマニフェストを掲げて現職組に揺さぶりをかけ、功を奏して就任した首長は外から行政を見ていて矛盾と思える事を様々な方法で解決しようとします。その場合義かとの軋轢や職員の抵抗にあって中々思うように進まないのですが、それでも4年という短い任期に全ての思いをぶつけて行政をするのです。結果的にいい行政が行われればいいのですが、無理難題を突きつけられた職員はたまったものではないと、冷や汗をかいているようでした。

 行政の本来の目的は地域住民の幸せ実現のためにやるのですが、人気取りになったり一部の人の都合の良い方向に誘導される危険性もはらんでいます。いいトップに恵まれた私の町も合併して少し遠い存在のトップに変りました。でもトップを身近に感じるような行動を私たち市民も参画と協働によって実現させなければならないと思うのです。

  「哀愁を 帯びた汽笛や ドラの音 五色のテープ 記憶の底に」

  「新しき 海辺の街を 潮風に 吹かれて歩く 皐月のどけき」

  「この頃は 霞ヶ関の 役人も 地方重視と 巡回歩く」

  「島行きの 小さな汽船 客を乗せ 長閑けき瀬戸を 右に左に」

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shin-1さんの日記

○まるでおもちゃの買い物篭

 娘の出産が近づくと人間は誰でもそうなのか分りませんが、今まで気付かなかった妊婦の姿があちらこちらで目に付くようになって、妙に娘お腹と見比べたりするのですから不思議なものです。「あのお母さんの腹は前へ突き出しているから男の子かな。あのお腹の具合だと女の子に違いない。」とか、「盲9ヶ月くらいでいよいよだな。」何て他愛のない目でジロジロ見たりするのです。多分相手となる妊婦は「まああのおじさん私のお腹をジロジロ見ていやらしい」と思ったに違いないのです。

 先日東京へ行きました。町中に人が溢れて活気があるようにも見えましたが、信号が変るとまるでアリの集団が何の目的も持たずあちらこちらへとうごめいているようにも見えて、都会のすき間を垣間見るようでもありました。そんな群集に混じって若いお母さんと生まれたばかりの子供をつれた姿を何度か目にしました。ベビーカーに乗せてゆっくりと歩いている人、赤ちゃん専用の抱っこ用具で前に抱いて歩いている人に混じって篭に入れて持ち歩いている人を見かけました。

 動くベットのような籐で出来た篭に入れられた子どもはまるでおもちゃのようで、思わず無造作に歩く母親の姿を見てしまいました。若い母親は今流のお化粧をしてとても産後とは思えない体型をしており、産後すっかりやつれた姿をしているわが娘とはまるで大違いなのです。その母親は信号待ちしている間は、腕がだるのか買い物を置くように無造作にそのベビー篭を地面に置いて化粧を直していました。明らかにベビーは二の次で、第一は自分の顔の化粧直しなのです。やがて信号が変りびこの母親はベビー篭をブラブラさせながら雑踏の中を歩いていましたが、赤ちゃんがトラックのクラクションに驚いて泣き始めると歩道の隅に寄って、ベビー篭に入れてある哺乳瓶を赤ちゃんの口にあてがい、地べたに置いたまま無造作に飲ませ消えて行きました。

 この光景をじっと眺めながら、「ウーン、時代は変ったなあ」としみじみ思いました。時あたかも国会で「母乳問題」が議論されています。「子育てには母乳を」と提案すれば、「母乳の提案は母乳の出ない人に失礼で、そこまで個人のプライバシーに踏み込むのは配慮に欠ける」と反論するなど、親と子どもの子育て議論など棚に上げ、わが党が正しいという一票獲得争いをしているにしか思えない寂しい日本の政治家の意識と行動が若い母親の姿とダブって見えました。

 わが娘は一人目もそうでしたが、今回のお産も母乳がよく出ます。生まれて10日目の赤ちゃんは毎日母乳を飲んでスクスク育っています。母乳の効果については諸説ありますが、門外なので語ることは出来ません。母親が持っている病気への抵抗力も備わっている母乳は他に比べることのできない飲み物であることは確かです。もっと大事なことは授乳を通して母親の体温や心の温かさを赤ちゃんに伝えることだと思うのです。これこそサムシング・グレート(遺伝子という目に見えない自然の偉大な力)だと思うのです。母親は授乳を通して赤ちゃんに語りかけ、時には子守唄を口ずさみます。まだ目の見えないはずの、まだ何の意識もないはずの赤ちゃんが授乳の時自分の手で母親をつかみ、目でしっかりと母親の顔を見ているのですから無意識ながら凄いエネルギーの注入なのです。

 一人の人間のまだ始まったばかりのスタートは、授乳という行為で赤ちゃんに大きな支援をしています。その行為は一人の人間の将来を左右するとても大事な出来事なのです。母乳を飲ませる行為をたとえお乳が出なくても赤ちゃんにしてあげることは日本の将来にとっても必要なことかも知れないとしみじみ思いました。

  「篭に入れ まるで赤ちゃん お買い物 今様ママは これが子育て」

  「わが娘 お産の後の やつれ顔 それもそのはず 大きな仕事」

  「目も見えぬ 赤子キョロキョロ 乳を飲む 心ほのぼの 娘の姿」

  「ああ俺も あんな時代が あったのか 今は一人で 大きくなったと」

 

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