shin-1さんの日記

○まるでおもちゃの買い物篭

 娘の出産が近づくと人間は誰でもそうなのか分りませんが、今まで気付かなかった妊婦の姿があちらこちらで目に付くようになって、妙に娘お腹と見比べたりするのですから不思議なものです。「あのお母さんの腹は前へ突き出しているから男の子かな。あのお腹の具合だと女の子に違いない。」とか、「盲9ヶ月くらいでいよいよだな。」何て他愛のない目でジロジロ見たりするのです。多分相手となる妊婦は「まああのおじさん私のお腹をジロジロ見ていやらしい」と思ったに違いないのです。

 先日東京へ行きました。町中に人が溢れて活気があるようにも見えましたが、信号が変るとまるでアリの集団が何の目的も持たずあちらこちらへとうごめいているようにも見えて、都会のすき間を垣間見るようでもありました。そんな群集に混じって若いお母さんと生まれたばかりの子供をつれた姿を何度か目にしました。ベビーカーに乗せてゆっくりと歩いている人、赤ちゃん専用の抱っこ用具で前に抱いて歩いている人に混じって篭に入れて持ち歩いている人を見かけました。

 動くベットのような籐で出来た篭に入れられた子どもはまるでおもちゃのようで、思わず無造作に歩く母親の姿を見てしまいました。若い母親は今流のお化粧をしてとても産後とは思えない体型をしており、産後すっかりやつれた姿をしているわが娘とはまるで大違いなのです。その母親は信号待ちしている間は、腕がだるのか買い物を置くように無造作にそのベビー篭を地面に置いて化粧を直していました。明らかにベビーは二の次で、第一は自分の顔の化粧直しなのです。やがて信号が変りびこの母親はベビー篭をブラブラさせながら雑踏の中を歩いていましたが、赤ちゃんがトラックのクラクションに驚いて泣き始めると歩道の隅に寄って、ベビー篭に入れてある哺乳瓶を赤ちゃんの口にあてがい、地べたに置いたまま無造作に飲ませ消えて行きました。

 この光景をじっと眺めながら、「ウーン、時代は変ったなあ」としみじみ思いました。時あたかも国会で「母乳問題」が議論されています。「子育てには母乳を」と提案すれば、「母乳の提案は母乳の出ない人に失礼で、そこまで個人のプライバシーに踏み込むのは配慮に欠ける」と反論するなど、親と子どもの子育て議論など棚に上げ、わが党が正しいという一票獲得争いをしているにしか思えない寂しい日本の政治家の意識と行動が若い母親の姿とダブって見えました。

 わが娘は一人目もそうでしたが、今回のお産も母乳がよく出ます。生まれて10日目の赤ちゃんは毎日母乳を飲んでスクスク育っています。母乳の効果については諸説ありますが、門外なので語ることは出来ません。母親が持っている病気への抵抗力も備わっている母乳は他に比べることのできない飲み物であることは確かです。もっと大事なことは授乳を通して母親の体温や心の温かさを赤ちゃんに伝えることだと思うのです。これこそサムシング・グレート(遺伝子という目に見えない自然の偉大な力)だと思うのです。母親は授乳を通して赤ちゃんに語りかけ、時には子守唄を口ずさみます。まだ目の見えないはずの、まだ何の意識もないはずの赤ちゃんが授乳の時自分の手で母親をつかみ、目でしっかりと母親の顔を見ているのですから無意識ながら凄いエネルギーの注入なのです。

 一人の人間のまだ始まったばかりのスタートは、授乳という行為で赤ちゃんに大きな支援をしています。その行為は一人の人間の将来を左右するとても大事な出来事なのです。母乳を飲ませる行為をたとえお乳が出なくても赤ちゃんにしてあげることは日本の将来にとっても必要なことかも知れないとしみじみ思いました。

  「篭に入れ まるで赤ちゃん お買い物 今様ママは これが子育て」

  「わが娘 お産の後の やつれ顔 それもそのはず 大きな仕事」

  「目も見えぬ 赤子キョロキョロ 乳を飲む 心ほのぼの 娘の姿」

  「ああ俺も あんな時代が あったのか 今は一人で 大きくなったと」

 

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