shin-1さんの日記

○今日は天然ウナギの蒲焼だ②

 高知県馬路村に行くに当たって数日前、馬路村役場の木下課長さんから、「馬路に来る時はクーラーボックスを持って来るように」と電話がありました。昨年魚梁瀬に講演で行った時もそうでしたが、今度も安田川の清流で育った天然ウナギをゲットしたとのことでした。木下課長さんは役場職員でありながらウナギ捕りの名人で、延縄を仕掛けてウナギを捕るのです。昔は何処の川にでもいたウナギですが、今では養殖ウナギが主流で、天然のウナギなど食べようと思っても私たちのような貧乏人には高嶺の花で中々手に入らないのです。今回の第5回全国まちづくり交流会は高知県の美味しい郷土料理が食べれることも魅力のひとつで、時々刻々と木下課長さんから入るマグロ、ドロメ、カツオ、土佐ジローなどの食材情報に一喜一憂しながらその日の来るのを首を長くして待っていました。

 私とえひめ地域政策研究センターの清水さん、松本さんは木下課長さんと海岸国道で落ち合い、まずマグロを使った海鮮丼を食べて安田川沿いの道を上流へと向かいました。私は積もる話もあるので木下課長さんの車に便乗し詰まる話をしながら馬路村入りしました。少しの時間木下課長さんの案内で村のあちこちを案内してもらいましたが、彼が自主的に手づくりで作った木の看板が要所要所に建っており、感心してみて回りました。

 最初の看板は湧き水の側にありました。伊予路では水不足が心配されているのに、馬路村ではいたる所から水が湧き出していました。何とも羨ましい限りで、水の落ちる直ぐ下には天延のワサビがいっぱい生えていました。
(桜の木にくくりつけられている湧き水を示す手作り看板)

(看板に偽りなく岩の隙間から流れ出る水はとても美味しい湧き水でした。)

その後温泉センターを通り越して、昔の森林鉄道の跡と思われるノスタルジックなトンネルを通りました。普通乗用車一台がやっとというトンネルは出口と入り口を補強して長年の風雪の後がうかがえましたが、ここにも素敵な看板がありました。

(ノスタルジックな雰囲気が漂う森林鉄道の名残トンネル)

(このトンネルにはこの看板が似合います)

 トンネルを抜けると見覚えのある第三セクターアクロスの工場の屋根や陸橋が見え、木下課長さんの家に通じる狭くて急な坂道を車で登って行くと、木下課長さんのお母さんが笑顔で出迎えてくれました。失礼な話ですが木下課長さんは今でもべっぴんで、昔は相当綺麗だったんだろうと想像したりしながら四方山話をしました。お茶を入れてもらったり、自家製蜂蜜をなめさせてもらったり、田舎暮らしを楽しそうに語ってくれました。

(木下課長さん親子とともに。この親にしてこの子ありです)

 家の直ぐ側の小川から引いた水槽にはあの天然ウナギが篭に入れられて私の来るのを待っていました。多分これだけの天然ウナギを集めるのには何日も川に出て仕掛けをしたのではないかと頭が下がる思いでした。

(これが木下課長さんが延縄で釣り上げた天然ウナギです。腹は天然独特の黄色味を帯びていかにも美味しそうでした。)

 前回は土産にもいただきましたが、軒先でお母さんが炭火で焼いてご馳走をしてくれました。今回は前夜祭と当日の交流会、つまり昨日と一昨日に天然ウナギは全国から来た人に大判振る舞いをされましたし、私にも今朝土産としてクーラーに氷とともに生きたまま入れられて、わが家へやって来たのです。

 私は所用で別の会合に出席して夕方家に帰り、早速軍手をはめてウナギをさばきました。ウナギは氷水に入れられているため仮眠状態でそんなに格闘することもなく案外スムースにさばくことができました。自慢のタレをつくり七輪に火をおこして焼きましたが、夕食前の娘がいい匂いだと焼いてる煙をいち早く察知し、妻も焼きながら焼きだちの天然ウナギをつまみ食いしました。とにかく「美味い」の一言でした。娘婿も孫も思わぬウナギ丼のご馳走にお代わりをするほどで、肝吸いとともにご馳走様でした。馬路村ではウナギも人間も全て天然なのです。

  「天然の ウナギさばいて 七輪で 蒲焼つくる 何て贅沢」

  「お代わりと 茶碗突き出す 孫の顔 天然ウナギ 少し多めに」 

  「蒲焼の 匂い四方へ 広がって 夕餉の膳が 活気に満ちて」

  「鉢巻を 締めてウナギと 格闘す 包丁研いで 背開き一機」

 

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shin-1さんの日記

○高知県馬路村からの発信①

 四国で今をときめくような活動をしている人の中に徳島県上勝町の横石さんと高知県馬路村の東谷さんがいます。今日は東谷組合長に頼まれて高知県馬路村へやってきました。今日が本番の全国交流会の記念講演を頼まれて、昨日えひめ地域政策研究センターの清水さんや松本さんとともに馬路村入りをしました。昼間は途中で落ち合った木下課長との昼食、木下課長宅の訪問などあわただしい時を過ごしましたが、昨晩は村の中央を流れる安田川の河川敷にしつらえた前夜祭会場で全国の仲間と楽しいひとときを過ごさせてもらいました。北海道から沖縄まで100人を超える人が参加していましたが、全国に名だたる馬路村だけあって参加者の関心も高く、名刺を50枚も使いました。特に魚魚梁瀬杉で知り合った湯浅社長ご夫妻との懐かしい交流や、知人湯人も多く、飲むほどに酔うほどに酒と郷土料理も手伝って交流は深まり、温泉のバンガローに駆けつけた木下課長たちと深夜に及ぶ激論を重ね、「明日があるから」と就寝しました。昨夜は心配された雨もどうにか交流会では持っていましたが、深夜になって雨脚が強くなり、木下課長の話だと30ミリも降ったとか、さすが全国有数の雨所だけのことはあるようです。

 今日は心配された雨も何とか持って、千本山という杉の原生林見学ツアーに参加して2年ぶりに大きな杉の木と対面しました。一度ならず2度までもこの山に足を踏み入れましたが、やはり自然の醸す偉大なパワーに圧倒され、人間の力の無力さをまざまざと見せつけられた感じです。今はウツギの卯の花が満開で道ばたのそこここに咲いていて、「♭卯の花の匂う垣根にホトトギス早も来鳴きてしのびね漏らす夏は来ぬ♭」などと思わず口ずさんでしまいました。

 さて今日の私の仕事は僅か1時間15分ですが記念講演です。村長さんの15分間の村紹介、東谷さんの40分のゆずの里の活動紹介に続いて私が登壇しました。来る道すがら清水さんと松本さんと相談していたプロモーションビデオを入りに使い、よどみなくアドリブの話を無事時間通りにおえることができました。困ったことにセンターの松本さんが販売目的で持って行った研究会議20周年記念誌が何冊か売れて、その裏表紙にサインを求められました。字のうまくない私としては断ることもできず、ついつい調子に乗って「逢う人も逢う人も福の神」と「人でも仕事でも愛する所に集まってくる」を書かせてもらいました。

 昨日の交流会では私の存在はできる限り目立たないようにしていましたが、今日の交流会では講演の反響をもろに受けて名刺を交換しなければならないような予感がしています。

 木下課長さんにお願いしてブログを書ける場所まで連れて行ってもらって、このブログを書いています。多分もう二度とこんなことはないと思うのですが、沖縄石垣島に続いて馬路村から2度目のブログによる情報発信をしました。記念すべき記事になりそうですが、昨晩同室の清水さんや松本さんとの激論の余波を受けて少々寝不足、加えて時間が気になって良い文章が書けませんでした。

 さあこれから夜の部の始まりです。

  「杉の木の 年輪学ぶ 生き方を これから余命 肝に銘じて」

  「これだけの 人が動くか 馬路村 合併せずも 生き生き生きて」

  「俺のため ウナギを用意 してくれた 友の心に 思わずほろり」

  「伊予路では 雨が降らぬと 嘆くけど 今宵ここでは 降らぬか嘆く」

 

 

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shin-1さんの日記

○娘夫婦親子に乗っ取られた居間と寝室

 5月18日の出産と退院後の実家での子育てで、娘夫婦と親子がわが家で暮らすようになって丁度哀調回復も順調で3週間が過ぎました。娘のお産は産気づいてから僅か1時間半余りでの出産だったので産後の体調回復も順調で、母乳の出も申し分なく今のところはホッとしています。第二子は生まれた時少しのハプニングがあって保育器に少しの間入っていましたが、問題もなく母子ともに退院して順調にスクスク育っています。母乳が行き届いているのか二日前の定期健診ではかなりの体重増でこれまた順調にスクスク育っています。まるでセミのように鳴き声も日増しに一段と大きくなっていますが、眠ることは兄と同じスヤスヤとよく眠り夜も昼も母親は大助かりです。孫で4歳になっている兄の朋樹君は相変わらずのやんちゃぶりで、朋樹プロジェクトは次男が就職のため一抜けしましたが、相変わらず松山の幼稚園へ連れて行ったり迎えに行ったりと相変わらず私たち夫婦に大きな負担がのしかかっています。それでも孫の世話は楽しくて眉毛は8時20分と下がりっぱなしです。娘婿は大学での仕事や出張で中々大変なようですが、産後の暮しを組み立てるのに懸命で目下のところ気がねの居候をしてわが家から通勤しています。朝孫を幼稚園に連れて行って出勤し、仕事が終われば居残りの孫を幼稚園に迎えに行って夕方8時頃に帰ってきます。

 娘のお産に当たっては娘、娘婿、孫、赤ちゃんとそれぞれがかなり重いハードルを持って寄り添うように生きていますが、一番の陰の功労者は妻なのです。家族の食事や洗濯、掃除や育児手助けなど数えればきりがないくらい毎日多くの仕事を、勤務しながらこなしています。娘の回復が順調なので、掃除や洗濯などは娘がかなりやれるようになりましたが、新生児の入浴補助などになると、わが家はまるで蜂の巣を突付いたような大騒ぎです。それでも娘は助産婦なので要領よく事を運ぶのですが、お湯の世話など限りなく妻の仕事は深夜にまで及ぶのです。まあもう直ぐ娘の家族が引き上げるまでの期限付きですからみんなで手助けしたいと、ワイワイガヤガヤいいながら楽しみたいものです。幸い今は初夏で気候も暑くなく寒くなくのベストコンディションなのが大助かりです。

 娘夫婦とその家族が実家での暮しをする場所は私たちの居間と寝室になりました。第一子誕生の時は妻も居間で寝て手助けしていましたが、今回は私たち夫婦は2階の客間で寝る事にしました。全ての一日の仕事が終わって2階に上がって休むのは11時近くになりますが、それでも明くる朝の6時まで何の仕事もなく私たち夫婦は休めるのですからこの上ない至福の時間となります。多分娘夫婦は授乳や泣くこの世話で眠れない夜を過ごすのでしょうか、私たちにはかすかな息遣いしか伝わってこないのです。朋樹くんは相変わらずの寝坊で、幼稚園に迎えに行っての帰りには車の中でグースカと平気で昼寝をしますし、帰って食事と風呂を済ますと、私が本を読んでやり夢の世界へと旅立つのです。

 まあ後10日ほどは楽しくも賑やかな暮しが続きますが、2ヵ月後にはまた長男夫婦に子どもが誕生の予定ですから、当分この騒動は続きそうです。

  「いいもんだ 赤子の泣き声 家中に 響きわって 幸せですね」

  「寒くなく 暑くもなくて 順調に 育つ赤子の 日増し大きく」

  「幼稚語で 話す言葉の おばあちゃん 答えるように 思わずニヤリ」

  「母親を 取られたような 気がすると 思い不憫な 兄を抱きしめ」

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shin-1さんの日記

○二宮金次郎の銅像

 私の町の小学校に二宮金次郎銅像が2つ建てられています。誰がどんな目的で建てたか定かではありませんが、二宮金次郎のことをつい最近になって色々な書物で見かけるようになりました。多分世の中が不景気になると、質素倹約を旨とした先人の教えが世の人に大事だと教えるためでしょうが、私自身は自分の講演に二宮金次郎のことをよく話しに出すものですから、折に触れ二宮尊徳翁夜話などを読んで若い頃から勉強をしているところですが、二宮尊徳の教えは論理的で分りやすいのが特長といえましょう。いずれ人間牧場で尊徳翁夜話などを素材に塾でも開いたらと考えているところです。

 昨日えひめ地域政策研究センターに覗いた際、月刊誌の閲覧コーナーで「かがり火」という雑誌を見つけました。明日馬路村で会う予定の「かがり火」編集人の菅原欽一さんのことも気になっていたので、偶然にも「かがり火」に目を通しました。その中にある会社の社長さんが会社経営の指針にしているという二宮尊徳のことばが書かれていたので紹介します。                           

遠くをはかる者は富み 

近くをはかる者は貧す

それ遠きをはかる者は百年のために杉苗を植う

まして春まきて秋実る物においてや

故に冨有り

近くをはかる者は

春植えて秋実る物をも尚遠しとして植えず

唯眼前の利に迷うてまかずして取り

植えずして刈り取る事のみ眼につく

故に貧窮す

 この教えは目先の利益を追わず、長期的視野に立って経営を行うことの大切さを説いていますが、小さなものを積み重ねて大きな物を作り上げる積小為大と一見反するような感じもしますが、考えは一緒なのです。

 もうひとつ興味深い話が載っていました。明日行く馬路村の奥のまた奥に魚梁瀬という集落があります。その奥の奥に魚梁瀬杉の原生林がありますが、そこから切り出した150年生の杉の原木の切り株が何故か私の人間牧場にあるのです。その年輪を数えながら人間の人生の短さをしみじみ感じるのです。と同時にたった一つの年輪を作るのに何と1年365日かかるのですから、気の年輪は大したものです。計算だと驚くなかれ150年×365日=54,750日かかった計算になるのです。私は先日もおもしろ教室で人間牧場にやって来た子どもたちのこの話をしてやりました。まさにこれこそ環境教育であると同時に経営の理念でもあるのです。

 偶然にも明日は「かがり火」編集人の菅原欽一さんと出会い魚梁瀬杉の原生林を訪ねます。もう少し奥の深い学びをして、少しでも進化して帰りたいものです。

  「尊徳翁 何年経っても 衰えず 教え隅々 心動かす」

  「尊徳と 言えば馬鹿者 勘違い 損か得かと 言葉通じず」

  「百年の 大計杉の 木を植える 今日の幸せ 飯が食えたら」

  「尊徳の 教えしみじみ 考える まだまだ浅い 俺の生き方」



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shin-1さんの日記

○ハガキ千客万来

 数日前新聞に載った私の講演要旨は反響があってかなりの方々からお電話やお便りをいただきました。中でもハガキは50枚にものぼり、ハガキの千客万来といったところです。葉外を貰うということはそれなりに嬉しいのですが、返事を書くことは20年も一日三枚のハガキを書いている私でも大変で、毎日せっせとハガキを書き綴っている今日この頃です。その点メールは簡単で多分送信には1回10円くらいはいるのでしょうが、新聞を読んだ感想のかなりのメールはその都度処理をしたもののハガキはまだ未処理のまま机の上に置かれ、今日も朝から早起きをして書いているのです。ブログやメールをやり始めてからハガキは1日に10枚が限度ということが分りました。昨日はその10枚を書き上げ投函しましたが、やはり最後は字が乱雑になって申し訳ないことをしたと投函しつつ深く反省するのです。

 数日前に届いたハガキに懐かしい一枚がありましたので紹介します。

 「こんにちは。突然のお便り失礼します。松山に住む母が若松さんの講演会の新聞の切抜きを送ってくれまして、懐かしくてお便りさせてもらいました。下灘満野に住んでいた時、私は小学生でした。今は広島に住み、大学生と高校生の息子がいます。若松さんもお元気そうで何よりです。『変えてはならないもの』の言葉に感銘を受けました。ありがとうございました。これからもお元気で。広島市安佐南区・・・・・・・・T。  絵は母が書いた梅です。

 Tさんのご家族のことはよく覚えています。下灘満野を家族で離れられた折、広報のコラムにも書いた覚えがあるのです。地元の人からは中々届かないハガキですが、こうして異郷の地で暮らすと望郷の念に駆られるものなのか、改めてふるさととへの思いの深さに驚いた次第です。

 「そうかはやTさんの子どもが大学生と高校生か」と自分の年齢の高さを振り返り納得しながら、早速私も返事のハガキを書きました。双海町のその後の様子、私のその後や近況など夕日をあしらった絵葉書に少し小文字で少し多めの文章を・・・・・・。そして広島へもちょくちょく行くので会いたいとも追伸しました。

 新聞記事を送ってくれたお母さんのことも気になって、早速松山市の電話番号をくって見ました。記憶の彼方にあるY・Yの名前を見つけました。見つけたのが早朝4時なので8時頃ににでも電話してみようと思っています。何はともあれ嬉しい知らせに一昨日は一日中ほのぼのとした一日でした。

  「覚えてる? 覚えているよと 返事書く 海を渡りて 懐かし人の」

  「電話帳 目細め探す 彼の人の 名前見つけて 胸が躍りぬ」

  「新聞の 切り抜き送る 母の知恵 赤糸手繰る 望郷心」

  「二人子も 早そんなにと 納得し 自分の歳を 重ね合わせて」 

 

 

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shin-1さんの日記

○クワガタに歓声

 一年前には「キャー虫だー」と泣き叫んでいた孫が何処でどうなったのか、最近は虫好きになってトンボやチョウチョを追い回すようになりました。多分孫と二人で行った100円ショップのダイソーで買った虫かごと、虫取り網が気に入ってからだろうと思うのですが、団子虫も平気で捕まえれるようになってえらい進歩です。

 3日ほど前親父が畑で小さなクワガタを見つけ、小さなナイロンの容器にビワの実と一緒に入れて持ってきてくれました。孫は恐竜やムシキングに心酔しており、「ウワー凄い」と気に入ったのは良いのですが、寝ても枕元に置き、風呂に入るときも窓辺にクワガタの入った虫かごを置くほどの熱の入れようで少々困っているところです。最初は恐る恐る外から眺める程度でしたが、鋭い角を持っているため背中から握るコツを教えてやったところ、虫かごの中に手を突っ込み手で平気で触れるようになって益々エスカレートするのです。

 親父に御礼に隠居へ連れて行ったところ、親父は孫にクワガタやカブトムシの捕り方まで話すものですから、やれクヌギの木だとか、やれハチミツだとか完全に捕獲作戦まで頭に描くようになってもう大変です。一昨日は幼稚園から帰ると早速パンに塗る小袋入りのハチミツを持って捕獲に出かけました。出かけたといってもクヌギの木があるわけではなく、裏庭に近くにあるビワの木の小さな穴にハチミツを少し垂らすだけなのですが、孫はワクワクして一緒にやりました。孫にとっては他愛のない夢なのでしょうか、目を輝かせてクワガタやカブトムシの来訪を待っているのです。

(10のポケットが減り、王子様の座を奪われた孫朋樹君ですが、それでも弟の誕生は嬉しく、時々抱かせてくれとせがみます。弟の名前は尚樹に決定しました。)

 私たちにとって初孫である朋樹君は少子化そのままにこの4年余り7つのポケットを持った王子様に君臨し、甘やかされて育ってきました。親父は大じいいちゃん、私たち夫婦はおじいちゃんとおばあちゃん、大阪のおばあちゃん、お父さんとお母さん、長男夫婦はおばちゃんとおじちゃん、次男と三男はおじちゃんと加えると何と10個ものポケットになって、誕生日、こどもの日、お年玉、お土産を全て自分のものにしてきました。ようね気に夢中になった飛行機も、今夢中の恐竜もまるでデパートの売り場のように揃っています。こうした作られた遊び道具にそろそろ飽きて、カードとか生きた虫に興味を示すのは成長している証拠でしょうが、甘やかしの構図に少し変化が出始めています。それというのもつい最近第二子の孫が誕生したため、王子様の座を弟に奪われてしまったのです。母親もおばあちゃんも何かにつけて幼稚語で赤ちゃんにすり寄り、自分はかまってくれない不満から「男同士」などといって盛んにおじいちゃんである私にすり寄ってくるのです。私もそんな寂しさを紛らわせてやるため努めて朋樹君の面倒w見てやります。でも何かあると必ず「お兄ちゃんになったのだから」と自覚を促す言葉が無造作に飛び出す度に満悦と不満の狭間で葛藤が起こるのです。

 クワガタへの関心はそうした不満の現われかもしれないと、クワガタに果物をやったりしながら孫と一緒に熱中しているのが私なのです。さて昨日早起きした孫がハチミツをビワの木に塗ったことを思い出し「おじいちゃんカブトムシを捕りに行こう」と誘いました。行きましたが何ら進展もなくハチミツのみがビワの木に残っていました。「まだカブトムシは幼虫から孵っていないのかも知れない」などといって納得させましたが、今年の夏は早起きしてクヌギ林へカブトムシを朋樹君と捕りに行きたいと約束をしました。


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shin-1さんの日記

○ヤッホー、私のメールが初めて外国へ届きました

 私のパソコンにはやたらと訳の分らぬ英文のメールが何処からともなく送られてきます。最初はエッと思って開いてはみたものの、それは迷惑メールと知ってからは無造作に迷惑メールとして処理しているのですが、それでも毎日届いて出張で2、3日家を空けようものなら100通に余ってその処理にうんざりするのです。

 そんな英文に混じって外国から一通のメールが届きました。オーストリアウィーンの日本人学校にこの春赴任したわがふるさと双海町出身の中尾先生からです。先生とは教育長時代の2年間同僚として仕事をした間柄です。中尾先生は小学校の先生ながら派遣社会教育主事として教育委員会で仕事をしました。優秀な方で2年間の仕事ぶりは目を見張るような活躍でした。特にマニフェストよろしく私が公表して望んだ双海町誌編さんの仕事や双海の子育て10の約束などをことごとく完成させてくれました。圧巻は就任そうそう町の入口に設置された有害図書自動販売機の撤去をめぐり、住民運動にまで発展させ撤去にこぎつけた仕事で、彼のひたむきな努力の成果でした。彼は2年間の2回も外国に行く幸運にも恵まれましたが、それは実力で勝ち取った大きな成果だろうとしみじみ思いました。

 そんな2年間を経て地元の小学校に赴任していましたが、思うところあって日本人学校で勤務する決意をして見事その切符を手にしてこの春家族とともにオーストリア日本人学校へ赴任して行きました。

 赴任先から春先一通の絵葉書が届きましたが、この春中尾先生と同じようにえひめ地域政策研究センターに伊予市役所から出向している松本君に中尾先生のメールアドレスを聞きだし、無謀にも外国へメールを送ったのです。

 haruji@・・・・・・・jp 」、これが私が初めて外国へ送ったメールアドレスです。多分届かないだろうと思って半信半疑送ったメールでしたが、昨晩中尾先生から、「メールが届きました」と返事が帰って来ました。「ヤッホー、私のメールが初めてオーストリアウィーンという海の向こうの外国へ届きました」。嬉しいことです。しかし驚きました。これが現代の情報化社会と分っていても瞬時に私のメッセージが届くなんて・・・・・。私がわが家の書斎を基地にパソコンでインターネットを始めてもう二年近くになりますが、昨日という日くらい嬉しい日はありませんでした。昨日は私にとっていわゆる小さな記念日です。これからも中尾先生とのメールのやり取りを通して新しい可能性にチャレンジしたいと思っています。

 「おい松本君、中尾先生が赴任している3年間の間に、何とかお金を貯めてオーストリアの中尾先生に会いに行こうや」と話したところ、彼も同感なようでした。アメリカ・メキシコ・ハワイ・韓国・オーストラリア・ニュージーランド・香港・マカオなどには行ったことがありますが、ヨーロッパの国々へはまだ私は行ったことがありません。夢を膨らませるのもいいもんだと思っています。

 それにしても若いっていいねえ。ウィーンで3年間も家族で暮らそうという意欲があるのですから。私など言葉の壁に阻まれて・・・・。でも英語が話せない私だって30歳でアメリカへ行こうと決意し青年の船でアメリカやメキシコへ行ったのですから・・・。

 奥さんと二人の子どもさんの外国での暮しが無事で楽しいものになりますようかげながら心より祈っています。

  「初めてだ 海の向こうに 住む人へ 半信半疑の メールを送る」

  「届いたと メールが届く 嬉しい日 小さな記念日 六月五日」

  「時差ありて 今頃どうして いるのやら 思い巡らす 友の姿を」

  「外国が 人の想いで 近くなる メール届いて もっと近くに」

 

 

 

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shin-1さんの日記

○タマネギの収穫

 こんなに長い間畑にある野菜も珍しいといつも思うのがタマネギです。タマネギの苗は昨年の文化の日頃に売られています。したがって植え付けもここ四国地方では11月の上・中旬なのですが、それから秋・冬・春と季節を越えて7ヶ月間も畑でじっとその収穫の時期を待つのですから、忍耐の作物としか表現できないのです。

 わが家では無農薬でタマネギを栽培して1年中の食料として保存するのです。昨年保存し使われず残ったタマネギが一束軒先に吊るしていますが、もう芽が出て食料としてはつかえないようです。それでもタマネギの生命力は大したもので、親タマネギを栄養分として子どものタマネギが緑の葉っぱを空中で出しているのですから大したもので、まるで宇宙で実験をしている作物のようです。

 このところ天気が安定してむしろ松山市などでは水不足が心配で、6月のこの季節だというのにもう取水制限実施などという苦しい水事情が報道されています。でも天気がよいと農作業ははかどって梅の収穫も無事終り、今度はタマネギの収穫とばかり、90歳の親父は毎日私にタマネギを地中から引き抜いてくれとそれとはなしに私にアプローチを掛けてくるのですが、このところ忙しく中々時間が取れないのが実情です。それでも一昨日朝早く起きてとりあえず引き抜き畑に転がして仕事に出かけました(仕事といっても講演と会合程度です)。ところが一昨日家へ帰って畑を見ると雑然と雑草の中にあったタマネギがお行儀よく畑に枕を並べるように並べているではありませんか。親父に聞くと「お前の仕事は雑でいけん。あのままだと天気がよくても乾かないから草を削って並べ替えといた」というのです。驚きです。ご覧下さい。これが90歳の親父のこだわりタマネギ地上絵アートなのです。

 何かにつけて几帳面な親父ですが、ここまでとはただただ驚くほかありませんでした。そして昨日の夕方「明日の天気は晴れ時々曇り、所によってにわか雨」というものですから早速収穫する話がまとまり、夕方5時から包丁で茎を切り落としタマネギの球根を集めてキャリーに入れ、夕観所の軒先に一輪車で運びこみました。今年の作柄は親父も「つい最近で一番の豊作」と喜ぶように玉部鳥もよく、毎年見られる生育不良の外品は殆どなく収穫することが出来ました。

 親父はこのタマネギの一部を近所に住む息子や娘、それに日ごろ何かと気遣ってくれる兄弟のところへ送ってやるのも楽しみの一つです。早速明日はこのタマネギの古い皮を剥いで手づくり愛用のタマネギネットに入れ保存のために私設公民館煙会所の軒先に吊るす準備をするのでしょう。

 親父の几帳面さはこれだけではありません。切取ったタマネギの茎は、こちら辺では「ぜつめ」という草切りの道具で細かく切って畑に還元するのです。夕暮れ迫っているので「明日にしないか」と諭しましたが、「今日しか出来ない仕事を明日に伸ばすな」と言って作業を行いました。ただただ感服です。

 私は父のこうした教えを毎日見聞きしているのですが一向に上達した生き方が出来ません。口でも物を書いてもある種スピードある行動も負けませんが、まるで尺取虫のように日々の行動を積み重ねる生き方はまだまだ駆け出し、フンドシ担ぎといったところでしょうか。親父の少しずつ衰える姿を見ながら、親父のような地道な役立ち感のある人生をこれからも真似て生きて行きたいと思いました。

 昨晩は取れたてのタマネギをオニオンスライスとしていただきました。少し辛くて少し甘い雪のように白いオニオンはドレッシングでいただくととても美味しい旬の味でした。この食べ物の欠点は臭い屁がよく出ること、まあいいか。

  「オニオンを 食って屁をひる わが家かな 父さん臭いと 妻も同じ屁」

  「タマネギを 並べ地上絵 アートです 既に消え行く デジカメ証人」

  「手作業で タマネギ畑 跡形も ないよう元の 綺麗畑に」

  「明日がある そういう息子 諭しつつ 今日しかできない 態度で示す」 


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shin-1さんの日記

○本を買うのは容易いが本を売るのは難しい

 一昨日の地元新聞朝刊に私が代表を務めるえひめ地域づくり研究会議の記事が掲載されました。私の講演要旨が出た翌々日だったので関心も高く、あちらこちらでその話が出ています。今回の記事はえひめ地域づくり研究会議創立20周年記念誌の出版を知らせるもので、わが双海町出身でえひめ地域政策研究センターに伊予市役所から出向して会議の事務局を担当している松本君が記念誌を持って恥かしそうに写真に写っていました。あらかじめ松本君からその話を聞いていたので納得しながら読ませてもらいました。

 3日前私はセンターに出向き立派に出来上がった記念誌を50冊松本君から受け取りました。というのも前回の運営委員会で私の提案で記念誌をそれぞれの運営委員が20冊以上販売する目標を渋々?ながら認めさせました。多分異論もあったのだろうと思いますが、資金難にあえぐ小さな団体なので60万円をかけた記念誌を少しでも多く売らなければ事業をすることが出来ないからです。言いだしっぺの私を含めた代表運営委員をしている3人は最低50冊は販売するとみんなの前で公言したのです。

 さて本は買うもので売ったことなどない人にとっては、これくらい厄介なものはありません。ましてや自分の本でもない記念誌ですから説明や想いがないと相手には無用の長物だし、売ることは困難なのです。幸い私は自著本「昇る夕日でまちづくり」を6千部、ボランティアグループの「今やれる青春」を3千部販売した実績があるのです。ですから50冊のノルマは何のことはありません。まず買ってくれそうな人を頭に描き手始めに人間牧場を見学に来た人にアタックしてみました。小学校の玉井校長ご一行様4冊お買い上げ、東京都奥多摩町視察者ご一行5冊お買い上げ、そして今日はえひめ生協の松本専務さんにご無理をいって3冊お買い上げ、漁協女性部の皆さんに10冊お買い上げと私の業績はうなぎ上りです。それもこれも日ごろの出会いやまちづくりのネットワーク、フットワークがものをいうのです。

 それでも時々「本を買ってください」といっても、「それ何なん」とか、「私はそんな難しい本は要りません」とか幾ら説明しても拒否する人も中にはいるのです。多分そんな人は私たちと価値観や生きてる世界が違うのだとあきらめて引き下がるのですが、私のブログさえ見たことも見る方法さえも知らない人に幾ら必要性を説いても「馬の耳に念仏」なのです。

 本を読まない人たちは一体何で知識を得ているのでしょう。多分察するにテレビやラジオ、新聞や人の話が殆どなのではないでしょうか。まあそれでも生きていけるし本を読んだからといって幸せになるとも限らないのです。でも私の知識の殆どは活字媒体からですし、その事によって随分豊かに暮らしてきました。これからもできる限り本を読みたいと思っています。

 今回の記念誌はワンコイン、つまり500円です。ポケットマネーとして簡単に出し易い金額として五百円硬貨一枚の値段を設定しました。ガソリンだと2リットル強、ペットボトルのお茶だと3本で50円のお釣り、そこら辺の温泉だと1回の入浴料金、子どものちょっとした小遣い銭、勿論双海町から松山までのJR運賃にもなります。こうして価値を比較してみると記念誌は500円といえどかなりグレードの高い情報誌だと私は思いますが、さてさて猫に小判の人も多くいるはずです。

 今回の記念誌販売はややもすると経済を無視する風潮のあるまちづくり人が、本を売るという手法で資金を稼ぐ始めての試みなのです。多分個人差もあるので余り期待は出来ませんが、もし原価である60万円を稼ぐのであれば、えひめ地域づくり研究会議の未来は明るいと、ふと捕らぬ狸の皮算用をしております。

  「買うもので 売るなどできる はずがない そこを越えねば 未来あるまい」

  「ワンコイン 出すのを渋る 人々を 騙して出さす これも裏技」

  「役場さえ 買わぬ記念誌 誰が買う 少しは勉強 しろと言いたい」

  「セールスも 出来ぬ人など まちづくり 出来る訳なし 経済観念」  

 

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shin-1さんの日記

○この日はちょっと

 「若松さんですか。この度東京都の奥多摩町議会から視察の申し込みがありました。6月4日の予定は如何ですか。」と市の議会事務局から電話がありました。「この日は今治に講演に出かけておりますので予定の2時には帰れそうにありませんので別の日にお願いします。この日はちょっと。」と電話を切りました。おっつけまた電話が入り、「この日しか日程が取れないので、できれば時間を遅らせても宜しくお願いしたいとの事です。」で、仕方なく視察研修の受け入れを決めました。ところが先日私が予定した講演が相手の都合で中止になったため、今日は手持ち無沙汰で何処へも行けず、結局は人間牧場の残った梅の収穫作業をする事にして出かけました。これまで20キロ入りのキャリー6箱を収穫済みですが、この日は更に2箱収穫して全ての収穫作業を終わったのです。結局合計160キロという驚異的な大豊作となりました。今日は姉の所や親類、それに妻の友人にもおすそ分けしてやっと処理のめどが付いたのです。でも私の体は梅の刺で無数に傷が付いて見るからに無残な姿になりました。

 山に持っていっていた携帯電話の電源が電池切れで、市役所の担当者から再三再四「議員さんたちが既に双海町入りしている旨の電話を入れてくれてたそうなのですが、結局は通じず昼食に帰って娘からその事を聞かされ2時前に待ち合わせ場所となっていたシーサイド公園で議員さんたちと出会ったのです。



 今日視察に来られた議員さんたちは東京都町村議会議員研修会で私の話を聞いてやって来たようで、その熱心さには頭が下がる思いでした。話は弾み人間牧場へも案内し、わが家の海舟館や煙会所まで見学し、深い交流でふかいごえんができ、再会を約束して次の目的地へ去って行きました。

 月並みな議員研修ではなく心と心のふれあいや双海町のまちづくりから学ぼうとする意欲は旺盛で、かえってこちらが勉強をさせられてたような感じでした。

 普通は議会事務局を通せば議員さんか議会事務局が来訪者に対応するのが普通ですが、今回は議会の開催が間近に迫っていることもあってどなたも見えず、私一人の対応になりました。こんな時こそ市役所の職員でも対応してくれたらと思ったのですが、議会事務局も地域振興課も所用で手が離せないので宜しくと丁重なお断りの電話があったので私はその事を相手に伝えましたが、相手はどう受け取ったかは定かでありません。こちらから議員さんや行政職員が視察に行く場合丁重なもてなしをしてもらっているのに、来る場合は必ずしも丁重ではないのは少し気になるところです。

 視察の目的が私に会いに来ることが多いので、私はまるでまちづくりボランティアガイドのようでもあって、そこら辺が何か奥歯に物が挟まったような違和感を覚えるのも事実です。でも視察効果といわれるように今日も議員さんたちは何がしかのものを落として帰られました。大切なのは交流によって何を学ぶかですが、私一人が学んでも仕方がないような気もするのです。この疑問は当分の間続くことでしょう。

  「田舎者 東京目指す あの頃は 今じゃ都会が 田舎を目指す」

  「奥多摩も 東京いえど 田舎です 気が合い話 延々続く」

  「また合おう 再開約し 去って行く 僅か四時間 だけど寂しや」

  「海のない 町から来た人 海恋し 思わず見とれ 感嘆しきり」  


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