shin-1さんの日記

○素晴らしいアイディアのハガキと名刺

 今朝旅先の熊本県から帰郷すると郵便物に混じって沢山のハガキが届いていました。その中にキラリ光る一個のハガキを見つけました。ハガキを一枚といわず一個といったのは下の写真のように白樺の木をスライスしたハガキだからです。80円と50円の切手を合計130円分貼った特製ハガキは真ん中をくり抜いて駿馬がこれまた程よく彫刻されていて、全体の美しさもさることながらボールペンで書いた文字がまたとても美しく、嬉しくなりました。差出人は木曽町大目富美雄とあります。実はこの方、先日高知県馬路村行われた全国まちづくり交流会で知り合った方なのです。私の手元に残っている名刺を繰ると木曽町役場企画調整課に勤める課長補佐と書いています。ハガキの裏には「若松さんの実践的な話ハーモニカの音色、まちづくりは自分が楽しくなければ駄目、子どもたちが自分の町を語れるように・・・・」など、私が講演で語ったことが短くまとめられ、「ハガキ3枚のハガキを毎日書く事を20年間続けているという貴重な話」で結んでいるのです。

(長野県木曽町の大目さんから送られてきた木になるハガキ(左)と、高知県馬路村で開かれた全国まちづくり交流会で大目さんからいただいた名刺)

 馬路村で150枚も名刺交換したのに何故大目さんの事を覚えていたかというと、それは名刺のアイディアが凄かったからです。大目さんの名刺は上の写真のように本物の免許証と見間違えるほどの精巧さで作られていているのですが、よくよく見るとアイディアが一杯なのです。氏名・生年月日はかわらないものの、職場は役場企画調整課(課長補佐)、電話・FAX・E-mall、平成19年の異動まで有効、免許条件 眼鏡等、免許の種類はこれまで歩いて来た職場に1、異動したことのない部署には1がつけられているのです。私も色々な名刺を見てきましたが、このアイディアはダントツで、正直手渡されたときは間違って運転免許証を手渡されたような勘違いをしてしまうほど実に精巧に出来ています。ひょっとしたら偽札と同じで悪用されるのではないかと心配したほどです。そんなご縁がたった一枚の名刺で出来ていたものですから、今日木で出来たハガキをもらった時、一事に秀でたものは万事に秀でると直感したのです。大目さんの話によるとこの名刺は名刺コンテストでグランプリを獲得したそうですが、私にとってこの名刺は一生忘れない思い出の一枚となることでしょう。

 私たちは20年間無人島キャンプなどを実践してきましたが、その都度無人島で拾った小石や流木板切れなどに宛名や手紙を書いて家族や友人宛に送りました。その都度家族や友人はとてつもない変った便りに驚いたようでしたが、大目さんからいただいた木のハガキは、数多い私へのハガキの中で今年最高のグランプリに輝くのは間違いないと思いましたし、名刺と共に人間牧場へ持って行って大切に飾り、来訪者に自慢してやりたいと思っています。それにしても世の中は面白いアイディアを持った人がいるものだし、それを行動に移した大目さんは偉いと思いました。「大目玉」という言葉があります。悪い事をして叱られることのようですが、私にとって大目さんからのハガキと名刺は「大目玉を開けよ」と教えてくれたショックでした。

 毎日色々な人に会い、名刺を交換する光景を何度も見てきたし、私自身もそんな行動を今も取っています。また出会いの感動や感想をハガキに託して相手に送ることもしてきたし相手から貰いもしました。たった一枚の名刺が、たった一枚のハガキが心を揺さぶり、覚えていてもらえるならこれほど凄いことはありません。今一度名刺やハガキについて考えてみたいものです。

 先日馬路村でこのことが話題になりましたが、馬路村の木下産業建設課長さんも面白い名刺を持っています。同じものを私に数枚作って送ってくれましたが、名刺入れから差し出した名刺は「あれ裏側かな」と思うほど自分の名前が小さくて右手の親指で丁度隠れるようになっていました。名刺を貰った瞬間の「あれっ」が人を引きつけるのです。ただしその一矢の次にどういう言葉の二の矢三の矢を出させるか、これがないと、折角のショックが台無しになるという話をして盛り上がりました。

 私の漫画チックな名刺と人間牧場主という肩書きはその点大目三の名刺には適いませんが中々の秀作だと思っています。名刺一枚にも知恵を出す、ハガキ一枚で相手への思いを伝える、こんな市役所の職員は残念ながらもう少なくなりました。

  「免許証? いやいやこれは 名刺です いやはや参った 一本取られ」

  「おっ来たか 名刺で驚き 次ハガキ 次は何かと 大きな期待」

  「裏返し? いやいや裏では ありません 表向きです 私の顔は」

  「ちょっと待て 思わせぶりな 人ありて 何処か気になる だからおもろい」



 

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shin-1さんの日記

○変われば変わるもの

 ブログで日記を書き始めて二年近くが経ちますが、資金「若松さん、お孫さんは元気ですか」と、あちらこちらで孫の消息を聞かれるようになりました。それもそのはず、これまでは妻と孫のことなどは「私的なこと」として、余り口にもしてきませんでした。ところがブログを書き始めるとそんな家庭の話題を取り込むことが日記の醍醐味とあって、旅の出来事や人との出会いなどに加えて、いわゆる私的な妻と孫の話題がむしろ多くなっているのです。その中でも孫朋樹の話題は最近とみに多く、成長すればするほど話題も多くなって、ブログの人気者になっているのです。昨日もブログは縁のない人でしたが人間牧場の近くに住む人に「キャー虫だーと、逃げまくっていたお孫さんはお元気ですか」と尋ねられました。昨年のこの頃地元の人を招いて水平線の家で一杯飲んだ時、たまたま孫連れて行っていたので印象に残っていたのでしょう。「いやあ、それが大変身で、今は幼稚園が休みの日などはカエルやおたまじゃくしを追い掛け回していますよ」といったら、「変れば変わるものですなあ」と関心しきりでした。

 そもそものきっかけは、シーサイド公園の特産品センターおもちゃ売り場で、恐竜のミニチュアセットを660円で買った時に遡ります。それまでは飛行機の模型に熱中していた孫が、恐竜の模型に熱中し始め、飛行機の模型は一体何だったのかと思わせるような大変身で、恐竜に狂い始めたのです。遊びも恐竜ごっこ、風呂へ入るのも寝るのも恐竜の模型なしでは夜も日も明けない感じになりました。当然7つのポケットを持っている孫は誕生日や旅行のお土産に恐竜の模型を欲しがるのです。

 そんなこともあって、人間牧場へ行くと団子虫を探したり、チョウチョやクワガタを探したり、野性味溢れる子どもに成長しています。今日も午前中は人間牧場で息子が所属する建築関係の集会を開くので準備がてら連れて行ったところ、参加している若いお兄ちゃんにせがんでチョウチョやクワガタを追っていました。また家に帰ると百円ショップで買った網と虫かごを持って、おたまじゃくしやイモリを探しに行こうと私を連れ出しました。我が家の周辺は田舎ゆえまだあちらこちらに田園が開けていて、そんな水棲動物が一杯いるのです。大人でさえも気持ち悪くて触らない腹が赤いイモリを取ったり、おたまじゃくしやタニシをしっかりと取って遊んでいます。これが子どもの自然な姿だと思いつつ初夏の太陽を体一杯に浴びて孫にお付き合いしていますが、少々疲れるのが本音です。

 私にとって自分の子どもの子育ては仕事の忙しさにかまけて妻任せで、成長した子どもが「お父さんと遊んだ記憶がない」などとよく言われます。それもそのはずまちづくりの仕事に熱中し殆ど子どもとは関われなかったのです。孫へのかかわりはその自戒の念かも知れないと妻は苦笑しますが、わが子は10時10分、孫は8時20分といわれるように、子どもは眉毛を吊り上げて教育をします。ところが孫は眉毛が下がるのです。娘や娘婿にすれば「甘やかさないで」といいますが、孫とおじいちゃんの関係はまあこんなものでしょう。

  「誰が好き 聞けば必ず おじいちゃん 心得てます 孫のお世辞だ」

  「虫さえも 触れなかった あの孫が 今は堂々 イモリをつかむ」

  「成長が 昇り調子の 孫比べ 俺は落ち目の しがない爺」

  「この孫が 大人になるのを 見届けたい 大丈夫です いや駄目かもウーン」

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shin-1さんの日記

○鯉の死

 高齢化社会や核家族化社会を繁栄してかペットが密かなブームを呼んでいます。食うことさえままならなかったハングリーな戦後を体験した私などから見れば考えられないような、豊かな社会になった現われかも知れませんが、世の中は成熟社会に向かえば向かうほど孤独になって、何かに救いを求める気持ちはよく分るし、人を信じられない時代にもの言わぬがなつく愛くるしい動物に愛情を注ぐ気持ちはよく分るのです。

 わが家の親父も母の死以来同じ敷地内に住んでいるとはいいながら、忙しく振舞う私たち夫婦とも意外と疎遠で、孤独に絶えながら生きていると思うのですが、その救いを若いころからやっている鯉の飼育で幾分紛らわせていたような気がするのです。家の敷地内に池を二つも掘り、自動浄化装置まで備えた鯉の飼育池には8匹の鯉が元気よく泳いでいました。親父の日課は鯉餌やりから始まり、散歩、農作業や趣味の骨董品の手入れなど領域も広く生きがいを持って生きているようにも見えますが、やはり寄る年波のせいか、時々弱音を吐くものの年齢90歳にしては元気で日々を暮らしているのです。

 昨日の朝、小降りの雨の中私の書斎の窓から親父がやって来て、悲しげな声で「鯉が死んだから写真を撮ってくれ」というのです。「自慢の鯉だったのに」というので池に行って見ると、一番大きな鯉が池のそこに沈んでいました。たも網で上げましたが、二人の力でやっとというほど大きくて、10キロはくだらないようでした。早速鯉を持ち上げた親父の姿をデジカメに納めました。

 母親生前中から飼っていたわが家の池で一番大きな思い出の鯉の死は親父にとって相当ショックだったようで、雨の中畑の隅に穴を掘り埋めてねんごろに供養していました。「もう生きものは飼わん」とか、「池は潰す」などと狼狽した言葉をつぶやきながら小雨の池の側で一日を過ごしたようです。

 昨日は愛媛県公民館連合会の新任職員ネットワークセミナーがあって、昼間家を留守にして帰ってみると、何が原因なのかもう一匹の鯉も瀕死となりました。早速出入りの別府養魚場に電話をかけてましたが、あいにく留守とのことでした。降って湧いた鯉の死の大騒動は今日も続くでしょうが、早く鯉の死のショックから立ち直って欲しいと願っています。

 最近松山の郊外などに行くとペット霊園などの看板が目に付くようになりました。犬や猫に始まり鳥や爬虫類まで様々なペットを飼う人が増えています。犬や猫は外という常識も今では非常識で、人間と共に暮らすような飼い方に変わってきています。当然犬や猫は同居動物で、人間と同じように服を着せ、人間と同じように病院や美容院、温泉にまで行くのです。ペットを飼わない人たちには理解し難いこんな風景の中で運命を共にしてきたペットの死は、やはり人間と同じような魂の葬り方を求めるのは当然かも知れません。平気で嘘をつく人間に比べペットは従順で愛くるしく、死ねば嘆きの深さは計り知れません。

 私の家の近所でも最近は家の中で犬や猫を飼っている人が増えてきました。「家族の死より犬が死んだ方が悲しい」なんて言葉を平気で口にする人もいるほどですから動物とのパートナーシップも相当なものです。

 今わが家には産後の休暇を実家で過ごす娘家族が同居して賑やかです。4歳の孫と生まれたばかりの新生児が泣いたり笑ったり一喜一憂する姿に平和も感じるしいとおしいいとも思います。親父の悲しみを少しでも和らげてやりたいのですが、今日から私は熊本県あさぎり町への出張で家を留守にします。

  「鯉が死に ショック受けたる 親父見て 悲しみ分かち 思い出スナップ」

  「雨の中 畑の隅に 穴を掘り ねんごろ供養 親父の背中」

  「思い出の 品また一つ 消え去りぬ 母は今頃 何処を旅して」

  「夜が長い 一夜明けたる 池の側 父は何やら 鯉に言葉を」  

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shin-1さんの日記

○郷土に錦

 旧双海町奥東出身で東京で活躍されている人に清野茂次さんという人がいます。ふるさと大学「伊予塾」の講師として2006年6月9日に来県されリジェール松山で開かれた講演会には300人もの人が集まりました。私は出席できなかったのですが愛媛新聞で特集が組まれその一部始終が報告されました。

 その清野さんが母校である下灘小学校と下灘中学校でそれぞれ1時間ずつ児童生徒の前で講演するというので、市の上田教育長や地元出身の三徳電機社長の三井新太郎さんたちとともにお世話をさせてもらいました。私が役所在職中に一度お会いしている方だし、実家の清野家の皆さんとはご実懇にさせてもらっているので肩肘張らない同行となりました。

 シーサイド公園で待ち合わせ昼食を取った後まず下灘小学校に向かいました。校長室に案内されましたが、久しぶりに訪ねた母校の姿に感慨一入のようでした。

 池田校長先生の案内で会場となった体育館に入りましたが、50人ほどの児童数に驚いたようでしたが、児童の暖かい拍手に迎えられ、清野さんの講演が始まりました。清野さんが褒めるほど児童の聞く態度は立派で、パワーポイントを使って分り易く話すものですから、子どもたちも納得の感じでした。特に日本の国家的プロジェクトといわれる明石海峡大橋や瀬戸大橋の設計に深く関わられているため、子どもたちは講演会終了後の質問の時間も、殆どの子どもが手を挙げる盛況ぶりでした。

 また最後は望郷の思いを歌に託され、ピアノの伴奏に合わせて「みかんの花咲く丘」を児童とともに大合唱しました。

 続いて下灘中学校へ会場を移してのお話です。

 新しく赴任してこられた二宮校長先生の案内でこちらも体育館での講演となりました。清野さんは戦後の学制改革以前に小学校を卒業しているため、中学校は松山工業高校、松山南高校へ進んでいるため、残念ながら下灘中学校の卒業生ではありませんが、それでも中学生には中学生なりの少し難しい話を「おじいさんから孫たちへおくることば」と題してしてもらいました。

 文系でなく理系の人なので最も得意とする専門分野の話は聞いても分らないものなのですが、技術士らしく理路整然と分り易く話されました。
 清野さんは1933年生まれ、52年松山南高校卒、56年日本大学工学部工学科卒、58年オリエンタルコンサルタンツ入社、86年に社長、会長を経て2005年から相談役・名誉会長を務めています。建設コンサルタント業振興への貢献で97年に建設大臣表彰、04年に黄綬褒章を受けています。建設コンサルタンツ協会、日本技術士会顧問なども努めておられます。

 小さな田舎町から飛び出し、日本や世界を股にかけて活躍する郷土の生んだ逸材なのですが、やはりふるさとへの思いは相当なもので、いつも頭から離れないと述懐されていました。そのことばを裏打ちするように心がけてきた次の5つを話されました。

 心がけてきたこと

 1、自分のふるさとに誇りを持つ

 2、両親や兄弟、仲間に感謝する

 3、毎日の仕事を大切に知る

 4、日本人としての誇りを持つ

 5、いつも感謝の気持ちを忘れない

 「郷土に錦を飾る」という言葉があります。清野さんや私たちを含めて戦後の混乱した世相の中で221世紀は誰もが都会に憧れ、都会の雑踏の中に消えて行きました。一旗揚げる気持ちで出かけてものの殆どの人は挫折や失敗を繰り返しましたが、清野さんの場合は夢をたゆまぬ努力で勝ち取り大成功を収めたのです。まさに一旗揚げ、郷土に錦を飾りました。今は亡きご両親もさぞかし自慢の息子であったに違いありません。清野さんの偉さはやはり原点であるふるさとを忘れないことだと思うのです。

 この日清野さんは小学校と中学校に目的ご芳志として図書を寄付されました。やがてこの本を読んだ子どもたちが第二・第三の清野さんを目指してくれることを期待したいものです。


 講演会終了後、わが人間牧場や翠小学校を案内しふるさとささやかにを満喫していただきました。

 その夜、三井さんの肝いりで交流食談会が持たれました。

  「ふるさとに 錦を飾る 人ありて 話すことばに 苦難感じる」

  「熱心に 聞き入る児童 それぞれに 今に自分も 夢が芽生える」

  「学校に ありし銅像 金次郎 幼き頃の 思い出ダブらせ」

  「美味いね 郷土の料理 堪能し 思い出話に 花を咲かせて」


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shin-1さんの日記

○ビワの実の熟れる頃

 雨の少ない年は果物が美味いとよく言われますが、確かに今年のビワは玉太りもよく甘味も十分乗ってどれを食べても美味しいものばかりです。今年一番最初にビワを食べたのは確か先月17日でした。あれから1ヵ月近くが経過しているのに、極早生、早生、中生、晩生とそれぞれ微妙に違う品種の特性があって結構長い間その味を楽しめるのです。わが家には残念ながらビワの木がないたことが幸いし?、近所の知人友人が思い思いに持ってきてくれるのです。みかん一辺倒だったわが町も自衛本能とでもいうべきか生産の柱をみかん・晩柑・キウイフルーツ・ビワなどを組み合わせて栽培している人が多くなりました。とりわけこの10年ほどでビワの植栽や収穫量は急速に伸び、海沿いの温暖な気候を利用して新興産地となりつつあるようです。やまのあちこちには4月頃、袋を被せた美しい光景があちこちで見られるのも今様なのです。

 ところが最近はカラスがこの袋目がけて飛来し、辺りかまわず食い散らすのです。農家は折角の労作を食べられては大変と食害対策としてあの手この手を考え、ガス玉で驚かせたりビワの木にテグスを張ったりと、要らぬ労力をかけてカラスとの知恵比べをしていますが、今のところ不意打ちを得意とするカラスに軍配が上がってるようです。しかし当のお百姓さんにとってカラスの食害死活問題ですから、憎きカラスの夢を見たり時には有害鳥獣駆除という方法でお尋ね者の一掃駆除を猟友会にお願いしていますが、撃ったカラスの足を役場に持参する確認方法で調べてもまだカラスが一枚上といわざるを得ないようです。

 わが家に持ってきて貰うビワは出荷できない品質の全て2級品なのですが、味は1級品と殆ど変らないのです。ここでも買う側消費者の「見た目」の美しさが求められているようで、少し風傷のあるものや、形の悪いもの、カメムシ虫害にあったものなどいわく因縁の付いたものは製品であって商品にはならないようです。冬の寒さの中での摘果や高い木の上での袋をかける危険な作業をした成果がこれなのかと思うと、報われない苦労に感謝しながら食べない訳にはいかないのです。

 ビワは他の果物に比べ種の分量が多く、皮やヘタや種が約半分もあるのが難点だ思うのですが、それでも季節を感じる果物としては最高に美味しく、傷み足が速い果物だけに今は毎日食事代わりのような感じで楽しく食べています。

 公民館に勤めていた頃、生活改善グループの特産品開発でビワの瓶詰めの実習をしたことがあります。ビワを半分に割り中の種を取って黒く参加しないように下処理をして瓶に詰めシロップを加えて機械で栓を締め、蒸気殺菌をして出来上がった瓶詰めを何本か貰ったことがありました。何ヶ月か後に食べてみましたが美味しくいただいたし、今でも妻は瓶詰めのビワを入れた寒天ゼリーを作りますが、これも夏の涼を誘うデザートとしてわが家では親しまれています。

 台風被害、ヒョウ被害に遭った「訳ありリンゴ」や「訳あり柿」などを農家を助ける運動としてやっていて、私も地域づくりの仕事をしている関係上よく買いますし、日曜市などにはこうした産品が安値で出回ります。見た目本位から味本位や安全本位に変わって欲しいと思いつつ、相変わらず風評被害を撒き散らす庶民意識に青色吐息のこの頃です。

 今年も美味しいビワを届けていただいた農家の知人友人に感謝をしつつ、今朝も朝フルといきましょうか。

  「ビワを見ず 俺の顔見て 見た目より なんて口する 二人食卓」

  「下取りを して欲しいねと 種の量 皿に山盛り 腹はそんなに」

  「もう一個 更に一個と 食べ過ぎて ビワ腹ふくれ ご飯食べれず」

  「食前に 食べるが本当 果物は 食後デザート 太る原因」 


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shin-1さんの日記

○エッ、「刺身」は魚の名前なの?

 今朝は仕事の都合で昨晩わが家へ来れなくなった娘婿の代わりに孫朋樹のアッシー君として、松山の幼稚園へ送ってゆく事になりました。両親が勤めていることもあって近頃は親離れがいいというべきなのか、「一番大好きなのはおじいちゃん」などと、私の心情をくすぐるような甘い言葉で私の関心を引き付けるのです。4歳にもなると人の顔色が分るのかなあと思いいつつ、送迎に甘んじる甘い8時20分型眉毛の私がいるのです。

 今朝はあいにくの雨模様の中でしたが、双海町の海岸には合羽を着て釣りをする物好きな人が何人かいて、孫はそれを見るなり「おじいちゃん、友だちの○○君は今度お父さんと釣りに行くんじゃと」というのです。「朋樹君も行きたいの?」と私が尋ねると、「うん行きたい」と返事が帰ってきました。孫はこの頃少しずつ刺身が食べられるようになって肴の名前が食卓の話題に上るのです。「朋樹君はどんな魚の名前知っているかなあ」と尋ねると、「うん、ハマチに鯛にアジ、それにお刺身も知ってるよ」と驚く発言をするのです。「朋樹君刺身は魚の名前じゃないよ」と否定したものの、「どうして?」という追求に一瞬言葉を見つけることが出来ませんでした。孫にとっては魚の刺身はハマチや鯛と同じように魚の名前と勘違いしているのです。都会東京の話ならいざ知らずこんな田舎で暮らしながらうーん・・・・・・と思いました。

 そういえばつい最近は半調理若しくは全調理した魚がやたらと多く、元の姿を想像できないような魚が主流を占めていて、家の台所では買ってきた調理品を皿に盛り付けるだけ、ひょっとしたら盛り付けたままの姿で膳を囲むことだってあるのです。まな板や包丁さえもない家庭が増えてきました。面倒臭いと魚臭いの両面から魚離れが進み、子どもの頃から魚よりも肉を好む食生活に慣らされてしまっているのですから、「魚の絵を書きなさい」といきなり言われても、魚を釣りに行ったこともないし、丸ごとの魚を見たこともない子供にとっては書きようがなく、結果的には魚の切り身や刺身を書く時代になってしまっているのです。島国日本、魚の国日本は最早かつての思い出としてでしか語られないのかも知れません。

 私は近いうちに孫を釣りに連れて行ってやりたいと思いました。できれば忙しい娘婿を連れ出して親子で釣りをさせたいとも思いました。そうすれば共有や共感、共鳴の世界が生まれるような気がするのです。

 今朝下灘の親類から沢山の魚が届きました。今の時期は魚が最も痛みやすい時期なので、朝早くから起きてその処理をしました。鯛とニベは刺身にするため3枚におろし、ハモは背開きにして骨切りをしました。一見不器用な私ですが昔は漁師の端くれで、魚のことはちょっとした調理師には負けないくらい腕がいいと自分では思っています。甲イカはセンゴと皮と内蔵を取って水洗い、タコは塩でヌメリを落とし、約1時間半で冷蔵庫に入れれるだけの下処理をしました。これで冷凍をすると約1週間は美味しい魚が毎日食べられるのです。孫も娘婿も魚は大好きなので折に触れ魚そのものを見せて魚体をしっかりと目に焼き付けさせたいと思いました。

  「刺身とは 魚の名前 思う孫 何と説明 お爺しっかり」

  「絵を書けと 行ったら子ども 切り身書く 世も末日本 これでいいのか」

  「夏が来て ハモの湯晒し 梅酢和え 風流楽し 食が進んで」

  「食育が 大事だ思う 近頃は 親さえ魚 さばけぬ時代」

  

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shin-1さんの日記

○私に影響を与える人

 私にとって生き方や知識など影響を与える人は沢山いますが、中でも熊谷市に住む龍前宏さんは「音と文字の達人」で、不定期的に著名な方のダビングラジカセテープと、自分で書いたエッセイを送ってくれるのです。私はそのテープを車に持ち込み所用道中の行き帰りに、特にラジオの電波受信状態が悪いときなどカーラジカセで聞いています。名を成した著名な人の知られざる努力や工夫、それに考えが、本人の肉声で語られていてとても参考になるのです。私たち人間は大きく分けるとおおよそ3つのことで体内に知識を習得します。活字を読むという行為、話を聞くという行為、見るという行為です。読むと見るは目から入ってきますが、聞くは耳から音として入ってきます。私は子どもの頃からどれ程の本を読み、どれ程の人の話や音を聞き、どれ程のものを見てきたことでしょう。その一部始終が脳と心に無形ながら知識となって埋め込まれているのです。もう六十二歳の峠を越え、覚えていること全てを思い出すことは不可能なのですが、それでも六十二年間生きててもなお今日まで読まなかった活字、聞かなかった話や音、見たこともないものを見聞きして相変わらず蓄積しようとしているのですから人間とは、いや自分は素晴らしい遺伝子を持った生きものだと思うのです。これからも命のある限り読んだり聞いたり見たりしながら衰えゆく体力を少しでもカバーして生きて行きたいものです。

 さて今回送られて来たのは向田邦子さんが1981年東京大手町日経ホールで行った講演テープと、3枚のコピーでした。向田邦子さんのテープはまだ聞いていませんが、3枚のコピーは凄い内容なのです。

 1枚目は龍前宏さん自身が俳誌相思樹5月号に書いた西郷と龍馬という記事です。その記事は作家海音寺潮五郎の「西郷隆盛」という小説の書き出しを引用しながら一枚の写真の解説をしています。丁寧にもその添えれられた写真のコピーは見易いようにA3版に拡大コピーしているのです。この写真には1865年(慶応元年)2月上野彦馬撮影とあるそうですが、オランダ人宣教師フルベッキを中心にして西郷隆盛をはじめ尊皇攘夷の志士46名が一堂に会して写っている写真なのです。

?坂本龍馬、大久保利通、勝海舟、桂小五郎、高杉晋作、伊藤博文、岩倉具視など「これは本当の写真?」と思われるほど多くの人たちが写っているのです。龍前宏さんもそうですが幕末を中心とした歴史に強い関心を持っている私にとってもこの写真は貴重なものとなりました。それにしても写真に写っている志士たちは若いですね。これからじっくり写真に写っている人たちの面影や業績を追ってみたいと思っています。

 もう一枚のコピーは平成元年6月25日の新聞切抜きです。朝日新聞の天声人語、毎日新聞の余録、讀賣新聞の編集手帳、東京新聞の筆洗、産経新聞の産経抄を羅列的にコピーしていますが、ご存知6月24日は昭和の歌姫美空ひばりの命日です。龍前宏さんは私宛の手紙に「今月の24日は美空ひばりの祥月命日です。平成元年6月25日の朝刊各誌のコラムはひばり一色でした。私は同時代を生きられたことに幸せを感じております。」と書かれていました。

 しかしそれにしてもここまで朝刊各誌のコラムを保存し比較検討している人は聞いたことがありません。美空ひばりという切り口でもその書き方は様々です。いい勉強になりました。このコピーも大切に保存したいと思っています。

 日々の暮らしの中で何気なく聞く話し言葉や音、何気なく目に入る景色や文字などがいかほどの知識として脳や身体に蓄積されるかは定かではありません。しかし少なくともこうして意識的に学習する行為は大きな価値を産むに違いないと、龍前宏さんの存在を心に刻む今日この頃です。

  「送られし テープとコピー 前にして 学びの心 少し持ち上げ」

  「一枚の 写真が語る 物語 日本の夜明け 彼らつくりぬ」

  「数々の 歌を残せし 歌姫の 死を取り上げて コラムを書きぬ」

  「一度だけ 会っただけだが 影響を 及ぶ人から またも届きぬ」  

 

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shin-1さんの日記

○雨が欲しい日々

「一雨欲しいなあ」と会う人誰もがあいさつ代わりに話します。「天気が悪い」といえば雨や嵐のことをいいますが、天気の良い日がこうも長く続いて水不足が深刻になると、天気がよいのも悪いという表現に変えなければならないと思うのです。わが家の池の水は裏山から流れ出る清水を利用していますが、冬の少雨やこのところのお天気続きで水が出なくなってしまい、飼っている鯉のことが心配になって親父をやきもきさせています。また畑の夏野菜も雨不足で生育が悪く、井戸の水を夕方潅水しなければならず、一仕事あるようです。

 でも雨が降らないことも悪いことばかりではありません。洗濯物は乾くし産後の静養のため実家に帰っている娘はじめじめしない快適な暮しを喜び、お陰様で孫も順調に育っているようです。

(遥か遠くの広島や山口まで遠望できる昨日の人間牧場)

 馬路村でのまちづくり交流会に出かけていて三日ほど家を留守にしていたので、昨日は思い切って人間牧場へ出かけ草刈り作業をしました。前日は第二農場と思っている畑の倉庫が長年の風浪に朽ちて危険になったため壊す作業をしたし、昨日は草刈りとお日様の恩恵をまともに受けて百姓三昧の日々です。雨が少ないため草丈はそれ程延びてはおらず、三回目の草刈りは順調に進みました。

 昨日は草刈り途中で草刈機がトラブルを起こしてしまいました。前々からその予感があったのですが、それでも古い型ながら使えるだけ使おうと考えて使っていますが、ついに燃料タンクからエンジンに行くパイプが裂けてガソリンが噴出し、エンジンが止ってしまいました。普通だと農機具屋さんに駆け込むのですが、この際自分で治してやろうと分解をし始めました。部品を一つ一つ丁寧に外して布の上に順番に並べてゆきました。そしてビニールパイプの予備と交換して元通りに組み立てました。腕の鈍いことを自認する私ですから、壊れて元々の思いでやりました。ところが奇跡が起こったのです。私の修理した草刈機が油漏れもなく前にもまして快調に動くではありませんか。私は凄いと自分自身を褒めてやりたいような心境でした。

(私の修理で見事に甦った草刈機)

 何度か混合油を入れ足し、その都度したたる汗を拭いながら冷たいお茶を飲み、草刈り作業は予想以上にはかどりました。この分だと後半日で残った草は綺麗に刈れるのではないかと思われます。

 草刈り作業をしているとおもしろ教室の事務局の職員が芋畑の様子を見に来ました。芋の生育はこのところの日照りで芳しくなく、中には植え方の浅いものは何本か枯れているようだし、補植が必要な畝もありました。イノシシのことだけに気を取られていましたが、水不足という思わぬ問題に直面して気が気ではないようです。それでも職員さんはその日の芋畑の様子をカメラに収めて帰って行きました。

 草刈りが一段落したので帰ろうと思い梅畑の横を通りました。何やら梅の木に赤いものが沢山見えました。よく見ると一枝そっくり梅の取り残しがあるのです。収穫袋を持ち合わせていないため、麦藁帽子を袋にして木に登って取りました。大豊作の残りなのでそこここにまだ沢山残っていて、10キロも収穫しました。これは完熟梅という、梅干しには最適の梅ではないかと思われるようにかなり熟していました。ダンボールに入れて家へ持って帰りましたが、今年は梅の処理に疲れた妻にして思えば余り嬉しくない農産物かもしれませんが、塩梅干しにして保存したいと思っています。

  「甦る 使い古しの 草刈機 俺と同じで も少しお役に」

  「雨降らぬ 草丈さえも 縮こまり 何か得した 今年の天気」

  「残り梅 取ってびっくり 十キロも 完熟梅を 早速漬け込む」

  「この風景 金にならぬと お百姓 ぼやきながらも この地で生きる」


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○第5回全国まちづくり大交流会・高知県馬路村④

 「村には価値が生まれる」をキャッチフレーズに全国から150人を越える人たちが集まって高知県馬路村で開かれた全国まちづくり大交流会は、6月8日(金)の前夜祭に参加するべく早めの村入りとなりました。馬路村温泉で受付を済ませた私たち一行は、温泉施設の向かい側にあるバンガローへつり橋を渡って行きました。3棟の一番奥まった一戸建ての家が3日間寝泊りする場所なのです。

(橋の上でおすまし顔の左松本さんと、右清水さんです)

(私たちの宿舎となったバンガロー、3人には勿体ないような代物です)

 早々に着替えをして、前夜祭の会場となる河川敷へ出かけました。釣り橋の上から見ると中洲には椅子や机、それに屋台が並んで準備万端のようでした。私たちは何でも、特に飲み食いは一番とばかりに、6時半開宴だというのに6時には椅子に座って毒見と称して飲み始めたのです。高知県はこれが特長で、アバウトなところがいかにも高知の県民性を表しているようでした。

(河川敷の中洲に並べられた交流会用の机と椅子と屋台、前夜祭のテーマは水だそうでした。)

 「若松さんこっちの席へどうぞ」と、東谷組合長さんに案内してもらった席はまさに一等席で、中州の一番川に近い所で、足元近くを川が流れていましたし、吊橋や吊橋に吊らされた前夜祭の看板が一望できる場所なのです。


(影の主役となった東谷組合長と木下産業建設課長の破顔一笑は、馬路村の幸せを独り占めするような姿でした。)

 やがて日が暮れ始めると前夜祭の幕開けです。まず東谷組合長が大きな天然石舞台の上であいさつです。いつの間にか席は満席、モナカバックを持った上治村長さんも見えられ役者は揃いました。


(石舞台の上であいさつする法被姿の東谷組合長、いかにも似つかわしいやり方です。)

(私の木になるカバンには負けるものの、それとはなしに木の村をピーアールする上治村長はダンディな方でした。)

 やがてビールと地酒と郷土料理のオンパレードに酔いしれながら名刺交換が始まりました。私は前夜祭は少し控え目に席を余り立つこともなく座っての名刺交換でした。それでも「あっこの方は明日の記念講演の若松さん」何て格好で50枚もの名刺を使いました。今回の交流会には150枚の名刺を用意しましたので、多分この人数なら名刺不足はないだろうと考え、それなりの交流でした。

(酒好きの清水さんと松本さんも大満足で、駆けつけた湯浅建設の社長ご夫妻とも久しぶりの面会を果たしました。)

 心配された雨も降らず、最高に盛り上がった前夜祭の余韻はバンガローにまで二次会となって引き継がれ、村役場の職員や県から市町村に派遣されてまちづくりを援助している職員も混じって賑やかな討論会は深夜にまで及びました。この酒の勢いは清水さんの大いびきを誘発し、屋根をたたく雨音や川の流れる音をも掻き消すような、まるで壊れかけた掃除機のような寝息で、私の睡眠を妨げましたが、これもまた良き旅の思い出です。

(会場いっぱいに集まった参加者は、椅子が足らないので床に座るほどでした。)

(どうですか。この大迫力の看板は、その名も大交流会でした。私の話の吊り看板もいいですねえ。)

 さていよいよ本番の研修会がゆずの森で始まりました。木の香の香る素敵な二階の会場からは安田川と村並みが一望できる素敵なシチュエーションで、この会場でなら申し分のない話が出来ると密かに思いつつ、上治村長15分、東谷組合長30分の話を聞きながら、アドリブストーリーを考えましたが、まさに出たとこ勝負の私の話は意外なスタートとなりました。

 清水さんが脇田さんと仕組んで昨年開いたシンポジウムの折作成した私のプロモーションビデオが終わると、ステージのブラインドが一斉に揚げられ、見聞きしている参加者は緑の中に立っているような錯覚で私の話を熱心に聞いてくれました。ステージの上からしか反応は分りませんでしたが、いい感じの反響でした。全国から集まったため長旅の疲れもあったでしょうが多分寝た人は一人もいなかったのではないでしょうか。私の話に限っては大成功だと思いました。

 やがてその余韻は森をテーマにしたゆずの森の駐車場を会場にした交流会へと引き継がれました。最後はどしゃ降りの雨にたたられ水入りのような格好でしたが、ずぶ濡れになりながらも沢山の方々と出会い、名刺交換し、再会を約しました。


(新米役場職員がマグロの解体実演をしました。市場に行って仕込んできたという大きなキハダマグロは話題になりました。こんなことが出来る役場も彼も偉いと思いました。)

(馬路村温泉の料理長さんがカツオのたたきの実演を行いました。藁で燻す独特の作業に、全国から集まった多くの方々から歓声が沸きました。私としてはにんにくのスライスと一緒に食べたカツオの刺身も美味しかったです。)

(かがり火の菅原編集長さんとも久しぶりに出会い旧交を温めました。)

(コナンの里づくりを推進する鳥取県北栄町の四門館長はパンフレットを配ってPRに余念がありませんでした。)

(残念かなステージでのコンサートは雨で全てを聞くことが出来なかったのは残念でした。)

 実り多い、そして思いで多い2泊3日の馬路村でした。来月は電源地域振興センターの招きで再び馬路村を訪れますが、合併もしない僅か1100人の小さな村がこうして元気なのは一体何故なのか、次第に馬路村の村づくりの社会にのめり込んでゆきそうな自分の姿を発見しています。

  「ごっくんを 舌で覚えた 孫の声 じいちゃんお土産 ごっくんお願い」

  「堪能し 馬路を後に 来た道を 心ほのぼの ふるさと帰る」

  「不思議だね 合併しない この村が 何故に元気か 未だ分らず」

  「ユズの香は 村の暮しの 味がする どこか懐かし どこかふるさと」


 

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shin-1さんの日記

○再びの千本山③

 私たちの日々の暮しは何気なく過ぎて行くことの中に、まるでサンドウィッチのように初めて体験する出来事が組み込まれいます。その数と衝撃が多ければ多いほど人生は充実しているのでしょうが、普通の人にとってはそんな機会はそれ程多くはなく、ましてやそんな機会に例え出会ったとしてもカルチャーショックと感じにくいものなのです。幸い私のリタイアしてからの人生は「旅」と「まちづくり」、それに「人の心」がテーマなので、日々多くのカルチャーショックに出会える幸せをかみ締めています。

 この3日間、全国まちづくり交流会で訪ねた馬路村での出来事も様々なショックに出会いました。馬路村へはこれが3度目の訪問でしたが、過去2回と変わらぬ大きな発見が幾つかありました。

 ①人との出会い

 今回は全国まちづくり大交流会と銘打って、北は北海道から南は沖縄与論島まで全国から多くのまちづくり人が集いました。鳥取県北栄の四門さん、山梨の市原さん、、東京のかがり火菅原編集長さん、松下政経塾の兼頭さんたちに混じって高知県奈半利町の坂本さんご夫婦やその仲間など、会場には再会を喜ぶ顔々がいっぱいありました。勿論地元の東谷組合長さん、木下さん親子、魚梁瀬の湯浅社長さんご夫妻、馬路村の青年など多彩な顔ぶれに出会いました。特に奈半利町の坂本さんなどはわざわざ自分が作ったお米を二袋も手土産に持ってきてくれ大感激の再開でした。日ごろ交流をしている人でも違った場所で会うとまた違った趣きがあるものです。

 今回も多くの新しい顔に出会いました。100枚以上を用意した名刺も殆ど空になってしまいました。前夜祭まではそれ程ではありませんでしたが、私の講演後に行われた交流懇親会はあっという間に100枚の名刺がなくなってしまったのです。「北海道へ話しに来てくれないか」などと早くも次なる出会いを予約してくれる方々や、伊勢志摩の二見からやって来た同名町の人々との出会いは嬉しい出会いでした。これからもこの人たちと一緒に楽しい旅を続け、ささやかな夢を見たいものです。

(木下課長さんたちが作ろうとしているささやかな森も、多分2年後には馬路温泉の窓越しに見える素敵な森に生まれ変わることでしょう。蒔かない種は芽吹かないし、植えない木は育たないのです。)

(対岸の馬路村温泉)

 ②自然との出会い

 今回の旅で不自然も人の想いで自然になる事を学びました。前回訪ねたときはまだゆずの森は殺風景でしたが、僅か二年の間に植栽した木々は緑の木陰を作り自然と同化していました。東谷組合長さんが黒川温泉に学んだ最も苦心して作った不自然空間なのにそこは自然がいっぱいあってまるで違和感がないのです。ふと私が手掛けたふたみシーサイド公園の人口砂浜を思い出しました。他所から運んだ凄い量の砂で砂浜を復活させたため最初は違和感がありましたが、10年も時が経つと砂は波に洗われ波に流され、風が砂を運んで見事なまでにS字形に変形し美の空間を作っています。勿論私が12年間もこまめに毎朝掃除をして美しさを保った人為的な努力もありますが、人間と自然の相互努力はまちの原風景を変えてゆくのです。

 今回エクスカーションで訪れた千本山の杉は人間の力ではどうにも出来ない時空を越えた自然の営み故に大きな価値があるのだと改めて思い知らされました。初めて千本山の杉の木に出会った前回の感動とはまた違った新しい発見があったのです。

(千本山の入口)
(千本山の入口にかかった木製の吊橋、この橋を渡ると200年のタイムトンネルを越えたまるで別世界が広がります。)

(森の案内人。朴訥とした語り口がまた味があります。)

(全国から集まった人たちは大きな口を開けて天を仰ぎ、杉の木と対話しています。)

 人間牧場にある150年生魚梁瀬杉の切り株を使って環境問題をとらえる私にとって、この森はまさに「森は海の恋人」なのです。屋久島に次いで日本屈指の降雨量を誇る魚梁瀬で一年365日に僅か一つの年輪しか刻まない木々が私たち人間に何か訴えているような気もしました。

 帰り道、魚梁瀬地区に住んでいる湯浅建設の社長さん宅を訪問しました。魚梁瀬小学校の真ん前にある事務所兼自宅の社長室で談笑し奥さんにお茶を入れてもらって昼食を食べました。ご夫妻にはわざわざ魚梁瀬杉の板を木下課長さんと人間牧場まで運んでもらった恩があるのにまたまたのご厄介です。また何時の日にかお会いしてお話したいものです。

  「奥の奥 森の巨人に 会いに行く ものは言わぬが 教え請いたく」

  「中型の バスがやっとの 狭い道 それでも人は 一目見たくて」

  「吊橋は 何か旅情を かきたてる 向こうに住みし 人の気配が」

  「目だたずに 咲きし卯の花 芳しく 初夏が来たよと ささやくように」  




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