shin-1さんの日記

○今治を訪ねて

 今年も愛大法文学部の非常勤講師をしていますが、昨日は私の教室の学生24名を連れてフィールドワークの授業で今治市を訪ねました。今治市といえば2年前1市11市町村が合併した、全国的にも大きな広域合併を街です。特にしまなみ海道沿線の島々にある町村が合併しただけに、合併後のまちづくりはどうなっているのか興味もあって学生も引率した私も楽しみにしていました。学生は私のこれまでの講義を予備知識としてグループ討議を行い、住みたいまち、訪ねたいまちそれぞれの4テーマ40項目、合計8テーマ80項目をリストアップして、これから訪ねる今治市、伊予市、西予市、双海町をそれぞれ点数評価して、まちづくりの成果と課題を見つけてゆくのです。

 昨日はその前哨戦として今治市を訪ねたのです。貧乏暮らしの夜間主学生にとって昼間の活動は苦手だし、旅費や食事代のかかる小旅行も敬遠しがちですが、これも学習であると位置づけ、県下を回って生きた学習をするのです。朝の弱い学生に朝8時18分JR松山駅発の電車はかなりきつかったようでしたが、それでも一人の欠席者もなく鈍行列車に乗り込みました。

 

 通勤通学のピークを過ぎた列車内は一両編成ながらかなりゆったりしていて、学生たちはまるで遠足にでも行くようにすっかりリラックスしていました。約1時間で今治駅に着きましたが、高架事業の終わっている今治駅はモダンな佇まいを見せていました。今回のフィールドワークの窓口となっていただいた市民まちづくり推進課の赤瀬補佐は昔からの顔見知りで、今回も無理を承知で受け入れをお願いしたところ、快く引き受けてもらい、既に駅まで出迎えてくれていて、気配りの人らしい姿は今も昔と変わって
いませんでした。赤瀬さんの案内で市役所10階の会議室が予定されていました。

 研修は渡邊企画課長さんがパワーポイントを使って今治について語ってくれました。約1時間実に見事な説明でした。私も色々な行政職員にお目にかかりますが、現状分析や構想説明のどれも新鮮で、合併というトンネルを抜けた後のまちづくりについての話は学生の心を揺さぶったようでした。会場は省エネでまだ冷房が使えず窓を開けての会議となりましたが、熱気はそのまま学習の成果となりました。

 研修会の最初と最後のあいさつも十分だったし、約1時間課長さんに一人一問づつ質問させましたが、みんな素敵な話をしてくれました。そしてその一つ一つに課長さんはアドリブでしっかりと受け答えして返してくれました。

 室内での研修が終わると商店街の中にあるFM今治へ出かけました。若者には一番関心のある場所なので、意外と質素なそれでいて意外と乱雑な室内に一応驚いていましたが、スタッフの温かいもてなしの説明に十分満足したようでした。

 赤瀬さんは中型バスの運転が出来るので、旧波方の名前が入ったマイクロバスを自らが運転して市内視察をさせてもらいました。市民活動サポートセンター理事長の越智さんも同行して、糸山サイクリングターミナルまで行き、しまなみ海道の来島大橋を一望できるターミナルで、越智さんの話を聞きながら来島大橋を眺めながら美味しい釜飯を食べました。お釣りの関係で25人全てが一人ずつお金を払うとあってお店の人も目を丸くしていましたが、何事もなく全員がお金を支払うことが出来ました。

(越智理事長お話です)

(来島大橋を望むサイクリングターミナルで楽しい食事をしました)

 越智さんと赤瀬さんのチームプレーで市民まちづくり支援センターやJAが作った四国最大級の農産物市場を見学し、3時前の今治発の電車で松山まで帰って来ました。若者にとって大学での学びは机上学びが多いのですが、こうした社会を知ることも大切な生きた学問だと思うのです。

(所狭しと並べられている農産物を見て凄いと感じましたが、余りの大きさに少し疑問も生まれたようです)

(マーケットの裏側には貸し農園までありました)

(少し疲れたフィールドワークの旅は電車内での話題をさらい賑やかでした)

  「学生と 今治あれこれ 学びあり 知ってるつもりも 知らぬことあり」

  「驚いた わが教室の 学生は 質問鋭く バッチグーです」

  「緊張で 眠れぬ二時間 だったそう 話を聞いて いつもかくあれ」

  「行き帰り まるで表情 別の人 学びは人を こうも変えるか」 

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shin-1さんの日記

○マイ箸が理にかなっている訳

 昨日は愛媛大学法文学部総合政策学科の私の教室の学生を連れフィールドワークに今治まで出かけ、帰路えひめ地域政策研究センターの主催する会合に出席し、久しぶりに出会った高知県馬路村の東谷組合長と隣の席で旧交の盃を交わしました。参加した研修生と話が弾みましたが、「若松さん、あなたは一体何時寝るのですか」と唐突な質問に出会いました。私の答えは「4時間」でした。つまり日常は夜12時に寝て朝4時に起床します。「そんなに寝ないで大丈夫?」とも言われましたが、「まあ人に話す間に脳を休めていますので」と付け加えると益々不思議そうな目で見られてしまいました。

 さあぼつぼつ寝ようかと思い居間でテレビを消そうとすると、ニュースの特集で「箸」についてやっていました。日本の割り箸産業は安い中国産の割り箸に押されて壊滅状態だといわれており、ここにも日本の悲劇が起こっています。しかし中国の割り箸産業も例外ではなく、中国の山奥では割り箸の原料となる木材が切り尽くされ、丸裸のような山の状態が映し出されていました。中国の急激な経済発展は様々な場所にひずみが生じ、住宅の建築ラッシュで木材は枯渇状態にあるといい、割り箸の原料木材とともに、政府が資源保護のためにその原料をロシアに求めていましたが、ロシアはその事を察知して関税をかけ始めたため、割り箸は木から竹へと変化しているのです。日本でも里山を埋め尽くす勢いの竹の利用が問題になりますが、竹は成長が早く資源はまだまだ大丈夫なようです。

 しかし驚いたことに、日本人の求める竹の割り箸は白い色を好むのだそうです。今の今まで知りませんでしたが、竹本来の色は黄色味を帯びているのに、白くするためには漂白剤で漂白するのだそうです。その漂白に使われる亜硝酸が実は人間の身体に入ってはならない薬品なのです。私たちが何気なく割り箸を格好よく口と手で割って食べる仕草で、既に割り箸に染み込んだ薬品が知らず知らずのうちに体内に食物とともに入っているのです。

 コンビニで弁当を買うと決まって店員さんが「お箸はどうされますか」と聞きます。コンビニに供えてある見るからに安い箸も実は危ないのです。中国で作られた割り箸はダンボールに入れられて日本に輸出されますが、そのダンボールには「安全」を示す「無消毒安心安全」の文字が印刷されていましたが、実はこのダンボールは日本の商社が作って中国へ送り、その中に入れて日本に送っているのです。つまり紛れもなく「内容偽証」なのです。

 この実態をテレビで見た時、日本人の儲け主義からくる愚かな行動を垣間見る思いがしました。何気なく使い捨てている割り箸でさえもう信用できなくなっているのです。私たちは何を信用して暮らせばいいのか、報道特集は私たちに警告をしているようでした。しかし報道特集を組んだマスコミは昨日の段階では風評被害をあおるにしか過ぎないようにも思えました。マスコミの力は絶大です。ミーとホープ社のひき肉事件を見るまでもなく、食の安全性を警告し国や県の行政指導の在り方を根本から変えていく一助になったことはマスコミへ大きな拍手を送りたいと思います。出来ればこの報道がきっかけとなって安全な割り箸が一刻も早く実現する事を一国民として祈りたいものです。

 私のマイ箸運動は、使い捨てによる木材伐採から山を守り、それが水資源の涵養につながるから割り箸使用を少しでも減らそうとの考えくらいでした。でもこの話を聞いてマイ箸運動は理にかなった運動だと意を強くしたのです。毎日持ち歩くカバンの中でマイ箸はひとり納得して今日も出番を待っているようです。

  「えーこれも 危ない報道 聞く度に 何を信じて 暮らせばいいのか」

  「知ることで 心の不安 益々と 広がりまたも 不安増幅」

  「マイ箸を 使う自分が 誇らしく 思える暮らし 安心安全」

  「どれ程の 割り箸使う 日本人 無知もいいとこ 知らず知らずに」

 

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shin-1さんの日記

○300ピースのパズル

 娘と孫の床が上がって自宅へ帰ってから1週間余りが経ちました。赤ちゃんとお兄ちゃんの孫を加えた泣き笑いでわが家は、まるで蜂の巣を突付いたような喧騒から開放されたため、直後は何か拍子抜けの感じがしていましたが、それも次第になれて今は元の静けさに戻っています。それでも孫二人が気になるのはおじいちゃんとおばあちゃんたる私たち夫婦です。時々電話で会話が出来るようになった孫のところに電話をしては近況を聞いているのです。

 数日前、出張のついでに妻から頼まれた品物を届けに娘宅へ立ち寄りました。4歳の孫朋樹君はパズルに夢中で、私も誘われて手伝わされてしまいました。パズルの入っている箱の表蓋を見ると何やら子どもの好きそうなポケモンの絵が書いてあり、300ピースと表示されています。4歳ですから何が何でもこんな難しいパズルは大人の私にも難しく出来ないと思いましたが、絵の内容を覚えている孫はスイスイと組み立てて行くのです。私はまったく出来ず、「おじいちゃんの下手糞」なんて言葉を浴びせられ一蹴されてしまいました。仕方がないので色で識別し同じような色のピースを集めて一まとめにしながら作業をして、少しだけですがお手伝いしました。

 1時間余り手伝っておいとまする予定でしたが、孫の誘いに乗って2時間、3時間と長くなり、ついには完成間近かまで手伝わされる羽目になってしまいました。孫は幼稚園から帰って直ぐですからついうとうとしながらの作業です。6時近くになって食事の用意が出来たのでもう止めよと誘いますが今度は食事をしながら続けました。母親に叱られながらも殆ど完成した所でやっと開放してくれたのです。

 パズルは神経衰弱といわれるように、思ったようにことが運びません。時には出来ないためイライラしたり、出来た絵を見て歓声を上げたりするのですが、4歳の子どもが300ピースのパズルを仕上げる熱中根性には参ってしまいました。相手をした私はまるで人間牧場の草刈りをした時と同じような疲労感を覚えました。「お父さん昨夜はよっぽど疲れていたのね。寝いびきをかいていたよ」と妻が言うほどに疲れていました。私にとっては脳の疲れでも孫にとっては快感ですから、58歳の年の差は脳の構造さえも違うと実感させてしまうのです。

 帰り際、「おじいちゃんまた今度パズルを一緒にしよう」と孫に誘われました。内心はもうこりごりと思いつつも、「うんまた今度しようね」と言葉を返すと、「指きりげんまん嘘ついたら針千本飲ます。指切った」とされてしまいました。昨晩娘から電話がかかり、電話口に出た孫はパズルの約束を覚えていて、またまたの約束です。

 パズルのような細かい仕事は苦手なお年頃の私ですが、少しパズルを買って練習しなければ、また孫に馬鹿にされそうな雲行きです。

  「三百の ピース組み立て 絵を作る たかが四歳 孫に脱帽」

  「いびきかく 程に疲れた 孫相手 約束言葉 孫の小指に」

  「マゴマゴと してる私に 孫の手が 優しくピース 持ち上げくれる」

  「上昇の 孫に比べて この私 下りの坂を 何時の間にやら」

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shin-1さんの日記

○BY AIR MAIL

 こんな朱書きの文字を書き込んだ郵便物が先日わが家に送られてきました。ウィーンの日本人学校にこの春から勤務しているNAKAO HARUJI(中尾治司)さんからのエアメールなのです。JAPAN以下の文字は日本語なのですが、差出人の名前の上はWallrissstrasse98/1 1180Wien,AUSTRIAto英語で書かれています。多分オーストリア・ウィーンの空気も入っているだろうと、封筒の耳を3センチほど切って鼻に押し当てました。残念ながら香りはかぎ分けることはできませんでしたが、紛れもなくウィーンの街の雰囲気です。その後封筒の上を全て切って中から手紙と地元の新聞でくるんだ世界地図を取り出しました。

 私が日本の真ん中にない世界地図を初めて目にしたのは30歳のときでした。青年の船でアメリカへ行った時サフランシスコの博物館で一枚の政界地図を見た時の驚きは今も脳裏に強く焼きついているのです。その体験を双海町の若者に伝えようと人づくり10年計画なるものを発案し実行に移しましたが、中尾先生から送られて来た子の世界地図も考えこそ同じであれ、ヨーロッパに旅したことのない私にとっては初めて見る世界地図なのです。彼の住んでいるオーストリアは何処か虫眼鏡で探しましたが、確かにこの世界地図の真ん中にありました。しかし日本で見る世界地図のように自国を赤く塗りつぶして誇張していないところに隣国に陸続きで囲まれたヨーロッパらしさが見えました。

 私は早速この世界地図を人間牧場・水平線の家の教材に使おうと思っています。現在水平線の家には高知県馬路村産魚梁瀬杉150年生の切り株があります。また小さいながら方位を示す磁石コンパスとハーモニカを置いています。魚梁瀬杉の年輪からの学び、磁石コンパスが示す北極星という星からの学び、ハーモニカで吹く音楽の調べ、加えて古代から変らぬ水平線の家から見える島の位置関係などなど、様々な学びの空間に世界地図の真ん中に日本がない世界地図からの学びを加えたいのです。水平線の家の学びはこうしてどんどん広がるのです。

 ふとこの世界地図のオーストリアという小さな国で暮らしている中尾先生の家族のことを思い出しました。中尾先生の手紙には「現地自国4月6日16:00、わたしたちは日本から9000km離れたオーストリア・ウィーンの地に下り立ちました。その日以来、各々が仕事に、生活環境を整える事に、新しい学校になれる事に、それぞれ全力を尽くしております。・・・・・・・・後略。

 最近、こちらのデパートで見つけた世界地図を同封いたします。ヨーロッパ中心の地図をすでに持っているかとは思いますが、何かに役立てていただけたらと思います。2007年6月9日」と書かれてありました。

  「横文字で 書いた手紙が 届いたよ 匂い嗅ぐべく 少し開けて」

  「外国で 暮らせるなんて 夢みたい 三年間も 暮らせるなんて」

  「金貯めて 先生いるうち 訪ねたい ウィーンの街の あちらこちらを」

  「早速に 手紙書きたし 届くかな 不安だけれど やって見なけりゃ」


と書かれていました。

 




 


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shin-1さんの日記

○生協理事として早一年

 時の流れは早いものです。一昨年の6月29日の総代会で学識理事に就任して以来早くも1年が経過しました。理事といっても地域理事のように地元の組織を束ねたり活動したりする訳でもなく、毎月一回開かれる理事会に出席し、黙って座っているだけのいたって気楽な役目なのですが、その分私は私というもう一人の自分と心の中で葛藤しているのです。「私を指名してくれた大川理事長の期待に果たしてこの一年間応えて来たかどうか」ということを・・・・・。

 私はこの一年、生協の理事会や諸行事を通じて様々なカルチャーショックを受けてきました。理事さんたち女性の生き生きと輝いて活動している姿や、安心と安全という理想を追い求めて活動している姿に深い感動を覚えつつ、いかんともし難い自分とのギャップをどう埋めればよいのか大いに悩みました。勿論私が逆立ちしても皆さんの域には達しないと分っているものですから、開き直って「自分の特長でカバーしよう」と少なからず努力してきました。多分これからもそのスタンスで役割を果たしてゆくことでしょうがどうかご容赦ください。

 今日は一年に一度の総代会です。松山市道後の県民文化会館サブホールで開かれた会議には県下各地から沢山の総代さんが参加され会場を埋めました。

 昨年は会場の都合で真珠の間での集会でしたが、今年は私のような人間も理事として壇上に上がって雁首を揃えました。総代会は役員改選で少し混乱した昨年とは違い、多少の反対意見はあってもまあそれなりに厳粛な議決がなされ、古い年度の締めくくりと新しい年度の船出をすることが出来て、ホッと一息つきました。昨年の驚きが今年は安心に変ったのも理事としての責任の重さからだと納得しました。

 12時半を回った集会の後は会場を真珠の間に移し、いよいよお楽しみの会食交流です。生協出入りの業者さんがそれぞれ特長ある屋台を出し、様々な食べ物が用意され、参加者は思い思いの場所に出かけて食べるのです。驚くのは群集心理とでもいうべき女性のすさまじさです。さっきまでオホホとお上品にしていた女性たちがまるで別人のようにうごめくのです。ダイエットなど糞食らえといった感じでしょうか、チャッカリ組は屋台の品物を何食わぬ顔で手持ちの袋に仕舞い込むのですが、ここまでくるとオバタリアンむき出しで、何だかんだといいながら本心を見たような気持ちでした。




 ふと、女性だからわが妻もこんなんだろうかと思ったりしました。今日の話題は大川理事長や松本専務の話の中に、新聞やテレビで話題になっているミートホープ社の原料偽装問題が色濃く反映されていました。一方では生協運動としてこうした社会問題に大きな関心を寄せながら、一方では風評被害や群集心理を生み出す二重人格も持ち合わせているのです。

 まあ人間にはこうした二面性があることも承知しながら、二年目にチャレンジしようと思っています。

  「わが妻と ダブらせ見ると 面白い 女性の行動 裏と表が」

  「壇上で 参加者向けて パチリ撮る この人たちが 賢い消費者」

  「さっきまで オホホ美人の 女性たち オバタリアンに 変身パクパク」

  「如何です お茶を添え出す 気配りの 女性ちらほら 嬉し恥かし」

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shin-1さんの日記

○友遠方より来る有りまた楽しからずや

 今日は熊本県天草市から7名のお客さんがやって来ました。今年の1月15日に天草市経済同友会の招きで講演に行ったことが縁での視察です。時代の流れが早い現代にあっては半年も経つと、人の記憶など失せゆくものなのでしょうが、私にとって天草は忘れられない思い出の旅となっているのです。天草への講演は何故か妻と孫を含めた3人旅でした。というのも夫婦で行こうと計画していたのに出発の前日になって娘が切迫流産とかの危険で急遽入院してしまい、孫の面倒を見なければならなくなったからです。私はさて置いて、妻はこの旅を楽しみにしていましたし、孫にとっても始めての長旅でみんなワクワクの旅でした。結果は天草経済同友会の中川会長さん始め多くの方々に大切にしてもらい、良き思い出ができたのです。孫も妻も今でもあの旅のことは記憶の底に鮮明に残っているようです。今朝も天草の人たちが見える話をしたら孫などは、「幼稚園を休む」などと、すっかり天草モードでした。天草が孫にとって印象深いものになった原因は水族館でイルカやアシカに会えたこと、行きたくても行けなかった恐竜の化石の島へ今度行く約束をとりあえず納得させるためにしたからなのでしょうが、まあ天草となると嬉しそうに話すのです。

 天草からのお客さんは中川会長さんはじめ7名でした。朝9時にはシーサイド公園に到着され、そこら辺を散策されていました。私にとっては特別なお客さんですから、少し違ったシーサイド公園、人間牧場、翠小学校、海舟館という日ごろは考えられない視察ルートを案内しようと思いました。

 シーサイド公園を出発してまず人間牧場へ案内しました。この日は前日の雨模様とは違って、時折薄日の差す梅雨の晴間で、高温多湿でレンタカーを降りて少し歩き多少汗もかきましたが、人間牧場には心地よい風が吹き渡り、水平線の家でのリラックスタイムとなりました。参加者は議員さんや市役所職員さんたちでしたが、日本人は自由時間の使い方が下手だといつも思っているので、水平線の家ではあえて自由時間を取るように心がけています。解き放たれた自由時間の中で人間は何かを感じるものです。それが人間牧場の特徴なのです。今日は梅雨時特有の霞がかかって遠望はききませんでしたが、海も空も穏やかな感じがして瞑想には最適な条件でした。

(天草の人たち)
(翠小学校を訪ねる)

 昼近くまで人間牧場で過ごし、翠小学校へ案内しました。飛び込みの視察にもかかわらず校長先生や教頭先生、それに諸先生が手を振って快く迎えてくれて、いつもながらの気配りに感謝しました。天草の人もノスタルジックな学校の雰囲気に驚き、感動し、感嘆の声を上げていました。これこそ日本の忘れかけた原風景なのです。既にエコ改修の準備も着々と進んでいるようです。

 最後はわが家の海舟館や煙会所です。この施設も私にとってはありきたりですが、来訪者にとっては私設の施設だけに心を揺さぶる何かを感じて欲しいとの願いからの案内でした。結局はまちづくりは自分という原点に帰ってゆくものだと感じていただければ、今回のご案内はヒントになるかもしれないと思っています。

 シーサイド公園で遅い昼食を済ませ、長浜、大洲、内子を経由して松山へと帰って行きましたが、シーサイド公園では顔見知りの愛大学生が調査に来ており、道の駅のあれやこれやを4人の学生を相手に小1時間喋り、名物の夕やけソフトをご馳走して別れました。

 人に会い、人を案内し、人に語る。こんな出会いを繰り返す日々の中で、私自身も少しずつ成長してきたのです。これからも人と会い、人を案内し、人に語りたいと思っています。

  「遠いけど 天草だんだん 近くなる 人の思いは 離れていても」

  「このルート 人の生き方 探す旅 自由な空間 何を感じる」

  「人に会い 人を案内 あれこれと 対話しながら 軌道修正」

  「偶然に 出会う学生 道の駅 夕やけソフト なめつつ話す」  


 

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shin-1さんの日記

○柏島・大月町ルポ④

 今回の大月町への旅のもう一つの楽しみは柏島とコーラルフルーツの岡さんが経営する蜜柑園を見学することです。柏島は黒潮実感センターに勤めていた山下さんとの交流から一度は訪ねて見たいと思っていました。まず私は山本さんの車に便乗し海岸沿いの道を走りました。宇和海の入り口宿毛湾は今の時期は穏やかで、梅雨の晴れ間の蒸し暑さで汗ばむほどでした。

 山もさんが途中「ちょっと立ち寄ってみますか」と案内してくれたのは、小高い海を見下ろす丘の上にある彫刻のモニュメントです、殺風景な場所に威風堂々と建っている石造は実に見事なものでした。

(作者の想いによって建立されているモニュメント)
(イサムノグチと並び称される流さんの刻印が刻まれていました)

 ふるさと創生がらみの資金で建立されたそうですが、今は僻地ゆえ、またそれらしき誘導もなく訪れる人は皆無に等しいこの文化的モニュメントを町民はどう評価するか、かなり難しく投資効果としては疑問の残るものでした。まちづくりは町の格を上げる運動でもあります。こうした施設を文化の薫り高いまちづくりといくら声高に言っても町民の文化のレベルを上げない限り単なる石の置物でしかないのです。

 そこへゆくと、自然が作り出した芸術とでもいうべき大堂海岸は素晴らしく、先程見た何千万円もかけたモニュメントがまるで小さな存在にしか見えない観音岩を足のすくむような展望台から見下ろす姿は絶景で、思わず息を呑んでしまいました。私も色々な旅をして色々な自然を見ていますが、この大堂海岸は北陸東尋坊にも決して引けを取らない景勝地だと想うのです。

(観音岩)
(大堂海岸の絶景)

そこから少し走ると柏島の全貌が見えてきました。この島は釣りバカ日誌に高島礼子さんが出てくる島なのです。「あああの橋の上から高島礼子さんは海にダイビングしたなあ」と映画のワンカットシーンを思い出しつつ橋を渡って島に入りました。島のあちこちでは黒のウエットスーツを着た若い男女がダイビングに向かうの酸素ボンベを運んで船に乗り込んでいました。また民宿のあちこちでは若い男女が眠そうな目つきでたむろしていました。

?(柏島の全景)

(高島礼子さんが飛び込んだとされる橋の上)

(島と陸地部を挟む海峡、この上に2本の橋がかかっています。昔は木製の端だったそうです。橋の下の海はとても綺麗で魚が沢山泳いでいました)
(子宝に恵まれる安産のアコウ樹)
(碁盤の目のようにすっきりした通りの柏島集落)
(防潮堤の裏側に広がる海と海岸、絶好のダイビングスポットのよで既にダイバーが船から海中目がけて飛び込んでいました)

 山本さんの案内で少し島を歩いて見ることにしました。立派なアコウ樹の大木が茂る神社に車を止めアコウ樹の不思議な姿に感心しながら路地のような集落を裏手の海岸まで歩きました。高島礼子が出てすっかり有名になった大和屋旅館の前で山本さんが記念写真を撮ってくれました。

 それにしても柏島は島も島の周辺も海も人情までもまるで別世界のような雰囲気でした。出くわせた何人かのダイビングを楽しむ若者のような過ごし方もいいなあと思いつつ、一度ゆっくり民宿にでも泊まって地元の人と交流をしてみたいとも思いました。柏島には都会にはない魅力があって、都会の人の憧れがそこにあります。わたしたちがかつて都会に憧れた青春時代と同じように、都会の暮らしに疲れた若者もこの島や海で疲れを癒し都会の雑踏の中に戻ってゆくのでしょう。時計を気にせずゆっくりと流れる時の流れを体感したような一日となりました。

 次の目的地はコーラルフルーツ大月の農場です。岡さんと出会ったのは二年も前の事になりますが、当時岡さんの生き方に強いショックを受けました。彼の持論は「半年働き、半年遊んで暮らす」というのです。そんなことしたくても?と否定する人が殆どだろうと思うのですが、それを実践しているのです。しかも適当に海外旅行もやって人と交流しているのですから、羨ましいとしかいいようがありません。

 彼の農場は人里離れた場所にありました7ヘクタールと8ヘクタールともいわれる農場には12千本のみかんが配列よく植わり、園内を無尽に走る作業道を含めた姿はまるで青年の船で余りかに行った時カリフォルニアでみたアメリカの農場とまったく一緒の光景なのです。岡さんはいきなりトラックに積んだ消毒設備でデモンストレーションを見せてくれました。「凄い」の一言です。これだけ広い農場の防除でも僅か2時間半で終わるというのですから驚きです。


(コーラルの入口に架かった看板)

(私のためにデモンストレーションしてくれた噴霧の様子です。剪定はチエンソー、草刈は小さい草刈機ではなく大型の機械で草を刈るのだそうです)

(まるでブラジル移民にでも出会うような雰囲気の岡さんです)
(岡さんを象徴する岡さんの言葉が事務所の壁にベニヤ板に書かれ貼ってありました)

 「もし 龍馬が 百勝をしていたら 私と同じことを していただろう」という言葉には衝撃を受けます。今の農業は草との戦い、病害虫との戦いだといっても過言ではありません。その百姓が最も嫌がる重労働を軽便化し、一次産業を六次産業に仕組んで悠々と暮らす岡さんの理念はこの言葉で証明できそうです。


 山本さんと3人で大月町が作った海を見下ろすお洒落なホテルで昼食を取りました。かつて山本さんがその運営に携わったホテルです。今は指定管理者の手によって運営されていますが、田舎の暮しあり、お洒落な暮しあり、それでいて上手いものと生きることの意味を問いかける岡さんのような人ありで、また私の全知全能に新たな生き方への道が切り開かれたような旅となりました。

  「念願の 柏と岡に めぐり合い 新たな夢が 膨らみました」

  「人生を 龍馬にダブらせ 生きる人 おんしゃ何を しよるながか」

  「面白く ないと思えば 世の中は 面白くなし 心変えねば」

  「逆風は くるり反対 向けばいい やがて追い風 受けるだろうよ」

 

(大和屋旅館の前にて)

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shin-1さんの日記

○一宿一飯一夜の宿・大月町ルポ③

 研修会と夕食交流会を終えた私と山本さんは、迎えに来た山本さんの奥さんの車に乗って夜の道をお宿となる山本さん宅へ向かいました。夜のことゆえ何処をどう走ったかは分りませんが、海岸沿いの曲がりくねった道を走ったような雰囲気で約20分走り、午後9時ころに到着しました。奥さんはかつて山本さんと同伴でわが家へ手土産を持って来られたことがあるので凛とした懐かしい顔は直ぐに思い出しました。こうして旅を続けていると、かつての私がそうであったように、一宿一飯の恩義に甘んじなければならず、緊張と恐縮な気持ちが入り混じりましたが、ここは仕方がないとあきらめて山本さんの家族に甘える事にしました。

 2人の子どもにも出会って声をかけ、山本さんと奥さんと3人で酒やお茶を飲みながら12時頃まで話しこみました。今日の研修会のこと、家族のこと、将来のこと、気がかりなこと、人生いかに生きるかなどなど、意の向くままにお互い他愛のない事を心を開いて話しました。特に道の駅を担当しての苦労話や道の駅の活性化については、私も経験者だけにノウハウをかなり突っ込んでアドバイスしましたし、教員をしている奥さんとは学校教育や家庭教育などについても、私の無人島経験、家庭の様子などを時には羽目を外しました。

 お風呂をいただいて明くる日の朝6時半の散歩を約束して床に就きましたが、長旅の疲れか毎日実行している就寝前15分の読書も持参した本のさわりの部分だけしか読めないほどに眠気をもよおし、外の静けさも手伝って早々と深い眠りについていました。毎日12時に就寝し朝4時に起床する習慣も随分慣れてはいるのですが片道4時間の運転と、3時間半の研修会、2時間の夕食交流会の連続はさすがにいい疲労をしたようです。

 嬉しい事に朝4時きっかりに目が覚めました。この日の朝はパソコンもないので久しぶりの朝読書です。失礼ながら部屋の電気をつけ津本陽の「開国」という本を読みました。この本は愛媛県中央青年の家の先生に貰った本です。少し難しい明治維新の歴史書ですが、貰った先生に今度会うまでには何とか読破したいと思って持ち歩いています。時代の流れが変ったとされる日本を震撼させた黒船の衝撃が「遠雷」「黒船」「彦根牛」「大獄」の4つに分類されて書かれている本です。大筋は幕末の動乱は米艦隊ペリー来航で幕を開けました。開国をめぐる幕閣、諸大名、朝廷の激しい対立、米総領事ハリスとの条約調印と将軍継嗣問題で強権を振るった大老井伊暗殺、徳川幕府崩壊の前夜いかなる暗闘と流血があったのか、現代に通じる指導者たちの苦悩と決断が生々しく描かれています。

 やがて30分もすれば外が明るくなりましたが、6時には朝の読書に一区切りをつけ、昨晩のかつて知ったる洗面所で顔を洗い身支度を整えました。山本さんも約束の6時半前に身支度を済ませて二階から降りてきたので二人で外に出ました。外は曇り空ながらすがすがしい朝です。思い切り深呼吸をして歩き始めました。

(海に向かって建つ山本さん宅、閑静な一軒家で辺りには隣近所の家がまったくないのです。)
(少し歩くと山本さん自慢の田んぼが見えてきました。青田の向こうに広がる海は何とも美しい光景でした。3歳でお父さんを亡くした山本さんはお母さんと共にこの田んぼを守り、工事に伴う圃場整備でこんな立派な田んぼに仕上げていました。勤めながら6反もの田んぼを守っています。

(田んぼの前に広がるプライベートビーチは海底が透き通って見えるくらい綺麗な海岸でした。都会の人が羨ましがるような雰囲気の海岸で海を遊び場に何か考えてみたいと直感しました。山本さんの未来の人生が見えてくるようでした。)
(どうです。この美田。思わずうっとりしました。田植えを終えた水面に映える夕日の残照は見てみたい光景です)

 心のこもった朝食をお母さんと4人でご馳走になりましたが、記念にと旅立ち前にお母さんと奥さんを外に連れ出し記念写真を撮らせてもらいました。

(家族の記念写真です。)

 最近心臓の手術をされたそうですが、何だか自分の死んだおふくろさんを思い出してしまいました。手に持っていたカバンからハーモニカを持ち出し、下手糞ながら「夕やけこやけ」「赤トンボ」「娘よ」の3曲をお礼のつもりでお母さんに吹いて聴かせました。お母さんは神妙な面持ちで拍手までしてくれました。嬉しかったですね。お元気でお過ごしください。奥さんとお母さんとに見送られ私は山本さんの運転する車でリアス式海岸の美しい景色を眺めながら次の目的地である柏島を目指しました。

 お茶を買うため迂回した奥まった道沿いに小学校と中学校が併設されている学校前を通りました。中学校は既に廃校になって、小学生も4人しかいないとか、ここにも間もなく廃校という過疎や少子化の悲劇がひしひしと忍び寄っているようで胸が痛みました。

  「お別れに 下手糞ながら ハーモニカ 吹いて拍手を いただき照れる」

  「一宿と 一飯いただき 後にする 一夜の宿の ほのぼの感じ」

  「若き頃 こうして人と 知り合って 今があるのか 思い出しつつ」

  「海沿いの 青田を渡る 風涼し 向こうに青い 海が開けて」 


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shin-1さんの日記

○役場職員の研修会・大月町ルポ②

 高知県は愛媛県に比べ平成の大合併への取組が進んでいない県です。それは高知県の風土がそうするのではないかと思われます。つまり高知県は坂本龍馬に代表されるような進取の気性や中央の意思や指示に反骨精神で望む気風があるのです。先日訪れた高知県馬路村などは僅か人口1100人にもかかわらず、未だに合併もせず生き残っているのですから、感心するというか呆れるというか、どちらにでも取れるのです。愛媛などは様々な意見があったり反対があっても結局はなし崩しや先送りであっさり70が20に合併再編されてしまったのですから、そういわざるを得ないのです。

 昨日と今日訪れた大月町も最初は宿毛や三原など、幡多地方の合併話が持ち上がっていましたが、いつの間にか消滅し現状維持を貫いているのです。県知事が輸入人であることも影響しているのかも知れないと思いますが、ここにきてやっと県知事も重い腰を上げて高知県を幾つかのブロックに分けた合併を提案しているようですが、愛媛県のよき所は学んでもつまらない所は学ばないようにして欲しいものです。

 昨日の研修会は大月町の役場職員組合からの招きでした。私も色々な所からお誘いがありますが職員組合からの招きは余り例がないのではないかと思いましたが、昨年度まで執行委員長を務めていた山本さんが10年ぶりにその座を降りましたが、道の駅を担当する縁もあって、山本さんの紹介でのご縁なのです。昨日は職員組合の広域ソフトボール大会が雨天で一週間延期となっていてダブったため何人かの男性職員が参加できないアクシデントに見舞われました。それでも女性職員を中心に沢山の人が参加し熱心な研修会でした。

(町長さんも熱心です。)

 職員組合の研修会だというのに声をかけた町長さんや議長さん始め議員さん、そして弁当屋を営む顔見知りの女性姉妹もわざわざ特別に参加してもらい、しかも町長さんや堀さんなどは一番前の席に陣取ってかぶりつきで私の話に耳を傾けてくれました。

(左端の2人の女性が馬路村で出会った方です。往復250キロ、片道4時間もかけて馬路村に勉強に来た根性には脱帽しました。)
(右端が今回の研修のきっかけを作ってもらった山本さんです。)

(私の席のその隣の席に座られた右端が執行委員長さんです。)

 約10分の休憩を挟み後半は私を口の字の机配置に変えて質問座談会形式で5時までの2時間余り話し合いが持たれました。進行は先日馬路村で出会った二人の女性のひとりですが、彼女の進行は中々のもので男性顔負けといった感じでした。大まかな話は、今日の話を聞いての感想や意見、このような研修会に参加しない意識の低いと思われる人をどうするか、どんな方法で人づくりをすればいいのか、合併までにどんなまちづくりをしなければならないか、一村一品運動との関連についてなどなど多岐にわたっていましたが、少し眺めのコメントをはさみながら解説して行きました。推し量るに大月町に限らず、どの町も職員のやる気にはばらつきがあり、やらない方が失敗も少ないので得だという甘えの構造が蔓延しているようにも思え、町の魅力ある物語を作ろうと情熱を持って35年間働き続けた自分と比較しながら少し腹立たしくもなりました。

 今回は馬路村で試したプロモーションビデオを前もって約5分間上映しましたが、私が主役の出演だけに多少面映い感じもしましたが、それでも私の生き方や私のやったまちづくりの手法がコンパクトに紹介されていて、フーテンの寅さんと下灘駅の場面を私に置き換えるシーンは思わず笑いの零れるテクニックだけに、雰囲気作りには随分役に立ちそうです。

 この日の研修会には多くの女性保育所職員が参加していました。保育所の職員さんは感動商売とでも呼ぶべき子どもたちと直接関わる現場で働いています。子どもたちと一緒になって時には笑い、時には涙する感性を持ち合わせているため、話を聞いた反応が他の役場職員より早く伝わってきます。保育師さんたちのお陰で私の話も随分乗ってきました。またその余韻を引き継いだ夕食懇談会は酒の勢いもあって更にその交流が深くなり、いつか人間牧場へも研修旅行として訪ねてみたいという決欄にまで達したのです。

 最近まで助役という名前だった役職が法律の改正によって副町長となり、中々呼び辛い顔に見覚えのある副町長さんも研修会に参加していただいた方の一人です。私と同じ年配にお見受けしましたが、副町長さんの話によると、かつて私も副町長さんも若い頃、松山で公民館関係の全国大会が開催された時、愛媛大学の讃岐先生と私と3人で夜遅くまで飲んだそうで、すっかり忘れていた若き日の記憶を甦らせて懐かしい出会いとなりました。

  「講演を 終えて座談の 手が上がる 思わず万歳 胸を打たれる」

  「町長も 議長も議員も 職員も この町どうする 額を合わせて」

  「参加者の 心の扉 開かせる 俺の仕事に 反応あった」

  「ビデオ見て 思わず笑い 和やかに 見せる効果も 少しはあった」

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shin-1さんの日記

○「今日と明日は高知県大月町へ出かけて留守です 」・大月町ルポ①

?こんな見出しのような捨て台詞を書いて昨日高知県大月町へ出かけました。というのも、私のブログを熱心に毎日愛読している方々から、2~3日家を留守にしてブログの記事を書かないと、「おいどうした」とか、「病気ではありませんか?」などと心配してメールをくれる方々がいるので、今回はあえて見出しだけで本文のないブログで消息を知らせていました。6月23日の大月町での仕事を終えてわが家へ帰ってみると、さすがに「おいどうした」や「病気ではありませんか?」はありませんでしたが、「高知県大月町は如何でしたか」とか、「毎日忙しそうで何よりです」とか、微細なメールが何件か入っておりました。

 昨日は梅雨の中休みとでもいうのでしょうか、雨に合うこともなく宇和島道路の完成などもあって予想以上に早く大月町に到着しました。途中2ヶ所で途中休憩をしました。まず1ヶ所目は愛南町の旧内海村のトンネルを出た所にある元内海村助役だった木口さんのお家です。私は宿毛市などに行くため南に下る場合は必ず道筋の知人友人に会うよう心がけていますが、昨日は木口さんのお家の玄関先でにお会いしました。木口さんとは元村長の加幡さんと同じく若い頃から肝胆相照らす仲で、お宅に泊めてもらったりしながら村づくりやまちづくりについて、酒を酌み交わしながら夜のふけるのも忘れて話し合ったものです。この日は運良く木口さんは在宅、家の庭で作業中で久しぶりに面談しました。合併で退職した後の消息、今の日々の過ごし方、合併後の行政や政局などなど立ち話ながら色々な話をしました。木口さんは私よりも若くての退職なので、今は教員をしている奥さんが出働き、家を守るのは木口さんという面白い構図になっているようですが、体調もすこぶるよいようで、お互い元気でいようと励ましあって分かれました。

 2ヶ所目は大月町の目と鼻の先である宿毛市の道の駅でトイレ休憩をしました。宿毛はご承知のようにダルマの夕日で売っている土地なので、これまでも特別な意識をもって見てきました。ダルマの夕日が見える場所を尋ねたりした記憶があり、この道の駅にも何度か立ち寄ったことがありますが、この道の駅は少し右肩下がりではないかと思われるような雰囲気に見て取れました。

 まず道の駅の構成です。道の駅には休憩機能、情報機能、経済機能がありますが、休憩機能は果たしているものの、情報機能は駐車場にある看板のみで、インフォメーションする場所も分らず、市の顔としての機能が果たせていないように思われました。この国道は高知の重要な観光資源である足摺岬へのルート上にあるのですから通過するだけでは勿体ないと思うのです。

 問題は経済機能です。たしかに自動販売機はいっぱいありますが、その自動販売機も環境などには配慮せず無造作にむき出しって感じでしたし、何よりもお店がテナントで地域との密着や地域の主張がまるで見えてきませんでした。道の駅の草も伸び放題、救いはトイレが綺麗かったぐらいでしょう。道の駅の裏に広がる宿毛湾の風景への誘導などはまったくなされておらず、和風野外ステージの中には通行人がわが者顔でテントを張って洗濯物を干し、何やら食事を作っていました。管理者の見回りもなく、道の駅に思いを寄せる私としては少し心が痛み、他人事ではないほど心が痛みました。この現状を施設設置者の市役所は果たして知っているのか、知っていても黙認しているのか分りませんが、とにかく凋落ぶりが目に付きました。

(道の駅の表玄関、草が伸びているため何となく活気がないように見えました。)

(いい施設だのに野外ステージや海への誘導が出来ていませんでした。)
(海岸には穴の開いた洞窟などもあっていい原風景が広がっていますが、この資源が生かされていませんでした。)

(まるで自動販売機の展示場です。道の駅は環境がテーマの時代なのに余りにも無造作です。)

(この看板はやはり目に付くいい看板でここのランドマークでしょう。ならばこの夕日の看板の前で記念写真を撮ると一枚の絵になるような工夫が必要だと思います。)

(幡多地方は広域観光を推進しているのですから、幡多のインフォメーションセンターとしての昨日が必要だと思います。)
 宿毛の道の駅を出て大月町の道の駅に到着しました。多分2年ぶりくらいの立ち寄りだと思うのですが、直前に見た宿毛の道の駅と比較すると、随分活気があるように思えました。掃除も行き届き、今までなかった野菜や魚を専門に売る施設が完成し、多くの商品が入荷して盛況でした。特に魚売り場は新鮮な魚が並んでいて、道の駅の近くには見えない海ながら、大月町が海の町であることを深く印象付けました。

 道の駅に入って直ぐに「若松さんようこそ」と、一人の紳士風の方に声をかけられました。その方が後の会議に出会って大月町長さんだったと知り2度びっくりでした。私は美味しいイチゴ味のソフトクリームを注文しそれを食べながら駅長さんや事務員さんと楽しいおしゃべりをしました。お二人とも愛想がよく、知人である道の駅の前の弁当屋さんが休みなので尋ねましたが、早速電話をしてくれて午後の研修会に来られるとの連絡を受けました。インフォメーションも抜群で何かほのぼのとした気持ちで道の駅を後にしました。多分明くる日の今日帰りにもう一度立ち寄って魚を買い求め、発泡スチロールに入れて持ち帰る気持ちになったのは、職員さんの温かさに触れたからでしょう。さらには今日、かつてわが町に視察に来た見覚えのある柏島のおばちゃんに声をかけてもらいじゃこ天までお土産にいただきました。嬉しい出会いでした。

  「今日と明日 留守だと書いて 家を出る さすがにブログ 効き目抜群」

  「旧友と 久しぶりにて 会話する 俺と同じの サンデー毎日」

  「道の駅 ピンからキリまで ありまする 思い寄せねば 今に飽きられ」

  「南国の 太陽に似た おばちゃんが 懐かしそうに 俺に声かけ」



 

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