shin-1さんの日記

○やっと肩の荷が降りました

 あれほどみんなが熱中して、あれほどみんなが心血を注いだ全国大会が全て終わり、どこか心にぽっかり穴がいたような一両日でした。私にとっては10月18日と19日、松山市で開いた青年の船の班長会も、11月13日と14日、15日、宇和島を主会場に開かれた地域づくり団体交流研修大会も、これまでにない全国の人を相手の大会で、しかも多くの人を全国から迎え入れたものですから想像以上心配して、想像以上に力を注ぎました。多分そのためでしょうが、想像以上に大きな感動を得たようです。

 私はこれまで役所に35年間勤めていたこともあって、全国大会と名のつく集会や会議には数えきれないほど参加してきました。しかしその殆どは司会や助言、基調講演、パネラーなどの出番はあっても、自らが主催するような大事業はありませんでした。勿論今回の青年の船班長会や地域づくり団体研修大会もそれなりの団体や事務局があってしっかりと下支えをしてくれたので、私は飾りのようなものでしたが、それでも責任の重さはあるのですから、周りはどう思っているか分かりませんが自分なりに一生懸命やったつもりでいるのです。多分自分の置かれている立場を考えるとこれから先に、このような責任ある仕事はもうないだろうと思うのです。

 昨日旧友から相次いでメールが入りました。青年の船の班長会で31年ぶりに再会した仲間と、地域づくり団体交流研修大会で25年ぶりに出会った仲間からです。31年ぶりに出会った仲間からは、人生の岐路とでも言うべき60歳の坂を越えた今、31年前に青年の船に乗って太平洋を渡りアメリカやメキシコを旅したことの意味が連綿と綴られていました。彼がそうであるように私にとっても青年の船で建国200年のアメリカへ行ったことは、自分のそれまでの価値観を根本から変えるような大きな旅でした。自分のこれまでの人生を振り返っても、もしあの経験がなかったらこうまでも楽しく生きれなかっただろうと思うのです。人間はそれぞれの人生に見合った大きさの世界に生きています。杯ほどの小さな世界もあれば丼鉢のような世界もあるでしょう。また風呂桶や琵琶湖のような大きな世界があるかも知れません。私の場合はそれほど大きくはないものの、それまで杯だった世界がいきなり風呂桶のような世界になったのですから大変な変わりようでした。お陰で自分の世界が今でも風呂桶のような大きさになっているのですから有難いことなのです。


 地域づくり団体交流研修で25年ぶりに出会った人は、まだ私がまちづくりという世界に入門した頃でした。その人はすでに私とそんなに年齢は違わないのに、まちづくりの世界では有名になっていて、何かと目をかけご指導をいただきました。まちづくりに対する彼の姿勢への憧れもあって、何度となく出会いましたが、その後音信も途切れがちとなり、お互いの記憶の中でのみの知り合いが長く続いていました。

 「全国大会にいくから」といきなり1ヶ月前にメールが入り私をあわてさせましたが、彼は元気な姿で愛媛入りし再会を喜びました。「上は来ず、中は日帰り、三日泊まりの下下の下の客」といわれるとおり、再三の誘いにも応じず去って行きましたが、別れ際に引き時の話をしました。そろそろ引き時かなとも思いつつ、彼の顔を思い出しているところです。

 相次いで入ったメールに近況をしたため返信しました。この二人には遠方ゆえもう会えないかも知れません。でも今年一番のビッグな出会いが降って湧いたように31年目、25年目に実現したのですから、密かに再会を楽しみにして生きてゆきたいと思っています。


  「この二人 俺の人生 語る時 なくてはならぬ 思い出の人」

  「忘れてた 記憶の彼方 呼び戻す 二人相次ぎ 便り届きぬ」

  「忙しく 過ごしただけに どことなく ぽっかり穴が 空いたようです」

  「盃の ように小さな 俺だった 今は風呂桶 なったようだが」 

 

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shin-1さんの日記

○前夜祭と全体会を振り返る

 この4日ほど朝早くから夜遅くまで家を留守にしていたものですから、新聞を見る間もありませんでした。昨日行きずりのような形で従兄に会ったら、「全国大会で大変だったようだな。新聞に載っていた」というのです。私が家を留守にしている間妻は新聞をちゃんとまとめて取っておいてくれるのです。今朝土曜日の新聞を見たら、愛媛新聞の三面に「地域力向上へ議論」「全国自治体・団体関係者」「南予軸に13市町で研修会」という見出しの記事が載っていました。その中で-前略-「14日は宇和島市中央2丁目の南予文化会館で全体会が開かれ、青森から沖縄まで37都道府県の約190の自治体や団体関係者ら320人が参加、元双海町教育長の若松進一さん、今治市在住のフリーライター土井中照さんらがコメンターを務めるトークセッションがあり、会場とやり取りしながら課題や地域づくりの在り方を考えた。若松さんは「これからの地域づくりは人やモノなどを含めた『地域力』を高めることが必要と訴えた」-後略-と書いてありました。

 今回の全国大会は愛媛県の南予振興策の一つとして取り上げられたため、加戸愛媛県知事さんも出席していただくなど、物心両面のご支援をいただきました。知事さんはあいさつの中で私のことにも触れられ、「私は若松さんのお誘いでたった5分の挨拶のために2時間かけてやって来ました。若松さんは何もない双海町でどこにでもある夕日を地域資源にして地域づくりを行った」と持ち上げていただき、穴があった入りたいような心境でした。挨拶の中で自分の立っている場所の足元を掘れば泉は必ず出る」ともいわれ、地域づくりの必要性を話されました。第一線から退いた私のような一介の老兵を持ち上げていただく知事さんのセンスにただただ脱帽するばかりです。これらの話は行く先々の分科会や遠くからやって来た参加者の間でもかなり話題になったようです。


 開会式の後は、大洲市長浜町豊茂の郷土芸能である豊年踊りがユーモラスに披露され、会場の雰囲気がとても和みましたました。フリーアナウンサーの宇都宮民さんと土井中照さんを相手に私が進行役を務めてトークセッションを行いましたが、台本や筋書きのないアドリブな話で心配していましたが、心配をよそにいい雰囲気の、それでいて予想以上の盛り上がりが壇上まで伝わってきました。

 開会式に先立って前日の夜リジェール宇和島で前夜祭が行われました。

 開会式に先立ってリジェール宇和島で行われた前夜祭は200人ほどの参加で大いに盛り上がりました。最初にわつぃが実行委員長の私があいさつし、石橋宇和島市長さんが乾杯の音頭をとってスタート、郷土料理も、鬼城太鼓、愛治ちんどんなどの催しも、お酒の量も、そして交流会も満足のいく成果を収めました。

(豪快な舟盛り活け造り)
(ド迫力の太鼓集団鬼城太鼓の演奏9
(ユーモラスな愛治ちんどん)
(次回開催県佐賀のPR風景)

 一年かけて準備をしてきた全国大会も終わりました。いい研修会だったと自画自賛し、自己満足しながら写真やメールやブログで振り返っていますが、これから報告書の作成や実行委員会の解散まで残務処理をこなして行きたいものです。


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shin-1さんの日記

○メールやブログが続々

 全国大会が終わりホッと一息ついたところですが、昨日夜遅く外出先の島根県益田市道川から帰ってパソコンを開けると、凄い数のメールが届いていて、ブログを書くどころではなく返信するのに四苦八苦しました。一つ一つのメールに返信をするのですが、残念ながら全ての人の顔を思い出すことができず、この3日間で300枚近くの名刺を配った人から貰った名刺を繰りながら、思い出そうと努力しているところです。

 今回の大会事務局から「若松さんは全国行脚するのだから名刺の裏に全国大会のPRを刷り込むので使って欲しい」と依頼があり、作ってもらいましたが、私の行動範囲は全国に及び作ってもらった1000枚の名刺はあっという間になくなりそうになりました。これはやばいと思って最後の300枚を大会当日用に残して置いたのですが、おかげ様で1000枚全て完売となりました。

 私の名刺がいかほどの効果を上げたかは定かではありませんが、「若松さんに会いたいのでやって来ました」と、涙の出るような言葉を言ってくれた人も沢山いて、それなりの効果があったものと自画自賛しているのですが、その方々からのメールを見るたびに人のつながりのありがたさを思うのです。

 そんな中に宮崎県南郷町の野川喜美子さんがいました。野川さんは福祉作業所ひなたぼっこの代表を務めていますが、もう昔のことなのではっきりと記憶していないものの南郷町に講演で招かれた折に出会い、南郷町の人たちが双海町へ視察に来た折出会ったような気がするのです。ですから彼女の顔は今回で都合3回目ということなのですが、私が不特定多数の人と会うために深く話し込んだことなど一度もないのです。でも今回の大勢の参加者の中で顔だけはお互いしっかりと覚えていたのですからまちづくりは大したものです。

 野川さんは自分の持つ「ひなたぼっこのブログ」(http://ameblo.jp/15yaotuki3/)に、今回の様子を写真を交えてかなり詳細に報告してくれています。私は今回の大会の実行委員長をしていて県内各地を飛び回り残念ながら自分の町の分科会は恋人岬での落伍ライブと研修会、それに夜なべ談義の途中までしかいませんでしたが、彼女が参加してくれたわが町の分科会の様子も手に取るようにまとめてくれているのです。

 彼女の顔を思い出しながら、人間は100回会っても覚えていないような人もいますが、たった3回の出会いながら覚えている人もいるのですから不思議な話です。

 野川さん以外にも講演先で出会った私との細い糸を頼りに愛媛までやって来てくれた人は沢山いました。全ての人を紹介することはできませんが、私にとってはこれまでの20年間の地域づくり活動で培った人脈とでも言うべき人たちこそ大切な財産だと思うのです。

 これから自分の行動の範囲も加齢とともに狭くなり、出会う人も少なくなって行くものと思われますが、人を大切にする地域づくりの理念だけは忘れないようにしたいものだと思いました。大会が終わったのが週末だったため、また大会後の週末を移動日にしていたため、行政がらみの人とは週の明けた今日頃からメールのやり取りが動くものと思われますが、それぞれの地域に帰られた皆さんのご活躍を祈りながら、ブログ画面をお借りしてお礼のご挨拶にさせていただきます。お世話になりました。また会いましょう。シーユーアゲイン。


  「世の中は 便利になった ものですね 居ながら見える 自分の写真」

  「汗だくの ようですメール 返信も 反響大きく 嬉し恥ずかし」

  「忘れ得ぬ 思い出持って 全国へ 散らばり帰る どうかご無事で」

  「もう二度と 逢えない人も いるのだと 思えば出会い どこかしんみり」


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shin-1さんの日記

○島根県益田を訪ねる

 地域づくり全国大会の快い余韻と少しの疲れが残っているものの、そんな余韻にひたり疲れを癒す暇もなく、今朝は早起きし島根県益田市を目指して旅に出ました。早朝5時に起き、身支度を整えて小雨そぼ降る暗い道を松山観光港目指して走りましたが、今朝は日曜日とあって交通量も少なく1時間ほどで港に到着しました。

 始発の高速船は7時発とパソコンで調べていたので、少し余裕をもった到着に安堵しながら大画面のニュースをテレビで見ながらひと時を過ごしました。このところのテレビの話題は、何といっても2兆円の景気対策と称するお金の分配方法です。子どもと65歳以上の人には一律2万円、それ以外は1万2千円が支給されるそうですが、早くもそれが多いとか少ないとか、お金を個人に払うことがおかしいとか、外野では面白おかしく話されているようで、早くも選挙の道具に使われそうな雲行きです。


 観光港で面白い展示物を発見しました。まるでキノコのような貝殻でできたスタンドがイルミネーションの代役を務めているのです。この貝殻は緋扇貝という貝殻を○でステンドグラスのように何枚も組み合わせて作った新しいタイプのオブジェなのです。このような作品を旧内海村で作っていることは知っていましたが、これほど綺麗な作品だとは知らなかったものですから驚きました。近くで見ていた子どもに「綺麗でしょう」と話しかけると、「綺麗」という返事が返ってきました。緋扇貝の貝柱を食べるのはもちろん美味しいのですが、その貝殻を生かすとは面白い発想で、この技法で教会やホテルのガラスを飾ればオンリーワンだとしみじみ思いました。

 高速船もこのところの原油高で船賃が高く、広島~松山を往復すると1万5千円弱となり、まるで飛行機代並みの高さに驚いてしまいます。

 

 船は1時間8分で宇品の港に到着しました。港には益田市道川公民館の三好館長さんから前もって連絡があったとおり、高田さんご夫妻が優しく迎えてくれました。高田さん夫婦は脱サラして道川に移り住み花づくりを中心とした農業をやっているそうですが、道川までの道中は眠る暇もないほどお互い心打ち解けて話し合いました。

 峠を越え匹見峡谷の見事な紅葉を眺めながら少し早く着いたので、旧割元庄屋美濃地屋敷を見学させてもらいました。国道191号線は益田へ行く時何度も通っているのですが、その都度この大きなお屋敷を横目で見ながらのバスの旅が多いため、これまで見る機会に恵まれていませんでした。「いやあ立派」の一言に尽きるほど凄い庄屋屋敷が綺麗に保存され、そして活用されている姿に、他事ながら嬉しくなりました。

(庄屋屋敷)
(庄屋屋敷の門)
(庭の見事な紅葉)
(庭に散り初めし紅葉の落ち葉)

 道川公民館で開かれた住民交流大会の講演会には人口18人というのに120人もの参加があり、会場は沢山の人の熱気に包まれ、改めて道川の凄さを思い知らされました。豚汁や弁当など手作りの昼食をいただき、大満足の1日でした。地元での夜の集会への出席が予定されているため、先を急いで再び高田さんご夫妻に宇品の港まで送ってもらいました。間一髪出港し始めていた高速船に取るものもとりあえず乗り込み、予定どおり夕方わが家についてホットしています。今日もいいご縁をいただきました。真砂地区の一郎君も来てくれ、月末には人間牧場へ40人もの人が来る打ち合わせをさせてもらいました。

(私の講演会)
(昼食交流会)


  「色々な 余韻に浸る 暇もなく 次の旅立ち 朝も早くに」

  「中国の 山地分け入り 集会に 足腰立つ人 全て集まる」

  「わが話 耳を傾け 寝もせずに メモを取りつつ 相槌打ちて」

  「凄いなあ 昔庄屋の 夢の跡 煙でいぶし 次の世代へ」

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shin-1さんの日記

○玉ねぎの植え付け

昨日の夕方、地域づくり団体交流全国大会に参加して外出先から帰ってみると、菜園畑で親父が何やら作業をしていました。みるともうかなり陽も暮れかけた5時前でしたが、耕運機をかけて綺麗に整地した畑に畝を作って玉ねぎを植えていました。親父の弱音は腰なので、腰を伸ばし伸ばしやっている姿を見て直ぐに手伝うことにしました。早速長靴に履き変えて親父の切った畝に玉ねぎの苗を一本一本等間隔で置いて行くのです。私も腰が丈夫ではないので、この作業は相当腰に来るようでした。途中近所のおばあさんも手伝いに加わって秋の釣瓶落としといわれる暮れなずむ作業を終えました。鍬を片づけそこら辺に置いた道具をしまったころに雨がぽつぽつと降りだし間一髪で雨に当たることもなく、加えて植え付けた玉ねぎに水をやることもないラッキーさでした。今年は一畝を3列から4列に変えたため、植える畑に余分が出たようなので、近所の苗屋を覗いてもう一束増やそうと思っています。

 わが家では毎年100で一束となっている玉ねぎ苗を5束買い求めます。友人に言わせれば玉ねぎは自分で種をまいて育てれば安くて済むそうですが、私にはそんな時間的余裕もないので、毎年自動車で売りに来る苗屋さんのしっかりと育った苗を買うのです。苗屋さんも自家用で5束も買ってくれるお客さんはそんなに多くないため、上客と思うのか玄関先まで売りに来るのです。

 玉ねぎには早生系と晩生系、普通の品種と紫系があり、これまでにも試しに植えてみましたが、早生系は確かに早く収穫できるのですが、その時期は購入して食べてもそんなにお金もかからないので晩生だけにしました。また紫系はサラダ等に使えば彩りもいいのですが、そんなに日常食べないためこれも止めてしまい、今は晩成一種にこだわって作っているのです。昨日植えた玉ねぎはこれから来年の5月まで、何と半年間も寒い畑の中で長い間、じっと耐え忍んで大きくなるのですからこれほど世話のやける作物は他にないのです。


 今年の春収穫した玉ねぎは親類や子どもたちが来るたびに取って帰るので、もう随分すくなくなっているようです。昨年から網の袋に入れて軒先に吊り下げる方法を止めたお陰でこれまで一個も腐ることもなく冬を迎えそうです。察するに網袋に入れる従来の方法は、網袋に付着した腐敗する雑菌が付着するから腐るのではないかと思うのです。今年のように5から8個ぐらいを縛って吊り下げる方法だとその心配もないようです。親父の縛り方が上手なため茎が痩せて落下する心配も殆どクリアーすることができました。

 わが家では家庭料理に年間相当の玉ねぎを消化します。特にオニオンというスライスした玉ねぎは青魚の刺身のつまに最適で、臭みがあって相手に不快感を与えない外出しない日は思いきり食べるのです。今年も玉ねぎを植える季節がやって来たと感じながら植えました。多分毎年玉ねぎを植える時期は大相撲九州場所がある頃です。今年は暖かくてカメムシも死なないと農家の人は嘆いているようでした。


  「冬立ちぬ 玉ねぎの苗 菜園に 親父腰曲げ 私腰曲げ」

  「この冬の 眠りにつくか 玉ねぎの 苗に被せる 土の布団を」

  「今宵雨 降るかも知れぬ 思いつつ 暮れ行く畑 せわしく動く」

  「あれ穂に あった玉ねぎ いつの間に 残り少なく 寂しく軒に」

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shin-1さんの日記

○留守の人間牧場

 「若松さん、今回の全国大会のついでに人間牧場へ行きたいのですが」という電話やメール連絡をいくつもいただきました。その都度「研修会が終わる3日目は残念ながら塩崎さんの招きで第6分科会のある伊方町へ行っていますので」と断り続けていました。しかし双海町を文化会場に選んだ方々にそんな理由で不義理をすることもできず悩みましたが、妙案としてえひめ地域政策研究センターの松本さんに鍵を渡して私の代役を務めてもらうよう頼んだところ潔く引き受けてくれたためホッとしました。

 昨晩分科会夜なべ談義の最中に家へ鍵を取りに帰ろうとしました。ところがこの一週間車で遠出をしたものですから、明くる日の朝伊方町へ行くガソリンが心配になって、伊予市まで走り夜遅い時間ながら給油を終えホッとしました。家に帰って人間牧場の鍵を持ち出し、松本さんの宿泊しているふれあいの館まで持参し手渡しました。

 

 松本さんは年輪塾の塾生であり、落伍の小番頭でもあるので安心して任せました。私が第6分科会の仕事を終えて帰ろうとする頃松本さんから携帯電話が入りました。マナーモードにしていたため何度も呼び出したようでしたが、財団法人地域活性化センターの石田理事長さんや山梨県立大学の市原先生、三重の杉谷さんや杉本さん、それに西条の井上さんが初めてというので、案内したようです。携帯電話の電波の状態が悪く聞き取れなかったのですが、皆さん感激されて帰ったようで嬉しい限りです。

 松本さんには石田理事長さんを飛行場まで、また市原先生を上島町の兼頭さん宅まで送り届けて交流する任務までしてもらったようで、彼はもう4日間も家に帰っていないようなので疲れがピークかも知れないと電話をかけましたが、以外と元気で交流しているようで安心しました。


 このところの忙しさは尋常ではなく、人間牧場へは今回恋人岬で夕日落伍寄席をやるために、人型パネルやめくり、拍子木、裂き織ちゃんちゃんこなどの7つ道具を取りに出かけて以来一度も覗いていないのです。掃除も行き届いていないので、多分皆さんは不快に思ったのではないかと心配しているのです。

 幸い皆さんが人間牧場を見学している頃はまだ雨も降っていなかったし温かかったようでしたが、松本さんと連絡がついた頃にポツポツ雨が落ちてきて間一髪でした。全国大会のため先送りしていた仕事が随分溜まり、この忙しさはまだ当分続くようで、人間牧場へはまだ当分先のようですが、少しのんびりと本でも読みながら昼寝を楽しみに行きたいと思っています。


   「主人留守 小番頭なる 友人に 鍵を預けて 案内頼む」

   「小雨ポロ 間一髪の すれ違い さすが人間 牧場嬉し」

   「喜んで 帰ったですと 電話入る 主人いなくも ちゃんと感じて」

   「そのうちに 牧場昼寝 楽しみに いつのことやら 当分忙し」

 

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shin-1さんの日記

○佐田岬半島での第6分科会に参加して

 今日は朝早く午前6時に双海町を出発し、第6分科会が行われる伊方町を目指しました。このところの穏やかな天気を象徴するように空はどこまでも晴れ渡り、宇和海側の伊方町を走るころ綺麗な朝日が、日本一細長い佐多岬全体を優しく包み込むように昇ってきました。昨日見た双海町の夕日といい、今朝の朝日といい、今回の全国大会は天気に恵まれたことが何よりも嬉しいことなのです。多分今日は全県下15会場で開かれている分科会は、二日目の今日はミカン狩りや街歩きなど野外活動が多く組まれているので主催する方々はホッとしたことでしょう。

 会場となる瀬戸アグリトピアに着くと責任者の塩崎さんがおばちゃんたちと朝食の準備をしていました。私はしばらくの間早起きしてきた人たちと談笑しながら過ごしましたが、そのうち全員が揃っての朝食に参加しました。イセエビの味噌汁とは何とも贅沢な一品でした。お陰で朝から食が進み満腹でした。

 

 私の出番は午前9時からでした。この日のために大分県豊後・大山ひびきの郷総支配人の緒方さんが招かれ,

最初は私と二人で対談の予定でしたが、その後高知県馬路村の産業建設課長木下さんも加わり鼎談の形をとりました。緒方さんとはもう30年来の付き合いですが、最近体調が思わしくないようで、この日も松葉づえで会場入りしていました。今日のトークバトルは塩崎さんから私の方で進めてほしいと頼まれていたので、2時間をかけて地域資源を生かしたまちづくりや合六(こうろく)のまちづくりについて話し合いました。全国から集まった参加者は必ずしも地域の特産品開発などに関わっている人ばかりではありませんでしたが、フロアーからは仲間を増やしたりやろうとすることを理解させるにはどうすればよいかアドバイスを求めたりされましたが、コーディネーターの役割も一緒に務めた私のインタービューには嬉しい反応が沢山ありました。



 昼食は地元の海鮮鍋でしたがこれも手づくりの味が最高でした。正午には荷物をまとめ風車が背景に写る屋外に出て集合写真を撮り別れを惜しみつつ送迎バスを見送りました。緒方さんたちは一便早く船着場へ送られ、つい3日前に出会った佐賀関の渡辺さん、旧明浜町の原田さん、旧西土佐村の和田さんや中平さんなど、塩崎軍団の旗の下に集まった面々に別れを告げ、会場を後にしました。こくどう197号線沿いにはのじ菊が今を盛りとほのかな香りを漂わせて咲いていました。

 かくして一年かけて準備をしてきた短くも長い3日間の全国大会は終わりました。この一年様々な出来事がありましたが、有能な事務局に助けられてそれなりの成果を収めることができました。私も飾りのような実行委員長でしたが、この3日間に関してはそれなりによく働いたと自分でも納得しています。どんな成果があったのかは分科会の報告を聞かないとまだ判断はできませんが、肩の荷が下りたようなさわやかさであることは事実です。

 今後報告書作成、1月の総会フォーラムでの発表会と、3月の実行委員会解散までは残務整理が残っているので、気を引き締めて最後の始末をしたいと思っています。関係者の努力と全国から集まった皆さんに感謝いたします。

  「三日間 西や東や 南北 車乗り継ぎ 役目を終える」

  「今回も いい人たちに 囲まれて 楽し思い出 幾つもできて」

  「はるばると あなたに会いたい 一心で 嬉しい言葉 くれるじゃないか」

  「終わったな 何はともあれ 終わったな 終わった終わり 肩のに降りて」 

 

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shin-1さんの日記

○地域づくり団体全国研修交流会愛媛県大会前夜祭が開かれました

 昨日から明日までの三日間表記研修会が開かれるため、家を留守にしています。そうブログに書いて家を空けましたが、今日は全体会が終わってすぐに宇和島を出て第15分科会、つまりわが町で開かれた分科会に出番が予定されていたため、急いでわが町へ帰ってきました。そして3時半からだったため、一時自分の家に立ち寄って着替えをしました。双海シーサイド公園恋人岬での落伍ライブをやるためです。

 海沿いはよく風が吹きます。天気が良いと思っていてもこの日は上空では風が強かったそうで、予定されていたパラグラーだーの飛行は中止となり、少し拍子抜けがしたようでしたが、横断幕で第15分科会の熱烈歓迎を見て全国から集まった27人の人たちは感激の面持ちで双海に第一歩を記しました。少し休憩したり見学した後早速プログラムのトップを切って私の落伍ライブが始まりました。

 スタッフの人たちが準備をしてくれた高座に上がりました。欲をいえば少しだけマイクの位置が低かったため私の姿勢も少し縮こまった感じもしましたが、やり始めるとプロ?ですのでそんなことは言っておれないのです。


 私がこの会場で落伍をやるのは2度目です。夏の暑い盛りのエイズキャンペーンイベントでは恋人岬の突端でやりましたが今回は中ほどで、見る人聞く人には丁度良いしつらえです。今回も小番頭と勝手に名前をつけている地域性sく研究センターの松本さんに呼び出しやめくりをやってもらったおかげでスムーズに事が運びました。私は参加者に高座本を配りその中から聞きたい内容を言ってもらい即興でやるのですからもう大変です。おおよそ5つのネタを要望通りお話ししましたが、さて皆さんの耳に私の話はどう響いたことでしょう。

 話をするほどに、話が佳境に入って行くほどに心配された天気も回復し、見事な日本一と自慢してもいい夕日が西の彼方にゆっくりと沈んで行きました。この日は天も味方をしてくれた感じです。私は思いを込めてアンコールにお応えしてトンボを登場させてハーモニカも吹きました。

 落伍ライブが終わってつるべ落としの太陽が西に沈むと全員で研修会場となっている潮風ふれあいの館に移動し、中村市長さん、河野実行委員長さんの挨拶や西岡さん、岡田さんの事例発表を聞きました。ここでも私は観光カリスマとしてコメンテーターの役割を果たしましたが、企画運営の中心となったした米湊さんのいわれるままに動きました。夜の交流会は飛びきりのおご馳走に酔い知れ、漁協女性部の腹を抱えて大笑いするような出し物に目を奪われ、楽しい交流の一夜を過ごしました。



 私は明くる日の第6分科会への移動があるので、最後までお付き合いすることはできませんでしたが、双海の底抜けに明るい街づくりのパワーを見ながらとても頼もしく思いました。ただ惜しむらくは裏方に回った役所の職員が、裏方に徹し過ぎて全国の方々と交流の機会が少くなかったことです。こういう機会はまたとないのですから、もっと交流させてあげたかったと悔みました。でも総じて明日につながる分科会でした。

 私は明日の翠地区での体験学習に参加できないのがとても残念でした。

  「腹抱え 笑って食べて また楽し 飲んで喋って さらに楽しく」

  「ふるさとを この人たちが 背負っている 実践する人 言葉に重み」

  「山海の 珍味食べつつ 話し込む 日頃の苦労 忘れ夢いう」

  「人が減り サービス減るが 何のその 日々を楽しく 生きればいいさ」 

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shin-1さんの日記

○私の経歴

 この歳になって履歴書を書くなんて思ってもみませんでした。昨晩大分県から帰って妻と二人で食事をとった後、パソコンに向かって所定の様式の空欄に自分の過ぎ越し半生を思い出しながら打ち込んで行くのですが、中々思い出せずに前に進むこともできず四苦八苦してしまいました。

 私の履歴書の職歴は、昭和38年家業である漁業に従事から始まります。当時私は宇和島水産高校の専攻科へ進む予定でした。ところが親父がガンに倒れやむなく帰郷し、親父に代わって若吉丸の船長になったのです。以来7年間も漁師をしました。しかし夜の遅い青年団と朝の早い海の仕事で疲労が蓄積したのかある日突然意識不明となり病魔に襲われて入院生活を余儀なくされました。この病気が元で公務員になったのですから世の中は分からないものです。いつだったか青年の主張の県代表になったとき朝日新聞が、「酒を飲み過ぎ夜更かしし過ぎて公務員になった男」と新聞で紹介したことを今も覚えています。

 その後役場に入り、教育委員会で社会教育、特に公民館活動をし始めてから、35年間の間に教育委員会13年、産業課4年、企画調整室10年、地域振興課10年、教育長2年しか異動していないのでそんなに書くことはないようですが、これ以外の副産物ともいえる役歴がたくさんあるのです。

 県社会教育委員、県青少年保護審議会委員、県青年団連合会会長、四国四県青年団連絡協議会長、県青少年団体連絡協議会会長、松山工業高校PTA会長、県高P連副会長、えひめ地域づくり研究会議代表運営委員、21世紀えひめニューフロンティアグループ代表、国土交通省観光カリスマ百選などなど書いてゆけば欄がなくなるほどの多さですが、人生の時々にこんな仕事をしたのかと改めて実感しました。


 さてその履歴書に添付する研究業績目録なるものも作らなければならず、適当に項目を書き抜いてみましたが、これもかなりの項目に上りました。その中でも夕日によるまちづくりはトップ項目で、かなりの故事来歴を書かなければなりませんが紙面の都合で3行にとどめました。ふたみシーサイド公園他2つの公園整備事業は75億年のビッグプロジェクトでした。花咲くまちづくり事業、人づくり20年計画の実施も忘れられない多くの成果を産みました。ホタル保護活動、県下最古の現役木造校舎保存運動、双海町誌編さん事業、予讃線海岸周り存続運動、無人島に挑む少年の集いも忘れられない思い出です。

 これが業績かどうかは他の人が決めることでしょうが、私も色々な仕事に携わってきたものだと改めて思いました。履歴者も職務業績ももう自分にとっては過去のことなので、大切なことはこれからどんな生き方をするのかが大事なような気もします。とりあえず私は人間牧場の活動に少し軸足を置いて活動してみたいと書きながら思いました。


  「この歳に なって履歴書 書くとはなあ 思い出しつつ 1行1行」

  「過去などは 何の意味など あるものか これから何が できるか勝負」

  「始まりは 漁師の二文字 活き活きと 生きた昔が 懐かしきかな」

  「夢持って 生きた昔が 懐かしい そんなお歳に なったのですね」

   


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