shin-1さんの日記

○春はそこまで

 昨日は春の陽気を思わせる穏やかな立春でした。午前中締切の迫った原稿を2本書きあげてメール添付して送りました。FAX以外使えなかったリタイア初期が全く嘘のようなパソコン使いの進化には目を見張るものがあって、てきぱきと仕事が片付く自分に少しだけ有頂天になってしまいました。

 午後からは寸暇を惜しんで人間牧場へ出かけました。落ち葉を利用した腐葉土づくりと苗床づくりの工程が止まっているのです。腐葉土づくりは葉っぱ+牛糞+油粕+米糠+水などで発酵促進させますが、このところの慈雨で水分の供給ができたため、その上にナイロンをかけて温度を逃さないようにするのです。湿った苗床の葉っぱにそっと手を置いてみると、既に発行が始まっているのかかなり燃えているようでした。早速用意した透明のビニールを畳一畳程度に二枚切り分け苗床全体にかけました。四隅の端々を丁寧に土の中へ埋め算木で固定して出来上がりです。このところの陽気に誘われたのか小さな虫たちがたかっていましたが、ビニールをかぶせられたため逃げ場がなくなり、ビニールの中で右往左往していました。この虫たちも発行に一役買ってくれるのです。

 昨年の予定表やブログを見ると3月10日ごろに種芋を伏せているようなので、これから約一ヵ月で腐葉土が完成するか微妙になってきました。苗床には腐葉土になる前の熱源が必要なため、昨日の状態だと何とか間に合いそうです。

若松進一ブログ(満開の梅の花)
若松進一ブログ(花の蜜を吸う野鳥、名前は?)

 ハコベなど畑の草もこのところの雨と温度上昇で早くも青々と茂ってきました。梅畑へ下りてみると10本ある梅の木の何本かは花が満開に咲いて芳しい香りを漂わせていました。梅の木の下に行きしばし一人で花見をしました。しばらくしていると梅の花には沢山の野鳥がやってきています。圧倒的に多いのはやはりメジロで、鶯色の羽根を羽ばたかせながら器用に木にしがみついて花の蜜を吸っているのです。私が口笛で目白の鳴き声をすると、メジロたちはにわかに色めき立って寄って来るのです。

 茶色がかった別の野鳥もやって来ました。目白のようにちょろちょろせず悠然と構えて蜜を吸っています。持っていたデジカメで撮ろうとすると、少し離れた梢に移動したためシャッターチャンスは逃しましたが、バードウォッチングがこんなに身近なところで、しかも肉眼でできるのです。小鳥たちももう間もなく歌を覚えて歌うことでしょうが、メジロに交じって羽根を休める鶯を見つけました。来月には鶯の初鳴きが聞こえることでしょう。

若松進一ブログ(わが畑の水仙も今が満開見ごろです)
若松進一ブログ(黄色くなり始めた閏住の菜の花畑)

 一連の作業や花見が終わり帰りの道沿いにわが家の畑があります。かつてはミカン園でしたが、母の死後放任園になっているのです。私の計画では退職後この畑を再び開墾して花木を植える計画でした。しかし私の退職後の生活に思ったほどの余裕がなくなり、断念せざるを得なくなったのです。でも決して諦めているわけではなく、時期を見つけてと思っていますが、遺された時間はそんなにないので、早い決断が必要なようです。その畑にはもう野生になった水仙が所狭しと咲いていました。水仙の花はもうそろそろ終わりですが、北向きの斜面ではまだまだ花を楽しめそうです。

 昨日の愛媛新聞の一面に閏住の菜の花畑が掲載されました。帰り際、その閏住菜の花畑の側に妹の開いているくじらという店があり立ち寄りました。マスコミは凄いもので、新聞に今日掲載されただけなのに、花見の客がたくさん来始めたようでした。まだ少し黄色い花色は薄いようでしたが、道行く人の目を楽しませていました。


  「梅林の 花から花へ メジロ飛ぶ 蜜吸い遊ぶ 春はそこまで」

  「この畑 母のいるころ 草もなし 我が世になりて 荒れるがままに」

  「水仙が やがて終われば 菜の花と 花の暦は 今年も巡る」

  「腐葉土に なるため燃えた 自然熱 やがて種芋 育てる力」   

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shin-1さんの日記

○節分・立春

 昨日は節分、親父の作ってくれた鬼ぐいにヒイラギを挟んだものを玄関や神仏供えて夜豆をまきました。「鬼は外福は内」と少し控え目な声で播いたのです。はてさて歳老いた親父と私たち夫婦の三人しかいないわが家は、一番鬼に近い人間はやはり私のようで、「鬼は外」と妻に豆を投げつけてもらい、一旦外に出て「福は内」と家の中に入りました。子どもじみたことですがこんなことでもしないと平凡な日々の暮らしにメリハリがつかないのです。妻は毎度のことながら呆れ返って豆を播き、二人で豆を食べました。昔は歳の数だけ豆を食べていましたが、私64歳、妻63歳ですから、とてもそんなに多い数の豆は食べきれないのです。したがって私は10歳単位で一個食べることにして二人とも四捨五入して7個ずつ食べました。そして妻の兄が持参してくれた恵方巻き寿司を今年の方角東北東に向かって食べました。何の意味もないと思うバカバカしい習慣ですが、それでも吉を呼びたいと思い妻と二人で美味しく頂きました。それでも不思議なものでこのような習慣でもやればどことなく安心するのですから人間の心もいい加減なもののようです。

若松進一ブログ(ほころび始めた白梅の花)
若松進一ブログ(西洋椿の花)

 昨日一日降った雨も上がって、今日は立春らしく温かくて穏やかな日です。窓越しに見える家の周りの雑野草もどことなく生気が出たような気もします。思い切って外に出てみました。庭の梅の木は膨らみ始めた白梅の花が早春の香りを漂わせつつあります。親父が育てている盆栽も知らない間にもう梅の花は満開で、そっと鼻を近づけ花の香りを楽しみました。また大きな西洋椿も誇らしく咲き、花を咲かせているのに見てくれるご主人に不満を言っているようにも見えました。

 運よく下灘に住む親父の妹が陽気に誘われて自転車でやって来ました。いつも美味しい魚を届けてくれるので、家庭菜園に入りカリフラワーとチンゲンサイ、カブと丸々太ったキャベツを収穫し段ボール箱に入れてやりました。この叔母は叔母と呼んではいますが、私より一歳年上だけなのです。12人兄弟の長男である親父と末っ子に生まれた叔母とは兄弟といいながら30歳近くも歳が離れているのです。親父の隠居でお茶を飲みながら少しの間話して叔母は帰って行きました。同じ町内に住んでいるのに、毎日忙しく暮らしているものですから、ついついご無沙汰ばかりです。

 「春が来た」という歌を歌いたくなるような立春です。寒波もこれから何度かやってきそうですが、春遠からじといったところです。しかし春が来たからといって浮かれた話だけではありません。世界同時不況の影響を受けて私の姉の長男も派遣切りに遭い帰郷しています。大学院まで出て昔の私たちの時代からすると考えられないような高学歴なのにです。どこかいい職場はないか私もあれこれつてを頼りに探していますが、高学歴がかえって邪魔になって中々いい職は見つかっていないのです。こんな時こそ顔の広さが物を言うと私の出番を誰もが言うのですが、世の中そんなに甘いものではないようです。当分失業保険がもらえるようですが、年齢的に高くなっていて親の焦る言葉が身に染みて分かるだけに、心が重い立春です。

 それでも、自分の故郷を見向きもしなかった長男が帰って来て急に賑やかになった嬉しさは隠しきれないようで、これで地元で働く場所さえ確保できれば、派遣切りも不幸中の幸いと受け止めれるのでしょうが、姉の家に春が来るのはもう少し先のようです

  「派遣切り 人のことかと 思いしに 身近な甥に 悩みの春が」

  「立春の 声聞き春は そこまでと 小鳥さえずり 花が教える」

  「菜園の 野菜収穫 おすそ分け 叔母は喜び 自転車帰る」

  「歳の数 食べろと言われ よく食べた 今は適当 年齢相応」

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shin-1さんの日記

○雨の一日は雨読と雨書と雨校正

 昨日は朝から夜まで一日中雨でした。雨が足繁く降るようになると春近しの感じがするのですが、水分とと気温を必要とする人間牧場の落ち葉による腐葉土づくりのことが気になっていながらその暇もなく、また折角時間が取れたのに昨日のような雨では農作業をすることができず、晴耕雨読に甘んじ中ればならない空を見上げて少し憂鬱な一日を過ごしました。それでも宿題となっていた「耕す心の時代」を一冊速読ながら読み上げ、予約の入っていた印刷インクのの匂いがする「夕やけ徒然草・水の書」を仕分けて送ったり、また文化振興財団から届いた原稿の校正をしたり、まだ手の付いていない原稿書きをしたり、何かと足を引っ張っていた細かい作業が一気に片付き、外の雨とは裏腹に心の霧が少し晴れた気持になりました。

 1月を総括すれば風邪を引いたことが足を引っ張り、中旬から下旬にかけては日程が詰まりかなり忙しい日々を過ごしました。それでも県外に近県ながら講演で3回も出張しました。また念願の「夕やけ徒然草・水の書」の原稿書きや印刷までの工程が入って、忙しい日々だったように思います。そんな忙しさも過去となってしまいましたが、出会った人や書いた原稿、出来上がった自著本、書いたブログ64本は生きた証とでもいうべき形になって残っているのです。

 午前中清水研究員と私の書斎で打ち合わせを行い、お茶を飲みながら色々な事を話しました。その途中に偶然にも大河内結子さんから電話が入り、年輪塾公開セミナーの折にハーモニカを吹いて欲しいとリクエストがありました。私は楽譜を見て演奏することはできず、むしろ体感音楽の部類なので、リクエストされても歌えない歌は吹けないのです。そのあとメールで届いたリクエスト曲を見て少し安心しましたが、吹けるかどうか心配で、清水さんが帰ってから木になるカバンからハーモニカを取り出し吹いてみました。私がハーモニカを吹いていると、書斎の外窓からやって来た親父が不思議そうに見ていました。多分息子がハーモニカを吹く姿を始めて見て驚いたのでしょう。親父を座らせ聞き覚えのある軍歌を3曲吹いて聞かせたら、「中々上手いが何処で習ったのか」と外聞もなく褒めてくれました。「独学だ」と言葉を返しましたが、91歳の親父には理解できたかどうかは分かりません。でも初めて親父に軍歌ながらハーモニカを聞かせて良かったと思っています。大正・昭和・平成と揺れ動く社会に翻弄されながら生きてきた親父には、もう口ずさむ歌などありませんが、戦争という暗くて悲しいタイムトンネルを抜けた経験だけは今も脳裏に深く刻まれているのです。昨日は伊予路に春を呼ぶ椿神社の春祭りです。戦後間もない子どものころ、親父に連れられて椿祭りに行った折、露天商の並ぶ参道の片隅で、傷痍軍人の人たちが口にハーモニカを加えて軍歌を吹き、物乞いともとれる姿を見ました。なけなしの小銭をポケットの中から一枚取り出し、お皿の中に入れてあげたことが懐かしく思い出されました。

若松進一ブログ(矢野鎮男さん)
若松進一ブログ(中嶋都貞さん)

 夕方から町民会館で開かれた史談会2月例会に出席しました。最近は会員が二人づつ持ち回りで「戦争を語る」というテーマで卓話をするのです。昨日は本村の矢野さんと会長の中嶋さんの話を聞きました。矢野さんは昭和15年生まれですから戦争の記憶は殆どなくむしろ戦場に出征したお父さんの話や銃後の守りに苦労したお母さんの話が胸を打ちました。中嶋会長さんの話は、終戦間近なころに志願兵として海軍航空隊に入隊しパイロットを目指した思い出を語られました。中嶋さんは当時の資料を数多く持っていて、この日も沢山の資料を見せていただきましたが、海軍ゆえにこれらの資料は帰らぬ遺骨の代わりになったかも知れないと述懐されました。戦争を直接体験した人の数も次第に減って、中嶋さんの話は今まで聞いたことのない貴重なお話でした。

 雨の一日でしたが、遠い記憶に遡る一日でもありました。人はそれぞれの思い出とともに生きています。中嶋さんの生き方から学ぶとすれば、やはり記憶と記録の違いだと思います。半世紀も過ぎると記憶は完全に途切れます。ところが記録は記憶を思い出させてくれるのです。特に日時などは覚えることは至難の業ですが、記録にはちゃんと残るのです。記憶と記録の違いを教えていただいた雨の日の一日でした。


  「記憶ほど 当てにならない ものはない 記録残すは 今人務め」

  「椿さん 参道で見た 軍人の ハーモニカ吹く 悲しき音色」

  「雨の日は 身辺整理 こまごまと 出来てすっきり 慈雨と思いつ」

  「一月は 忙しい日々が 続いたな 二月ゆっくり したくもできず」


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shin-1さんの日記

○夕やけ徒然草・地の書を発刊しました

 年末年始にかけて思わぬ風邪に見舞われたため、延び延びになっていた「夕やけ徒然草・水の書」の編集や校正、印刷作業が終わり、やっと発刊の運びとなりました。1月30日に開催された地域づくり人養成講座にどうにか間に合いそのお披露目となりました。私はこれまで「町に吹く風」「昇る夕日でまちづくり」「今やれる青春」「ミレミアム2000年その日私は」「夕やけ徒然草・地の書」などを出版してきましたが、自著本としては6冊目の「夕やけ徒然草・水の書」の出版もやはり、浅学非才な私には少し背伸びをするような感じのものとなりました。元来私のような凡人が自著本を出すこと自体無茶な話で、人に読んでもらうようなことは書けないのです。それでも人間は少し背伸びをしないと進化しないと思い、ねじり鉢巻きほどではないにしてもそれなりにない知恵を絞って書いたのです。

 本は活字のため幸せなことに、私のいぼ痔・切れ痔、痔ろうと思われる汚い文字は活字になって跡形もなくなるのです。また文章の続きの拙さは編集の段階で少しだけ手直し加筆があるのです。本当はこの手の本の類は方言で書きたいところなのですが、残念ながら現代人には標準語が標準語で、方言で書くと注釈をつけなければならなくなるため、今回も普通の言葉で書きました。しかしこれを喋りで演じる時には、相手の顔触れを見て方言でしっかり語りたいと思っています。

 前回の「夕やけ徒然草・地の書」は第1話から第30話が収められていましたが、今回の「夕やけ徒然草・水の書」はその続編で第31話から第60話までが収められています。「水の書発刊に寄せて」という序文には「水五則」について書きました。第31話PTAとかけて何と解く」、第32話IQ人間とEQ人間、第33話屋台と西洋料理店、第34話次男からは産めない、第35話水戸黄門のテーマソング、第36話大仏と鯨の喧嘩、第37話知らないのに知ったふり、第38話うどんの花が見てみたい、第39話天国に行ったみたい、第40話お金の井戸と知恵の井戸、第41話時間の長さは皆同じ、第42話小さなやかんは直ぐたぎる、第43話根も葉もない話、第44話孫の存在、第45話芋の思い出、第46話鯖はいらんかな~、第47話金の卵、第48話自慢話と噂話、第49話人の前で話をするコツ、第50話結婚披露宴の司会、第51話アイディアの泉、第52話病院から焼き場へ直行便、第53話もう点くぞ、第54話ああ定年、第55話塾、第56話だんだん大きくなる話、第57話リンキャベ、第58話産めよ増やせよ、第59話平凡な非凡、第60話東大の卒業証書で牛は動かぬと、まあ今回も面白い話満載です。

若松進一ブログ

 それにしても紛らわしいと、出来上がってから思いました。表紙の装丁が色使いまでまったく同じなのです。僅か左隅に書かれた地の書と水の書が違うだけなのです。火の書、風の書、空の書がそろえばまあいいかと思いつつ、かかわってくれた友人に感謝をしています。

 地の書で稼いだ木戸銭の中から水の書の印刷代としてお金も支払ったし、これから落伍にせいぜい磨きをかけて水の書を、人の迷惑も顧みず販売したいと思っています。そしてその利ザヤを人間牧場の運営費に当てて地域貢献したいと思っているのです。

 私の経済理論は単純で入力と出力のバランスです。本を作り本を売る、本を作ったお金を回収して次なる本へ投資する、残ったお金で地域貢献をする、まあこんな単純さゆえに人から批判されることもなく、ワンコインだったらと気軽に一口乗ってくれるのです。

 楽しい生き方の裏にはこうしたしたたかさや裏ワザが必要なのかも知れません。


  「二冊目の 本は自転車 操業で 儲けた金で 活動仕組む」

  「一年で 千人の前 落伍する チリも積もれば 凄いものです」

  「良く似てる 本を五冊も シリーズで 百五十話を 目指し二冊目」

  「今回も 本と喋りが セットです 本に負けない 喋り特訓」 


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shin-1さんの日記

○夕日が見えた束の間の幸せ

 「このまま車で走ると夕日を拝むことはできない」と思い、直感的に松前町北黒田の信号を右に曲がりました。一直線の道を進むと見慣れた元気人村という温浴施設の前に出ました。車を道端に止め偶然持っていたデジタルカメラを車内から取り出して、とりあえずまず防波堤から一枚シャッターを押しました。昨日の夕暮れはこれまでの荒れた冬の天気がまるで嘘のように、晴れ渡った空を真っ赤に染めて沈もうとしているのです。どう表現すればいいのか、私はこれまでの夕日のデーターを頭の中に蘇らせながら探しました。「そうだ、サーモンピンクがいい」と直感的に思いました。防波堤の上に一人腰をかけて座り沈みゆく夕日の天体ショーを一人楽しみました。双海町の夕日であれば、場所やアングルを変えて忙しく動き回るのですが、他所の町の夕日はさすがにそんな気にもなれず、夕日が沈むまでのひと時を大事にするべく眺めたのです。時折通る自転車やジョギングする人たちは、この素晴らしい天体ショーを見ることもなく、無反応な顔をして去って行きました。

若松進一ブログ

 これが平成21年、2月2日の瀬戸内に沈む美しい夕日です。私の心とデジカメにしっかりと記憶させました。この日もあいにく水平線近くに雲があって少し早目に雲の彼方へ没してしまいました。ふと気がつくと足元から冬の寒さが体中に伝わってきました。「そうだ、せっかくだから冷え切った体を元気人村の風呂で温めて帰ろう」と思いつき、温浴施設の暖簾をくぐりました。室内は外の寒さとはまるで別世界のような温かさです。お風呂の好きな私は時々ここを利用するため、受付のお嬢さんともすっかり顔なじみで、「まあ若松さんお珍しい、今日は大学の帰りですか」と、突っ込んだ質問です。「はいその通り大学の帰りです。今日は海岸で夕日を見ていたら体が冷えまして、温泉に浸かろうと思いまして」「それはありがとうございます。ごゆっくり」と、まあこんな他愛のない会話を交して浴場へ入りました。

 すっかり陽の落ちた海や空を窓越しに眺めながら冷え切った体を湯船に沈めていると、隣には顔見知りの人が何人もいて、会話が弾みました。中に水産高校の同級生もいて驚きの会話を交わしたり、サウナ、水風呂、薬草湯などを巡りながらすっかりリフレッシュしてポカポカです。「ああこれも夕日の導きか」と思いつつ、時を過ごしました。火照った体を冷ますべく休憩室の背もたれ椅子に横たわってテレビを見ました。浅間山、桜島の火山小規模噴火のニュースが流れていました。不況を反映した国会の論戦や、国務長官に就任したヒラリー長官が最初の訪問国に日本を選びそうだとのニュースも、大きな話題なのにどこか白けた話題になって、記憶のかなたに消えそうな感じがしました。

 外に出ると冬の夕暮れは早くもう真っ暗でした。急いで車を走らせ家路を急ぎました。夕日の高入りは雨の証拠だと直感していましたが、カーラジオの天気予報だと明日は西から天気が崩れて雨のようです。私にとって夕日は何よりの薬です。束の間の夕陽を見れた幸せを感じました。


  「よその町 だけど夕日が 見れました 束の間だけど 幸せでした」

  「高入りの 夕日に雨の 予感あり 明日は雨かと 心曇りて」

  「夕日見て 冷えた体を 温める 温浴湯船 見慣れた顔が」

  「番台の 娘優しく 声かけて 益々心 ポカポカなりぬ」

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shin-1さんの日記

○夫婦水入らずの夕食会

 日々の暮らしの中で私たち家族には喜びや悲しみが、まるで海のうねりのような形で現れたり消えたりしてきました。結婚から始まった小さな私の家庭に子どもが生まれたり、子どもが受験に合格したり、また子どもに子どもが生まれたりと、喜びはむしろ子ども中心で動いてきたようです。しかし祖母や母の死のように悲しい出来事も沢山ありました。それらの喜びや悲しみに一喜一憂しながら何とか今日まで平穏に半生を過ごしてきたのです。

 いつしか子どもたちも住み慣れた家を出て、それぞれが自立の道を歩むようになったため、気がつくと私たち夫婦と年老いた親父を加えた3人だけとなってしまいました。4年前にリタイアした私と、近所の歯医者でパートで働く妻にとって、それほど目を見張るような喜びはなく、その分悲しみもないのです。

 先日私にちょっとした喜びごとがありました。人に言えば「何だそれくらい」と言われそうなので中身は伏せておきますが、妻が言うのにはちょっとした喜びなのです。「宝くじが当たったの?」と言われそうですが、お金を伴った喜びではないことだけは確かなのです。

 

 昨日は前日から泊まりに来ていた娘の子どもを伊予路に春を呼ぶといわれる椿さんに連れて行くことにしました。昨日は初日、しかも久しぶりの好天とあって大勢の参拝客が押し寄せ、11時ころにお参りしましたが本殿まで行くのに30分もかかるほど混んでいました。お参りしたあと来年から小学生になる孫朋樹と今年の5月に出産予定の長男夫婦のため、そして年老いた親父の健康を願ってお札、それに縁起熊手を買い求め、参拝客の中に身をゆだねながら孫の買いたいものを約束通り一個買って、ツウ車上に止めてあった車まで帰りました。その後孫のリクエストで食事をしたり温泉に行ったりして無事孫を娘の家まで届けました。娘と留守番していた二男の孫と少しの間遊んでやり帰路に着きました。

 昨日は親父の夕食を作って出ているためゆっくりできるとあって、妻の発案であることのお祝いを兼ねた夫婦水入らずの夕食会を、伊予市の伊呂波という和風レストランですることにしました。このお店には先日も仲間とお邪魔しているし、親父の米寿のお祝いもここでしたため、すっかり馴染みの店となっているのです。

 酒も飲めないのに、少しははり込んで、私たちにとっては少しおご馳走と思われる料理を注文しました。二人だけで外食する場合はうどんやラーメンなどで簡単に済ませるのですが、この日は食べきれないほどの料理を、二人とも酒が飲めないためお茶で乾杯して料理を食べながらいろいろな話をしました。

 お寿司や刺身など日本食主体の料理だったためお茶をお変わりして、他愛のない話に終始しながら小一時間過ごしました。私のような古い年代は大家族の中で過ごしてきたため、こんな夫婦二人だけの食事などがとても苦手で、普通の夫婦のようなイタリア料理でワインでも傾ける粋な計らいはできないのです。

 お店を出て帰る車は妻が運転を変わりましたが、妻はいたく感激した様子で、「お父さん今日は楽しかった。また時々来ようね」と神妙な面持ちで言ってくれました。もう私たち夫婦には喜びごとなど望むべきもありません。でも普通の何げない暮らしの中に喜びを見出し、ささやかな楽しみを持ちたいものだと思いました。私は毎日外へ出て適当に楽しく暮らしていますが、親父の面倒や子ども、孫のことに気を配る妻への感謝は余りやらなかったと、深く反省させられた一夜でした。

  「ちょっとした 気配りひとつ 嬉しくて 妻今度また 催促しきり」

  「人見れば とるに足らない ことだけど 妻にとっては 嬉し出来事」

  「ささやかな 夫婦二人の 食事会 久し振りだと 忘れし前を」

  「お祈りの 言葉をちゃんと いう準備 孫も成長 もうすぐ一年」 

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shin-1さんの日記

○21世紀えひめニューフロンティアグループの年次総会

 ①今やれる青春、②一年一事業、③社会への揺さぶりという3つのテーマを掲げて30年前に結成したボランティアグループの年次総会がメンバーである今治の河上和夫さん宅で開かれました。総会といっても10人余りのメンバーですから、呑みながら食べながら話しながら寝ながらの「ながら総会」です。結成時は若かったメンバーも代表を務める私が64歳、以下2つや3つ違いで、メンバーの中には既にリタイアしている人も何人かいて、時の流れを感じさせるのです。でも年齢を重ねてはいますがテーマに掲げている「今やれる青春」という理念は今も健在で、それぞれがそれぞれの生き方に自信を持って生きているようです。

 これまで「無人島に挑む少年の集い」や「ふるさとを空から見る運動」「丸木舟瀬戸内海航海」「竪穴式住居無人島シンポ」「フロンティア塾」「ブーメランテーブル製作」「ツリーハウス製作」「活動記録集発刊」などなど数えれば切りがないほどの活動を行って社会を揺さぶってきましたが、今は私の主宰する人間牧場に活動の場をシフトさせて、団塊の世代らしい生き方を模索する活動を行っているのです。

 私はこのグループで、勤めていた役所でも地域でもできないやりたいことを一生懸命やりました。今思うと多分青春のはけ口のような感覚だったように思うのです。忙しい仕事の合間を縫ってやった活動の殆どは私の発想をグループで実践するものでしたが、やることなすこと注目を集め、当時は県内では最も飛んでいる活動で、新聞やテレビで取り上げられ、社会の流れをを変えるような錯覚になって有頂天になっていました。

 私がこのグループから学んだことは数えればきりがないほどあります。危機管理能力や責任の取り方、リーダーとしての在り方など、むしろこのグループで学んだことを、自分の仕事に生かした、いわば本業ボランティア、副業仕事といった感じがする時期もあったようです。

 私たちは「今やれる青春」などと言ってはいますがもう若くなく、年齢相応の活動をやらなければ気力と体力のギャップに押しつぶされてしまいます。教育長就任で代表を事務局長である大野さんにゆだねていたのを、私が退職をしたのを機に再び再任されて現在に至っています。

 私たちには嬉しいことに資金だけ出して口を出さないパトロンがいます。関奉仕財団の関理事長さんです。元県教育次長の藤原さんの導きもあってふとしたことから100万円の小切手を頂き、以来毎年変わらぬ資金援助をいただいているのです。ある意味関理事長さんの資金援助がなかったらこれほど確かな手応えのある活動をしていたかどうかは疑問です。この資金が私たちの大きな支えになって今も地道な活動を続けているのです。パトロンというと何か変な表現ですが、民俗学者宮本常一のパトロンは渋沢敬三だったことなどを考えると、甘んじてパトロンの援助を受け続けたことの意味があるようです。

 昨年から国内の世界遺産を巡る旅をグループで始めました。1回目の去年は熊野古道を訪ねました。今年は4月に石見銀山と原爆ドーム、それに安芸の宮島を訪ねる旅を計画しています。日本の古き良き真髄を学ぶための旅です。これまでも色々なことをやってきましたが、これからも命の続く限り探究心を忘れず生きていくことを誓い合った総会でした。


  「集いあう 年に一度の 総会で 心爽快 歳はとっても」

  「今やれる 青春追って 三十年 これから先も 青春追って」

  「パトロンが いたから今の 我々が 感謝の気持ち 忘ることなく」

  「そろそろと 終わる語るな これからが 生きる意味あり 背筋を伸ばし」

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shin-1さんの日記

○おもしろ教室でタコ焼き・じゃこ天・餅つきに挑戦

 昨日は少年少女おもしろ教室がシーサイド公園であって、教室に通う子どもたちが大人の指導のもと、じゃこ天づくり、タコ焼きづくり、餅つきの3つのコースにチャレンジしました。シーサイド公園といえば愛媛県下では名の通った施設になりましたが、講演を運営する仕事の様子は中々体験することができないのです。そこで子どもたちに理解を深めてもらおうと体験コースを設定したのです。じゃこ天は少々危険を伴うため安全な作業工程のみとなりましたが、それでも子どもたちは熱心にじゃこ天の形を作り、油で揚げてもらいました。

 一番の人気は何と言ってもタコ焼きです。最初は「タコ焼きを食べれる」くらいな簡単な気持ちで臨んでいましたが、いざ自分で作ってみると中々丸くならず四苦八苦でした。シーサイドのタコ焼きは地元のタコを使うため味が良いと評判なのですが、箸を使って上手にくるくると回さなければ丸いタコ焼きはできないのです。しかも出来たタコ焼きが全て均一の大きさにならなければ商品価値はなく、中には小さいタコ焼きができてべそをかいている子どももいました。それでも自分が焼いたタコ焼きにソースをつけて削り節や青のりをふってもらい、食べる姿は嬉しそうでした。

若松進一ブログ(タコ焼きづくりに挑戦する子どもたち、中々上手く丸くならないようです)
若松進一ブログ(珍しいダイガラ餅つき)

 昨日は突風と雨のためイベントホールに臼と杵を持ち込み餅つきです。この日はシーサイド公園の計らいでダイガラ餅つきに挑戦しました。ダイガラといえば私たちが子どもの頃にはどこにでも見られた道具ですがすっかり忘れられるほどになっています。臼の中へお米を入れ、馬の首のような杵を足の力で踏んでは落として米をつきました。これは忙しい大人よりむしろ子どもの仕事となっていたため、私も子どものころよくつかされました。最初は面白がってやるのですが、次第に足腰が疲れて嫌な仕事でした。それでもお米は何回、雑穀は何回と決められた数だけやらなければいけなかったのです。ずるをしてごまかしても大人にはばればれでした。

 珍しさも手伝って昨日は子どもたちも面白がってしていましたが、今のダイガラは杵の上に重い石が乗ってなくて、以外と軽い感じがしました。こねる人とつく人のコンビネーションも難しく中々大変でしたが、ヨモギ餅やタカキビ餅など3色のお餅が振舞われました。


 一連の作業が終わって漁協女性部の富岡さんと少年少女おもしろ教室実行委員長の私があいさつに立ちました。富岡さんはじめ漁協女性部の皆さんやスタッフの皆さんにはいつも頭が下がる思いです。私は昨日の朝大風でシーサイド公園の砂浜に大量のゴミが漂着したためこのことに触れました。シーサイド公園も開業以来15年目を迎えましたが、いつもきれいに掃除をしておお客さんを迎えることができる影には沢山の方々の目に見えない苦労があることを忘れないようにして欲しいと話しました。少年少女おもしろ教室に参加している子どもたちは、そのことをよく知っているため、うなずきながら耳を傾けてくれました。この教室もいよいよ後一回を残すのみとなりました。今年もふるさと教育はさまざまなプログラムにチャレンジし、様々な成果を収めつつあります。行政の財政難のあおりを受けて規模縮小の話がちらほら聞こえますが、こんな素敵な事業はこれからも切り捨てることなく継続してほしいと願っています。

若松進一ブログ(富岡さんの話を聞く子どもたち)

  「ダイガラを ついた昔が 懐かしい 子どもながらの 手助け作業」

  「未来の子 育てるために 手伝わす 足手まといと 知りつ手ほどき」


  「スタッフの 人数子ども 上回り 嬉しい悲鳴 ワイワイガヤと」

  「手を抜いちゃ 子ども育たぬ 思いつつ 昨年よりも バージョンアップ」


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shin-1さんの日記

○社会教育のスペシャリストが人間牧場にやって来ました

 瀬戸内海に面した海沿いの双海町では、昨日の朝から凄い勢いの北東突風が吹いて、わが家では洗濯物干し場の物干し台が倒れ、隣のおじさんの家では風呂を沸かすために設置している薪用ボイラーの煙突が倒れたりと散々でした。春先は春おこしとでもいうのでしょうか、時ならぬ気象異変が起こるので注意をしているのですが、突風は防ぎようがなく自然のいたずらと思って我慢するしかないのです。

 昨日は朝から雨でした。朝早くから県庁の生涯学習課の先生たち17人が課内小旅行の途中に人間牧場を訪ねるというので、荒れた天気に気を揉んでいました。しかし雨が止むと同時に風が吹き始め、あっという間に雨雲を吹き飛ばして視界良好となり、少しだけ私の心配も転機と同じように心が晴れたのです。

 県の生涯学習課の職員といえば生涯教育のスペシャリストです。若いころから社会教育をかじっているとはいえ、大挙しての来牧に少し緊張せざるを得ませんでしたが、何事もポジティブに考える私としては、なるようにしかならないと思い、一方では思うようになると信じて午前8時過ぎに待ち合わせ場所の下灘コミュニティセンターまで田舎のオープンカーで行きました。携帯へ担当の井上先生から「シーサイド公園に到着してトイレ休憩中」という第一報が入り、時間通りのバス運行に安堵をしました。

 やがて待ち合わせのバスと合流し山道を縫うように私の車の先導で人間牧場まで走りましたが、奥島観光の中型バスのため最後の農道は歩いてもらいました。参加している先生たちは課長さん以下顔見知りの人が多く、冗談を言える和やかな雰囲気で迎えることができました。

 人間牧場の外は春の大風が吹いて、水平線の家自慢のスライドする窓を開けたり外のウッドデッキに出ることもデモンストレーション程度で、窓を閉じての話となりました。本当は朝早く起きて風呂を沸かし足湯を楽しんでもらったり薪ストーブに火を入れて迎えたかったのですが、残念かな春の嵐でそれもかなわず、また時間が1時間弱しかないため、私の簡単な説明や話でお茶を濁してしまう結果となりました。

 しかし私がこの施設を自費で作り、自力で社会教育をやっている意気込みだけは分かって欲しいと熱弁をふるいました。私はこれまで社会教育に携わる多くの人たちと出会ってきましたが、その殆どの人は別の部署へ異動するとまったく社会教育の世界から去ってしまうのです。あれほど社会教育の必要性を熱っぽく説きながらと思うと、「ああこの人は仕事だから社会教育をやっているのか」と、冷めた目で見ざるを得ないのです。

若松進一ブログ (社会教育のスペシャリストたち)

 昨日は土曜休日だというのに生涯学習課の先生たちはわが人間牧場を訪ねた後、西予市の歴史博物館を目指すという熱心さです。行きがかり上「夕日徒然草・地の書」まで図々しくも買ってもらうことになって、心が痛みましたが、その分これからも想いをこめて人間牧場でいい社会教育をやろうと決意を新たにしました。(人間牧場の沖合に浮かぶ周防大島出身の民族学者で、私が目標としている宮本常一の本を差し上げましたが、宮本常一の歩いた足跡を赤ペンでなぞると日本地図が真っ赤になるといわれる旅する巨人の、生き方を社会教育に生かしてほしいと願っています)。

 私にとっても、久しく途絶えていた社会教育関係者に向かい合って話ができてうれしい一日でした。また交友を深めたいと思っています。


  「休日と 言うのに学ぶ 意思ありて 県内めぐる 意気込み嬉し」

  「時ならぬ 突風吹いて 春近し ぬかるみ歩き 牧場訪ね」

  「足湯なく ストーブ火なく 迎えたる 心痛むが 見送りだけは」

  「年輪の 上に座布団 敷き座る 毎度お馴染 落伍を語る」 

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shin-1さんの日記

○鉄は熱いうちに打て

 子どものころ町の真ん中に宮内という加治屋さんがありました。仕事場には大きな炉があって、炭が赤々と燃えていました。そこの大将は周蔵さんという人で、真冬でも半袖で炉の前に立って鉄を打っていました。ベルトで回る鉄打ち機の下に火の中から取り出した真っ赤な鉄を置くと、容赦なく鉄打ち機のハンマーが打ち続けるのです。火花が飛び散りながらも鉄はまるで飴のように伸ばされ、やがて形状が整うと水の中に「ジューン」と音を立てて入れられ、焼きハガネが完成するのです。私はその姿が好きで、時々学校の帰りにその光景を見に行ったものです。ある日のことすっかり顔なじみとなった周蔵さんが「坊もやってみるか」といわれ、重い重いハンマーで真っ赤な鉄を打たせてもらいました。数日後周蔵さんから「学校から帰りに立ち寄るよう」連絡があり、行ってみると私の打った鉄が小刀になっていて、周蔵さんはその小刀を私にプレゼントしてくれたのです。家に帰ってその小刀を見せると親父は黙って木を削り木製の柄をつけてくれたのです。私はその小刀を小学生の間自分の宝ものとして持ち歩き、遊び道具をたくさん作りました。そしてその小刀の柄に「下灘住人宮内周蔵作」と鉛筆で書き、彫刻刀でそれをなぞって、まるで刀の柄に堀り込んである銘のような気分になっていました。その小刀の行方もいつの間にか分からなくなりましたが、今でも赤々と燃える炉の前に立って鉄を打つ周蔵さんの姿が目に焼き付いているのです。

 その時周蔵さんは私に「鉄は熱いうちに打て」という話をしてくれました。鉄は冷めていると硬くていくら打っても形にはならないので、炭で熱して柔らかくして細工をするのだと仕事の手を休めぬまま得意になって私に話してくれました。その時は「鉄は熱いうちに打て」という言葉が人間にも通用する言葉だとは思いませんでした。しかし何年かしてオトナの話す言葉の中に同じような言葉を聞いた時、その意味が何となく分かったような気がしたのです。私が水産高校へ行く時も、青年の船でアメリカへ行く時も、はたまた海外派遣で青年たちを海外へ送り出す時も、同じようなことを言われ、自分自身の過去を振り返ってみた時も、やはり熱い志を持った若い時ゆえに多くの感化を受けたと思うのです。

 昔の人は様々な言葉を体に染みついた仕事の中から話してくれました。無名に等しい加治屋の周蔵さんがとてつもない教えを幼い私にさりげなく話してくれたのですから、これはもう凄いとしかいいようがありません。


 私は鉄を例にとると、たとえ火の中へ放り込んでも熱くならない歳になりました。自分の考えがしっかりしているといえばそうかも知れませんが、自分の考えがたとえ間違っていてもそれを変えることをかたくなに拒むのです。

「ああ歳だなあ」と思いつつ、これまた歳のせいか熱かった若いころを懐かしむのです。

 私たちはもう熱くはならないのであれば、周蔵さんのように、熱いと思われる若い人を探し出し、熱したりハンマーで打ったりしながら鍛える方に回らなければいけないのです。はてさて今の自分はそんなことをしているかどうか考えた時、少しばかり疑問符?がつくのです。人間の世界は太古の昔から40年(昔の人の寿命)から100年(今の人の寿命)の周期で世代交代が繰り返されています。前人は後人を育てつつ歴史を刻んでいるのですから、少なくとも私にできる「鉄は熱いうちに打て」という言葉をかみしめて、これからも生きて行きたいと思っています。


  「千年の 釘を打ちたる 人の汗 何を語るか 鉄に向かいて」

  「幼な頃 鉄を打つかと 誘われて 重きハンマー 今も忘れず」

  「先人は 日々の仕事の その中で 生きる教えを ちゃんと伝えて」

  「嗚呼俺は 熱きうち打つ 人なのに 打ちもしないで ただただ生きる」

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