○今日から山口県へ春を迎えに旅に出ます。
shin-1さんの日記
○春一番が吹きました
昨日は朝から立って歩けないほどの強風が吹き、海も山も大荒れでした。前の晩テレビの画面に映し出された天気図を見て、全てが春一番の吹く条件を満たしているようだったので、強風は嫌だけど子どもがはしかをするように、春一番が吹かないと季節が変わらないものですから、ある意味期待をしていたのです。
私は元漁師をしていて、水産高校で詳しい気象の勉強をしているのでまるで気象予報士のように天気についてはそれなりの知識を持っているつもりです。特に地元の漁師さんは「板子一枚下地獄」といわれる危険な海の上での労働を強いられるため、気象衛星のなかった昔から言い伝えで天気予知能力を磨いていたのです。「お日さまが高入りすると雨になる」「秋の夕焼け鎌を研げ」「夏の夕焼け川向う渡るな」「沖の島に雲がかかるとやまぜが強くなる」などなど、子どもの頃から古老の頃から言い伝えを沢山聞いてきました。しかし気象衛星の普及による天気予知能力が高まるにつれて、そんな昔からの言い伝えも忘れられる運命にあるのは、返す返すも残念です。私も漁師をしていた頃は十指に余る言い伝えを覚えていましたが、海の暮らしから陸の暮らしになってから、全天候の室内に仕事が変わってしまい、その殆どを忘れてしまったのです。
春一番とは立春から春分の日の間に吹く風です。日本海で発達した低気圧から延びる寒冷前線と温暖前線の間で吹く、東南東から西南西の8m/S以上の風で、南から低気圧に向かって強い南寄りの風が吹いて温度が急に上昇するのです。その後は天気が悪くなって雨が降ったり雪に変わって、上がった気温が急激に下がったりするのです。春一番が吹くと春遠からじで、これからは三寒四温の巡りが早くなって、天気~雨を繰り返しながら次第に温度が上がって、日本列島は南から冬域を脱出するのです。
それにしても昨日の南風は強くて、近所でも小屋が倒れたりする被害が出たようでした。幸いわが家では背後にある小山が衝立のように風を防いでくれているので、他の場所に比べれば幾分か弱いようで、何の被害も出ませんでした。こんな強い風の日は外に出るのもおっくうで、これも幸いにして昨日は久しぶりの在宅で、不安そうに強風の止むのを待つ親父とともに、積もる話をしながら過ごしました。講演原稿の校正を済ませて町内の小学校へ出かけましたが、海は山から吹き下ろす強風が海面の塩水を巻き上げていました。その風は夕方になっても一向に収まらず、川向うの山は不気味なほど唸りを上げていましたが、今朝になるとすっかり収まっているようです。
(潮煙りの立つ昨日の瀬戸内海、でも写真に写った姿はどことなく春の色のようです)
わが家の庭の木々や野菜にはまだ春の兆しは余り見えませんが、菜園では早くもハコベがはびこり始め、草刈りの予感を思わせました。そんな中で昨年友人にいただいたブルーベリーの大きな鉢植えだけは春真っただ中で、既に芽吹いて花芽を無数につけているのです。昨秋これでもかというほど油粕をやって世話らしき世話をしていた効果が出たのか、今年も結実が期待できそうです。
昨日近所でブルーベリー園を営む友人の所へ強風の中お邪魔しましたが、頼んでいた鉢植えも準備ができているようで、近々届けると言ってもらい今年は力を入れてブルーベリーの世話をしたいと思っています。最近は健康ブームもあってブルーベリーが偉い人気で、あちらこちらでブルーベリー園を見かけるようになりました。またブルーベリーを加工したサプリメントが目にいいと宣伝するものですから、私も妻もその気になって昨年は沢山食べました。結果や効果は知る由もありませんが、今から初夏の実成りの季節が楽しみです。春一番が吹き春はもうそこまで来ているようです。
「春一番 大荒れ吹いて 去って行く 春はそこまで 来ているようだ」
「木も草も 冬の眠りを 楽しんで ブルベリだけは 早いお目覚め」
「何処となく ウキウキするよ 春一番 ♭どこかで春が♯ 思わず歌う」
「瀬戸内も 春一番の 潮煙り 向こうに見える 島影かすみ」
shin-1さんの日記
○能ある鷹は爪を隠す
私のような学歴もない生まれつきの凡人は、自分の能力の低さをいつも認識していて、高学歴な時代ですから、出会う人全てが吉川栄治の「人みなわが師」の言葉通りに人の存在を絶えず上に見て生きてきました。その結果学歴はなくても学習歴を積んで、どうにか相手をしてくれる方々と会話が通じるまでになったのです。しかし最近は横文字が多くて、昨日の会議で主催者が話す言葉の中にも横文字が限りなく使われて、能ある鷹の爪を垣間見てしまいました。私は常々人間には4つのタイプがあると思ってその人の話を聞きながら観察して見るのです。①難しい話を難しくする人、②分かり易い話を難しくする人、③難しい話を分かり易く話す人、④分かり易い話を分かり易く話す人です。私にとって苦手なタイプは①型と②型の人です。「お前たちのような低能な人間に俺の話が分かってたまるか」と言わんばかりに、相手の見境もなく相手がだれであれ話すのです。鼻もちならないその話を拒否した人たちは聞いているふりをして居眠りという対抗手段で行動に出るのですが、その事さえも無視して自己満足している人を時々見かけたりするのです。それでも難しい話を難しくするのであれば世界が違うと納得もします。でも一番困るのは分かり易い話を難しく言うタイプです。これはカモフラージュ人間と呼ぶにふさわしい人で、なり上がりものに多いようです。「能なき雀爪を出す」という言葉を作ってみました。
私が尊敬するのは③の難しい話を分かり易く話する人です。このタイプで思い出すのは数学者秋山仁さんです。秋山先生は頭にバンダナを巻いた風変りな格好でテレビなどに登場していますが、一昨年国立大洲青少年交流の家で開いた「大人を考えるフォーラム」の講演に招きました。私が実行委員長を務めた役得をいただき随分身近な場所で出会わせてもらいました。数学者と聞いただけでアレルギーを起こしそうですが、先生は偉ぶる所が全くなく、むしろそこら辺にいるおじさんのように若者や私たちに接していただき、難しい数学を分かり易く話されました。先生はこれまで出会ったどの人よりも難しい話を分かり易く話してくれたのです。「大人を考えるフォーラム」は大成功でした。先生は最後にアコーディオンを弾いてくれました。子どもの頃から苦手だった音楽を大人になって練習し、ものの見事に克服した話は「やればできる魔法の言葉」のように若者の心に染みたのです。
さて④の分かり易い話を分かりやすく話す人とは一体誰か、はい「それは私です」と、かくありたい願いを込めて話すようにしています。私のような人間は残念ながら難しい話は分かりません。私の風貌からして難しい話をするようなタイプだとは百人中百人が思うのです。ですから話したり司会をする度に「どうしたら参加者に理化してもらえるか」一生懸命考えられるのです。多分能ある人から見るとまどろこしくも幼稚にも感じられるのです。「能のない雀は爪の出しようがない」という格言を作ってみました。私はぬある鷹ではないから隠す爪もないのです。
等身大でありのままに生きることを常に自分に教えてくれているのが、人間牧場にある人型パネルです。一昨年人間牧場で国土交通省主催で開いた観光カリスマ塾の折、事務局の小野さんに無理を言って作ってもらいました。写真は村上太さん、製作は加藤徹さんが担当して作ってもらいましたが、これが私の等身大への戒めとなっているのです。背伸びをしてもこの程度、化粧をしてもこの程度、あれから二年が経ちましたがこの程度なのです。でも持ったカバンと心の中に謙虚に生きながらも少しずつ知的コンテンツを蓄えてきましたが、「能ある鷹は爪を隠す」ではなく、「能なき雀ながら爪を隠す」ような人間になりたいと思うのです。
「能もなき 子雀ゆえに 出す爪も ないかも知れぬ 爪切り切った」
「難しい 話分からぬ 身分にて 分かり易くを 常に心得」
「欠点を 長所に変える 芸がある これも一芸 笑い飛ばして」
「等身大 自分のパネル 戒めの つもり時々 対話している」
shin-1さんの日記
○嬉しい友人の合格発表
昨日は春らしく黄砂による視界不良が二日間続き、洗濯ものや車のボンネットにも黄砂の痕跡が確認できました。自然とは偉いもので、遥か遠い中国黄河流域で舞い上がった砂塵が海を渡り、ジェット気流に乗って日本に降り注いでいるのです。昨日の天気予報によると穏やかな春も長続きせず、低気圧や前線が日本を通過しそうで、ひょっとしたらこれが春一番になるかも知れないそうです。その予感を感じさせるような南風が吹いて、春遠からじの印象を強く持ちました。
祝日だった前の日、孫の発表会を松山市民会館まで見に行った妻は孫と二人で映画鑑賞に出かけ、明くる日の昨日が振り替え休日だったため孫はそのままわが家に一人で泊まりに来ていました。昨日は木曜日のため大学への出勤日です。仕事で妻が孫の面倒を見れないため私が送り届けることになり、朝ご飯を食べて出かけました。来年小学校に入学する予定の孫は、飛行機から恐竜へと変化していた趣味もすっかり様変わりし、今は虫に凝っていて、わが家に来るなり虫籠と網を持ってそこら辺を動き回っているのです。
孫のお父さん、つまり娘婿は愛媛大学に勤めているので大学に用事があったため、孫を連れて大学へ立ち寄りました。孫はカードで裏門駐車場の入口バーが上がるのが不思議な様子でしたが、駐車場に車を止め大学本部まで二人で歩いて行きました。体震工事をしていた法文学部本館の工事もほとんど終わり、足場が外されつつありましたが、すっかりリニュアールされた外壁工事でまるで新築みたいに美しくなっていました。
孫を玄関先のケヤキ並木の下で待たせ、本部内で用事を済ませて出てみると、孫は虫博士のような顔をして、見つけた木の根元で動く虫を追いかけていました。二人で娘婿の研究室がある棟に入り、3階までエレベーターに乗りました。研究室のドアをノックすると娘婿が二人揃っての来訪に驚いた様子で迎えてくれました。私の用事を済ませ、昨晩寝ながら孫と話したデジカメのことを話しました。孫は自分の好きな虫をカメラに収めて図鑑を作りたいので、デジカメが欲しいのです。私がデジカメを使いこなせるようになったのはつい最近の話なのに、偉そうにも未就学児の孫はもうデジカメの要求ですから、「何をたわけたことを」と思いましたが、娘婿もそのことを知っているらしく、「今度○○の時に買おう」と約束したようで、嬉しそうに大学を後にしました。再び自動的に上がる裏門ゲートバーの不思議を感じる孫を道後の家まで送り届けました。
道後からだと愛大農学部のキャンバスまでは車で10分程で到着です。昨日は桑原公民館の方々が講演の打ち合わせでやって来たり、パソコンに接続するプリンターが運び込まれたり、突然森賀客員教授訪ねてきたり、また前日の人間牧場での公開セミナーへのお礼の電話のやり取りなど、とても忙しい一日でした。
昨日は私がこれから関わるであろう社会人学び直しニーズ教育に応募した方々の合格発表の日でした。本館前の掲示板に合格者の番号が張り出されました。受験していた宇和島市役所の森田君と兵頭君の二人も目出度く合格したようです。番号なので掲示板で森田君と兵頭君の合格は分かりませんでしたが、先生が教えてくれました。嬉しい知らせなので早速森田君の携帯番号を地域政策センターの松本君に聞いてお祝いの言葉を言いました。二人の合格はまるで自分が合格したような嬉しさです。というのも二人はかつてえひめ地域政策研究センターへ出向して、私と一緒に活動した間柄なのです。奇しくもまた私の学生になるようですが、ともに学んで行きたいと思っています。
(愛媛大学農学部正面玄関に張り出された合格発表)
(さて森田君と兵頭君の番号は?)
帰り際、実年の男性に出会いました。合格発表を見にきたのだそうです。聞けばこの方も合格したそうで、色々な立ち話をして再開を誓いあいました。
「デジカメで 虫の図鑑を 作りたい 子供だいうに 何と馬鹿げて」
「親父とは あんなものかと 傍で見る 孫は緊張 嬉し風景」
「合格の 知らせ携帯 弾む声 仲間今度は 生徒になるか」
「合格の 発表見入る おじさんと 言葉交わして 再開約す」
追伸
私が高校受験をした頃の合格発表は名前が貼り出されました。また新聞にも載りました。今は個人情報とかで受験番号のようです。私が宇和島水産高校を受験したとき、合格発表は校長先生の友人に見に行ってもらい、「若松進一さん合格」おめでとう」の祝電が届きました。今日宇和島の森田君と兵頭君の合格発表は奇しくも私が見に行き、森田君にお祝いのメールを送りました。世の中も変わったものです。
shin-1さんの日記
○ミツバチの分家
何日か前私のメールボックスに一本のメールが届きました。西予市野村町山奥組の井上登さんからでした。井上さんとは地域づくり人養成講座で知り合い、その後昨年開かれた全国大会などで親密の度合いが増し、何かにつけて積極的に参加することもあって、顔を見る機会が多いのです。ある日のことミツバチの買い方が話題となり、高知県馬路村でいただいたミツバチの巣箱の話をしたところ、「いい時期になったら分家をしてあげる」ととんとん拍子に話が進み、このところの陽気に誘われてミツバチの活動がすkし始まったので分家作業をいつにするとのメールでした。早速日程調整しましたが、井上さんの住んでいる野村町からここまでは有に2時間近くかかるため、昨日の年輪塾に井上さんも申し込んでいたので、「じゃあ午前中に作業をしましょう」と相談がまとまりました。
(蜜蝋を塗る作業をする井上登さん)
(亀本さんも手伝ってくれました)
(一個はツリーハウスの傍に設置しました)
昨日は私が年輪塾の準備で早めに人間牧場へ上がっていましたが、井上さんから待ち合わせ場所である下灘コミュニティセンターに到着した旨の連絡を受け、迎えに下山しました。近道である隧道ルートを私の車の後についてやってきました。そして場所を一巡した後早速私のミツバチの巣を二つ取り出して、バーナーで温めながら蜜蝋を塗り始めたのです。私も下板の窮屈さを是正するためノコで小挽きして不具合を調整しました。井上さんから指示のあったコンクリートブロックは既に大洲メッセで購入していたので、地堀鍬で整地して並べました。早めに来ていた大洲の亀本さんも手伝ってくれ、巣箱の設置作業は意外と早く終わりました。井上さんは自分の持ってきたミツバチノ入った巣箱をそっと降ろして設置しました。はてさてこのミツバチの分家は上手くいくのでしょうか。
(これが井上家から分家して嫁いできたミツバチの箱入り娘です。角を隠すように覆いを被せていますが、ここからミツバチが分かれてくれることを期待しています)
人間牧場では昨年、サツマイモで命のリレープロジェクトをやりましたが、今年はハチミツで命のリレープロジェクトをやろうとしています。井上さんは「サンデー毎日」という雑誌を持参して、宮崎県椎葉村の那須さんという日本一の養蜂家を紹介した記事を見せてくれました。ミツバチは心の優しい人でないと寄りつかないそうです。またミツバチが手にいっぱい止まっている写真を見て、「てがわぬ蜂は刺さない」とも教えてくれました。
しばらくの間ミツバチ談義に花を咲かせましたが、下の梅林ではもう梅が満開で、ミツバチが行動範囲としている周囲2キロには蜜源があるものと思われます。雑誌で紹介された那須さんの言うとおり、せいぜい心の優しい人になりたいものです。
昨日届いた北国からの便りだと、北国は暖冬といいながら氷点下15度だと聞きましたが、昨日は15度近く上がって春の風物詩である黄砂が観測され、人間牧場自慢の島影織りなす眺望は霞んで見えませんでした。でもミツバチが飛び交う春はもうそこまで来ているのです。
「ミツバチの まるで輿入れ 白無垢で 眠っているか 姿も見えず」
「その道に 秀でた人が いるものよ 手際の良さに ついつい見とれ」
「楽しみが 一つ増えたか 牧場に 春は巡りて 蜜蜂の飛ぶ」
「ミツバチは 心の綺麗 人好む 俺はどうなの? もうすぐ結果」
shin-1さんの日記
○年輪塾始まる
月日の経つのは早いもので、人間牧場がオープンして3年余りが過ぎました。その間施設設備の充実に主眼をいて活動してきましたが、今年計画している釜戸小屋が完成すれば施設的には活動に支障がないほどになりました。しかしこの施設は利活用してしてこそ人間牧場という名の通り生かされるものですから、ソフト面も並行して充実しなければならないのです。プログラムについては、既に子どもたちを対象にした農場体験や逆手塾の開催、宮本常一を語るなどなど、実験的に行った活動が早くもそれなりの評価を受けるようになってきました。
私が一番欲しかったのは現代にマッチしたネットワークの整備でしたが、これも塾頭である清水さんの努力で年輪塾ネットを立ち上げることができて、いよいよ念願の年輪塾を立ち上げる機運が高まったのです。この機を逃すまいと昨日年輪塾オープンを記念して、第一回公開セミナーを開きました。
昨日は山形県高畠町の農民詩人星寛治さんをメーンゲストに招きました。星さんは前日えひめ地域政策研究センター主催による「耕す教育の時代」と題したまちづくりトークサロン出演のため来県されていて、快く講師を引き受けていただきました。
星さんの話は1935年生まれのため戦前や戦中の思想が深く、特に農民詩人といわれる人ですから宮沢賢治に傾注していて、また戦後の青年団活動や有機農業に取り組んで来られた実績を惜しげもなく話されました。人間牧場最高のステージは樹令150年という高知県馬路村産魚梁瀬杉の切り株です。宇和島の山本さんから送られた座布団を敷いてその上で正座をして話すのです。約90分熱のこもった話を拝聴しましたが、高座の直ぐ傍で拝聴した私は時折、松下村塾で話す吉田松陰の姿をダブらせながら身ぶるいするような気持でした。
その後塾長である私もこのほど出版した自著本「夕やけ徒然草・水の書)を元に30分間小噺をやりました。星寛治さんの話に比べたら月とスッポンで、私の話など取るに足らないものですが、それでも参加者を爆笑の渦に巻き込んで、いい雰囲気となったのです。星さんの話が三ツ星レストランなら、さしずめ私の話は梅干し屋体のようなものですが、おでんやコップ酒もおつな庶民の味なのです。
私の話が終わると食談と称した交流会です。松本小番頭が奥さんまで手伝わせておでんをメイン料理にして用意してくれました。また今治の大河内さんはいなり寿司とイギス豆腐、大洲の亀本さんはイノシシの角煮などなど差し入れも沢山あって、星さんからいただいた山形の銘酒を味わいながら楽しいお喋りとなりました。途中今ではすっかり一芸に秀でた高知県馬路村の塾生木下さんのマジックで一同大爆笑でした。
最後は全員が少しだけ肌寒いウッドデッキに出て、大河内さんからリクエストのあった「ふるさと」「みかんの花咲く丘」「しあわせのうた」を、私の下手くそなハーモニカに合わせ大合唱しました。かつて若かったころの青年団活動そのままに腕を組み、思わずジーンときました。
年輪塾は塾長の私と、清水塾頭、米湊大番頭、松本小番頭の4人でとりあえず運営する予定です。この日は塾生の脇田さんが記録係としてビデオカメラを回してくれました。この映像はCDにして今後の活動に利用したいと思っています。そして近い将来この年輪塾をモデルとして県内各地で私塾を開いてほしいと願っています。塾とはそういうものなのです。
塾生浜田さんの宮本常一論を聞いた集会を第一回とするなら、本格的に年輪塾がスタートした今回は第2回目となります。当面は10回を目指して様々な試行錯誤が行われるものと思われますが、折しも山の端に沈み始めた夕日に顔を赤く染め、別れを惜しみながら下山する参加者に再開を誓いました。
「念願の 年輪塾が 始まった 人を育てる 気概を持って」
「腕を組み 歌を歌った 若き頃 想い重ねて ハーモニカ吹く」
「星さんの 姿松陰 ダブらせて 教え心に 深く染み込む」
「もう歳と 思っていたが まだ若い これからですと 心の紐を」
shin-1さんの日記
○忘れ得ぬ2月10日という日
私の64年の半生の中で忘れ得ぬ日は幾つもありますが、特に2001年2月10日は忘れ得ぬ日となって記憶の中にとどまって、その日が来る度に鮮明に思い出されるのです。「皆さんは2001年2月10日を覚えているでしょうか」と尋ねられても、はてさて?と首をかしげるのは当然のことです。しかし人間の脳は潜在能力の中に2001年2月10日をちゃんと覚えていて、「愛媛丸がハワイ沖で米軍潜水艦グリーンビルに衝突して沈んだ日」と少しヒントを出せば、その日の出来事が思い出されるのですから凄いものです。
2001年2月10日、私は自分の書いた本の出版記念パーティーを開くべく、近くの特別養護老人ホーム夕凪荘の近くの田んぼで改造を飾る菜の花を摘んでいました。三抱えもあるほど摘んだ菜の花を車に積んで自宅へ帰りました。そしてあらかじめ用意していた孟宗青竹の花器に差しこんでいました。そこへ近所に住む姉悦子が息せき切ってやって来ました。「今テレビの臨時ニュースであなたの母校である宇和島水産高校の実習船えひめ丸がハワイの沖で潜水艦に衝突し沈没したようよ」というのです。私は立ち上がれないほどの衝撃を受け、直ぐに家の中に飛び込んでテレビのスイッチを入れました。テレビの画面には臨時ニュースが流れていて、詳しいことは分からずも、えひめ丸が沈没したことだけが何度も何度も伝えられていました。
私にとってえひめ丸は特別なものです。僅か18歳の青春真っただ中の時代に、宇和島水産高校の実習船えひめ丸で珊瑚海まで遠洋航海した経験を持っているからです。私が乗船したえひめ丸は初代の船でした。214.5トンという小さな船に乗って約4ヶ月も海の上の暮らしを経験し、後の自分の人生感をも変える大きな大きな旅でした。沈んだ船は初代のえひめ丸の航跡を受け継いだ4代目の船でした。しかし船の大きさは変わっても船の構造はそんなに変わらず、記憶の中にあるえひめ丸の船内に閉じ込められて海底に沈んだえひめ丸と自分の記憶をダブらせながら何度も何度も犠牲になった9人の行方を追ったものでした。
それから一年は学校を訪問したり、卒業生と連絡を取り合ったりしていましたが、えひめ丸の記事が新聞からテレビから消えることは殆どなく、その度に胸を締め付けられるような気持になりました。しかしその事故も人々の記憶の中から次第に遠ざかり、宇和島周辺や関係者の間では語られるものの、残念ながら今では殆ど忘れ去られているのです。
私の方「昇る夕日でまちづくり」という本の出版記念パーティにはマスコミ関係者も多く、出席通知をいただいていたものの特別な事故だけに取材対応で急遽欠席となって少しばかりむなしい風が吹いたことも2月10日のえひめ丸事故に添えられた記憶として残っているのです。あれから8年の歳月があっという間に流れました。昨日は水産高校の慰霊碑やハワイの慰霊碑の前でしめやかな追悼の式典が行われたようですが、寂しい限りです。
余談な話ながら、あの日知人友人に披露された自著本「昇る夕日でまちづくり」は、有名書店の片隅に並べられ、6千部の田舎では小さなベストセラーとなって話題をさらいました。今も全国各地から引き合いがきて長生きしているし、その後出版した「今やれる青春」「ミレミアム2000年その日私は」や「夕やけ徒然草・地の書・水の書」も好評を博しているのですが、そのスタートとなったのは2001年2月10日でした。
私は2001年2月10日を命のある限り忘れることはないと思います。そして新しく建造されたえひめ丸が今後もより安全に航跡を受け継いで航海してくれることを心から祈っています。
「早8年 記録と記憶 薄くなる されどこの日は 死して忘れず」
「自著本を 手に取る度に 思い出す えひめ丸船 今頃どこに」
「寂しき日 打ち消すように 仕事する それでもどこか 心ひかかり」
「菜の花忌 司馬さんだけじゃ ありませぬ えひめ丸事故 菜の花咲いて」
shin-1さんの日記
○コーディネーター役は中々骨の折れる仕事です
私は仕事柄、これまで様々な集会やシンポジウムの司会、コーディネーターなどをやってきましたが、いつも思うことは講演や講義のように一人で喋るより、司会、コーディネーターという役割が中々骨の折れる仕事だということです。最近はファシリテーターなどの横文字が登場して、司会、コーディネーター、ファシリテーターを混同しているような感も否めませんが、それらの役割はテーマに沿って会を進行し、正しい方向に導かなければならないのです。と同時に自分の意見も言わなければならないため、まるで聖徳太子のように人の意見を聞き自分の意見を述べるのですから、並みの人間ではできないのです。じゃあ「あなたは並み以上ですか」といわれたら、「はい潜水艦」、「えっ、並み以下」と答えなければならないのです。
コーディネーターは事前準備が必要です。昨日はえひめ地域政策研究センターの依頼を受けて、はからずも「教育とまちづくり」というテークサロンのコーディネーターをさせてもらいました。コーディネーターをするにあたって、出演者であるお二人の著書である星さんの「耕す教育の時代」と草野さんの団体を紹介している「日本一の学校」という二冊の本を事前に取り寄せて読みました。そして二人の考えを頭に入れパソコンで思いつくままにレポートしました。ここまでは予備知識の習得です。
(県立美術館講堂を会場に星さんと草野さんと私の楽しい会話が繰り広げられました)
(手前が星さん、向こうが草野さんです)
サロントーク「耕す教育の時代」という鼎談ともいえる三人のコーディネーターをするにあたって、私は2時間の時間配分をする上で、1テーマ30分として3つの分割テーマを考えました。①これまでの教育に欠けていたもの、②これからの青少年教育、③学校の持つ意味です。このテーマについて話したいことをそれぞれの分割テーマごとに3つくらい考えて欲しいと、お二人のパネラーにメールしました。星さんからは分割テーマごとに3~4項目が出てきましたが、草野さんからは分割テーマごとのテーマは届きませんでした。私の計画がここで大きく変更を余儀なくされたのです。でも草野さんにも討議に加わってもらわなければ討議ができないのです。そこで考えたのは星さんと同じ分量の自分のおしゃべりを分割テーマごとに3項目用意し、星さんと私のサンドウィッチに草野さんのスパイスをはめ込むという、アドリブ作戦に転じることにしました。
問題は参加者の存在です。参加者に「教育」という難しいテーマをどう理解させるか、私は前日高松へ行く列車の中から、閃いたホワイトボード利用の図式説明のために、ホワイトボードを用意して欲しいと担当の清水研究員にメールを打ちました。早速メール返信が届きOKとのことでした。
星さんの1時間講演、草野さんの30分話題提供の話が終わり、休憩時間で会場セットされていよいよスタートです。教育とまちづくりの関係について少し経緯を述べ、ホワイトボードに書いた縦軸ポイント(星さん1935、若松1944、草野さん1951の生まれ)、横軸ポイント(星さんは山形県、草野さんは徳島県、若松は愛媛県)、円軸ポイント(星さんは内陸部、草野さんは太平洋沿岸、若松は瀬戸内海沿岸)の図表に沿ってパネラーの考えの違いを話しました。そして討議の進め方や時間配分の了解を求めてスタートしたのです。
時には参加者を巻き込み、歌のない歌謡曲に歌をつけて歌わさなければならないのですから大変です。でもさすが星さんも草野さんも一流で、それぞれの立場の違いを鮮明にしながら話をかみ合わせてくれました。終わりの時間が気になり始めましたが、私のまとめ的発言はあえてせず、不燃人、可燃人、自燃人と残り火という話や6つのゆとり(①時間的ゆとり、②人間的ゆとり、③空間的ゆとり、④経済的ゆとり、⑤文化的ゆとり、⑥安心安全的ゆとり)を求めて人は動くことを話し、1分超過の17時01分で役目を終えまました。1分超過は許容範囲です。
参加した人からの拍手の勢いにまずまず成功の手応えを感じ役目を終えました。昨日も長くてしんどい一日でしたが、さわやかな気持ちの幕引きでした。
(共済会館で行われた交流会も楽しい一夜でした)
(請われるままにハーモニカを熱演しました。もうすっかり地域づくりの世界ではお馴染となりました)
(いつの間にやら私のカメラに竹森さんと鹿島校長と原田校長が写っていました。三人とも私の大好きな人です。また会いましょう)
「進め役 簡単いうけど 難しい 事前準備に 心血注ぐ」
「話す人 客席の人 俺加え 二時間ドラマ プロデュースする」
「二時間が あっという間に 過ぎ去りて カーテンコール 拍手も強く」
「もう嫌だ こんなにきつい 役割は 終わってみれば 快感あって」
shin-1
○もう一つの電子メールアドレス
自分の机の上にあるパソコンには、毎日沢山の人からメールが届いています。私のメールアドレスがwakamatsu@yuuh.jp という、物覚えの悪い私でも簡単に覚えてしまうアドレスなので、嬉しいメールがどんどん入ってくるのです。勿論それらに交じって迷惑メールも沢山入ってきますが、それらの殆どは自動的に迷惑メールフォルダーに整理されるので、息子から教えてもらった消去方法によって日の目を見ることもなく闇から闇へ葬り去られてしまうのです。
パソコンに疎い私は、時々パソコン画面に出てくるとんでもない表示に一喜一憂しながら、その度に息子や娘婿に助け船を出して、どうにか今日まで乗り切ってきました。まあメールのやり取りとブログを書いて登録する方法、それに文章を書く程度の利用内容ですから、それほど難しくはないのです。それでも写真を取り込んだり、年賀状用に住所録を作成したりする技術もオロオロしながらマスターして、少しだけ使い方の幅が広がったことを喜んでいる今日この頃です。
今日は大学の出勤日です。事務所に出勤簿押印のため立ち寄ったら、大学に申請していた電子メールアドレスの利用承諾書を事務官の先生から渡されました。ルールに従って幾つかの記号を入力すると、メールが使えるようになりました。この手の類の作業は息子や娘婿にやってもらっていたのですが、大学という限られた世界のことだし情報機密を守らなければならないので、息子や娘婿に対応してもらうこともできず、いじくった結果やっと通じるようになりました。そして記念すべきメールを自分の家のパソコン宛てに文章を添付して送信したのです。今日は私にとって自分の大学のメールと自宅のメールが接続できた記念すべき日となったのです。家に帰って自分が自分に送っためるが来ているかどうか、今日の帰りは交流会もあるので深夜になると思いますが、楽しみです。二つのメールが接続したことで、これから仕事の幅が随分広がる気配です。つまり自宅で大学の仕事をして、それを大学のパソコンに送ると、居ながらにして二地域での仕事が可能になるのです。今までは自分の家で打ったパソコンのデーターはプリントアウトして大学へ持って行き、サイド入力しなければならなかったのです。
夕方遅く自宅へ帰って、遅い夕食を食べながらその話を妻にすると、パソコンに弱い妻は「へえー、そんなことができるのと驚いた様子で私の話に聞き入っていました。私は早速恐る恐るパソコンのメールを開きましたが、多くのメールに交じって私の送ったメールがちゃんと届いていて安心しました。これからは、大学でプリントアウトしなくても出来るし、文章の手直しだって出来るのです。
それにしても便利な世の中になったものです。このくらいなことで喜ぶ私ですが、パソコンに堪能な人はもっともっと便利な使い方をしているに違いないと、少しだけパソコンの苦手な自分がみじめな気持になりました。でも一段一段階段を上って行くように、少しずつ深化してゆきたいものと思うのです。
今日はトークサロンのコーディネーターとしての仕事に全精力を傾注したため少々お疲れモードでの帰宅です。明日は今日の講師である山形県高畠町の星寛治さんを招いて年輪塾公開セミナーを開く予定です。少しだけ早く休んで、また思いきり楽しみたいと思っています。
「大学の 職場と自宅 パソコンで 結んで送る メール届いた」
「ああ嬉し 出来ぬ仕事が 出来るよに 今日は記念日 私にとって」
「今日からは 大学仕事 自宅でも 逆の仕事も ひょっとしたなら」
「精力を 使い果たした 感がする 疲れを知らぬ 俺だというに」
shin-1さんの日記
○充実した列車の旅
昨日は一日中列車に乗っていたような錯覚に陥るほど、近い四国の中ながら長い旅をしました。北国の人からすると馴染みのない四国は、一つの県くらいにしか思わないのでしょうが、どうしてどうして私の町からだと高知県足摺岬へは5時間、室戸岬へも5時間、徳島や高松という県庁所在地さえ高速道路を使っても優に3時間はかかるのです。昨日は高松市で行われる内閣府の会議に出席するため、車で約一時間走って松山駅まで行き、そこから特急いしづちに乗るコースを選びました。中国・四国・九州は車で行くことが多いのですが、会議の開かれる場所がサンポート高松という駅のすぐ近くなので列車を選んだのです。さすがにこの歳になると3時間の運転はきつく列車だと休憩や読書三昧ができるのです。それでも列車で松山から高松まで2時間半はかなり長く、家を8時に出て家に帰ったのは午後7時30分ですから、一日を費やした計算になるのです。
県の局長さんと担当者が同じ会議に出席するため、同じ列車に乗り込みましたが、私は少し調べものがあるの、大変失礼ながらでお話をすることもなく高松を往復しました。それでも昼食はご一緒しようと、駅前のうどん屋に入りました。ちょうど昼時ということもあって、セルフのうどん屋には長い行列ができていました。うどんは回転が速いためそんなに待つこともなく、ぶっかけうどんを注文してかき揚げ天ぷらをトッピングしても500円そこそこで、さすがうどん王国高松だけあって、うどんの味もまずまずといった感じでした。
会議は午後1時から始まりましたが、地域活性化統合事務局の総括参事官や説明や、今年度採択されて事業を推進した四国内の7事業の進捗状況と成果や問題点の発表が会議予定時間の2時間のうち1時間45分と大半を割いたため、意見を言う時間は殆どなく、15分の時間延長があったものの、今回もイライラや不完全燃焼の会議となってしまいました。
いつも思うのですが、私たちは意見を述べるために一日を割いて高松まで足を運んでいるのです。もちろん政府のお役人も東京から来られているわけですが、もう少し会議の運営に配慮があってもいいと、前回も提案や苦言を呈しましたが、全国のブロック会議のストーリーが決まっているのか、一向に改める気配はないのです。こんな苦言を呈する委員は次から指名しないと無視されそうですが、私の性格に合わない会議に出るのは次回からお断りしようと思っているのです。それでも委員に指名されているので短い時間ながら何点か気がついたことをお話をさせていただきました。
行きも帰りも今日に迫ったトークサロンの進め方が頭の中にありました。今日は耕す教育の時代」と題したトークサロンがあって、元山形県高畠町教育委員長星寛治さんをお招きしているのです。私と伊座利の草野裕作さんを交えた座談鼎談を私が仕切ることになっているのです。
列車の中で二人の本を読んだり、おしゃべりの筋書きを考えてメモをしたりしました。ゆえに車窓の風景も殆ど目に入ることもなく、ある意味充実した列車の旅となりました。アドリブなのでどんな展開になるか分かりませんが、まあ何とか目鼻は付きそうです。
私はこれまで、講演や講義、パネラーや司会、コーディネーターなど様々な役割を担って会議に参加してきました。その度に書物を読み、自分の考えを整理して多少のメモを用意してきました。他の人から比べるとそんなに事前の準備に時間をかける方でもなく、ただ意の向くままにやってきましたが、年齢的にもうそんな出番も終わりかなあと思ったりしています。さて今日はどんな方向になるか、久しぶりに列車内で少しだけ考えた成果は出るのでしょうか。
「列車内 時間を有効 活用し あれやこれやと 思いめぐらす」
「迎え撃つ 相手想像 策を練る 参加した人 満足するか」
「一言を 言うため 長い汽車の旅 俺に分からぬ 会の運営」
「旅先で うどん天国 列に入る 大を注文 意気込みすする」