shin-1さんの日記

○念願の流氷に出会って感激

 今回北海道での講演依頼がサロマの親友船木さんを仲介して舞い込んだとき、私の日程表のその日は既に別の予定が入っていました。しかし冬のこのチャンスを逃せば、兼ねて念願の流氷に巡り合うことはないだろうと、予約相手に懇願して日程をずらしてもらった経緯があるので、美幌町での講演が決まってからはその楽しみが日増しに募っていました。しかし今年は流氷接岸という朗報は中々入らず、小池さんから一報が届いたのは2日前でした。今年は北風が吹かず、ロシアのアムール川から流れ出た流氷が、オホーツクの海を約1000キロも旅して網走沿岸に接岸したのは観測史上2番目に遅かったと報じられていました。でも途中のプロセスがどうであれ、やっと念願の流氷に巡り合えるのですから、その日は多少興奮して朝を迎えたのです。

 小池さんにお願いして北国にはなくてはならない滑り止めのついた長靴をはいて松本所長さんと小池さんの案内で約1時間の道のりを網走市内まで行きました。途中ホテルでオホーツクカレーという白い色をした話題のカレーを御馳走になりましたが、中々面白いアイデアに感心しました。

若松進一ブログ(砕氷船おーろら号)

 船着場には流氷見学を待ちわびたように次々と流氷見学のバスがやってきて、特に韓国からのお客さんが多くて、大きな声で話し合うものですから船の中はまるで蜂の巣をつついたようなにぎやかさでした。私たちもその人たちに交じっておーろら号に乗船しました。港の中の水面には流氷のできる過程が分かるハス状の氷の赤ちゃんが幾つも浮かんでいました。やがて船が港の灯台辺りに近付くと埋め尽くされた流氷に行く手を阻まれましたが、さすが自慢の砕氷船だけあって、鈍い音を立てながら氷を砕いて沖合へと進んで行きました。

 乗客はこの模様を近くで見ようとデッキに出て盛んにシャッターを押していました。

若松進一ブログ(厚さ1メートルもあるこんな大きな氷を割って進むのです)

 船内の放送で船のすぐ近くにオジロワシがいることを教えてくれました。残念ながらアザラシなどは見えませんでしたが、オジロワシを間近に見えてラッキーでした。

若松進一ブログ(すぐ近くの流氷の上にとまって様子をうかがうオジロワシ)

若松進一ブログ(所長さんと寒いデッキでのツーショット)

若松進一ブログ(おーろら号は2隻で運航していて、沖合いには先発のおーろら2号流氷の中を静かに進んでいました)

 おーろら号による流氷体験は僅か1時間程度でしたが、大きなうねりの中で揺れ動く流氷は圧巻で、妻からかかってきた携帯電話を使い、まるで実況中継のような形で興奮冷めやらぬ声を聞かせてやりました。妻は流氷体験のツアーに2度もきているのに2度とも陸地から離れた流氷を見た程度だったので残念がっていました。

 下船後流氷の上に直接乗るため車で沿岸を走りました。列車で流氷を見学するノロッコ号が並んで走っていましたが、人の姿はまばらでした。

若松進一ブログ(オホーツクの海を埋め尽くした真っ白な流氷)
若松進一ブログ(大きな流氷の塊の上で所長さんと記念写真です)
若松進一ブログ(私も感動の余りにこんなポーズをとってしまいました)

 その後近くの川の河口付近にある白鳥公園へ白鳥を見に行きました。白鳥に交じってカモやカモメが観光客が与えるパンくず餌をもらおうと沢山集まっていましたが、動作の鈍い大型の白鳥は、カモやカモメにちゃっかり奪われて中々餌にありつけないようで、まるで人間の世界を垣間見るようでした。

若松進一ブログ(野鳥が群がっていました)
若松進一ブログ(白い雪原の上で餌をついばむ白鳥)

 やっと長年の夢がかなって流氷体験ができました。私はこの日まで流氷は海の水が凍ってできるものとばかり
思っていましたが、流氷は食べてみましたが真水でできているのです。少し塩味がするのは海を流れてくる間に空気の気泡の中に海水が閉じ込められるからだと所長さんに教わりました。子どものころ流氷のことを教科書で習いました。ロシアのアムール川が何処にあるのか世界地図で調べた思い出ももう彼方に消えて行きましたが、それにしても不思議な自然現象です。

 前回紋別にあるオホーツク空港に降り立った時は初秋でした。紋別には流氷博物館があって流氷が一年中見えるようになっていて保存している流氷を見たりマイナス15度の世界も体験しましたが、これはあくまでも疑似体験でしたから、今回の本物体験には残念ながらかなわないのです。紋別で見たガリンコ号も今頃はわが意を得たりと活躍していることでしょう。

  「念願の 流氷体験 感動し 思わず写真 ポーズとる俺」

  「流氷を ガイドがついて 見学す 知らないことを 沢山学ぶ」

  「カモ・カモメ お株奪って 白鳥の 餌を横取り 誰かに似てる?」

  「千キロの 長い旅路を 経た流氷 お疲れさまと 声をかけやる」 

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shin-1さんの日記

○二回目の講演会

 今回の北海道美幌町では、前日に引き続き夜の7時から美幌町マナビティーセンター大研修室において美幌町教育講演会を開いていただきました。50人ほどのこじんまりした会だと伺っていましたが、雪の中にもかかわらず80人近くの人が集まってくれました。急な思いつきで最初に講演に来た人に私の持参したDVDを見せて会場を和ませました。参加者に手を挙げてもらったところ、10人近くが前日、女性の集いに参加して私の話を聞いていたようなので、これは大変とばかりに、内容をそっくり入れ替えることにしました。とっさのことなので果たして私の話は皆さんに通じたかどうかは不明です。でもシリーズのように二日間の話を聞かれた方々にとっては良かったのではないかと思うのです。

 私の話は今回も本当なら2時間以上の話をまるで早送りのビデオのように、できるだけ早い口調で話しました。直感として学習歴を積んでいる方々の参加だからと思ったからです。その場のインスピレーションで直感的に、レジメも用意せず話す私ですから、どんな話を話したのかはもう過去のことなので忘れましたが、社会教育関係者、青少年健全育成関係者の集まりなので、それなりの話をしたように思うのです。

若松進一ブログ

 研修会には近隣市町村からも参加者があって、船木さん率いる寒気団も何人か参加していただき、講演終了後ホテルでお茶会が持たれました。遠方から来たり、飲酒運転もできないことからお菓子とお茶だけの交流で、少し不満な人もいたかもしれませんが、酒を飲まない私にとっては楽しいものでした。かつては「酒も飲まずに社会教育やまちづくりは語れない」と言っていたのに、酒を飲まなくなった今は「酒を飲まないと語れないような社会教育やまちづくりはおかしい」などと、勝手な言い分をつけている私なのです。(笑い)

 北の国の人々にとって氷点下10度を下回る冬の厳しい自然の中での暮らしや活動は、もうすでに菜の花が満開の私たち南西国の人間にとっては理解し難い部分がいっぱいあります。でも私たち以上に春を待つ気持ちや人をいつくしむ心は旺盛で、今回の美幌での多くの人との出会いでも随分と温かい心に触れさせていただき、人間が人間として生きる意味を教えられたような気がするのです。


 この日わが家に鹿児島県奄美大島瀬戸内町の重村さんから電話がかかり、対応に出た妻が「主人は北海道に出かけています」と答えると様々な思い出話をしたそうです。ひょんなことで彼ら青年と知り合い、私は寅さんシリーズの舞台となったリリーの島(浅丘ルリ子出演)といわれる加ヶ呂間島に講演に招かれました。10数人の瀬戸内町の青年は私の話に刺激を受けて双海町へ視察研修にやってきました。勿論わが家でもお酒を大いに飲み、出産のために帰郷していた娘の出産と重なったため気をもみましたが、今は懐かしい思い出です。

 重村さんは全国アマチュア相撲選手権で横綱となった立派な体格の持ち主で、現在は瀬戸内町の役場で観光の仕事をしているそうです。妻から私の電話番号を聞き出し北海道の自分の所までわざわざ電話をかけてくれましたが、夕日の美しいことを観光の目玉にしようと夕陽百選を狙っているそうですが、その選定作業を進める全国夕陽の会というNPOの理事長もしている私にどうしても一肌脱いでほしいといういう話のようです。

 北の北海道と南の奄美大島とはこれまた凄い距離的開きがあって、思わず縁の深さに唸ってしまいました。縁を結ぶのも私の仕事ですから、美幌をキーにして様々な出会いの場を作りたいと思っています。


  「北国へ かかった電話 奄美から 便利世の中 大したものだ」

  「二度目人 前に話を すり替える 果たして上手く 話せたどうか」

  「小池さん 重村さんも ゼロ一トン 二人重ねて 奇遇楽しむ」

  「厳しさが 故に春待つ 夢太く 見習うことの 大きい旅路」  


 

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shin-1さんの日記

○グランドホテル界隈で楽しい交流

 主催者kら宿舎に用意していただいたのは美幌唯一のグランドホテルでした。ボーリング場も併設している立派なホテルで、2泊もさせてもらうのですから嬉しい限りでした。

若松進一ブログ (ホテルの玄関)
若松進一ブログ (玄関先には除雪した雪がうず高く積まれていました)

 講演と余興鑑賞が終わってホテルへ戻り、ご配慮で一服しました。長旅の疲れもなくホテルの外に出て、余り経験したことのない氷点下の街中を少し歩きました。北海道の家の中は暖房が完備しているため、飛行機、車、ホテルと暖房された場所だけを移動していたので、それほど寒さを感じませんでしたが、やはり外気温の冷たさは体に染みるようでした。明日の朝は早く起きて、氷点下10度を経験してみたいと思いながら早々と引き上げてきましたが、大通りの道沿いには除雪作業でうず高く積まれた雪が山のようになっていて、車道と歩道を分離していました。時折行き交う車は北国らしくアイスバーンもなんのその、雪のないわたしたちの町と何ら変わらないスピードで走っており、見ている方がひやひやです。

若松進一ブログ (ホテルの窓から見える雪に覆われた美幌の街並み)
若松進一ブログ (若者たちと一緒に雪上サッカーをしました)

 ホテル自室の窓から見える光景も白一色でまるで白黒の写真を見ているようでした。ホテルの裏の空き地では若者たちが雪の上でサッカーに講じていましたが、楽しい歓声ににつられて私も再び戸外へ出てその若者の輪の中に入ってボールをけらせていただきましたが、突如として目の前に現れた革靴姿の奇妙な四国の珍客に、みんな目を丸くして見守ってくれました。

 夜6時過ぎから主だった社会教育関係者がホテルの一室に集まり、交歓交流会を持っていただきました。僅か3時間前に私の講演を聞いた人たちは、私の講演について、残念ながら聞かなかった人に楽しく解説をしてくれました。今は私も僅かな社会教育関係者(愛媛県公民館連合会専門委員)程度ですが、長年社会教育に携わってきたので、気心や想いの高さも分かっていて直ぐに打ち解け深い話をさせてもらいました。

 飲むほどに士気も高まった頃、熊本に行っての帰りにわざわざ立ち寄ってくれた船木さんご一行が到着しました。船木さんは網走支庁管内では知らない人はいないくらい著名な寒気団という集団のリーダーなのです。今回の講演依頼も船木さんの仲立ちで実現しました。船木さんはこのホテルから1時間以上もかかるサロマで漁師をしている方なのですが、その縁もあるのでしょうか、まだ高知県馬路村での全国大会、紋別での社会教育研究大会と今回の三度しか会っていないのに、もう何十年も前から出会っているような不思議な魅力を持った方なのです。


若松進一ブログ
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 社会教育も市町村合併が進み、あちらこちらで公民館や生涯学習センター、図書館、文化センターなどの施設の管理を、指定管理者制度を導入して、委託管理するなどこれまでの社会教育に逆行するような情勢があちらこちらで目に付きます。また財政難という理由で団体補助金が削減されたり、専任職員から嘱託職員になったり、行政が地域自治という名のもとに公民館を廃止して自治センターに改組する動きがあちらこちらで行われており、関係者の一人として危険な時代だと危惧しています。

 でもここに集まった人たちは全員ボランティア精神で社会教育を長年支えてきた心の温かい方々ばかりなのです。たぶんこの方々はこれからも社会教育ボランティアとしてそれぞれの団体や市町村で活躍することでしょうが、同じ穴のムジナとして頑張りたいものです。


  「キュッキュッと 鳴る足元の 雪踏んで 見知らぬ街を 少し散策」

  「サッカーの 輪の中入り 交歓す 革靴で蹴り 思わずスッテン」

  「志 同じ人ゆえ 打ち解けて あれやこれやと 自慢話を」

  「凍りつく 道など平気 びゅんびゅんと スピードあげて 車行き交う」

  

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shin-1さんの日記

○雪に埋もれた美幌町で講演をしました。

 日曜日の朝は羽田発時45分発の飛行機に乗るため、宿舎を早めに出て6時過ぎのモノレールで羽田に向かいました。天気予報では北海道の天気も回復し、青森や北海道では昨日の大荒れの天気で機体のやりくりがつかず欠航の便があるようでしたが、女満別へ向かう私の乗る予定の飛行機は予定通り定刻にしかも満席で羽田を飛び立ちました。途中仙台上空から岩手県上空を経て会場に出た飛行機は、不安定な気象条件なのか幾分揺れながら順調に飛行しました。幸い窓際の席を確保していたものですから、眼下には北上するにつれて雪の景色が広がり、どちらかというと南国育ちの私には雪の世界がとてつもなく新鮮で、胸の高鳴りを覚えました。

若松進一ブログ(上空から蝦夷富士を望む)
若松進一ブログ(上空から見える雪に覆われた北国)
若松進一ブログ(遥か彼方に流氷接岸のオホーツク海が見えました)

若松進一ブログ(女満別空港へ着陸寸前の飛行機の窓から見えた雪の平原)

 上空からは見覚えのある雄阿寒岳など雄大な北海道の大地がはっきりと見えて、苦労の末に来ただけあって嬉しさも格別です。着陸前に飛行機はオホーツク海側に出て大きく旋回しましたが、視界の彼方に接岸した流氷の姿を見て感激ました。やがて飛行機は女満別空港に到着し、マナビティセンターの松本所長さんと小池さんの出迎えを受けました。美幌峠で有名な美幌町は女満別空港の近くにあって便利な町です。この日から3日間を過ごすのですが、まずホテルにチェックインして休憩をとらせてもらい身支度を整えました。本当は午前中の講演の予定でしたが、前日の吹雪で準備が間に合わず、私の講演は予定を変更して12時45分からとなったそうです。お迎えが来て会場に入った時は町長さんのあいさつの途中で、私の紹介を織り交ぜて挨拶をしていただいていました。町長さんや皆さんと名刺交換しながら昼食弁当をご馳走になりましたが、参加者はこの悪天候で町中に雪の塊が幾つもできるほどの大雪にもかかわらず350人近くもいるということにまずびっくりしました。

若松進一ブログ
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 美幌町自治会連合会女性部会の手によって朝のうちに準備の整った美幌町コミュニティセンター大集会室での講演は、予定時間通りピッタリに行われました。「女性が輝くときまちが輝く」という演題で90分間の話をさせてもらいました。まあ凄い迫力で私の話を飲み込んでくれるものですから、私もその気になって思いきり話をさせてもらいました。これを阿吽の呼吸とでもいうのでしょうか。私の言葉は伊予の国の方言があるのですが、北国の人には聞きづらい点も多かったのに、反響抜群でした。その模様は明くる日の北海道新聞に私の顔写真入りで掲載されていて赤面の至りです。

 講演の後はそれぞれの地区や団体からの20組もの出し物が名を連ね、日本舞踊ありフラダンスあり、歌謡ショーあり、寸劇ありの楽しいひと時を過ごしました。その中に村田さんという人がハーモニカを披露しました。凄いテクニシャンでカセットテープに合わせて吹く技術は私など比ではありませんでした。それでもご指名されて私もハーモニカを団中で吹かせてもらいましたが汗顔の至りでした。

若松進一ブログ(フラダンスも素敵でした。
若松進一ブログ(ハーモニカを吹く村田さん、その技に驚きました)

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shin-1さんの日記

○北海道行き飛行機欠航足止め利用の東京散策

 2月21日土曜日、北海道を目指し4日間の旅に出ました。前の晩の天気予報や今回の旅を企画してくれた美幌町教育委員会社会教育主事小池さんとのやりとりで、北の大地は発達した低気圧の影響で大荒れに天気を予測していて、ひょっとしたら飛行機が欠航するかも知れないと思って、とりあえず送ってもらったチケットの指示通り、松山空港を出発したのです。松山空港では昨夜来の春の一日にし風もすっかりおさまり、好天気の中での出発でした。羽田に到着し乗継便の指示されたゲートへ行ってみましたが、担当者は気象調査中というだけで何の指示もないのです。やがて搭乗手続きの時間ころになって欠航という文字が表示されました。青森以北の空港は全て欠航ということなので仕方がないと思いつつどうしたものかと思案しましたが、小池さんと連絡を取りながらとりあえず不乗証明書の交付を受けること、明日の朝の一便の航空券を確保ること、宿泊場所を探す作業を始めました。ご存じのとおり羽田空港は第一ターミナルが日航、第二ターミナルが全日空とかなりの距離があるため、その都度地下道を行ったり来たりしながら足が棒になるほど歩きました。北海道へ行くのだからと妻の用意した少し厚着のためか緊張のためか、真冬で北の大地は猛吹雪だというのに、私は汗をだらだらかいてしまいました。それでも小池さんの機転でインターネットによるJAL1便の手配が出来、チケット発券場でとりあえずチケットだけは確保できてホッとしたのです。

 羽田は欠航の影響やキャンセル待ちの客でかなり混雑して、チケットも1時間半以上長蛇の列の中に身をゆだねて苦労の末のチケット確保でした。さあ次は宿の確保です。電車で品川まで行き駅周辺のホテルを探しましたが、土曜日と重なったため何処へ行っても満室で断られ、思い切って浜松町の駅周辺の宿を探しました。結局は6件目にしてやっと安住の宿を見つけることができました。普通だと思いきって別の場所へ移動するのですが、明くる日の飛行機が早朝7時45分出発のJAL便なのでモノレールに近い所に取れてここでもホッとしました。

 昔なら、また平日なら友人を誘って飲みに繰り出すところでしょうがあいにく土曜休日、また酒を飲めない私としてはそれもできず、夕暮れも迫ってきたので、ぶらり散歩を楽しみました。

若松進一ブログ
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 最初に行ったのは芝の増上寺と東京タワーです。特に東京タワーは完成以来50年半世紀ということで、かなり宣伝されているようなので歩いて行きました。そんなことを反映してか多くの人がチケットを求めて並んでいました。さっきまでチケットを求めて並んだ悪夢頭にあって、登ことを諦め、猿の大道芸などや似顔絵描き、土産物などを見やりながら増上寺界隈を散歩しました。

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 私は海人なので海が大好きです。そこから東京湾の初芝桟橋まで歩きました。港はとても穏やかで、少し肌寒いものの客船が停泊し、遠くには東京湾にかかるブリッジも見えて長閑な雰囲気を味わうことができました。何年か前三宅島へ講演を頼まれて出かけた折はここから船に乗り込みました。あのとき出会った皆さんはその後元気で過ごしているのだろうかとふと思い出しながら物思いにふけりました。

 帰り際、いつも気になっていた恩賜公園が開門していたので、5時までで閉門を確認してチケットを買い求め中に入りました。この公園は島しょ部センターに泊まった折窓越しに見える公園で、いつかは訪ねたいと思っていたのでラッキーでした。園内は東京都心とは思えない静かさで別世界のようでした。梅の花も満開で公園の中の池には沢山の野鳥が羽根を休めていました。

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 飛行機欠航という思わぬハプニングに見舞われながらも災い転じて福となすような至福の時を過ごすことができました。明日は早立ちなので食事をした後早々宿に入り、風呂に入って久しぶりにに旅先でのんびりした時を過ごしました。

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shin-1さんの日記

○国立大洲青少年交流の家の運営委員会がありました

 私は若いころ青年団活動に熱中しました。8年間の活動の締めくくりは、愛媛県青年団連合会長と四国四県青年団連絡協議会の会長をしましたが、その折国立大洲青年の家の誘致運動に深くかかわりました。その結果同じ四国ながら室戸とその候補地を争い、結果的には大洲に青年の家が建設されたのです。当時は骨肉の争いで、当時の文部大臣坂田道太さんの来県を促し、県知事白石春樹さんも大洲市長村上清吉さんも大層熱を入れてくれたお陰で成果を得ましたが、早いもので昭和49年に建設されてから30数年が過ぎたのです。以来私は千年の家の運営に深くかかわり、また自らも青年の家の講師になって青年の指導をしていました。

 時の流れとでもいうのでしょうか、青年の家の対象にすべき青年の力はその後急速に衰え、主たる利用者が青年から少年になったのです。数年前青年の家が独立行政法人になったのを機に名称も青年の家から青少年交流の家に改称されました。それでもこの施設を存続しなければならず、私もその片棒を担がされて運営員の末席に名を連ね、委員長まで引き受け今日に至っているのです。

 昨日はその運営委員会があり、様々な問題について短い時間ながら話し合いました。青少年交流の家の説明だと他県の青少年交流の家よりも高い利用率を誇り、屋さんや人員を削減される中で孤軍奮闘大きな成果を上げているのです。その話を聞くたびにわがことのように喜べるのです。

 大洲青少年交流の家は30年も通い続けていると、もう家族のような人たちばかりで、まるで自分の家のような雰囲気で過ごせるのです。この一年だけでも何度通ったことでしょう。所長さんは替わられましたが、新しい所長さんもアットホームな方で、次長さんともども職員の皆さんにはご厚誼をいただいているところです。

若松進一ブログ(昨日の運営委員会、委員長席に座って司会進行をさせてもらいました)

 時代の流れとでもいうのでしょうか、交流の家の運営も随分様変わりして、夜はお酒が飲めるようになりました。若いころ隠れて飲んだヒヤヒヤドキドキの思い出は忘れることができません。また食事もバイキング方式でかなりのバリエーションとボリュームです。私などは毎回食べ過ぎるのです。昨日もお昼だというのにラーメンとカレーを食べてしまいました。

 昨日は大洲市の人権教育の大会があって300人近くが利用されていて、多くの知人友人に会いました。これもこの施設ならではの大きな恩恵です。年齢的に少し青少年交流の家とは縁遠くなるような一歩下がった気持になっていますが、この施設に行くと何故か自分の体内に今やれる青春というべき不思議なパワーをいただいて帰れるのです。もう少し頑張ろうと昨日も思い、施設を後にしました。

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shin-1さんの日記

○早起きはしたものの旅先の飛行機便が心配です

 毎日夜寝る時間は12時ころ床につき、いつの間にか眠気を催し深い眠りを楽しんでいます。寝る前に今日は何時に起きようかなど考えずに寝るのですが、長年の癖とでもいうのでしょうか、あるいは加齢のせいでしょうか、朝4時という早い目覚めとなってしまうのです。「じゃああなたは差し引き4時間しか寝ていないじゃない」といわれますが、その通り私は毎日4時間しか寝ない暮らしがもう40年くらい続いているのです。「へえー、よくそんな短い睡眠で体がもちますね」と聞き返されても、これが自分の暮らしのリズムなので、別に何ともないのです。私より1時間早い11時に寝て、私より2時間遅く起きる妻は7時間睡眠タイプで、その差は3時間もあるのに、結婚以来ずっと同じ布団に並んで寝ているのです。妻がいうのには「あなたは今寝てないと将来寝不足になって、老後は必ず寝たきりになる」といわれていますが、そんなことはないと豪語して今日まで生きてきました。毎朝妻に対するモーニングコールの役目は私なのです。

 今日から4日間北海道美幌町の招きで講演に出かける予定なので、妻の強制的就寝時間厳守に遭い11時に床につきました。妻にしてみれば旅立つ夫のために少し早く起きて朝食を食べさせ、4日間も飛行場へ車を置くことは無駄だと、飛行場へ送迎すると言い張るのです。妻は同じ時間に寝ましたが私は1時間早く寝ました。早く寝ると少しリズムが狂うだろうと思いきや今朝も午前4時に目が覚めました。しかし妻が言うように昨晩は普通より1時間も長寝ができたのです。目覚まし時計の力も借りず、私の体内時計は確実に朝4時に起きるようセットされているようです。

 今日の一番の心配ごとは羽田を経由して北海道女満別へ飛行機が飛ぶかどうかが心配の種です。昨日はこちらでも春のあらしが吹き荒れました。春の嵐といっても春一番のような南風ではなく、北西の季節風なのです。昼ごろから強くなった北西の季節風は、国立大洲青少年交流の家での運営委員会が終わって帰る頃には瀬戸内の海も大荒れでした。北西の季節風が海岸国道に容赦なく吹きあげ、車のフロントガラスは真っ白に塩水がへばりつきました。夕方7時のNHK天気予報によると明日も低気圧が発達して目的地である北海道は大荒れの天気のようです。こちら四国では「春のひして(一日)西」といわれるように、春の北西の風は一日で収まるようなのです。その通り今朝は大風も止んで静かな朝を迎えました。


 はてさて、羽田までは何とかいけるのですが、そこから先は先が全く読めません、今日はあらかじめ主催者から送ってくれたいる女満別までのチケットで飛行機に搭乗する予定ですが、飛行場で足止めされることも予想され、ひょっとしたら東京泊まりになるかも知れないのです。さて今日は移動日ながら土日なので満席の場合はどうしようかと、様々な想いが頭をよぎっています。主催者からはそのことが心配で昨日も電話がかかっていて、携帯電話の番号も聞いているので、何とかなるかも知れないのです。

 ここからだと北海道は遠いです。ましてや東京から代替の交通機関も目途が立ちません。心配の種は尽きませんが、とにかく妻の力を借りてさあ出発です。

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shin-1さんの日記

○忘れていた人と覚えてくれていた人

 人間はどうやら忘れるように出来ている動物らしく、この歳になると昔のことなどといわず、昨日のことまでも忘れてしまっているのですから始末に負えません。おっと失礼、これは人間全てではなく私個人のことでした。例えば昨日の夜何を食べたかと妻に聞かれると、はてな?と首をかしげ、食べた物の全てを思い出すことができないのです。そこで妻に一言「人間は忘れるということで頭の中の掃除をして空っぽにするから、新しいことが吸収できるのだ」と、説得力のない言葉を発して威張って見せますが、まるで効き目がないのです。

 昨日講演のためにお邪魔した新居浜市大生院公民館で、講演の前に講師紹介という形で、角田さんが私との出会いについて話されました。角田さんが私と出会ったのは平成10年9月4日・5日、双海町で開かれた全国レクリェーション大会ネイチャーレクレーション分科会だそうです。偶然出くわして飛び入り参加して私から竹トンボを強引に貰って帰ったそうです。そしてそのあくる年の11年9月4日に下灘駅での夕焼けプラットホームコンサートに参加し、その日に山の上の廃屋で開かれた開かれたフロンティア塾・朱夏塾にも参加したそうです。そこで知り合った木・林・森会(大洲市柳沢」の皆さんの指導で大生院にホタル保護活動が始まり、今のほたる祭りが定着したようで、芋づるの元をただせば私との巡り合いに行きつくのだそうですが、残念ながら私は角田さんの存在を失礼ながら全く記憶していないのです。

若松進一ブログ(角田さんが作った素敵な講演会場のステージ)

 昨年11月、国立大洲青少年交流の家で開かれた青少年社会教育ボランティアの研修会で角田さんと会っているのですが、副実行委員長を務めて運営に携わり忙しくしていたためここでも角田さんの存在を認識するには至りませんでした。

 大会が終わりアッシー君をしてくれたえひめ地域政策研究センターの松本研究員と二人で帰路、長浜町白滝のもみじ祭りを見学に立ち寄りました。その折同じように別行動で紅葉見学をしていた角田さんが、私に「今回の大会は楽しかったですね。近いうちに新居浜へ講演に来ていただきませんか。お金がないので些少しかお礼ができませんが何とかならないでしょうか」と声をかけてくれたのです。私は「はいはい、私で良かったら喜んでと、別れました。

 今年に入った1月8日角田さんは私の自宅までわざわざ来られて、講演の打ち合わせを行い、昨日の感動講演会と相成ったのです。私が忘れている出来事を克明に覚えている角田さんの真摯な態度に頭が下がりましたが、私はこれからも角田さんのことを一生忘れてはいけないと心に誓った次第です。

 角田さんは青少年が大好きで、これまでにも様々な活動を展開し、これからもあんなことがしたい、こんなことがしたいと夢を語っていました。そのためには身軽く動くことをモットーにしていて、私に最初に講演依頼した足で長浜町豊茂のイルミネーションを見に行き、それがご縁でイルミネーションの電球を寄付し、交流が深まって、今晩は長浜町の川新という料理屋でフグ料理を食べながら交流するのだといっておられました。多分今頃は豊茂の皆さんとフグのひれ酒でも飲みながら楽しい交流に発展していることでしょう。

 人を覚えることは容易なことではありません。人に覚えてもらえるような人間になるのもこれまたこれまた容易なことではないのです。私の目の前に現れ、私の目の前から去り、私の記憶から消え去った人の数はどれほどあるか分かりません。もう少しスローな生き方をして、もう少しいい出会いをして、もう少し記憶に残る人間関係を築きたいと改めて自覚した一日でした。


  「覚えても ないのにあなた 覚えてる 嘘などつかず 覚えにゃならぬ」

  「十年も 前にあなたと 出会ってる 記憶辿るが 思い出せずに」

  「ああ俺も ぼけたもんだと 歳のせい してみたものの 何の効き目も」

  「記憶力 俺はいい方 自慢して これまで生きた これからは駄目」

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shin-1さんの日記

○昨日は昼食を食べるのを忘れていました

 昨日は昼過ぎから久しぶりの雨が降りました。午前中愛媛大学農学部に出勤し、シラバスを作成する作業に追われていましたが、熱中し過ぎて昼食を食べるのを忘れてしまいました。私の場合昼食を食べるのを忘れることはよくある話なので、妻はそのことが気になっているらしく、急遽勤めている歯科医院が院長さんの都合で午後急に休診になったらしく、一緒に食事でもしようと電話がかかってきましたが、あいにく舞たうんという雑誌の100号記念誌の巻頭言原稿の訂正が入り、妻からの申し出をけって昼食時間に手直しをしました。手直しといっても少し多めに書いた原稿を短くとの指示をえひめ地域政策研究センターの清水さんから受けたのです。私は原稿はどちらかというと早書きの方で、依頼を受けたら直ぐに書くよう心がけているのです。でないと仕事に追いかけられて結果的にあたふたしたことが過去何度もあったため、極力そう心がけているのです。


 私は長い文章を書くときは何点か項目を起こしてから書き始めるのですが、巻頭言などのような短文はそんなことはせず一気に書き上げるのですが、長い文章もさることながら短い文章も、舌足らずになるようで難しいものです。今回の原稿はA42枚程度ですが、それをA41枚半程度に圧縮しなければなりません。巻頭言なので写真の挿入を押さえて少しでも長い原稿にしようと、清水さんに最後まで抵抗して手直しを試みました。スリムになった原稿を見て、読者が読んだら何を言いたいのか分かりづらいと思いつつ、とりあえず手直し原稿を大学から送ってみました。はてさて清水さんの、また読者のお眼鏡に叶うかどうか少し不安ですが、何とか一件落着です。

 昨日は大学生協の若い店員さんと連絡がついて、荷物だけが届いていたプリンターの接続作業にやってきてくれました。パソコンに接続しソフトの入力作業が完了し、試し印刷をして帰って行きました。これでパソコンで文章作成ができ、Eメールも取得して送受信可能となり、しかも作成した文章がプリントアウトできて、一通りの作業が研究室でできるようになりひと安心です。

 原稿を送り、シラバスの作業が一応終わったので研究室の電源を落とし出ようとすると、内子の森本さんにローカでばったり出会いました。彼も客員準教授という称号をいただいていて、私が前回の教授会で紹介を受けたように、昨日は教授会であいさつをするため来たのだといっていました。しばらくの間再び室内に入り雑談をしましたが、彼は道の駅からりを退職してから自営の農業をしているようで、これから夏野菜の作付が始まるようで、忙しそうでした。私のように儲けない農業(農業といえるかどうか)は楽しいのですが、彼のように儲けなければならない農業は大変だとしみじみ思いました。大学も私や森本さんのような実践肌の人を活用して色々としかけているようです。その期待にこたえなければならないと森本さんと話し合いました。

若松進一ブログ

 大学を出る頃は雨もかなり強くなりました。それでも夕方は新居浜の大生院という地区公民館で開かれる感動講座に招かれているので、一般国道11号線を走って新居浜へ向かいました。西条インターの近くだと聞いてはいましたがカーナビに公民館の電話番号で入力し車が込むこともなくスイスイ走りました。

 公民館では角田さんとみゆきさんという女性の二人が出迎えてくれました。そしてみゆきさん手作りの美味しい料理をいただきました。ブロッコリーのスープも、グラタンも、焼きたてのパンもデザートもビーフも全て最高の味でした。次々と訪れる参加者と言葉を交わし、やがて講演が午後7時きっかりにスタートしました。直野さん、武田さん、関さん、加藤さん、藤田さんなどなど数えれば切りがないほど沢山の人が続々やってきて、最初は雨の影響で少なめだった会場は満席になっていました。

 角田さんの計らいで素敵な舞台設営もできて楽しく話すことができたことを感謝しています。

  「手作りと 思えぬ馳走 並べられ 昼飯食うの 忘れた分も」

  「壇上の 飾りに思う 思い入れ 熱入れ話し 恩を返した」

  「友人が 続々参加 面映ゆい 私の話 熱心聴きて」

  「文章を 縮める作業 難しい どこを削ろか 思案六歩で」

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