shin-1さんの日記

○田舎の変化の中で

 田舎のあちこちに空き家が目立つようになりました。私たちが子どもの頃は戦後間もないこともあって、貧乏ながらみんな純朴で、人の活気が村々に満ち溢れていました。私たちが過ごした青年期もやはり同じようにみんな楽しい日々を将来の夢を見ながら暮らしていたのです。

 あれからそんなに時間は経っていないと思うのに、今の社会には不景気や閉塞感が漂い、自分の住んでいる町でさえ何か縮んで行くような感じがするのです。人口が減って過疎化が一段と激しくなり、高齢化が進んで手押し車を押して歩く老人が増えてきました。また子どもの歓声が聞こえなくなり、学校は空き部屋が目立って来年度からは、わが母校である中学校が廃校になろうとしているのです。商店街はまるで歯抜けで買い物や食事すら満足にできないようになりました。街の中心であったはずの役場や農協、商工会も合併支所化して、この町に住むことの不安や将来への不安をを誰もがブツブツ「町が潰れる」と、諦めの言葉を述べているのです。

 数日前えひめ地域政策研究センターの出向研究員が、この春出向元へ帰るにあたって、研究の成果や心情を発表する会に参加しました。その席で考えさせられる話を聞きました。

  〈豊かさと幸福を問い直す〉

 第二次大戦後、わが国は豊かな国となり、人々が繁栄と呼ぶ状況を生みだした。

 私たちは、あまりに簡単に幸福になりすぎた。

 人々は、それは公平であるか否かを議論した。

 私たちは戦争を回避し、工場を建設し、そこへ農民の子どもが働きに行った。

 農業社会は解体され、私たちの国は新しい国になったが、人々が本当にわが家にいるといった感覚をもてたか

 どうかは確かでない。

 1950年から60年に至る10年間に、毎日30戸の小農家が閉業するというスピードで、わが国の農業が終焉し 

 た。

 人々は大きな単位、大きなコミューン(市町村)を信じ、都市には将来にわたって労働が存在すると信じた。

 私たちは当然のことながら物質的には豊かになったが、簡単な言葉でいえば、平安というべきものを使い果たし 

 た。

 私たちは新しい国で、お互いが他人同士となった。

 小農民が消滅するとともに、小職人や小商店が、そして、病気のおばあさんが横になっていたあの小さな部屋、

 あの小さな学校、あの子豚たち、あの小さなダンスホールなども姿を消した。

 そういう小さな世界はもう残っていない。

 小さいものは何であれ、網けが少ないという理由だった。

 なぜなら、幸福への呪文は〈儲かる社会〉だったからだ。

                                     スティーグ・クレッソン(Stig Claesson)

 

 この文章を読んで私はショックを受けました。外国の状況を書いた文章なのに今の日本の現状に、余りにもぴったり当てはまるからです。私の住んでいる田舎は最早自助努力で地域が活性化できるような余力はもう殆ど残っていないのです。にもかかわらず政府や自治体は、相変わらず参画と共同などと言葉では言っていますが、こんな田舎を見捨てようとしているかのように見えるのです。

 私は小さな町の小さな役場に35年間も勤めました。そしてこの町を何とかしたいという思いからその大半をまちづくりという仕事に深くかかわってきました。私が役場を辞めてからまだ4年か経っていないのに、地域はこのあり様で縮んでいるのです。

 焦る気持ちと諦めの気持ち、そして私だけでも何とかしなければという使命感の交錯する中で今を生きています。私に残された時間はあまりないかも知れませんが焦りや諦めよりも使命感に燃えてもう一度アタックしたいと、清水さんの話を聞いて思いました。


  「ふるさとが だんだん縮み このままじゃ おいおい細り 消える待つのみ」

  「平安を 使い果たして 平気なの? 子や孫今後 何を縁に」

  「日本人 儲かることを 追い求め 心を捨てて 生きてきたかも」

  「不幸だと 言葉じゃ言うが 幸せよ 飯も食えるし 年金だって」  

 

               

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○いただいた小田和正のCD

 車に乗るとまずカーラジオのスイッチを入れます。私の場合忙しく毎日を過ごしているため、テレビでニュースを見る時間が殆どないため、余程のことがない限りNHKにチャンネルを合わせて、運転をしながらラジオのスピーカーから流れてくる様々な話題を拾うのです。NHKだと国会中継や野球の中継などがない限り30分に一回はニュースが流れるので、たとえ近くの松山へ行く場合でも2回ぐらいはニュースを聞けるようです。

 ところが私の車を供用している妻は私と意見が合わないのか勝手にCDやカセットテープを持ち込んで、それらをせっせと聞いているのです。前日孫と映画を見に行った妻は、私のいないことをいいことに、CDもカセットテープも入れたままで車を車庫に入れていました。そんなことを知らない私は昨日大学へ出勤するため車を運転しながらカーラジオのスイッチを入れると、何やら懐かしい歌声が挿入していたCDから流れてびっくりしました。

 ♭もうすぐ春~ですねえ、ちょっと気取ってみませんか~♯、ご存じといってももう古いキャンデーズの歌です。古いと言っても私たちとは世代の違う歌ですから少し若くなったような気分で、しかもこの曲が流れる間、わが町の海岸線に咲き始めた桜を横目に見ながらですので、まさにこの歌はBGMのような感じで、間もなく満開の桜が咲くであろうことを思いました。

 昨日は友人の清水さんが外出先での仕事の途中に大学の研究室へ立ち寄ってくれました。その折先日の発表会で聞かせてもらった小田和正の「今日もどこかで」というCDを持ってきてくれました。清水さんは発表のしめくくりとして、私たちに心の代弁としてこの歌を聞かせましたが、いい歌なので何人もからリクエストがあったようでした。私は帰り際、妻の挿入していた「もうすぐ春ですね」を取り出してカバーにしまい、このCDと入れ替えて聞いたのです。

 小田和正といえば人気のアーティストです。私のような年齢でも随分フィーリングが合うのです。実は妻のCDや変えっとテープは殆ど次男と三男のお下がりなのです。その中には小田和正や松山千春の歌もあって、それらの歌は私も時々聞いていますが、何故かいい気持になります。

 小田和正といえば、私がNHKの人間マップという番組に「夕日を売り出せ」というタイトルで30分間全国放送された折の、出だしのテーマソングが小田和正の歌でした。忘れもしません1995年9月14日PM11時30分からの番組でした。

若松進一ブログ

 「♭君と初めて会ったその日から 自分が変るのがわかった~♯」。この歌の題名が何であるかも分からぬまま今日に至っていますが、自分の書斎の書棚の中にひっそりと置いてあるこのビデオテープはその後見ることもなく時が過ぎていいます。息子に頼んで小田和正のこの歌をラジカセに吹き込んでもらい何度となく車で聞いた事さえも記憶の彼方に消え失せていました。

 今の私は歌を忘れたカナリヤかも知れません。日々の忙しい暮らしに悩殺されて、歌を聞く余裕さえもなくなっていました。いただいた「今日もどこかで」というCDを聞きながら、久しぶりに音楽で癒されました。清水さんありがとうございました。


  「一枚の CD貰い 車中にて 聞いて癒され 家路を帰る」

  「いつの間に 歌を忘れた カナリヤに なったのだろう 歌を再び」

  「思い出す 小田和正の 歌ともに 全国放送 十四年前」

  「歌を聞き 思いめぐらす 春の日は 桜まもなく 満開迎え」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○久しぶりに煙会所へお客様

 この30年、私のホームグランドとなっていた私設公民館煙会所は、人間牧場の開設とともに軸足がそちらの方に移ったため、ごく親しい人の寄り合にしか使わなくなっていました。使わなくなったというよりリクエストがあってもお断りをしているというのが正しい表現かもしれないのです。そんな訳で多少埃をかぶっているような感じがしていました。昨年の秋地元奥東のおばちゃんたちが人間牧場へやってきた折、「次回は煙会所で夕日徒然草・水の書に書かれた落語を聞きたい」という約束があったので、今日は朝から煙会所の掃除を一人でやりました。囲炉裏の部屋の畳を雑巾がけしたり、トイレの掃除をしたりしながら「施設というのは人間が使わなければ駄目だなあ」と思いつつ掃除をしたのです。昨日2時間、今日2時間の掃除ですっかりきれいになりました。本当は障子の張り替えをしたかったのですが間に合わず、一個所小さな破れが気になるものの座布団を出したり、囲炉裏に炭火を入れ、すっかりお客さんをもてなす準備が終わったのです。

若松進一ブログ

 昨晩妻と最初の日程が奥東の都合で変更になったため、23日だったか24日だったか記憶が分かれました。私は24日が23日、妻は23日が24日と記憶しているのです。こんな場合案外私の聞き間違いが多いのですが、今回は私のメモに軍配が上がったようでした。妻は昨日孫を送って行って帰りが遅かったため少し疲れ気味の様子でしたが、午後8時過ぎになって台所で何やらゴソゴソしているのです。聞くと来る予定の8人のおばちゃんのために、天草を使ったフルーツゼリーを作っているのです。私は疲れているからいいと言いましたが、妻は「そんなこと言ったって」と手早く作るのです。最後の布巾袋で天草を漉す作業は一人でできないので手助けをしました。オレンジジュースや砂糖を入れ、そしてパイナップルやアップルの缶詰に加え、はるみというみかんを3個むいで薄皮を丁寧に取り、広い4つのタッパーに流し込みました。

 妻は手慣れていて簡単そうに見えますがこれは中々のもので、夜寝る頃に冷めたゼリーを冷蔵庫の中へ入れて一晩寝かせると、美味しいフルーツゼリーが出来上がるのです。

若松進一ブログ

 おばちゃんたちは約束の10時に2台の車に分乗してやって来ました。おばちゃんは全員子供のころから顔見知りの人なので、別に気兼ねなく海の資料館海舟館や私設公民館煙会所などを見学してもらいました。同じ町内に住みながら私の家に来たのは初めての方ばかりでした。そのうち煙会所に上がってお茶を飲みながら囲炉裏を囲み雑談に耽りました。

 この日のおばちゃんたちの目的は夕日徒然草・水の書の落伍を聞きたいのです。人数分高座本を用意してお話を始めました。今日は福祉施設に入った身近な人たちの話が出たものですから、早速高齢化問題を取り上げ、手身近に4~5話話をさせてもらいました。どなた様も加齢が次第に進み、他人事でない話は大いに盛り上が、あっという間に2時間が過ぎてしまいました。「春が来たことを手放しでよろこべない年代になった」と少しさみしげに話すおばちゃんたちは、また会う約束をしてわが家を後にしました。

  「また来たよ また来たかいと 挨拶し 囲炉裏囲んで 楽し談笑」

  「春が来た またひとつ歳 重ねると 笑いながらも どこか寂しく」

  「座椅子持ち わが家訪ねる 高齢者 座ることすら 苦痛ゆがめて」

  「久し振り 笑顔楽しき 時過ごす 笑うことなど 忘れていたな」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○日本人の暮らしには旧暦が一番

 毎朝台所に吊るしてある日めぐりカレンダーを、一枚一枚破り取る度に日々の過ぎて行く速さに驚き、「歳をとると一日があっという間に過ぎて、今日は3月も下旬か」なんて会話を妻と毎日のように交わしているのです。破った昨日の3月22日という一枚はもう永久に帰って来ないのですが、破り捨てようとしたハガキ一枚ほどの紙は、日曜日だったゆえ真っ赤な字で書かれ、沢山の言葉に交じって旧暦で2月26日と記されていました。

 私たちの暮らしは殆どが新暦で回っています。何をするにも新暦なのですが、農業や漁業に縁の深い私たちの地方では、なくなったはずの旧暦がしっかりと生きているから不思議です。地球に最も影響を及ぼすのは太陽と月です。一年365日で太陽の周りを公転する動きもさることながら、毎月一回地球の周りを回る月は、潮の満ち引きに大きく関係し、あらためて宇宙の不思議を思うのです。海で漁をする漁師さんにとって月齢は重要な意味を持っています。満月と新月は一ヵ月のうち最も潮の流れが速く、特に春先とお盆の頃は特に大きく塩が膨れ上がるのです。潮の読み方一つで魚がたくさん取れて大漁になったりするのですから、潮をよむ第六感がたけている人は大きな収入を得ますが、逆に潮のよみを間違えると網を破ったりして散々な目に遭うのです。

 最近はレーダーや魚群探知機が普及発達し、GPSを使えば魚礁などのデーターがインプットされていて、かなり正確な漁業が営まれるようになってきましたが、その分潮をよむ技はどんどん低下しているようです。

 私も若いころ7年間漁師をして潮をよむ名人といわれた親父のもとで修業をしました。潮をよむ技術は体験以外から学ぶことはできず、むしろ盗みとらなければならないのです。残念ながら病気がもとで漁師の道を断念しましたが、もし私があのまま漁師を続けていたらどんな技を身につけたのだろうと思いながら、今はすっかり用をなさなくなった旧暦の暦を見るのです。

 漁業ほどではありませんが農業の分野でも旧暦の暦は作業の中に生きていて、種まきや収穫などに関する農作業のことわざは殆ど旧暦で言われています。「八重桜が散ったら霜の害はまずない」などという言葉も、冷害に悩む農民の暮らしをよく表現しているのです。

 今は昼と夜の長さが同じ春分の日前後です。昼の長さが最も短かった冬至(12月22日)と比べると、約2時間も昼が長くなっているのです。一日一日の夜が明ける時間はそんない変わらないのに、月日の積み重ねが大きな変化を生んでいるのです。春分の日が過ぎると春は一気に駆け足でやってきます。早い遅いと一喜一憂した桜も、昨日の温かい雨風で一気に開花が進み、この週末には桜の花見を楽しむ人たちで賑わうことでしょう。

 わが家も親父の体内時計のように長年にわたって組み込まれた旧暦の暦のお陰で、今年も様々な農作業が行われます。既に「椿さんが終わるとジャガイモを植える」とか、「春分が来ると里芋を植える」という親父の言うとおり植えました。ジャガイモは既に芽を出し始めていて、畑へ行くのが楽しみになってきました。今年こそはと昨年の失敗を繰り返さないよう種まきの時期を考えています。

 これからも新暦の下に言いわけ程度に書かれている旧暦の暦を見ながら暮らしたいものです。

  「日めぐりの 言いわけ程度の 旧暦を 大事にわが家 今年も作業」

  「染みついた 親父の体の DNA 旧暦元に 今も暮らして」

  「そういえば なるほど思う ことばかり 故事ことわざに 旧暦生きて」

  「この町は 農業漁業 生きている 人が多くて 旧暦標準」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○孫が発見、茶褐色のアマガエル

「おじいちゃん大発見、早く来て」と朝の散歩から帰った孫がけたたましい声で私を呼ぶのです。「どうした」と誘われるままに玄関先から外へ出てみました。孫の指さす方向はわが家の長い塀の中ほどでした。指さす方の塀に一匹カエルがくっついているのです。「えっ、桜も咲かないのに早くもカエルが?」と目を疑いましたが、カエルは冬眠から覚めたようなのんびりした動きで、周囲の騒ぎを察知しながらも悠然と直立の塀を登っていました。

若松進一ブログ(孫朋樹が撮影した冬眠から覚めたアマガエル)

 松山に住む孫は来月には小学校に入学するのですが、只今のところ虫類に興味があって、卒園も終え「春休みになったので遊びに来ないか」と誘いました。孫は電話の向こうで開口一番「おじいちゃんどんな虫がいる?」と、どうやら双海へ来るのは虫に出会いたいからだと分かりました。「今はまだ冬だから虫はまだ出てこない」といえば、「幼稚園の先生がもうすぐ春だと言っていた」と食い下がるのです。「何か見つかるかも知れない」とお茶を濁しましたが、はてさて戸外へ出ても長著も飛んでいないし困ったことだと思っていました。

 昨日は偶然にも高知県の木下一家がやって来て動物のことなどすっかり忘れて遊びに講じていましたが、今朝は少し興奮して帰るとの面会と相成りました。このころのアマガエルはこのところの陽気に誘われて土中から出てきたばかりでまだ茶褐色の体をしています。4月下旬になると葉っぱの色と同じ保護色となって河いいのですが、少しグロテスクな体をしていました。

 孫にせがまれデジタルカメラを取り出し、自分で写真を撮りたいというのでカメラを渡しました。何枚か撮影したようでしたが、いつも手元がぶれるので、殆どがピンボケ状態でした。ズームアップした一枚が何とか使えそうなのでパソコン画面に取り込みました。孫は今年から小学一年生になるのでデジタルカメラをお父さんから貰って、動物図鑑を作るのだと張り切っています。親の手助けがなければできないのでしょうが、やる気でけは満々なので、これからこまめに小動物に出会わせてストックさせたいと思っています。実はこれが第一枚目ではなく昨年の秋に人間牧場で団子虫を自分で撮影しているのです。これもピンボケの中の一枚をストックしているので、合計2枚になりました。青虫や毛虫、ナナホシテントウムシ、オタマジャクシなども撮るのだと張り切っているようですが、はてさて子どものたわごとですのでどうなることやら・・・・・。


 わが地方では作夜来から南西の風が強まり、安眠を妨げるような強風が吹きました。今日の天気予報は雨だったので昨日の夕方、急な思いつきで親父と里芋の植え付けをしました。耕していたため草こそありませんでしたが、冬の間に固くなっていたので鍬で掘り起こし親父が耕運機をかけて土をほぐしてくれました。そこに穴を掘り苗屋さんで買った里芋の早生と遅手の2種類を植えました。親父は相変わらず几帳面で、糸を引っ張り一直線にお植えて行くのです。お陰で夕方6時から開かれる予定だった天一稲荷神社の会計監査を10分も送れる大失態を演じてしまいました。

 私の暮らしもまだ冬のバイオリズムのままで動きが鈍いようですが、91歳になる親父は今年の冬を元気で乗り越え早くもエンジン全開で、昨日は7キロ離れた診療所へ自転車で通院するなどエンジン全開のようです。

 お昼頃、西予市の観音水でアマゴの養殖をしている佐藤さんから私の体を気遣う有難い電話をいただきました。電話によるとあれ程元気だった佐藤さんは糖尿病でえらい目に遭ったそうです。今年70歳になる佐藤さんはある雑誌で私の近影写真を見たそうです。昔の私を知っている佐藤さんは私のげっそり痩せた姿を見てただ事ではないと直感し電話をくれたのです。お互いいい歳になったことと無理をしないようにと確認しながら電話を切りました。年齢的にはわたしもそろそろ冬ごもりの年代ですが、91歳の親父や6歳の孫にあやかり、もう少し元気を回復して春を謳歌したいと思いました。~痩せ蛙負けるな一茶ここにあり~ならぬ、~痩せ蛙 負けるな進一ここにあり~で生きて行きましょう。


  「冬ごもり 目ざめのカエル のんびりと 塀にとまって 春寝楽しむ」

  「おじいちゃん 発見したと 大声で 私に見せる カエルの昼寝」

  「春が来た カエル目ざめど わが体 未だ冬まま 気合を入れて」

  「あり難や 自分の身より 友のこと 案じて電話 思わずジーンと」



[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○高知のマジシャンがやって来ました。

 昨日突然高知の木下さんから、「今内子町に来ているのだが会いたいので午後空いているか」と携帯電話が入りました。昨日は春休みになった孫を迎えに行く予定で、会議も夕方からだったので、快くOKの返事をしました。相前後して長男からも電話で、久しぶりの休日なのでやって来るというのです。これは午後から賑やかになるぞと思いながら楽しみに松山に住む孫を連れて帰えりました。

 木下さんは約束通り昼過ぎわが家に到着、息子の家族も交えて木下さんはまるで大道芸のような形で玄関先を会場にマジックを紹介してくれました。息子もマジックに関心があって、会社の忘年会などでは出し物としてやっているようなのですが、木下さんのテクニックには脱帽といった感じでした。

若松進一ブログ(朋樹は不思議なマジックにあっけにとられていました)

 孫の朋樹は同じ年の木下さんの息子さんが演じるマジックに興味があって、他のマジックより金輪つなぎマジックを不思議そうに「何で、何で」と分からない種をしっかりと聞いていました。来訪の記念にと金輪をいただいたものですから有頂天になって、「えー、種も仕掛けもありません。チチンプイプイノプイ」なんて呪文を唱え、何とか様になるほど何度も練習を重ねていました。

若松進一ブログ(5月に出産予定の長男の嫁あゆみを相手にお金の移動のマジックをしていました)

 やがて木下さんは親父の隠居の前の縁側で私へのマジック伝授を始めました。私は落伍に多くはできなくても簡単なマジックを3つだけ教えてほしいと頼んで置いたのです。その小道具は既に年末までに私の家に届いていて、2月の年輪塾に木下さんが来た時に伝授の予定でしたが、残念ながら時間がなく伸び伸びになっていました。素人ながら私は木下さんを師匠にたった一度だけの伝授をしていただいたのです。

 マジックは必ず種明かしがあるのですが、その種が分からぬように自然体でやらなければなりません。手の中から出ては消える赤いハンカチと本の中から飛び出す蝶、それに口の中から出てくるマジックを教えていただきましたが、見るとやるとでは大変な違いです。

 木下さんは息子さんと奥さんの家族3人でやって来ました。奥さんの来訪は初めてなので人間牧場へ案内すべく木下さんの車で出かけました。昨日の人間牧場は暑からず寒からずすっかり春の陽気で、少し黄砂が降って視界が悪いようでしたが、それでも奥さんは感心して周囲の景色や私の想いを聞いたり見たりしていました。奥さんは少しの間病の床にふしていましたが今は回復して元気になっていて安心しました。息子さんと朋樹は誕生日も11月22日と23日の一日違いだけで、気が合うのか盛んにじゃれながら遊んでいました。空のロケーション風呂に二人で入ったツーショットは中々いい感じでした。

若松進一ブログ(風呂の中でいい湯だな~でした)

若松進一ブログ

 穏やかな日差しや春の風を楽しみながら帰り際妹の経営するくじらという主背に立ち寄ったり、菜の花畑を見たりして木下さんの家族は今夜のお宿である松山へ向かわれました。そういえばこの3日間は土曜日を挟んで3連休なのです。私のようにサンデー毎日になった者にとっては無縁なのでそのことをすっかり忘れていました。

 木下さんと入れ替わりに仕事から帰って来た妻を相手に朋樹は「おばあちゃん。種も仕掛けもありません」と習いたての金輪を使ったマジックを早速披露していました。誇張して驚ろいたふりをする様子を見て朋樹はご満悦の様子で、ちょっとした春休みの楽しい思い出となりました。


  「高知から 突然マジシャン やって来る 目を白黒 孫は驚き」

  「誕生が 一日違う 運命を 確かめ合って じゃれつつ遊ぶ」

  「さあ俺も 今日からマジシャン 修行する カバン忍ばせ 全国行脚」

  「三流の マジシャンなって 巡業す 行く先々で 拍手の渦か?(笑い)」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○幸せの尺度は人それぞれ違うもの

数日前、いつも通り大学へ行くため8時30分に自宅を出て、海岸国道を自家用車で走っていました。車が高野川の海楽園跡辺りを過ぎ山手に入ろうとする時、通り過ぎた広場で海を見ている男の人を横目にしたのです。「おや?」と思いつつ対向車線は車が10台ばかり続き、自分の後続も6~7台車が続いていたので、止まることもできず少し走りましたが、どうしてもそのことが気になって「もしや?」の好奇心が頭を道上げたので、広場でUターンして引き返してみました。

 後ろ姿なのであるいは見間違えかも知れないと思いつつ、そっとその人の近くへ車を止めてみると、やはり私が思った通りその人はSさんでした。Sさんは3年前県庁を退職した友人です。現職中は何かと気が合い、特にフロンティア塾には度々駆けつけ学びの輪の中に入ってお互い肝胆相照らす仲でした。フロンティア塾の春は青春塾、夏は朱夏塾、秋は白秋塾、冬は玄冬塾という名前を付けてくれたのも彼でした。また無人島キャンプの看板を達筆な腕に物を言わせて書いてくれたりもしたのです。しかし彼は一匹オオカミ的な性格で、私たちの仲間には入らず、煩わしさから逃れるように退職後は突然私たちの前から姿を消して久しいのです。退職してこの3年間何処でどうして暮しているのか、音信さえも途絶えていましたが、昨年フロンティアグループの世界遺産を巡る旅に同行しみんなを驚かせましたが、それ以来再び雲隠れしてこの日の朝海を見ている後ろ姿を発見した訳です。

 私より年齢は1歳若いのですが頭は白く、私より老けている感じも自任していますが、短い立ち話で近況を聞き、4月の初旬に実施する石見銀山への旅に再び誘いました。快く同行の返事をしてくれた、お互いが健康を気遣いながら別れました。

 彼の実家は西予市です。田舎には歳老いた両親が住んでいるようで、これからそちらへ走ると言っていましたが、彼はまるで仙人みたいな男で、松山へ一人で住んでいることまでは分かっていますが、定職を持たず暮らしていて、私たちと完全に距離を置いた暮らしをしているのです。

 私のように沢山の家族に囲まれ、そして沢山の人と巡り合ったり付き合いながら暮らしている私とは大きな違いです。多分孤独を愛するまるで山頭火のような生き方に憧れ暮らしているのでしょうが、寂しくはなくむしり煩わしくないと胸を張って答えていました。彼の生き方を見てふと私自身の生き方と比較しながら、どちらが幸せか考えてみたのです。


 最近私たちの身の回りには人を恋しがらず生きている人が結構多いことに気が付きました。結婚をせずただ職場と住む場所をただ往復している人、地域社会に暮らしていても隣との付き合いも一切せず家で何をしているのか全く分からない人、何かにつけて文句を言い権利h主張するが義務を果たさない人、地域の集会にも一切顔を見せずボランティアのボの字もやらない人など様々です。

 私のような人間とはおおよそ人種が違うのかと思わせるような生き方なのですが、私には理解出来ないもののそれでも人生はどうにか転がっていくのですから不思議です。付き合いを遮断している分無駄な出費も要らないので、その人たちは結構リッチな暮らしをしていて、自宅には人間を模倣しているかのように犬や猫を部屋の中で飼い、人間以上の愛情を注いでいるのです。

 人間の幸せとは一体何なのか?、いよいよ分からなくなってきました。でも人間の幸せの尺度は人それぞれで、私の幸せの尺度とSさんの幸せの尺度は違うのですから、自分が幸せだと思えばそれでいいのです。これからも私流の幸せを求めて生きて行きたいと思っています

  「幸せの 尺度それぞれ 違うもの 俺には俺の 物差しありて」

  「最近は 人を疎遠に 生きている 人が沢山 田舎にさえも」

  「あの人は 付き合い悪いと 言うけれど それもまたよし 人それぞれに」

  「幸せは 幸せ思う 心にて 心なくんば 幸せ言えず」

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○迷ったら心の羅針盤を信じて進め

 人間は弱い動物で、いつも不安に駆られるものです。何処かへ出かけるとき車に乗ってから「はてさて、電気は消したか、ガスは消したか?」と不安になります。昨日はお彼岸ということもあって妻と二人でお墓参りに出かけました。その足で隣町の昨年の春亡くなった叔父の家へ新彼岸のお供えを持って出かけましたが、妻は車が走り出してから、「お父さん、私ガスを消したかしら?」というものですから、再び引き返して家に帰り確認したのです。結果的にはガスも電気も消されていましたが、この歳になるとついさっきまでの記憶が飛んで、ひどい時などは「はて私は何をしようとしていたのか?」なんてことしょっちゅうなのです。こんな場合は「迷ったら元の道を引き返せ」という格言がピッたりなのです。そうすればたとえそれが無駄な行動だと思っても、結果的には大きなリスクをせずに済むのです。余程なことがない限り電気の消し忘れで火事になることはありませんが、ガスやアイロンとなると話は別で、大火事になる危険性だってあるのです。

 わが家はもう30年も前に小さなボヤ騒ぎを起こしました。私が無人島キャンプに息子を連れて参加した最初の年は、台風にも似た暴風雨で散々な目に遭いました。ずぶ濡れになって疲労困憊した私たちを迎えるため妻は美味しいてんぷらを揚げていました。そこへ私たちが「ただ今」と帰りました。妻はてんぷらを揚げていることより私たちの帰宅に気を取られ、私たちの身の回りの世話に熱中しました。

 ものの4~5分すると家の中に白い煙が立ち込め、ガス台から火の手が上がっているのです。驚いたのなんのって、急いで消火器で消し大火は免れましたが、新築間もないというのに網戸やサッシの一部を焦がしてしまったのです。このボヤは火災保険の適用を受けてすっかり復元されその痕跡は跡形もなくなりましたが、それ以来妻はガスには敏感過ぎるほど敏感になって、出かける度に2度3度確認をするのです。

 私も妻もこんなおっちょこちょいな人に言えない恥ずかしいエピソードを、幾つも秘めながら今日まで大過なく過ごしてきたのですが、お陰さまでガスだけはしっかりと確認する習慣がつきました。

 しかしこんな小さな引き返すことのできることはいいのですが、人生には一度や二度、大きな迷い道へ迷い込むことがあるのです。仕事のこと、夫婦のこと、子どもの人生などなど、人から見れば些細なことながら私にとって修羅場とも思える幾つもの迷い道に迷いこみました。

 その時「迷ったら心の羅針盤を信じて進め」という実習船えひめ丸の船長さんから聞いた話を思い出し、事なきを得たのです。私は宇和島水産高校に学びました。高校3年生の時実習船で南太平洋を航海しましたが、地球の大きさから比べればほんの小さな実習船が珊瑚海を目指し、再び日本を目指す大航海はまさに引き返すことのできない旅でした。「迷ったら心の羅針盤信じて、本物の羅針盤を見ながら進む」えひめ丸の進路は私の人生そのもののだったように思うのです。

 人間は幾つもの岐路に立たされます。その都度迷いその都度進路を決めて生きて行かねばなりませんが、せめて信じる道が正しい方向であるような人生を送りたいものです。


  「迷い道 右か左か 真っ直ぐか 時には勇気 引き返すこと」

  「迷ったら 心に羅針 盤描き 信じる道を ただひたすらに」

  「人生を 振り返りつつ 思うこと いい羅針盤を 持った幸せ」

  「ガス消した? 戻るロスなど しれたもの 大火思えば どうてことない」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○お酒を止めて早9年になりました

 私にとって21世紀が始まった2001年は忘れられない思い出の年でした。この年はおふくろが亡くなり、えひめ丸が沈没し、自らも胆のう摘出手術を受けるなど、内外ともに多難でした。その年からおふくろに誓い、えひめ丸に誓い、そして自分自身の健康のためにあれ程飲んでいた酒を断ったのです。酒も煙草も中々止めれるものではありません。幸いたばこは生まれてこの方吸った経験がないので分かりませんが、つきあいのある酒も中々やめれるものではありません。それは胃ガンで胃の摘出手術をしながらそれでも酒を止めれない人を見ても明らかなのです。

若松進一ブログ (送別会もいつとはなしに大酒飲みの会になりました)

 でも私は「あなたは偉い」と妻が褒めてくれるように私はきっぱり酒を断つことが出来たのです。今はそのきっかけになったおふくろの死やえひめ丸の沈没、自分自身の病気など転機となった悲しい出来事に感謝するのです。元来私は酒が心から好きでなかったのかも知れません。青年団で反吐を吐くほど酒の修業をさせられ、その挙句呑み過ぎたのか病気になり、そのことがきっかけで役場に入庁しました。その後養生のつもりで5年間は酒を止めていましたが、社会教育やまちづくりの世界に没頭するようになって再び酒を呑み始め、2001年まではたらふく酒を呑んだように思うのです。しかし50代の10年間は人間牧場構想を実現するため資金集めの一環として毎月10日間酒を止めその日には呑んだつもりで一日千円のつもり貯金をして10年間で百二十万円を貯めたのですから、自分が自分を偉いと褒めるのです。私の場合0か100なので、呑むのであれば思いきり100、呑まないのであれば0という考えなのが酒を断つことができた最大の要因なのです。

若松進一ブログ (こんなに飲めるとは羨ましい限りです)

 最近まで飲み会は冷たいウーロン茶を飲んでいましたが、ウーロン茶を飲み過ぎると体の調子が悪いようなので、このところは熱いお茶を飲むようにしています。笑い話ですが冷たいウーロン茶はそれなりのお金がいるのに熱いお茶はタダなのです。昨日も熱いお茶を店員さんに不思議がられながら3杯もお代りをしてしまいました。お茶は体に合うのか多少の見過ぎても二日酔いににはなりません。唯一の害は夜トイレに起きなければならないことくらいです。でもビールだって飲み過ぎるとトイレが近くなるし、酒の匂いは飲まなくなって久しい私には少々臭い話になるのです。

若松進一ブログ (岡崎事務局長のエールについほろりとしました)

 酒を飲んでいた頃は10円タクシーと呼ばれた妻の自家用車での迎えや、帰り際のラーメン食いなど暴飲暴食と妻への迷惑は常習でした。お陰でラーメンに付き合った妻はいつの間にか気がついた頃には小太りして、ダイエットに一苦労も二苦労もしたようです。

 「酒を呑まずにまちづくりなど語れるか」と言っていた私が、今では「酒を呑まないと語れないようなまちづくりは本物ではない」と言っているのですからいい加減なものです。それでもふと酒の勢いを借りて仕事をした昔が懐かしく、やはり神代の昔から酒は元気の出る水だと思っているのです。

 多分私は自分自身への誓いもあって死ぬまで酒を呑まないだろうと思います。そのことで少しでも長生きできるとしたら、それはそれでいい終り方だったと思うのです。

  「酒のない 国へ行きたし 二日酔い 三日三晩の 気持ち悪さよ」

  「酒断って あれから九年 経ったのか これから先も 死ぬまで止める」

  「母感謝 えひめ丸にも 感謝する 病気にまでも 感謝忘れず」

  「酔うほどに くどい話の 友人を 見ては昔の 自分と重ね」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○22年間最後の日が終わる

 特別な日と思って臨んだ昨日は直前まで愛媛大学農学部の研究室で仕事をして、午後からえひめ地域政策研究センターの会議室で開かれた、えひめ地域づくり研究会議の今年最後の運営委員会に出席しました。久しぶりに大勢の運営員が参加して賑やかでした。冒頭県庁市町振興課の北村課長さんがわざわざ見えられ、全国大会のお礼のご挨拶をされました。北村課長さんは国からの出向職員ですが、物腰も考えも柔軟な方で、全国大会を巡る様々な場面で物心両面のご支援を受けたのです。栗田所長さんとともに加戸愛媛県知事の大会出席に尽力いただきましたし、東京組との橋渡しや予算獲得に力を発揮していただきました。実動部隊の私たちをが頑張れたのも北村課長さんの力が大きかったと思っています。実行委員長として短めながらお礼のあいさつをさせてもらいました。

 会議は今期限りで退任する私が最後の仕事として司会進行をやりました。私は決められた時間内に終わらせる名人?、迷人なので今回も今年度の事業報告や決算見込みなどの案件を、すんなり進行をすることができました。また今年度が運営員の任期とあって人事案件も議論されましたが、私としては難産の末それぞれの人が退任し、それぞれの人が選任され、新年度の運営委員会で次期役員が決まるような道筋だけ付けて終りました。

若松進一ブログ(今年度最後の運営委員会)

 私にとってもえひめ地域づくり研究会議は結成以来22年間、事務局長や代表運営委員などとしてバトンを持ち続けて来ました。その模様は100号記念の舞タウンという雑誌や、風おこしという機関紙に少し長めの追憶文を書いているので読んでいただければと思うのです。

 まちづくりや地域づくりを目指した私にとって、えひめ地域づくり研究会議での22年は今日が特別な日だと冒頭に書いたように、特別な意味を持っていました。双海町というわが住む町を夕日をテーマに活性化する草鞋と、21世紀えひめニューフロンティアグループの代表として無人島に挑む少年の集いなどのボランティア活動をする草鞋、それに松山工業高校PTA会長(会長6年・副会長1年・常任理事1年・中予地区会長5年・高P連県副会長5年)として活動する草鞋の三足を履いての忙しい日々でした。それでも大過なくフロンティアグループの代表を除いて草鞋を脱ぐことが出来たのは、皆さんのお陰だし、研究会議で誘拐無形の沢山のものを学ばせていただきました。この場を借りて関係者に厚くお礼申し上げます。

若松進一ブログ(私にとっても最後の運営委員会)
若松進一ブログ(熱弁をふるう清水研究員)

 昨日は今期限りでそれぞれの出向元へ帰って行く研究員三名の発表会もありました。坂本さんは久万高原町へ、谷本さんは宇和島市へ、清水さんはJAへと古巣に帰ってセンターで学んだことを生かしてくれることでしょう。

彼らと同じように私もまた研究会議で学んだことを生かして双海という地で恩返しの活動を続けるつもりです。

 坂本さんは色について語られました。純真無垢な色だった彼もこの2年間ですっかり七色を内蔵するまでに成長しました。清水さんは気象予報士の資格を持つ変わった経歴の持ち主ですが、彼の哲学を熱っぽく話してくれました。清水さんとはこの5年間最も近しい人だっただけに、今日からが旅立ちや活動の新たな始まりだと思って協働するつもりです。特に昨年から始めた私塾や年輪塾ネットを武器に新境地を開きたいと思っています。

 会議終了後宇和海という店で開いた送別会は、九州大学の教授となった丹羽さんも加わり賑やかな主演となりました。最後に盟友の岡崎事務局長が応援エールを送ってくれました。また渡辺浩二さんがまちづくり締めを行い、少しだけ後ろ髪を引かれる思いの22年間最後の一日は終わりました。


  「重き荷を 背負い歩いた 二十二年 わが人生の 大半でした」

  「長い日々 過ぎてしまえば 楽しこと ばかり浮かんで 苦しさ忘れ」

  「書き遺し おかねばならぬ 二十二年 記憶あるうち さらりと書こう」

  「記憶など 当てにならぬと 記録する ブログだけでも 私にとって」 


  

[ この記事をシェアする ]