shin-1さんの日記

○何でこんなに忙しいのだろう

 妻いわく、「退職してやっと自由になったから、家にいるだろうと思っていたのに退職して4年間、前にもまして忙しく動き回って、家には殆どいない」と・・・・。そうです。自分でも不思議なくらいあれやこれやと藪用があって、毎日家を留守にしているのです。最近は妻も予定表に私の予定を書き込み、私も台所のカレンダーに一ヵ月分の予定を書くようにしているのです。そうすることで妻は安心するのですが、今朝もその予定表で今日一日の予定を説明してやりました。ちなみに最近は年度始めとあって新任の人たちが、新任あいさつに沢山見えられるのです。その殆どはアポを取って来るのですが、昨日などは何と7組も次々にあいさつに見えられ、本人も余りの多さにびっくりした次第です。

 今日は天気も良いし、明日の午後人間牧場で研修会がもたれれる予定なので、掃除がてら出かけました。「そうだ、今日は草を刈ろう」と急な思いつきで草刈りを始めました。先週水平線の家の周辺は草刈りを終えましたが、人間牧場への入口付近の道沿いが大草で見苦しいので、そこら辺を重点的に草刈りしました。マメ科の植物やハコベが春の暖かい日差しを浴びて勢いよく伸びていて、草刈り機のエンジンが鈍い音を立てて草を刈りながら進んで行くのです。

 草刈りは2時間ほどで終わりましたが、サツマイモの種を伏せているミニ温室のビニール越しに中を見ると、しばらく見ない間に雑草が芽の出た部分を隠すほど生えていました。倉庫から金づちとバールを持ち出して温室のビニール被覆を取り、畳2畳分のサツマイモの種を隠すほどに伸びている雑草を丁寧に引き抜きました。有に30分はかかったでしょうか、すっかりきれいになり、サツマイモの芽もこれで順調に伸びてくれるものと思われます温かくなって春が来たと言いながら朝晩は冷えるため、再びビニールで被覆し横の部分を少し開いて温度が高くならないよう窓をあけました。

 再び草刈りを続け、その後2時になったので食用にフキを採りました。今年もフキは豊作のようで、わが家の分と朝約束をしていた妹に渡す分をかなり多めに採りました。今年初のフキ採りです。茹でて皮を剥き、佃煮にするとこれがとびきり美味く、毎年お茶づけのお供にするのです。このフキは植えた訳でもないのにどんどん広がって、昨年はシーサイドのじゃこ天のおばさんたちや姉や妹におすそ分けして喜んでもらいました。今年もそうしたいと思っています。野も山も春まっ盛りとなりました。今が旬の山菜もその気になって見れば沢山あるのです。

 今日は夕方舞たうん100号の出版を祝う飲み会に誘われ、大いに気を吐きました。実は出版を祝うというのはカモフラージュで、むしろこれからの活動の在り方や自分自身の生き方を考える会でした。年輪塾と宮本常一を考える会の今後の在り方について真剣に話し、いい方向性が出せたように思うのです。浜田・豊田・清水・若松と、最後に小番頭の松本が加わり、焼鳥屋の夜はふけて行きました。


  「忙しい 言いつつ過密 スケジュール 慌てふためき 一日暮れる」

  「忙しい 人ほど暇を 作るもの 俺より上手 周りにいない」

  「理由つけ 結局最後 飲み会に 見え見えだけど 断りきれず」

  「草刈り機 間もなくダウン 寸前に 更なる出費 これはたまらん」

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shin-1さんの日記

○何処へ行っても桜・桜・桜で~す

 この一週間中国地方を旅して来ましたが、何処へ行っても桜の花が満開で、今年くらい桜を見たことはないくらい桜の花を堪能しました。春先から季節外れの寒緋桜やさくらんぼ桜、彼岸桜を見て、吉野桜へと移り、最近は山桜が目につくようになり、昨日は近所で桜餅と桜茶までご馳走になって、もう桜三昧の日々です。

 私の町は私が役場企画調整室でまちづくりを担当していた頃、まちづくり青年会議という組織を発足させました。その時私の発想で海岸国道に桜の木を千本植える花いっぱい運動を提唱して植えました。国道沿いやJR予讃線沿いの空き地に勝手に植えました。というのも「菜の花を植えるので植えさせてほしい」とJRに言ったら、駄目だというので勝手に植えました。大目玉を食らいましたが、種をポケットから落とす妙案で乗り切りました。そのことがあってしばらくしての桜の苗木植えなのでこれまたJRからきついお叱りを受けたのです。でも諦めることなく植えた桜の木がもう20年も経って、今ではすっかり一人前の木になって立派な花の帯を作っているのです。

 ところが桜の寿命は60年とも70年とも言われているのに何本かは枯れたり、急峻な裏山からカズラが伸びてからみつき、木を覆って枯らされたりするものも出始めてきました。役所の関係者にその話をしますが一向乗ってこず、このままだと桜の帯を16キロの海岸線に作る夢は潰えてしまうのです。昨晩その話を妻にすると、「お父さん、いつまでもそんな心配をしないで」と言われましたが、やはり誰かが花守となって守らねば花は咲かないのです。

若松進一ブログ(三島神社楼門の夜桜)
若松進一ブログ

 そんなこんなで桜を見たからでしょうか、昨夜桜の夢を見ました。夢なので余り覚えてはいませんが、海岸線16キロに桜を植える運動をやった私が、得意げになって季節限定のトロッコ桜列車の中で桜の自慢話をしていました。乗り込んできたアナウンサーが「若松さん、16キロの桜の帯は見事ですね。ひょっとしたら日本一かも知れませんね」とインタビューされました。「どうです見事でしょう。これぞオンリーワンの日本一です。桜と夕日は似合いますね」などと自慢していました。ふと夢から覚めて、自分の枕元に置いているメモ用紙に、無意識のうちに「桜を植えたい」と書いていました。私はこれまでにも夢に出てきたことや布団の中で考えふぁ浮かんだことをメモして実行してきました。そうだ「平成の花咲か爺になろう」と決意をしましたが、やはりこの運動は同士を募らなければできないようです。

 昨日わが家へ新任職員とともに訪ねて来たえひめ地域政策研究センターの松本さんが、「若松さん海岸線の桜が見事でした」と褒めてくれました。そうだ松もさんがいる。そして今年から観光の担当になった河本さんと商工会で会ったため、河本さんも米井さんも赤尾さんもいる。久保さんもいると指折り数えて可能な人に声をかけようと思いました。お金は宝くじでも使おうかと勝手に思っているのです。

 今年はもう間に合わないので来年の2月頃植えなければならないので、もう作戦を開始しなければなりません。町を花で飾りたいというまちづくり草創のころの夢がまた少し頭を持ち上げてきたようです。

  「二十年 前に植えたる 桜の木 今は立派な 花を咲かせて」

  「平成の 花咲か爺に なる夢を メモしたからにゃ やらずばならぬ」

  「俺植えた 桜の帯が 今頃に なって咲くとは 息が長いね」

  「あと何回 桜を見るか 指折りて 老いが近づく 桜とともに」

 

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shin-1さんの日記

○名残の炭も使い果たしてしまいそう

 このところわが家の炭事情が怪しくなっていました。というのもわが家の敷地内に設置している私設公民館煙会所が、人間牧場の開所とともに余り使わなかったため、煙会所の囲炉裏に使う炭が余り必要でなかったのです。ところが最近になって相次いで煙会所に知人友人が訪れ、大量に炭を使ったため、急遽人間牧場用としてストックしていた炭まで使うありさまで、やばいと思い始めました。普通囲炉裏は暖をとるために火を入れるのですが、煙会所は暖をとらなくてもいい春から秋にかけてでも炭を入れなければならないために、頭を悩ませているのです。煙会所が華やかに使われていた頃は、年間10俵もの炭を使っていました。ゆえに近所で炭焼きをしているおじさんに無理を言って分けてもらっていたのですが、そのおじさんも天国へ召されたため、炭のご縁がぷっつり切れてしまったのです。

 人間牧場にストックしている炭は、国立大洲青少年交流の家の課長だった田中さんが校長になって転出する際置き土産としてくれたものと、大洲市田処の大杉塾亀本さんが年輪塾の際届けてくれたものなのです。大切に使わなければ罰が当たると思いつつ横流しして煙会所で使ってしまいました。

 文明が炭から油やガスに代わっても、時代遅れな生き方をしているのでしょうか、私の暮らしにとって炭は今も貴重なエネルギー源なのです。最近はアウトドアーな生き方が見直され炭もホームセンターなどへ行けば火付きのよい外国産の炭がバーベキュー用として安く手に入るようですが、やはり炭も地産地消というべきか、クヌギの炭などは火持ちもよく最高に贅沢なものなのです。

 私たちが子どもの頃は、暖を取るのは火鉢に炭と決まっていました。ゆえに寒さに震えた手足はアカギレで膨れていました。いつの頃からか火鉢は石油ストーブに代わり、今ではそのストーブもスイッチを押すと温風が出てくるようなストーブに改良されて、寒さを知らない暮らしができるようになったのです。今朝も少し寒かったため居間のストーブをつけ、今夕もストーブの手助けを得ることでしょう。

 つい最近炭の効能効果が見直されてきました。その秘密は炭の構造にあります。炭には肉眼では見えない小さな穴が無数に開いていて、その細孔は炭1キロ当たりテニスコート1面分にも相当するというから驚きです。この細孔が臭いの成分や水分、有害な化学物質などを吸着したり、有用な微生物の住み家になったりすることで様々な効果をもたらすのです。

 炭には白炭といって炭や木の仕上げの段階で窯の中に空気を送って一気に千度以上にした後、火を取り出して灰や土をかけて急速に冷却したもの(備長炭など)と、黒炭といって四百度~八百度で焼いたものをそのまま室内密閉して冷却したものに分かれますが、最近は竹炭も仲間に加わりました。

 わが家ではご飯を炊くとき備長炭か竹炭を入れます。これは水道水の塩素を炭が吸って炭内のミネラルが溶け出し、米のうま味を出させるのです。

 縄文時代から日本人は科学で解明できる科学を知らぬのに炭の効能をしっかり暮らしに生かしていたのです。われわれの先祖は凄いですね。


  「仲間から 貰った炭も 底をつき 炭なき囲炉裏 寂しかりけり」

  「赤々と 燃える囲炉裏に 顔を染め 夜通し話す 今は懐かし」

  「炭と聞きゃ バーベキューだと 今人は 私火鉢だ 時代遅れか」

  「炭パワー 活かして暮らす わが家庭 ご飯水など 炭で成り立つ」

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shin-1さんの日記

○縁結び出雲の神様

 足の向くまま気の向くままの気楽な世界遺産を巡る旅のフィナーレは、急な思いつきで出雲大社になりました。少し遠回りでしたが皆さんの要望が強かったようなのでお参りすることにしました。石見銀山で昼食時を逸したため、出雲大社前のお店に駐車料無料で入り込み、出雲そばを注文しました。割りこそばは3段重ねでした。私たちは普通のを注文しましたが、湯山さんは食べ放題を注文したようです。食べ放題は次々出てくるのですが、ご覧ください、この食べっぷりと思いきや、実は湯山さんは10杯目であえなく終わりましたが、皆さんが食べたセイロを記念写真にと置いただけのことなのです。そばを食べても大笑い、土産物の見本を持って来させてみんなで食べても大笑いと、団体旅行の醍醐味を堪能させてもらいました。

若松進一ブログ(本当は湯山さんは10杯しか食べていませんでした)

 遅い昼食が終わってさあ出雲大社へ参拝です。境内は老松群の松の緑と満開に咲いた桜が見事に調和して、一年で一番いい季節の参拝となりました。境内ではお花見を楽しむ人たちが幾つも囲いを作っていました。午後2時ころのお参りとあって参拝客もそんなに多くはなくゆっくりのんびりとお参りしました。

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 大社の境内には様々な神話の古里らしいオブジェがあって、天照大神などの銅像が意味深長に置かれていました。天孫降臨とでもいうべき姿に感心しつつ境内を歩きました。

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 同行者の中には4人も?独身者がいるので皆さんそれぞれ賽銭をあげ出会いや縁結びがあるようにお祈りをしていました。私も15円(十分にご縁がありますように)を賽銭箱に入れ、まだ未婚の二人の息子たちのご縁を心の底から祈りました。

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 かくして長かった一泊二日、レンタルマイクロバス走行距離約900キロの旅は、三次市、尾道市、しまなみ海道、今治市を経由して、参加者を転々と降ろし無事終わりました。前日早朝6時半に松山市駅を出発して、再び市駅に着いたのは午後9時になっていました。見送ってくれた妻に再び迎えに来てもらい、二日ぶりにわが家へ帰り手足を思い切り伸ばしました。

 今では団体旅行など殆どしませんが、団体旅行には団体旅行の楽しみがあって、バスの中で近況を聞いたり、これからの生き方を話し合ったり、はたまた馬鹿話に花を咲かせたりと楽しい二日間でした。

 帰宅してメールを開くと土日にも関わらず山のようなメールが届いていました。これも時の流れと思い、メールの処理に2時間もかかってしまいました。

 昨日はデジカメに収めた写真の数々をパソコンに取り出してブログに収めたり、結構忙し一日でした。それでも思い出のページがまたひとつ増えた感じでどことなく豊かな気持ちになりました。


  「パソコンの 画面呼び出す それぞれに 過去になりたる 思い出場面」

  「もしカメラ なくんばこうも ありありと 記憶はないと 文明感謝」

  「過去も良し 未来に生きる 杖となる 今度は何処へ 夢は広がる」

  「今の俺 一番若い 写真にて 大事にブログ 書いて残そう」

  

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○広島から島根へ、そしてまた品根から広島・愛媛へ

 安芸の宮島・平和公園の原爆ドームと世界遺産二つをめぐった私たちは前日の夜、広島へ一泊しました。久しぶりの出会いなので一席交流会を持とうと、広島一の繁華街流川通りへ繰り出しました。

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 夜もふけやらぬ街をみんなで散策して一軒の居酒屋を見つけて入りました。そこで飲み放題のコースを設定しましたが、13人のうち5人までがウーロン茶というお粗末ですから、お店は大分儲けた計算になります。それでもこうしてみんなが集まるのは年に一度の総会と研修旅行だけですからみんな大いに語り合いました。

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 広島の町中も少し不景気風が吹き荒れているようで、土曜日だというのに人の数はそんなに多くないと感じました。飲み会を切り上げてホテルに戻りわが部屋に集まって談笑していましたが、早立ちの旅の疲れなのか、年齢のせいなのかみんな早々に引き揚げて行きました。私は2回のロビーに降りてインターネットに接続しブログを一本書きました。旅先でもホテルによってはパソコンが使えて大助かりです。旅の思いは一瞬ですから書きとどめないと忘れたり感動が薄くなったり、臨場感がなくなってしまうのです。


 あくる朝は7時に昼食を済ませ、7時40分に出発しました。昨日の雨も上がり、天気予報だと知り上がりによくなるそうなので安心して車に乗り込みましたが、中国自動車道や浜田道はところどころ春の霧が視界を遮るほど出ていました。しかしそれも中国山地の峠を越すと晴れて絶好の行楽日和です。

 峠付近はまだ木々の芽吹きもあまり感じられませんでしたが、日本海が近付くにつれて桜の花も7分咲きに代わっていました。今回の旅ではどれほどの桜を見たのか想像もつかないほどの桜を見てきました。

 島根は全市町村を制覇している私の出番で、私がカーナビのように知り得た知識で社内説明を行いました。やがて目的地である大田市の石見銀山の入口にあたる仁摩のサンドミュージアムに到着し、日本一と言われる一年の砂時計を見学しました。普通砂時計は3分、5分ですが、このミュージアムには1年365日の砂時計があるのです。砂時計や砂に凝ったオンリーワンの展示物を皆さんは興味深く見学していました。

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 サンドミュージアムから10分程度で第三の目的地石見銀山に到着しました。私にとってここは2度目ですが、世界遺産に登録されてからは初めてです。ある主興味を持って訪問しました。世界遺産になるとどの地域もまるで大河ドラマのロケ地のように、どっと観光客が押し寄せ、その恩恵を受けるのではないかという期待感があるのです。一方観光客もそれなりの期待感を持って行くものですから期待に外れるとがっかりするのです。多分漏れ聞く石見銀山への期待はどちらも大外れのようです。地元の儲けの目論見は見事に外れました。また訪れた観光客も歩いて散策しなければならないことへのいらだちもあって大いに期待はずれだったようです。

 しかし私のような人間にしてみれば、これこそ世界遺産だと思うのです。観光客にへつらうこともなく、またどこにでもありふれた土産物を売るでもなく自然体での姿にむしろ感動すら覚えました。これはもうブームではないと思いました。これぞまさしく産業遺産なのです。

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 私たちは言われるがまま車を遠い駐車場へ止めて、遊歩道をただひたすら歩きました。途中にはこのような決して立派とは言えない苔むしたお寺や神社がやたらとあって、銀山で栄えた往時をしのばせてくれました。道端にはかつて銀鉱石を手彫りしたであろう間歩といわれる坑口の後があちらこちらにありました。それらは人間は這って歩くほどの狭さが故にその労働がしのばれました。

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 私たちが目指した龍源寺と呼ばれる大きな坑道は、歩けるようしっかりと整備されていましたが、他の地域の遺構のように蝋人形などがあるわけでもなく、余り手が入っていな印象でした。」金や銀といえば価値の目安となるほど重要な価値を持っていました。ゆえに見張りや労役も厳しかったであろうと推察したりしながら、好天に恵まれた長閑な山村の山道をゆっくり往復2時間弱歩いて散策しました。

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 道端にはアオキの真っ赤波が印象的に熟れていました。また歩き終わりの場所には真っ白い今が盛りの花がいっぱい咲いて私たちの歩き疲れを癒してくれました。

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 昨年の熊野古道に続いて今年は欲張って瀬戸内2か所、日本海側1か所の3か所も欲張って世界遺産を見学し、2年間で合計4か所となりました。来年はさてどうするか、皆さんに図ったところ白川郷へ行くことが内定しました。こうして世界遺産を巡る旅を重ねながら歳を重ねていくことも意味があるのかも知れません。

 20年間にわたって青少年の健全というボランティア活動を行ってきましたが、人間牧場での活動を除いて、そろそろ新しい生き方を考える年代に入ってきたことを考えさせるいい旅になったと思いました。


  「四つ目の 遺産訪ねる 旅終わる 次は五つ目 白川郷へ」

  「この地では 登録浮かれる こともなく ただひたすらに 遺産守りて」

  「いい汗を かいたとみんな それぞれに 世界遺産を 感じたようだ」

  「赤い実を つけたアオキや 白い花 山里風情 心洗いて」


 

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○世界遺産広島原爆ドームを訪ねる

 世界遺産には自然遺産もあれば文化遺産のありますが、広島の原爆ドームはそれらとは一線を画し、人間の愚かさを人間自身に問いかける平和へのメッセージとしての価値としては世界で唯一だと思うのです。対岸のこんな身近な場所にありながら、私たちは平和の上に胡坐をかくように殆ど訪れることもなく過ごしていました。

 広島上空600メートルで原爆がさく裂した1945・8・6・午前8時15分という一瞬は、広島にとっても日本にとっても、いや世界にとっても忘れてはならない一瞬なのです。原爆資料館に展示されている投下された原爆はこんな小さな爆弾でした。しかしこんな小さな原爆が広島を、そして広島市民や国民の一部を焼き殺し、戦後60数年たった今も原爆症の後遺症に苦しむ人たちがいるのです。

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 私は原爆が投下された時、生まれて間もない10ヶ月でした。母親の手に抱かれて、熱い夏の日が始まるであろう下灘の海岸からキノコ雲を見ていたようです。残念ながら幼少ゆえその記憶はありませんが、体教とでもいうのでしょうか、どこか記憶の隅に靄がかかっているような感じがするのです。原爆ドームの上600メートルでこの展示のような火の玉がさく裂したのです。そしてその爆風は鉄やコンクリートまで一瞬にして破壊しました。

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 爆発してから3時間後に爆心地近くで撮影されたという一枚の写真は、体を焼かれた生々しいものでした。そして時間が経つにつれて太田川の近くは何千という死体が浮き、焼けただれた人々は水を求めて川沿いに集まりました。まさにこの世の地獄だったといわれています。

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 原爆は死の雨を降らせました。爆風によって空高く舞い上がった砂塵は放射能を含み、やがて灰色の雨となって地上を濡らしたのです。窓を伝う放射能の雨筋は原爆資料館に残っていました。

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 当時は、原爆投下後75年間は草木も生えないだろうと言われていたのに、そして多くの原爆に遭った人たちがその後遺症に苦しんでいるのに、あくる年の夏焼け跡にカンナの花が芽を出し花を咲かせたそうです。この館菜の花にどれほどの生命が残っていたのでしょう。人々はカンナの花に平和へのメッセージと生きる勇気を貰ったそうです。

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 その後日本は恒久平和を願い、にどとこのような痛ましい戦争を起こしてはならないと世界に向けて広島や長崎からノーモアヒロシマ・ナガサキを訴え続けていますが、ソ連とアメリカの冷戦などは次々と核実験を行い、ビキニ環礁で行われた水爆実験で第五福竜丸が被爆し久保山愛吉さんがその犠牲になった事件は強い衝撃として私の記憶に残っているのです。私は第五福竜丸がマグロはえ縄漁船であったと同じように、宇和島水産高校の実習船えひめ丸に乗ってマグロはえ縄漁に南太平洋へ船出している経験を持っているがゆえに、第五福竜丸のことは忘れられないのです。

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 長い廊下沿いに原爆投下というファインダーを通した過去・現在・未来の展示を見るにつけ深い悲しみと平和への願いが心の底から湧いてくるようでした。

 外に出て平和公園を散策しながら色々なことを話し合いました。

 偶然とでも言うのでしょうか、北朝鮮がテポドンを発射するかも知れないという話題が国内外を走り抜けました。未だに世界中では戦争や愚かな核の脅威にさらされているのです。

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 原爆ドーム対岸の平和公園の隅にチューリップが印象的に咲いていました。朝から降り続いた雨もどうやら上がり、折りヅルの飾れれた子どもの像の上に少しばかり陽が差してきました。どれが鳴らしているのか子どもの像の鐘の音が広島の空に印象的に響いていました。

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  「子どもらの 祈りを込めた 折りヅルに 平和の誓い 今日も届いて」

  「許すまじ 原爆歌う こともなく ただ安穏と 愚かに過ごす」

  「この犠牲 なくば平和は なかったと 心に刻み 生きて行かねば」

  「平和こそ われらが世界 遺産なり 訪ねる旅で 心に刻む」


 

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shin-1さんの日記

○世界遺産を巡る旅から帰ってきました

 昨日と今日の二日間私たち13人の一行は世界遺産を巡る旅に出て、中国地方をマイクロバスで何と二日間に800キロも走ったのです。今夜は帰りが遅かったし長旅の疲れもあるので、加えてメールの受信数がやたらと多く、その処理が思いのほか時間がかかりそうなので、書き込みはこの程度にしてまた明日報告したいと思います。

 こう書いて昨日は旅の疲れか昨夜は久しぶりにぐっすり寝込んでしまいました。しかし世界遺産を訪ねる旅をルポしておかなければならないので、今朝から鈍くなった記憶を蘇らせて少しだけルポしておきたいと思います。

 世界遺産最初の旅は安芸の宮島でした。大野インターで下車し、交通標識に沿って走ると小雨煙る瀬戸内海が見えてきました。対岸の宮島は私にとって子どもの頃から見慣れた光景です。というのも私の生まれ育った下灘は漁村なので、新造船が進水しると必ずその年の夏には海の守り神である宮島さんか金毘羅さんへお参りに行く風習がありました。子ども心にこのお宮参りは、滅多に県外へなど出ない昔ゆえ憧れの出来事だったのです。大漁旗をなびかせて勇ましく走る新造船に乗せてもらってのお宮参りは憧れでした。親族郎党が打ち揃って神殿で神主さんに大漁や海の安全祈願をしてもらったりすることもさることながら、土産物屋さんに立ち寄って小銭を握りしめて買い物をしたり、船の中で子ども同士ではしゃいで過ごすひと時は至福でした。

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 桟橋付近の駐車場にマイクロバスを止め、そこからフェリーで宮島に渡るのです。わずか10分程度の船旅ですが、神の島であり世界遺産の島でもある宮島へ渡る間にどこか清新な心構えのようなものができるから不思議です。やがて進行方向に向かって右側に海の中に立つ宮島の象徴である朱色の大鳥居が見えてきました。干潮だと鳥居のすぐ傍まで行けますが、この日はあいにくの雨、しかも中潮なので近づくことができませんでした。

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 私たちの一行はまず昼時だったので昼食を済ませてからお参りしようという話になって、大勢の観光客でごった返しているため、できるだけ空いているお店へ入りましたが、これがまた富んだハプニングで、注文した名物のアナゴ丼が人数分揃わなく、やむなく5人はカキ丼に注文を変更しなければならないというお粗末さです。テポドン発射の話題もあってテレビをつけてほしいといえば写らなし、ティシュが欲しいといえばないというし、その後のバスの中での大笑いのネタになるほどの珍事でした。

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 神の島宮島はこの日あいにくの雨ながら、満開の桜に彩られたそれは美しい場所でした。特に朱色の神殿は周りの風景とマッチしてまるで夢の世界であり、平家物語の時代絵巻を見ているようでした。丘の上に立つ朱塗りの五重の塔も見事で、神仏混合の見事な配置です。
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 満潮時には海の上に浮かぶように建てられた神殿は長い長い廊下で結ばれていて、歩を進める度に替わる鳥居の姿が遠望できて、これまた素晴らしいの一言に尽きるのです。最近は国際色豊かになって、観光客の中には外国人の数も多く、「オーワンダフル、モアビウティフル」などを連発する言葉が何度も耳に聞こえました。
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 本殿の前の拝殿は潮が満ちてきても潮に浸からないよう一段高く出来ていて、そこから見る大鳥居もまた見応えがありました。幾度も災害に遭いながらかたくなに原形を保ち続けてきた日本の文化の凄さを垣間見ました。

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 本当はロープウェイで裏山にそびえる山頂まで登って春の瀬戸内海を満喫ししたかったのですが、残念ながら登っても眺望が効かないようなので諦めました。参道の沿道には土産物屋さんが軒を連ねていました。宮島といえばもみじ饅頭といわれるようにもみじ饅頭の店が圧倒的に多く、私たちも買うでもなく味見と称して出されている饅頭の切れ端を口ざとく賞味しながら冷やかし半分でぶらり観光客の群衆に紛れ込んで歩きました。

 知っていることもあってガイドさんを雇うこともなく散策しましたが、何処まで言っても千円という高速道路割引の影響でしょうか、岩国錦帯橋といい、安芸の宮島といい雨にもかかわらず予想以上の人手にびっくりしてしまいました。

若松進一ブログ(いやあ見事な桜でした)

  「土曜だと いうのに人の 数多く 群衆の中 ゆだねて歩く」

  「雨濡れつ 小鹿愛嬌 ふりまいて 餌をねだりに わが身寄りぬる」

  「遠近く 鳥居眺めつ 歩を進め 拝殿巡る 外人ともに」

  「雨濡れる 宮島もよし 受け入れて 桜の下で カメラ向けつつ」 

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shin-1さんの日記

○今日は広島をたって島根県石見銀山に向かいます

 世界遺産を訪ねる旅が昨日スタートしました。

 昨日は旅のついでに岩国錦帯橋を見学しました。山口県岩国市は対岸の街なので、私はこれまで何度か天下の名勝錦帯橋を訪ねていますし、錦帯橋の思い出は数限りなくあるのですが、記憶をたどっても桜の季節とか、雨の日の訪問などは見つからないようでラッキーでした。昨日はあいにくの雨にたたられましたが、雨も良しとばかり春雨に煙る岩国城を頭上に見て、錦帯橋の上を足元を気にしながら歩きました。車を止めた河川敷の駐車場から見ると、錦帯橋の上は行き買うカラフルなパラソルの群れが一列になって動き、絵になる光景でした。

 錦帯橋を渡り終わった広場は桜の花がほぼ満開で、桜やぼんぼりの下を道行くどの人も、さぞや雨を恨めしそうに思ったに違いありません。

若松進一ブログ (四連太鼓橋が清流鏡川に映える姿は絵になる光景です)

若松進一ブログ (橋の上をパラソルが行き交う姿も絵になる光景でした)

若松進一ブログ (普通桜は下から見上げるものですが、橋の上から見下ろす桜の花も見事でした)

 橋を渡ると周囲には岩国寿司やお土産物などを売る店が軒を連ね、雨のため呼び込みの人の声が恨めしく響いていました。武家屋敷周辺を散策しました。岩国錦帯橋周辺は城下町なので白壁の街が重厚なたたずまいを見せていました。

 (バスの出発する時間が近づき、末光さんが出発五分前だと知らせてくれたので、出発します。帰りは遅くなります)

若松進一ブログ (武家屋敷の中には重要文化財に指定されているものもありました。残念ながら時間がないので見学することはできませんでした)
若松進一ブログ (何気ない雰囲気ですがお堀にかかった橋も桜に映えて趣がありました)
若松進一ブログ (疎水施設の石垣から噴水状に放水されている姿も見事でした)

 私たちが子どもの頃から映画やテレビで幾度となく見ている巌流島の決闘に宮本武蔵とともに出てくる佐々木小次郎はここの出身らしく、燕返しという剣術に使われた長い刀を背中のさやから抜いた姿が銅像になっていました。同行の今回のツアーを企画してくれた佐々木さんと姓も同じなので記念に写真を撮ってあげました。

若松進一ブログ (佐々木小次郎の銅像とともに写真に収まった佐々木俊和さん)

 一行は前になったり後になったりしながら周辺を散策し、岩国名物の白蛇を見学しました。蛇はあまり好きでないので辞退しましたが、それでも統一行動ということで切符を買ってくれたため見学の列に加わりました。メラニン色素の関係で脱色した白蛇は、冬の冬眠から目覚めたように舌を出しながら怪しげに棒の上を這うように動いていましたが、雨にもかかわらず怖いもの見たさでしょうか、遠巻きの人の群れが途切れることはありませんでした。

若松進一ブログ (白蛇)

 再び往復通行券で錦帯橋を見返りつつ渡った一行はバスに引き返し、高速道路を走って次の目的地宮島を目指しました。

 ふと私は錦帯橋のすぐ傍のホテルで講演会に招かれた10数年も前の出来事を思い出しました。500人の聴衆を前に講演した折、一番前の席に座って私の似顔絵を書いてくれた一人の女性のことです。彼女は私の講演を聞きながら90分の時間内に3枚の色紙に似顔絵を書いてくれたのです。3枚だから3枚目、3枚だからサンセットなどと私のお株を奪うような駄洒落を言って聴衆を笑いの渦に巻き込みながらその色紙を私にくれたのです。これが退職後私の名刺やキャラクターとなって大活躍してくれようとは、書いた渡辺悦子さんも驚くことでしょう。
若松進一ブログ
 

  「錦帯橋 思い出幾つ 指を折る 雨や桜の 思い出増える」

  「カラフルな パラソル行き来 する姿 錦帯橋の 新たな魅力」

  「錦川 眼鏡のように 写さねど 心眼想像 向こう岸見ゆ」

  「この橋を 守る人あり 永久に これぞ日本の 美学なりけり」

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○今日から世界遺産を巡る旅

 私が代表を務める21世紀えひめニューフロンティアグループでは、昨年から世界さんを巡る旅をスタートさせました。昨年は南紀熊野古道を巡る旅でしたが、参加した仲間は自分の足で歩く熊野古道にいたく感動して、今年の総会でも満場一致で決まったのです。

 今年は欲張って広島原爆ドームと安芸の宮島を今日見学して広島に一泊して明日は石見銀山見学を予定しているのです。今日は天気が下り坂だそうですが、「雨もまたよし旅に出る」てな感じで間もなく出発します。旅に出るためにはブログを2本キープしておかなければならないので、妻のセットした目覚まし時計は5時まもなくですが、私はいつも通り4時に起きて既に巻き寿司とお節句のことを一本書きました。

 中国地方には今回巡る3ヶ所の他に岡山県姫路城が世界遺産になっていますが、今回はルートから外れているため次回に回すのだそうです。私は今回行く3つの世界遺産は既に見ていますが、仲間と思い出を共有することに意味があるのです。

 

 昨年は私たちが訪ねた直ぐ後に中辺路の牛馬童子の首が何者かに壊され持ち去られたという痛ましい事件が起きてショックを受けましたが、日本人の心ない人のモラルも地に落ちたものだと、メールをやり取りしたことがつい昨日のことのように思い出されるのです。

 中国地方にはこのように4つも世界遺産があるのに何故か四国には一つもないのです。私たちの仲間が四国遍路道を世界遺産にしようと運動を起こしていて、暫定リストの候補に上ったものの足踏み状態になってることは残念ですが、たとえ世界遺産に登録されていなくても、世界遺産的な価値のある四国遍路道をしっかりと守り発展させてゆくことは、四国に住む者の責務だと思うのです。

 (時間が来ましたので出発します。この続きは明日の夜帰ってからにします。ごきげんよう。ここまでは自宅にて急ぎ足の部ログ書き込む)


 今日は朝5時30分に妻の運転する自家用車に乗って家を出ました。出掛けに散歩に出かける91歳の親父に出くわしました。「どこへ行くのか」尋ねたので、私は「中国地方へ行く」といったら親父は「遠いとこじゃのお」というのです。確かに島根県は遠いですが、親父はどうも「北京は上海のある中国と勘違いしていたのではないかと後で思いました。

 松山市駅で待ち合わせをして、メンバーの河野さん運転のレンタカー(マイクロバス)で出発しました。心配された雨がポツポツと落ちるあいにくの天気でしたが、海岸周りの196号線を今治まで走り、今治インターで今治組み4人を乗せさあ出発です。しまなみ海道をひた走りに走り、福山西から山陽自動車道に乗り、最初の目的地岩国錦帯橋を目指しました。錦帯橋は世界遺産にはなっていませんが、世界遺産を目指して活動していて、あちらこちらにその運動を示すのぼりが立っていました。

 私たちの今年の世界遺産をめぐる旅がいよいよスタートです。天気は春雨といったシトシト降りの雨模様でしたが、13人の同行者と楽しい旅がいよいよ始まりました。(ここまでは宿舎となったスーパーホテルのロビーにて書き込みました。まもなく22時19分です。)朝が早いのでもう休みます。お休みなさい。

  「どこへ行く 聞いた親父に 中国と 親父どうやら 中国違い」

  「欲張って 世界遺産を 三つ見る 旅は少々 きついようです」

  「雨もまた 良しと思えば 苦にならず 旅を楽しみ ながら談笑」

  「四国には 世界遺産の ひとつだに なきぞ悲しく 思うなりけり」 


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shin-1さんの日記

○巻き寿司はおふくろの味の記憶

 今日はお節句です。昔は雛あらしといって、前夜母親の作ってくれた豪華?な弁当を持ち、気の合った子どもの仲間たちと野山に繰り出して弁当を広げて食べたものです。私たちが少年時代は戦後間もないこともあってどの家も貧乏で、貧しい暮らしをしていました。日頃は麦ごはんにコンコくらいな食事でも節句は格別で、巻き寿司や羊羹が2段重ねの重箱に風呂敷包みされ、至福の時を過ごしたものでした。

 巻き寿司には漁師町らしくアナゴが焼かれ、ミツバやゴボウ、乾瓢、シイタケと一緒に具財として巻かれていました。海苔も黒海苔と青海苔があったと記憶しています。母は忙しい合間を縫って夜遅くまで巻き寿司を台所で作っていました。またヨーカンは海で採って晒した天草を使って布巾の袋で絞り、型に流し込んで、赤や青の色子で着色して手作りしていました。

 朝4時過ぎには母親が起きて、台所でコトコトとまな板の軽やかな音を立ててそれらの材料を重箱の中に手際良く入れていました。庭先の一つ葉やゆで卵に南天の葉っぱを使って兎の耳に見立てたり、かまぼこも切れ目を入れて鮮やかな飾りを入れて、リンゴだって可愛いウサギに変身していました。

 朝日が昇る頃その作業が終わり母が「出来たよ~」と起こしてくれるのです。勿論5人の子供はみんな一斉に飛び起き、自分お弁当の包みを確かめてから着替えました。

 まあこんな感じで、お節句の思い出が母親への思慕とともに鮮明に蘇ってくるほど、貧乏ながら幸せだったと述懐できる私は幸せです。わが妻も母と同じように嫁いでからこれまで、40年近くも巻き寿司を巻き弁当を作ってきました。昨日も忙しい仕事の合間を縫って巻き寿司を巻いていました。私が今日から二日間家を留守をするため、せめて昨晩食べてもらおうと思ったそうです。また親父も節句の弁当を心待ちにしているのです。

 巻き寿司を巻きながら、最近の若いご家庭では巻き寿司の巻き方さえも知らない人が増えて、近所のお寿司屋さんは注文に追われて、時ならぬ忙しさに嬉しい悲鳴を上げていると聞きました。わが家でも私たち夫婦と親父の3人だけですから、4~5本買えば済むのでしょうが、私はやはり妻の巻いた素朴な味の巻き寿司の味が好きなのです。早速昨晩の食卓には巻きだちの巻き寿司が並べられて彩りを添えていました。

 今朝は私を待ち合わせ場所の松山市駅まで送ってくれるついでに、娘と息子の家へ届けるのだそうで、少し余分に巻いていたようです。

 母から子へ日本の食文化は伝えなければならないはずなのに、今の日本はどこかで伝えることを忘れていることが多いようです。巻き寿司は買えば手間もかからないし美味しいし、お金もかえって安くつくかもしれません。しかし巻き寿司に食材とともに巻かれたおふくろの味は絶対出せないのです。プーンと匂ってくる酢の匂いや、海苔の香りはまさに家庭でしかできない味だと思うのです。

 妻の巻き寿司を巻く姿を見て、私はいい人と巡り合ったと、お世辞ではありませんがついつい嬉しくなります。妻の年代でも巻き寿司を巻かない人がどんどん増えているのです。私は妻の巻き寿司の巻き方を息子嫁に伝授して欲しいと願っています。今は子育てに忙しく、来月には二人目の子どもが誕生する予定なのでそれどころではありませんが、間もなく同居の予定なのでその時には是非と願っています。

 私がそうであったように、子どもも母の手作りの味を覚えています。その覚えた味を自分たちの子どもにおふくろの味として記憶させてほしいと願う私は古い人間なのでしょうか。


  「巻き寿司を 巻いてる姿 母に似て 妻はしっかり 味を受け継ぎ」

  「いい人と 結ばれたなあ 思うのは 巻き寿司作る 姿見た時」

  「巻き寿司の 一つも出来ぬ 人多く この国どこか 可笑しくなって」

  「巻き寿司は 店で買うもの 定着し おふくろの味 袋になった」

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