shin-1さんの日記

〇うわあー凄い、内子の枝垂桜

 私が移動する範囲の県内ではあちこちに桜が咲き始め、いよいよ春本番です。普通桜は気象台が指定する標準木の桜の花が5つ以上開くと開花宣言となるのですが、今年は異常ずくめで例年より10日も早く桜前線は高知に上陸しました。これまで日本で一番桜の開花が早いとされた宇和島や熊本では、一番咲きを目指して必死になっているようです。特に気象台の撤退した宇和島では元気象台職員やボランティアの人たちがこの一ヶ月丸山公園の桜を丹念に調べて日本一を目指したようですが、残念ながら耕地に先を越されてしまったようです。

 普通の人から考えれれば「何も一日や二日遅れたぐらいで悔しがることもないのでは」と思われそうですが、どうしてどうして当事者たちは「日本一」に命をかけているのです。


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 今日は西予市で開かれたグランプリの表彰式に出席するため海岸線を通って長浜から、肱川沿いに大洲への道を通り、途中から国道56号線を走りました。私たちの町の桜は大島桜を除けば吉野桜はまだ蕾が固いのに、私の町より温度の低い大洲では2分咲きの所もあって、驚いてしまいました。

 表彰式が終わって午後2時からの愛媛か行く漁業調整委員会に出席するため大洲から内子経由で56号線を上りましたが、驚いたことに旧内子町役場のの横の河川敷には枝垂桜が満開でした。時間的な余裕もあったので役場庁舎前の駐車場に車を止めてぶらり散歩をして一足早い花見を楽しみました。

 物珍しさもあってこの日の陽気に誘われ、何人かの人たちがお昼時の花見散歩ををしていて、中には卒業したのであろう中学生たちがキャーキャーいいながらVサインをして写真を撮っていました。それにしても内子の桜は見事でした。

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 私の町の桜がどうしてこのように気温の低い山里より遅いのかは諸説がありますが、私の考えでは海沿いに面しているため風が強くつぼみの表皮が乾燥して硬いからだと思うのです。まあ菜の花や水仙で他市町に水をあけて話題になっているので、桜くらいはゆっくりと人並みより少し遅れるのも仕方ないことだと思っているのです。

 今年一番桜が早かったのは、実は堀の内の旧競輪場あたりの若木でした。これは標準僕でないため余り話題になりませんでしたが、10日以上も早く咲いていました。関係者の話によると植えたその年は根を張ろうとするため成長が早まってこんな現象が起るのだそうです。緋寒桜やか川津桜、大島桜、蜂須賀桜など、早咲きの桜は一足早く咲いて話題をさらったものの、早くさい多分散るのも早く、いよいよ本命の吉野桜前線が日本列島を駆け上がってゆきます。5月には北海道に上陸し、日本は花の季節を迎えるのです。忙しい合間を縫って今年も季節の花々を愛でたいと思っています。


  「うわあー凄い 枝垂桜の 咲くを観る 日本いい国 桜が咲いて」

  「俺の町 桜の蕾 まだ固く いつ咲くお前 せっかちに聞く」

  「さあ春だ 心浮き浮き どことなく 今年は何処で 花見しようか」

  「デジカメに 写したデーターを 妻に見せ 自慢している 私単純」

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〇校名変更式そして卒業式

 今年も学校評議員をしている私の元へ小学校、中学校、高校の3校からそれぞれ卒業式や入学式の案内が届きましたが、残念ながら先約があって、卒業式は中学校のみ1校へ昨日出かけて行きました。列席者は市長さんはじめお歴々のいわゆる「長」の付いた方ばかりで、「学校評議員」などのありふれた肩書き出の出席は私一人だったのかも知れません。でも人の値打ちなど肩書きで決まるものではないと自分で納得して、堂々と来賓席に座って卒業式を見守りました。

 今年の双海町は異例続きで、63年の歴史に幕を閉じる下灘中学校と同じく、63年の歴史に幕を閉じながら双海中学として下灘中学校を統合する上灘中学校ではそれぞれ閉校式、校名変更式などの行事が行われ、歴史の証人としての意味もあるのです。

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(校名変更式での校長式辞)

 先日は下灘中学校の閉校式へ出かけましたが、昨日は上灘中学校の校名変更式が卒業式の前に行われました。上灘中学校は自宅から歩いてほんの3百メートルくらいしか離れていないので、好天に誘われて歩いて行きました。中学校は来月には双海中学校として再スタートするのに、本校舎は耐震診断で危険校舎と診断され壊したままで、まだ着工もされず狩校舎でのスタートとなりました。

 校名変更式は校歌の作曲家の奥さん、作詞家のご家族、歴代校長、歴代PTA会長なども招かれ、かつて13年間も教育委員会に勤めていたこともあって、特に歴代校長先生たちの顔々にであい、懐かしさが込み上げてきました。教育委員会では社会教育を担当していましたが、社会教育施設の充実していない頃だったゆえ、この上灘中学校は文化祭も町民体育祭も、またソフトバールやバレーボールの大会も全てこの上灘中学校が会場でした。ゆえにこの学校は人一倍足を運び、人一倍愛着があるのです。

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(上灘中学校最後の卒業式での卒業証書授与)

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(卒業生たちの合唱)

 上灘中学校では校名が変更するに先立って、記念事業のために実行委員会が組織され記念碑建立や記念誌の発刊が寄付によって行われていて、私も記念誌に紀行文を依頼されました。その文章の中にもう一つの思い出としてその辺のことを書かせていただきました。

 校名変更式が終わると30分余りの休憩時間があって、私たちが控え室でお茶を飲んで談笑している間に、今度は上灘中学校最後の卒業式の準備が行われ、相次いでの出席となりました。卒業生は男子9名、女子17名の合計26人と、私たちの時代から比べるとかなり寂しい人数でした。それでも小規模校ゆえの慈しみや顔見知りの子どもの顔もちらほら見えて、少し涙が出てきました。

 今の卒業式は「蛍の光」も「仰げば尊し」も歌わず、私の知らない「YELL]と少しだけ知っている{君がいたから」を合唱し、最後に歌い収めとなる「上灘中学校校歌」を全員が大きな声で歌いました。私はこの学校の卒業生でないのでこの歌は口ずさむ程度なのですが、私の子ども4人はそれぞれこの歌に思い出があるはずだと思いつつ、隣の人の声を聞きながら口パクで歌詞をなぞってゆきました。

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(記念誌への私のつたない紀行文)

  「卒業式 蛍の光 歌わずに 仰げば尊し ないゆえ湿らず」

  「皆勤の 子ども表彰 したいなあ 様変わりした 卒業式見て」

  「この子らは この学び舎を 後にして 何処を目指して 行くのだろうか」

  「いつの世も 同じようなる 流れにて 記憶の彼方 去ってゆくもの」

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〇移動落伍

 昨日は今治市玉川町で開かれた生涯学習講座に招かれ出かけました。玉川といえばもう20年近くも通いつめた地域なので知人友人も多く、昨日の会はそうした馴染みの皆さんが集まる会なので、少し思考を凝らして移動落伍にしてみました。友人の井出サツミさんから事前にお話しをしていたら、事務局の方が台座を積み上げ赤毛氈敷いた立派な高座を作ってくれていました。そして渡部妙子さんがお嫁入りのときに持ってきたというこれまた立派な座布団を用意してくれたのです。

 マイクの高さも抜群で、この上もない舞台設営に応えようと、めくりなども人間牧場から運んで準備万端整え、「人生楽しく暮らそう」という演題で裂き織の羽織を着て90分話させてもらいました。一話10分の演目を10本ばかり考えていましたが、残念ながら一つ一つの話についつい熱がこもり、結局5空本の演目で終わってしまいました。

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 皆さんの笑顔や笑いに助けられて90分の公演が終わっていざ高座から降りようとしたらしびれが切れてよろつき、足首を捻挫してしまいました。幸い軽い捻挫で歩くには問題なかったのですが、人様の前で失礼な弱みを見せてしまう結果となってしまい、日ごろの暮らしでは長時間座ることなどないだけに、これからはしっかりせねばと深く反省しました。

 その後井出さんの計らいで近所のふれあい茶屋で心のこもった昼食会が持たれました。ふれあい茶屋は廃止になった農協の事務所を借りて地元有志の女性たちが立ち上がり即売所と食堂を経営していました。まだ著に付いたばかりで一日おきの営業のようでしたが、出された田舎料理は心を込めた旬の手作りだけにとても美味しくいただきました。練炭火鉢で焼いてもらったしいたけも、山菜の熱々てんぷらも、また猪丼も、デザートのおはぎも全て満足の味でした。

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 聞くところによると代表の越智信枝さんとは20年前に松山で開かれた生活改善研究大会の席でお会いしたそうで、その時の私の余興が忘れられないと汗顔の話をしてくれました。頑張っている越智さんはじめ10人余りの皆さんと記念写真を撮ったり雑談しながら楽しいひと時を過ごさせてもらいました。

 撮った記念写真を見ながら、井出さんや森さんや山本さんと始めてあった頃のことを思い出し、またエプロン姿で写っている地元の人たちのイキイキした姿に、漁協女性部の皆さんの姿を重ね合わせました。行く先々でこうして私を囲んでくれる人が沢山いる私は幸せ者だとつくづく思いました。

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  「行く先に 女性が沢山 集まりて 私幸せ しみじみ思う」

  「あれこれと 春の香りや 味用意 心こもった もてなしうけて」

  「覚えてますか そういえば おぼろげながら あの日あの時」

  「手土産に 貰ったジャムを パンに塗り 今朝は至福の あの人思う」

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〇ある老人から学んだこと

 三日前、今治市清水公民館で行われた「地域福祉推進フォーラムで一人の老人に出会いました。昔学校の先生をしていたというその老人は、本宮森一さんという方で、88歳だそうですが今なおかくしゃくとして、パネラーとして立派な発表をされました。

 先生は面白い人型絵を描いた発表資料を作られていました。その図表の中には健康長寿、友愛奉仕、感謝報恩、国土再生、多世代家族、日々是好日などという希望的言葉が並び、私の健康法として毎日実践している、毎朝の石鹸泡の洗顔マッサージ、40回以上のカメカメ食事(快食)、朝の柔軟筋力アップ体操、午後の筋力アップ体操、入浴前後の柔軟体操とマッサージ、寝d個での深呼吸とマッサージなどが書かれていました。特に大変失礼ながら思わず噴出してしまったのは、朝の石鹸泡の洗顔マッサージで、まるで朝シャンをする若者のような習慣が、健康にとって何を意味するのか聞いてみたいような感じもしました。

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 これらのことを実践することによってボケもせず、米寿を迎えた88歳の今もしっかりと生きている姿を見て、これらの注意事項の積み重ねの実践力に納得しました。

 私は一番興味をそそられたのは「多世代家族」という言葉でした。テレビで観たある地方の五世代同居のことを引用され、日本も昔は多世代が一軒の家に同居する姿は沢山あって、親族同士がお互い助け合って生きていたそうです。特に貧乏な時代背景や全ての作業が手仕事に頼らなければならなかったため、家族の絆が必要だったのです。家を建てるときは自分の森林を伐採運搬し、屋根の茅葺も調達から茅葺まで全てをみんなでやったそうです。また人糞は大切な肥料源で汲み取りも散布も全て大家族がなければ出来ませんでした。

 今の社会は豊かになって仕事が分業化され、金さえ出せばどんな作業も全て他人がやってくれ、多世代が同居して力を出す必要がなくなっtばかりか、一緒に住んでいる家族でさえバラバラになっているのです。


 日本の家も大きく様変わりしました。わが家のような田舎の古風な家は障子や襖で仕切られていて、いざという時には大広間になるよう設計されていますが、今の家は壁とドアで細かく仕切られ、家族個々のプライバシーが守られるようになっています。部屋に入れば自分の世界だし、襖や障子のような人の息遣いは感じられないのです。ゆえに一つ屋根の下に住んでいても家族といえるかどうか疑問のようにも思えるのです。

 「家族」という言葉は本宮先生が言うように「族」なのかも知れないと納得して話を聞きました。わが家も長男家族が間もなく変える計画で、その準備をしなければなりません。家族が一緒に住むとお互いが気兼ねをしなければならないいやな部分もありますが、それこそ家族にとって大切なことなのだと、親父と長年同居した経験から思うのです。わが家では「多世代家族」を目指していますが、私が受けた長男教育と同じように、私の息子にもこれまでやって来た長男教育が正しい判断だったと納得しました。


  「面白い 話を聞いて 納得す 老いた人から 生き様学ぶ」

  「コツコツと 続けることに 意味がある サプリ飲んでも 元気にゃならぬ」

  「泡洗顔 毎日すると 言うけれど そのわり顔は 普通の老人」

  「この人の 歳まで生きる 仮定して いいという事 俺も始めよう」

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〇昨日は良い日か悪い日か?②

 昨日の昼、妻が勤めている近所の歯科医院から昼食のため帰宅しました。いつものことなので昼ごはんの準備をしているのだろうと無視していると、「お父さん、ちょっと来て」と大きい声で呼ぶのです。「何?」と居間へ行って見ると、テレビが突然「バシッ」と大きな音を立てて、音声がまったく聞こえなくなってしまったようなのです。二人がかりで色々とリモコンなどをいじくりましたが、結果的には修復できませんでした。画面は鮮明に映るのに何故だろうと考えました。

 このテレビは妻の記憶によると購入したのは11年前でした。そのときの値段は30万円もする、当時流行の横長35インチの大型テレビでした。しかしその後画面右上隅に「アナログ」という烙印の表示が出て、今ではいかにも時代遅れといった表現がぴったりのテレビなのです。時折やってくる孫朋樹がテレビゲームをするためにコンセントを差し込んだり、妻は録画した番組を殆ど毎日見るなど酷使したための故障でしょうが、わが家の唯一の情報源として八面六臂の活躍をしてくれただけに故障は相当ショックでした。

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 アナログ放送終了の来年7月までは何としても持たせたいといつも言っていたのに少々寿命が早過ぎると、二人とも少し落胆し納得をしました。早速洗濯機の修理の時お世話になった電気屋さん恩義があるので妻が電話をかけ滋養を話したようです。「修理には二日ぐらいかかる」「保障期間はとっくに過ぎているので2万円程度架かるかも知れない」「それだったらエコポイント制度もあるし、いっそのこと新しいものに変えたら如何でしょう」と迫られ、トントン拍子に話が進み、昼休みを利用して二人でその店へ出かけました。

 大型電気店に比べれば品揃えも少ない店の中には、何台かの今流行のテレビが置かれていました。店員さんの案内でその中から、財布資金と省エネ、それに目に優しいという条件に見合った42型で薄型のテレビを見つけ、お届けや取り付けの段取りまで約束して家へ帰りました。

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 やがて妻が仕事に行くためテレビを消そうとした瞬間、あろうことか音声が復元し復旧回復したのです。二人で「あの騒動はいったいなんだったのだろう」と大笑いをしましたが、夜寝て今朝起きるとまた音声は聞こえなくなってしまいましたが、今晩も聞こえたり消えたりとめまぐるしい変化を見せました。

 はてさて私のような年金暮らしの生活者にとっては10万円を越えた臨時の出費はかなり痛手ですが、これで心配していたレジたる放送への対応も無事出来たことを思えば何はともあれまずは一安心です。わが家もいよいよデジタル放送時代の幕開けです。説明書を読んでしっかりと使えるようにしたいと思っています。

 「昨日は良い日か、悪い日か」と訪ねられたら多分、「良い日で悪い日」としか堪えられない一日でした。こうして一日一日は過去となり、思い出のかなたに消えてゆくのです。


  「11年 使ったテレビ 故障して 買い換え手はず 高い買い物」

  「修理する 金があったら 買い換えろ 言わんばかりに 店員誘導」

  「このテレビ エコポイントが 付きますよ 色々引いて 金額10万」

  「順ならば テレビの次は 私かも 少々高い 私の値段」

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〇昨日は良い日か悪い日か?①

 一日一日を積み重ねてゆく一年はかなり長く感じるものです。熱かったり寒かったり、時には幸運に恵まれたり不運に見舞われたり、一喜一憂を繰り返しながら65年間、秒息で命を落とすこともなく、とにかく井今日まで生き長らえてきました。

 昨日一日をとっても朝4時に起床して夜123時に床について眠るまで、様々な出来事がありましたが、まあ何とか一日を終え、今朝はまた日の出を迎えようとしているのです。

 昨日は朝起きトイレを済ませて書斎に入り、いつものようにパソコンのスイッチを入れて、Gメールを呼び出しました。前日夜遅くまでかかってメールの整理をしていたので、迷惑メールや受信メールは殆どなく、アメーバブログを書くため画面を呼び出しましたが、残念ながらアメーバブログは午前2時から午前7時まで、メンテナンスの時間のようで、呼び出すことも出来ず少々落胆してしまいました。


 ふと昨日のことを思い出ました。昨日は原稿の締め切りが迫っていて、強風と大雨で人間牧場での予定していた作業が出来ないため書斎にこもって原稿書きをしました。原稿書きが行き詰ったところで、時々いたずらのように自分の昨日一日のアクセス数やランキングを見るのですが、そのデーターを呼び出して驚きました。普通私の一日のアクセス数は1000~1400程度で、ランキングもたまに10000位より上へ行くものの、大体1200位~1500位をキープしているのです。

 機能は何が原因か分かりませんが、アクセス数が4500件にはね上がり、私の順位も2929位まで上がっていました。アメーバブログの会員は200万人近くもいるのですからその中での2000位台は驚異的な数字なのです。有名人でもない私のような田舎者のブロガーにとっては、もうこれ以上の位置につけることはまず考えられないので、自分のブログの右端の【総合ランキング】デイリー2929↑、月間ランキング12218↑のついた若松進一ブログを記念にプリントアウトしました。

 人に自分の書いたブログを読まれた数などどういうこともないのに、人間は不思議なもので、「ああ今日はいい日だ」と一瞬思い、そのことを忘れた昼ごろ原稿会は終了しました。


  「いつの間に ブログを書いて もう五年 内容さておき ランクはアップ」

  「物好きな 人もいるもの 俺ブログ 呼んでくれるか 読み人知らず」

  「跳ね上がる ランクの数字 驚嘆し 今日はいい日と 勝手に思う」

  「書くネタが 良くあるものと 人は言う 多分死ぬまで ネタは尽きない」

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〇ひとり未来の森を訪ねる

 昨日はせっかく今治へ行くのだから奥道後~水が峠~玉川~今治の山周りを走ろうと思いました。というのも昨年、コープえひめの理事会で環境活動の一環として植林運動をしている森の名前を決める投票に参加したので、一度玉川にある「未来の森」を見てみようと思い立ったからです。山周りの道は先日の大雪で通行止めになった爪痕のように、道端にはまだ雪が残っていて、その季節はずれの重い大雪で道沿いの畑にはパイプハウスが幾つも潰れて無残な姿を見せていました。

 玉川には伊予三名湯の誉れ高い鈍川温泉があります。玉川ダム湖畔の山坂を下り右に曲がると間もなく鈍川温泉郷に入りました。山の中の温泉なので7~8軒の温泉宿もひなびた雰囲気は否めませんが、休日朝の旅立ちの時間だったため結構人や車の姿が見られました。


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 温泉郷を通り過ぎてしばらく行くと鈍川渓谷が見えてきました。今は冬枯れの季節なので彩りはありませんが、春特有の息吹のようなものを瀬音に感じながら奥へ進むと、予定通り涵養の森に着きました。この奥には知人の森さんが温泉つきの別荘を持っていて、何度か泊めてもらったことがあるため、見慣れた道を思い出しながら安心して森へ入ることが出来ました。

 「未来の森・コープえひめ」と書かれた看板が見えたので車をUターンさせて路側に止め、そこら辺を散策しました。春まだ浅い森の中ゆえ通行する人や車はまったくなく、冷え冷えした森の空気を独り占めするような気持ちで胸いっぱいに吸い込み森林浴を楽しみました。

 看板の奥にはコープの植林運動に応えてみんなが植えたであろう苗木がいっぱい植えられていました。そんな名も告げず植えたであろう木々の向うには、いかにも「私が植えました」と言わんばかりの白い名前の入った木柱が幾つも建っていました。

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 道端の植えられた苗木が2~3本何が原因なのか支柱の竹ごと倒れていました。植林運動に参加しなかったお詫びの印に、車のトランクに積んでいた小さな鍬を取り出し、勝手に倒れた苗木を補修させてもらいました。そうこうしていると、通りかかった山仕事に行くのであろう軽四トラックが、私の姿を見て怪訝そうな顔つきで通り過ぎて行きました。多分盗掘でもしているのではと思ったに違いないのです。

 個々に植えられた木々は全てが成長するとは思えません。私が手直しした苗木のように落石や鳥獣の被害に遭うかもしれませんが、願わくばしっかりと大地に根を張って成長し保水や環境保全に一役かって欲しいと願っています。いつか私も暇を見つけて植林運動に参加したいとも思い、ほのぼのとした気持ちで「未来の森」を後にしました。


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  「春浅き 未来の森を 訪ねけり 鍬持ち倒れし 苗木を補修」

  「鍬持った 私じろりと 批判目で 軽四叔父さん 通り過ぎ行く」

  「いい名前 ついたと自慢 したくなる 自分が植えた 訳でもないに」

  「この苗木 大地しっかり 根を張って 大きく育て 独り言言う」  

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〇地域福祉推進ミニフォーラムに参加して

 昨日は今治市清水地区社会福祉協議会主催による地域福祉推進ミニフォーラムに招かれ参加しました。清水公民館で行われるミニフォーラムですから、参加者は50人そこそこの小さなフォーラムで、私の基調講演「福祉でまちづくり」と3人の実践活動報告を基にした討論会の2本立てでした。

 私は行く道々「福祉でまちづくり」について色々考えましたが妙案が浮かばず、結局は思いつくまま1時間喋り続けました。

 昨年愛媛大学法文学部総合政策学科で60時間の講義を担当した折、学生たちが「どんなまちに住みたいですか?」という問いかけアンケートに答えたのは概ね次のような項目でした。

 ①活気あるまち(働く場所がある・遊ぶ場所がある)

 ②便利なまち(病院・学校・買い物・交通)

 ③綺麗なまち(環境)

 ④夢のあるまち(未来)

 ⑤安心で安全なまち(防犯・防災)

 ⑥ひとりひとりが主役になれるまち(協働と参画)

 ⑦自然豊かなまち(海・山・街・川)

 ⑧みんなが仲の良いまち(コミュニティ)

 ⑨行政サービスが行き届いたまち(税金・子育て・社会保障・高齢者福祉など)

 ⑩歴史と文化があり住み続けたいと思うまち

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 学生たちが考えた理想のまちの条件を思い出しながら、こんなまちなら私も住んで見たいと思ったものですが、はてさてこんな「青い鳥」的なまちは本当にあるのでしょうか?。答えは残念ながらないのです。ないばかりかむしろ今の世の中はこれらの項目の満足度がどんどん低下しているのです。

 みんなの力でこれらの項目を勝ち得る運動や活動をすること、それがトータル的な広い意味での「福祉にまちづくり」なのですが、学生と同じように誰もがこれらの項目を他力本願で求め続けているのですから、まちは良くなるはずはないのです。これまでのまちづくりは豆腐型のまちづくりだと思います。大豆をすりつぶしてにがりをいれ、既成概念の四角い枠に無理やり入れて固めようとしてきました。これからは納豆型のまつづくりです。大豆個々の個性を生かしつつ粘々のようなネットワークで結んで行かねばなりません。

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 発表では清水児童クラブなかよし会長の井出早苗さんと清水地区老人クラブ会長の本宮森一さん、それに清水地区コミュニティ推進会理事の益田厚美さんがそれぞれ発表し、社会福祉協議会の島崎義弘さんがコーディネーターを勤め議論を深めました。

 私も請われるままに議論に加わりましたが、皆さんの意見を要約すれば福祉のまちづくりのキーワードは、子ども・環境・文化・スポーツ・高齢者・食などのようでした。参加した皆さんの熱心な議論の輪をこれからどんどん広げてゆけば青い鳥は必ず見つかるのです。

  「福祉など 門外漢の 私だが いつもやってる ことも福祉だ」

  「このまちに 生まれて暮らし 死んで行く いいまちつくろう 福祉のまちを」

  「青い鳥 あなた任せで いるものか ひとりひとりが そのこと自覚」

  「あちこちで 地道取り組み 進んでる うんとうなずき 話聞き入る」

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〇下灘中学校惜別の会②

 昨日は午前中下灘中学校の閉校式に出席し、1時間余り余裕があったので久しぶりに人間牧場へ行きました。来週の火曜日に今治市玉川町で旧友井出サツミさんを介して講演を頼まれている準備のためです。玉川町へはもう何度も講演に行っているので、今回は思考を凝らして落伍風の話をしようと思っています。そのための七つ道具であるめくりや裂き織の羽織、それに拍子木などが必要なのです。

 人間牧場界隈もこのところの寒さでいまいち春が足踏みしているようですが、ミツバチの巣箱には何匹かミツバチが出入りするのが確認できたり、蕗が芽を出して春近しを感じさせてくれました。帰りに西嶋さんに大きなポンカンをキャリーにいっぱい貰いました。

 閉校式第二部は惜別の会と銘打って、下灘コミュニティセンターの大ホールで12時から行われました。受付で会費3千円を支払い正面に向かいって右側の指定された席に着きました。隣は5級年上の梶野和幸さん、正面は一級年下の忽那明美さん、右前は山本学園の校長だった村井淳子さんで顔も気心も知れているため、色々な話をさせてもらいました。後で気がついたのですがこの席はどうやら白鴎という今回の記念誌にそれぞれの卒業期ごとに依頼されて寄稿した人たちの席のようでした。

 まず今回の閉校記念事業の若松良樹実行委員長があいさつし、市長さんやPTAの歴代会長さんたちの代表が思い出を一人一分という約束で始めましたが、皆さん思い出が多過ぎて、10分ほども喋る人がいるほどでした。

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8ジーンとくるような挨拶をした若松良樹さん)

 この日は歴代の下灘中学校長さんも何人か見えていましたが、直前校長の松尾先生も見えていました。待つ先生は現在港南中学校の校長先生をしていますが、この春めでたく定年を迎えるそうです。会場で高知大学大学院に通う堀川奈津さんにも久しぶりにめぐり合いました。彼女はもう直ぐ卒業して就職するそうですが、在学中にインターンで奈半利町に行っていた折、まちづくりで随分とお近づきになった学生なのです。彼女も私と同じように第53期卒業生として寄稿していました。

 先日送られてきた記念誌には、私の寄稿文が「宿直室での学び」と題して146ページに紹介されているようです。

 ともあれ、わが愛する母校は数々の思い出を残して、永遠の眠りに着こうとしています。お疲れ様でした。

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(松尾校長先生と堀川奈津さん)

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(私の寄稿文が載った146ページと寄稿文全文)
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  「閉校と いう日立会う 幸運に 恵まれ私 歴史承認」

  「このことを 記録する人 いないかも 消え行く記憶 記録残して」

  「懐かしき 人が集まり 懐かしく 記憶たどりて 懐かし話」

  「大声で 歌う校歌の 懐かしく 思わずぐっと 胸が詰まって」

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〇母校の閉校式に出席して①

 昭和22年4月に愛媛県伊予郡下灘村立下灘中学校として、下灘小学校内で産声を上げた中学校が62年の学校史に幕を閉じることになり、昨日閉校式があって一般卒業生として出席させていただきました。居並ぶ来賓関は埋め尽くされていましたが、一般席はまだ席に余裕があったようで、先輩・同輩・後輩と席を同じくして昔を懐かしみながら在りし日の学校を偲びました。

 学校は閉校式を行いましたがこれから先在校生の卒業式や終業式があって、学校を閉じるのは16日後の3月31日ですが、セレモニーには市長さんも見えられ式辞を述べられました。

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(市長さんの式辞)
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(議長さんのあいさつ)
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(校長先生のあいさつ)

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(生徒代表の挨拶あいさつ)

 これまでに3489人の卒業生を世に送り出してきたこの学校は私の母校です。私がこの学校を第13期生として卒業したのは昭和34年のことでした。昭和37年には378人の生徒数を誇ったこの学校も、今では10分の1にも満たない32人に生徒数が減少したようで、今更ながら少子化の怖さをかみしめるのです。市長さんの式辞、議長さんの挨拶、校長先生の挨拶、PTA会長さんの挨拶、生徒代表の挨拶と続いたそれぞれの挨拶には閉校やむなきにいたった経過とこれまでの思い出、それに閉校後への危惧や希望の言葉がちりばめられ、心えぐられるような気持ちで聞きました。多分学校が存続しているならこの学校はただあるだけで、スポットは当たらなかったであろう過去や現在、そいて未来を考えたのですから、正直皮肉な話です。

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(校長先生から市長さんへ校旗の返還)
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(記念碑の除幕)

 閉校式後校庭で除幕式がありました。「ここに学校があった」という足跡を残すために建てられましたが、私は旧双海町最後の教育長時代私の発案で、かつて学校があったことを示す富貴小学校跡地、閏住小学校跡地という二つの小さな記念碑を建てました。昨日立ち会った記念碑と合わせるとこの町から既に3校目の学校が消えることになるのです。二見町には0人に満たない翠小学校があり、その将来が心配されていますが、翠小学校を閉校4校目にはしたくないと妙案もないまま強く思いました。

 学校の跡地は社会体育や社会教育に使うそうですが、数年前に建設した体育館はさておき、はてさて過疎地の人たちが学校の運動場に草の生えないように足繁く使うこととが出来るかどうか、これも疑問の残るところです。

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(記念碑の前で)

 学力を保証し、部活を活発にしなければならない中学校の統合は、地域のコミュニティよりも優先するテーマなのでやむを得ませんが、学校の灯が消えるこの厳しい現実を重く受け止めて、これからもこの地域が発展することを祈りながら、折りしも降り出した雨の中を学校に別れを告げました。私の立志の礎となったこの学校を私はこれからもずっとずっと生きている限り忘れないでしょう。ありがとう下灘中学校。



「わが家では 子ども四人を 製造す だのに少子化 不思議でならぬ」

  「白い布 除幕の下に 校歌歌碑 カガスの底に 永遠眠る」

  「川向こう 早咲き桜 閉校に 合わすが如く ひっそり咲きぬ」

  「山の色 少しも過去と 変わらねど 社会の変化 見えぬ形で」 


追伸

 昨日3月14日の地元紙愛媛新聞9面地方欄にその模様が掲載されていました。

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