shin-1さんの日記

〇上灘漁協女性部農林水産大臣賞に輝く

 上灘漁協女性部の富岡喜久子さんから先日電話が入り、東京で行われた大会で松本洋子部長の発表が農林水産大臣賞を受賞した旨の連絡がありました。長年一緒にやって来た間柄だけに苦労が報われた感じで、お互い大いに喜びを分かち合いました。

 昨日は午後5時からそのお披露目を兼ねた祝賀会が基幹集落センターであり出かけました。市長さんや議会議長さんも地元議員さんとともに列席され祝辞を述べていただくなど、参加した全女性部員さんと笑顔で談笑するとてもいい雰囲気でした。

 東京での発表の内容を聞きたいと思っていただけに、スライドショーを交えた再発表を聞きながら、過ぎ越し長かった15年余りの歳月を振り返り感無量なものがありました。

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(松本洋子部長の発表は見事でした)
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(大臣賞表彰状を持って記念写真)

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(挨拶に駆けつけた中村市長さん)

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(坂田さんの祝舞)

 「じゃこ天で設けてヨーロッパに行こう」を合言葉に、じゃこ天を主力商品にして年間売り上げも7千万円を突破し、今では県内で最も輝いて活動している女性グループの一つとして、度々マスコミにも登場しているのです。

 市長さんや議長さんの挨拶にもありましたが、漁協女性部がここまでこれたのは、富岡さんや松本さんなどリーダの存在が大きかったように思うのです。15年前は若かった富岡さんも私も15歳も歳をとりましたが、これからも元気で下支えしてあげたいと思っています。

 私は富岡さんが「漁協女性部の動く広告塔」と命名したように、どれほどじゃこ天の宣伝をしてきたことでしょう。また視察が来る度に皆さんの色々な苦労話をさせてもらいました。これからも語り部として口支えしたいものです。

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(挨拶する富岡喜久子さんと松本洋子さん)

 この会場でちょっとしたことがありました。私が会場へ入ると受付の顔見知りの女性が私やかつてこの運営に関わった人たちを上席へ案内してくれました。名もなき私や関わった人たちは席が高いと固辞しましたが、決めていることなのでと座らされました。やがて全員が席に着き宴会が始まると一人の人が席が低いと不満顔で言うのです。その人は役職上呼ばれた人で、私たちが決めた訳でもない旨を話しましたが納得せず、大臣賞受賞のことなど何処吹く風でした。

 いつも思うことですが、人の値打ちは自分が決めるものではなく人が決めるものなのです。自分は偉いと思っても人はそれほど偉いとは思わないもの、その言動を見て少し腹立たしくなり、少々後味の悪い結果となりました。世の中色々な人がいるものです。

 でも何かと暗い話題の多い昨今、まるで春風のように爽やかな「農林水産大臣賞受賞」という朗報に、また元気が沸いてきました。


  「起業した あの頃私は 若かった みんな十五の 歳を重ねて」

  「このごろは 暗い話題が 多いけど 久方ぶりに 明るい話題」

  「席低い ぶつぶつ言って 胸を張る そんなにあなた 偉いんですか?」

  「夢を持つ いかに大事か 見てご覧 ついに花咲く だから頑張れ」 

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(後日4月7日付け愛媛新聞に紹介された大臣表彰の記事)

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〇草刈・防腐剤塗り・そして入浴

 久しぶりに春の上天気に恵まれたので、人間牧場の草刈に出かけました。「えっ、3月だというのにちょっと早いのでは?」と思われがちですが、今年は桜の開花が早かった分草の伸びも例年になく早いようで、人間牧場に通じる私道入り口では、道の両側の草が競ってきて道が狭くなったような感じがしていました。

 10年以上使っている私と同じ古びた草刈機を倉庫から引っ張り出して給油し、いざかけようと紐を引っ張るのですが、冬の間休眠していたため中々かかりません。そのうち紐が切れてしまい暗雲が立ち込めました。機械類に弱い人なら農機具屋さんのお世話になるとkろでしょうが、道具箱を引っ張り出して分解し、自動巻取り紐を少し短くして修理を終えました。給油ポンプを押して紐を引っ張るとエンジンが勢い良く始動し、さあ草刈の始まりです。まずウッドデッキの周辺から始め、私道へと順次草刈の領域を広げて行きました。

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 混合湯が半分になったところで休憩し、冷蔵庫から取り出したお茶を飲みました。働いて汗をかき、飲むお茶は美味しくて、まるで砂漠でオアシスに出会ったような気分でした。草の上に腰を下ろし休憩しながら海を見ていて、ふと「そうだ、天気がいいのでウッドデッキの防腐剤を塗ろう」と思い立ちました。「ひょっとしたら土曜日なので長男が休みかも知れない」と持ち合わせた携帯電話で連絡すると運よく長男息子はOKです。防腐剤の缶の残量が半分程度なのでホームセンターに立ち寄り飼ってくるよう頼み、松山の自宅から防腐剤を買ってくる息子を待ちながら、再び草刈機を動かしました。

 1時間ほどしたら息子は乗用車でやって来ました。早速草刈を中断して二人で防腐剤を塗り始めました。春の好天といっても吹き抜ける風はまだ冷たく、日脚もまだ短くて日向の部分はまだ少しでしたが、二人がそれぞれの場所から刷毛で塗って行きました。途中で昼のミュージックサイレンが鳴りましたが、弁当を持ってくなかったため、無視して1時間余り塗り続けた結果、思い通り防腐剤を塗ることが出来たのです。

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 息子は風呂好きで、防腐剤を塗りながらロケーション風呂の風呂を沸かしていました。作業が一段落したところで息子が先に入浴しました。「お父さんも風呂に入ったらと勧めれれたので、久しぶりに私も風呂を楽しみました。眼下に広がる春の海や空、そして漁港を眺めながらの入浴は、遠く近くでウグイスの声も聞こえ最高でした。下の上の写真は自動シャッターで自分が、下の下の写真はモザイクをかけなければいないのかも知れませんが、息子が撮ってくれた私の入浴写真です。

 息子が言うようにせっかく作った風呂なので、これからもせいぜい楽しみたいと思います。幸せでした。

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  「三月と いうに一番 草を刈る 今年の草も したたか伸びて」

  「俺に似て 歳をとりたる 草刈機 修理しながら 大事に使う」

  「いい湯だな ウグイス鳴いて 春日和 これぞ幸せ 金はなくても」

  「防腐剤 五年歳月 消すように 息子と二人 塗り分けてゆく」

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〇金融担当大臣表彰(日本銀行総裁連名)をいただくようです。

 昨日自宅書斎でパソコンを打っていると、玄関のチャイムが鳴りました。出て見ると若い郵便局員さんが「速達です」といって、A4の茶色い封筒を届けてくれました。愛媛県庁の封筒の下に差出人の県民環境部県民生活課とあるのです。「あああの件か」と納得しました。というのも先日県民生活課の担当の方から表彰の件で電話連絡があったのです。私はこれまで海外派遣30周年記念論文で国土庁長官大臣表彰を受けたり、県政発足記念功労賞などを受けていますが、リタイアして5年にもなりそんな世界とは無縁だと思っていたのに、大臣表彰に内定しているというのです。

 ハサミで封を切って中身を見ると、「平成21年度金融知識普及功績者金融担当大臣表彰(日本銀行総裁連名)の決定及び表彰(伝達)式の実施について」とあり、本文には、「さてこの度、あなたの長年にわたる金融に係る知識の普及や実践活動、団体の指導・育成などのご功績により、標記表彰の受賞が決定されましたのでご通知申し上げます。つきましては、表彰(伝達)式を下記のとおり実施しますので、ご多用のこととは存じますが、是非ご出席下さいますようご案内申し上げます」と書いてありました。

 表彰は嬉しいことに違いはないのですが、はてさて金融知識普及功績者となると、「はて私はそれだけの働きをしてきたのだろうか?」と疑心が頭をよぎるのです。

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 確かに私は昭和51年(1976年)からこれまで34年間も、飽きもせず金融広報中央委員会長から委嘱を受けて金融広報アドバイザーという仕事をやっているのです。私が始めて委嘱を受けた当時は公民館に勤めていて貯蓄推進員という肩書きでした。その後時代の変化とともに名前も改称され現在に至っていますが、若かった私も34歳歳をとったのです。3年ごとに委嘱を繰り返し、12枚もの委嘱状をいただいているのです。その間異動や仕事の忙しさなどに悩殺されながらも尾の仕事だけはボランティア活動として真正面から取り組んできました。

 金に無縁な私がなぜ貯蓄推進員になったのか未だに疑問が残りますが、分相応な身でありながら事務局の日銀松山支店に再三出入りして、時流にあったご指導を受けてきたのです。私の得意分野は生活設計や実践地区の指導で、自らの生活設計の事例を引用しながら多くの人たちに、人間関係の貯蓄、金銭の貯蓄、知識の貯蓄、健康の貯蓄などを話してきました。

 まあ表彰を辞退する理由もないので、今回は甘んじて全国14名の受賞者の末席(四国・中国・九州で2名なので本当に末席)を汚し、3月29日の授賞式に出席する旨返事をしたところです。


  「大臣と 総裁連名 表彰を すると速達 通知が届く」

  「受賞など リタイアゆえに 無縁だと 思っていたが 嬉し恥ずかし」

  「表彰は 辞めろのサイン 妻が言う そろそろ俺も 引き時なのか」

  「この仕事 一番得は 俺だった お陰で牧場 人生までも」

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〇盛り沢山なスポーツを新品のテレビで観戦

 ゴルフをする訳でもなく、ジョギングやウォーキング以外、これといってスポーツをしない私は、もっぱら「スポーツは見るもの」とばかりに、このところの寒さゆえコタツに入ってテレビの観戦を決め込んでいます。昨日は雨で二日間も順延した高校野球に、愛媛県勢が出るというので、午後からは早々に仕事を切り上げ一部始終を見ながら応援しました。雨のせいでもないのでしょうが今治西は、延長の末4-5でさよなら負けを期してしまいました。今日からは甲子園球場のニュースも興味半減といったところです。

 続いて4時から大相撲春場所の放送があり、パソコンを打つ手を休めて5時過ぎから相撲の観戦です。興味は大関昇進をかけて頑張る把瑠都と朝青龍の突然の引退で一人横綱になった白鵬の相撲です。いずれも絶好調で、全勝対決の24日は満員御礼が出るほどの注目度でした。24日は子ども教室の閉講式があって残念ながら見ることができず、帰宅してからインターネットで速報を見ました。さすが横綱白鵬で熱戦の末全勝を守り今に至っているのです。さて一歩横綱がリードしている優勝賜杯は誰の手に行くのでしょう。


 午後6時からはプロ野球セリーグが昨日開幕しました。月並みな球団ですが私は巨人が好きなのでニュースを見ながら時折気になってチャンネルを切り替え巨人ーヤクルト戦を観戦しましたが、内海の好投と打線がうまくかみ合い幸先良く4-1で開幕戦をものにしました。去年の世界大会優勝やリーグ戦優勝、日本一などですっかり自信を深めた原監督の采配が光るゲームとなって、安心して見ることができました。

 プロ野球は長丁場なので、選手の怪我などが重なったり不調が続くと思わぬ連敗などがあるようですが、今年も楽しみにしたいと思っています。


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 さて、わが家のテレビが故障して新しい42インチ画面のテレビに変わってから半月近くが経ちました。わが家ではテレビの主導権は妻なので、妻は薄型テレビの操作を取扱説明書をメガネをかけて読みながらやっていましたが、もう殆どマスターして自由自在に操り楽しんでいるようです。私たちの地区は海から少し入っていて本尊山が電波をさえぎっているため、共同アンテナで受信をしています。共同アンテナをデジタル放送にする工事がまだなのか、デジタル放送の電波が届いていないのか分かりませんが、今はアナログ放送のままのようです。アナログ放送の終わる来年の7月までには見えるようになるのでしょうが、松山に住む息子や娘の家のデジタル放送を見るにつけ、早くデジタル放送を見たいと期待をしているのです。


  「甲子園 相撲に野球と 忙しく 半日テレビ つけっぱなしで」

  「大型の テレビで観戦 臨場感 財布はたいた だけのことある」

  「チャンネル権 テレビ変われど 妻の手に 亭主寂しく 妻のおこぼれ」

  「死んだはず 藤田まことが 生き返る テレビは不思議 自分疑う」

 

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〇はがき通信192号

 私にはがきを書くことを教えてくれたのは広島に住む平井悦夫さんです。彼と出会ったのはもう20年も前のことなので何処で何の目的で出会ったのかは忘れましたが、当時彼は広島県新市町という町の役場に勤めていました。字こそ違え「しんいち」という私の名前と同じ町の名前にどこか共感を覚え、いつしか彼と深い関係になっていました。深い関係といっても別に詮索されるような関係ではありませんが、私と同じように怪しげに動き回るばかりか、筆まめに私の元へ達筆ながきを届けてくれたのです。

 その後新市町は隣の福山市と合併し、役場職員から市役所職員になりましたが、先日福山市へ特産品ブランド化推進のための講演会に招かれた折、彼はわざわざを足しの公演を聴きに来てくれ、久しぶりの再開を果たしました。昔と変わらず元気そうで、訪ねてきた控え室で昔の話に花を咲かせました。

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 私の記録による記憶によると、平井さんは私が主宰していたフロンティア塾の講師として、双海町東越の廃屋を利用して1年に4回、10年で40回開催したフロンティア塾・玄冬塾に平成6年2月12日~13日来ています。あいまいな記憶なので深い内容までは忘れましたが、顔と語り口は今も私の脳裏に焼きついているのです。

 彼が私の記憶から離れないのはもう一つの理由があるのです。それは公園に来て以来ずっと自分の作ったはがき通信を私に送り続けているのです。多分別の友人知人にも送っているでしょうから、気の遠くなるような努力を彼はしているのです。

 私も彼に触発されてはがき通信を一年間毎日作った記憶があります。習いたてのワープロで作りましたが、その後ワープロは使わなくなり、どのソフトフロッピーに収めているのかさえ忘れましたが、いずれ日の目を見て一冊の本にしたいと思っているのです。

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 私の周りにはこのようにオンリーワンな生き方をしている人が沢山いるのです。そしてその影響を受けながら自らも少しずつ成長してきたのです。もし平井さんに出会わなかったら、私の毎日はがき3枚もなかっただろうと、恩人に感謝せずにはおれないのです。それにしても彼は達人です。私などまだまだ足元にも及びません。

 さて私は一体どんなオンリーワンを持って他の人に影響を与えているのでしょうか。お粗末ながら心もとない話です。これから修行してと思いますが、もう後がない崖っぷちの私には望むべきもない話です。仕方がないので自分の潜在能力を目いっぱい生かして、いい人生を歩みたいと思っている今日この頃です。


  「百を越え 二百二近い 文届く 書いた人あり 頭が下がる」

  「俺にでも 出来ると信じ はがき書く 一日三枚 今では日課」

  「いい人に 出会って人は 人となる これから先も いい日と見つけ」

  「字が下手と 言い訳言って 書かぬ人 書かぬはがきは 届く訳無し」

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〇日課ならぬ月課

 私にはこの4年間、毎月決まったようにやらなければならない仕事があります。リタイアしてサンデー毎日となった私に大川理事長さんからお声がかかり、生活協同組合コープえひめの学識経験理事に就任したからです。それは仕事といえるかどうか分かりませんが、とにかく毎月最終木曜日はその会合に出席しなければならないのです。松山市の本部で開かれる理事会は毎月決まって午前10時30分から始まります。

 理事会の一週間前には本部から理事会の資料が送られてきます。事前に銘を通して出席するのですが、常勤理事と学識理事を除けば全て女性の地域理事の皆さんはとても研究熱心で、この資料を元に様々な意見を述べてくれるのです。素人の私は感心しながら毎回その意見に耳を傾けるばかりで、たまに理事長さんから意見を求められますが、頓珍漢な話に終始して赤面を隠せないのです。

 事前に送られてくる資料の表紙には全理事、監事、顧問の名前が印刷され、出席状況が一目でわかるようにくふううされています。当日の議題も議決事項、協議事項、報告事項、文書報告の順に印刷されていますが、資料が届くとその議題に軽く目を通すと直ぐに、毎回裏表紙を開けて理事長が書いているカルフールという文章を興味深く読むのです。そこには理事長の目から見た最近の出来事や理事さんたちへのメッセージが要約して載っているのです。

 今月の資料には冒頭に「恋人岬」という見出しがつけられ、恥ずかしながら私のことが次のように書かれていましたのでその一部を紹介します。

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 桜が開花し始め、双海町の菜の花が満開とのニュースが届いてきました。もう~春ですね~。双海町といえば、ふたみシーサイド公園の中央部に”恋人岬”と呼ばれる突堤があるのは、若松さんのお話でご存知の人も多いと思います。このふたみシーサイド公園には若い人たちを中心に、年間50万人が訪れるというから驚きです。(ちなみに道後温泉の入浴客は年間80万人)、この恋人岬に二つの石でできている”夕日のモニュメント”があり、1年にたった2日だけ春分の日と秋分の日の夕日がこのモニュメントの二つの穴を通して見え、その夕日を見ると幸福になると言われ、若い人たちの絶好のデートスポットとなっています。春分の日・秋分の日も曇ったり雨だったりする年もあり、しかも二つの穴を通して見える時間は短時間であることを考えると、その恩恵に与かることが出来る人はごくわずかであり、何か神秘的ににする感じるのは年のせいでしょうか。(後略)

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 実はここに書かれている恋人岬という名をつけたりこの岬やモニュメントを造った張本人は私なのです。北西の季節風が押し寄せる海岸に人口砂浜を造るという無謀な計画は、国や県を巻き込んで実行したものの、ものの見事に失敗し大量の砂が荒波で沖合いに散逸しました。それを止めるため3本の突堤を造ってもらうよう国や県に働きかけ、出来上がった真ん中の突堤に恋人岬と名前をつけたのです。そして3年間の定点観測を経て突堤にある方向を向いた高さ4メートルのモニュメントを設置したのです。モニュメントには直径60センチの穴が開いていて(夕焼けこやけの赤とんぼ)、約100メートル先の対岸に置いた座石(背負われて見たのはいつの日か)から見ると、綺麗な夕日がスッポリこの穴に入って見えるのです。

 この面白い仕掛けを知っている人は毎年この様子を写真に収めにやってくるのです。「幸せになりたい」あなたも是非この旬の夕日を実に来てください。今なら間に合うようです。


  「えっ本当 ?か誠か この話 十年経てば 本当になって」

  「本当に この夕日観て 幸せなった 人がいるから 本当の話」

  「このところ 夕日も雨で 曇りがち 黄砂に煙る 夕日一趣」

  「今日あたり 自慢の夕日 観に行こか カメラ抱えて 見知らぬ人と」

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〇双海町子ども教室ふるさと体験塾閉講式

 第1回 青島漁船クルーズ~底引き網体験

 第2回 ふたみ学校探検

 第3回 みんなでキャンプ

 第4回 グリーンツーリズムを学ぼう

 第5回 いちごスイーツに挑戦

 第6回 ふたみ名物体験

 第7回 ふたみの歴史を学ぼう

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(閉講式の模様)

 仕事の都合で全てに参加することは出来ませんでしたが、今年もこの一年間、双海町の子どもたちと上記のような体験活動を行いました。その閉講式が昨晩基幹集落センター大ホールであり、実行委員長をしていたこともあって出席しました。

 私の開会の挨拶の後この一年間の活動の様子がスライドショーで流されましたが、子どものイキイキと笑顔で活動する姿がとても印象深く写っていました。驚いたことに7回のプログラム全てに参加した皆勤賞の子どもが沢山いて、嬉しそうに賞状や記念品を受け取ってくれました。

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(今年の活動記録は2枚のCDに録画され記念品となりました)

 もう二つ嬉しいことがありました。今年小学校6年生を終えて中学校に進学する子どもたちが大きな声で今年の感想を述べてくれたことです。すっかり逞しくなって、その言葉は堂々としていました。この分だと中学校になっても一生懸命頑場ってくれるだろうと予感させました。

 もう一つは中学3年生でありながら子ども教室の卒業生である宇津さんが、ボランティアリーダーとして活躍してくれたこと、また愛大生の宮崎さんもボランティアリーダーとして参加してくれたのです。実行委員会では二人に感謝状を送りその功績を讃えました。この二つは何よりも嬉しいことでした。

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(中学校に進級する子どもたちのレクチャーは堂々としていました)

 自分の子どもが子ども時代には、仕事やまちづくり活動が忙しく、殆どかまってやれなかった罪滅ぼしのつもりもあって、退職後もこの5年間、請われるままに実行委員長を引き受けて参加させてもらっていますが、子ども教室は大学の非常勤講師とともに私の若さの活力源になっていることは確かです。もう少し関わりながらしっかりとふるさとの子どもたちを育ててやりたいと思っています。昨日は保護者もたくさん来ていただきいい閉講式となりました。


  「終了証 受け取る子ども ありがとう 大きな声で 感謝忘れず」

  「筍の 太きも塾の 恵みかな 知らぬ間に 雨後の筍」

  「ボランティア リーダー二人 表彰す 二人を目指し 育って欲しい」

  「わが子など ほったらかして 人の子へ 愛情注ぐ 少し変だな」

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〇三年間の空白

 「若松さん帰ってきました」と笑顔で面談したのは、双海町高野川出身の中尾治司さんです。中尾さんは小学校の先生ですがこの3年間オーストリアウィーンの日本人学校の先生として家族とともに赴任し、その役目を終えて無事帰国したのです。昨日帰ったばかりで時差ぼけもあるだと思うのに、律儀にも昨日の夜行われた双海史談会の総会に元気な顔を見せてくれました。

 積もる話もあるのですが総会なので先生を独り占めすることが出来ず、またわが家へはお客さんが来ていて懇親会が始まると早々に引き上げたため、次の機会にとすることにしましたが、その穏やかにして精悍な顔つきは3年前と少しも変わらず、少し頭に白髪が目立つ程度の変化でした。

 中尾さんと同じ年齢で同じ期間の3年間、えひめ地域政策研究センターに出向していた松本宏さんがいます。彼も海外と国内の差こそあれ、八面六臂の活躍で、特にこの一年間は人材育成のため東京で開かれた地域活性化塾に塾生として参加し、様々な経験を積んでこの度出向が解かれ帰って来るのです。彼の書いたレポートには成長の足跡が随所に見え、すっかり逞しくなっています。

 中尾さんが一緒に連れて行った息子さんはまだ会っていませんが、この4月には中学校に入学するようで、時の流れの早さを感じるのです。また中尾さんがオーストリアに行く前教頭だった先生が昇任校長として中尾先生が復帰する学校に帰って来るのも因縁めいているのです。

 中尾さんの実家は魚屋ですが元漁師です。松本さんの実家も元漁師、わが家も元漁師です。中尾さんも松本さんも、私も運命的には漁師になっても可笑しくない家計なのに何故か今の道を選んでいます。宿命は変わりませんが運命に変わることを物語るエピソードのような気がするのです。

 私が教育長をしていた2年間、中尾さんは派遣社会教育主事、松本さんは社会教育主事として教育委員会で一緒に仕事をしました。若さみなぎる彼ら二人に加えた米湊さんから多くのことを学びました。特にパソコンなどは右も左も分からないのに、随分手助けをしてもらった記憶が蘇ってくるのです。その恩恵で下手糞ながら今でもこうしてパソコンを使うことが出来るようになったのです。


 さてこの3年間の空白は私にとってどういう意味があったのでしょう。実は中尾さんと松本さんとはレベルの差こそ大きいものの、密かにこの二人に負けまいと3つの目標を立ててそれなりに努力し、それなりに進化をしてきました。一つは漠然としていますが健康と若さを保つことです。教育長を退職し自由人になって2年が過ぎていました。3年後に会うときには健康と若さを保ち活動せねばと、運動や食事に気を配り、地域づくりの全国大会の実行委員長として何とか成功に導きました。お陰さまですこぶる元気です。二つ目はブログを毎日欠かさず書くことを習慣化することでした。お陰さまでこれもどうにかクリアーすることが出来ました。彼らが別の道で精進している間に36冊のブログ綴りが完成し、人間牧場の書棚にしっかりと並べられているのです。

 三つ目は人間牧場の進化です。緒に就いたばかりだった人間牧場もあれからロケ風呂やツリーハウス、それにかまど小屋も出来、落伍のネタ本も地の書、水の書まで発刊し、3冊目の火の書も今年中には発刊の運びとなる予定です。若松進一というもう一人の自分に、二人の幻影をプレッシャーしながらそれなりに頑張った結果は、二人に対しても胸を張れる成果なのです。

 目標を手に入れるためのプロセスは生きがいです。多分これら三つの目標はこれからも私の生きがいになるものと思われます。とりあえず3年間の空白を総括し、自分で自分を褒めてやろうと思いました。

  「三年は あっという間に 通り過ぎ されど三年 私も進化」

  「少しだけ 気張って生きた 甲斐があり 成果手に入れ これから先も」

  「世の中が 変わるのだから 俺たちも 変わってないと 生きる意味なし」

  「逞しく なった二人に 刺激され これから先も 楽しく生きる」

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shin-1さんの日記

〇これからもリアル人間でありたい

 65歳の高齢者になった自覚からか最近は、健康のことが妙に気になり始めています。睡眠のこと、食事のこと、体力のこと、時には体重のことなどなど、これまで殆ど気にせず日々暮らしてきたことがいちいち気になるのです。私の生活基本は「体にいいことはする。体に悪いことは止める」なので、お酒も胆のうを手術したその日からきっぱり止めました。もともとお酒は飲まないし、甘いものも肉類も殆ど食べず、ベジタリアンではないにしても、もっぱら野菜中心の食事を心がけています。つい最近流行のサプリメントも利用していませんが、食事に気をつけるだけで随分健康が保たれていると自負しているのです。これは妻の協力があってこそなしえることなので、ここだけの話ですが大いに感謝しているのです。

 「お父さんそんな短い時間の睡眠でよく眠くならないねえ」と妻が感心するほど、睡眠は短めで、一日4時間程度です。「そんなに寝なかったら、いまに寝たきりになる」とまるで笑い話のように妻から注意をされていますが、これが私のバイオリズムなのです。

 さて、体重がつい最近気になり始めました。胆のう摘出手術をしてから13キロ痩せた体重は今もそんなに変わりはありませんが、妻の体重が少し気になるのです。それでも妻は勤めている歯科医院へ毎日歩いて通勤するなど涙ぐましい努力をして、以前よりは随分減量しましたが、目標までのあと2キロが中々減らないのです。そんなこともあって、たまの休みには二人そろって温浴施設に出かけ汗をかくのですが、これも中々効果が出ないようです。

 最近の温浴施設にはサウナがあって私はよく利用します。汗を出す方法には運動をして体内から自然発生的に汗を出す方法と、サウナなどに入って外的な温度で汗を出す方法がありますが、やはり運動をして汗を出す方法が一番のようなのです。サウナで出した汗はかえって筋力を低下させるようです。

 これは何にでも当てはまることですが、最近は汗をかかずに汗をかくことを論じる人が余りにも多いような気がしてなりません。自分のやったことを論じる以外脳のない私は、リアルを話します。ところが自分でやってもいないのに、さも自分がやったような顔をして全国の先進事例を並べ立てて話すのです。まさに実体を伴わないバーチャルの世界なのです。

 評論家やコンサルタントがどんどん増えて、それで飯を食っている人の方がはるかに多いのです。行政などはその典型で、高い金を出して自分の仕事を丸投げして取り繕うのです。困るのは地域住民で、行政の言うがまま、コンサルのなすがまま駆り出され、終わればそれで一件落着、まちづくりがうまく行ったような錯覚になるのです。

 人も町も汗をかかないと元気にならない。つまり汗をかけば人や町は必ず元気になるのです。そのことを肝に銘じてこれからもしっかりと汗をかきたいと思っています。

 さあ今日はどんな汗をかこうか。冷や汗ではない熱気溢れるリアルな汗を・・・。


  「汗かかず こうあるべきと 諭す人 どういう訳か 心動かず」

  「汗かいた 人が最後は 成功す いつの時代も そうでありたい」

  「俺リアル? いやバーチャルか? 危ないぞ 自戒を込めて しっかり生きろ」

  「後二キロ 峠が越せぬ 妻を見て 越せぬはずだわ 超える元喰う」

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〇3月は異動の季節

 このところ毎日のように、知人友人から「異動の内示があった」と近況や心境を知らせるメールが届くようになりました。異動は一応希望を出すものの、希望通りに動く可能性や保障は殆どなく、毎年この頃になるとビクビクしながら日々を過ごす人の姿を良く見かけるのです。

 私も役場35年の生活で教育委員会から産業課、企画調整室、地域振興課、教育長と4回の異動を経験しました。私の場合教育委員会13年、産業課4年、企画調整室9年、地域振興課9年、一旦退職して就任した教育長という特別職を除けば3回しか異動辞令をいただいていないのです。私の若い頃は人事評価などなかった時代ですから、異動希望などまったく皆無だったし、その後異動希望調査が取り入れられたものの一度も異動希望を書いたことがなく、「「現在のまま」と書いていました。

 私の異動で思い出されるのは教育委員会から産業課へ異動した時でした。教育委員会では社会教育とりわけ公民館活動に情熱を燃やし、日本一の公民館主事を目指していました。しかし教育委員会に出向していながら企画調整室係長、総務課係長という兼務辞令をもらって町名変更の担当をしました。町名変更は町長リコール問題にまで発展して町長が辞職して信を問う選挙となり、町長が当選したものの騒動は治まらず、次の選挙で新町長が誕生、私もその責任を取らされて産業課へ異動したのです。心に左遷意識や焦燥感のようなものがあったことは事実ですが、その時恩師である静岡県の朝比奈博さんから、「ぼうふらも 人を刺すよな蚊になるまでは 泥水すすり浮き沈み」という言葉を送ってもらいました。その言葉に励まされて再びチャレンジし、その後の夕日をテーマにしたまちづくりへと発展して行ったのです。

 昨日の夜、えひめ地域政策研究センターへ伊予市から3年間出向している松本研究員と、JAから一年間出向している武田研究員の送別会が、年輪塾のメンバーが集まって、ふじという居酒屋でありました。奇しくも昨日伊予市では異動内示があったようで、松本さんは地域事務所へ、武田さんは退職して別の会社へ再就職するそうでした。お二人ともかつて私が代表を務めていたえひめ地域づくり研究会議の事務局を務めてくれた人なので、今後の発展と活躍を心より祈っています。

 松本さんは身近な場所への異動なので私にとっては大歓迎の部署なのですが、最近の異動を見ると、何やら1年異動が目に付き気がかりです。市町村の場合行政サービスの相手たる住民のことを思うと、せめて同じ職場に3年はいないといい仕事は出来ないのではないかと思うのです。1年の異動はやっと仕事になれた頃替わり、人の作った予算で仕事をしなければならず、自分の独自性が発揮できないのです。マニュアルどおりにすれば何ら問題はないようにも取れますが、やはり行政は人がするもの、人間関係が絡むものなので、もう少し地に着いた異動をして欲しいと思いました。


 追伸

 県境の向う高知県四万十市西土佐に住む和田修三さんから、教育委員会へ異動した旨の一報が届きました。西土佐も学校統廃合の難しい問題が控えているようです。教育委員会事務所長として活躍を期待しています。

 警察官の息子から、異動したと連絡がありました。月末には引越しの手伝いをしに行かなければならないようです。


  「今年又 異動の季節 迎えたり 来たり去ったり 一喜一憂」

  「この異動 誰が原案 作るのか 知る由もなく 人生決まる」

  「栄転や 左遷と人は 言うけれど 何のことない 給料一緒」

  「わが息子 新たな場所へ 異動する 何を夢見て 行くのだろうか」


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