shin-1さんの日記

〇従兄弟「芳兄」ちゃんに学ぶこと

 昨日私の従兄弟の西下芳雄さんに出会いました。西下さんは地元で材木屋を営んでいますが、若い頃から進取の気性が強く、裸一貫から身を起こし、製材業を営みながら焼き杉外壁材を発案して軌道に乗り、今は息子が取り組んだ2×4の輸入住宅がこれまた軌道に乗って、親子二代で20人余りの年少10億円を越える企業に発展させているのです。身内の端くれゆえ田舎では珍しい親子二代の活躍に内心喜んでいるのです。

 昨日は一昨日金森さん宅でいただいた古い鍋の蓋を作るための板切れを貰おうと下灘の工場に出かけました。社長業を息子に譲り会長職をされていますが、数日前になくなった私の叔母と同級生ですから81歳になるというのにまだかくしゃくとして、こまごました作業をニコニコしながら働いていました。

 私はこの従兄弟を「芳兄ちゃん」と呼んでいます。兄弟以上に気の合う、そしてお互いよき理解者でもあるのです。最近は私が夕焼けプラットホームコンサートを25年前に始めた下灘駅を、地元の老人会が花を植えたり掲示板を造ったりしていますが、その中心人物として地域貢献をしてくれているのです。

 手先の器用な、それでいて材木屋なので掲示板や花活けなどいいと思えば何でも直ぐに作ってしまう行動派で、今では下灘駅の駅舎がすっかり見違えるほどになっているのです。彼の発案で置いている落書き帳「うふふ・・・」には様々な人生模様が綴られているのです。彼はこの落書き帳を読むのが楽しみだといいます。人生に疲れ降り立った、下灘駅のプラットホームで海や夕日を見て癒され、時には生きる希望を見つけたことまで書かれていると話してくれました。

 最近この会社に嬉しいことがあったようです。息子の息子、つまり芳雄さんの孫に当たる後継者が跡を継ぐため帰ったようです。無から有を生み出した芳雄さん、有から有大を生み出した息子さん、有大から夢を持っているお孫さんと、私の叔父に当たる祖父の代から数えると4代目の孫は果たしてどんな人生を歩むのでしょう。

 立ち話でしたが、日本の戦後の教育は向都離村の教育をよしとしたため、都会は発展し田舎は疲弊しました。自分の生業を卑下し、自分の住んでいる地域を卑下して都会予備軍を作ってきた付けに今頃気付いてオロオロしている田舎の姿を二人で色々と話しました。

 同じ仕事を続けれませんでしたが、わが家も長男家族が今年度中に同居する予定であるささやかな喜びを話しながら分かれました。

 鍋の蓋を作る板切れをいただき、自宅に帰って91歳の親父に「暇な時でいいから」と細工を頼みました。親父はこの二日間畑に出て、ジャガイモ畑の根寄せ作業を一生懸命してくれていました。老いてもなお元気に頑張る親父と私、そしてやがて帰って一緒に住むであろう息子や孫に思いを馳せた一日でした。


  「直ぐ傍に 俺の見本の 人が居る 平凡生きろ 平凡生きる」

  「跡を継ぐ 人あり俺は 幸せだ そろそろ息子 同居の準備」

  「人様の 役に立つよな 人になれ 親父口癖 俺も口癖」

  「俺にしか 出来ないことは 何なのか 未だ未熟で 答え分からず」

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shin-1さんの日記

〇残照に赤く染まる本尊山

 サンデー毎日の私ですが、やはり年度末と年度初めは色々な公式行事への参加もあって、結構忙しい日々を過ごしましたが、ここに来てやっと落ち着きを取り戻した感じです。それでも新しい年度が始まると、やれ打ち合わせだ、やれ講演だとメールが沢山入って、その対応のため書斎のパソコンに向かう時間が結句長くなりつつあります。

 天候不順だった今年の春もこのところ天気が安定して、桜の便りに誘われていますが、こと夕日に関しては中々見る機会に恵まれませんでした。昨日の夕方玄関のチャイムが鳴り、出て見ると新聞屋さんが購読料の集金にやって来ていました。家内が留守だったので急いで財布を取りに戻り3千円を取り出し領収証と引き換えにお金を渡しました。少し世間話をして外へ出て見ると、真っ赤な夕日がしずんでいるであろう時間だったため、家の前に聳える本尊山が、夕日に映えて綺麗に見えました。

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 先日まで冬枯れの殺風景な風景だった本尊山周辺もいつの間にか山桜が咲き、新芽が一斉に芽吹いて、胎動の季節を迎えており、夕日が照らす姿は何とも穏やかな風情を感じました。双海の夕日も4月に入り西から北上を続けていますが、残念ながらまだ今の時期わが家からは西寄りのため見ることができないのです。それでも見たくて、家の裏に登って見ると、今まさに沈まん夕日が山の端の杉木立の間から神々しく印象的に見えました。これも乙なものだと思いカメラに収めましたが、今日あたり夕日でも見に出かけようかと思いました。

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 昨日は親類の漁師さんからサメをいただきました。地元の漁師さんがテッポウやノークリと呼ぶ小型のサメは三枚におろして皮を剥ぎ薄造りにすると刺身でも美味しいのです。普通の人は湯ざらしにして酢味噌で食べますが、わが家では刺身と天ぷらにして食べます。魚なら何でも目のない友人に2匹ずつおすそ分けをしました。一緒に貰ったナマコも漁師さんに貰う時教わった通りにレシピを伝授しましたが、さてうまく料理できたかどうか心配です。

 退職して6年、時々魚料理をする私の腕も少しずつ上達し、三枚におろしたりする荒料理はもっぱら私の仕事になりました。妻の褒め言葉につられてやっていますが、まあこれも悪くはないと思いつつ、私専用の出刃包丁と刺身包丁を研ぎ澄ましているのです。


  「残照に 赤く映えたる 本尊山 季節巡りて 芽吹き活き活き」

  「何気なく 一日過ぎる 日々ながら その気になれば 楽しからずや」

  「サメさえも 食してしまう 魚好き 海人ゆえの 楽しみありて」

  「生き物の 目の輝きに 似た夕日 どこかもののけ 感じて写す」

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shin-1さんの日記

〇ツワブキとフキを収穫しました

 人間牧場の草刈も一段落して、今日は午前中サツマイモの苗床の草引きをしました。例年になく早い種芋伏せで、サツマイモの芽吹きを期待していましたが、ビニールを覆った苗床は、種芋の芽吹きは見えないのに雑草が茂って種芋を隠すようになっていたので、ビニールをはがし覗き込むようにして中の草を引きました。草の陰に隠れて見えなかったのですが、種芋はかなり芽吹いているようで、これから気温が上がれば何とか一ヵ月後には芋づるを確保できるだろうと期待をしているのです。

 被覆ビニールを元に戻し、苗床の草引きが一段落したので人間牧場のツワブキとフキを採ることにしました。今年は天候不順で4月に入ったというのにフキの成長が遅く、中には葉っぱが黒く焼けたようになっているものもありました。これは多分暖かさに誘われて伸び始めたものの、その後の寒さで葉っぱに霜障害のようなものが発生したのではないかと思われるのです。それでも大きくて背の高いのを50本ばかり選んで剪定鋏で根元から切り取り葉っぱを落として束ねました。昨年は鎌で刈り取るほどの大豊作で、漁協女性部や親類に差し上げたりして喜ばれましたが、そのうち今年もみなさんにおすそ分けしてあげたいと思っています。

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 ツワブキも人間牧場を開設して6年目を迎えましたが、畑の隅に自生しているツワブキを草刈の時刈り取らないように残している株が大きくなって、自家で食べる以上に収穫できるようになりました。よくよく観察するとツワブキにも白系と赤系があって、どちらの味がいいのかはまだ実証していないのです。それでも綿毛を被った新芽が大きく成長して、あっという間に1束の収穫が出来るのです。わが家では妻がこのツワブキが大好きなので、今年ももう4回も収穫しました。しかし肝心なことはこのツワブキ、とても美味しいのですが残念ながら皮が剥きにくく、ましてや剥くと灰汁で手が茶色になって中々落ちない厄介なものなのです。

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 今日は午後、ツワブキとフキの皮剥きに挑戦しました。薄手の使い捨てビニール手袋をはめて、一本一本へし折りながら剥いて行きました。かなりの量だったので1時間余りもかかってしまいましたが、何とか妻が仕事から帰るまでに剥き終わり、帰った妻はたいそう喜んでくれました。

 これまで家之子とは殆ど顧みない駄目亭主でしたが、何の風の吹き回しか妻も少々目をパチクリさせながら見守っていました。お陰さまでワカメにひじき、ツワブキにフキ、加えて今日は筍とワキギ、高菜などをいただき、三彩や野菜中心の献立調理をする台所の音を聞きながらブログを書いています。幸せですね。


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  「山菜を 採る楽しみは 良いけれど 処理は自分で しなきゃあならず」

  「手袋を はめてツワブキ 皮を剥く 灰汁で手先が 茶色に染まり」

  「ツワブキも フキや筍 ワラビまで 食卓飾る 少し苦味が」

  「どちらかと 言うと私は フキが好き 妻はツワブキ 多少の違い」  

 

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〇えっ、モデル撮影会ですか?

 昨日は昼食休憩のため自宅に戻った妻を誘い、田舎のオープンカーで近所の桜を見に出かけました。前日陽気に誘われて、桜の写真を撮りに出かけたその美しい桜を、妻にも見せてやりたかったからです。まず最初に潮風ふれあい公園に出かけました。

 嫌がる妻をモデルに立たせ、モデル撮影会と洒落込みました。夫の私が言うのも可笑しいのですが、昔は私が一目ぼれ(うそ)した妻も、長年の私の酷使のお陰でその姿は見る影もなく、すっかり所帯やつれしていて、人様に見せるような写真には写らないものの、まあ犬も食わぬと故障しかかったデジカメで桜の花を主体に、刺身のつまのような付け足しで撮りました。

 嫌がる妻を桜の前に立たせ、「ブログには絶対載せない」という口約束で撮ったのですが、その出来栄えもそこそこなので、妻の目を盗んで約束を破り、こうして勝手に紹介しています。妻には内緒にしておいてください。

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(ここが今年も双海町の一押し桜の名所、潮風ふれあい公園千人塚の写真です)

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(千人塚の桜の近くで撮りました)

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(潮風ふれあい運動公園近くにて)
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(大通寺山門前の前の枝垂桜の前にて)

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(県道双海~内子線沿いの桜の大木の下にて)

 桜も美しいのですが、桜の前に立つ普段着の熟年のおばさんもそれなりだと感心しました。妻は私より一つ年下で結婚したので、追い越されていないのであれば今も一つ違いのまま、確か65歳-1歳=64歳のはずなのです。まあどちらが先に死ぬか分かりませんので、一つや二つの違いは五十歩百歩でそんなに変わるものではありません。

 仕事や家事など雑事の多い妻は、たまの休みの日曜日にも娘や息子の家族がやって来て、殆ど自分の自由時間などないに等しい日々を過ごしているので、こんなに駆け足での桜花見なのに、「まあこんなに近くにこんなに綺麗な桜があるなんて」と感心して、「お父さん、今日は言い桜を見せてもらった」と喜んでいました。私の株も少し上がったようでした。

 昨日は乾いたかき餅をダス缶に入れたり、乾燥し終わったひじきやワカメを収納したり、更には感想に使ったサナを納屋にしまったりと、妻に言われるまま家のこまゴマを殊勝にも手伝いました。お陰でそこら辺がすっきり片付き、いい一日となりました。

 相撲取りが処理のインタビューで「一日一番を大事にとってます」という言葉を借りれば、やはり老いを迎えたこれからは、一日一日を大切に穏やか暮らして行かなければなりません。亭主関白な私もそろそろ年貢の納め時、少し妻の言い分も聞き入れて、いい亭主になろうと心がけているつもりの今日この頃です。


  「ブログには 絶対書くな 言われたが 犬も食わない 約束破る」

  「一目惚れ したはず妻も いつの間に 小太りおばさん こちらおじさん」

  「花を撮る つもりが妻に ピント合い それなり写る 田舎の桜」

  「近場でも 綺麗な桜 あるんだね 感心しきり 妻も感激」

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〇桜を愛でる

 「一生のうちであと何回くらい桜を見られるのだろうか?」と考えながら、今年も桜の季節を迎えました。私の生活設計どおり85歳まで生きるとすればもう20回しか見れないのです。これまで65回も桜の季節を見てきた自分にとって、20/85の分子はこれまでの65/85という分子から比べるととてつもなく少ない年月なのです。ゆえに今年も心おきなく桜を目に焼き付けようと、このところ毎日のように桜を眺めているのです。

 今日は仕事で休めない妻のために午前中、長浜の病院まで薬を貰いに行きました。コレステロールが少し高いといわれたためのお薬ですが、病院の近くに住んでいる妻の妹の家に立ち寄り、病院の院長が妹婿の甥なので薬を貰いに行ってもらいました。いつまでたっても病院はどうやら苦手のようです。

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(上り線)

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(下り線)

 道すがら海岸国道の山側が桜の花が満開で、時折通る大型トラックの風圧によってまるで桜吹雪のように花びらが舞い散っていました。せっかくだからと、長浜と双海の境にある郡境の駅「喜多灘駅に立ち寄り、急な石段を登ってプラットホームに出ました。列車に乗る人も訪ねる人もなく駅は散閑としていました。列車は朝と夕方を中心に上下12本が運行されていますが、将来のことを思うとどうなることやらと心配です。

 易者の下にある金森というお店に立ち寄りました。ここは同級生の上田里美さん(砥部町在住)の実家です。家の犬走りに鍋や釜が無造作に置いてありました。おばあさんに声をかけたら、これは不燃物だそうで、もし必要ならば差し上げるとのこと、丁度人間牧場のかまどに合う鍋と釜があったのでいただいて帰ることにしました。

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(本田に向かって右側の桜、右近の桜かも)

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(本田に向かって左側の桜、左近の桜かも)
 三島神社の楼門両脇には品種の違う立派な桜が咲いていて、夜はライトアップしているのを昨晩見たものですから、亀の森に車を止めて、楼門まで長い石段を駆け上がりました。願わくば今晩あたりライトアップした夜桜も見たいと思っています。

 もうそろそろ満開見ごろの潮風ふれあい公園の桜を見ようと、本郷の道を走ると大通寺の前に枝垂桜を見つけました。少々小ぶりですがこれも見事でした。

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(大通寺の枝垂桜)


 そして最後は潮風ふれあい公園千人塚の桜を見に行きました。下から眺める桜もおつなものですが、上から見下ろす桜もまた絶景です。既に何人かの見物客が来ていて、陽だまりでは何組かが花見の宴を開いていました。海も長閑に凪、満開の桜を愛でれる幸せをかみしめながら、ひとり桜見物をしました。幸せです。

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(今年も一押しの桜の名所、ふたみ潮風ふれあい公園千人塚の桜)

  「もう何度 桜の花を 見れるやら カメラと両目 そして心に」

  「この国に 生まれ桜を 見れる俺 幸せですと メールを送る」

  「桜花 このまま散るなと 声掛ける 返事もせずに ヒラヒラ一輪」

  「昔なら 花見りゃ酒と 思ってた 今じゃ抹茶で 風流たしなむ」

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〇叔母の葬儀あれこれ

 今年のお節句は、急に亡くなった叔母の通夜や葬儀で明け暮れました。楽しみにしていた花見も長男家族の帰郷も、またぼっやん劇場からミュージカル正岡子規の観劇も、全てキャンセルとなって少々落胆しましたが、これも仕方がないことと諦め、深い交友のあった叔母の葬儀に心を込めて参列しました。

 葬儀の仕方がそこそこの宗派によって異なるため戸惑いも多く、また見知らぬ親類縁者は余り居ないものの葬儀を出す家の思惑もあって、慣れぬことゆえ様々な発見がありました。

 今回の葬儀は3日が友引だったため葬儀が一日延びました。ゆえに通夜を2日したような気持ちです。それでもかなり大きな家なので、差岩にも叔母は長年住み慣れた自宅で2日間過ごすことができました。寄り添うようにしていた叔父も恒例で病弱なため、誰もがその体調が葬儀中持つかどうか心配しましたが、幸い気が張っているのか思ったより元気で葬儀を終えることが出来たものの、残された叔父の行く末が気がかりなところです。死んだ叔母と残された叔父の姿をこの3日間ずっと見続けながらわが身に置き換え、夫婦とはいったい何なのか、また夫婦はどうあらねばならないかを考えさせてもらいました。

 葬儀に行っていつも思うことですが、嫁の存在が少し気になりました。この家の嫁は病院の看護婦をしています。ゆえに5人の子ども、つまり叔母にとっては孫の子育てはおばが一手に引き受けてやってきたようにも思うのですが、それでも夢は仕事と糧の両立を考え一生懸命、親子の人間関係の狭間で気兼ねして生きてきたに違いありません。勿論今回喪主を務めた長男も嫁と親の間に立って気苦労も多かったことでしょうが、今もこれからもこの家を取り仕切るであろう嫁の存在は、葬儀の現場で見る限り少し隅に追いやられた感じがしました。娘や息子、叔父や叔母も大事ですが、長年苦労をともにして何かある度に喜怒哀楽を分かち合ってきた嫁にこそ、気を使ってやらねばならないと思いました。

 葬儀には隣組内と称する24戸の近所の人たちが集まって通夜や争議の世話をしてくれました。しかし葬儀の仕方が昔と随分様変わりし、葬祭会館でするようになってしまったため、組内の役割は受付をする程度になってすっかり手を持て余しているようでした。墓穴を掘ることも、竹を切りに行くことも、葬儀道具を運ぶことも、ましてや葬儀の役付きを紹介するなくなって、近習の人間関係の希薄さの中で形骸化する様は、今後改善の余地があるとしみじみ思いました。さりとて妙案を出す立場にないため、自分の近所でこの話をすることは92歳の親父を抱えているだけに出し図来感じもするのです。しかし何はともあれ一考を要することだけは強く感じました。


 昨年のアカデミー賞で脚光を浴びた日本独特の「納棺」の儀式を取り仕切る若い葬儀屋さんの姿を、この日はまざまざと見ることができました。死出の旅に出る叔母の遺体を、様々なしきたりに沿って指図しながら納棺する姿は神聖でした。

 親父は年老いているため、通夜にも葬儀にも出ませんでしたが、前もって前々日連れて行きお別れをさせてやりましたが、自身の妹だけに気がかりだったようで、私たちが葬儀や法要を終えて帰宅したのは9時近くになったにもかかわらず起きて待っていました。この日の一部始終を報告してやり、やっと安堵の床に就いたようでした。

  「あれこれと 何やかにやが 気になって 考えさせられ 葬儀を終える」

  「葬儀では 何処か空しい 嫁立場 わが家だけでも 考えなくちゃ」

  「納棺を 仕切る兄ちゃん テキパキと まるで映画を 見ているようだ」

  「夫婦とは 一体何を 意味するか 二人で逝けぬ  死出の旅路は」

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〇足腰脛の三拍子

 この2~3日、叔母の急逝で親類縁者が顔をお合わせています。さすがに遠方に住む人たちは体の不調で顔を見せませんでしたが、近所に住む馴染みの顔の叔父や叔母たちは、座る度立つ度に「よっこらしょ」と掛け声を掛け、特に座っていて立つ時などは何かにつかまらないとよろけてしまうのです。

 口に出る言葉も「脛が痛くて座れん」とか、「私ももう歳だ」とか、「病院のご厄介になって薬を飲んでいる」とか、弱々しい言葉を口にするのです。「お前は若いからいいが、いずれ歳をとったら私のような体になる」と、私の将来予言まで助言してくれる有様です。

 確かに私の身の回りを見れば親父・叔父・叔母は言うに及ばず、近所にも年寄りがたくさん増えて、高齢化社会を実感するのです。それもそのはず若いと思っていた私さえ65歳の高齢者になったのですから、実感するのは当たり前のことなのです。

 歳をとった人の話は「体の不調」と「年金」、それに他愛のない「噂話」が殆どで、暇さえあれば3つのことをまるで舌好調に話すのです。体が不調で病院へ行くからでしょうか、病気のことや医療のことなどはまるでお医者さんのように詳しく、「〇〇の医者がいい」とか「〇〇の薬やサプリメントがよく効く」とか、口から出る言葉はまあ詳しいです。

 それに比べ年金の話になると「年金が少ない」「年金が介護保険などで引かれて少ない」など不満たらたらで、国会の答弁などを聞いているのか、まるで大臣のようなことを言って政治を悪者にしている反面、年金制度のことについてはまったく内容を知らずに話しているようでした。

 お年よりは噂話も大好きで、「ここだけの話じゃが、人には言わないように」と釘を刺し、ひそひそ話をしているつもりでも、耳が遠いため壁に耳ありなどそっちのけでボリュームを上げ、まるでスピーカでも使っているような大声で話をしているのです。

 歳寄りは思い込みが激しく、3ヶ月前に法事で出会った時に話したと同じことを聞きました。お年寄りは人に話を聞いてもらうだけで安心するのですから、初めて聞くようなそぶりを見せて相槌を打つのです。これは叔父や叔母を馬鹿にしたのでは決してなく、これも高齢者対処方なのです。「その話誰が言いよった」「みんなが言いよる」なんて噂話は枚挙に暇がないのです。

 「私のいずれああなるのか」と思いつつ、叔父や叔母を見ていますが、たった3ヶ月だけでも衰えを感ずる叔母も居れば、老いてなお矍鑠とした生き方をしている叔父や叔母も見受けられるのです。元気の源はどうやら働く、生きがいを持つ、心と体の健康が維持だ着ていることににあるようです。


  「健康と 年金それに 人噂 それしかやること ないのか知れぬ」

  「足や腰 それにお膝が 痛くてと 畳に置いた 椅子に座りて」

  「この次は お前の番と 予告する 膝腰肩の 痛み受け継げ」

  「体力と 気力微妙に ずれ始め 年齢悟る 分相応」

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shin-1さんの日記

〇気がつけば春真っ盛り

 初物好きな日本人好みのニュースとして、「今年の桜は例年より10日も早く高知で開花」という嬉しい便りが届いてから、まるでエレベーターのように論高下する気温の変化に翻弄されて、結局咲いてみれば例年と殆ど同じ頃の桜の花の満開となってしまいました。例年の事ながら宇和島や松山、高知、熊本など、どちらかといえば早く咲く地域では、開花日本一を目指す余り意味のない競争に一喜一憂し、「勝った」「負けた」「来年こそは」とリベンジを誓う人たちもいて、傍目少々同情したりもするのです。


 市役所支所に勤める大森さんからいただいた手作りの卓上カレンダーも、閏住菜の花畑を行く予讃線海岸周り列車をあしらった3月から、本郷潮風ふれあい公園千人塚の桜の写真が登場する4月に捲られました。

若松進一ブログ
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 サンデー毎日の私に曜日は無縁なはずですが、長年のお勤めの癖なのか、やはり日曜日は人様同様、何処かソワソワ、ワクワクするのですそれは日曜日が勤めている妻の一週間に一度の休日でもあるためでもあるのです。今日4日から始まる今月の日曜日は4日・家族花見(私だけ坊ちゃん劇場で正岡子規の観劇)、11日は前日から私が代表を務める21世紀えひめニューフロンティアグループの世界遺産を巡る旅でなら方面へ旅行、

18日は叔父の3回忌法要・今治講演、25日は前日の人間牧場での年輪塾セミナーに加え、西予市卯のほたるの牧場訪問と、まあ結局今日の突然入ってきた叔母の葬儀を含めると、相変わらず全ての日曜日が塞がってしまっているのです。

 まあこの歳になって毎週日曜日やることがあるというのは結構なことであり、仕事もさることながらやることがある向うにはたくさんの知人友人が居るということですから、それはそれとして喜ばなければならないのです。

 大森さんの綺麗な根源角写真を見て、ふと私のブログマイページを飾る私が撮った同じアングルの写真も中々の出来栄えだと手前味噌ながら喜んでいるのです。今年ももうそろそろこのアングルで桜の花を撮影したいと、お墓参りの際に石の上に落として少しガタが来たデジカメを見ながら思っているのです。

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 今年も巡ってきた桜の美しい季節を、もう少し愛でながらわが人生65年目の春を記録と記憶に残したいと思っています。お陰さまで下手糞ながらこうしてブログという優れもののデジタルに出会い、記録が出来ることを嬉しく思いながら、加齢とともに薄れ行く記憶を現状維持しようと、毎日せっせと朝夜2本のブログ書きに毎日挑戦しているところです。

  「友くれし カレンダー一枚 捲り見る 見覚え桜 華麗に咲きて」

  「俺にでも 写せるんだと 胸を張る 水平線が ゆがんで未熟」

  「そろそろだ 頭の中で 機伺う 天気の良い日 写しに行こう」

  「四日しか ない日曜日 全て駄目 自由人だが 自由にならず」

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shin-1さんの日記

〇81歳の叔母が亡くなる

 親父の妹の叔母さんが急逝しました。12人兄弟の長男が92歳の親父で、12人目の叔母は私より一つ年上だけの66歳です。計算して見ると祖母は26年間で12人、つまり単純計算すると2.17年に1人子どもを生んだ計算になるのです。まあ生むことはよしとして、その子どもたちを戦前・戦中・戦後と激動の時代を貧乏に耐えながら、加えて末っ子が生まれて間もなく祖父が亡くなるという不運にもめげず、育てたのですから、頭の下がる思いがするのです。

 その裏には12人の子どもが家の労働力になって一生懸命支えてきたのです。多分一昨日家で倒れ救急車で病院に運ばれ、一時的に記憶が蘇ったもののその後なくなるまでの81年間は、言葉で言えない苦労があったものと推察するのです。でも晩年は嫁いだ郵便局員のを最後に退職した叔父や息子夫婦、それに内孫5人とともに双海町を離れ、病気に悩まされながらも松前町で穏やかな暮らしを続けて、ある意味幸せな余生でした。


 人は必ず老い必ず死を迎えます。今晩6時から自宅で通夜があり、私たち夫婦も出かけましたが、親類縁者が集まり、また隣近所も集まり部屋は、在りし日の人徳を偲ぶように満席の状態で、ご住職の枕読経や回し焼香がありました。

 読経が終わって住職さんがお説教をされました。

 人は産まれた時殆どの人が祝福をされ、喜びの喚起の中で産声を上げるのに、死んだ時は何故涙を流して悲しむのか、そういえば人の一生も始まりと終わりではえらい違うものだと改めて思いました。住職さんがおっしゃるのには、終わりに悲しむのだからもっと生きている間だけでも笑って暮らせるようにして欲しいと述べられました。納得納得です。

 明日は10時30分から納棺、13時30分から葬儀、そして火葬場で荼毘に付され精進落とし進みます。年末に義理の叔父が亡くなり、3ヵ月後に叔母の葬儀です。また再来週は叔父の3回忌法要と仏事が続き、親族も少し沈みがちの出会いです。

 亡くなった叔母は書家の叔父の影響を受けて達筆で、親父や私に頻繁に手紙をくれていました。その度に目の薄くなった親父に読んで聞かせていましたが、親父は口癖のように「ルイ子には貧乏ゆえ、子沢山ゆえ苦労をかけた」と少し涙ぐみながら話す姿が印象的でした。

 親父は高齢のため通夜も葬儀も出れないため私たち息子夫婦が出席します。そのため昨日の午前中車で連れて行き、最後のお別れをさせてやりました。親父は自分が一番上なのに、既に3人の男の兄弟と、3人の姉妹を見送っていて、何処か寂しい姿が印象的でした。

 

  「ああ寂し 親父の妹 急逝す 順番違うと 親父がポツリ」

  「昔ゆえ 苦労貧乏 あったはず 気丈に生きて 生涯全う」

  「晩年は 病魔冒され しんどそう それでも手紙 兄を気遣い」

  「人は老い 必ず死ぬと 坊主言う 楽しく生きろ 諭しに熱が」 

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shin-1さんの日記

〇ひじきとワカメで少々お疲れモードです

 海岸でひじきを刈り取って大きなお釜で茹で、美味しいひじきを近所や親類に配ったところ、妹から是非ひじきをもう少し分けて欲しい旨の連絡が入りました。おすそ分けを貰った妹は、ひじきを刈り取って茹でる作業がどんなに大変か分かっていないようでした。

 ひじきは大潮の干潮時でないと刈り取ることは出来ません。ましてやひじきが生えている岩場は波が打ち寄せる場所なのです。長靴を履いて干潮の渚でひじきを草刈り用の鎌で刈るのですが、目敏い人たちが正月明けから刈り取って、足場のいい場所には殆どないのです。私のとっておきの場所は秘密ですが、これがテトラポットが高く積まれているため、刈り取ったひじきを防波堤近くまで挙げるのが大変なのです。

 さて刈り取ってトラックに積んで帰ったひじきを水洗いして、ドラム缶を切って造ったかまどに大きなお釜を乗せ、ひじきを入れて下から火を焚くのです。最近は薪もそんなにストックしていないので、近くの杉林に出かけて薪を拾ってくるのです。ひじきを茹でぬにはざっと2時間くらいまきを燃やし続けなければなりません。その後蓋をして3時間くらい火蒸しをすると柔らかいひじきが出来上がるのです。まあざっとこのくらいの重労働の代償ですから、皆さんも手間のかかるそのことを承知しているので、余り手を出さないのです。

 私の場合は子どもの頃から母親のそんな作業をおぼろげながら見ていたので、思いつけば直ぐにでも取り掛かることができるのですが、妹に言われたからといっておいそれとすることは出来ませんでした。

 昨日泊まりに来ていた孫たちを松山まで送って帰る途中海岸まで帰ると、8日の潮回りで引き潮だったこともあって、妹の言葉を思い出しひじきを作ることを急に思いつきました。

 トラックにキャリーを5つ積み込み、とっておきの海岸へ行きました。昨日は前日海が荒れてワカメが海岸に流れ着いていました。ラッキーなことに少しの時間で綺麗なワカメをキャリーに一杯も拾いました。

 ひじきはキャリーに4杯刈り取り家に帰りましたが、ひじきを二回炊くためには日暮れながら昨晩一回炊いた方がいいと思い、夜8時までかかって何とか炊き上げました。火の始末をして一晩蒸していたため朝起きてみると、ひじきは申し分のない柔らかさになっていました。鉄の塊を入れるとひじきの色が良いという言い伝えどおり錆びた鉄筋を入れて炊いたお陰で色も真っ黒でした。

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 ひじきを取り出したお釜を水荒らして水を張りお湯を沸かしました。次の作業はワカメを湯通しすることです。ワカメはひじきほど手間もかからず、熱湯に入れると茶色が見事緑色に変身します。お湯の温度が下がらない程度に次々入れて作業を終了、親父が張ってくれたタフロープに芯をはずして干して行くのです。今日は天気もよく、加えて風も適当にあって乾きが早く、昼前にはワカメを裏返しするほど乾燥しました。

 残ったひじきも3釜目を茹で、午前中に全ての作業を終わりました。何やら煙が出ているので近所のおじさんやおばさんが様子を見にやって来ました。その都度ひじきをおすそ分けしてあげ、皆さんに喜んでもらいました。

 ふって沸いたひじきとワカメ騒動に私も親父も少々疲れましたが、これでひじきとワカメは一年分確保し、加えて妹の分まで作ることができたのです。幸せな二日間でした。 

  「連日の ひじきとワカメ 処理たたり お疲れモード やはり歳だな」

  「一年分 ひじきとワカメ 確保した 妻の手料理 これで楽しめ」

  「前日の 大荒れ天気 福拾う 漂着ワカメ 思わぬ大漁」

  「春ゆえに ひじき知人に おすそ分け みんな一様 喜んでくれ」



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